猫捨て奇憚

「人は誰もが飼っているのですよ」
 男は唐突に語り始めた。
「私も貴方も、うちには猫を飼っているのですよ」
 僕はわけが分からず、男に尋ねた。
「猫ですか? 確かに家に猫はいます」
 男は答える。
「そうでしたか。御自宅で猫を。私が言ってるのは、内面にということです」
男は続けた。
「その、私が生まれたときから飼い続けてきた猫と、先日お別れをしましてね。いや、もっと辛いものかと思いましたが、案外何の感傷もなく、すんなり別れられまして。今はいなくなって、すこぶる気分が良いのですよ」
 僕は男の言っていることが、まったく理解できずにいた。
 結局男は、「いや、実に気分がいい。本当に解放されて、自由になったようだ」との言葉を残し、その場をあとにした。




 私は酷く疲れていた。有り体に言ってしまえば人生にとなるのだろうが、深く掘り下げようと言葉を探してもみつからない。生き方、考え方、浮かんでくる言葉は全て人生に帰結する。 ただでさえ疲れているのに、そんなことを考えてしまうものだから、余計疲れに拍車をかける。悪循環に苛まされながらも、考えることをやめられない。不毛。そう、不毛なのだ。私だけなのだろうか。こんなに生き難いのは。言いたいことも言えず、顔色を伺い怯えながら暮らす。私だけなのだろうか。世の人々の身体を裂いて覗いてみたい。貴方方は生き易いのですか? 底の見えない暗い井戸に吸い込まれるように、私は考えることを強いられる。

 ある日私はバスを待っていた。家内の待つ家に帰るのが、酷く面倒な心持ちで。仕事の疲れを癒す場所だったはずなのに、いつからかそこは無防備で居られる場所ではなくなってしまった。
「帰りたくない」そんなストレートな言葉を呟く程に。
 出てくる溜息を数えるのも億劫になったその時、猫の鳴き声が微かに聞こえてきた。私は辺りを見回したが、猫の姿など何処にも見当たらない。バスを待つのは私一人。鳴き声を真似る者もいないだろうに。ふとそこで初めて気がついた。何時ものこの時間なら、帰路につく人々で列を作っているはずのバス停には私一人。見馴れたはずのこの場所も、何か違う世界のように感じられる。自分の目で見ているというよりは、まるで鏡に移ったものを間接的に見ているような。在るのに虚ろげな世界。
自分の存在も虚ろげに感じる。
 私は急に不安になり、もう一度辺りを見回した。すると今度はハッキリと猫の鳴き声が聞こえてきた。
「にゃあ」
 声を探すも、何処にも猫など見当たらない。私はこの場を離れようと歩き出そうとした。一刻も早く離れなければ。悪寒が私を催促する。
「バスはまだ来ませんね」
 いきなりの声に、私は身を強張らせた。
 いつから居たのか、私の側に女が立っていた。声も出せず、動くことも出来ない私に、その女は優しく微笑みをくれた。
 黒く長い髪をストレートに垂らし、それに覆われた顔は、対比のせいか、余りにも白かった。綺麗にも見えるし、そうでなくも見える。捉え所がない。幽玄。そんな言葉が似合う。
 私はやっとのことで声を絞りだした。
「い、いつからそこに」
「ずっと居ましたよ」
「そ、そんなはずは……」
 女はそんなことはどうでもいいという風に私に語りかけてくる。
「何だか、大分お悩みのご様子。如何なさいました? あ、いえ、いえ、言わずとも分かりますよ。貴方のことはずっと見ておりましたから」
 私は女の声にのまれていくのを感じた。最早、何故女が急に現れたのかはどうでもよくなる程に。声が私を侵食していく。一語一語がゆっくりと身体に染み込み、私の存在が、まるで女の声で構築されているような感覚に陥る。
「生き難いのですね。生まれて物心がついた時には、もう貴方はそう感じていたのですね。貴方の葛藤は分かりますわ。自分だけなのか? 他人の笑い顔を見るだけでも、そんな感情が渦巻いたことでしょうね。でも、貴方だけではないのですよ。誰しも大なり小なり生き難いのですよ。それに折り合いをつけて暮らしているに過ぎないのですよ。だだ、貴方はそれが上手く出来ないだけなのです」
 私は黙って頷いていた。思考が緩慢になり、頭の中を女の言葉が形を変えながら埋めていく。そう、まるで万華鏡のようだ。在る物が無限とも思われる程に形を変えていく。女の言葉の連なりは、重なり合う度に形を変え、まるで捉え所がないようだが、確かに在った。
「人はね、誰しも猫を飼っているのですよ。もちろん貴方も飼っているのですよ。ほら、そこに見えませんか?」
「にゃあ」
 またしてもハッキリと聞こる鳴き声に、私はその存在を見つけようとしたが、かなわない。
「ほら、足元を御覧になって」
 女に促され、私は顔を下に向ける。そこには黒く痩せ干そった猫がいた。
 目が合った猫は、私の右足にすり寄ってきた。猫など一度も飼ったことがなかったが、何故かずっと一緒に暮らしてきたように思われた。
「さあ、抱いてあげてくださいな」
 私は女に言われるままに、抱き上げた。嫌がる素振りもなく、私の腕におさまり、ゴロゴロと喉を鳴らした。愛らしい。私は自然と頭をそっと撫でていた。
「この猫を私はずっと飼っていたのですか?」
「そうですわ。その猫は、貴方が生まれた時から飼っているのですよ」
「でも、今まで見たこともありません。いったい何処に」
 女はゆっくりと答えた。
「貴方のうちにいたのですよ」
「うち? 家には今まで猫など居たことがないのですが」
「うちとは、貴方の内面にということですよ。ずっと棲みついていたのですわ」
 私はまじまじと猫を見た。黒い毛並みは艶が悪く、痩せ細り、目やにも浮いている。その辺で見かける野良猫より貧相だ。
 女は私の心を読んだように言う。
「御覧になってお分かりかとは思いますが、随分と貧相な猫でしょう? その猫は病んでいるのですよ。かわいそうではありませんか?」
「はい。知らずに飼っていたとはいえ、余りにもかわいそうです。私に出来るなら何とかしてあげたいのですが」
 私は素直にそう思った。どのように暮らしていたのかは分からないが、私に関わってのこの有り様なら、責任は感じてしまう。
「この猫は貴方の精神と一緒なのですよ。貴方の心持ちで如何様にも変わるのです。でも、長年の蓄積で、もう手遅れなのです。このまま貴方と一緒にいても、どんどん悪くなる一方なのです。それは貴方も同じです。この猫と一緒にいると、貴方は益々生き難くなるでしょう」
 私はごくりと唾を飲み込み、女に尋ねた。
「では、どうすれば良いのですか?」
 女はさらりと答えた。
「捨ててしまえば良いのですよ。それで全てが解決しますから」
「こんなに弱った猫を捨てるなど、私にはできません」
「大丈夫ですわ。案外何の感慨もなくお別れ出来ますから」
「しかし、この猫はどうやって生きていくのですか」
「それも心配ありませんわ。貴方が元気になられたら、猫も元気な姿で帰ってきますから」
 女は妖しく促す。
「さあ、早く捨てておしまいなさいな」
 私は逆らうことが出来なかった。女の言葉に支配されるように、猫を下ろしていた。そして、見上げる猫に淡々と言う。
「お別れだ。何処にでも行きなさい」
 猫は暫く私をじっと見ていたが、「にゃあ」と一声残し、何処かへと走り去っていった。
 女の言う通り、それを見ても私には何の感慨もわかなかった。先程まで、あんなにかわいそうだと思っていたのに。むしろ解放感すら覚える。
「あの……」
話しかけようとしたが、女の姿は何処にもなかった。いつものバス停に私一人だった。
 虚ろげな世界が実に変わったような気がした。
私の鬱屈とした靄も消え去り、見えているものや思考が、はっきりとした輪郭を帯びてくるかのようだ。
バスのエンジンの音が近づいてくるのを耳にしながら、私はそう思った。


