ピーセス,インスモール

モノ カキコ

  1. 2201/7/21/15:23 棗
  2. 2201/7/21/16:52 楠木修治
  3. 2201/7/21/23:49 ケルスティン
  4. 2201/7/22/14:46 棗
  5. 2201/7/24/10:31 ケルスティン
  6. 2201/7/24/10:31 棗
  7. 2201/7/24/10:38 棗
  8. 2201/7/24/12:26 棗
  9. 2201/7/24/20:54 棗
  10. 2201/7/25/07:19 棗
  11. 2201/7/25/08:40 棗
  12. 2201/7/25/08:49 棗
  13. 2201/7/27/23:29 棗

2201/7/21/15:23 棗

天に掛かる綺羅星は薄織の如くに




誰かが呼んだ気がした。ひどくか細い──男なのか女なのか、子供なのか大人なのかさえも分からないような(おぼ)ろさで。


わたしは振り返る。
真っ白な昼下がり。
白飛びしたスクリーンみたいな陽の光が痛くて思わず目を細めたけれど、残光はまぶたの裏に強烈に残って絡まった。もう一度草陰の間にまで目を凝らして見回したときには、すでに人らしき姿は確認出来なかった。
──気のせい。
思わずため息が漏れる。こんな場所に人なんかいるわけが無いのだ。
いまどき徒歩で外出する者など殆どいない。それにこの日射し、この気温である。生身で散歩なんてする変わり者──もとい問題児はわたしくらいのものだろう。
不意にふわふわと軽いめまいを感じたわたしはその場に(しゃが)み込んだ。それだけで子どもで小柄なわたしの姿は雑多にはびこる植物にすっぽりと覆い隠されてしまう。夏は、人間には厳しいけれど植物には嬉しい季節らしい。ここに来ればそれが良く分かる。この、区画の端にある余ったスペースは今や植物で余すことなく埋まっていて、その密度は先月よりも濃く、丈は二倍にもなっている。
誰もいない。本当のひとり。
ここに何があるでもないし、何をするでもないけれど、気が済むまでこの場所で周りの景色を眺めている。素朴で自由に伸びる緑の草たちは、なぜだかわたしの気持ちを落ち着かせてくれた。蹲み込んだそのまま目を瞑って、音を聴く。文字で表記できない葉擦れの音や正体不明の虫の声。柔らかい地面。ときおり動く熱風。そして、わたしの心臓の音。
──あれは雑草だよ。
いつだったか、ここの植物のことを保護職員の誰かはそう評した。その言い方は、まるでそれが正規の植物ではないというような口振りだった。
──雑草と、そこの鉢植えはどう違うんですか。
わたしはそう返したと思う。別に反抗的な気持ちからではない。純粋に分からなかったからそう返した。相手はなんと答えたのだったか。その先のやり取りを覚えていないことからすると、きっとあのとき答えは得られなかったのだろう。大人の基準は難しい。難しいけれど、わたしはそれを覚えなくてはならない。それを信じて、守らなければならない。

目立たないように元来た道を辿りながら、こんなに暑いのならば帽子を被ってくれば良かったな、と思う。太陽は灼けつくように熱い。その光線は攻撃と思えるほどの強さでわたしの皮膚を刺してくる。それに、シューズがかなり汚れてしまった。屋内と屋外では汚れ方が随分と違う。わたしはルームシューズのまま外に出て来てしまっていた。
右に進んで、しばらく直進して、三つ目の分岐点を左に折れる。網目のように細かく張り巡らされた道をどう進めばどこに突き当たるか、わたしはもうすっかり把握している。街路樹の種類や家の素材まで指定されている住宅区画の景観なんてどこも似たり寄ったりだし、たぶん普段オートモビリティで移動しているここの住民よりずっと詳しいはずだ。しばらく歩くと工業用の道路とぶつかる。一般道路とは明らかに分けられているのだけれど、私はフェンスの隙間を抜けて中に紛れ、その端を歩く。(かたわら)を猛スピードで走り去る業務車両が爽快で、つい近くまで行きたいと思ってしまうのだった。
わたしは保護職員の目を盗んでは時時こうやってこっそり散歩をする。
今まで知らなかった道を知っている道にしていく作業は、愉しい。自分がどういう環境に住んでいるのか把握して、まだ見ぬ世界に触れるのはわたしにとって最もわくわくする体験だった。



(なつめ)さん! 」
センターに戻るなり待ち構えていた日菜子(ひなこ)さんに捕まってしまい、わたしは早速窮屈な思いをすることとなった。
わたしの担当保護員である日菜子さんは背が高いので、眉間に皺を寄せて正面から仁王立ちされるとかなり迫力がある。そのポーズのまま腕組みした彼女は目だけでわたしを見下ろした。
「私、ずっと言ってるよね、無断外出しないでねって。体に悪いし危険だよって。今月だけで何回目 」
完璧にカールした髪を搔き上げる。この空気は何度経験しても慣れない。
「ごめんなさい」
「“ごめんなさい”って」
彼女は苛苛(いらいら)とため息を漏らす。
「この前もその前もそう言ったよね」
日菜子さんはわたしの目を見ない。ただ漠然と、わたしのユニフォームのセーラーカラーのあたりに目を落としている。あなたのせいでみんなが迷惑してるの──という言葉を日菜子さんは言いかけて、飲み込んだ。職員の個人的な思想は子ども達に押し付けてはいけない規約になっている。
「わたし間違ったこと言ってるかな」
「言ってません」
「誰のために言ってるのか分かってるかな」
「わたしのためです」
大人の言うことはいつだって正しい。そうだよね、日菜子さんは何かを抑えつけたような声音でゆっくり言い含めた。
「棗さんのために言ってるの。勝手にどっか行って、その先で倒れたりしても誰にも助けてもらえないんだから。口ばっかりじゃなくて、本当にもう止めてもらわないと」
日菜子さんはそこでようやくわたしのぼろぼろのシューズに気がつき、また新しいのに替えなきゃならないじゃない──と何度目かのため息をついた。

──あなたのわがままにみんな迷惑してるの。
知ってる。
そしてまた、日菜子さんが本当に心配しているのはわたしではなくて自分の立場なのだということも、知っている。だって、未成年保護法がさらに強化されたのはつい先月のことだし、担当未成年に何かあったら責任を問われるのは日菜子さんなのだ。
──仕様がないよ。
面倒だと思われてしまっても──心の中でそう繰り返す。他の子がちゃんと守れている決まりを、わたしだけが性懲りも無く破っていた。本来自分とはなんの繋がりもない、迷惑行動を繰り返す子どもの責任を取らされるのなんてわたしだって嫌だと思う。言われなくとも迷惑なのは自覚していた。
わたしはひとり、汚れたシューズを脱いだ裸足の足でだだっ広いセンターの館内を淡々と歩く。フロアが素足にひやりと冷たい。途中、スリッパを借りてレセプションエリアから出ると、普段見慣れている廊下がとてつもなく長く見えた。
どこのクラスも受講中だからなのか、子どもは誰も歩いていない。わたしのグループも今は語学のレクチャー中で、日菜子さんは次のレッスンから参加するようにと言っていた。それまでは自室待機するよう指示された。

スクールエリアをやっと抜けて、プライベートエリアである北側のE棟へ繋がるエレベータのドアを開ける。E棟の四十階でわたしはその閉鎖空間から吐き出された。突き当たりまで進んで、首に下げていたオフィシャルカードを手に取る。
6431383NATUME.
裏面の右端には簡素にそれだけ記されている。同じオフィシャルナンバーが掲げられているドアの前に立つ。翳すと中央の赤い光が瞬き、ロックが解除された。
生まれた時からあるのにおかしな話だけれど、わたしはまだオフィシャルカードに慣れない。このカーボン製の薄くて頼りない小さな一片に、わたしの全てが収められているというのはなんだか味気ない。喋るのが得意でない生身のわたしよりも、このカードの方がよっぽどわたしに就いての情報を提示してくれる。
このぺらぺらのカードこそ本物の『棗』──わたしなのだ。
わたしの主体はカードの方なのだ。

室内はいつものように整然と整えられていた。次のレクチャーまでまだ二十分以上ある。それまで特にやる事もない。
ベッドに腰掛けて何気なく窓から外を見下ろすと、街もセンターも呆気ないほど小さくこまごまとして見えた。わたしが一時間ほど前に蹲み込んで葉擦れの音を聴いていたあの空き土地は、建造物に阻まれて一ミリも見えなかった。わたしがあそこにいたのはずっと大昔か、嘘だったのかも知れない。ここに帰ってくると毎回そんな気持ちになる。
そして、あそこで聞いたような気がする呼びかけも、きっと嘘。
だってあれは、声とも呼べないようなささやかなものだった。わたしはただあの時、目の前の植物の葉脈が作り出す複雑な模様に見入っていて、そうしたらなんだか不意に誰かが呼んだ感覚がしただけなのだ。声というより、あれはもっと直感的なものだ。強いて言うならテレパシーとでも呼べるようなもの。
──テレパシー。
自分で思いついたその言葉に可笑しくなって思わず小さく笑った。そんな子供騙しで説得力のない言葉はとうの昔に死語になっている。
──分かってるの。ぜんぶ現実逃避だよ。棗は現実から置いていかれて、空想の中で生きているんだよ。

空想から醒めたわたしは窓の外の景色が様変わりしていることに気づく。空にどんよりと重い雲が垂れ込めて、雨が降っていた。この降りかたはスコールとは違う。きっと夜通し降り続けるタイプの長い雨だ。


屋内だから全く関係ないけれど。

2201/7/21/16:52 楠木修治

雨の匂いがする。
街全体が薄暗く湿気を纏っていて重く、もうすぐ降るな──と見上げた刹那、最初の一粒がつっと鼻先を掠めた。

自然と共存するのは難しい。近頃よくそんなことを考える。雨を疎ましく思うようになったのはいつからだったろう。少なくとも子供の頃はそんな風に感じなかったように思う。地球のメカニズムは人間の変わらぬ無力さを思い出させる。自然災害ほどの大げさなものに限らず、こうした気象現象だってそうだ。
二十三世紀。大昔の人たちは無責任にも、この時代に魔法のようなハイテク未来都市の夢を託していたようである。けれど、出来ることと出来ぬことの境はある。どんなに時代が流れたとしても人間は所詮人間である。
実際は、雨が降っただけでこんなにも弱い。
ただ成すが儘に身を任せる事すら出来ない。濡れるのは嫌だと思うし、そのままでは風邪をひいてしまう。
じかに外に出なければならぬときは未だに傘やレインコート、レインブーツを使用する。精々生地が汚れにくく丈夫になったとか、撥水技術の向上といった細かな改良がなされた程度である。空中にふわりと浮いて自動で人の動きについて来る未来型レインカプセル──なんて無いし、月に人が定住出来るようになったわけでもない。昔のSFコミックのようなてらてらとした『未来服』なんて誰も着用したいと思わず、フィクションが過ぎるタイムマシーンの開発なんて論外だ。そんなものだろう。実際の未来人はもっと堅実で、彼らと同じく日々に追われて生きているのだ。
でも──やはり比べてみれば昔と今は確かに大きく変わったのかも知れない。そもそも雨に頻繁に困るほど大抵の人間はわざわざ外へ出る必要がない。今の時代、草木に触れることすらおぼつかない。虫を見つければ真っ先に駆除しようとする。空を見上げることに就いては殆ど忘れかけている。
昔の人間が今の時代を夢見たように、私もまた昔の生活の長閑(のどか)さにフィクションの混じった憧れを抱いている。
「なんだびしょ濡れだな」
様子を見にバルコニーに出てきた友人の白石(しらいし)が笑うので、初めて自分が庭先で雨の中にずっと立っていたことに気がついた。
「わざとやってんの」
「考え事をしてただけだよ」
何をそんなに考えてたのさ、彼は面白がる風に続ける。
「普通は雨を忘れる位没頭するなんてそうないって。俺なんかは凡人だから全くお前の行動の意味が汲めない」
「別に──昔の人はお気楽で良かったなって考えてたんだよ。今は窮屈だからさ」
白石のからかいを聞き流して彼の脇を通り過ぎ、私はドレッシングルームに向かう。衣服が皮膚に張り付いて脱ぎにくい。私の嫌う、不潔で有機的な匂いがする。気持ちが悪いのでそのままシャワーを浴びることにした。
──何が“俺は凡人”だ。
仮に私が変人に分類されるのなら、白石だって同じカテゴリに入るはずだ。確かに、細かい事を更に一々細部まで思案した挙げ句、結果として他人がまるで理解出来ない様な行動も平気でしてしまう性質が自分にあるのは、自覚している。疑問に思った事はとことん分析して突き詰めてしまわなければ気が済まないのだ。そして私のその性質は、この時代の合理的で淡白な流れと逆行している。

タオル片手にリビングに戻ってみると、白石はまるで自分の家にいるかのように寛いでソファで伸びをしていた。細長い身体とシャープな輪郭が相まって蟷螂(カマキリ)のようだといつも思う。
「雨、夜までには止まない予報だった」
子どもみたいな言い訳を述べてからりと彼は笑った。どうやら泊まり込む気でいるらしい。
「車なんだから関係ないだろうに」
移動装置(モビリティ)
にやりと白石は笑って、本題と無関係なところで修正される。
「意味は間違っていないんだし、同じことだよ。年配者がシューズボックスのことを下駄箱と呼ぶのと同じで」
良くないなあ、彼は私との生産性のない議論をむしろ楽しんでいる。私たちはいつもこうなってしまう。
「良くないって何が」
修治(しゅうじ)は特に言葉の細かいニュアンスにセンシティブでいないと」
小説家なんだから──諦めて一緒に夕食を摂ろうとキッチンに向かいながら、私はその言葉を背中で聞き流した。



私と白石の付き合いは長い。長いというより腐れ縁である。
彼と私は元々クラスメートだった。当時まだ未成年教育制度は改編されておらず、通っていた高等学校で知り合った。
在籍当時は特に親しいわけではなかったのだが、卒業後なぜか外出先で鉢合わせしてしまうことが多く、互いに無視するわけにもいかず──二言三言会話を交わす内にいつのまにか親しくなってしまった。実際、白石の着眼点と発想の面白さには目を見張るものがあった。後に、よく出会ってしまうのは二人の生活圏が重なっていたからだと判明し、それならばと互いの家に尋ねて行く仲になり、なし崩し的に今の状況に至っている。
白石はDエリアにあるSINAGAWA産業技術ラボラトリーの生物模倣(バイオミメティクス)部門の研究員として働いている。私はあまり詳しい話を聞いたことがなく、自然界に元々ある優れた仕組みを研究分析して新製品開発に応用する技術だということを何となく把握している程度である。ここでも私は、やはり人は結局自然には敵わないのだという気にさせられる。
研究員として働けるくらいだから優秀なのに違いはないのだろうが、そういった人間は往往にして能力の偏っている者が多い。白石も例に漏れずその部類である。とはいえ対する私も小説家なのだから大きなことは言えない。一般職とは言い難い小説家もまた、昔から偏屈な人間が多いことを知らないわけではない。

