君の声は僕の声 第四章 8 ─謁見─
謁見
ハスの咲く池を抜けると別荘が見えた。瑠璃瓦の風雅な佇まいだが、思ったよりずっと小さな建物だ。瑛仁は繊細な彫刻のほどこされた扉を開けると、小さな部屋にふたりを案内し、椅子に座って待つように言い部屋を出て行った。
秀蓮は相変わらず黙ったままだ。椅子に腰かけると、うつむきかげんに腕を組んでいた。聡も落ち着こうと深く椅子に腰かけ、じっと目を閉じた。
──やはり落ち着かない。聡は目を開き、頭は動かさず、目だけを大きく動かして部屋の様子をうかがった。別荘は黒檀の家具でまとめられ、優美に天空を舞うような鳳凰の彫られた翡翠玉器が置かれていた。金や宝石などで煌びやかに装飾されていると想像していたので、ちょっと意外であった。
「どうぞ」
女官がやってきて、ふたりを案内する。聡が秀蓮の後について部屋に入ると、微かに甘い香りが鼻にぬけた。大きく開かれた窓の向こうでハスの花が風に揺れている。一枚の絵のような風景が聡の心を少しだけやわらげてくれた
部屋には黒檀のテーブルと椅子がふたつ置いてあり、続きの部屋とは御簾で仕切られていた。緊張して椅子に座ると秀蓮が笑いかけた。秀蓮がやっと見せた笑顔に聡はほっとした。だが、すぐにまたあの表情になった。都に来てから見せるようになったあの顔。窓から入り込む風に吹かれるように飄然としている。これから国の最高権力者と謁見するとはとても思えない。
聡は、秀蓮の横顔をみながら、一日の仕事を終え、暖炉の前であんな風にパイプをふかしていた祖父を思い出していた。
隣の部屋から衣擦れの音が聞こえ、聡は我に返った。気づくと女官の姿はない。聡は手のひらが汗でべっとりするのがわかった。
秀蓮が立ち上がろうとしたので、聡も慌てて腰をあげると、
「堅苦しい挨拶はいらないわ」
皇太后が喋った! ゆったりと穏やかで、思っていたより優しく、声が若い。聡は頬を紅潮させながら、必死に下を向いていた。
「久しぶりね。秀蓮」
「はい」
秀蓮が落ちついて返事をした。
「聡」
不意に皇太后から自分の名前を呼ばれて、聡は心臓が口から飛び出すほど驚いた。
「はい」返事をしようにも声にはならなかった。
「こんな御簾があっては、余計に緊張してしまうわね。もったいぶっている訳ではないのよ。若いふたりに年老いた姿を見られたくないだけなの。ここにいる私は皇太后ではなく、ただのお婆ちゃんなの。気を楽にしてね。あなたに会うのを楽しみにしていたのよ」
気さくな言葉をかけてもらい、聡の緊張は少しだけほぐれた。秀蓮は変わら落ち着いている。皇太后の質問にも冷静を保ったまま淡々と答え、今までの出来事を簡潔に話した。皇太后は秀蓮の話にじっくりと耳を傾けた。
「そう……。玖那政府がね。狙いはあなたかもしれないわね。秀蓮」
「!」
聡が思わず顔を上げた。
──狙いが秀蓮? どういう意味だ? 考えている聡の耳に、皇太后の意外な言葉が届いた。
「軍や銃なんて、そんな危ないもの出されるなら、もういいわ」
今度は秀蓮も顔を上げた。
「命より大切なものはないもの。この王朝が滅びるなら滅びるまで……そうしたら、新しい国が造られるわ」
聡は、皇太后の予想外な言葉に唖然とした。
──なぜ、皇太后がそんな事を? 帝に成人して国を守って欲しいのではないのか?