 あの日以来、私は変わった。人の顔色を伺うこともなく、言いたいことも言えるように。
 家内が一番驚いていたのかもしれない。結婚して十五年になるが、恋だの愛だのがあったわけではなく、ささやかだが安定した私の仕事に魅力を感じ、一緒になったのだろう。だから家内は私に興味など一欠片も持ち得ていなかった。私も私で恋愛経験もなく、このまま独身かと思っていたが、世間体も考えて登録した相談所で家内と出会い、そのまま結婚に至った。互いの思惑が一致しただけだったのだ。だから、結婚生活も当初は上手くいっていた。仲睦まじくということではなく、干渉がないという意味で。だが、それも時が経つに連れて崩れていった。始めは小さな小言から始まり、段々に存在すら邪険にされるようになっていった。やれ男らしくない、すぐに顔色を伺う、自分の意見がない、あまつさえ稼ぎが少ないと、散々な言われようであった。
「結婚して失敗したわ」とは口癖になっていた。
 こうして私は居場所を無くした。そこに居ることはできるが、無防備な状態では居られない。帰りたくないが、他に行き場所もない。いや、作ることも出来なかった。
 これは別に家に関したことだけではない。勤務先でもそうだった。言われたことしか出来ない、ことなかれ主義以下、居ても居なくても一緒、何を考えてるか分からない、何処に居ても言われることは同じだった。
 それがあの日から一変した。家内の謂われのない小言には反論し、それが男らしく映るらしく、私に甘えるまでになった。
 勤務先でも自発的に仕事に取り組めるようになり、遅まきながらも評価が上がっていった。
全ては猫を捨てたおかげだった。
 私はその後も勢いを殺すことなく、今までの人生を取り戻すかのごとく、自我を解放し続けた。私は酔いしれていた。こんなにも生きるとは易いことなのだと感じて。
 しかし、それもある時から綻び始めた。家内も含め、変わった私を受け入れてくれてると思っていたが、徐々に周りが遠ざかり始めた。家内の目には怯えが走り、勤務先でも、仕事が出来ると認められ、それによって付いてきていた同僚や部下も距離を置くようになっていた。  それでも私は気にすることなく謳歌していた。何事にも縛られることのない、まるで王にでもなった気分だった。
 そして私は孤独になった。
家内は家を出て行き、勤務先でも孤立し、扱い辛いと、まるで独居房のような部所に配置変えを言い渡された。
 私はまた生き難さを感じていた。
猫を捨てる以前よりもはるかに。


