「鰻の女」(うなぎのひと)後編

「鰻の女」後編


「─そうか。よかったぁ─何だか、ホッとした」八坂は言うと大きく溜息を吐いた。
「うん。だってホントだもん─」思わず口を尖らせてそう繰り返すとまた笑顔を向けて来少しの間の後、
「─あのさ。何でこんなサイトに入ってるの?」少し遠慮気味な口調でそう訊いて来た。咄嗟に返答に窮していると、
「あ、ごめんね?変な質問した─いや、君ならいくらでも言い寄る男がいるだろうし、─もうとっくに─その─結婚してるかと─さっきの着電も、その─もしかして─」俄かに目線を逸らすと赤く染めた頰を俯けそう口籠った。
「そんなんじゃないよ。─全然声掛けてくれる人なんていないし─」言い掛けながら一瞬件の男の不気味な目つきが浮かんだが慌てて首を振った。
「─縁がないのよ」苦笑し吐き出す様な自分のその物言いに、改めて小さく息を吐いた。
「─ちゃんとした恋愛がしたくて─」もう一度そう言うと、
「信じられないな。─君みたいな人がまだフリーだなんて─」そう言い見つめてくる眼差しが優しく温かに感じた。

「─ちゃんとした恋愛」駅前で八坂と別れた後夕刻の雑踏を歩く歩調を緩めながら、水を求めているのか噴水の飛沫に纏わり飛び回る番いと思しきセキレイのダンスをぼんやり見つめそう呟いてみた。丁度帰宅ラッシュに重なりそうな時間で忙しなく行き交う人が増えて来た。真弓は足を止めベンチに腰を下ろすとまた小さく息を吐いた。
初恋─。
短大を卒業し就活に苦戦していた頃、一度だけ恋愛と呼べるだが誰にも話すことの出来ない哀しく切ない恋を経験していた。周囲が恋バナに色めき立ち殆どの子が華やいで見えたあの頃─。
忘れ難い記憶はいまだにひりひりした痛みを伴い思い返す度に胸の奥深くで脈打つ様に感じる。
相手はバイト先のファンシーショップの店長で既婚者だった。容姿はさほどではないが優しい物言いと接客が好評で他の女子社員やお客にも人気があった。その日はクリスマスを翌月に控えディスプレイを含め商品の陳列を一新する作業をしていた。夜の9時を過ぎ徐々に皆が帰宅する中、通りに面したウィンドウの吹きつけを任された真弓の仕事だけが中々捗らなかった。
「もう遅いから、後は僕がやっておくよ。早く帰らないと─」いつもの温和な笑顔で店長が言った。
「あ、はい─すみません。不器用で─よろしくお願いします─」素直にその言葉に礼を言い頭を下げると店長は改めて笑顔で頷いた。母と約束していた門限は9時まででとおに過ぎてしまっている。忙しなく着替えて店を後にした。だが足早に駅に向かっている途中俄雨が降ってきた。冷たい雨だった。ふと置き傘をしていることを思い出し踵を返して店に戻り裏口のドアを開けようとすると、何やらくぐもった話し声が聞こえて来た。電話はレジの横にあり内容は良く聞き取れないが話し振りから相手はどうやら親しい仲らしかった。
「─だから帰ったらちゃんと話すよ!まだちょっと掛かるから!─」初めて聞く憤りを孕んだ激しい物言いだった。同時に乱暴に置かれた受話器の響く音に真弓は思わず後退りした。入り口の左側にある傘立てから素早く傘を抜き取り足音を忍ばせて背を向けた時、
「まだ、いたんだね─」穏やかな声が聞こえて来た。振り返り見たその笑顔が少しだけ疲れて見えた。
「─聞かれたみたいだね。実は今、家の中がちょっと落ち着かなくてね─恥ずかしいな─ごめんね─?」店長はそう言うと俄かに顔色を曇らせ俯いた。
「あの─だいじょうぶ、ですか─」どこか居た堪れない気から逃がれる様にそう訊くと、
「─ありがとう。─難しいね、結婚って─。愛だけじゃどうにもならないこともあって─」そう応えて苦笑した。寂しげなその表情にいつも何にでも真剣に取り組む真摯な人間性を改めて確かめた気がすると、自分の中にあった尊敬の念が徐々にどこかやるせない切ないものに変わろうとしているのを不思議な思いで感じていた。
店長の現状はそのまま自分の家の現状にも当てはまるとも思った。両親に果たして愛があるのかを推し量る術に思いは及ばなかったが。
その晩、二人は食事をし夜半にホテルで結ばれた。当然真弓にとっては初めての体験だった。
それは決して一時的で短絡な感情からの火戯びなどではなく、惹かれ合った男女の間に起きたごく自然な成り行きだったと今でも反芻することがある。

