「鰻の女」(うなぎのひと)前編

「鰻の女」前編


「─どした、ん?早く食べないと伸びきっちゃうぜ─?」それが癖なのか若者を気取ったような語尾を跳ね上げる妙なイントネーションで男が言った。
「─あ、─うん─」そう頷いて見回す店内は遅い時間にもかかわらず賑やかで、皆一様に目の前に置かれた丼から立ち上る湯気の向こう側で笑顔を浮かべている。談笑の合間にせわしなく箸を動かしながら麺を実に美味そうに啜りあげるその音を聞きながら、真弓はもう一度目を上げ箸を止め不思議そうにこちらを見つめている男に気づくとやっと曖昧な笑みを返した。無理をして買った純白のプラダのバッグからハンカチを取り出し、これも新調したばかりのシックなダークグレーの色調のダイアンのワンピースの膝の上にそっと掛けた。おもむろに箸置きに指を伸ばすと一膳を取り出し割ってみたが指先に力を入れ過ぎたのか箸は鈍い音を立てて不様なバランスで割れた。
「─ああ、ったく、んだよ。ヘタクソだなあ─」男はそう言って笑うと新しく一膳を引き抜き、
「─ほら、こうやんだよ。いいか─箸を横にすんだろ。そんで下っ側を押さえて─ゆっくり上を引き上げる─ほいッ─」そう言って綺麗な二つに割ると唇を尖らせちょっとだけ目を見開いたひょうきんな表情を向けてきた。返す笑顔が思わず引きつってしまうのは余りにも意に外れたデートに正直愕然としているからだろう。
男は真弓の勤めるカーショップの常連で来店の度の強引な誘いに根負けした形で今日初めてデートに応じたのだった。乗り付けてくる車は旧い型だがいつも綺麗に磨かれたBMWで本人にしても無精ひげもなくジーンズにブラウンのジャケットのコーデも違和感無く清潔感を感じる好感の持てるものだった。迎えに来た車の助手席に乗り込もうとした時ヒールを履いた自分の足元に幾度となく向けてくる視線に首を傾げたが、その時は別段気にも留めなかった。
真弓は間もなく三十路を迎えようとしているが男運の無さに辟易としていた。
容姿で選べば借金だらけでお金に全く余裕のない男だったり優しいと思えばマザコンで頼りのない男だったり、恋に落胆するその度に周囲が次々と華やかな幸せに落ち着く先を見出していく現実に焦りを自覚するようにもなって来ていた。
『─なんでだろうね。ホントに美人なのに、ね』過日招かれた披露宴で自虐的についた言葉を受け隣席の古い友人が真弓の顔をまじまじと見ながら気の毒そうにそう呟いていた。