「もう二十年経つんだよな」
夜も更けた外の暗い雨を眺めて、氷アイスの角を齧りながら白石は唐突に切り出した。ほら、夕方修治が今は窮屈だなんて言ってたからさ、と後付けで説明される。
「確かそのくらい経つんだ、センターが出来てから。俺なんかはあれこそ合理主義社会の象徴じゃないかと思うよ」
側から見るとあそこはだいぶ窮屈そうだと続ける白石の言葉に曖昧に相槌を打ちながら、私は教育機構の再編成案が出た当時の騒ぎを思い出す。メディアは過熱報道により国民を煽りたて、教育専門家やら父母の会やらによるデモが盛んに行われていた。当時の教育省代表者の強い提唱が印象的だった。名前は何と言ったのだったか。
「意外と続いてるんだな。最初から無理があるからすぐに廃止になるかと思ってた」
「無理は、あるよなあ。確かに」
意外にも白石は肯定した。
「でもあれだけ騒いで一大プロジェクトを立ち上げたんだしな。関わってるのは人生を預けられた人間だし、実質は止めたくっても止められないんじゃないか」
泥沼だと白石は苦笑した。
センター──正式名称就学期未成年育成センター制度──は考えてみれば奇妙なシステムである。
私には子供はいないのであまり詳しく覚えていないのだが、要は日本国籍所持者は子を出産した際、養育を自分でするか国に寄付するか選択できるという制度なのだ。寄付された子の親権はその時点で国に移り、国が養う。就学期未成年育成センターは、その子ども達が居住し教育を受ける施設として使われている。同時に既存だった小、中、高までの義務教育制度は廃止され、それらが一括してセンターに託されるようになった。
今や国有未成年はステータスである。一般家庭の未成年も週に三日そこに通ってきているが、受けるレッスンの量や生活の質のきめ細かさのレベルが国有未成年は遥かに異なるのだという。
全国に二万を超えるセンターが設立されており、就学期未成年のうち三十パーセントは国有未成年なのだと──どこかのニュースコンテンツで目にしたことがある。
「なんでこんな事を話したかっていうとさ。入ったんだ今期」
ラボに──そこまで言って、白石は溶けかけのアイスを一気に口に押し込んだ。腹壊すぞ、と私が言うと冷たいものは割と平気なんだとけろりとしている。彼は自分がもうあまり若くないという事を認識していないらしい。
「入ったって、センター出身者が? 」
「そう。待望の一期生」
私は意表を突かれた。噂程度と思っていたが、センターの子ども達が優秀だというのはどうやら本当なのらしい。
「企業審査もあるんだけど、国有人材を雇うと資金援助もあるからさ。まあその代わり年間利益の10パーセントは国に納めることになってて。それを差し引いてもお得なんだよ色々」
そういう仕組みになっていたのか。
下品な言い方をすれば、国有人材は企業にとっては金蔓(かねづる)、国にとっては比較的自由に動かせる駒──といったところか。
「で、どうなの実際。“一流の教育を受けたセンター出身者”っていうのは」
「まあ優秀だよ」
そう答えたものの、白石は顎を撫でて暫し考え込んだ。
「そう──礼儀も弁えてるし技術も知識も申し分ない。そういう教育を受けたんだろうな。ただ何だろう──ああうまく言えないな」
珍しく歯切れが悪い。
「単純に親なし子っていうのとも違うんだよな。親なし子は昔からいただろ。俺は部門が違うからしょっちゅうその子と関わるわけでもないけど、ただ何となく──センターは窮屈だったんだなって思ったんだ」
結局そこに行き着くわけか。
「考えてみれば、センター制度の成否判定はこれからってところなんだろうな。子ども達が成長して社会に出て初めて実態が分かる。国有未成年どころか、私は普通の家庭の子どもが今どんな風なのかさえ知らないよ」
白石は尚も唸っている。
日常では殆んど他人と接する機会はない。接したとしても極めて事務的なものだ。大抵の事は自宅で出来るし、出掛ける時はモビリティで移動する。誰かに会おうとする時は意図的にそうしようと思わなければ会えない。子どもなんていえば尚更だ。スクリーンのコンテンツに映る子どもを見て、彼らを知っている気になっている。
「そういえば」
白石は突如思い出したようにこちらに顔を向けた。
「お前、昔そういう小説書かなかった? 」
「書かないよ」
「書いたよ。イメージとしては今のセンター制度と似てると思ったんだけどな」
「覚えてない」
そう言った瞬間、彼の言う“昔書いた小説”が何を指すのか思い当たったのだが、敢えて撤回しないことにした。白石は惜しそうな顔をしている。
「俺、結構あの話好きだったんだ」
「好きなのはバイオロジーが出てくるからだろ。現実と小説は一緒にしたら駄目だよ」
なんだやっぱり覚えてるんだと白石はぼやいた。
「褒めてるんだって。あれは中々良かったよ。切り込み方も鋭くて」
私は──。
あの小説は失敗作だと思っている。すぐに思い出せなかったのも、意図的に忘れようとしていたからなのかも知れない。それなのに白石の不用意な言葉で私は再びあの小説の内容を隅から隅まで思い出してしまう羽目になった。少し彼を恨んだ。
ふと点けっぱなしだったメインのスクリーンを見ると、観ていたコンテンツは会話に夢中になっている内にとっくに終わっており、ニュースコンテンツに切り替わっていた。それ以上小説の話をしたくなかった私はわざと音量ヴォリュームを上げた。小さな島島の地図画像がスクリーンいっぱいに映し出されている。
──また北方領土問題か。
このところ(にわ)かに騒ぎ立てられている。日露サミットで領土返還が活発に叫ばれていた昔と違って北方領土問題はここ何十年、放置されっぱなしになっていた。昔のように豊かな資源が得られるでもないし、住人もいないからだろう。それならばいっそ世界共有保護地域にでもすれば良いなどと私は思っていたのだが。
最近、なぜか北方領土問題が再燃しており、日露関係も次第に険悪になってきているのだった。
アナウンサーが地図をバックに原稿を読み上げる。

〈──昨日(さくじつ)のサミットでも晃久(あきひさ)元首はこの問題を提起しましたが、依然としてロシア側は姿勢を崩さず、そもそも領土問題の事実は存在しないと認識しているとの返答だったといいます。更に、コスタヤ大統領は「これ以上この件で日本側が要求を続けるようであれば軍事的な対応も辞さない」との声明も発表しており── 〉

「まずいな」
白石の顔つきが険しくなる。
「これ、多分近い内に──」


結句は言われなくても想像がついた。

2201/7/21/23:49 ケルスティン

渾身の力を込めて、身体中の気体すべてを吐き出してしまう。
それから、ゆっくり、吸い戻す。
これで気持ちが切り替わる。活動の始めにはそのように深呼吸することに決めている。

「分かってるだろうけど」
ロイは声を潜めて、眉根の寄せた顔を近づけた。
「周囲確認は常に怠らないこと。慣れから来る気の緩みが一番命取りになるから」
じゃ行ってこい、と背中をぽんと叩かれたあたしは軽く頷いて駆け出した。
新しい空気を吸い終えると、静かに梯子を登り始める。仕事の時は正規の出入り口ではなくて、この小さな非常口から出なければならない。出口が近づくにつれ音で雨が降っているのが分かった。
──真 っ 暗。
外はざあざあと雨の音が聞こえるのみで何も見えない。たちまちあたしは全身ずぶ濡れになる。でも、雨の日は却って都合が良い。少ない光量と大きな雨音で人目につきにくいからだ。
周りが見えなくたって問題ない。目的地までの道のりは嫌という程通い慣れている。あたしは殆ど猫のようになって素早く、かつ静かに移動することができるのだから。
夜の街の様子は昼間とは全く異なっている。
街はあたしに対していつだって余所余所しくはあるのだけれど、夜はそこに怖さも加わる。規格住宅各々に付いている同じ形の窓から漏れる光はあたしには拒絶に映る。この街は、この光は、お前のためのものじゃない、お前は入って来てはいけない──と無言で言っているような圧力を肌で感じるのだ。実際街に意思なんて有りはしないのだけれど。
光は、走っていると黄色い線みたいに見える。長く尾を引いて、すん、すん、と目の端から消えていく。走るのは急いでいるからではなくて、その方が安全性が高まるからだ。足の裏が水溜りを踏む小さなぱしゃぱしゃという音が心地良い。その音を聞きながら、蜘蛛の巣みたいに複雑に繋がっている道を右へ左へと進んで行く。今まで何年もそうしてきたから慣れたものだ。これからだって、きっとこの仕事を続けていくのだと思う。
捕まるまで多分──ずっと。

1キロほど先に家具会社の大きな倉庫がある。そこが目的地だ。最後の角を曲がると、黒い大きな影みたいな屋根が見えてきた。
ここの家具会社の売りは、高級木材再現のクオリティの高さなのだそうだ。スギだかヒノキだか知らないけれど、質感や香りまで天然の木にそっくりな『癒しの森』シリーズは本物志向のお金持ちに人気なのらしい。尤も、そっくりなのは表面だけで、中身は天然木なんて欠片も入っていないネオウッド素材なのだけれど。なにが本物志向だとあたしは思う。
あたしは別にここで働いているわけではない。家具に木目が入っていようと内側がネオウッドだろうとそんなことはどうでもいい。仕事相手にとってこの倉庫が都合良い、それだけの話だ。ここで働いているのは相手の方で、その人は結構偉い人だと聞かされている。その人はどうも悪い人らしい。あたしの仕事に関わる人は、みんな悪い人だ。
あたしは、悪い仕事をしている。
十二歳にもなるのだからそれぐらいのことは気づいている。

走り始めて十分程で倉庫に到着した。
人影も明かりもない。雨のせいか、いつもより不気味に見える。素早く裏口へ廻る。ポケットから薄くて頼りない小さなカーボン素材を取り出した。仕事用に造られた偽造カード。
翳すと赤いセンサが光り、

──ドアが開いた。




初めて仕事をした日のことは今でもよく覚えている。
空は紫。
月は橙。
月のかたちは半月で、感じる風は生温(なまぬる)かった。
あたしはロイの後に続いて仕事用の梯子を登り、外に出た。
ロイはあたしが梯子を登りきるのを手伝ってから、眉間に皺寄せた顔で、右手の人差し指を自分の唇に翳した。
静かに、というのと分かってるな、これは遊びじゃないぞ、の意味を込めて。分かっていた。仕事を始めたのは、あたしの意志だ。

まだお前はそんなことしなくて良い、出来ることなら一生しなくていいと反対するロイや大人たちの意見を押し切って、半ば強引にどうしてもやるんだと言い張ったのは九歳のときだ。あたしが頑固なので、そのとき周りはせめて十歳になってからと猫撫で声で諭したのだった。話を先延ばしにして有耶無耶にするのが彼らの目論見だったらしいけれど、十歳になってもあたしの決心は変わらなかった。

けれどもその日、あたしはやっぱり楽しかった。それまでは夜中に外に出ることは許されていなかったし、周りの景色が昼間とは全然違うのが珍しかったから。大人の仲間入りが出来たと思った。危険な仕事だと教えられてはいたものの、そういう実感がまだなかったからというのもあると思う。
ロイは訳が分からなくなる程枝分かれの多い道を少しも迷わずに素早く走り抜けていく。見失わないようにとあたしも必死になってその後を追いかけた。
仕事の時は走れ、走る時は裸足になれ、というのはロイの教えだ。走ればそれだけ街に留まる時間が短くて済む、つまり一般住民に目撃される危険を少しでも減らす事が出来る。そして裸足になれば靴音をたてずにより静かに走る事が出来るというわけだ。
その日感じた夏の夜風の心地好さ。ロイの背中。倉庫内の匂い。特有の緊張感。カードで開くドア──。
とにかく全部が新鮮で、その日仕事を終えた後も興奮して眠れなかった。


倉庫内は薄暗く、かろうじて小さな明かりが灯っている。奇妙な木目調の家具たちはいつものようにひっそりと整列している。テーブル、ベッド、棚──梱包されているものもあればされていないものもある。
所狭しと、ひっそりと、冷たく。
それはこの明かりのもとで見ると妙に不気味で、今にも動き出しそうな雰囲気を醸していた。
「なんだびしょ濡れだな」
目が慣れてきた頃、ぼんやりとした灯に浮かび上がるように立つ仕事相手が開口一番そう言った。
「雨だったから」
私は顔の滴を雑に拭う。仕事相手の気味悪さは所狭しとそこらに置いてある家具とそう変わりなかった。
面長の輪郭。濃い眉。ずんぐりとした背の低いいつもの男。
初めて仕事をした日にここに立っていたのもこの人だったろうか。ここはいつも暗いし、覚えていない。年齢も分からない。大人の年齢は、よく分からない。
この人は家具会社の『偉い人』本人ではなくその部下らしい。本当に悪い人というのは自分では手を汚さない、みたいなことをなにかのアニメーションで言っていた気がするから、たぶんこれはそういうことなんだろうと勝手に思っている。
「情報、滲んで読めないんじゃ話にならないぞ」
男は早口で急かした。彼はいつも落ち着きがない。気持ちは分からないでもない。違法取引だ。こんなところを誰かに目撃されてしまえば只では済まされない。
「あのさおじさん」
もう少しさあ──私はわざと間延びした声を出した。
「もう少し地下の人間のこと、信頼すれば? これだって信用ビジネスなんだよ」
たぶん、彼の目に私は生意気な子供に映る。それでいい。
「そっちが先に渡してよ。情報は無事」
この仕事には押しの強さも大切だとロイに言われている。隙を見せると甘く見られてしまうから。
男の言う“情報”は道中で多少のトラブルがあっても対応できるように偽造カードの隙間に挟み込んである。誰かに見つかっても、悪天候でもこれならひとまず平気だ。彼は舌打ちをひとつして苛ついた様子でポケットを探った。

一通りのやりとりを終え、あたしは元来た道を注意深く窺いながら素早く走った。
あたしがあの仕事相手に売っているのは何か──ということはなるべく考えないようにしている。
それによって人がどう動き、どんなやりとりがなされ、どんな結果になるか──などということはなおさら頭から払拭する。
実際、あたしは自分がなんのやりとりに関わっているのか本当に知らない。
あたしはただお使いをしているだけ。
言われたことを言われたようにやっているだけ。
雨は、弱まるどころか更に激しさを増しているようだった。この様子だと朝まで降り続けることだろう。


帰ったら身体を拭いて服を乾かして──大粒の雨に当たりながら、敢えてそんなことを頭に満たして走った。

2201/7/22/14:46 棗

スカイブルーのテクスチャを一枚、上掛け乗算したような見事な空色だったから、わたしは散歩途中の空き土地の中で立ち止まり、しばらく上を眺めていた。


──こんなに青いんだ。
今まで見た中で一番青い空だった。
空はここまではっきりと色付くものなのか。そういえば以前テキストで、空気が澄んだ状態になるほど空の色は濃く見えるというような情報を目にした気がする。
──じゃあ、今日の空気はいつもより澄んでいるんだ。
恐る恐る空気を吸い込んでみる。空気を吸おう、と思って空気を吸い込んだのは初めてだ。なんとなく目玉の隙間からそれらが漏れ出てしまう気がして目を(つむ)る。吸った空気が気道から肺胞を通過して、浄く濾過された酸素だけがわたしの体内に吸収されるイメージをした。さっきまで目の前に漂っていた気体が指の先まで隅々に満ちる。それが本当にそうなのかは、実感がないけれど。
情報を知るのはいつもスクリーンから。知りたいことがあれば大抵オフィシャルカードのスクリーンモードから検索する。センターの職員はレクチャーで扱う内容や生活上のルールしか教えてくれないし、わたしの方もなんだか訊けない。空気の澄み具合と空の色の関係ならば、DI(デジタルインフォメーション)が答えを教えてくれる。けれど、もっと言葉にするのさえ難しい疑問──例えば、大人が雑草と鉢植えの植物を区別するのはなぜなのか──というような疑問の答えはDIにもない。
わたしの気持ちや、ふと引っ掛かる事や、そういうことは何に、誰に訊けば良いんだろう。
親、だろうか。
わたしは両親を知らない。センターにいる大抵の子がそうであるように、名付けとIコードとオフシャルナンバーの発行手続き、新生児スクリーニングを済ませて健常児であることが証明されたのち、出生十四日後に国に寄付されたらしい。
カリキュラム4に進級して十歳になったとき、提供者の情報を知りたいかどうかのアンケートが配信されて、わたしはよく考えもせず「はい」の項目を選択した。そうしたら後で個別に面談室に呼び出されて、保護職員が生みの親のデータを見せてくれたことがある。でも結局ほとんどの情報は忘れてしまった。どのみちプライヴァシーの問題だとかで大したことは載せられていなかったのだけれど。
──夏目。
その二文字だけ、明確に覚えている。
──この漢字は何ですか。
保護職員に尋ねたら、昔使ってたミョージだね、と素っ気なく言われた。オフシャルナンバーが普及する前に使われていた一種の記号のようなものらしい。名前がふたつあるようで、なんだか外国みたいだと思った。ミドルネームとか、そういう感じの。
──なんて読むんですか。
保護職員は同じように素っ気ない態度で、ナツメ、と言った。
──ナツメ。
だからわたしは(ナツメ)という名前なんだ、とぼんやり思った。
適当に付けられた、名前。
わたしは物心がついた時からここ、就学期未成年育成センターにいて、ここの生活しか知らない。
不幸ではないと思う。こんなものだろうと思う。
昔は、親のいない子どもはコジと呼ばれて偏見を持たれたそうだし、住む場所もシセツと呼ばれる小さくて不衛生な建物だったそうだけれど、今はそんなことはない。日本の子どもの三十パーセントはセンターで暮らしているのだそうだ。
──あと七年。
少なくともカリキュラム13になるまで──十九歳になるまで──はセンターにいなければならない。
──そうじゃなくて。
十九歳になるまではセンターにいられる、だ。十九歳ってどんな感じなのだろうと思う。ちょっと怖い。わたしは今までもずっとこんなに生きているのに、それなのにまだ子どもだというのが時時不思議だ。先はまだ分からない。大人になったわたしはもっと分からない。“ちゃんと大人”になれるかどうかについては怖いを通り越していて──。
肌が焼ける。足元は草で蒸れている。また帽子を被ってくるのを忘れてしまった。
わたしはもう一度空を見上げた。