憧れていた「相思相愛」に浸る至福は例えようもなく、家庭の不和に俯いていた日々が嘘の様に華やいだ毎日に変わった。秘かな逢瀬に相手の家庭が時折見え隠れすることもあったが唇を重ねるだけでそんな背徳の念は霧消した。抱かれると昂まる欲情は相手の心の奥底までを求め、ただ激しく貪りつくようにその呼応に身も心も任せ切った。そうすることで全てが満たされる気がした。
だが幸せは長くは続かなかった。
倫理の果てにある道理がその愚行に当たり前の罰を下す様に─。天網は許されざる過ちを決して洩らすことはなかったのだ。
懐妊に気づいたのは二ヶ月を過ぎた頃だった。不順な生理は以前から度々あったがすぐに異状を察知した。検査薬を試みると明らかな陽性反応だった。だが事実を伝えるべきかを悩み苦しんでいた折突然、別れを告げられたのだった。奥さんが重篤な鬱に陥ってしまったということだった。母親と同居し頻繁に諍う内に深く病んでしまったのだと言う。
「─ごめんよ。今、僕が見捨てる訳にはいかない─罰が当たったのかも、な─」それが別れの言葉だった。店長は間もなく店を辞めた。最後の日、帰り際に手紙を渡された。
「─ごめんよ。君は何も悪くない─どうか、幸せになって欲しい」右肩上がりの癖のある文字でそう書かれていた。涙が自然に溢れてきて、その場にいた誰の目も憚かることなく泣いた。その晩真弓はその手紙を抱き締めて寝た。切なさが次から次へと押し寄せて便箋に頰をつけると愛した人の匂いがする気がした。

同意書に適当な名の保証人を立て提出し、間も無く堕胎の施術は淡々と行われた。ガチャガチャと器具の触れ合う無機質な音を遠のく意識の外に聞きながら自然に涙が溢れ出た。身内にも誰に言える筈もなく、死んでも自分の胸の中にしまい込んで置かなくてはならないことを覚悟した。
尊ぶべき命への冒瀆─自分は今まさにその許されざる罪を侵すのだ。自らに嫌気が差し死ぬことも考えたが、ふとした時に意識する胎の内の脈動がそれをやっと思いとどまらせた。
慰めてくれる人間はどこにもいなかった。
鈍く重い痛みが取り返しのつかぬ贖罪を求め自分を詰っている様に感じた。横たわるベッドの隣の薄い壁を隔てた向こう側の部屋で休憩中と思われる看護師たちの明るい話し声が恨めしく、笑い声が上がる度に嗤われている錯覚に消沈した。自分を許せなかった。穢らわしいとさえ感じた。
以来傷心は心の奥深くに燻り続け、だが乙女心は切ないほど恋に焦がれ彷徨い続けているのだった。
取り出したスマホの画面を見るでもなくしばしそんな感傷に浸っているとマナーモードが着電を報せた。確かめると先刻の記憶にない番号だった。時々掛かる何かのセールスの電話だと思ったが執拗に長く震えている。怪訝に思いながらも出てみた。少しの沈黙の後、
『─今、どこにいるの?』そう含み笑いを籠らせた声は間違いなく先般のいやらしい男のものだった。