「─おろ?嫌いなの?ラーメン」男が差し出した割り箸の行き先に困ったようにぶらぶらと手元を泳がせてそう言った。
「─あ、ううん。そんなことない。ごめんね─」真弓はハッとして箸を受け取るとワンピースの手元に汁がはねないよう気をつけながら麺に絡めた。
「─どう?な。─うまいべ?」満面の笑顔を近づけて男が訊いて来た。啜り上げる麺からも汁が飛び跳ねはしないかと自分の胸元を気にしながらそれでもやっと頷くと、
「こんな時間でも混んでるだろ?昼間なんて二軒隣のビルにまで行列が出来るくらいの繁盛店なんだぜ?」男は満足気に小鼻を膨らませ何度も頷いた後また独特の抑揚でそう言うと残りの麺を勢い良く啜り上げ始めた。
一心に箸を口元に手繰り寄せている男を上目遣いで見ながら、
『ねえ、どうして初デートの一軒目がラーメンなの?─ドレスアップもして来たのに─』そう心の中でこぼしてみるのだが男は鼻の頭に汗を浮かべ時折鼻の下を左の人差し指の甲でこする仕草をしながら食のみに集中していた。
確かにショップの長い常連ではあったが髪を切り染めてみたりピアスを変えたり、そんな変化に気づいたりましてや褒めそやされた記憶も全く無い。鈍感と言えばそれまでなのだろうが濃い目にメイクアップして明らかなお洒落を歯牙にもかけない対応はそれを超えて失礼と云うべきではなかろうか─。そう考えると意気消沈し久方ぶりのデートに構えた緊張もときめきも悄然と萎えてしまうのだった。
汚すことを気に病みながら慎重に丼に向かっている間、とうに食べ終わった男は無作法に目の前で爪楊枝を使ったり手持ち無沙汰気に何杯も水を注いでは飲み干していた。
「─ごめんね」漸く食べ終わりルージュが落ちないように口元をハンカチでそっと拭うと、男は間髪要れずに立ち上がり伝票を持ってレジに向かった。
「─780円、ずつだな─」財布から一万円札を抜いて支払いながら男が独り言の様にそう呟いた。つり銭を受け取ると丁寧に札を揃えて数えた後、振り返り俄かに笑みを浮かべた。咄嗟にぎこちなく笑みを返し車に乗り込んだ直後、男が不意に手をかざしてきた。何をされるのかと瞬間身構えたが男はその手をひらひらさせてまた笑みを浮かべ、
「─どうしたの?780円だよ。ラーメン代─」しごく当然の如くそう言った。真弓は一瞬男の眼と対峙したがすぐに顔を俯けると、
「─またぁ─?」うんざりした口調でそう口の中で呟いた。何故だか付き合う殆どが金に縁の無い男ばかりで、たまに羽振りの良さそうな男だと思えば財布の紐が固く驕られても安いランチかコーヒー位が関の山だった。
小さく吐息を吐き財布から千円札を出し渡すと男はつり銭も出さずに今度はジャケットからスマホを出し、やおら真弓に向けてきた。反射的に手で制しようとしたが構わずに連続してシャッターを切ってくる。
「─な、何─?」両掌で顔を隠すようにしてそう言うと、
「─別に。ただの記念だよ。記念撮影」また意味不明な笑みを満面に浮かべ愉快そうにスマホを持ったまま手をひらひらさせた。真弓が怪訝な目をもう一度上げた時、
「─さて、仕上げを満たしに行こうか」笑みを崩さずにそう言った。咄嗟に意味が解らず首を傾げると、
「ホテルだよ。肌を合わせないとさ、分かんないんだよ。男と女のホントの相性なんて」そう言うと今度は目線を真弓の足元に落として、
「─綺麗な脚してるよね。実は俺、足フェチなんだ─あのさ、もしかしてペディキュアとかしてる?後でいいから、じっくり見せて─」俄かに低く吐き出す声に荒い息遣いが混じっていた。同時に仄暗い明かりの中でその眼線がねっとりと絡みつく様に感じた。おぞましい感覚に思わず眉を顰めると、
「─ねえ、どんなのがいいの?」また不気味な声が耳に響いた。言葉の意味に検討もつかずまた黙っていると、
「体位だよ、体位─俺はさぁ─」男がそこまで言い掛けた次の瞬間、真弓の右掌が男の頬を叩いた。
ドアを開け無言でそのまま外に飛び出すと慌てた様に男の声が背中を追ってきたが振り返らずに足早にその場を立ち去った。
「─今度は、どケチの変態かあ─」近くの駅に向かいながら折りしも降り出した小雨に夜空を見上げ、一つ溜息を吐き呆れた風に自嘲しそう呟いてみた。細かい雨粒が睫に当たった時不意に哀しい気持ちが迫りあげると涙が溢れ出てきた。真弓はそれをぐっと堪え立ち止まるとふと踵を返して夜半の繁華街に向かって歩き出した。