「珍しいな」
突然。
後ろから声がしたのでわたしはどきりと振り返った。昨日と違って声の正体はすぐに知れた。
──大きな目。
真っ直ぐな栗色の髪を綺麗に顎のあたりで切り揃えた、はっきりとした顔立ちの少女がそこに立っていた。
年齢はわたしと同じくらい──十二歳くらい──に見える。
「空」
彼女は聞き取りやすい声でそう言って、わたしがさっきまで見上げていたスカイブルーを目線で示した。
「こんな青いの。変わったことが起こりそう」
ま、起こってるけどと軽く笑ってわたしの顔を直視する。明らかにわたしに向かって話しかけている。
「そのユニフォームのカラー、センターの子でしょ。何、家出? 」
わたしの動揺に構わず、少女は初対面のわたしにいきなり無神経な質問をしてきた。こんなタイプの人間は初めてだった。
「──ちがう」
「じゃ何してんのこんなとこで」
べつに答える義務はない。そのまま立ち去ってしまえばそれで済む。
それなのにわたしはどうしたんだろう。
わたしはなぜかそうせずに、
「散歩……」
質問に素直に答えていた。少女はきょとんとした顔になる。
「さんぽぉ? 」
次の瞬間彼女はとても面白そうに笑いだした。まぶたの上で切り揃えた前髪がさらさら揺れて額が覗く。笑う要素なんかないのにどうして笑うんだろうと、わたしは意味が分からずただそれを見ていた。
ひとしきり笑った彼女は「笑ってごめん」と言いながらまだ笑っている。
「別に馬鹿にしてるんじゃないよ。じゃなくて、なんか、意外な答えだったからさあ」
センターって結構自由なんだ、と少女は目尻を拭う。
「一人で散歩させてもらえるとか知らなかった。もっとキュークツなとこかと思ってて」
「窮屈だよ」
少なくともわたしはそう感じる。
「え? だって」
「無断で、出てきたの。本当は散歩なんか許可されてないもん。この後帰ったら、きっとまた怒られる」
「へえ」
少女は目を丸くした。
「ルール破って出て来てんの? で、怒られるって分かっててまたそこに帰るわけ」
「帰る場所、そこしかないから」
窮屈だけれど、あそこを出てもわたしはどうやって生きてゆくか分からない。あそこを出て他で暮らしたいわけじゃない。
嫌なことを思い出してしまった。せめて散歩中はそんなこと考えずにいたいのに。日菜子さんの、あの冷ややかでうんざりとした表情と目をまた見なければならないこの後の現実を思ってお腹が痛く苦く感じた。わたしが勝手に外へ出るから悪いのだけれど。
なのに、どうしてだろう。わたしは無断外出をやめることが出来ない。どうしても外に出たくなる。その疑問にもまた、DIは答えてくれない。
「──ケルスティンていう、あたし」
怖いほどダイレクトにわたしの顔を見て、少女は突然そう言った。
「ケルスティンていうんだ」
他人からはっきり見られることに慣れていないわたしは戸惑って、思わず半歩後ずさった。
「ケルスティン?」
「そう」
聞き慣れない響き。
「外国人? 」
違う違う、と彼女は笑う。
「ご先祖様の遺伝がなんか色々混ざってるみたい。ルーツはどこか知んないけど」
ご先祖様なんて言葉使う人初めて見たな、と変なことを思った。
「適当に付けられたの、名前。周りが勝手に盛り上がって、ケルスティンが一番可愛いだろうって。生まれも育ちも日本なのにさ」
笑いながらブルーグレーがかった黒い瞳をくるんと動かす。
「そっちは? 名前」
そう言われるのも初めてだった。
「棗」
ふうん、ナツメ──口の中で繰り返したらしい彼女──ケルスティンは唇をみっと上げて歯を見せた。

「変な名前ぇ」

2201/7/24/10:31 ケルスティン

ロイが賢いことはあたしだって勿論知ってる。

だから仕事でもチームの統括役を任されているし、どうすればリスクを最小限に抑えられるか考えるのも得意だ。情報の記されたメモを挟める、隙間の空いた偽造カードを何も加工していないように見えるよう工夫したのだってそうだ。
ロイは国有未成年の誰よりも優秀だろうとみんな言う。もし地下の子じゃなかったら。生まれで惜しいことしたな、そんなふうに言う。
──知ってるよ。
ただ、ロイの賢さは万能じゃない。
あいつは数学的に賢いのだ。文学的な賢さは持ち合わせていない。
大抵、注目されたり褒められたりするのはロイの方だった。
ロイは賢いし役に立つ。大人から期待されて、頼りにされている。でも、あたしは密かに不安に駆られていた。妹のあたしはロイと違って役立たずなのかも知れない。迷惑なのかも知れない。
あたしがいてもいなくても。
そう思われるのが怖くて、だから役に立たなきゃ、とか思う。仕事をしたいと言い出したのもそういう気持ちからだ。居場所はここにちゃんとあるはずなのに、無いような気がして不安になってしまう。
あたしのそういう気持ちはロイには分からない。どれだけ賢くても、分からない。意地悪じゃなくて本当に分からないのだからそっちの方が救いがない。

──と思ったところで考えるのを止めた。


どこかでぽたぽたと天井から落ちる水の滴りが聴こえる。この間の雨水がまだ残っているのらしい。
昼間は手持ち無沙汰だ。こういうときの時間の上手な使い方をあたしは知らない。今の時期、外はやたら暑くて消耗するだけだし、分担制になっている午前中の活動はひと通り終わってしまった。
──つまんない。
何もすることがないので劣化してひび割れたコンクリートの壁を無感情に眺めて座っている。エアコンディショニングがなくても充分に涼しいというのは地下の利点だ。その代わり冬が厳しい。しかも国から供給される暖房燃料はごく僅かだから、出来るだけ工夫しながらみんなで寄り集まって寒さを凌ぐしかない。暖かい自分の部屋を与えられて、心配なく何もかも大人からの世話を受けられるのは、ただぼうっとしているだけのセンターの子どもなのだから世の中は不公平だ。
本当に不公平だ。
あたしとあの子たちの違いといえば、生まれた環境だけだというのに。
ぐるりと首を動かして360度見回す。
太陽から遮られた深い昏い空間。上から下まで覆っているのは厚くてひんやりとしたグレイのコンクリート。でこぼこでひび割れて、ときおり欠片がぼろりと落ちる。
この場所は街から隔離されている。物理的にも、気持ち的にも。
別にここが嫌いなわけではない。あたしは罰を受けて閉じ込められているわけじゃないし。生まれた時からここにいるのだし。でも、どうしてだろう。ほんのたまに後ろめたさを感じたり、するのだ。
昔。
ここは交通機関(トランスポート)として使われていたという。地面の下に乗り物が走っているなんてちょっと想像出来ないけれど、昔の人はそれを当たり前に思っていたんだろう。今は地下空間なんてモビリティのパーキングにしか使われていない。
チカテツ、とかいうその乗り物は中央にあるあの一番窪んでいるところを通って東京中を走っていたのだそうだ。しかも顔も名前も知らない人たちが雑に乗り合わせるスタイルだったらしい。外国みたいに適当でちょっと面白い。
長いこと使われていない、すっかり寂れて遺跡みたいになったその場所に、先代の人たちが住み着き始めたのは四十年くらい前のこと──いつかそんな風にお母さんが教えてくれた。
一般住民にとってあたしたちは多分、昔の人だ。それか外国人だ、この場所みたいに。自分たちとは全然違うルールがあって、生活は原始的で、遠くから見る分にはちょっと面白いけど関わりたいとは思わない人たち。そんなふうに見られているんだろう。
「寝たら? 」
通り掛かった水沢の奥さんがあたしに気づいて声を掛けてきた。隣にリサもいる。間に合わせに着ているシャツはぶかぶかだ。
「昨晩も仕事であんまり寝てないでしょ」
平気とあたしは元気ぶってみせる。
「ねえ、ロイ──どこにいるか知ってる? 」
「見なかったけど。仕事の準備とかしてるんじゃない。奥の方覗いてきたら」
「うん、いいや。聞いてみただけ」
分かってる。ロイだって大変なんだ。
「そう」
だったら寝ときなさい、子供は寝なきゃ伸びないよと水沢の奥さんは冗談めかした。リサはあたしたちの会話に加わろうとせず一歩引いたところで窺うように立っているだけだ。
「リサ」
リサは一瞬で反応して目をひと回り大きくした。黒い目が猫みたいにまん丸になる。
「リサはちゃんと眠れた? 」
「はい」
指先まで硬直させて生真面目に答える。敬語が抜けない。年齢に不釣り合いな警戒心を、リサは持ち合わせていた。水沢の奥さんも苦笑いをあたしに向ける。
「そのまま放っておいたらずっと同じ場所に座りっぱなしだからと思って、ちょっと連れて歩いてるんだけど、なかなかね」
「リサは頑張ってるよ」
「そうだね」
「今度またあたしが外に連れてってあげるから」
「はい」
リサがにこりともせず言うのが可笑しくて、なんだよと笑った。

水沢の奥さんとリサが行ってしまうと、また退屈が訪れた。追いかけて行ってリサと遊ぼうか、と思いかけてやめる。あんまり元気じゃなかったからだ。水沢の奥さんに「寝なさい」と突き返されてしまう。試しに丸めたタオルを枕にして横になってみる。
──駄目だ。
横になったら却って頭が冴えてくるようだった。いつもはそんなことないのに、今日は色んなことを考えてしまう。しかも自分ではどうにも出来ないこと。気持ちが後ろ向きになること。たぶん今朝見たニュースのせいだ。寝返って仰向けになったら、天井のグレイが見えた。
ロシアと戦争になるかも知れないらしい。
ニュースでは直接そうは言っていなかったけれど、大人は口々にそんなことを言っていた。みんなスクリーンを真剣な顔で睨んでいて、戦争ってなにと聞いたらちょっと黙ってろと叱られてしまった。国同士で人殺しをすることだと、ロイが耳元で教えてくれた。
もし、そうなると──戦争になると──国から援助されている食糧の供給がストップするかも知れないし、最悪の場合この場所も破壊兵器で攻撃されて全員死ぬかも知れない。
死ぬかも知れない。
戦争で。
「東京は首都だし、重要機関も多いから真っ先に攻撃されるかも知れないな」ともう戦争になるのが決まりきったことみたいな言い方でロイは冷静に呟く。なんでそんなこと言うの、とあたしは子どもみたいに無意味に怒った。
「そういう可能性があるってだけ」
「もう決まったことみたいに聞こえた」
「そんなこと言ってない」
そうじゃない。あたしが怒ったのはそういう事じゃない。違う、そもそも怒っているんじゃなくて、怒っているのはあたしの表側だけで、奥の方の気持ちはそうじゃなくて──。
そんなわけで眠れそうもなかった。
あっさりと寝るのを諦めたあたしは飛び起きて階段を駆け上る。出入り口から外を覗いてみると、空全体を雲が覆っていたけれど太陽がちょうど真上あたりに来ているのがぼんやりとした光で分かった。
今日の空はいつもと同じ色。一昨日はびっくりするくらい綺麗な青空だった。あんな濃いブルーの空は初めて見た。あれを見ることができたのはラッキーだったと思う。
そして、そう、もうひとつ珍しいものを見た。珍しいもの──というか、珍しい人。
センターの子ども。
ナツメ、とかいう名前らしい。たぶん年齢はあたしと同じくらいだ。脱走癖があるとかいう変な子だった。
でも、不思議と憎めない感じがした。センターの子なのに。
──もしかしたら今日も会えるかも。
あの子に会えたら気が抜けて、嫌な気分もどこかへ行ってしまうかもしれない。

大きく息を吸い込んで、あたしは続く階段に足をかけた。

2201/7/24/10:31 棗

空気がいつも以上にぴりぴりしている。肌で感じ取った。
間近にいなくても、直接話していなくても、分かる。
それは、歩き方。顔の表情。職員同士が普段より密にコンタクトをとる様子。自室の窓ガラス越しにわたしはそんな様子をじっと観察している。


暇を持て余していた。
部屋には誰もいない、ひとりだ。でも空き土地にいるときに感じることの出来るひとりとは違う。
管理されたひとり。
ひとりでいる、というのとひとりにされている、というのは全くの別物だ。四角いスクリーンと四角いベッドのこの部屋では、楽しいことを色色思い巡らすことも、空想に耽ることも難しい。
二日前から、わたしは軟禁されている。
あまりにも無断外出を繰り返すという理由で、しばらく部屋から出ることを禁止されてしまった。レクチャーにすら出席させてもらえない。とはいっても、一つ所に集まって学ぶ意義というのはレッスン内容がどうのというのは関係なくて、子どもたち同士の健全な交流のためというのが目的なのらしいから、わざわざスタディルームに行かなくたって、スクリーンさえ繋いでいれば問題なくレクチャーを受けることは出来る。トイレもバスルームも部屋にあるし、食事や掃除や洗濯はヘルパー職員がやってくれるから生活してゆくにはこのスペースでこと足りてしまう。そのことを改めて認識してしまうと本当に味気がなかった。