「─あのね。わたし─あなたが思うような女じゃないのよ」にこやかな笑顔を向ける八坂に真弓は顔を俯けて呟くように言った。
「─え?どうしたの─?」八坂は変わらず温和な表情で見返すとのんびりした口調でそう問うてきた。真弓が押し黙っていると、
「三澤は三澤だろ?何が違うの─?」真弓のティーカップに砂糖を入れてやりながらそう言った。翌週二人は同じカフェで二度目のデートを約束していた。
「─もしかして、過去のことを言ってるの─?」少しの間の後、笑みを崩さずに八坂が言った。真弓が眼を上げると、
「─当たり前だよ?もう大人だもの、俺たち。色んなことを乗り越えて来て今があるんだ」そう言うと今度は自分のコーヒーにミルクをたっぷり入れながら、
「─人は多分、物心ついた頃から秘密を抱き合わせながら生きてる─誰にだってあるよ。─誰にも言えない─言いたくないことの一つや二つ─知られたくない─心の奥底の部屋に閉じ込めてる─内緒話が─」そう繰り返してまた優しい笑みを上げた。どこか宥めるようなその眼差しを見つめた時、不意にまた切ない気持ちが迫り上げ危うく涙がこぼれそうになった。真弓は慌てて顔を俯けると、膝の上に置いたハンカチを取りそっと目頭にあてた。暫くの間の後、
「─俺仕事、辞めることにしたんだ。─もう一度だけ、夢を追い掛けることに決めた─まだ誰にも話してない、俺だけの内緒話─」取り成す様に明るい調子で口を開いた。真弓が驚いた眼を向けると、
「─学生の頃やってた舞台─。どうしても演劇が諦め切れなくて─劇団を主宰することにしたんだ─手話と副音声を前面に取り入れた、誰もが例えば障害を持つ人たちも愉しめる─感じてくれる演劇─。いつか完全にバリアフリーの劇場造って─」俄かに身を乗り出し、まだ再会したばかりの自分に持ち合わせのお気に入りの写真をポケットから取り出しただ嬉しげに見せようしてるその無垢さが眩く見えた。そこに理解の強要は微塵も感じられない。眼差しの輝きが不意に遠い日、昇降口で頰を染め赤いリボンの包みを大事そうに抱えていた面影に重なり真弓は懐かしさに思わず微笑みを返して幾度も頷いていた。
「─すごいね。良く決断出来たね。─ホントにすごいよ─今、わたしには語れる夢も─何の挑戦も決断もないもの─」何故か声が詰まりそうになった。どこか底の方からゆらゆらと湧き上がる感情が何なのか誰に向けるべきものなのかその時はまだ見当がつかなかった。
「─あのね─」そう言い掛けた時、バッグの中でまたスマホが震えた。

「─だいじょうぶ?何か大切な用事じゃないの─?」着電に応じない様子を見て不安げにそう訊いて来た。曖昧に頷く真弓の耳に、
『─何だよ。せっかく仲良くしてやろうとしてんのに。ふふ、─他にも携帯持ってんだ。あのさ、今度着拒なんかしたら何するか分かんないぜ?俺─一応客でもあるんだ。ちゃんとした対応した方がいいと思うぜ?電話くらい出ろよな─』件の男の悍ましい声が蘇る。
「─何かあるの?─何だか急に元気ない、よ─?」俄かに曇らせた表情を察知したのかまた心配そうに顔を覗き込むようにして八坂が問うた。
「─ううん─。だいじょうぶ。大したことじゃないの」そう応えながら暗澹とした不安は隠しようがなかった。大きく溜め息を吐いた時、
「─あのさ、話してくれないか─?余計なお世話かも知れないけど─」心配そうにそう繰り返す八坂に真弓はゆっくり眼を向けた。

