君の声は僕の声  第四章 10 ─夕日─

君の声は僕の声  第四章 10 ─夕日─

夕日

「甘い」

 紅蘭の顔がぱっと明るくなる。

「だろう」

 秀蓮は子供っぽい表情になった紅蘭を、目を細めて見つめた。

「僕の夢はね、医者になることじゃないんだ」

 手のひらにいっぱいになった木の実を、紅蘭の手のひらに移しながら秀蓮が言った。 

「えっ?」

 木の実を落とさないように手のひらを見つめていた紅蘭は、秀蓮の言葉に注意をそがれ、赤い実が手のひらからこぼれ落ちた。
 落ちた木の実を拾って紅蘭の手のひらに戻しながら、秀蓮は話し続けた。

「外国から輸入される薬は効き目が早いけど、とても高価で、庶民にはとても手が出ない。お金がなくて、助かる命も助けることができずに亡くなっていく人たちが沢山いる。だから、森に自生している薬草から、安くて効き目の早い薬を、それから、体に優しい薬を作りたいんだ。これが僕の夢。じゃなくて目標」

 秀蓮は、紅蘭の口ぶりを真似て微笑んだ。

 紅蘭は、自分とは全く異なる考えを持つ秀蓮を茫然と見つめた。何かとても大切なことを秀蓮は言っているような気がした。生まれた時から、欲しいものは何でも手に入る贅沢な暮らしをしてきた紅蘭にはよくわからなかった。それからもうひとつ。

「体に優しい薬? 薬はみんな体に良いのではないの?」

 秀蓮が紅蘭の質問に微笑する。

「体に良いものもあれば、悪いものもあるよ」

 紅蘭が首を傾げた。

「薬は使い方によっては毒だ。いやもともとは毒と言っていいかもしれない。その毒で体に悪さをする異物を攻撃しているのだからね。だから使い方を間違えると毒になるし、異物を攻撃するはずが正常なものまで攻撃してしまうこともあるんだ。薬を使いすぎて本来人間の持っている治癒力を壊してしまっては、元も子もないからね。病気を治すことはもちろんだけど、ヒトの持っている本来の力を取り戻す。父も僕も、そんな医療を目指してるんだ」

 紅蘭はしばらく黙っていた。秀蓮の言ったことを頭の中で整理する。

「やっぱりお医者様は偉いわ。帝よ──」

 秀蓮は慌てて紅蘭の口を押さえた。目をまん丸くする紅蘭から手を離し、紅蘭の唇に人差し指を当てた。

「君は思ったことを口にしすぎる。気を付けるように」

 秀蓮に釘をさされ、紅蘭は黙った。秀蓮に叱られたはずなのに何故かふわふわと浮いているような心地がする。


 帰り道、時間に余裕があったので馬を歩かせた。いつもおしゃべりな紅蘭がいっこうに口を開かない。黙ったまま馬に揺られている。

「疲れた?」

 秀蓮の問いに紅蘭は慌てて頭を振った。

「どうした? 君が静かだと落ち着かないんだけど」

 秀蓮が紅蘭の背後からのぞき込むように顔を近づけた。秀蓮の柔らかな髪が首筋に触れる。秀蓮の息が耳もとにかかる。心臓が踊る。耳たぶまで赤くなっているような気がして、紅蘭は首をすくめた。

 一人で思い切り馬を走らせたって、こんなに心臓の鼓動が速くなったりはしないのに……。

 背中に秀蓮の体温を感じて、紅蘭の頬は熱を帯びる。紅蘭は顔をあげて風を受けた。紅蘭の耳には風の音と馬の蹄の音、そして秀蓮の息遣いしか聞こえない。

 ──このときが永遠に続けは良いのに

 夕日に輝く瑠璃瓦が見えてきた。いつになく眩しく感じるのは、夕日が美しいからなのか、それとも夕日と別れを惜しむ瑠璃の瓦の寂寥感なのか、紅蘭は目を細めて少しずつ近づいてくるお城の瑠璃瓦を眺めた。


 次の日、秀蓮は城には来なかった。今までも毎日会っていたわけではないけれど、秀蓮に会えない日がひどくつまらなく思えた。紅蘭はしかたなくひとり池の東屋に座り、本を広げた。今、都で読まれている新しい経済思想を説いた本だ。秀蓮と出会う前は夢中で読んでいた本だったのに、目で活字を追っていても頭には入ってこなかった。