──二日前。
散歩から帰ってきたわたしを見つけた日菜子さんは予想通り冷ややかでうんざりとした目でわたしを捉えた。彼女はもう我慢の限界なのらしかった。
なにも言わずにわたしの腕を掴むと、早足で歩きだした。
ぐんぐん歩く。
連れて行かれたのは、スタッフエリアだった。だだっ広い間取りに沢山のデスクが配置されていて、機器やスクリーンが並んでいる。幾人かの職員がスクリーンでなにやら作業をしていた。
──仕事をするって大変だな。
自分の状況そっちのけでそんなことを思う。わたしは今何もかも誰かに世話をしてもらって生活しているけれど、将来はちゃんとした大人になれるのだろうか。しかも、センター出身の国有人材らしく何でもてきぱきとこなす、日本の社会を支えられるような大人に。実のところ、今のわたしがやっているのはそれとは真逆のこと──規則を守らずに職員の仕事を増やすこと──なのだけれど。
「付いて来なさい」
日菜子さんは振り向かずにそう言うと奥の方へ歩みを進める。一番奥でスクリーンに向かっている女性職員のところで彼女は止まった。
「マキさん」
マキさんと呼ばれたその人は作業の手を止めずに「何でしょうか」と目だけを上げてこちらを見た。
「以前お話しした未成年ですが」
彼女は手を止めて椅子ごと向き直った。
「ああ、例の」
「すみませんが私の手に負えないもので──。後はお任せしますので」
宜しくお願いします、と日菜子さんは一礼したかと思うとわたしに一瞥もくれずにそそくさとスタッフエリアを出て行ってしまった。付いて行くタイミングを逸して彼女を見失ってしまったわたしは途方に暮れておろおろと立ち尽くす。
「担当者が変わったの」
マキさん──という職員の声にわたしは振り向いた。
「よっぽど解放されたかったみたいだね」
「え? 」
「ああ気にしないで」
私は真希(まき)といいます、手渡した名刺の文字が見えるように差し出してその職員は改めて自己紹介をした。黒いショートヘアとすっきりした鼻に目がいく。はきはきとした話し方の、理知的な雰囲気の人だった。
「今日から新しくあなたの事を担当させて頂きます。ここにある通り、保護職員に加えて生活指導係もやってるの。早速だけどあなたのこと指導させてもらうね」
理解が追いつかず固まっているわたしに、彼女は事務的にそう言った。
「カードいい? 」
困惑していても、求められればオフィシャルカードを取り出す手はするりと滑らかに動く。真希さんは受け取ったカードをスクリーンに翳して読み取った。
「棗さんね。6Cー3G──ああ、無断外出すごいなあ、これじゃあ──」
真希さんの独り言を聞く段階に至ってわたしの理解はようやく追いついた。つまりわたしは『ケアチャイルド』扱いになったということか。言動に問題のある子は特にきめ細かいケアが必要ということで、生活指導係が受け持つことになっている。ケアなんて呼び方だけれど、言い方が異なるだけで要は問題児ということだ。だから真希さんの「これじゃあ」に続く言葉はたぶん、「日菜子さんが手に負えないのも無理はない」といったところなのだろう。
「棗さん」
真希さんはやっとデータではなくわたしの方を向いた。
「どうして無断外出が良くないのか、何回も説明を受けていると思うんだけど」
受けている。
「──はい」
「まず危険。この近くには工業用の道路もあるから大型車が沢山走ってる。基本歩行者は入れないようになってるけど、もし入ったら相当危ないからね、結構スピード出してるし。あとは、犯罪に巻き込まれる危険もある」
それから──彼女は続ける。
「それから健康被害ね。今は熱中症の心配もあるし、厚生省が推奨してる一日の外出時間知ってるでしょ。なるべく三十分以内に収める事って。地下の人たちなんかはそれが出来ないから寿命が短いわけだし。早死にしたくないでしょう」
「──はい」
「それに、これは基本だけど定められてる決まりを破るというのは良くないよね。分かってるでしょう」
「──はい」
分かっている。ちゃんと分かっている。真希さんの話は筋が通っているし、すごく分かりやすい。
──なのにどうして。
わたしは心の中で困ってしまう。分かっているし、迷惑をかけたくないと思っているのに。それ以外の決まりはちゃんと守れるのに。なぜどうしても外へ行きたくなってしまうのか、その理由が自分でもよく分からない。だから「もう外へは出ません」と自信を持って言うことが出来ない。
──根本原因についてじっくり話し合いましょうか。
そんな風に言って欲しいなあ、わたしは真希さんの首元のほくろを漫然と見つめながらぼんやりと思う。大人の人が急かさないで、わたしの話にじっくり耳を傾けてくれたなら、無断外出を繰り返す原因だってきっと判明するに違いない。だって大人は子どもよりずっといろんな事を知っていて、いろんなことが出来るから。そんなものは甘えで、一人の未成年だけに特別扱いは出来ないことも知っているけれど。
そう、甘え。
こんなに整った環境で、こんなに恵まれた教育を受けて、着る物も食べ物にも困ったことはないのに。ここを離れたらどう生きていくかも分からないのに。わたしはただ甘えているだけの子どもだ。
でも、とはっとする。ケアチャイルドになってしまったのは恥ずかしいけれど、今ならちょっと特別扱いしてもらえるのかも知れない。わたしの話を、もしかしたら聴いてもらえるのかも知れない。思わず真希さんの顔を見たら、気づいた彼女は口元で微笑んだ。あ、とわたしは言いかけて、けれどそれから先は少しの言葉も出てこなかった。
「それでね。ここからが本題なんだけど」
まごまごしているわたしに気づかず、真希さんは言葉を続ける。
「何回か注意を受けても行動を改めない未成年については、一時的に生活指導係が自由を制限して良いことになってるの。未成年保護法に基づいてね」
棗さんのカードはしばらく使用停止にします、そう彼女は言った。
「部屋にロックをかけるからね。当分のあいだ外出禁止」


そういうわけでわたしは窓にへばり付いている。
窓の外の変化が、わたしの世界の変化だった。ここからは隣接するB棟内の様子をつぶさに観察することが出来る。
──合同レクチャーの日だからなのかな。
職員の空気がぴりぴりしているのは。合同レクチャーとなると少し慌ただしいのかも知れない。
センターに住んでいない子──一般の家庭の子──は、週に三日ここに通って来る。そういう子たちもセンターの子も、みんな同じグループでレッスンを受ける。あまり話したことはない。と、いうよりも必要に駆られない限り誰ともあまり話したりしない。大概みんなそうだ。何を話したらいいか分からないし、興味も持てない。
ただ、センターの子と通って来る子の違いはカラー指定のユニフォームに頼らなくとも何となく分かる。
通って来る子は顔の表情が少しだけ豊かだ。そうじゃない子もいるけれど、大体そう。挨拶の時にちょっと微笑むとか、驚いた表情とか、泣くとか。あの子たちがどうしてそんな風にするのか、わたしにはよく分からない。そうすることに何の意味があるのだろう。それともそれは、自然に出てくる仕草なのだろうか。
二日前に、いつもの空き土地で出会った子──ケルスティンとかいう子──も、とても器用にくるくると顔の表情を変えた。
目を見開く。声を出して笑う。じっと見つめる。
きっと彼女も一般家庭の子なのだろう。
──センターの子でしょ。
そんな風にも言っていたから。
正直、わたしは少し怖かった。あの子が遠慮もしないでわたしの中にずかずか侵入(はい)ってくるようで怖かった。気が強そうだった。
──でも。
たぶん、もう会わない。わたしは部屋に閉じ込められているし、この状態がいつ解かれるかも分からない。解かれた時にはわたしは無断外出を二度としない従順な子になっていなければならないわけだから。
そこまで考えて、ふと気づいた。
──週三日はセンターに来るのか、あの子。
なにも会うのはあの区画の端っこの空き土地だけとは限らない。この近くに住んでいるのだろうから、きっと通うのもここのセンターだ。グループメートの顔なんか覚えていないけれど、年齢も同じくらいに見えたから同カリキュラムなのかも知れない。十分あり得る。
別に嬉しくはない。と、いうか気まずい。会ってもどんな反応をして、何を話せばいいか分からない。自然な笑顔で他人に近づく能力はわたしには備わっていない。
窓に顔をぎゅうと押しつけて、わたしは出来るだけB棟の内部を覗こうとした。ケルスティンの姿を確認できるのならそうしたかったのだ。
──やっぱりいつもと違う。
棟内の、音もないのに騒騒した感じ。ぴりぴりした空気。合同レクチャーだから、というだけではどうやらなさそうだった。職員の表情は明らかに険しい。何かが起こっているらしいけれど子どもたちには悟られないようにしている感じ。離れた場所から客観的に観察できる立場のわたしに、それははっきりと分かった。
──何かあった。
なぜか胸騒ぎを覚える。心臓は活発に鼓動した。
そのとき──。

誰かが呼んだ気がした。

ひどくか細い、男なのか女なのか、子どもなのか大人なのかも分からないような朧さで──。

2201/7/24/10:38 棗

それは、確かに呼んでいた。
気のせいではない。この前感じ取ったのと同じものだ。
わたしを、ではない。そうではなく、その呼び掛けに応える誰か。
誰かを呼んで、誰かを待っている──そんな気がした。


気配の正体を知りたくて、わたしは窓に押しつけていた顔を更に強く押し付ける。
拍子に窓が、かくん、となった。
驚いて顔を離す。ドアも窓も、鍵は全てカードでロックできるようになっている。たしか二日前に真希さんがこの部屋の窓もドアもしっかりロックしていたはずだ。確かめるように手のひらでもう一度窓を押してみた。
──やっぱり動く。
そのままスライドさせるように左側へ力を入れる。
「──あ」
窓は難なく開いた。見ると、ロック部分の金具のツメが欠けていた。夏の熱い風がこちらへ押し寄せてくる。
──どうしよう。
職員に知らせて、修理の依頼を依頼すべきか。それとも。
──今なら。
今ならここから外へ出られる。気配の正体を確認できるかも知れない。職員たちの不穏な空気の理由も分かるかも知れない。
──駄目。
わたしは自制しようとした。今は軟禁中なのだ。何度も、何度も、何度も注意された挙げ句の結果なのだ。今度こそちゃんと決まりを守らなければならないし、守りたかった。分かってはいながらも、わたしは窓に手を掛けたまま閉められずにいる。姿の見えないあの呼びかけはわたしを強烈に惹きつける。
窓は開いている。
行こうと思えば行ける。
今出なければおそらく二度と自由に外へ出られることはない。しばらく逡巡した。
ふと、時間表示を見ると十時四十八分になるところだった。
──まずい。
十一時になれば、清掃担当のヘルパー職員が部屋にやって来る。きっと窓の異変にも気づくことだろう。そして業者に修理を依頼することだろう。そうすれば、この窓から脱出することは出来なくなる。
出るのなら、今しかない。
わたしの部屋は四十階で、最上階の東側に位置する角部屋だった。高さを考えれば身の竦む思いだけれど、窓の下の外壁には足先が載せられる程度の出っ張りがあるし、東側の突き当たりにはメンテナンス作業用の梯子が付いているのも知っている。窓から出っ張りを伝って東に移動し、三メートルほど離れた梯子に辿り着きさえすれば、脱出はそう難しいことではない──ように思えた。
わたしは後ろ向きになり、窓から足を下ろした。思ったよりも幅が狭い。
──うわあ。
バランスを取るのが難しい。つま先にしか足場がない。
足の向きを横に変えて壁と体を密着させ、そろり、そろり、と慎重に進んでいく。
──怖い怖い怖い。
下を見たら駄目だ、とわたしはわたしに言い聞かせた。壁を伝って梯子を目指す、それ以外のことは考えないようにする。
少しずつ。少しずつ。
じわじわと東側の角に近づいていく。
──命綱(ライフライン)ってこういう時に使うんだ。
なのにわたしは気づくとうっかり余計なことを考えていて、急いでそれを締め出す。なんとか進み続け、やっとのことで壁の角──梯子のある位置にまで到達した。
汗が額を伝って流れる。目に入りそうで怖い。
腕を伸ばし、ぐっと力を込めて梯子を掴んだけれど、汗で少し滑った。
「ひっ」
心臓はばくばく音をたてている。
わたしはなんと無謀な脱走ルートを選んでしまったのだろう。ライフラインの事もそうだし、衝動的に動いた後でいかに危険か気づくなんて本当に馬鹿だ。けれど、ここまでやってしまったからにはもうやり遂げるほかなかった。
強制的に自分を落ち着かせて、わたしはまたそろりと動き出す。なんとか壁から梯子に移って、下に降りるのではなく上へ登る。この梯子は一階にまでは続いていないし、あまり長くここにいたら誰かに見つかってしまうかも知れない。一方、このすぐ上は屋上になっている。そちらへ行く方が手っ取り早かった。梯子は日光に晒されて熱くなってはいたけれど壁伝いより格段に足場が安定していて、けれど油断しないよう確実な動作でゆっくり登った。
そんな調子でわたしはついに梯子を登りきり、剥き出しの屋上に辿り着いたのだった。
着いた途端その場にへたり込んだ。
そっと下を覗くと、桁外れの高さと、自分がそこをさっきまで移動してきた無謀さを思って──気を失いそうになった。

部屋を出てしまえばセンターを抜け出すのは容易い。ここは規模が大きくて広すぎるし、人が居すぎるのだ。オフィシャルカード不携帯のわたしは同じユニフォームを着た他の子供達に混じってしまえば、どこの誰だかわからない子になる。GPSで居場所を特定されることもない。
あとは警備の緩い南口から簡単に外に出てしまえる。
不思議な呼びかけの気配はもう感じなかったし、どこから発しているのか分からなかった。どこから、という場所なんかないのかも知れない。どこか分からないのなら好きなところへ行こうと決めた。
こうしてわたしは、センターから家出した。




空はいつもと同じ色だった。ぼんやりとしたホワイトグレイ。雲が空全体を覆っていたけれど、光が透けるので太陽の位置は真上辺りだと分かった。そんなつもりは無かったのだけれど、気を抜いて歩いているうちいつもと同じ散歩ルートを辿っていることに気づく。急激に自由を得てしまうと、却ってどうしたらいいのか分からなくなった。
そうして。
結局また来てしまった。またいつもの空き土地に。
──馬鹿みたい。
わたしはどうしてあんな命懸けで外の様子を探りたいと思ったんだろう。結局正体もなにも分からなかったくせに。この後どうするかも考えていなかったくせに。
風にさわさわと植物が鳴る。その葉や花が脛を撫で続けるのを気にも留めずに、わたしはただ痛いほど刺す陽を浴びて、途方に暮れて立っていた。背後からケルスティンがやって来たことにさえ気づかなかった。
「ほんとにいた」
ケルスティンは驚いたような声を上げた。
わたしはそれ以上に驚いて、弾かれたように振り向いた。
ケルスティンは先回と同じような場所に立ってわたしを見ていた。なぜか、懐かしいような感じがした。たった二日前に会ったばかりなのに。
まだセンターはレクチャー中のはずなのに彼女はどうしたのだろう。訊こうとして息を吸い込んだら、ケルスティンが先に言葉を発した。
「もしかして、毎日来てんの」
「毎日じゃ、ないけど」
そういう時もあったけど──と言葉を濁す。
「すごいな、もうそれ習慣でしょ」
だいぶうんざりされてるでしょ、とケルスティンは大袈裟な顔をする。
そう。うんざりされている。保護職員が痺れを切らす程に。部屋に閉じ込められる程に。今回のことはもう言い逃れが出来ない。平気な顔でセンターに帰ることなんて不可能だ。
ナツメだっけ──と言ってケルスティンはわたしの顔をまっすぐに見た。この視線は苦手だ、と思う。
「──それでも繰り返しちゃう理由とか、あるの? やっぱり窮屈だから? 」
驚いた。わたしがずっと大人に言って欲しかった言葉を、彼女はあっさりわたしに投げかけた。それでもやはり「分かんない」としか答えることしか出来なかったのだけれど。
「あたしもさ、上手く説明できないんだけど。なんか分かるよ、そういうの」
彼女は妙にしおらしく言う。てっきりこの前みたいに笑われるだろうと思っていたわたしは肩透かしを食らったみたいになった。
「でも相当問題児だよね」
「そうなの」
何だろう。なぜか彼女には素直に本当のことを言いたくなった。
「家出、してきたの」
一瞬間が空いて。
「嘘ぉ」
ケルスティンは目を丸くした。突如雲が途切れて夏の光が強くなる。彼女の着ているワンピースのチェリーレッドが痛いくらいに目に沁みた。