 私はバス停に一人佇んでいた。
ちょうどあの日のように。また辺りが虚ろげに変わり始めた。そして、時折獣のような低く唸る声が聞こえてきた。
「バスはまだ来ませんね」
あの時と同じだった。
 私はゆっくりと振り向くと、あの時の女が立っていた。何も変わらぬ幽玄な雰囲気を纏って。
「何となく会える気がしていました」
私は力なく女に言った。
「あら、嬉しいですわ。私もそろそろかと思っておりましたから」
女の言葉が、また染み込んでくる。
 私は女に、前以上に生き難くなりましたと伝えた。猫を捨てて、生まれ変わったと思っていたが、前よりも生き難くなったと。
 女は私の話を笑みを浮かべて聞いているようだった。どこか楽しげですらあるような。
 私は尋ねた。
「猫が帰ってくると言っていましたが、帰って来たら元に戻れるのでしょうか? こんなことなら捨てなければ良かった」
 女は今度はハッキリとフフっと笑い、私に言った。
「もう帰って来てますよ。ほら、聞こえませんか? 鳴き声が」
 低い唸り声がまた聞こえる。さっきより近くに。
「さあ、後ろを見てください。立派になって帰ってきたあの子を見てやってくださいな」
 私は振り返った。
そこには、眼光鋭く、舌舐めずりをする、大きな虎の姿があった。動物園の冊越しに見るようなものではなく、同じ虎とは思えないような狂暴さをはらんだ。そう。剥き出しの野生がそこに。
 私は、ひっ! と悲鳴あげて尻をついた。
 虎がゆっくりと近づいてくる。一歩踏み出す足の大きさに、私は恐怖を覚える。
「どうぞ撫でてやってくださいな。貴方のために立派になって帰ってきたこの子を」
「な、な、何で虎が!? 猫ではないのですか!?」
「前に話しましたよね。貴方の心持ちで如何様にも変わると。 まさか私も虎になるとは思いませんでしたけど」
「私は虎など求めてません!」
「いいえ。貴方が望んだことなのですよ」
「嘘だ! 私は望んでなんかいない!」
 女は憐れむように私を見て言った。
「かわいそうに。望んで得た結果が、余りにも大き過ぎて受け入れられないのですね。貴方は最初、以前よりも生き易くなったと感じたはずです。そして何でも言える、遠慮することのない自分に酔いしれたことでしょう。でも周りが離れていき、生き難さを感じた。前以上に。でも、それは当たり前なのですよ。虎は王なのですから。そして王とは力を得る代わりに孤立するのが世の常。なんら不思議なことはないのですよ。もう一度言いますね。貴方が望んだことなのですよ」
 女の語る声が言葉が私を埋めていく。
そうか。私が望んだことだったのか……。
 私は、獣臭い息を吐く虎を見た。良く見れば気品すら漂うその姿に気づく。艶やかな毛並みに、王たるに相応しい体躯。これが私の内に潜む虎。
 私は立ち上がり、女を見て言った。
「私にはこの虎を飼い慣らすことは出来ません。お願いです。猫を返してください」
 女は溜息をつき、私に言う。
「そうですか。それは残念ですわね。もうちょっと飼ってみればとは思いますが。では、また捨ててくださいな」
 私は虎に近づき、そっと頭に手を置いた。
「すまない。私には飼うことが出来ないんだ。さあ、何処にでも行きなさい」
「ガルルゥ」
 一吠えして虎は優美に走り去っていった。
「さて、今度は何が帰ってくることやら」
 女の方を見て答えようとしたが、そこにはもう姿はなかった。
 虚ろな時間は終わりを告げた。




 僕はいつぞやの男にまた会った。
以前よりも覇気がないようだが、気のせいなのか?
 男は僕に語り始めた。
「まだ確証はないのですが、猫が戻ってきたようなのです。一時は虎になって大変でしたが、今度はきっと猫であると思うのですよ。まあ、以前と同じ猫かどうかは定かではありませんがね」
 別れた猫の話は聞いたが、戻ってきた猫やら、虎やら、僕には話が全くみえなかった。
「器に合ったものが一番ですね。無理に大きくするよりも、例え小さくても、ちゃんと使いこなせる方が良い。大きくするのはその後でも遅くない」
「先ずは、しっかり飼ってあげることですかね」
 男はそう言い残して立ち去った。
 結局、僕は男の言っていることが理解出来なかったが、以前より落ち着きがあり、そして何か悟ったような雰囲気を醸し出している、そんな後ろ姿に向けて言った。
「なんか分からないですけど、今の方が良いですよ」
 もちろん、男には聞こえていないだろうが。

猫捨て奇憚

猫捨て奇憚

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-22

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