君の声は僕の声 第四章 7 ─機密─
機密
秀蓮の口から発せられた耳慣れない言葉に聡は凍りついた。
「この事実を知っているのは皇太后と、帝の側近中の側近、そして僕たちだ」
秀蓮は念を押すように慎を見つめた。慎は秀蓮を見つめ返したままごくりと唾を呑みこんだ。そしてゆっくりと頷く。慎の覚悟を受けて、秀蓮は落ち着いて話し始めた。
「帝は僕たちと同じ、成長することはない」
聡の心臓がトクンとなる。
聡も慎も言葉を失ったまま事の重大さを受け止めようとしている。聡のような小さな町の子供でも『国を滅ぼす悪魔』として身を隠さなくてはならないのだ。それが、国を治める帝が『国を滅ぼす悪魔』であるとは、あってはならないこと。城を追われるだけでは済むはずはない。帝ひとりの問題ではない。
「今の体制に反対する者たちにこの事実が漏れたら、帝は利用されてしまう。この国を滅ぼし……何もかも帝のせいにするだろう……そうなったら──」
秀蓮が顔をゆがませて口を固く結んだ。瑛仁は先ほどから腕を組んで黙ったまま話を聞いている。慎が重い口を開いた。
「この国の資源を狙っている諸外国にまでこんな情勢を知られたら、それこそいいようにされてしまう。最悪、この国は亡くなり、植民地や属国にされてしまうかもしれない。──そう言うことですね」
秀蓮と瑛仁が無言でうなずく。
重い空気が流れた。
「帝はまだ十二歳だ。成長が完全に止まっているわけではない」
秀蓮の言葉に慎は引っかかった。
「それなら、まだ止まると決めつけるのは」
「いや、瞳を見ればわかる」
秀蓮に言われて、この少年の瞳が聡と同じ、琥珀色をしていることに慎は気づいた。
「帝が十六歳になったら成人の儀式と婚礼が行われる。それまでには何としても原因を突き止めて、さらに帝には成人してもらわなければならない」
秀蓮は冷めてしまったお茶を口に含んだ。
「聡」
秀蓮に呼ばれて聡は顔を上げた。
「今まで僕にKMCの情報をくれたのは皇太后だ。──明日、僕は皇太后と話をする」
聡は皇太后と言われ、驚きを越えて全身が麻痺したように口を開けたまま秀蓮を見ていた。瑛仁はそっと顔を伏せた。聡はそれには気づかなかった。
皇族の誰かというだけで尻込みしていたのに、それが皇太后とは……。それもこんな話を聞いた後に……さすがに今回は「一緒に行く」という言葉は出てこなかった。
すると秀蓮が小さな声で言った。
「一緒に来てくれる?」
秀蓮の珍しく気弱そうな言葉に、聡は何も考えずにただ頷いていた。
瑛仁は慎に泊まって行くように勧めた。兄弟水入らずで過ごせるように寝台の用意をしてくれていたようだったが、慎は断った。
「これ以上首を突っ込むな……と言いたいところだが」
上着を羽織り、顔を上げた慎が大きくため息をついた。
「おまえの好きなようにしろ。秀蓮は色々と問題を抱えているようだな。心配なんだろう? 彼の傍にいて、力になってやれ」
慎は別れたときと変わらない弟の肩に手を置いた。
「ありがとう。兄」
聡はしっかりと頷いた。兄の大きな手から兄の気持ちが伝わってくる。兄はいつもこうして聡を励ましてくれた。こうしてもらうと自信のないことでも何でもやれる気になったものだった。
「父さんと母さんには上手く言っておく。でも母さんを泣かせるようなことはするなよ」
慎はそう言って聡をきつく抱きしめた。
慎が表に出ると、中庭の、花をつけた百日紅の下で、秀蓮と瑛仁が話をしていた。百日紅の上には薄雲に霞んだ丸い月が浮かんでいた。月明かりに浮かび上がる少年の白い顔を見つめて慎は思った。
この少年はその小さな肩にどれほどのものを背負っているのだろう。そして聡はそれを一緒に背負い込もうとしている。
本当にいいのだろうか……。
慎はもう一度、聡を見やった。慎の視線に気づいて聡が笑いかける。いつでも微笑んでいるような愛嬌のある顔をしながら、その大きな瞳はいつも人を真っ直ぐに見る。自分は子供の頃から親の言いつけを守り、森に入ったことはなかった。だが、この弟は違った。母親に散々怒られても懲りずに森へと入っていった。そのやんちゃぶりには手を焼かされたが、そんな自分にはない気丈さが頼もしくもあった。