このタイミングで、とケルスティンは言った。
「家出するにしても、このタイミングで? 」
わたしは返答に窮した。家出するのに良いタイミングとか悪いタイミングなんてあるのだろうか。
「タイミング? 」
「そう」
センソウになるかも知れないじゃん──ケルスティンは顔をしかめた。
「センソウ? 」
それは、戦争のことだろうか。
「第二次世界大戦とかの、戦争? 」
「多分そうでしょ、昔のことはよく知らないけど。国同士で殺し合いをするんだって兄貴は言ってた」
「殺し合い?──今から」
「分かんないけど」
「日本が? 」
「もしかしたらの話」
──知らない。
そんな話、聞いていない。そんなの。
「どういうこと? 」
ニュースとか見てないの、ケルスティンは怪訝な顔をする。
「最近ロシアとの関係が不安定になって来てたじゃん。それが本気で危なくなって来てるらしいよ、あたしもそんなに詳しくないけど。でも大人はみんな戦争になるとか言ってる。もしそうなったら東京は最初に攻撃されるって」
そういう時に家出っていうのもどうなのって思ったわけ──言いながら彼女は顔の前に手を翳してひさしを作った。眩しかったらしい。
そういえば部屋の固定スクリーンはずっとスリープにしていてニュースも何も見ていなかった。
歴史のレクチャーで、戦争については少しだけ学んでいる。DIで検索すれば、把握しきれないほどの情報が集まってくる。過激画像は規制されているけれど、大昔のモノクロ画像だったりすると案外屍体も画像処理されずに写っていたりする。
でも、わたしはどこか戦争というものを現実のものとして捉えられない。
戦争は恐ろしくて、悲惨で、決してあってはならないもの──そこまでは分かっても、それとわたしの世界とは結び付いていない。過去に日本も戦争をしたなんて言われても、分からない。
戦争は歴史の中だけのもの。
ずっとそう思っていた。それなのに。
日本が──戦争をする。
この国の人がよその国の人と殺し合いをする。
死ぬ。
「戦争になったら、みんな死ぬのかな」
わたしも死ぬのだろうか。
「戦争って何のためにするのかな」
それはレクチャーで学んだはずなのに。ケルスティンは手元の植物をむしって放った。
「そういうのって考えても分かんないんじゃない。あたしも不安だけど、不安がったってどうにもならない」
「どうにもならない──」
「子供にそんな大きな力はない」
悲しいけれど、それが現実なのだろう。どこにいれば安全とか、何をすれば助かるとか、戦争はそういう選択的なものではないのは分かるから。センターで職員に守られていても、たった一人でここにいても危険なのに変わりはない。
──だったら。
「わたし」
手のひらに力が入る。
もし、この国が戦争を始めるのだとしたら。明日自分の命がどうなるのかも分からないなら。
「わたし、やってみる。ひとりで生活してみる。センターにずっと閉じ込められてぼうっとしてる内に死ぬよりも、きちんと自分の頭で考えたい」
子供の考えることだって大人は言うかも知れないし、これからどうすれば良いかなんて全く分からなかったのだけれど。でもきっとその方がいい、そう思えた。
おかしなものだ。
そう考えたら、いつも付き纏っている苦しさも、さっきまでの不安もすっかり消えていた。埃っぽい灼熱の街も、植物も空もワントーン明るく見える。わたしは初めてちっぽけな希望と自由を見出していた。
「変な奴」
ケルスティンはにやりと笑い、
「ねえ、あたしお前のこと気に入った」
偉そうにそう言った。

「どうせ行く当てはないでしょ。だったらあたしんとこ来いよ。まあセンターの環境とは大違いだけど──ここよりマシだろ」

2201/7/24/12:26 棗

ケルスティンに連れられるがまま着いたその場所は、空き土地からさほど離れてはいなかった。
けれどもここはどうしたんだろう。
わたしは別の国に来た錯覚に陥った。


センター周辺の地域は住宅区画や商業区画、工業用道路など土地がきっちり分けられている。用途の決まっていない土地といえばいつも行くあの空き土地くらいしか見かけない。公園だって屋内のプレイルームに取って代わられている。
でもここは違う。控えめに言っても、とても手入れをされているような場所には思えない。物がひどく散乱しているわけでも、不潔なわけでもないけれど。
──見放された。
そう、その表現がいちばん近いかも知れない。
もう随分長い間使っていないような手動式ドアのついている古い店──たぶん店──や、割れたボード、旧型のモビリティ。全てがくすんでいる。
今まで画像でしか見たことがない古いものたちに囲まれている。
ケルスティンはそれらを気にも留めずに先へ先へと行ってしまう。そもそも地面がアスファルトで、しかもひび割れていて歩きにくいったらない。必死で彼女を追って何度かつまずきそうになった。そうしてやっと追いついたその先にある物体に、わたしの目は釘付けになる。
屋根が地面から生えていた。
他にどう表現すべきものなのか、わたしは知らない。一メートル程の外壁だけを残して、その昔風の屋根は矢張り生えているように思える。それはこの不思議な場所の中でも特に異様な存在感を放っていた。
「ここ」
ここに住んでる、ケルスティンは歩みを止めずにそう言った。
「ここに、住んでるの? 」
これは、家なのだろうか。こんな家は見たことがない。少なくとも規格住宅ではない。
「ここがあたしらの家」
「あたし──ら? 」
ケルスティンとその家族、という意味だろうか。ああ、とそこで気がついたように立ち止まってケルスティンは振り向いた。
「説明してなかったけど。“地下”って知ってるでしょ」
わたしはぎこちなく頷いた。
「あたしそこの子なんだ。国籍持ってないからここに住んでる」
ていうかここしか住む場所がない、と彼女は笑った。
──地下。
しばし呆然とした。頭の中で数日前聞いた真希さんの声が自動再生(オートリプレイ)される。
──地下の人たちなんかはそれが出来ないから寿命が短いわけだし。
一日の外出推奨時間を守れないような環境にいるから。それから、公共の医療機関にかかれないから。
「じゃあ、オフィシャルカード持ってないの? カリキュラムは? 」
カードや、少なくともIコードがなければ色々な公共サービスが受けられない。モビリティを利用することも、センターに通ってレクチャーを受けることも出来ない。カードは持ってるよ、返って来たのは意外な答えだった。
「偽造だけど。仕事用だからそれ以外のことには使えないけどね。センターに通うのも無理」
偽造。仕事。
今まで聞いてきた地下──無国籍難民──の噂と、ついさっき聞いたケルスティンの話が混じり合って混乱する。
「わたし、ここに来てよかった? 」
やっと言えたのはそれだけだった。
「あたしがなんとかするから大丈夫。こっから入るよ」
なんとかするから。
──何を?
こちらの不安などお構いなしに、ケルスティンはわたしの手のひらを掴んで勢いよく歩き出した。




四方を囲んでいたように見えた壁は、その一面だけがスライドドアになっていて、出入りできるよう造られていた。
その先には果てしなく長い階段が地面の下へと続いている。

見るものや聞くこと、地下の子──ケルスティンの態度はセンターで触れるものとは全く違っていて、わたしの感覚はそろそろ麻痺し始めている。普段のわたしなら同年代の子と手を繋いで歩く、という行為だけで相当動揺しているはずだ。
最初の長い階段を下りきると、メインフロアのような空間に出た。入口のあの外観からは想像がつかないくらい広い。ケルスティンはそこを突っ切って更に下へと続く階段へと向かった。
「この辺りは後でゆっくり案内する。まずはロイのところに行かないと。あたしの兄貴」
あいつがきっと一番頑固だから──そう言いつつもケルスティンは何だか楽しそうに見えた。
沈殿しているようなひやりとした空気がこころよい。外の暑さが嘘みたいだ。ケルスティンが言った通り、ここはセンターとは何もかも違う。
フロアも。壁も、天井も、灯りも匂いも──。
どこかから聴こえる水の滴りと、湿った匂いはなぜかとても深い安堵をわたしに与えた。
──ここが地下。
センターの職員たちが忌避し軽蔑している場所。
直後、背後で声がした。
「ケル」
わたしは驚き肩を震わせた。恐る恐る振り返る。
──高い。
背の高い、鋭い目つきの若い男の人がこちらを見据えていた。その咎めるような視線はケルスティンを捉えている。
ケルスティンを「ケル」と呼んだその人は、ロイとかいうケルスティンの兄なのだろうとすぐに分かった。ケルスティンと同じ目の形をしている。
──怖い。
わたしは身をすくめた。この人がわたしのことを見て何かを言おうとしているのは明らかだったし、わたしの存在を快く思っていないことも感じ取った。その顔はにこりともしない。
いつかどこかのコンテンツで観た、強い肉食獣に睨みつけられた小動物みたいに、わたしはその場から動けなくなってしまった。
「誰、その子」
「ナツメ。センターの子。お嬢様だよ」
ケルスティンはけろりとした顔でそう言ってのけた。
「わたし──お嬢様じゃない」
思いがけない言葉に驚いて反論する。
「ちょっと外出するだけで騒がれるんだからお嬢様でしょ。大事にされてるんだよ。国から」
国って誰よと思う。
「しかも変わってんの」
家出して来たんだって、ケルスティンは兄の方に向き直ってさも楽しそうに続けた。
「ここで暮らしてもいいでしょ」
その口振りに、“なんとかする”というのはこれのことか、と得心する。物事の決定権は彼が有していて、わたしがここに受け入れられて暮らすには彼の承諾が必要なのだろう──なんとなくそう思った。多分、当たっている。ケルスティンの表情がそう物語っている。対する兄の方は感情がないみたいに無表情だ。
「家出して来たんなら自分の力で生きればいい。ケルが世話を焼く必要ない」
彼は冷たく言い放った。終始ケルスティンに向かって話し、わたしのことを見ようともしない。その態度は、センターで子どもたちがお互い無関係を装う態度とはまた違う。先ほどの言い方にしてもそうだけれど、まるでわたしが話すことの出来ないかのような──犬や猫でも見るかのような、そんな態度だった。
──人として見られてない。
体のなかの何かがひやりとして、内臓を手のひらで圧迫されるような苦しい感覚をおぼえる。こんな接し方をされるのは初めてだった。
「ケルスティン」
わたしは彼女と繋いでいた手をそっと解いた。
「もう、いいよ。ひとりで大丈夫だから」
ほんとうは不安だったけれど。でもわたしは確かにさっき自分の力で生きると決めたのだし。それに、この内臓の感覚は耐えられないと思った。
ケルスティンはすごく嫌そうな顔をした。どうして彼女はこんなに気持ちと表情をリンクさせることが出来るのだろう。わたしの方は、傷付いたって悲しくたって、どういう顔で他人に表現したらいいか分からないのに。
「ナツメは良くてもあたしは嫌なの」
加えてケルスティンは言葉ではっきり自分の意見を言って、まっすぐわたしの顔を見た。この視線はわたしにとっては半分攻撃で、そうやって見られると彼女に上手に逆らえなくなる。
しばらくは誰も口を開かなかった。
やがて沈黙を破ったのは、ケルスティンの兄だった。
「勝手にすれば」
呆れたようなニュアンスだった。
「どうせ足手まといになる。気も利かない、仕事も出来ない──ケルが全部責任取れよ。俺は知らない」
お前が拾って来た動物なんだからお前が面倒をみろよ──わたしにはそう聞こえた。
「勝手にするよ」
ケルスティンも言い返した。
「ナツメはここに住むから。ロイなんか知らない」
行こ、と言ってケルスティンは離していたわたしの手を勢い良く引っ張って歩き出す。
うしろからケルスティンの兄の静かでよく通る声が追いかけてきた。
「お前、センターの子は嫌いだって言ってたじゃん」
(うるさ)いよ! 」

その大きな声は、地下中に響いてこだました。

2201/7/24/20:54 棗

「こんなに地球が壊されてるのにさ、夜にはちゃんと星が見えるってすごいと思わない? そこだけ昔と変わらない、大自然みたいで」
すでに日は暮れて、夜の世界が台頭していた。
わたしはケルスティンの“夜のお気に入りの場所”に案内され、彼女と並んで錆びたフェンスに(もた)れかかっている。見上げると幾つかの星がかすかに光っているのが見て取れる。地下の住処の程近く、廃墟となったショッピングビルの屋上なのらしかった。



地下の先代の人たちはホームレスと呼ばれていたそうだ。その名の通り住む家を持たず、路上暮らしをする人たちだ。やがてそこに、日本に来たけれど何かの理由で居場所のなくなった外国人も混じって、ひとつのグループみたいになった。地下はその子孫なのだという。
地下の人たちは働いていないし、国民として登録されていない。存在は前から知ってはいた。レクチャーで扱われたことはなかったけれど、ニュースで時折取り上げられるし、職員同士の会話で話題にしていたのを聞いたこともある。社会問題、などと言って誤魔化すけれど、大抵の大人は地下の人たちのことを快くは思っていないようだった。あからさまに言わなくても、そういうことは言葉の響きから子どもでもなんとなく分かる。彼らには道徳感覚がない。不潔である。そして何やら良からぬことをしているらしい。出来ることなら関わりたくない、ワンランク下に見られている人たち──わたしが今までに得た、地下についての情報だ。

ケルスティンの兄と別れたのち、少し不機嫌になったケルスティンに地下の隅々まで案内してもらった。内心、時時どこからともなく聞こえる音や薄暗さが怖かったし、おまけにわたしはまだケルスティンの兄に与えられたダメージから立ち直っておらず、地下の他の人たちにこれ以上会いたくないと思ったのだけれど、ケルスティンがわたしの手をぐっと掴んでずんずん歩くので自己主張の苦手なわたしはただ為すがままに彼女の後に従う羽目になった。
最下スペースの大半は、細長く地面をくり抜いて内側をコンクリートでコーティングしたような空間だった。無骨で、不思議で、見慣れない。
──外国みたい。
実際、ここは外国なのだ。東京の地下にある、わたしたちとは全然別のルールで暮らしている小さな共和国。
細長い空間は果てしなく続いているように思えた。わたし達は奥へ奥へと進む。
進むにつれ、ちらほらと人がいた。その度わたしの体と表情は硬直する。ケルスティンがわたしにはよく分からない説明をして相手にわたしの居住を納得させる。リサと同じなら、そんな言葉が耳に残った。リサと同じなら、仕方ないね。
もっと拒絶されるかと思っていた。ケルスティンの兄みたいに。でも実際は全員がわたしのことを不快に思っているわけではないのかも知れない。
──仕方ないね。
わたしは何らかの理由で許された。“リサ”と同じ理由で。リサとは誰だろう。ケルスティンは事情をどう説明したのだろう。
地下の人たちは大抵三、四人かたまって何かをしていた。話し込んでいる人、小さな子どもをあやす母親、それから繕い物みたいな事をしている人たちもいる。寝ている人もいた。
イメージしていた地下とは、かなり違っていた。地下は不潔、地下は野蛮、地下には秩序がない──それは大人たちに植え付けられたイメージだったのかも知れないけれど。
そう、ただ避けているだけで実際に足を踏み入れて地下の様子を見た人なんてセンターには一人だっていないだろう。いないけれども、全部知っているような気になって、見てきたような気になって、彼らを馬鹿にしてしまうのはどうしてなんだろう。わたしの目に今映っている地下の人々は、センターで見る人と何も変わってはいなかった。
ただ、生まれ育ったのが地下だったというだけだ。国籍のない親から生まれたから国籍がないというだけだ。
わたしが、センターに偶偶(たまたま)寄付されてセンターで育ったのと同じように。
ケルスティンはあの人達に、わたしがセンターの子だという事は告げたのだろうか。知らないからあんなに寛容な態度なのだろうか。わたしがセンターから来たと知ったら、さっきの人達の態度は変わったりするのだろうか。