 「ツルゲーネフ」は繁華街の外れにあるが地元では老舗のショットバーで、四十過ぎくらいだろうか落ち着いた風貌のマスターと揃っている豊富な種類の酒が好まれ幅広い年齢層の常連客が定着している。オールワンコイン500円の価格設定と先払いのシステムも面白く真弓も行きつけにしていた。マスターはカナダのログキャビンに憧れていてヘムロックの部材を仕入れたり実際に行動に起こしてるらしかった。
『─一度切りの人生だからね。どうせ男なんて夢追い人なんだからさ』少し酔うと饒舌になりポアラーからバーボンウィスキーを自分のグラスに注ぎながら笑みを浮かべ口癖の様にそう言っていた。
穏やかだが誰に諂うことも媚びることもしない。バーテン上がりだと云うが長い年月で培われたであろうプロ意識を感じさせるマスターが気に入っていた。奥にテーブル席が二つあり後は木調のカウンターだけのこじんまりした店で、禁煙を徹底している。
「─煙草を吸いたければスモーキーフレーバーの酒を飲めばいい」いつだったか店内禁煙の不満を漏らした酩酊客を窘める様にそう言っていた。
 濡れた髪とメイクを気にしながら木製の大きな扉を開けると、その造作に似合った大きなカウベルが乾いた音を立てた。
週中で雨模様であることもあってかテーブル席にカップルがいるだけで珍しく店内は空いていた。
「─遅い時間だね、今日は」グラスを拭きながらマスターが眼を上げた。店に掛けられているアンティークな柱時計は11時を既に回っていた。
「─うん」短くそう応えるとマスターがカウンターの下を覗き込むようにしてタオルを差し出してきた。
「─ありがと」そう言い差し出したその手に触れた瞬間、また涙が溢れそうになった。真弓は慌ててタオルを受け取ると濡れそぼった髪を拭きながらそっと涙をぬぐった。