広い駐車スペースの一番奥に男の車が停められていた。
スモークの貼られた後部をこちら側に向け、中の様子は判らないがどこかでジッと見つめられている確信がある。そう言えば男の職業の詳細は聞いていなかった。
『自由の効く仕事だから。あくせく働く必要もねえんだ』そんな風に嘯いていたことを思い返す。
ドラッグストアと敷地を共有している店舗は客の出入りも引っ切り無しでメンテナンスの受付や細かな商品の販売で連日暇な時間がない。忙しさに注視が逸れた頃、唐突に男が姿を見せた。暫く店内の商品を物色しながら明らかにこちらの様子を窺っていたがレジに並ぶ客が引いたのを確かめるとすかさず真弓の前に近寄って来た。
「─寂しかっただろう?わざわざ会いに来てやったぜ?」また笑いを噛み殺し執拗な目線で全身を舐め回す様にしながら男が言った。悍ましさに頰が上気した。身を硬くして何も応えずにいると、やがて男の後ろに客が並び始めた。
「なあ、今晩店が終わる頃また迎えに来るからよ。待ってろよな─」男は低い声を抑えてそう言うとそそくさと外に出て行った。
真弓はその後を目で追いながら外のドラッグストア寄りに立っていた八坂に小さく合図を送った。
過日の着電を含め男が既にストーカー紛いの行為に及び真弓を悩ませている事実を知り、その愚劣な行動が必ずエスカレートすることを指摘した上でどうしてもそれを阻止したいと申し出、この数日店の近隣に来ては男の来店を張っていたのだった。
「─何の仕事をしてるかもはっきり分からない人なのよ?わたしが強く拒否して、何かあったら警察にでも相談するから─」そう宥める様に言ったのだが、
「─だいじょうぶだよ。話しをするだけなんだから。きちんと話せば、分かってくれるさ。どんな相手だって。心配しなくても大丈夫だから。俺は今まで喧嘩したことなんてないし、しても勝てる訳ないからね─」そう応えてまた穏やかに笑っていた。
やがて濃紺のBMWの後をついて八坂の運転する軽自動車が駐車場を出て行った。

鬱屈した気持ちで連絡を待ったがいつまで経ってもラインにもメッセージは入らなかった。
やがて閉店時間となりのぼり旗をしまい、レジスターの鍵を掛け不安に駆られながらそっと外を窺い見たがBMWの姿はなかった。駐車スペースの端から端までを確かめてもそれらしき姿は見当たらない。真弓は安堵の息を深く吐き出すと忙しなく身支度して店舗を後にした。
駅までは歩いて20分くらいの距離がある。車の気配を感じる度立ち止まり身構えながらスマホで八坂からの連絡を確かめつつ歩いている時、大通りにあるチェーン店の本屋の入り口の前でふと足が止まった。通り過ぎようとした眼の端に見憶えのある顔がいた気がした。少し戻り自動ドアの前に近づき貼ってあるチラシの隙間から見えるその顔を確かめた次の瞬間、凍りついた様に目線が釘づけになった。
初恋の男に違いなかった─。体型は少しだけ膨よかになっていて髪の所々に白いものが混じってはいるが確かな面影が直ぐに記憶と重なり合った。
瞬時に頰に血が上ると身体中が火照る様に感じた。
暫く躊躇っていたが平然を装いやっと店内に入ると雑誌に集中する男から少しだけ離れた場所に立った。皺も増え歳を重ねて来たのは明らかだが長めのヘアスタイルもそのままであの日から数えてみた実年齢よりも若く見える。じっと見つめていると不意にこちらを一篇して来た。真弓は慌ててその目線を逸らすと顔を俯けた。ドクドクと胸の高鳴りが激しくなり立っているだけで眩暈を覚え足が震えた。少しの間の後、またそっと窺う眼を向けると男はまだこちらを凝視していた。どぎまぎと開いていた雑誌を閉じさり気なさを意識してその場を立ち去ろうとした次の瞬間、思いもかけず男は真っ直ぐに真弓を見つめたまま少しだけ笑みを浮かべると小さく手を上げて見せた。