細く長く続いていた地下の最下空間は、その終わり方がとても唐突だった。
ちょうど、筒型の容器に蓋を嵌め込んだかのように、コンクリートの無機質な壁がまだまだ続きそうなその先を塞いでいた。
「ほら、ここ昔はチカテツだったから」
ケルスティンはその壁に寄りかかる。そういえば、昔は地下鉄という乗り物が移動手段として活躍していたという情報を見たことがある。ここがそうなのらしい。
「地下鉄って街のどこにでも繋がってたらしいじゃん。そのままだったらここに住んでるあたし達は街中どこにでも行けちゃうわけ。それは堪ったもんじゃないって政府がね、塞いだの。この先の地下はモビリティのパーキングとかに造り変えられてる」
じゃあ、この壁の先はわたしが今まで住んでいた世界なんだ、そんなふうに思った。
「一番下はこんな感じ。次、上見せてあげる」
ケルスティンは乱暴にその壁を蹴って勢いで軽く走り出す。彼女の不機嫌は大方おさまったようだった。細長い空間を抜けて、長い長い階段を重力を無視して軽やかに駆け上る。スクリーンでしか見たことのない、小さくて素早い野生動物みたいだ。わたしは階段を使うこと自体久しぶりで、滑って落ちそうな感覚になってちょっと怖い。ケルスティンはそうは思わないのだろうか。
階上でやっと追いついたわたしは膝に手をついて肩で息をした。
「体力なさすぎ」
ケルスティンは可笑しそうに笑う。わたしは不服だ。センターでは殊更そんな風に言われたことはなかったし、普通だと思う。ケルスティンの方が動きすぎるのだ。
「ここのフロアは平らで広いからみんなで集まるときに使うの。あと、料理したりする場所とかシャワーできるとことか。それから奥の仕切られてるとこにはメインスクリーン」
──スクリーンとかあるんだ。
もっと原始的な暮らしをしているのかと思っていた。でも、言われてみればケルスティンはわたしよりニュースに通じていたなと思い出す。シャワールームへと案内するケルスティンについて歩いて、改めてその広さにため息をつく。
「ここ、何人くらいの人がいるの? 」
「七十人くらいはいる」
そうすると、センターのグループの三つ分くらいだ。多いのか少ないのか分からない。でも、この広さなら充分かもしれない。
「ケルスティンくらいの子は、他にいないの? 」
「ん──だいたい大人。一番歳が近いのはロイだけど、四つ離れてて十六歳だし。歳下は幼児とか赤ちゃんとかが三、四人と──」
唐突に言葉を切ってケルスティンはピタリと止まった。わたしはすんでのところでその背中とぶつかりそうになる。
「リサ」
彼女は物陰に向かってそう呼び掛けた。
──リサ。
先ほど聞いた名前だ。わたしは目を凝らす。ケルスティンが駆け寄ると、物陰から小さな女の子が飛び出して鳥のように逃げて行ってしまった。ケルスティンは目を見開いてしばらくその後を追い、姿が見えなくなるとしゃがみ込んで、あー、と唸った。
「リサは──あの子はリサって言うんだけど、注意して見てないとすぐああいう隅っこでじっとしてんの。で、癖でかさぶたとか髪の毛とか抜いて食べちゃう」
わたしは一瞬のうちに駆けて行った少女の姿を思い起こす。服がぶかぶかで、痩せっぽちで、何だか目ばかりが目立っていた。あの子が、リサ。
「たぶん六歳」
「たぶん──って? 」
「捨て子なんだよあの子。あたしが拾った」
なんでか知らないけどいつも緊張してびくびくしてる──ケルスティンは立ち上がりざまわたしを振り返った。
捨てられていたというのは本当だろうか。だとしたらなんて時代錯誤なんだろう。というか、そんなこと不可能ではないだろうか。
「それ、ほんとに捨てられてたの? 迷子とかじゃなくて? 」
「あたしが外に出たらリサが立ってて。冬で、しかも夜中だよ。だいたい普通はこんな場所一般住民は近寄りもしないし。帰るところがないとか言うからとりあえず泊まらせて、もう半年くらい経ってる。行方不明情報にも載ってない」
少し背中がぞわぞわとした。ケルスティンはわたしの目を無遠慮に覗き込む。
「ちょっとナツメと似てた」
──リサと同じなら、仕方ないね。
他に行くあてのないリサ。そしてわたし。
わたしは地下の無国籍難民に拾われた。そしてここで、暮らす。




夜。
こんなに改めて、じっくりと星を眺めたことは今までなかったように思う。見ようとしてもライトのたくさん灯ったセンターからでは殆ど見ることが出来なかった。
「いつも思い出すの。星を見ると」
体重を乗せたフェンスをケルスティンはぎいぎい軋ませる。
「宇宙なんだなって」
「宇宙? 」
問うと、彼女は夜空に向けた目線を一瞬だけこちらに寄越して笑った。
「ここは東京だけどさ、東京である前に日本で、日本である前に地球で、地球である前に宇宙なんだなって」
ここは宇宙なんだなって。
「あたし達が今見てるこの黒いのは宇宙だし、光ってるのはすごい遠くのでっかい天体だし。天井のライトとかじゃないの。本当は全然、手も届かないくらいの遠くて壮大な景色なの。全然小さいかけらとかじゃないの」
言われた途端なんだか自分の重みをはっきり感じ取った気がした。ここが本当は宇宙だなんてこと、わたしが思っても思わなくても変わりはないのだけれど。でも、センターにいたらそんなこと考えつきもしなかった。なにしろあの小さな自室ですべて事足りて生活出来てしまっていたのだから。
夜は──不思議だ。
夜は、昼間だったらとても言えそうもない素直な気持ちも力を込めずにするんと言えてしまったりする。そういう力が確かにある。
「──わたし、こういうの初めて」
ケルスティンが顔を向ける。暗さのせいか昼間と違って脅迫的には感じない。
「こういう風に同い年の誰かとお喋りしたりすること、今までなかったの」
センターにはあんなに溢れ返る程の子ども達がいるのに。それなのにルールが厳しかったりみんながみんなバリアを張ったりして、結局全員が独りぼっちだ。
だから、空き土地でいきなりケルスティンが話しかけて来たときは、怖かったけれど新鮮だった。
「あのさ」
ケルスティンの声のトーンが少し下がる。
「最初はあたし、ナツメのことからかおうと思って話しかけた」
──センターの子は嫌いだって言ってたじゃん。
「何かおどおどしてたし、困らせようと思って。そしたら思ってた以上に変わってたから、笑っちゃったけど」
「嫌いだった? センターの子」
うん、とケルスティンは素直に肯定した。
「でも、改めた。今まで嫌いと思ってただけで実際に話したわけじゃなかったし。ナツメと話してみたらそんなに嫌な奴じゃなかったし。思い込んでただけなんだなって」
「わかるよ」
わたしもフェンスを鳴らす。
「そういう思い込み、センターの側にもある」
だからなのだろうか。
だから本当はお互い仲良くできるはずなのに出来ないのだろうか。要するに、そう──コミュニケーションの不足。
「本当はお互い近づかなきゃいけなかったんだよ」
頷いたケルスティンはため息を漏らして「ロイなら分かってくれると思ったのに」と少し顔を歪めた。
ロイ。同じ親から生まれたケルスティンの兄。兄弟がいるというのは一体どんな感じなのだろうと思う。けれども親も兄弟もいない──いるとしても会ったこともない──わたしにはその感覚がよく分からない。
「あ、それと」
そう言ってわたしに向けられたケルスティンの表情はもう元に戻っていた。
「あたしのことはケルでいいよ。そう呼んで。ケルスティンじゃ呼ぶ方も呼ばれる方も面倒だし」
「じゃあ──、そうする」

初めて自然に笑えた気がした。

2201/7/25/07:19 棗

戦争は、すぐそこまで来ているのだろうか。

わたしには分からない。
それが現実にこの国で起こるかも知れないということすら上手く理解できない。気配が感じられない。
けれど、戦争の危機が本当なのだとしたら、それは気配を殺し、足音を忍ばせ忍ばせ思いもよらない瞬間に──やって来る。
そういうもののような気がしている。



朝、目が覚めたとき軽くパニックになってしまった。
見慣れない天井の色。
賑やかな物音。
人の声。
わたしはどこに居るんだろう、とひととき動揺して、それから思い出した。
──地下に泊まったんだ。
泊まるどころかここに住むのだ。
地下にはバスルームはない。
六つあるシャワー室を皆が交代で使い、ざっと汗を流せるだけだった。
地下にはベッドはない。
ケルスティンがどこからか持ってきた薄いマットをフロアに敷いた。その上で寝た。
ここは本当にセンターとは違う。起き上がろうとしたら、体がみしみし痛かった。

わたしは壁に背中をぴたりと着けて、おさなごのポーズでひとり座っていた。不安になるときの癖なのだ。胸に膝を寄せてうずくまるこの姿勢は、わたしを少しだけ安定させる効果を持っている。ケルスティンは起きて早々ちょこまか動いて、いつのまにかわたしを放ってどこかへ行ってしまった。
──どうすればいいか分からない。
だから長いことずっとこの姿勢でいる。
地下の朝は忙しい。彼らは全体でひとつのグループのようになっていて、皆が同じ流れで活動する。ケルスティンに聞くところによると、食事や掃除、洗濯などの日常の雑事はそれぞれきちんと組織されルーティーンで行われているそうだ。
ケルスティンがせっかくここに住めるようにしてくれたけれど、わたしは早くも挫折しそうだった。
あの人たちの中に、入れない。挨拶すらしていない。
よく分からないのだ。
センターでは何も言わなくても職員が何でもやってくれて、それで必要なものは全部揃った。
けれどもここはどうやら違う。地下の社会はみんなが協力し合うことによって成り立っている。
やってもらう側とやってあげる側。
ここにはそういう区別は存在しない。わたしは、それについてゆくことが出来ない。
──でも、しょうがないよ。
わたしはここで生まれた子ではないのだから。今までそんな事、やったことなどないのだから。
しばらく自分の膝だのコンクリートの壁だの、見ていた。

「ほら」
片手にマグ、片手にパンを二個ずつ持ったケルスティンがようやっと来て、わたしの隣にどん、と座った。
「朝ごはん。食べな」
躊躇いながら受け取ったマグは年季が入っていて、色とりどりの野菜くずが混ざった薄茶色のスープが湯気を立てている。手に持つとじわりと温かい。パンは多分業務用のもので、日が経っているのかちょっと硬い。珍しくてしばらくそのまま見つめてしまう。
「やっぱお嬢様じゃん」
ケルスティンはパンをスープに浸しながらそう言った。
「何したら良いか分かんないんでしょ」
「だって」
だってそんなのした事ない。それに、何も分からないわたしを置いて行ったのはケルスティンじゃない、と思う。
「なんにも言われてないし──」
「なにそれ。何か言われんの待ってるわけ? おはようございますとか、何したらいいですかとか、自分から近づけばいいんだよ」
「できない」
「なんで」
「……わかんない」
はあ、とケルスティンは大袈裟なため息をつく。
「ナツメさ、ここでやってける? 」
そう訊いたが、わたしに答えは求めていないようだった。
──どうせ足手まといになる。気も利かない。
ケルスティンの兄はそんなふうに言ってわたしがここで暮らすのを反対したのだった。あのときはどうしてそう言ったのか分からなかったけれど、今思い出したら胸が痛くなる。自分の力で生活してゆくことと、コミュニケーション能力が関係しているなんて思いもしなかった。必要なのは行動力と賢さなのだと思っていた。
無言になった二人の間で、ずう、というスープの音だけがやけに大きく響く。
「さっき──どこ行ってたの」
重い空気に耐えかねて、わたしは話題を変えた。
「上でスープ配ってた」
ケルスティンは軽くマグを持ち上げる。
「大抵はさ、大人が料理を作る。そしたら子どもが配る。子どもそんなにいないけど。それで大体家族ごとのスペースが決まってるからその単位で集まって食べるパターンが多いかな」
「家族」
「そう」
不思議な感じがする。地下はひとつのグループみたいだとは思ったけれど、家族というシステムに普段触れないから全く頭になかった。そこでようやく思い至る。ケルスティンにだって家族がいるはずなのだ。
「ケルは? 今日──」
と言いかけたわたしははっとして、わたしのため──と問うた。
「それもあるけど。昨日ロイと喧嘩したから」
その喧嘩の原因は、わたしだ。
「ごめん……」
けれどケルスティンはすぐごめんとか謝っちゃだめ、となぜか怒った。
「ナツメ弱そうじゃん。だから尚更言っちゃだめ」
わたしはまたもや不可解さを感じる。ケルスティンは決まりきった事みたいに言うけれど、その理屈がわからない。なんで弱そうだったら謝っちゃいけないんだろう。でも、そんなものなのかなとも思う。よく分からない。
よく分からないまま頷いた。
センターの職員は、素直な心が大切だと言う。誰かに迷惑をかけたり気分を悪くさせたら、自分から謝るべきだと言う。今朝は出来なかったけれど、本来は自分から挨拶をしたり礼儀を守るようにも厳しく指導されている。だから、ずっとそれが正しいと思っていた。
でも──どちらが正しいかは別として──思い返してみると、わたしは今まで何が正しくて何が間違いか、自分できちんと考えたことがない。
そう気がついた。
「どうせロイとはしょっちゅう喧嘩してんの。昨日の原因がたまたまナツメだってだけ」
「喧嘩って、そんなにしょっちゅうするものなの? 」
他人と喧嘩なんてしたら、わたしはとても落ち着かなくなると思う。そもそも誰かと衝突するほどの近しい距離感になるのは怖いと思う。
お前やっぱり変な奴、とケルスティンはただ面白がった。
「でも、親は? ──親はなんにも言わないの? 」
食事のときに自分の子どもの姿がなければ、親というのはたぶん心配するのではないだろうか。家族なのだから。
マグを傾けてスープをくるくると回していたケルスティンは一瞬わたしを見て、それからまた視線をスープに戻した。
「親は死んだの」
「──え? 」
「死んだ」
死んだよとケルスティンは繰り返した。
「そういうもんなの」
ケルスティンの口調はあまりに素っ気なくて、わたしは却ってどうすればいいかわからなくなる。結局、沈黙した。
そういうもん──とはどういう意味なんだろう。ケルスティンの親はどうして死んでしまったのだろう。親が死んだら、子どもはどんな気持ちになるんだろう。
──多分、悲しい。
けれど感じるのはきっと“悲しい”だけじゃなくて、わたしの知らない、もっと複雑な何か。そういうものもあるんじゃないかと思う。
分からないことは沢山あったのだけれど、何だか何も訊けなかった。
気安く触れてはいけないような、そんな気がした。
「スープ、冷めるよ」
ケルスティンは笑った。
「べつに不幸とかじゃないんだと思う。ナツメにだって親、いないんだしさ」
そうだった。わたしは捨てられた。
「そうだね」
わたしはスープを飲み干した。




「自由には責任が伴うの」
伴う、などとケルスティンは大人みたいな言葉を使う。わたし達は空になったマグを持って地下一階のフロアに向かっていた。ケルスティンは先を進みながら続ける。
「好きなこと出来るけど、責任は全部自分にある。誰かのせいにするとか、出来ない」

