それは明け方のゼラチンのように

腹が空いたら喰う他ないでしょう。

 タイム、ローズマリー、エストラゴン、パセリ、それから人参にセロリ、玉ねぎ。そんなものがくつくつと煮える鍋の中でぽっかりと浮かんでいた。
 葉っぱ、葉っぱ、葉っぱ、葉っぱ、根っこ、野菜、野菜。人参と玉ねぎ以外の名前を知ったのはいつだっただろう。現代に近付いてから、死んでから生き返るまでの期間が短くなったので、横文字の到来に然程置いていかれはしない。聖書だってたくさんの横文字が出てくるのだから、あとは誰がどう覚えるか、覚える気があるか、だけだろう。
 いい匂いだった。香味野菜とハーブを加えることで肉の臭みが取れて、更なる旨みを味わえるのだという。だからラーメンは美味しいのだな、と思い出す。あれもネギや野菜くずが骨と共に煮込まれる。穏やかな火加減で、煮立つことなく優しく溶かされて、ひとつになる。ああ、次の給料が入ったら中華そばを啜りたい。一杯三八〇円の、メンマとなるととのりとネギが乗っただけの細ちぢれ麺。……そういえば最近仕事を辞めたのだった。工場の近所の食堂の中華そば、また食べたいなぁ。悠長に回想しながら琥珀色のスープを見詰めていた。
「サイトウさんはあっさり派ですか」
 教祖様が鍋の火加減のようにゆったりと話し掛ける。この人は自分よりも若いというのに――自分は永く生きてしまったので誰よりも年上であるのだが、己の外見は三十代で止まっているので、今回は外見上の年齢の話とする――誰をも穏やかに均す声を放つ。施設内では魂の清浄という名目でクラシックが流れることがあるが、彼の声音は楽器のようによく響く。はっきりと届くのに、ゆっくりと微睡みを引き連れる。目蓋を下ろしたら二度と開けなくなるような、危うい心地好さを秘めていた。
『私はなんでも』
 そのまま眠らせてくれたら良いのにと何度願い、その手に縋ったことだろう。私の手はお世辞にも綺麗とは言えず、爪には重機のオイルが染み込んで真っ黒く染まってしまった。汚れきった手を振り払わずに握り返した諸手に神の姿を描いてしまった。
 ああ、触れたところから教祖様の御手が腐乱しきらないだろうか。そんな心配を他所に、手の甲にくちづけを落としてくれた。彼の肉体はこの世の穢れを浄化する作用があるらしい。私にとって彼は革命的な存在だった。彼の元でなら私は人らしく生き、死ねる――一縷の望みがこぽこぽと泡立ち、熱せられる。希望とは灼熱だった。魂すら溶けるほどの温度が私を融解しても、いつか終われるのであればこんなに喜ばしいことはない。
「あなたは人と少しだけ違う。それは差別ではなく特別、ということです。人々は普通という言葉に飼い慣らされてしまった。僅かな差異も綻びも許せず淘汰したがる。私はそんな世界で生きなければならない彼等を不憫に思います。それなら私が彼等にまとわりついた穢れを取り払い、新世界への扉を用意をしてあげたい。私にできることはそれしかないですから……」
 教団内に調理担当の者たちがおり、彼らが自分たちへの食事を用意するが、教祖様は自分のものは自分で用意されるらしい。普段は白い法衣か白いスーツを着用しているが、今は真っ黒な作業着を身に纏っている。秘密ですよ、と指を唇の前で立てていたので、私は教祖様の貴重な御姿を拝見していることになるらしい。とても有難いことだ。
 彼は穢れを受ける身であるために、こうして人目につかぬ場所で肉を食す。他の魂、血肉を受け継ぐことで英気を養い、我々信者の救済に尽力を注ぐとのことで、やはり若き教祖様は我々にとってなくてはならぬ存在だ。私にできることは『これくらい』しかないものだから、今は真っ赤に染まった御手に祈りを捧げるしかない。
 出刃包丁が振り下ろされ、ダンと勢い良く肉が切られていく。とても立派な包丁ですね、と話し掛けると、脛の骨って硬いんですよと苦笑いを零し、厚さ五センチずつに切り分けていった。巨大なハムのような肉塊は見るからに壮観で、焼いたら一週間は生きていけるような重量感すら与える。それを慣れたように切り落とし、熱湯だけが張るお湯へと突っ込まれていく。それからぶつ切りにされた足も投入されていく。足は骨が多い。美味しいものなのだろうか。
「肉ってね、無駄がないんです。それは野菜も同じなのですが……例えば足。モミジや豚足といった、そのまま食べるには気が引ける部位も熱湯で一旦湯掻き、アクを落としてから香味野菜と煮てあげるんです。すると骨の髄からコラーゲンなどが流れ出して、極上のスープになるのです」
『つまり、美味しいのですか』
「ええ……。美味という快楽は罪なものです。菜食主義の方々ですら命を殺めなければいけない。となれば私は大罪人だ」
