わーるどいずゆう
二席目 わーるどいずゆう
【木村 散帝亜(キムラ チルティア)】
例え彼女とわたしのことを、歪だと言われようとも。
せっちゃんは、物心付いたときから側にいた気がする。何がきっかけで友達になったのか。出会ったのはいつのことか。そんなことも思い出せない――というか、どうでも良いと思えるほど、わたし達はずっとずっと、一緒にいた。
せっちゃんは、近所に住む幼馴染で、わたしより一つ年上のお姉さん。いつだってわたしに寄り添ってくれて、誰よりもわたしを理解してくれて、肯定してくれた。きっと家族よりも互いのことを理解し合っていて、お互いにかけがえのない存在であると思っている。
せっちゃんは、わたしの世界だった。
その日もわたしはせっちゃんと共に帰宅するため下駄箱の前で彼女を待っていた。わたしの手芸部の活動が無く、せっちゃんも図書委員の仕事がない日は、こうして正門の側で待ち合わせをして一緒に帰るのだ。
十月六日金曜日、四時五十分頃。最近はすっかり秋も深まってきて、大分過ごしやすくなっていた。日が傾いてくると若干寒く感じるときもある。高すぎない位置でツインテールに結んだ髪が、心地よい風になびいて頬をくすぐる。すれ違う生徒達も、制服である茶色のブレザーの下にカーディガンを着込んでいたり、まだワイシャツ姿だったり。夏と冬の中間は、服装に迷う。わたしは学校指定である夏用のベージュのセーターのままで過ごしているが、この肌寒さなら、そろそろ厚手のカーディガンに変えても良いかもしれない。
ふと、校門前で変なやり取りをしている他校の男子と、うちの高校の女子生徒の姿が視界に入った。男子の方は紺色のブレザーに左胸に付いた校章、金色のボタン、青みがかったネクタイという格好。坂ノ下高校の生徒だ、とすぐに分かった。どうやらかなり特殊な別れ話をしているようだった。せっちゃんが来るまでの暇潰しに丁度いいか、とわたしもしばらく眺めることにした。
その女子生徒が、突然妙に明るい声を上げながら駆け寄って行ったり、男子生徒の方が突然彼女を抱き締めてみたり。特殊、というよりも異端な二人。しかし、そんなやり取りをいくつか繰り返して、最終的には坂ノ下高校の男子生徒は去っていった。
近くでその様子を傍観していた女子生徒が「リア充爆発の瞬間見ちゃうとか、マジ卍ぃ」「ヤバたにえんなんだけどぉ」等と話していた。
「あら、ちるちゃん?」
ふいに背後から、鈴の鳴るような声がわたしを呼んだ。
よく知るその声に、笑顔で振り向けば、腰まである長く艷やかな黒髪を風に弄ばせるせっちゃん――唐洲 世津那(カラス セツナ)が、そこに立っていた。
黒いスクールバッグと黒いカーディガンで、夕焼け色の中に浮かぶその姿はなんだか鴉みたいだけど、黒は元から綺麗なせっちゃんをより美しく際立たせる色だと思う。
「せっちゃん、一緒に帰ろっ」
わたしの声に、いいですよー。と笑う彼女を見つめ続けられるだけで、わたしの胸の中は満たされてゆく。こんなに愛らしい彼女と親友でいられるのだから、わたしは幸せ者である。
二人仲良く並んで正門へ向かう。先程暇潰しに眺めていた女子生徒が、未だにぼーっと門の前に立ち尽くしていた。帰宅する生徒が多いこの時間帯にそこに突っ立っていると、邪魔でしかないのにな。そんなことを思っていると、隣にいたせっちゃんがその女に声をかける。
「小豆澤ちゃん」
その行動に目を剥いたが、せっちゃんの声に振り返った女子生徒の顔を見て、納得する。この女はせっちゃんのクラスメイトだ。せっちゃんに会いに、二年三組の教室を覗いたとき、見かけたことがあったのだ。
せっちゃんが柔らかく笑みを浮かべながら、彼女に話しかける。
「なんだかぼーっとしてたように見えたので。大丈夫です?」
「あ、いや、うん。ありがと、へーきよ」
少しどもりながらも彼女は、視線をふよふよと泳がせる。一瞬わたしとも目があった気がしたが、直ぐに逸してやった。
小豆澤と呼ばれた女の視線は、結局妙に低いところで固定された。どこ見てんのよと思って、その先を辿ると、せっちゃんの手首辺りに向いているように見える。それに気付いたせっちゃんも、不思議そうに自分の左手の袖を顔の前まで持ってきた。
「んー……? お昼にプレミアムダブルチョコレートオールドファッション食べたので、付いてるのかと思っちゃいましたが、何も無いですね……どうかしたんです?」
「あ、いやっ、何でもないんだよ」
「…………」
この、先程爆発したリア充の女、染めたものなのだろう明るめの髪色と耳元で光るピアスをみて、チャラい女なのかと思ったが、話し方がなんとなく不自然だった。人と話慣れていないみたいに、喋りだすと必ず「あ」とか言うし、せっちゃんと会話をしているのに、その視線は明らかにせっちゃんの目には向けられていない。視線の泳ぎ方や僅かなどもり方からして、コミュニケーションが駄目な人種だということはすぐに理解できた。
「小豆澤ちゃん、これから帰るところですか? もしよかったら一緒に帰ります?」