お前のこと訓練するから、とすでに決定事項のようにケルスティンが言い放ったのは朝食後すぐのことだった。「自分の力で生きてくって決めたんでしょ、だったら挨拶も出来なくてどうすんの」というのが彼女の言い分だ。ケルスティンはわたしと同い年なのに、わたしよりずっと年上みたいに見える。ケルスティンがわたしに課した訓練は、マグを洗い場に持って行ってそこにいる人たちに挨拶し、洗い物を手伝うというものだった。
移動しながら改めてところどころに散らばって食事する地下の人たちを観察する。男の人も女の人もいるけれど、歳を取った人はあまり見ない。センターも同じようなものだけれど。
──わたしの事、捜してるかな。
ふとそんなことが頭を過ぎった。今頃センターの保護職員たちはあちこちわたしを捜しているのだろうか。日菜子さんや真希さんは頭を抱えているだろうか。そうだったらなんだか申し訳ない。まさか四十階の窓から脱走するとは思わなかっただろうし、オフィシャルカード不携帯で地下に保護されたわたしを捜し当てるのは至難の業だろう。
あのとき、職員たちがそろって険しい顔つきをしていたのは戦争の噂のせいだったのかなと今は思う。だとしたらわたしの事で一層険しい顔をさせてしまっているに違いない。
「ねえ、聞いてた」
「──あ、聞いてた」
「本当にぃ? 」
ケルスティンは強そうな目でわたしを見る。
怖い、と思う。
「なんかテンポ遅くない? ぼうっとしちゃ駄目だよ」
ぼうっとしていたのではなく、考えていたのだ。けれど何だか上手に言えない。ケルスティンの言う“ぼうっとしている”というのは、わたしの思う“ぼうっとしている”とは違う気がする。
ケルスティンが前に向き直ったとき、その先にいる人影にわたしは気づいて硬直した。ケルスティンの兄──ロイがちょうどこちらへ歩いて来るところだった。
ケルスティンは無視してすれ違おうとしたけれど、ロイは立ち止まった。彼女も仕方なく歩みを止める。
「その子、センターに帰して来な」
ロイの声は、静かなのになぜか強い。
「なんで。家出したって言ったじゃん」
そんなのただの世間知らずだろ、そう言ってわたしをちらりと見る。
「そのうち自分から帰りたいって言うんじゃないの」
居心地が悪かった。
その通りなのかも知れない。今まで考えもしなかったけれど、わたしはただの世間知らずなのかも知れない。なんだか急に恥ずかしい。
「何でいっつも、そういう──」
ケルスティンが次に発しようとした言葉は突如掻き消された。
警報──だろうか。
甲高く不快な警戒アラームが前触れもなく上のフロアの方から響いた。出どころは恐らくスクリーンだろう。地震予測でも大雨警報の音でもないそのアラームは雑音に満ちていた地下街を一瞬にして静まらせた。
何だろうと言い合う間も無も無かった。
直後、どん、という低くて大きな音と振動が来た。ぱらぱらと天井からコンクリートの破片が落ちる。
「何、今の」
ケルスティンは体勢を崩して尻餅をついている。
「これ──多分爆撃だ」
ロイは見上げてそう言った。
「──え? 」
「北西の方に落ちたと思う。爆撃されたの、センターかも知れない」
行こう、とロイは走り出した。ケルスティンも立ち上がってわたしに手を伸ばす。
「行こ」
そのまま引っ張られて走った。
わけが分からないまま走る。
階段を跳ぶようにして上る。
──戦争が、始まってしまった?
これは現実だろうか。ここは日本だろうか。わたしの中で不安だけがぐるぐる回る。
バクゲキというのは多分、破壊兵器によって攻撃されたという意味だろう。
──爆撃されたの、センターかも知れない。
だとしたら。
だとしたら、センターは。

もう家出、したのに。わたしはセンターとは関係ないのに。センターのこと、あんなに窮屈に感じていたのに。
なのにこの気持ちは何なのだろう。どうしてこんなに不安になるのだろう。

──センター、無事でいて。

慣れない階段に息を切らしながら、わたしは誰かに願った。

2201/7/25/08:40 棗

地下の居住エリアを抜けて一般の住宅区画に入ると、外の様子は普段とはまるで違っていた。

家にいた一般住民がみんな外に出て徒歩で避難しようとしている。室内用のラフな服装のまま直射日光を浴びるのも構わず、出来るだけ迅速にここから離れようと必死だ。
小さい子が泣く声。
誰かが誰かを呼ぶ声。
地下から来て立ち尽くすわたしたちの事なんか誰も構いやしない。目もくれない。周辺の住宅に破壊された様子は見られなかったけれど、やがてここが攻撃されるのも時間の問題だと判断したのかも知れない。
「またさっきみたいのが来ると思う? 」
ケルスティンは息を整えている。
「大丈夫だと思う。多分あの派手な爆発は威嚇も兼ねてるんだ。もっと静かで効果的な殺戮兵器は幾らでもあるから。ロシアは宣戦布告のつもりなんだろ」
見ると、遠くに白い煙が立ち上っていた。
「──やっぱり。あそこ、センターだと思う」
わたしもあの方向はセンターのある場所だとすぐに分かった。
私たちはまた走り始めた。住民が逃げるのと逆の方向──爆撃地のセンターに向かって。
空き土地を越えればその先はいつもの散歩ルートだ。網目のように細かく張り巡らされているその道を、どう進めばどこに突き当たるか、わたしはもうすっかり把握している。わたしたちは走る。猫のようになって。できるだけ素早く。




センターは濁った煙に覆われていた。
周りには誰もいない。ただもくもくと視界を阻む煙だけがわたしの視界にある。何だか嫌な匂いがする。明らかに、センターを意図的に狙って攻撃したのだと思わせる破壊のされ方だった。

本当にここに、破壊兵器が落とされた。
──本当に戦争になったんだ。
事故対応のレスキューチームはまだ到着していないようだった。

ロイを先頭に瓦礫の山を不安定に歩く。色色が信じられない。
ここは本当に間違いなくセンターなのだろうか。昨日、この同じ場所にはいくつものどっしりとした建造物があったはずだ。わたしはそのE棟の四十階の角部屋でずっと寝起きしていて、昨日窓を確かに伝って屋上へ出たはずだ。
嫌な匂い。
煙。
しゅうしゅうという音や、崩れた瓦礫が更に崩れる音。
「駄目だ」
ロイが振り返る。
「入らない方がいい。また崩れるかも知れない。生存者も──」
「でも」
心臓がざわつく。
「でも、行かなきゃ」
わたしは堪らず走り出した。
「馬鹿危ないよっ」
ケルスティンの叫び声が聞こえたけれど、構わず走り続ける。
行き着いた棟の一階部分は、崩れないで少しだけ残っていた。たぶんこの辺りは管理(コントロール)エリアだったところだ。
──ここなら。
もしかしたら誰かが中で助けを待っているかも知れない──そう思った。わたしはいつからこんなに大胆になったのだろう。
「誰か、いますか」
声が掠れた。返事はない。更に内部へそろりそろりと入っていく。怖いほど静かだ。崩れかけた廊下は薄暗く、わずかに光が差している程度で様子がよく分からない。
「危ないって言ったじゃん! 」
ケルスティンとロイが追いかけて来た。
「何このエリア。ちょっと怪しくない? センターってこんななの」
「わたしもここ、あんまり来た事ない」
ロイは建物内をぐるりと見回している。
「ここだけ特に頑丈に造られてるのかな。この辺だけそんなに崩れてない」
三人で廊下を少しずつ進んで行った。角を曲がる。
突然だった。
そこに、それはあった。
──何?
最初、何かが置いてあるのかと思った。
たくさん何かが積み重なって置いてあるのかと思った。
たくさん。たくさん。
ロイは急に立ち止まった。ケルスティンは息を呑む。
それは先端が手のような形をしていた。
ではなくて、

──本物の手だった。

うつ伏せになって、腕を伸ばした変な格好で。
「──死んでる」
ロイが淡白に事実を述べる。
これは。
これが。
死──なのか。
嘘。嘘。嘘。
「だってこんなにたくさん──」
「ナツメ」
ケルスティンはわたしのユニフォームを引っ張って後ろに退かせた。
「見ちゃ駄目。お前の知ってる人もいるかも知んない」
「知ってる人──? 」
わたしは動けなかった。意味が分からない。震えが止まらない。
──あれが、死。
死んだ人を見るのは初めてだった。
死んだ人は、モノみたいだ。
──この匂いは死人の匂い。
人の死は、画像で見るのとは全然違う。あれはわたしにとってフィクションと同じだから。だから平気で見ていられたんだ。実際はこんなに異常で、こんなに呆気なくて、こんなに──。
耐え切れない。
耐え切れなくなって、蹲み込んだ。
「帰ろう」
ロイが促す。
「立てる? 」
ケルスティンがわたしの顔を覗き込む。
立てそうもなかった。ふるふると首を振る。
「ほら」
ケルスティンが差し出した手をわたしは縋るように掴む。そうして、なんとか立ち上がることが出来た。
ロイは引き返すルートに慎重になっているようだった。再び屍体に出くわさないように配慮してくれているのだろう。俺が良いと言うまで来るな、という彼の指示をわたしは夢の中のようにぼうっと立ちながら聞いていた。
──わたしはどうしてここでこんな事をしているんだっけ。
わたしはどうして生きているんだっけ。だってわたしは本来ここに住んでいた子なのに。センターの子なのに。さっき見た人みたいになっていてもおかしくなかったのに。
──わたしが、家出なんかしたから。わたしが。
悪い子だから。
だからこんな風になった。だから戦争になったんだ。
「ぼうっとしちゃ駄目だって」
耳元でケルスティンがそう言ってわたしの背中を叩く。
「いい。今ぼうっとしたらろくでもないこと考えるから。それ全部間違いだから、何考えてるか知んないけど。とにかく脱出することだけ考えな」
わたしは瞬きを繰り返して馬鹿みたいに頷くことしか出来なかった。どうしてケルスティンはそんなことを知っているんだろう。もう経験したことみたいに。
ロイの指示に従って慎重に引き返し始めたとき、わたしは違和感を感じて足を止めた。
「何」
──まただ。
誰かが呼んだ気がしたのだ。正体の知れない、酷くか細いテレパシーめいた呼び掛け。
誰かを呼んで、誰かを待っているような。
──ここにいる?
「誰か──生きてる」
ケルスティンは首を振った。
「みんな死んでたじゃん」
でも、どこかで生きてる、多分。
「あのドア──」
わたしは真っ直ぐ右前方を指差す。来たときは気づかなかったけれど、ドアがぽつんとはめ込まれていた。
「やめときな」
「お願い」
おねがい、と繰り返す。
「平気だから」
わたしは必死になる。なぜかあの気配を無視できない。
「ドア、開けるだけでいいから」
そこに気配の正体はないのかも知れないけれど。
「そんなに言うんなら」
そう言ったのは、ロイだった。初めてわたしに向かって喋った。
「じゃあ、開けたらいい。でもそしたらすぐ帰るから早く済ませな」
「うん」
わたしはドアに走り寄った。カードは持っていないけれど、壊れているから、
──きっと開く。
ドアに触れた。左側へ寄せるように力を入れる。ガッという鈍い音と共にドアは開いた。
「何も、ないね」
それは、がらんとした小さな部屋だった。右半分が天井から崩れて傾いている。
四角いベッドと四角いスクリーンの殺風景な部屋。
それから、棚。
衝撃で飛び出したのだろう、何冊かの本が一箇所に重なり合って落ちている。
「うわ、古。紙の本だよ」
今はたいていの文書がペーパーレスで、わたしも紙の書籍などアーカイブエリアでしか目にしたことがないので不思議で物珍しい。
そっと中に入る。部屋の中を見回す。わたしの期待とは裏腹に、室内には誰もいないようだった。
間取りは本棚がある以外、わたしの使っていた部屋とほぼ同じ。この造りは職員用でも来客用でもない。センターの子どもが使っていたのだろうか。
でも妙だ。
国有未成年の居住エリアはD、E棟の二階からときちんと区画が決まっていたはずだ。こんなところにひとつだけぽつんとあるこの部屋は一体何なのだろう。
「ナツメ」
わたしの後ろから部屋を覗いていたケルスティンが背中越しにそっと呼んだ。
「そこ」
「え? 」
わたしは示される方向へ向き直った。ベッドと、壁の隙間に。
「あ──」
いた。
──長い髪の毛。
それは動いた。
「生きてる──。生きてる」
俄かにわたしの体内の血流が激しくなった気がした。
それは、少女だった。


長い黒髪を背中に散らして、少女がそこに倒れていたのだ。

2201/7/25/08:49 棗

視界は澱んでいた。

半分落ちかけた天井の粉塵が部屋の空気を濁らせ、少女は今にもその濁りに紛れそうだった。咄嗟に動けず、わたしたちは茫然とその少女を見つめていた。

少女の指先が微かに動く。
それから、頭が動いた。
──起き上がろうとしてる。
慌てて走り寄る。
腕を掴んで支えようとしたら、もう一方の腕をケルスティンが支えてくれた。生身の人の体は密着すると生温かくてぐにゃぐにゃで、とてもパーソナルな部分に触れてしまっているようで怖くて堪らなかった。
──だけど、これが。
この生温かい吐息と湿度と不均一な感触が人間だ。どんなに有機的なものを排除しようとも、これが生きているということなんだ。
助け起こされた少女は寝起きみたいな顔で辺りを見回した。
着ているのは国有未成年指定カラーのブルーグレイのユニフォーム。前髪のない、長くて細くて黒い髪の毛と切れ長の目と白い肌。大人っぽい顔立ち。身長はわたしやケルスティンより高かった。
見たことのない子のような気がするけれど、確かなことは言えない。自分のグループメートの顔さえよく覚えていないのだ。
でも。
さっき感じた。
空き土地に佇んでいたときも、それから昨日センターを抜け出す前も。
呼んだのは。
──呼んだのはあなたですか。
「──誰ですか」
少女は焦点の定まらない目でそう訊いた。それから、
「何が──起こった? 」
と顔を顰めた。
「爆撃されたんだよ、ここ」
「爆撃? 」
少女がもう一度眉根を寄せた時、どこかで建物の崩れる派手な音がした。
「もう行こう、そろそろ危ない」
ロイがみんなを急き立てる。
「行くって、この子は」
「その子も一緒に連れてく」
ケルスティンは瞬間驚いたようにロイを仰ぎ見て、それから少し笑った。
「とりあえず出るよ、説明は後でする」
怪我、無いねと言ってケルスティンは少女の腕を引き、ロイに続いて駆け出した。
「ナツメもだってば、早く! 」
その声にはっとして、わたしも一拍遅れて追いかける。焦っていたので、コントロールエリアから外へ出ると崩れた瓦礫を踏み分けて無造作に突き進んだ。
「ナツメ」
助けた少女と共にすぐ前方を進んでいたケルスティンは咄嗟にわたしを呼んで、腕をぐっと引き寄せる。
「なに? 」
その行動に違和感を感じて、わたしは歩いてきた足下の瓦礫を無防備に振り返ってしまった。
──屍体。
叫んで、ケルスティンにしがみつく。死んでる。見回せばどこでもかしこでも。血を流している。瓦礫に潰されて汚れている。
ケルスティンに抱えられるようにして、震えておぼつかない足でわたしは逃げた。


──こんなの、こんなの。
絶対違う。こんなのセンターじゃない。あんなに無秩序に、あんなに薄汚れて、絶対違う。絶対違う──。
気がつけば辺りは騒がしく、何処からか災害緊急モビリティのサイレンが幾つも聞こえる。あんな音、いつからしていたんだっけ。景色が目まぐるしく変わる。自分の足をただ動かしてどこをどう通ったのだか朧げなまま、気が付いたらわたしはケルスティンと連れて来た少女と共に地下の冷たいフロアに座り込んでいた。
「大丈夫? 」
ケルスティンの問いかけにわたしは何度も馬鹿みたいに頷いた。
「あれは、しょうがない。誰だってああなるから。あれはナツメが悪いんじゃないよ」
もう一度頷いて、わたしは膝を胸に寄せて抱えた。そうしていると体の震えは徐徐におさまってきた。
そうか、そうか、と現実が少しずつ体に染み込んでいく。
もう今までの生活に戻ることは出来ないんだ。
本当に出来ないんだ。
センターに閉じ込められて、大人に守られてただぼうっとしている内に戦争になって死ぬかもしれないのなら、自分の力をちゃんと使って生きたいと思った。本気でそう思った。
でも今日、本当にセンターは爆撃された。本当に粉粉になってしまった。本当に人が死んだ。この目で、見た。
それは現実のことだった。
もしかしたらわたしは、戦争なんか起こらないとどこかで思っていたのかも知れない。耳で聞いて、脳で理解はしたけれど、ちっとも認識出来ていなかったのかも知れない。
何かあったらすぐ戻れるって。
ずっと家出したままの訳じゃないって。
──きっと、心の隅でそう思っていた。
いまさら気づいた。

