それは湿った枯れ花のように
詰まり、救いはないはずなんだ。
新興宗教『憧れ』――。特に集団行動をすることもなく、どの神を崇拝するかという特定の概念もない。寧ろ無神論が根底にあるように思う。教団を立ち上げた理由が『自分の腹を満たしたいから』という私欲でしかないため、構成も至って適当だ。しかし『救い』の一言に弱い人々は集まる。人は大して多くないが、目立たなくて結構。失踪する人間を追われたら堪ったものではない。
信者たちは孤独な人間ばかりだ。家族を亡くした者、捨てた・捨てられた者、初めから孤立した者。そんな者達が小さな教団施設に住んでいる。
食事はヴィーガンを基本としているが、信者の体調によっては乳製品や鶏卵を与えることもある。実にいい加減だ。しかし人々は死ぬために生きるという思考にシフトチェンジしてしまうために、何故この教団が敢えてダイエタリー・ヴィーガンに留めておくかも疑問に思わない。宗教たるもの、命を重点に置く教えがどうして曖昧な主義を持つのかも考えない。だがそれくらいで丁度いい。自分は肉さえ手に入ればそれで構わない。そろそろ在庫も尽きるので、『導き』を済ませられそうな信者を間引きたい頃でもあった。
(……ひとりいるといえば、間違いないけれど)
先日食べ損なった人間がひとりだけいた。名をサイトウという。彼は解体したにも関わらず生き返った、実に奇妙な人間であった。
説教部屋と面談室の違いは大勢か一人かの違いだ。説教部屋は一人から対応できるが、面談室は信者とより密室に対話できるスペースでもある。面談室を出て細い廊下をずっと歩いて奥に辿ると、百合の間という小部屋に行き着く。ガブリエルの受胎告知を準えて作られたそこに皆憧れる。そこが憧れの最終地点、真世界の扉であり、死を迎える部屋だからだ。……今回はこの話はよしておこう。百合の間に送り込める人間がいないからた。目の前の者を覗いては。
「教祖様、今日のお茶も美味しいです」
「それは良かった。今日のお茶は花の匂いが強いかもしれませんが」
「いえ、とても飲みやすいです」
新品の服を購入したのだろう。グレーのタートルネックセーターを羽織るサイトウは、垂れがちな目を更に細めて湯気に紛れる。
ラベンダー、セントジョーンズワート、ローズ、パッションフラワー。不眠や鎮静を促すハーブをブレンドし、抽出された液体を彼は静かに啜る。彼は典型的な鬱病であったが、保険証も交付されていない者からすれば精神病の治療には莫大な医療費が掛かってしまう。それが逆に好都合であったので「これを飲めばあなたの不安も解毒されていく」という甘い誘いに容易く乗った。それに薬漬けの肉は不味い。こうして少しずつ慣らして、慣らして、死後自分の肉体を明け渡すという契約さえ結ぶことができたら、自分の食料調達は成功したことになる、のだが。
(この人のせいで失敗した)
洗脳に掛かりやすいくせに、一度は『導き』により殺めたはずなのに、彼は生きている。夢ではないというのが残酷じゃないか。首筋に見える赤い断線は明らかに自分が付けたものだったし、開腹だって自らが手を下したものだ。あれから一日もしないうちに、彼の腹は薄い傷口を残すだけでぴったりとくっ付いてしまった。歩くし食べるし、こうして会話もする。死んでたはずなのに、だ。
(人間なのか? 化け物なのか? もしこの人が人を喰って生きる化け物だったら、僕達は恰好の餌にされかねないんじゃないか)
彼の目の前で笑ってみせるものの、サイトウは笑わない。笑うことができないのだ。ちびちびとハーブティーを啜るだけだ。腕を上げた時だけに僅かにちらつく手首の線は紛れもない躊躇い傷であったし、一息ついた頃にきょろきょろと忙しなく部屋を見渡す癖も直らない。食人鬼ではないな、と思うまでに自分のことを鑑みることはなかった。棚に上げていて、己を眺める暇すらなかった。
「それでサイトウさん、最近の調子はどうですか」