「─ごめんね?中々、連絡できないで。本当にちゃんと解決してからと思ってたもんだから─」いつもの柔和な笑みを浮かべて八坂が言った。
ラインを入れても既読にはなるが返信はなく連絡が取れないまま三週間が過ぎたつい先日の夜半、漸く電話が入ったのだった。
「うん─それよりも、どうしたの?その目の下─」青黒く腫れあがった右眼の下を驚いて見つめながら真弓が小さく声を上げた。眼帯で隠し切れない腫れが一層痛々しい。
「─あの、喧嘩─だよね?あいつと─」心配そうに真弓が傷を窺うように眼を向けた。申し訳ない気持ちで身が縮む様だった。
「─俺は喧嘩なんてしないよ、絶対に。言ったじゃない。しても勝てやしないしね─」八坂はまた穏やかな声でそう応えると片方の眼を細めた。
「ごめんなさい。本当に─やっぱり暴力を振るったんだね─許せない─」同時に込み上げて来る憤りに堪え兼ね真弓は形の良い唇を噛んだ。
「わたし、これから被害届を出しに行くから─」すぐに決断し席を立とうとすると、
「─もう、いいんだよ。─もう、話は済んだんだよ。もう君には関わらないって、そう約束してくれたんだ」八坂はそう言いながら真弓を手で制すると、
「─分かったって、ちゃんとそう言ってくれた。この傷は約束の印だよ。ちょっとだけ痛いけど─」そう繰り返して嬉しげに笑みを浮かべ真弓のティーカップにまた砂糖を入れた。
「─え、─でもどうやって?─一体─」驚いた眼を向けると、
「─今度はね。俺がストーカーになってみたんだ」八坂はそう応えると今度は小さく声を立て愉快そうに笑った。

深夜、ドレッサーの前で自分の顔を映しぼんやり見つめていると先刻の優しい声が耳に蘇って来る。そっと包み込む様に握られた掌の感触がまだ残っていて思い返すと切ない気持ちがまた鼓動を伴って迫り上げて来る様だった。
わたしの心はどうしたのだろう─。あんなに傷ついて別れた筈なのに─。何故またこんなにときめいてしまっているのだろう─。知らずにいるとは言え、確かに宿した命に対する責任は男にもその一端がある筈だ。隠し通して及んだ愚行を心の底から悔い嘆いたあの時、恨む気持ちがなかったと言えば嘘になる。だがあの日の再会からまた残り火に自らの心を焚べる様に既に何度か会ってしまっている。震えながらも甘く切ない温もりの記憶に縋る様に抱かれてしまっていた。
「─もう、独りなんだ。三年前に離婚してね。去年この街に戻ってきて、ずっと探してた─引っ越したんだね─」本屋で再会し向き合ったカフェでそう告げられた時、込み上げて来た感情は紛れもなく熱い慕情だった。刹那にその腕の中に戻りたい気持ちがやるせなさと一緒に湧き上がると真弓は顔を俯け泣き出したい気持ちを辛うじて堪えた。
だが零れ出た涙を拭おうと目許に右の人差し指の甲を伸ばし掛けた時、爪のすぐ下に当てがわれた絆創膏を見てふとその指が止まった。つい先刻、カフェで水の注がれたグラスを落としてしまい咄嗟に拾おうと伸ばした指先が破片で切れた。
「─だいじょうぶ?」思わず指を引き痛そうに眉をひそめた様子を見て慌てて駆け寄った八坂が持ち合わせていた絆創膏を貼ってくれたのだった。貼りながら、
「─帰ったら、ちゃんと手当した方がいいよ」そう言って労わる様に上げた温かかな笑顔を思い返した。もっと昔から好意を寄せてくれていて思いもかけない再会に喜びを露わにし、得体の知れない男のストーカー行為からも怖じけることなく救い出してくれた─。
あの日店から男をつけ、自宅のマンションまでを突き止めた八坂は間も無く男と対峙すると平身低頭、真弓に付き纏うことを止めて欲しいと懇願したのだと言う。初めは鼻であしらわれ相手にもされず挙句には暴力を被ったと笑っていたが、
「お願いごとは通じるものなんだ、必ず。─同じ人間同士だから、ね─」いつもと変わらぬ穏やかな表情でそう言うとカップのコーヒーを美味そうに一口啜った後、
「─不器用なんだ。あの人も─本当に好きだったんじゃないのかな君のこと─何度も何度も頼みに行ったんだ─もう傷つけないであげてくださいって─そしたらやっと─ちょっと悲しそうな顔して─分かったよ、って─分かったから、もうそのツラ見せんなって─本当は普通に恋愛したいんじゃないのかな─あの人も─そんな風に感じた─」そう言って小さく溜息を吐き手元に眼を落としていた。
『─産まれた時から悪い人間なんていやしない。育ち方や環境が人を変えてしまうんだ─』過日呟く様にそう言っていた優しい笑みを思い返すと、今心のまま引きずっていた昔の恋を再び反芻しようとしている事実が申し訳なく胸が痛んだ。けれども自分の心に嘘はつけない。嘘を装えばまた誰かを傷つけてしまう。もうこれ以上は無理だ─ちゃんと伝えなくては─。真弓はそう決心すると迷いを拭い去る様に艶やかな紅いルージュを落とした。