あいつなら大丈夫。
「聡は一度決めたら、誰に何と言われても曲げない強情な奴です。僕が言ったところで聞きやしない。だから、あいつの好きにさせてやってください。──聡を……よろしくお願いします」
慎は秀蓮に向かってゆっくりと頭を下げた。そして、「僕もやめませんよ」と付け加えて帰って行った。
翌朝、聡は窓辺に下げられた鳥籠の中で美しくさえずる小夜啼鳥を、焦点の合わない目で見つめながら朝食をとっていた。ひと口箸をつけてはため息をつく。
何を食べてもぼそぼそとして味などわからない。無理やり口に押し込みながら、ただ口を動かしていた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
瑛仁が奥の部屋から出てきて言った。その顔は笑っている。
「そんなの……小さな頃から城で遊んでいたふたりにはわかりませんよ」
聡が口をとがらせ、力なく言ってはため息をついた。
「今日は城へは行きません。皇太后の個人的な別荘で会います。別荘には誰もいません。皇太后と私だけですから。それに、皇太后は訳あって御簾の向こうからお話をされます。お顔は見えません」
それでも緊張して食事を飲み込めずに胸を叩いている聡に、「あなたは秀蓮の横で座っているだけでいいんです」と瑛仁が茶器にお茶を注ぎ「どうぞ」と優しく聡の背中に手を添えた。
聡は少しばかりほっとした。だが皇太后と会うのに変わりはない。皇太后といえば、悪い噂しか聞いてはいなかった。
権力のために正室や、言うことを聞かない官僚を殺したとか、いつまでも権力にしがみついて、自分の思い通りに動く幼い子供を帝にしたとか、若さを保つために、夜な夜な若い女性の生血を吸うとか、胎児を食らうとか……信じるわけではないが魔女のような、いや、もはや鬼女のイメージだ。
『いいか。皇太后様は仏様だ。人間じゃない。そのお顔を決して見てはいけないんだ。目が合ったら叩き殺されるんだと。こう、首を垂れてだな、絶対に顔をあげては駄目だぞ。顔を下げてろ。誤って顔をあげてしまった宦官が、何人も叩き殺されたらしいぞ。顔を見ちゃいかん。わかったな』
兄の合格祝いの席でそんな物騒な話を口にして、父に睨まれた叔父の言葉を思い出し、聡は体が震えた。
「皇太后と目が合ったら叩き殺されるって本当?」
聡が遠慮がちに訊ねると瑛仁は小さく噴き出した。茶器を持つ手が震えている。堪えきれずにまた吹き出した。ついには止まらなくなり、大きな口をあけて「あっはっはははは」と笑い出した。
「そんな噂が本当なら、私は生きてはいませんよ」
そう言って笑いながら廊下を歩いていく。しばらくしてまた、奥の部屋から笑い声が響いた。
──あの瑛仁があんなに笑うなんて
だけど、おかげで気持ちが楽になった。聡は、さえずる小夜鳴鳥に向かって口笛を吹いた。
朝から出かけていた秀蓮が戻ってきて、ふたりは瑛仁の用意した服に着替えて馬車に乗りこんだ。
馬車の中でも秀蓮は考え事をしているようだった。瑛仁も秀蓮に気を使っているのか黙っていた。黙っているとまた緊張してくる。聡は気を紛らわそうと馬車からの景色を眺めた。辻から辻までの長い塀が見え、聡が「お城?」と訊ねると、「いいえ、内親王の屋敷です」と瑛仁が微笑む。「お城はこんなものではありませんよ」と言う。聡はめまいがしてきた。
長い塀に沿って走ると、うっそうとした森が見えてきた。皇室の私有地だという森に入り、しばらく森の中を走って馬車は止まった。
「公園?」
木々に囲まれた池の広がる風景を見て聡がつぶやいた。池には大輪のハスの花が見事に咲き誇っている。
「公園ではありません。ここが皇太后の別荘ですよ」
馬車から降りる聡に手を差し出して瑛仁が微笑む。
聡より先に馬車から降りた秀蓮は、長いこと立ち止まって庭を眺めていた。ここには何度か訪れたことがあるのだろうか。瑛仁は何も言わずに待っている。そして右手を軽く握りしめ、ようやく歩き出した。
君の声は僕の声 第四章 7 ─機密─