「お陰様でご飯も美味しく感じます。葉っぱがあんなに美味しいものだとは思わないじゃないですか」
「葉っぱ」
ベビーリーフの話をしているのだろうか。彼は時々抽象的にも程がある単語を繰り出すことがある。外的年齢は自分より五歳から十歳は上と見ているが、無戸籍のせいか発言に妙な引っ掛かりを残す。思えば野菜についても「葉っぱ」「根っこ」という表現を用いることが多かった。
「……『野菜』は好きですか」
「ええ。でも私は食べる機会が少なかったんです。飢饉の時は日照りが多くて水不足で、菜っ葉は育たない。植えたものが育たないと、鳥も動物も死ぬ。死んだものを食べるというのは、どうにも辛いことですよ、教祖様」
「というのは」
「死ぬと腐った血が肉に回るんです。だから肉なんて腥くて食べられたものじゃないんです。でもそれを食べないことには食べ物なんてないから、皆が血眼になって食い荒らす、食料を巡って争う、死人が出る」
「…………それはいつのことですか」
「数えてないから分からないですけど、あの頃は刀がまだありました」
まただ。サイトウは時に意味不明なことを口走る。彼が間違った発言をしていないのだとしたら、彼は江戸四大飢饉のうちどれかについて語っていることになるのだが、彼の神経衰弱を踏まえたら詭弁を語るに過ぎないではないか。しかし彼の語り口は生々しい。死んだ肉が不味いことなんて、自分がよく知っているからだ。
サイトウはしきりにこちらの顔色を伺っていた。自分が妄言を話している自覚があるのだろうか。「気になさらず続けてください」と先を促せば、彼は喉を鳴らし、一気にハーブティーを飲み干した。
「折角ですから、ひとつお聞きしていいですか」
「なんでしょう」
「あなたについて教えてください。できればもう少し詳しく」
空になったカップにハーブティーを継ぎ足してやると、白いカップは再びオレンジがかった液体で満たされる。お茶請けにゆずピールも添えてやると、サイトウはピールの端を少し齧ってから温かなハーブティーへと口をつけた。それからてんさい糖を加えて、スプーンでくるくると溶かしていく。『それらしく』見せるために精製糖は使用しない。ゆずピールも教団の調理担当が手製したものだ。ちなみにサイトウは甘い物が好きらしい。
「……私は鬱病らしいですから、だから今から話すことも精神衰弱による詭弁だと思うでしょうが、それでも聞いてくださるなら」
「それが私の務めですから」
でしたら、と続けると、サイトウは指の腹についた砂糖を舐め、手拭きで丹念に指を拭いた。工場勤めのせいか指先や節はガサガサで、工業用オイルが黒く染み付いているらしい。爪も真っ黒だ。
カップがくるくると回る。サイトウは揺れる表面に映る自分をじっと見据えては崩すようにてんさい糖を追加する。茶色がかった粉は彼の顔を歪めたことだろう。しかし伸び切った前髪から表情など伺い知れない。しかもトーンも変調がないものだから、彼が何を思い生きているかだなんて、自分はおろか誰も知りやしない。
「私が生まれたのはずっとずっと前のことです。道は拓けておらず、けもの道を踏み固めたようなものが一本あるだけの山奥にて、私は生まれました」
赤子が記憶を抱くとはおかしいと思われるでしょうが、不思議と記憶が根付いているのです。夢を都合の良い現実にすり替えただけだと思われるでしょうが、しかし私には夢に思えません。私は生まれた時から既に犬歯が生えておりました。産婆が私の姿を見て、私を取り零したことはよく覚えています。その衝撃で首の骨が折れたことも。
産婆は死産であったと母へ告げたのもうっすら耳へ届いておりました。生まれたてのせいか、再生能力が著しく早かったのだろうと思います。母の泣き叫ぶ声や、産婆や村長の「早く埋めてしまえ」という言葉もこびりついて離れません。生まれて僅か、私は母の乳にむしゃぶりつくことも、柔らかな腕に抱かれることもないまま土に抱かれました。土の冷たいことといったら、もう。固く封をされては私の鳴き声どころか呼吸さえままならず、私はそのまま命を落としました。