目を上げると、ロイが向こうからやって来るのが見えた。てっきりここにずっと一緒にいるものと思っていたけれど違ったらしい。そういえばわたしは戻って来てから震えているばかりで、周りの状況を把握する余裕すらなかった。
「スクリーンで速報やってた。上空からの様子が映ってた」
ケルスティンの隣に座り込みながらロイは顔をしかめる。
「上から見たらよく分かったけど、あれは明らかにセンターを狙った攻撃だ。センター周りはそれほど巻き込まれてなかったから、多分軍事用ドローンに中性子タイプの破壊兵器を積んで落としたんだろうな。防衛庁は、今回のロシアからの攻撃を宣戦布告じゃなくてテロと認識する、みたいな発表をしたらしい」
いきなり民間人を巻き込んでの武力行使だからとか──ロイは何だか難しいことを言っていて、わたしは後半辺りからほとんど内容を理解出来なかった。
「それから──」
今までの調子と一変して、ロイの口調は少し淀んだ。
「センターの生存者は、今のところまだ一人も確認出来ていないらしい」
「ひとりも──」
みんな、死んでしまったの。あんな風に汚らしく転がって動かなくなって血を流して。日菜子さんも真希さんも。グループのメンバーも。
──でも、じゃあ。
ロイとわたしとケルスティンの視線は、自然とセンターから連れて来た少女に注がれた。
「あんたよく生きてたね。何で助かったんだろ」
彼女は今のところ、あの時センターにいた人間の中でたった一人の生き残りということになる。ケルスティンの発言に、少女は淡々と「よく分からない」と応じた。
「私、いつから意識が飛んでたのかも覚えてないから」
こんなにも急激に状況が変化したというのに──いや、急激に変化したからこそと言うべきか──彼女は少しも動じていない。まるで起きた惨状を画面越しに眺めているかのような、自分のことを話しているのにその感覚がないかのような無関心さ。もしわたしもあの時あそこに実際いて彼女のように助かったのなら、こんな反応になっていたのだろうか。
「名前は? 」
ケルスティンはわたしに初めて会った時のように少女に尋ねる。
「あたしはケルスティンていう。悪い事してるけど悪い奴じゃないよ」
「名前は」
たぶん、と言って、彼女はフロアの上に指で文字らしき形をなぞった。
──未。
白く細くしなやかな指。甲にみどりの血管がうっすらと透けている。
「──み? 」
「そう読むんだと思うけど」
「思う、って」
「呼ばれたことがないから」
少女──未というらしい──は無感情にそう答えた。え、と思わず三人揃って聞き返す。
「いくら何でもそれはなくない? 」
「そうでもないよ。ちょっと来なさいとか、座りなさいとか、名前抜きでも呼ばれれば分かる」
「そうかも知んないけどさあ──」
「ずっとあそこで生活してたんだろ」
ロイの質問に少女が頷くと、彼は難しい顔をして黙り込んでしまった。あいつ、考え込むと他の機能がストップするんだよ──ケルスティンがわたしの耳元で囁いた。
「ナツメはセンターで会ったことないの」
「多分ない」
ないはずだ──と記憶を探る。
「子ども同士の関わりって普段からあんまりない」
「ふうん。変な感じ」
変なのだろうか。
「変かな 」
「うん。だってずっと一緒に暮らしてるのに。仲間なのに」
「仲間──」
そう、仲間だったのだ。
今までそんな風に考えたこともなかったけれど、同じグループのあの子たちは、きっと仲間だった。
「センター、職員も合わせると、千人くらいいたの」
──でもみんな、死んだ。
どう受け止めるものなのか、わたしはよく分からない。
怖かったのは確か。動揺もした。でもそれは爆破されたセンターや無惨な屍体を見たからだ。
仲間が死んだということで自分がどう感じているのか、わたしはわたしの気持ちがよく分からない。悲しいのかどうかも。
「でも、ナツメは生き残ったんだよ」
何も喋っていないのに、考えを見透かしたようにケルスティンはわたしの目をじっと見て言った。

「──その、未って名前は」
考え込むのを止めたらしいロイは再び少女に話しかける。
「呼ばれたことがないんなら何で分かったの」
「個人データは見ることができたから。そこに載ってて」
確かに個人データは、管理は職員がするけれど、閲覧ならセンターの未成年も自由にできる。わたしのデータの場合、無断外出のデータばかりが上書きされていたけれど。
「名前の他のデータは? 」
「私のには特に変わった点はなかったと思うけど──。学力レベルと、健康状態の記載だけ。あとは基本情報」
「年齢は? 」
「十三」
十三歳ならカリキュラム7の子だ。わたしやケルスティンよりひとつ年上ということになる。
「グループとか、あるんだろセンターは。担当保護員とかもいるんだろ」
少女は怪訝な顔をした。
「そういうのは──よく分からない」
──え?
わたしは耳を疑った。
「分からない? 」
分からないと彼女は自信なさげに応じる。
それはおかしい。
それはないと思う。それらは国有未成年がセンターで生活する上での基本なのだから。
「じゃあ今までどういう生活してたの」
「学習をして、食事して、運動しての繰り返し。時時、身体検査もあった」
そのうんざりするようなルーティーンの生活はわたしとほぼ同じだと思った。ただ──。
「ただ、何だかぼんやりしてて。周りの人たちがどんなだったかははっきりしない」
──混乱してる?
見た目には分かりにくいけれど、先ほどの攻撃に彼女は相当のショックを受けたのかも知れない。PTSDや、一時的に記憶が欠落した状態になってもおかしくないのかも知れない。
「それは──」
わたしが次の言葉を繋げる前に、ケルスティンが先に口を出す。
「それって、何かのショックで起きる記憶喪失とかそういうやつなんじゃない。分かんないけど」
爆撃の時に頭ぶつけたとか──そう言って少女の額あたりを見る。
「それは」
言いかけた少女は、不意に気配を感じたのか階段あたりの方にぱっと顔を向けた。


壁越しにわたし達を覗き見ていたらしいリサが、翻って駆けて行くところだった。

2201/7/27/23:29 棗

「月の裏側は、地球からは見ることができないって知ってた? 」
ここから見える面を表側と仮定した場合の裏側のことだけど──と未は妙な説明を加えた。

「月と地球の回転は同期してるから。見てしまえばきっと何てことはないんだろうけど、見れないって言われると却って人って興味をそそられたりするよね」
わたしは空の不可思議な球体を見上げた。
黒い空にまあるくぼんやり浮かんだ月は、よく見ると場所によって色が違う。うっすら陰影がついている。
昔の人は、その模様に意味を見出そうとして“月には兎がいる”などと言ったそうだ。それがただの空想に過ぎないのは知っているけれど、確かに何となく兎の形に見える。
「未は、どうなってると思う? 裏側」
今、ここで何かの拍子に月がくるんと回ったら、裏側はどんな模様に見えるんだろうと思う。
「どうなんだろ」
未はちょっと笑って、あまりはっきりとは答えなかった。
ケルスティンは今、留守だ。
彼女の言うところの“仕事”に出ているらしい。
──悪い仕事。
しかもアブナイ仕事、と冗談めかしてケルスティンは笑った。
「三十分くらいですぐ終わるの。そしたら合流する」
そう言って深呼吸ひとつして、いつもと違う小さい出口から出て行った。

わたしと未は連れ立って、ケルスティンの夜のお気に入りの場所にやって来た。
未が地下にやって来て二日が経過する。
あれ以来、わたしはわたしで無くなってしまったようにふわふわと浮ついた気分でいる。色々な感覚や気持ちを置き去りにして来てしまったままのような気がする。
あの爆撃で全部を失ってしまった。わたしの主体であるオフィシャルカードさえも。社会的な存在証明もない今のわたしはもう、生死不明の行方不明者だ。本当の意味で無国籍難民になってしまったということだ。
政府は自衛隊をロシアへ派遣したらしい。今の元首──晃久元首──は先日のテロに対抗すべく軍事行動を起こすことに決めたようだ。
今のところは、あれ以来どこの施設もロシアからの攻撃は受けていない。だからと言って手放しで安心していられる訳ではないけれど。却って、いつどこが攻撃されるのか──という見えない不安は日に日に膨れていくのだった。

センターが被害を受けてすぐに始まったレスキューは今日で打ち切りになった。
必要がなくなったのだ。
ニュースでの報告によると、すでに発見された被害者は全員死亡、まだ見つかっていない行方不明者の生存確率も極めて低いとの判断がなされたそうだ。確かに、おそらく一番乗りで破壊されたセンターに辿り着いたわたしたちも、発見できた生存者は未一人だったのだし、望みは限りなく薄いのだろうと思う。
「妙だよな」
画面を見つめて呟いたロイに何が、とケルスティンが尋ねる。
「俺たちも見ただろ、人が大勢倒れて死んでるところ。でも、よく考えてみればあの人たちの死因は何だったんだろう。どう思う」
「どう思うって言われてもさ」
「例えば建物の下敷きになって圧死したなら分かる。あと、爆撃の衝撃とか熱風とかさ。実際そうやって死んだんだろうなって人もいたし。でも、俺たちが最初に見た人達は単にフロアに倒れて死んでた。外傷も特になかったし、建物も大して崩れてなかった。そういう場合ならむしろ──」
ロイは未に視線を向ける。
「この子みたいに擦り傷程度で済む確率の方が高いんじゃないのか」
「そう言われれば──」
その通りだと思った。重くて暗い空気が漂った。
何かある──ロイはスクリーンに映ったセンターを睨んでそう言った。

センターがぺしゃんこになって存在自体がなくなってしまったので、わたしは結局地下に住むことを許された。
もう一人のセンター出身者、未と一緒に。
本当は別地区のセンターに押し付けても良かったところを、このまま置いてくれるというのはきっとここの人達の温情なのだろう。
未はたった二日で、“謎の少女”からすっかり“未”として定着した。
彼女は賢い。無国籍難民の存在や歴史やシステムも熟知していたし、ここでの新しいやり方もどんどん吸収して覚えた。ロイはその理路整然とした感情を交えない話し方が気に入ったようだった。
わたしも、少しずつ頑張っているつもり。
今日は色んな人にちゃんと挨拶ができた。朝の仕事も割り当てられて、食器洗いを手伝った。
居場所はもう、ここしかない。自分がしっかりしなければどうにもならない──そういう考え方をしたのは初めてだと思う。
あの日、あんなに屍体を見て、仲間を失って、環境が変わって怖いほど人との距離感が近くなって──本来のわたしはそのことでもっと混乱したり動揺しているはずなのだけれど、なぜだかあの日見たことをうまく考えられなくって、まるごとすっぽ抜けたようになってしまって、それが却ってここでの順応に役立っている。元々対人関係に問題が無かったかのように、ケルスティンや未と親しく接することが出来ている。そんな自分が、ちょと怖い。
そうやってケルスティンの言う“悪くて危ない仕事”も、わたしはいつか平気でするようになるのだろうか。
そういえばその仕事で偽造カードを使うようなことも言っていた。その時点で犯罪だ。まだ仕事内容の方は詳しく聞いていないし、やるようにとも言われていないけれど。
──悪い仕事。
悪いことしてるけど悪い奴じゃないよとケルスティンは言った。
悪い奴じゃないのならどうして悪い仕事をしなきゃならないんだろうと思う。
ケルスティンは、どんな気持ちでその仕事をするんだろう。ケルスティンは──。

「星は」
しばらく黙っていた未が不意にそう言ったので、わたしは内面世界から呼び戻される。
「模様とか、全然分かんないね。ああ違うか、月だって星なんだ。ここから一番近い星だからよく見えるってだけだね」
──星。
砕けて散ったかけらのように、宇宙とか呼んでいるよく分からない空間に無数にある星。一見雑然としているようで、きちんとした法則に則って周回したり回転したりしているらしい。月も。地球も。
「ケルはね」
そう言って寄り掛かったフェンスがこの前と同じように傾いで軋む。
「ケルは、星を見ると宇宙だってことを思い出すんだって」
「宇宙? 」
未がわたしに顔を向ける。髪と同じ色の、暗くても存在感のある黒い瞳がわたしを捉えている。でもケルスティンがするのと違って威圧感はない。
「ここは東京だけど、その前に日本で、その前に地球で、その前に宇宙なんだって。そう思い出すんだって」
未は大きな瞬きをして、それからまた空を見上げて目を細めた。
「そっか。本当だね」
本当にそうと言いながら頬杖をつく。
「昼は明るいからね。空の色はグレーになって星も月も見えないから、宇宙と地球は概念的に遮断される。代わりに自分から見える範囲のことだけが世界の全てみたいな感覚になってくる」
きっと未はセンターでの生活のことを指しているのだ、わたしは勝手にそう解釈しながら聴いている。
「でも、そういう状態がずっと続くと、根本的な何かが失われていくような気がする。本当に考えなくちゃいけないことを考える力までなくなるような。ここは宇宙だっていう基本的なこともすっかり忘れて」
「難しい話」
でも、そういう話は好きだと思った。
宇宙は、どこか遠いところにあるものなどではなくて。
ここはすでに宇宙の一部なんだ。宇宙があまりにもわたしたちに浸透しすぎていて、逆に気付かない。
──違う。浸透じゃない。
そうではなくて、わたしたちの方が宇宙に寄生しているのだろう。ずっと昔から。
密かに昂揚していた。どうして夜はこんなにも無防備になれるのだろう。人との距離感が近くても不快じゃないのだろう。仲良くなれる気がするのだろう。暗さと静寂と宇宙と星は、わたしにわたしらしからぬ大胆さを与えていた。
「きいてもいい? 」
未が倒れてた部屋のこと──大胆になったわたしはそっと尋ねてみる。センターのコントロールエリアに不自然にぽつんとあったあの部屋のことを。
「あれ、未の部屋だったの」
「そうだよ」
抵抗もなく未は答えた。なんでそんな事気になるの、と逆に問われる。
「わたし、今まであんな場所にああいう部屋があるなんて知らなかったから」
「そう」
未は煮え切らないような顔をする。
「あと、本も。紙の本がいっぱいあってびっくりした」
「あれは」
そう言いながら彼女は頭の中でその本の映像を思い起こしているようだった。
「すごく大事にしてた本だったんだ。ここに持って来れたら良かったけど──」
そんなに大事なものだったのか。
「何の、本だったの」
未は目を細めて、歯を見せずに口角を上げて笑った。
「原点だった」
どういう意味なのか分からなかった。
「原点? 」
私、あそこから出られて良かったんだと思う──と未は問いに答えず更に意味深な言葉を重ねる。
「──月の裏側はどうなってると思う、っていう質問だけど」
彼女は唐突に話題を変えた。
「幾ら考えたって想像は想像でしかない。結局本当のところは分からない。でもそれは無意味なことじゃないと思う」
だからこそ知ろうとして行動するんだ──未はなぜか力強くそう言った。

わたしがその意味を量りかねて唖然としていると、ビルの下から誰かがバタバタと勢いよく階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
「ケルが帰ってきたのかな」
言っているうちばんっとドアが開いた。
どう見てもオーバーサイズなタータンチェックのブラウスの裾を揺らして、ケルスティンはしばらく肩で息をしていた。さすがの彼女もここまで一気に上がるのはきつかったのらしい。
「地下に戻って」
やっと声を出せるようになるとケルスティンはそう告げた。

「非常事態になった」

ピーセス,インスモール

ピーセス,インスモール

2201年の日本。国有の子どもの一人として政府に養われている十二歳の少女、棗は誰かに呼ばれているような気配を探ろうと施設を飛び出してしまう。その先で思いもよらない大きな流れに巻き込まれ──。

  • 小説
  • 中編
  • SF
  • 全年齢対象
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