『そうでしょうか。あなた様のおかげで皆さんが感謝し、真世界へ旅立たれた。それが全てではないのですか』
「……あなたほど優しい方も知りませんがね」
 彼の隣にはたくさんの肉が転がっている。丁寧に語りながらも彼はぶつ切りにされた肉を小さく切り分けていた。筋が多い肉や、肉を削ぎ落とされた骨は脛肉と一緒に湯がかれ、内臓は流水で丁寧に洗われていく。胃や肺も食べられるらしい。ひとつも無駄にしないこの方の手つきは細やかで、血の塊や不純物を指でひとつひとつ摘み、そうして下処理を行っていく。
 大きな塊肉はよく熱したアルミのフライパンへと投入された。跳ねる水分に臆せずに酒を入れると煌々と炎が燃え移り、鮮やかな赤紫が肉塊を包んでいく。熱気に包まれたが自分は汗を掻くことはなく、鎮火するまでを見守った。
 私の仕事といえば、教祖様の調理を見るだけだった。不思議と暇もせず、肉は部位ごとに処理が変わるので、その解説を受けながら肺の空気が押し潰されるのを見守る。肺はクセがある食材で、丁寧にアクを取ってあげれば食べやすくなるらしい。確かに肺は謎めいた食べ物だった。肝臓のような独特な風味があり、肉のくせに軽い。食べても食感が軽いもので、飢えた時を思い出しながら、料理は凄いだなんて、当たり前の感想を抱く。ぎゅむ、ぎゅむ、と聞き慣れぬ異音がまな板に擦り付けられ、更に微睡みの奥地へと引きずり込まれる。
「眠いですか」
『ああ、すいません、そんなことは……』
「いえ、睡眠は人にとって手っ取り早い栄養のひとつです。いくら食べても、眠らないと心身の健康には繋がりませんから」
 私は寝なくても平気なのに。海のように広く深い慈愛を手向けてくれる人に果たして出会ったことがあっただろうか。乱世の生まれであるから、こうして誰かに穏やかに触れてもらったことなどあるだろうか。絹の織物が触れるか触れないかの滑らかさが肌を伝う時、私は三桁の魂を許せてしまう。永い生が報われるわけではないが、世界の片隅でひっそりと息をして良いのだと、無骨な指先に敬意を表する。
「寝た方がいい。今は起きていて良いことなどありませんから」
『しかしとてもいい匂いなんです……。昔は肉なんて大層美味しいものだとは思わなかった。粗暴な食物とすら思っていたので』
 空腹に喘ぎたかったが、空っぽと思うのは頭の便利な仕組みのためらしい。三八〇円の中華そばは暫くお預けだろうし、もしかしたら二度とありつく機会なぞ訪れないだろう。それは私の人生においては僥倖でしかない。
 食欲は一番素直だ。睡眠か性欲かのどれかに重きを置いたら順位は入れ替わるだろうが、生きていく中で食欲の業の深さも、生きる実直さも痛切に読み取れた。
 人という生き物は死にそうになると、誰もが純粋で子どもらしくなる。私が人を食べた時、または私が人に食べられた時、みんなみんな同じ目をしていた。必死に生きたい目だ。人の命を奪ってでも生きねばならぬという本能。あれこそ原罪なのかもしれない。誰も罰せない深い罪。私は枯れぬ罪を咲かせ生きる他ない。死が赦しであるなら、私はまだまだ赦される存在ではないということ。だってそうだろう、肉が粗暴という所以を踏まえたら、汚れた血を血管内に巡らせていることになるのだし。
 緑色のじゃがいもを食べる名残と似ているのだ。それがいけないことだと己に忠告するくせに、私は生きたくて死にたくて。当たり前のように生きて、当たり前のように死にたくて。それでも罪を頬張って終わりない旅路を歩む。食べねば生きていけない。それが中華そばだろうが、緑色のじゃがいもだろうが、人の屍肉だろうが、一緒。吐いても呼吸困難になっても、どんな酷い目に遭っても喰らいたがるのが人間の性。
「…………粗暴な食物。その通りかもしれませんね」
『ああ、教祖様を責めるとか、そんなんじゃあないのです。お許しください、お許しください……』
「僕があなたを咎める理由などありましょうか。でもひとつだけ言うなら、あなたはもう少し食べた方がいい。食事は人の心を豊かにします。あなたの心だってそうですよ」
『私の心』
 果たして満たされるだろうか。魂の器には穴が空いていて、塞いでも塞いでも所々に穴が開く欠陥品だ。何処へも返却できない粗悪品は今日も私を揺り動かす。
 満ちるなら毒でも良かった。死ぬより多大な苦痛を得る分かっていても、飢餓が底なしの地獄と覚えてしまうと、かたちあるものなら何でも胃に収めたがる。そうしないと生きた心地になれなくて。死にたいのに生きたいだなんて、奇っ怪以外の何があろう。
 でも私は生きて死にたい。今の世の中は物騒だと言うが、こんな幸せな時代があるのだから、穏やかに死ねたら、それ以上のものなんて。
