巡環する

巡環する

ひどく真っ暗な、小さな部屋のような、でも四角くはなくて、それでいて立体的で、そんなところにおります。もう随分と、此処に居る気がしております。そして随分堂々巡りなのです。試しに以前を思い出そうとしても、一向だめです。唯それは薄ぼんやりと、身体の底に沈澱しているのです。それが何とも、篝に酷く寄り添うように、じりじりと精神を焦がすのであります。

私はこのまま朽ちてゆくのでしょうか。それとも、もう朽ちているのでしょうか。嗚呼、嗚呼、また巡りました。此処に居ると、毎度こうなのです。良くないのです。でも、私は閉口するしか無いのです。自分が何故こうも考えるかも、わかりません。兎に角、狂いそうです。考えては、いけません。焦れても、いけません。全く、心を無にして、眠らねばなりません。でも、それは恐ろしゅう御座います。どうしても、恐ろしゅう御座います。一度でも意識を我が身から離して了えば、もう戻らぬのです。どうしても、その様な気がしてなりません。嗚呼、それでも、眠い、眠い......

私は頭に酷い灼熱を感じて、目を覚ましました。同時に、私は酷く困惑しました。私の身体は土に埋まっていたのです。水気があって、柔らかくて、暖かくて、酷く心地よくて驚きました。私の周りには、背丈の低い青草が群れ生えております。どれも自由に葉を広げて、楽しそうです。私は随分深く埋まって了っている様子で、その他は何にも見えません。それでも、私は酷く幸福を覚えました。あの暗澹たる部屋から、私は解放されたのです。もう、孤独に思案せずともよいのです。今の私には、陽光と、土壌と、共に暮らす青草どもがおります。随分と、幸福です。

それからと云うもの、私は陽に抱かれ、夜に静座し、また時折雨と唱和して暮らしました。平穏の感が、私の心に立ち込めました。随分夢みたいに暮らしました。

そんなある日のことです。その頃には私もこの幸福に慣れきっておりましたから、全く贅沢な事なのですが、退屈でした。青草どもの葉の筋さえ、全く数え果して了いました。それに、身体も少しばかり窮屈になっている様に思われます。一寸不快です。それでも、私には楽しみがあったのです。私の身体は、日を追うごとに土から離れてゆきました。近頃は青草どものてっぺんが、丁度私の目線と同じでした。このまま離れてゆけば、私は青草どもを越えて、その先を見られるのです。それが私を喜ばせるかは、わかりません。それでも、私は望みを抱いて、日々を過ごせました。それが何よりでした。そして遂に、その日念願叶ったのです。

上を向けば空、紺碧のそれは真白の雲を泳がせ、その中心にぽつり、小さく開いた穴ぼこの様な太陽が、きらきら輝いております。前を向けば山河、苔色の丘々が白雪を乗せて、まるで白波を上げながら大挙して畝る
怒涛の様に、強烈に、そして広大に私の目に映りました。私は突如として流れ込むそれを、ゆっくりと反芻して飲み込みました。本当に、本当に美しい景色でした。同時に、自分が酷く矮小に見えて、安心しました。また、何故だか不思議なのですけれど、私の中に懐郷の念が渦巻いて、そして程なく消えました。初めてのことでした。

嗚呼、酷く、身体が窮屈です。内側から押し出されて了いそうな、そんな感を覚えております。それでも、怖くは無いのです。よくわからないですけれど、これは自然なことの様に思われます。いつかはこうなるのだと、覚悟していた様にも思います。兎に角、私はこの身体から離れるのだと思います。それがどのくらい先かは、わかりかねます。それでも、遠くないうちに、きっと。

今迄に無い程、身体が窮屈です。私は遂に、その時が来たのだと思いました。実際私の身体は、私を押し出そうと躍起になっている様に思えました。そんな時です。

ぷつっ

私の身体から、酷く小さな、白い粒が飛び出ました。

ぷつっ

また出ました。緩やかな微風に流されて、何処へも無く飛んでゆきます。

ぷつっ、ぷつっ

嗚呼、次々です。

ぷつっ、ぷつっ、ぷつっ

私にはそれらが、如何しても近しいものに思われてーーー

ぷつっ

あっ、私だ。

自分の身体だと思っていたそれは、私の家でもありました。今尚家から飛び立つそれは、私の兄弟たちでした。私は、土に埋まっていたわけではありませんでした。結局、私も青草どもと同じでした。それから随分、風に運ばれました。家を離れた私は、自分が何をせねばならないか、漸く理解しました。大地は段々と、段々と近づいてきました。

そして、あと数秒で落ちるといった時です。私の目の前に、何やら蠢くものが見えました。身体は茶褐色で、頭は黒、少し厚そうに見える皮膚はてらてらと光っています。それがあと数匹、周りに集っているのです。嗚呼、蝙蝠蛾の幼虫です。私はゆっくりと、それの背中に落ちました。私は自分がこれから如何なるか、よく理解しています。嗚呼、嫌だわ、もうあんな思いはしたくありません。あの部屋に戻るのだけは、嫌です。それでも、また私は巡るのでしょうね。何度も何度も巡って、そして今此処にいるのでしょうね。私の記憶はまた、消えて了うのでしょうか。もしそうだとしたなら、次に目覚める私は、私なのでしょうか。仮に私だとしても......嗚呼、いけません。また巡りましたね。あんなに嫌だと思っていたのに、気がつけば何時も、何時も巡るのですから、笑えます。嗚呼、そうね、今だけは、あの山河を眺められる今だけは、自由でいなくてはいけません。嗚呼、この幸福が少しでも、少しでも長く続けばいいのに......

私を乗せた芋虫が、土に潜ってゆきます。あれから段々と、私の身体は芋虫に浸透してゆきました。それと一緒に、芋虫の思考が私と混ざって、ぐちゃぐちゃになって、恐怖や失意、怨恨、卑屈、後悔などが身体を、精神を巡って、一つになりました。彼の山河の輝きも、私の中で薄れてゆきました。嗚呼、怖い、怖い。嫌です、嫌です。やっぱり戻りたくないのです。あの部屋にだけは、嫌です。彼処には自意識の寄る辺など、ありません。唯々巡るのみです。嗚呼、酷い、酷い。眠くなってきました。私が今眠れば如何なるかなど、わかりきっているのに。あの青草どもと交わった日々を、忘れたくありません。あの群青の空を、漆塗りの夜を、忘れたくありません。あの......あれ、おかしいです。何だか酷く大切なものが、身体から抜けて了ったようです。青草、太陽、夜空。青草、太陽、夜。青草、太陽......。嗚呼、ああ、あっ。

ひどく真っ暗な、小さな部屋のような、でも四角くはなくて、それでいて立体的で、そんなところにおります。もう随分と、此処に居る気がしております。そして随分、随分長い間、堂々巡りなのです。

巡環する

巡環する

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-20

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