「─そう、か─。」八坂は心の内を隠さず寂しそうに笑うと何度も頷いた。
「─ごめんなさい─」消え入りたい気持ちで小さく呟くと少しの間の後、
「謝らないでよ。まゆちゃんが悪い訳じゃないよ。当たり前だけど、本当に好きな人と結ばれるのが一番だから─俺はだいじょうぶだから。そりゃあ、ショックだけど─また、新しい恋を探すから」そう言い取り成す様に向けてきたいつもの笑顔のその頰が上気して見えた。カフェの店内に流れているモルダウの旋律が悲しく心に沁み入る様に感じていた。
「─あ、だけど一つだけお願いがあるんだ─俺が描いたお芝居。まだ主宰じゃないけど。─一度だけでいいから観に来て欲しい」そう言うと俯けた眼の先にチケットを差し出して来た。
「─うん。ありがとう。必ず観に行く」応えてバッグにチケットをしまうと、
「─ありがとう。まゆちゃん─ちゃんと─真剣に向き合ってくれて。嬉しかった─」その語尾が少しだけ震えたと思った時、八坂は初めて眉間に皺を寄せその顔を俯けた。

舞台は素晴らしいものだった。
袖に手話で内容を説明する劇団員が立っていて、暗闇の中舞台と併せてそちらを注視している人も何人もいた。芝居の内容は戦中の物語で、赤紙が届いた男が出征前日に挙げる結婚式から始まった。男は元々が反戦思想を持っていて、その深夜に妻を伴い逃亡を企てる。男を追い詰める役所が八坂だった。追い詰められ泣いて許しを乞う男の妻を動きを止めじっと見下ろした後男に向き合い、
「─自分だけでいいのか─?─貴様には護るべき大切な人がおらんのか─?生かされている今の、たった今の感謝を忘れ支えの人を裏切り、のうのうと─それでものうのうと、我が世の春を謳歌するつもりか─それが貴様の言う正義か─」低く抑えた声でそう言った。馴染みのある温厚な笑顔の八坂はそこに居なかった。身体を震わせた真に迫る演技の中でその台詞に込めた自らの作品への想い入れが伝わってくる様だった。台詞の後三人の演者は微動だにしなかった。間も無く照明が暗転する直前、一瞬だけ当たった光の中の彼の顔のその目尻から頰に伝うものが見え真弓はドキっとした。
最後に夫婦は囚われ連行される。一人立ち尽くした八坂にスポットライトが当たると背を向けピシッと敬礼したその肩が小刻みに震えていて、その時真弓には小さく漏らしている八坂の嗚咽が聞こえた気がした。起床ラッパの鳴り響く中幕が降りた。

