願い叶う場所

 冬の日課は変わらない。降車駅の改札を過ぎて、缶コーヒーを二本買い。雑踏の中へと、この身を落とす。雑踏の中で思考を巡らせば、そこには答えようのない問いだけが浮かんでくる。「この目に入る人々は何の為に生きているのか」 と。
 駅を出て、小川にかかる朱色の橋を渡ると目の前に商店街が見えてくる。それを右手に見ながら、わずかに進むと開けた土地となり、芝生の管理された公園が見えてくる。その公園の二つあるベンチの片隅に、いつもの専門学生が、スケッチブックを広げて、絵を描いていた。
 本当に素晴らしいと思えた特別な一日も、大抵は何気ない出来事から始まっていくのだろう。
 園内では、霜柱を歩く音がする。
 その音に気がついたのであろう。彼女が頭を上げて、目を向けた。
 「おはよう」 と、私は言った。
 「おはよう」 と、彼女も返す。
 彼女は片手を伸ばし、私から一本の缶コーヒーを受け取ると、満足そうな笑顔を見せた。
 私は彼女の隣に座った。
 「今絵を描いているんです」 と、彼女。
 「見ればわかるよ」
 彼女は言った。「昨日バイトを辞めました」
 少し間が空く。
 「どうして?」
 「嫌だから。バイトリーダーが最低だから。他の奴らも私をいじめるし」
 私はうなづいた。
 「嫌だから。とにかく嫌で嫌でしょうがなかったから。辞めて良かった、です」
 「で、これからどうすんだ?」
 「絵を描きます。絵を描いて、描いて、専門出たら、絵とは関係ないとこに就職する。絶対今のうちだから。今のうちに好きなことだけする」彼女は缶コーヒーをじっと見つめて言った。「私馬鹿だから、才能ないから、絵も下手だから。欠点だけだから。何もできない」
 「で、今日は何の絵を描いたんだ?」
 「わかんない」彼女は言った。「だから、昨日は一晩ここにいました」
 「はじめは、ムカついて。しばらく一人でいたら退屈してきて。でもなんかムカついてたから、動きたくなくて。そしたら街灯消えて真っ暗になったんです。普通消えないでしょ? ここて公共の場所でしょ? だから、おいおい消えんなよって思って。一人呟いたんです。おいおい、消えんなよって」
 彼女は少し笑った。「そしたら、それが闇に消えてくっしょ。そしたら、なんか落ち着いて。まるで自分に言ったみたい。おいおい消えんなよって」
 私は黙って缶コーヒーに口つけた。
 「良かった。ここにいてくれて」彼女は笑った。「はじめは暗くて、何も見えなくて。それが段々と、物が見えていくのがわかるの。自分の手だとか足とか、そんな近くから。で、よく見たら、ここの周りにも家があるでしょ? で、その家とかの灯りがちゃんとついてることに気が付いて。何だ暗くないって思ってさ。で、ゆっくりちゃんと見てたんです。そしたら何か遠くの空が紺くて。段々と青に変わっていくでしょ?」
 彼女は頭を下げて呟いた。「それをじっと見つめてた」
 ポンと私は彼女の頭に手を置いた。
 彼女はそのまま言った。「そしたら明るくなってきた」
 「私駄目じゃん」 と、彼女。「でも、だから好きなことがしたいの。ほんとはずっと。でもそれは無理だから、できるときだけ」
 彼女は頭を上げて、私に言った。
 「明日一緒にここで朝日を見ませんか?」
 「いいよ」と、私。「でも、何の為に?」
 彼女は笑って言った。
 「願い事が叶いますように」
  

願い叶う場所

願い叶う場所

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-21

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