「─浮かない顔してるね」オーダーしたファッジネーブルのグラスの縁にレモンピールを挟みながら銀縁の眼鏡の奥の穏やかな眼差しを上げてマスターが口を開いた。落ち着いた優しいいつもの物言いが糸口を導いてくれたみたいで、真弓は少しだけカウンターに身を乗り出すとつい先刻の出来事をぽつりぽつり話し始めた。話しながら次第に感情が昂ぶり思わず声が上擦りそうになったが店内に流れているジャズのスウィングが都合よくその声をかき消してくれた。一々頷きながら終いまで話を聞き終えた少しの間の後、
「─価値の無い男だね。男にも色んな人種がいる。早く記憶から消しちゃいな」静かに、だがきっぱりとしたその台詞に漸く笑みを浮かべることが出来た。その表情に安堵した様にマスターは笑みを返すと、背を向けて狭い厨房に入って行った。
「─このカクテルに合うつまみよ。シュリンプサラダ。オリジナルのドレッシング、また後でレシピ上げるね」間もなく、にこやかにエプロン姿の早紀さんが華やかな笑顔で料理皿を手に現れた。こだわりだと云う趣のあるアカシアの木皿に収まりよく乗せられた見映えのする料理だ。料理は早紀さんが拵えている。彼女は元看護師で数年前に大病を患い入院していたマスターを担当していた。単身で上京し、その直後に事故で両親を亡くしてしまい他に肉親も縁者もない身の上を知り何かと関わっている内に情が移ったんだ、と笑っていたが実情は端正で彫りの深い日本人離れした容姿にも惹かれたのだろう、と真弓は確信している。伸ばしかけだという髭が整えば自分も大のファンであるマルコ・ボッチにも似ていると思う。時折、マティーニグラスを挟んであたかも憂いのある感でカウンター越しを窺い見ながらぽつねんと掛けている女性たちは紛れもなくマスターに慕情を抱いているのだろう。かく言う当人も実はその一人だったのだが、今は妻である早紀さんに魅了されていた。
「─わあ!美味しそう!」真弓が顔を輝かせてそう言うと、
「柑橘系のお酒には、サラダが良く合うのよ。ドレスアップしたまゆちゃんにも似合ってるわよ─聞こえたよ。情けの無い男ねえ、そいつ。今度あんたの店に来たら、かましてやんのよ?いい?女だって舐められたらお終いなんだから─」早紀さんは憤懣やるかたない、と云った風に色白の美しい顔の目を吊り上げ鼻の穴を膨らませると徐に皿を差し出した。
「─うん。ありがと。そうする」そう応えると俄かに件の男の愚にもつかぬ動向におかしみが込み上げ、思わず小さく吹き出した。
美味しいサラダをつまみに心地良いBGとほろ酔いに揺れていると先刻の不快も自然に癒えてゆく様だった。スタンダードのナンバーが切り替わろうとした時、柱時計が乾いた音を二つ叩いた。
「─明日、仕事だろう?そろそろ帰って、休まないと」グラスを磨きながらマスターが言った。
「─うん」真弓は応えたが席を立とうとはしなかった。また感傷的な気分が頭をもたげて来ていた。
「─ねえ、マスター?」空のカクテルグラスの縁を人差し指の先でなぞりながら真弓が酔眼を上げた。マスターの目線と向き合うと少しの間の後、
「─どうして理不尽なの?」吐き出すようにそう言った。
「何がだい─?」柔和な笑みを浮かべグラスを拭く手を止めマスターが応えた。
「─みんなが幸せになってくのに、何で─どうして、─わたしだけ」不意に声が詰まるとまた涙がこぼれかけた。
「─糸の話、知ってるだろう?」カウンター越しにゆっくり向き合った後、自分の小指を立て笑みを崩さずにマスターが言った。徐に頷くと、
「本当に繋がってるのは、一人だけなんだ」そう言った。
「─何十億分の一。その中の本当に一人だけが君と繋がっていて、たった今、君の糸を辿り始めてる。─いいかい、目を閉じて─?」その言葉の通り目を瞑ると、
「─想像してごらん?─その人はどこにいるんだろう─。今、何をしてるんだろう─。優しい人だといいな─。どこで自分を見つけ、どうやって出逢うんだろう─」そう続けた。
目を閉じると店内に流れている「ラウンドミッドナイト」のスタンダードに混じってその言葉に引き込まれるように瞑想の中でふと誰かの存在を感じた気がした。
「─ありがとう。マスター─」目を開け何故か紅潮した頬を両掌で隠すようにし、吐息を吐く様に礼を言った。
「感じただろう?確かにいるんだ」右の人差し指の甲で眼鏡を上げ改めた笑みを浮かべてマスターが言った。
「なあに?何また気障なこと言ってんのよ─」奥からエプロンで手を拭きながら早紀さんがまたにこやかに現れた。
「ホントにこの人は気障ったらしいんだから」にやけ顔を向けて言うと、
「─んっとに何だよ。せっかく取って置きの魔法でまゆちゃんを慰めてたのに」唇を尖らせてマスターが応じた。その様子が可笑しくて真弓が笑うと二人も顔を見合わせて笑った。
「─あ、はい。今日のサラダのレシピよ。コツはドレッシングよ。キャンティドレッシング。それのレシピも書いといたから。お料理好きのまゆちゃんなら、簡単に出来るわ。あ、あと混ぜ合わせの時は軽く、ふわっとね」そう言って大き目のメモ紙を差し出して来た。
「わあ、ありがと。早速作ってみる─」顔を綻ばせて丁寧にメモを畳みバッグにしまう真弓に向かって、
「─あのね。まだまだ若いのよ?あなた、ホントに綺麗だし魅力あるんだもの。もっともっとたくさん恋をしないと。あたしもこの人も、たくさん経験して、傷ついて傷つけて来たの─この人の言うとおり、どこかに必ず縁は結ばれてるの。━あたしも昔痛い目に遭ってね、ずっと男なんて信じてもなかった。でも、出逢えたの─この人も同じであたしと付き合い始めるまで、六年以上も前の女の影引きずってたんだから、ね?」そう言いマスターに目を向けると俄かに何かを思い出した様で可笑しさに耐え切れぬ風に綺麗な紅色の口元を右手の甲で隠し、笑い声を押し殺す様に華奢な肩を揺らした。
「─どんな理想なの?まゆちゃんは」早紀さんの投げかけをかわすように少しだけ笑顔を引きつらせてマスターが目を向けた。その時不意に、
『─何だえ─?逢引きに鰻一つもご馳走してくれんかったんか?そないな男はあかん。ウチのじいちゃんみたいに、身銭吐き出したかて美味いもん食わしてくれる男やないと─』昨春、亡くなった祖母の言葉が記憶に蘇った。
真弓が二十歳を過ぎた頃、放蕩三昧だった父親は入り浸っていた水商売の女の元から帰ってこなくなり夫婦はやがて離婚した。その後間もなく生活を思案した結果母は小料理屋を経営する選択をし、その資金を肩代わりしてもらうと言う条件で祖父母と同居することになった。店の仕込を含め当初独りで全てをこなさなければならない母親の代わりに真弓が家事の殆どを担うようになり、以前は大きな工場で寮の賄いも経験したと云う祖母に教わりながら自然と料理好きになっていった。
「─家でこさえるもんは、安いもんで節約してな。けど逢引きん時はうんと贅沢するんやで。奮発して、ご馳走のできる男でないとあかん。鰻くらい馳走できる男でないとな。死んだじいちゃんはな、どないな無理したかて逢引きん時はご馳走してくれた─」そう笑みを浮かべ懐古の目を細めて良く話していた。