ホールに明かりがついても暫く余韻に浸り立てなかった。
本当に泣いていた─。いつの時も何にでも真剣に向き合って来たであろう人柄を想い屈託のない笑顔を思い返すと彼に対しての心ない行為を悔やみまた胸が痛んだ。
劇に込められたひた向きなメッセージは哀しいが温かく新鮮に感じ胸を打たれた。緞帳が降りた後、真弓は楽屋に挨拶することを考えだがそのまま帰ることにした。


週末の土曜日はイタリアン専門の店内も賑やかだった。
「─騒がしくて、何だか落ち着かないなあ─」男はそう言うと店員にリザーブに指定されている奥にあるブース席を半ば強引に案内させた。だがそこにも少し離れてはいるが家族連れがいて賑やかに談笑していた。まだ幼稚園生くらいと思われる女の子と、彼女より小さな男の子が歌を歌いながら嬉しそうにフォークを握っていた。
「♬ぐーちょきぱーで ぐーちょきぱーで なにつくろう─みぎてがぐーで ひだひてがぱーで あれ?なんだっけ」そう言うと家族皆が笑った。真弓も思わず笑ったがふと見た男は無表情にメニューを見ている。見ながら、
「─やっぱり週末はダメだね。騒がしくて話もゆっくりできない─」少し不機嫌そうに眉間に皺を寄せそう言った。
「─いいじゃない。賑やかで」笑みを浮かべてまだ兄妹を見ながら言うと、
「─そう?」男は意外なものを見た風に眼をあげた後またメニューに眼を戻して、
「─僕は好きじゃないからね。賑やかなのも─子どもも─」そう応えた。その言葉に思わず男を見つめ返した次の瞬間、真弓は自分の胎の中にドクン、と確かな脈動を感じた。同時に得体の知れない悲しい感情が押し寄せて来、無意識のうちに席を立つと外に飛び出していた。
ゆらゆら湧き上がる悲しみは涙に代わり溢れ出て来た。
柔らかな陽射しの差す雑踏を顔を伏せるようにしてただ闇雲に歩いた。歩きながら、
「─好きじゃないからね。子どもも─」先刻の男の声が耳の奥で繰り返し響いていた。

「─ありがとう。この間は」八坂は照れ臭そうにそう言うとティーカップにちょっとだけ口をつけ、
「見えたんだ。君の顔が舞台からも。─お礼を言おうとして探したんだけど─もう居なかった─」そうつけ加え優しい眼差しを向け笑った。その笑顔がひどく懐かしく思えると真弓は不意に湧き上がり掛けた感情を慌てて抑えた。
「─こちらこそ、ありがとう。素敵なお芝居だった─本当に感動した─」やっとそう言いぎこちない笑みを浮かべた。上手に笑顔が造れなかった。
「─よかった。一番の褒め言葉だよ」八坂はそう応えると美味そうに紅茶を啜った。
「─あら?コーヒー党じゃなかったっけ?」そう訊くと八坂はまた笑顔で、
「─あ。いつも美味しそうに飲んでたろ?この匂いを嗅ぐと、何だか君がいるみたいでさ─俺、引きずるタイプなんだなきっと─」苦笑してそう応えた時、八坂のスマホの着信音が鳴った。
「─マナーにしてなかった。ちょっとごめんね?」そう言い応対したその表情が一層柔らかくなった。
「─うん。うん。─そう。頑張ったねーえらいえらい─うん。分かったよ─はーい。約束ね─じゃ、またね─」通話を終えると真弓に向き合い、
「─兄貴の子どもでね。来年、小学校に入学するんだ」言いながら写メを見せて来た。画面には可愛らしいお下げ髪の女の子が満面の笑みで写っていた。八坂に似た笑顔だった。
「─俺に懐いててね。今日、保育園で描いた絵が先生に褒められたって。ご褒美にケーキが食べたいって─」嬉しげにそう言った。
「可愛いね─本当に」真弓が言うと、
「─うん。可愛い─触れるとどこもかしこも柔らかくて、抱き上げるとミルクみたいな匂いがするんだ─」そう応えてまた優しく笑った。穏やかな懐かしいものが流れ込んでくる様な笑顔だった。
「─温かいね。あなたの笑顔は─いつも─」言い掛けたその言葉の語尾が思わず震えた。
「─今日は、どうしたの─?─恋人と喧嘩でもしたの─?」そっと労わる様な言い方に真弓は思わず泣き顔になると耐え切れず涙を零した。