「え……」
小豆澤の瞳に、生き生きとした光が宿る。わたしの口から「はぁ!?」という声が喉元まで出かかって、音になる前にどうにか抑えられた。わたしがいるのに、せっちゃんは何を言っているのか。いや、せっちゃんを責めるのはお門違いだ。この女に問題があるのだ。こいつ、せっちゃんと共に帰りたいと、言うのだろうか。わたしとせっちゃんが一緒に帰るのに、そこに割り込んで、無事に帰れるとでも思っているのだろうか。
顔に穴が開くどころか、顔面の皮を突き破って、頭蓋骨を貫通し、脳髄を穿つような気持ちで小豆澤の顔を睨み付けていると、ようやく視線に気が付いた彼女が、表情を強張らせる。その一瞬のアイコンタクトのうちに、わたし達は軽い命のやり取りをしていた。
小豆澤は、口元を引きつらせながら虚空に視線を戻すと、部活がどうとか言いながら、せっちゃんの誘いを断った。それから互いにまた明日、などと挨拶を交わして、わたし達はようやく帰路につく。
小豆澤、命拾いしたね。すれ違いざまに心の中で呟いた。横顔に浮かべられていた表情は、あまりよく見えなかったけれど。
せっちゃんは、今日は授業中にこんな事があったよとか、帰ったら金曜ロードショーで、崖の上の人面魚の話が放送されるらしいから見なければとか、他愛もない話をして、ちょっと可笑しな事を言っては互いにクスクスと笑う。そんないつもと変わらぬ帰路の会話。
ふと、会話の合間に、思い出したようにわたしが言う。
「さっきの」
「はい?」
「さっきの女……の子。せっちゃんのクラスの子だよね。仲良いの?」
せっちゃんが少し嬉しそうに笑って、あの女のことを語る。
「そうですね。一緒に図書委員で仕事するうちに仲良くなりましたよ。小豆澤ちゃん、成績が崖っぷちらしいので、偶に図書室で勉強会とかやってます」
「……仲良いんだ。なんか意外ね」
せっちゃんが誰かと仲良くすることが意外なわけじゃないけど。ああいうタイプと関わることが意外だと思ったわけでもない。だとしたらわたしは何を基準にそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。ただ、なにか、気に食わなかった。それだけか。
「そうですかねー? あっ、それよりちるちゃんこのあと暇ですかっ?」
急に思い出したのか、ぱちんと手を叩きながらせっちゃんがはしゃぐ。話を逸らそうとした。のだと、わかっても気づかないふり。
「え、うん。特に予定はないけど。何?」
「カフェで適当に駄弁りながらダラダラ過ごしたいでーす」
「あはは、いいよー」
「わあい。期間限定の新作出たから気になってたんですよー」
わたしは期間限定、と言われて一瞬ぽかんとしていたが心当たりがあった。今日クラスの女子達が話していた。いちごのフラペチーノの上にチョコケーキが乗せられた飲み物らしい。チョコケーキなんか飲めないじゃん、と思って聞き流していた物をせっちゃんが話題にするとは。せっちゃん、甘いもの好きだからなぁ。
「せっちゃん、チョコケーキ飲むの? チョコケーキって飲むものなの?」
「ストローで吸い込んで飲めたなら、それは飲み物ですよ? ちるちゃん知らなかったんですか?」
「えっ……その理論で行くと、せっちゃんはカレーは飲み物ですよ派に分類されるじゃん」
「それは……確かにカレーってストローで吸えば飲めますね? じゃあ、カレーは飲み物と言え……ますね?」
「言えないよ!? そんなテブキャラみたいなこと言わないで! せっちゃん帰ってきて!」
そんな風に二人、談笑しながらカフェを目指して歩いた。
カフェに着くと窓際の席に二人で腰掛ける。わたしはいつもなら抹茶フラペチーノを頼むが、せっちゃんに合わせていちごのフラペチーノの上にチョコケーキが乗った意味のわからない飲み物を頼んだ。チョコケーキに少し太めのストローを突き刺しながら、やっぱり意味分かんないな、と苦笑して。
せっちゃんが目を輝かせながら飲み物を様々な角度で撮影する。SNOWで撮ってるらしいが、SNOWで盛れるのは人の顔だけではなかっただろうか。
「それどうするの?」
「インスタとかやってませんし、どうもしませんよ。そういうのを食べてる“女の子な自分”を個人的に楽しんでいるんですよ」
不穏を忘れて、平穏の中に紛れ込むように。普通の女の子であることで、何かから逃げようとしている。今のせっちゃんはそういうふうに見えた。
「だよね。せっちゃん、そういう子だもんね」
わたしの言葉をどう捉えただろう。曖昧な言葉に、せっちゃんもまた曖昧に笑う。だから私も同じように。不確かな距離感を、不自然な合間を、何事も無かったように流す。暗黙のうちに二人の間に取り付けられたルールを守り合う。
それはきっと、浜辺に造り上げられた砂の城。触れたらその肌の熱で溶けて消えてしまう雪の結晶。のような、何か。見た目の美しさに比べて酷く脆い関係が、何処かわたし達に似ている。
そのくせ永遠を夢見てしまうのは、いけないことだろうか?