「─鰻」真弓がポツリと言った。少しの間の後、
「え─?」マスターがきょとんとした目を向けてきた。
「あのね、─鰻をご馳走してくれる人─」そう繰り返し酔眼を見上げた。
 
席を立ち財布をしまい掛けた時、スマホが着電のシグナルを点滅させているのに気づいた。確かめると先刻の男からだった。続け様に幾度も掛け直して来ている様子だった。留守電にもメッセージが入っていたが聞かずに削除すると直ぐに番号も着信拒否した。ついでにラインをチェックしかけた時、画面に白枠で表示が入った。『あなたとお話ししたい男性が待っています─』女性は無料だと云うことで先般加入したマッチングの運営サイトからだった。何故かまた鬱屈した気分が頭をもたげて来ると内容を確かめもせずまたバッグにしまい込んだ。

『─あなたを待っている男性からのご連絡です』そう再三入るメッセージをやっと確認したのは数日経ってからだった。加入したサイトは真剣に恋人や婚活に臨む男女を募集していて口コミや評価も高く特に男性が加入の際の審査がきちんとしていて安全だとされていた。
昼の休憩時間、お気に入りのプーさんの絵柄のティーカップのお茶を啜りながら入っていた数件のメッセージと写真を見ている内に一人の男のプロフに目が止まった。
同じ歳で登録の住まいも駅二つしか離れていない。決してハンサムな顔立ちではないが屈託なく見える笑顔が印象的だった。他の男は皆一様にこなれた感じのポージングで映りこんでいたが彼だけはどこか朴訥な雰囲気でその笑顔に引き込まれるように真弓も思わず写真に向かって笑みをこぼした。

