忘却

 夜の王さまが青白い手でぼくの頬に触れ、安らかな眠りをと祈ってくれる。きみのやさしさは、ときどき残酷だった。

 真夜中の町を髪の長い女のひとたちが練り歩き、血を吸ったような真っ赤な唇を歪めて微笑みかけてくることがあった。紫の花を髪飾りにしている女のひとたちは極めて美人であり、妖しく、黒いベールから幽かに見えるその大きな瞳で群衆を惑わせるので、ぼくは密かに魔女と呼んでいた。魔女たちは町の北から南へ、ただ歩いているだけだった。歩いているだけだったが、どこか儀式めいていた。

 おかしくなった町のことを、きみは教えてくれたね。
 ぜんぜん有名じゃない国の、人口も少ない、ちいさな町のことだけれどと、お風呂上りにアイスクリームを食べながら、きみが話を切り出したとき、ぼくは、然しておもしろくもないテレビ番組を、何とはなしに眺めていた。ぼおっとみていると、画面のなかの芸能人の顔と、洋服と、背景がまぜこぜになって、単なる色のかたまりみたいなのが、ぼやぼやと動いてるだけになる瞬間があって、その瞬間はとにかく気持ち悪いものだった。輪郭を失い溶けて混ざりあった、にんげんのかたまり。
 それから夜の王さまと朝の王女さまの話も、きみはしたけれど、ごめん、朝の王女さまのことは忘れてしまった。きっとぼくが、朝が苦手で、朝に不釣り合いだからなのだろうと思った。「きみは夜っぽい」と、漠然と言い放ったのは、きみだったはずだ。それも、あまりはっきりとは覚えていないけれど。ね。

(どうしてぼくたちは、覚えていなくてもいいことを覚えていて、忘れたくないことを忘れてしまうのだろう)

忘却

忘却

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-23

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