風の彼女

流れたかったのだ。ここから。
それに気づいたのは、彼女を知ったあのとき。

初めはなにも感じていなかったのだ。
仕事の都合でこの町に越してきたのは、今から半年前。
この町はとても静かだった、とでも言っておこう。
要は田舎町なのだ。華やかさは無く、時は流れ、
夜は更け、やがて朝がくる。その繰り返しだった。

流れるようにがむしゃらに生きてきた私にとって、この町の空気はただただ湿り気を帯びた綿のように、
ほのかな不快感を抱かせるものでしかなかった。
彼女が私の前に現れだしたのは、私がここへ来てからすぐのことだ。
何も感じてはいなかったのだ。
これといった特徴もなく、色の白い、大人しい女だと思った。
それだけだった。それでよかったのだ。
しばらくすると私は、悪魔にこの身を受け渡すことになる。
その女が欲しかったのだ。

秋の風が柔らかくなり、日射しも穏やかで、私はこの季節を愛している。
彼女をこの腕の中に抱き、彼女が私の髪に唇を当てると、全てが止まる。
この女は話さない。いつも私の話に耳をやり、小さく頷き微笑む。
一体どういうつもりなのだ。わからない。
私は彼女を傷つける。彼女は哀しい眼をする。
どこか遠くを眺めた後、私の頬に手を当てる。何も言わずに。
その瞳はいつも、私の中を見ている。
彼女に包まれているとき、私は全てが彼女の中にあるのではないかと思う。
彼女の香りが私の中に入ってくる。しかしそれは全く逆さまのことで、彼女の中に取り込まれているにすぎないのだ。
彼女は私を愛しているのだろうか。知りたい。全てが欲しい。壊してほしい。

「聞いてもいいか。」
「どうぞ。」
「花は好きなのか。」
「はい。」

そうして何も聞けなくなる。私は恐いのだ。彼女の本当の想いを知ったとき、私は放り出されてしまうかもしれぬ。
この女のわずかな星明かりだけが、今の私を照らしてくれるのだ。
この女と、二人、地獄のようなどん底を味わってみたい。


秋の風が頬をなでる。冷たい風。どこか暖かい。
彼女は待つのだろう、私を。
以前ふと、二人きりになりたいと彼女はつぶやいていた。
そんな気がしただけかもしれないが、今の私にとって、それは大きな責任を持つことになるのだろう。
彼女との相性は素晴らしいと感じている。
彼女を見かけるたびに、すべてが輝いて見えるのだ。
彼女の手つきから、彼女の愛を感じる。
彼女との出会いは運命なのだろう。彼女自身が運命の女神なのかもしれない。

彼女は時に姿を隠してしまうので、私は不安で仕方がない。
探す、映し出される、微笑む彼女と私は本当に同じ空間にあるのか。
私は彼女を名前で呼んだことがない。
怖いのだ、名前を呼んでしまったら、私は崩れていくのだろう。
愛おしいと、ひとこと言ってしまったら。


甘い香りにつつまれるとき、私は思うことがある。
彼女こそが私を作り出したのではないかと。
深い愛は私を裏切ることはないだろう。
私は確信しているのだ。そのことに。
私がどうあがいたところで、彼女は消えることはない、私は消えても。

抱きしめられたい。会いたい。
いつも考えている。
二人でいることができれば、何もいらないと。
こんなことは考えたことなどなかった。
私はもう崩れ始めているのだ、彼女という宇宙の中で。


雨の日だ。
私は太陽の中でしか彼女に姿を見せたことがない。
こんな薄暗い淀んだ姿を彼女の前でさらすわけにはいかないのだ。
彼女は大丈夫ならそれでいいと言ってくれるのだ。
本当は抱きしめられてすべてを彼女に見てほしい。
つつんでほしい、この姿をみても嫌わないでほしい。
そう伝えられたらどんなに素敵なのだろう。

彼女は何も触れないが、時折心配そうに髪を撫でてくれるのだ。
私はなぜこんなに愛されているのだろう。わからない。
苦しい、彼女も同じなのだろうか。伝えたい、愛していると。


私は今まで感じたことのない感情を彼女に対して抱いている。
寂しげな瞳に、唇に、髪に、指に。
すべてを手の中に握りしめて、壊したい。
彼女に気づかれまいと接するが、彼女はもう気が付いている。
もどかしい。

わかっていながら、この女は微笑むのだろう。


空は晴れてきた。
雲は流れる。
風が吹く。

私の隣には、私の全てには、彼女がいる。
彼女は今日も私を愛してくれるのだろう。
そしてそれは永遠に消えることはないと、信じたい。
私が求めるものは、永遠に吹き続ける風。
彼女の吐息なのだろうか。


「私という大地の上を、あなたという風が過ぎて行った。」
彼女は言う。
「ただそれだけのこと。」

風の彼女

風の彼女

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-08

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