「へえ、─あなたが鰻の人─?」早紀さんがいきなり明るい声を上げた。
「─はい?」笑みを浮かべたまま八坂が首を傾げると真弓は慌てて早紀に向け唇に右の人差し指を当てながら首を横に振った。
『あのね、これはって人が見つかったら必ず紹介するのよ?得意の直感で見定めてあげるからね?』その言葉を真に受け今晩初めて八坂を伴って訪れたのだった。
「─優しそうな人だね。笑顔が人柄そのものだよ─」マスターがそっとそう耳打ちして来た。じっと観察する様に見ていた早紀は徐に真弓に眼を移すと、にこやかに頷いて見せた。

「─あのさ、お腹すいてない?」店を出、繁華街の雑踏を歩きながら八坂が訊いて来た。
「そうね。─うん。ちょっと─」そう応えると、
「─鰻、なんてどう?何だか分からないけどお店で鰻ってワード聞いてから、急に食べたくなってさ─ちょっとだけ昔の虫が─食いしん坊の─」そう言って苦笑した。

焼き立てで、戦中には疎開させたこともあると言う秘伝のタレとやらを絡ませた鰻は実に美味しかった。
「─この蓋を開ける時のときめきは、食いしん坊にしか分からない」そう言いながら鰻重の蓋を開け、途端に一層の笑顔になった様子を見て真弓も思わず笑った。
真弓は真弓で初めて味わう肝吸いに恐る恐る口をつける様子を笑われた。食べながら、
『鰻くらい馳走でくる男やないと─』そう言っていた亡き祖母の言葉を思い出してまた可笑しかった。

真弓が言い澱んだ男と別れた理由をそれ以上探ろうとはしない八坂の優しさは温かく胸の奥深くに沁み入る様だった。
あの日の後、執拗に理由を迫る男にとうとう堕胎した事実を告げるとそれ切り音信も途絶えた。あまりにも呆気ない幕切れに唖然としたが返って清々しく感じた。
「─そうよね。所詮、繋がってなかったのよあの人とは、糸が─」自嘲ではなくそう呟くと笑みがこぼれた。
古傷をさらけ出した後悔とまた改めて胸に刻み込む贖罪の覚悟はいずれ話さなければならない真実だが、今はただこうして繋いだ掌の温もりに寄りかかっていたかった。
「─あのさ。その─何か、プレゼントしたいんだ。─その二人の記念─その─始まりの記念に─」照れているのかたどたどしい口調で八坂が言った。
いつの間にか街から外れた住宅街にまで歩いて来ていた。小さく灯された街灯の向かいに公園があり、二人はそこのベンチに並んで腰掛けた。
「─その、何かないかな─?」八坂が改まった様子で訊いて来た。緊張しているのか繋いでままの掌が幾分汗ばんでいる様に感じた。少しの間の後、
「あのね。欲しいものがあるの─」真弓が応えた。
「何─?」顔を覗き込む様に八坂がまた訊いて来た。
「枕─。」再び真弓が応えた。
「え、枕─どんな─?」意外そうに言い八坂が眼を向けると、
「─あなたの枕。きっと、毎晩楽しい夢が見られそうだから。そしたらいつも、あなたみたいに優しい笑顔でいられそうだから─」真弓はそう言うと、じっと目を閉じた。暫くの間の後、八坂の少し大きな両掌がおずおずと華奢な真弓の肩を引き寄せた。
二度目の初恋の味は、ちょっとだけ香ばしい匂いがした─。



「鰻の女」(うなぎのひと)後編

「鰻の女」(うなぎのひと)後編

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-23

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