「あなたの心は何を望んでいるのですか」
『私は…………』
 私の望みは生きることであり、死ぬことであり、それ以上もそれ以下も望まない。しかし私の小指の爪ほどに齧り付く欲望が生まれ始めている。カリカリと音を立てて私の指先を食んで、いつか手や腕と食い荒らしていくことだろう。それが毒だ。奪い切るまで止まない衝動を私は生み出してしまった。新たな穢れを誰が賛美するのだろう。
 ああ、ああ、また穢れてしまった。私自体は穢れて病むのは構わないけれど、あなたを汚してまで私、生きてしまっていいのだろうか。
 神様、私はそれでも心臓を止めることができないのです。私みたいな罪人が人の一切を奪うだなんてあってはならないのに、私は何処まで強欲なのでしょう。天国にも地獄にも、真世界へすら向かえぬ私はひとつだけ安寧の地に出逢ってしまった。
 あたたかく、優しくうねる墓場。葬りきれぬ肉がいてもいいと受け入れてくれるのなら、私は重罪で細胞のひとつひとつが潰れてもいいとすら思ってしまう、期待してしまう。今度こそ、死ねるかもしれないと。たとえ生き返っても胃酸の海で眠らせてくれるのなら、それだけで。
『私はただ、死ぬことばかりを願うばかりです』
「……そのためにも肉体と精神を磨いていきましょう。僕はあなたを見放しません」
『私の手首が無様でも』
「それがあなたの生き様なら」
 私の肉片が食べカスに紛れてもいい。例えばあなたが食べたベビーリーフのサラダだとか、ソイミートで作ったチリコンカンだとか、ナッツ入りのブラウニーだとか、それと日替わりブレンドのハーブティーでちゃぷちゃぷと泡立って混ざって溶けて、私が鬼子として埋められたことや、野犬に喰われたこと、私より弱い村民の屍肉を喰らったこと、ずっとずっと死にたくて死にたくて苦しくて誰かに打ち明けたかったこともみんな、跡形もなく酸の底に沈めたら、だなんて夢を見る。きっと今日も短い夢だ。それでも私は夢を見るしかない。そうしないと明日も長い一日が来て、目映い朝日が牙を向けてくるだろうから。
「さあ、眠りましょうサイトウさん。もしまた目覚めても、また僕の元で眠ればいいですから」
『ありがとうございます、ありがとうございます……』
 まな板に並べられた私の破片。
 褐色のアクをぶくぶくと浮かべた私の骨と筋と脛。
 水に晒された私の内臓。
 塩にまぶされた私の胃と肺。
 バターでこんがり焼かれた私の腿。
 凝固し始めた私の血液。
 皿に乗った私の首。
 教祖様がズタズタの手首をひと撫ですれば、通わぬ神経が歌い出す。隔離された私の胃が空だと嘆く。浄化という行為、濾過される私は明日死ねるだろうか。五百年という澱は彼を蝕んだりしないだろうか。
 濃い睫毛がしなっている。『神棚』にて立ち続ける彼の瞳は白く濁っていたが、幼い時に拾った御影石のように硬質で艶やかで、深い夜に眺める月よりも真ん丸で、心は静かに凪いでいく。人差し指が私の目蓋を下ろす時、血の通う指先がじんと熱くて、死にかけの神経には刺激が強すぎたが、同時に心が泡にまみれていく。洗われる、ほんの少し、白くなれる。そんな高揚。
 額に穴が開いたら、そこが真世界の入り口なのだという。そこがどんな場所かだなんて語る人もいないし、私は一向に辿り着けないけれど、推定四回目の導きは、私の脳を貫いた。どすり、と鈍く抉る低音は最早痛みすら与えない。遠く遠くで聞こえる。脳は焼いてしまいましょう、と。遠く遠くで匂い立つ、バターの良い香り。
 私の首はこれから湯がかれて、スープストックの海に飛び込むらしい。タイム、ローズマリー、エストラゴン、パセリ、それから人参にセロリ、玉ねぎ。そんなものがくつくつと煮える鍋の中で、不在の頭がぽっかりと浮かぶ。このまま終われたら良いな、終われなかったとしたら、次はいつ目覚めるのだろう。撃ち込まれる杭の振動により、私の意識は数秒と保たなかったが、僅かな時間の中で肉が煮える、何とも食欲をそそる匂いが充満していた。
 ――教祖様、教祖様。あなた本当は、お腹が空いているのではないですか。


 目蓋の外で、あの人が笑った気がした。

それは明け方のゼラチンのように

それは明け方のゼラチンのように

食人鬼の若き教祖と、不死身の男の話。 不死身の男ことサイトウ視点。 ※カニバリズム描写を含みます

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-01-30

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