長身で細身の男は駅前の噴水の前に立っていて真弓の姿を認めると写真と同じ笑顔で深々と一礼した。
「初めまして。八坂です─」初めて聞く声のトーンは思いの外落ち着いていて、笑顔はやはり嫌味を感じさせないものだった。
「─あの、当てて見ましょうか─?ディズニーのキャラがお好きですよね─?」昼の休憩時間が過ぎたからだろうか、割と空いているカフェの店内で向き合い暫く談笑した後男がにこやかに口を開いた。
平日が休みの真弓と男も休日が重なっていて初めてのデートの日に申し合わせていた。
「─え─あ、はい」何か類推できる物でも身につけているのか思わず身の周りを見回しながら曖昧に頷くと、
「─プーさん、だよね?」笑みを崩さずに男が言った。小学生の頃から大好きなキャラクターで今でも新しいグッズを集めては大切にコレクションしている。
「─え」きょとん、と改めて驚いた目を向けると、男は耐えかねた風に声を押し殺し肩を小刻みに震わせ始めた。首を傾げ訝しげに見つめると、
「─憶えてないよなぁ、やっぱり」そう言って小さく息を吐くと少しだけ真顔になり、
「六年の時に同じクラスだった八坂だよ。八坂 一─。漢字の一を書くから、いち、って呼ばれてた─」そう続けるとまた笑顔を戻した。円らな目を上にあげ少しの間思考を巡らせた後、
「─あ─?」見開いた眼差しを向けた。だが記憶にある男の面影はクラス一の肥満体型で男の癖に声が高く頻繁にイジりの対象にされ、ぴちぴちの半ズボンを履いた少年だ。どうしてもイメージが重ならない。暫くの間の後、
「─あの、─ホントに─?」驚きが収まらず半ば茫然と男を指差していた。
「思い出してくれた?」男が再び笑顔を向けた。にこやかなその表情を改めて見つめながら、漸く遠い昔にからかわれては笑っていたその口元の記憶に思い当たった。

「─いくつ─?」シュガーポットに指を伸ばして八坂が訊いて来た。少しの間の後、
「え─やだ、同い歳じゃない─」そう応えると、今度は声を立てて笑い出し、
「─違うよ。ダージリンティに入れる砂糖の数だよ。二つでいい─?」ポットに触れた指先までを震わせてもう一度そう訊いて来た。
「あ─やだぁ─もう─」真弓は真っ赤に頬を染めて俯いた。俯き苦笑しながら目の前の同窓生の変貌振りに改めて驚きを隠せないでいた。
「─男の人って、変わっちゃうのね。随分」正直な感想だった。
「─痩せたからね。随分食いしん坊、我慢してさ。─背は高校に入学してから自然に伸びた」八坂がまた笑った。
俄かに懐かしい感情が湧き上がると真弓は久方ぶりに自然に微笑みを返した。
「びっくりしたんだぜ?その─あまりにも変わってなくてさ。プロフの写真見た時、一瞬で判った。君だって─」手元の自分のカップにミルクを入れながら八坂が言った。
「─歳、取ったわ─」小さく息を吐いてそう応えると、
「綺麗なままだよ。あの頃と変わらない─まさか、またこうして話せるなんて─」目を手元に落としてそう言葉を重ねて暫らくの間の後、
「─中一の夏休み前、憶えてる─?」俄かに口籠る様にそう訊いて来た。
「中一の─あ、─」間もなく思い当たった。7月24日─自分の誕生日の事だった。一学期の終業式と重なったその日、誕生日のプレゼントを渡すため昇降口で待ってくれていたのだった。友達も一緒にいたため恥ずかしくて礼も言わなかった。八坂は頬を赤らめ黙って赤いリボンのついた包みを差し出すと足早に走り去って行った。家に帰り包みを解いてみると中には蜂蜜の壷を抱いたプーさんの可愛らしいぬいぐるみと、一本のカセットテープが入っていた。デッキで再生してみると当時流行っていたウルフルズの「明日があるさ」がたどたどしいギターの音と野太い歌声で録音されていた。メッセージは入っていなかった。
新学期になるとどうした訳か学校で彼の姿を見ることはなくなり男と同級の女子に聞いてみると夏休みの間に別の町に転校したのだと聞かされた。

「─デブで不細工はイヤだって言ってたって─。ショックでさ─俺。それから頑張って減量したんだ。ま、顔だけは何ともなんないけど、さ─」そう言って苦笑した。
「─え?わたし、そんなこと言ってないよ?誰に聞いたの─?」そう応えた時、テーブルに置いたスマホが震えた。

以下、後編に続く─

「鰻の女」(うなぎのひと)前編

「鰻の女」(うなぎのひと)前編

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-22

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