しかし私はまた生き返ってしまった。喉奥まで詰まる土が苦くて苦しかった。私が初めて口にしたものが土ですよ、教祖様。こんな酷いことがね、あるんです。きっとあの時代なら間引きもあったでしょうし、私みたいな赤子が多数いたことでしょう。でも私は生き返るんです。私の力は弱かったものですから、何度も死んで生き返りました。その最中に何度もお経を耳にしました。あれは歌かなにかだと当時は思ったのですが、お経だと知るのに何年掛かったでしょう。私が土を掘り起こせるまでの力が付くまでですから。赤子とは何とも無力なものです。
それから墓から這い出し、鬼子供養の塚を倒して、私は初めて地中から顔を出しました。最中指が折れたりもしましたが、それでも土を食って、酸欠で死んでを繰り返してどうにか立ち上がったわけですが、運悪く野犬に出会しましてね、次に私を待ち受けていたのは肉を貪られるという壮絶な経験です。あれはね、痛かったですね。あの時二歳くらいでしょうか、走ることもままならなかったもので、私は呆気なく喉笛を噛み切られて、はらわたを貪られました。痛かったな、でもあの時代はよくあるんですよ。天候に左右されやすい時代でしたから、農作物が育たなければ人は人を喰うんです。私は弱かったから、犬だけでなく人にも喰われた。残り物は鳥が群がって啄んでましたよ。勿論逆もあります。飢餓は思いの外重くて苦しいものですから。
若い時は死ぬことが大半でした。死にながら生きてきたようなもので、あまり思い出がなくて。皆必死なんですよね、生きるのに。私もあの時死にたいという概念がなかったものですから、私もなんとか食いつなぎ、時に喰われながらあの山を降りました。今となっては懐かしいことですが。
ですが肉は生け捕りにして捌いてから焼くなり煮るなりして食べるに尽きますね。死んだ肉は不味いですから。何度も言いますけど腥いんです。獣でも、人でも。まあ食べるものがなさすぎて木の根を齧ってたことの方が多いです。たまに毒に当たって泡を吹いて死にましたけど……。
そこまで聞かされて「教祖様?」と声を掛けられるまで、自分の舌の上でありもしない肉の味が蘇っていた。唾液に乗せられる仮想の肉汁、嚥下する腐臭、舌を泳ぐ粒状の虫。当然此処には肉などなく、サイトウと同じようにハーブティーとゆずピールを嗜んでいるに過ぎない。
しかし彼の昔話が精神薄弱における妄言と一掃するには、リアリティが凄まじかった。真っ白な部屋が一瞬にして人影のない山陰へと変化する。烏が不吉に鳴き叫び、真っ白な斑点の浮かぶ肉を喰い散らかす。乾涸びた骨からびちびちと剥離される肉の脆いこと。蝿が飛ぶ、卵を産み付ける、蛆が湧く、生命の流転の凄まじさ。
幼子が喰らう、幼子まで啄まれる、生命の巡りはなんと過酷だろう、苛烈だろう。濁流の色も悪臭も手に取るように読み取れる。知っている。生への執着は時に醜悪の形すら呑み飲んでしまうことに。――だからサイトウは偽りひとつ零していない。
「……ええ、サイトウさんの仰ることはわかりました」
「嘘だと思ってくれて構いません。聞いてくださるだけで……私はそれだけで良かったので」
遠慮がちに手を振ると、サイトウは砂糖がこびりついた唇をひと舐めしてハーブティーを一気飲みした。飲み足りないような顔をされたが、生憎ガラスポッドのハーブティーは空になっている。カラフェでも持ってきて水を差し出してやりたかったが、足腰が椅子に張り付いて動けそうになかった。辛うじて動く右手でゆずピールを足してあげると、サイトウは嬉しそうに目を細めていた。だが前髪が分厚いのでそのように見えるだけで、実際彼が笑ったかは不確かだ。
「あなたのような方も例外なく救済し、真世界へ導く……それが私の役目ですから」
