生きてる
雪のなかで、きみは眠っていて、馬鹿みたいと思いながら、赤く、冷え切ったきみの耳に触れて、でも、生きていてよかったと思うとき、ぼくはこのひとなしでは生きていけないという現実を、つきつけられる。現実は、ナイフみたいだ。
街なんかとっくになくて、国は国としての機能を失っていた。
にんげんは、いないわけではなくて、いるのだけれど、ぼくときみがいる街だった土地には、ぼくときみしかいなかった。ほかのにんげんを見たことがないねと言ったら、きみはおもしろそうに笑いながら、ふたりっきりだよって答えた。いつもの長い猟銃を放り出し、雪にからだはんぶん埋まった状態で眠っていたきみの顔の近くに、コバルトブルーの花が咲いていた。花が咲いているところだけ雪が少なくて、小さな花の群れは可愛らしく、きみの寝息で揺れた。
月に触れる夢を見ているのかな。
モスグリーンのコートを着たきみは、月に触りたいのだと語ったことがあった。月に行きたいのではなく、いま自分が立っている場所から手をのばし、触れたい。街も、国も、なくなってしまったけれど、夜空の月は、変わらずそこにあった。
きょうはパンケーキを焼いたのだ。だから早く、きみを起こして家に帰ろうと思うのに、きみの寝顔を見ていると何故か、声が喉の途中でつっかえた。揺り起こそうと思うのに、手が、足が、はりついたみたいに動かなかった。
きみと、ぼくだけの世界。
きみが死んだら、ぼくだけの世界。
にんげんに生まれなければよかったのにと、そんなことを考える日はしょっちゅうあった。でも、きみは、にんげんでよかったよとしみじみ言うのだった。
「だって、にんげんに生まれなかったら、おまえと出逢えなかった」
そう微笑んで、ぼくのあたまを撫でてくれる、きみの、淹れてくれるミルクココアを飲みながら、何十回も読み返してボロボロになった本を読んでいる瞬間だけは、ぼくも、にんげんでよかったと思うのだった。
生きてる