「そんなに驚かないで。ただし、この国は私たちの国。他の国の奴らには絶対に渡さない。私たちのこの国を、決して植民地にも属国にもさせない」
皇太后が強い口調で言った。それからもとのゆったりとした口調にもどって続けた。
「でも、私たち年寄りの古い体制はもうおしまい。若い人たちで新しい国を造れば、それでもいいの。国は滅んでも、民は残るわ」
「そ、そんなの駄目だ!」
聡は思わず立ち上がって叫んだ。
「新しい国を造るにしても、帝は必要だ。僕たちが必ず帝を大人にする! そうだろう? 秀蓮。君が言ったんじゃないか。諦めたら終わりだって。僕は諦めないよ」
「聡……」
御簾を睨むように見つめて拳を握りしめている聡を、秀蓮は見上げた。それから小さく息を漏らし、頼もしそうに顔をほころばせた。秀蓮のため息に聡は我に返った。皇太后に向かって何てことを……。
た、叩き殺される……?
口を押さえて青くなった。
「勇ましいこと」
皇太后が声をあげて笑った。
「そうね。諦めては駄目ね……。秀蓮、城に保管されている歴史書と陵墓の鍵を貴方に渡します。どちらも門外不出のもの。よろしく頼みますよ」
聡は細く長い息を吐き出した。心臓はまだどきどきしている。
「はい。必ず」
秀蓮が立ち上がって応えた。秀蓮がそのままお辞儀をして立ち去ろうとすると、
「秀蓮」
御簾の奥から皇太后が呼び止めた。それは身分の高い者が下の者を呼ぶ声ではなかった。聡は反射的に振り返り、秀蓮は足を止めた。
「目を閉じてこちらを向いてくれる」
皇太后がためらうようにゆっくりと言った。
秀蓮は伏し目がちに笑ったような表情を見せた。それから言われた通り目を閉じると皇太后へと向き直った。
御簾が上げられ、中から皇太后が姿を現した。
聡は見てはいけないと思い顔を伏せようとするが、皇太后の姿を捉えた瞳は理性通りに動かない。瞬きをするのも忘れ、大きく見開いた目で皇太后を見つめた。
皇太后は、魔女のような姿でも、この世の贅沢をひとりで身にまとっている。と噂されるような姿でもなかった。宝石類は何も身に着けてはおらず、結わえた髪を飾るものは薄桃色の花の簪だけ。黒一色の宮廷服に身を包んでいた。皇太后と言われなければ、喪服に身を包んだ貴婦人にしか見えない。だが、揺るぎのない佇まいは威厳に満ち、要らぬものをそぎ落とした装いが皇太后の美しさをいっそう引き立て、七十二歳とは思えぬ若さを放っていた。
ゆっくりと皇太后が近づいてくる。そして、皇太后の深いしわのきざまれた白い両手が秀蓮の頬に触れた。
「変わらないのね。私はこんなに年老いてしまったのに……」
えっ……?
聡は自分の耳を疑った。皇太后は今なんと言った? 聡の心臓がゆっくりと脈打つ。
懐かしそうに秀蓮を見つめる皇太后の垂れ下がったまぶたの奥から、大粒の涙が零れ落ちた。
聡は、皇太后の言葉の意味を考えようとするが、自分の心臓の鼓動が大きく響き、何も頭に入ってはこない。皇太后の涙と、眉ひとつ動かさずに薄い笑みを浮かべた秀蓮の横顔をただ見つめていた。
「遠い昔のことなのに……時間が戻ってしまったみたい」
少年の姿を留めた秀蓮を前に、皇太后の時間までが瞬時にして少女に戻った。
※ ※ ※
「あなた秀蓮?」
秀蓮が初めてその少女に会ったのは十三歳を過ぎた頃だった。城での父親の仕事に付き添ったあと、子供の秀蓮は後宮には入れずに外朝の中庭で父親を待っていた。計算しつくされた見事な庭を眺めながら暇を持て余していた秀蓮が、自分の名を呼ぶほうへ振り返ると、桃色の牡丹の花を刺繍した鮮やかな絹の長衣をまとった少女が、勝気そうな瞳で秀蓮を見ていた。
君の声は僕の声 第四章 8 ─謁見─