「ありがとうございます。教祖様のお陰で働くのも少し楽になってきたんです。夜も多少は寝付きが良くなったように思います」
今までホームレス同然で生きてきたという彼からしたら、布団という存在が如何に素晴らしいものか筆舌に尽くし難いものがあるらしい。それも合点がいく。彼が永らく生きてしまった人であるなら。
救済も真世界も建前で、元より彼らに死を与えるだけが本音であったが、彼に死が通用しない以上どうしたらいいのか考えあぐねていた。理論上は自分の食欲の大半を彼で満たせば、信者が足りずとも飢えることはない。しかし問題は彼だ。死ねない彼への救済とは何だ、彼はどうしたら満たされる。飢えることもなく、野生動物に襲われることもなく、戸籍はないが衣食住は保証されている。彼は満たされているだろう。しかし満ち足りることが救済ではないのだ。
彼には人間としての恒常性がない。他の者と等しく食べねば飢えるし、痛いと泣くことができるのに、死ぬことだけができない。しかも彼は僕が人を喰らうと勘づいているはずなのだが、何も訴えてこないし施設内から出て行こうとしない。恐らく期待されている。自分が死ぬきっかけが此処にあると。そんなものはないし、なんなら自分が彼を文字通り食い物にしようとしているのに、だ。
「それでも私は死ねないんですよ、教祖様」
「ええ、わかっています。わかっています……。あなたはどうなりたいのですか、サイトウさん」
「救われたいのです。こんな私でも救われるのでしょうか。……いえ、救われなくとも構わないのかもしれません。私はただ」
すう、と息を吸い飲む音だけが部屋へと鳴り響く。耳鳴りすら引き連れ、痛いくらいの無音に溶け込んでいく。彼の指は砂糖まみれで、それも厭わずに齧っては何度も何度も噛み締める。それから空のカップを持て余しながら、湧いてきやしないハーブティーを名残惜しむかのように底を覗き込むのだ。
「私は皆さんみたいに死ねたら、それで」
「皆さん、とは」
「痛いのは嫌いです。だけど……教祖様の御顔を拝見した時に稲妻が走りました。あなたなら私の穢れた肉体を呪いから解放してくださるのではないかと。長いこと生きてしまったのだから、今更早く死にたいとは思いません。だけど私は期待して止まないのです」
呼び鈴が鳴った。硝子製の軽やかな音色は自分と面談したい者が自分を呼ぶ合図であり、信者と平等に対話するためのタイマーでもあった。サイトウは残りのピールを口に押し込み、指を丹念に舐めると乾き掛けの手拭きに指をなすり付け、おもむろに立ち上がってはぺこぺこと頭を下げた。勢いあまって椅子が倒れそうになったが、すんでのところで背もたれを受け止めていた。自分は下半身が麻痺したかのようにびりびりとして立てそうにない。
「……サイトウさん、あなたは」
「私は……私は、死ねるのだとしたら――」
砂糖にまみれた唇がぽそぽそと何かを象ると、サイトウはもう一度深々とお辞儀をし、薄い舌で砂糖を飲み込みながら退室をした。途中で何もないところに躓きそうになっていたものの、何事もなかったかのように扉の奥へと消え、白塗りの扉は静かに閉ざされた。
残響の中で彼の残した言葉が混ざり合う。それは酸素と融合して体内に入り込み、やがて心臓や脳まで冒す毒のように即座に浸透していった。残された赤い祈りはどう消化するべきだ。さっさと喰らってしまっていたら、こんなことにはならなかったはずだ。
『神棚』の食物はもう残り少ない。錆び付いた匂いが胃の腑から甦るようだった。彼を排他したい気持ちとは裏腹に、食ゆえの好奇心が今日も空腹を呼び寄せる。彼の残した言葉さえなければ、これから彼の肉に執着することもなかったのだ。ああ、救いなんてまやかしでしかないのに、純粋さは時に刃物より鋭く、現実よりえげつない。
(――死ねるのだとしたら、この身をどうぞ、好きになさってください。慣れやしないけど、耐えるくらいはできますから)
それは湿った枯れ花のように