 紅蘭は枯れ始めたハスの花をぼんやり眺めた。

 ハスは花の季節をとうに終え、枯れ葉が目立ち、池のほとりには楓が色づき始めた。美しいはずの紅葉の景色も紅蘭の心には響いてこない。あれから一度も秀蓮は来ない。秀蓮と出会う前には、ひとりでこうして過ごすことは当たり前だったのに……。

 ひとりの時間がこんなにも長く、虚しいとは。

 今までには感じたことのない痛みに、紅蘭は胸にそっと手をあてた。

 冷たい北風が顔を刺す。手に白い息をかけながら、今日も池への道を祈る思いで歩いていた紅蘭の目に、落ち葉で赤く染められた池のほとりに立つ人影が映った。

 秀蓮? 

 紅蘭は期待に胸が高鳴るのを抑えながら走った。
 今日こそ人違いではありませんように……。不安と期待とで泣きそうな顔をしている紅蘭に、秀蓮が気付いて微笑みかけた。紅蘭の泣きそうな顔が少しだけゆるんだ。

「秀蓮」

 紅蘭は上がった息の中からやっとの思いで名前を呼んだ。ようやく紅蘭の顔が笑顔になった。ふたりが向き合うと、紅蘭が少しだけ秀蓮を見下ろしていることに紅蘭は気付かなかった。

「よかった……私、秀蓮に会いたくて、父が登城しない日も、毎日ここで待っていたのよ」

 紅蘭が苦しい息の下からようやく口にして秀蓮を見つめると、秀蓮は少し痩せて疲れているように見えた。

「これを」

 秀蓮が手のひらを広げる。

「まあ」

 紅蘭の瞳が輝いた。

「これを、私に?」

 秀蓮は頷くと、桃色の蘭の簪を紅蘭の髪に差した。
 うつむく紅蘭の頬が赤く染まる。

「ありがとう。私──」
「時間がないんだ」

 紅蘭を遮るように、秀蓮が唐突に言った。

「今日はさよならを言いに来た」

「えっ……」

 秀蓮の口から語られた『さよなら』の言葉は、紅蘭の頭を混乱させた。やっと会えたのに『さよなら』って、誰が、誰にさよならするの? それとも『さよなら』という言葉には、別れのとき以外に使う意味があっただろうか……。紅蘭は瞳を泳がせて必死に考えた。

「遠くへ行くことになったんだ。だから、もう……会えない」 

 秀蓮の目がほんのり赤い。秀蓮が初めて見せる心細げな顔。
 おかしい。こんな秀蓮は初めてだった。

 紅蘭はなんとか秀蓮を笑顔にしようと言葉を探した。

「でも……帰って来るのでしょう? また、すぐに会えるわね」

 自分を慰めるような問でしかなかった。
 秀蓮は何も答えない。
 涙目になりながら笑顔を見せる紅蘭を秀蓮は抱き寄せた。微かな伽羅の香りが秀蓮の鼻腔をかすめた。紅蘭の背中に触れる秀蓮の手が震えている。一瞬だった。すぐに紅蘭から体を離し、悲しげな目で秀蓮は言った。

「君は僕の分も夢を叶えて。ああ、夢じゃなかったね。君ならきっと出来る。いつも応援してる」

 秀蓮は寂しさを隠すように、精一杯の笑顔を浮かべて言った。

「さよなら」

 紅蘭は気持ちが溢れすぎて言いたいことが言えない。泣きたいのか、怒りたいのかわからない。

 ──待って
 背を向けて行ってしまう秀蓮を止めたくても、夢の中で叫ぶように声にならない。

「待って」

 もう一度叫んだ。今度は声になった。聞こえたはずなのに、秀蓮は振り向かずに行ってしまった。秀蓮が行ってしまうのを止めたいのに足が動かない。秀蓮の固い決意を感じて、紅蘭は追いかけることができなかった。

 冷たい風に落ち葉が舞い散るなか、紅蘭はひとり立ち尽くしていた。

 秀蓮の暖かい頬の温もりと、震える手の感触だけが残った──

君の声は僕の声  第四章 10 ─夕日─

君の声は僕の声  第四章 10 ─夕日─

夕日に輝く瑠璃瓦が見えてきた。いつになく眩しく感じるのは、夕日が美しいからなのか、それとも夕日と別れを惜しむ瑠璃の瓦の寂寥感なのか、紅蘭は目を細めて少しずつ近づいてくるお城の瑠璃瓦を眺めた。

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  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-30

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