潜めた言葉は見えないから。見えないものは無かったことに。無いものは、誰も知らないことにできる。のだと、わたしは信じて、信じて、盲信する。
さっそく、突き刺したストローに口をつけて、ジュルルとチョコケーキストロベリーフラペチーノを吸い込んだせっちゃんだったが、チョコケーキは固形物。そんなもの吸い込んだら噎せるに決まっていた。
「……大丈夫? 美味しい?」
「おいじいでず、ゲホ」
そんな掠れた声で言われても説得力がない。せっちゃんはバ可愛いなあ、と思いながらわたしもストローを咥えて、吸い上げて、喉に雪崩れこんできた固形物に思い切り噎せた。しかも思ったよりもくどい甘みに、これは失敗だったかなあと笑う。いいや、味はどうでもいいのだ。彼女と過ごした時間が大切なのである。噎せたわたしを笑うせっちゃんに、せっちゃんだって噎せてたじゃん、と言い返して笑い合う。そんな“今”が大切なのだ。
「――ところで、さ。話ってなに?」
単刀直入に本題を切り出す。少し雑な切り口に、せっちゃんの笑顔が仄かに翳った。
「駄弁りたいというか、言いたいことがあったんだよね? わたしに、伝えなくちゃならないことがさ」
付き合いの長さで。それとももっと別のもの? 小さな違和感があった。だから、“それくらい”は察する事ができた。せっちゃんは緩く口元に弧を描く。まるで、良くできましたと賞賛してくれるみたいに。やはり、わたしから切り出して欲しかったのかも知れない。それなら良かった。
不敵に笑んだまま、彼女は静かに声を紡いだ。
「……例えば、ですよ?」
チョコケーキは飲み物じゃないから。せっちゃんの白くて細長い指で摘まれたストローがぐるぐると回転して、いちごもチョコケーキも綯交ぜになる。赤と焦げ茶色の奔流。そうすることで、少しは飲みやすくなったのかも知れない。
「ちるちゃんは、私が命を狙われてるとか言い出したら、どうしますか?」
「狙ってるやつを消す」
現実味も、突拍子もない質問を笑うよりも先に即答する。質問のおかしさに疑問を抱くのは、それからで十分。
確かにおかしな事を言っている。例え話だとしても、普通の人なら笑うか引いてしまうような話題で、でも私は迷わず信じる。だって、せっちゃんはわたしの――わたしの大切な親友だもの。
「……狙われてるの?」
「いいえ? さっきのは冗談ですよ」
「誰? どんな?」
「んもう。冗談ですってばー」
せっちゃんははぐらかすみたいに笑う。けれど、わたしはそれが冗談なんかじゃないと、なんとなく理解していた。どうにも突飛で現実味のないこんな話でも。いいや、こんな話だからこそ。
わたしはずっと一緒にいる友達なんだから。
ああきっと、友達なんて垣根を超えているかもしれないけれど。
だとしたら、わたしとせっちゃんて、何なのだろうね。
わたしはせっちゃんの掌を取って、両手で包み込んだ。彼女の白い指先は、少しだけ冷たかった。
「大丈夫だよ。わたしに任せてね。ご両親のときも大丈夫だったんだから、せっちゃんは大丈夫。わたしがいるから」
「…………」
その答えを期待していたのだろうか。彼女の微笑は、少しだけ卑怯に見える。だけどやっぱり見惚れるほどに綺麗な笑みで。
きっと、せっちゃんは最初から全部わかっていた。わたしが彼女の思い通りに動こうとすること。そういうふうに今まで生きてきたんだから、これからもそうなること。
そうとしか、動けないこと。
「黒い、パーカー」
せっちゃんが、窓の外の奥を眺めながら呟く。あたかもそいつが視線の先に居るかのように。
「最近、よく見るんですよね」
「わかった」
少しの言葉のキャッチボールと、短い承諾。わたし達にはそれだけで事足りた。それから、何事もなかったように日常会話に戻っていく。
……実際に何も無かったのだから。
そういえば今日、数学の時間に教室にスズメバチが入ってきたの。あら、怪我はありませんでした? うん、クラスメイトがぎゃあぎゃあ煩かったから、わたしが殺した。え……凄いですね。でしょでしょ? なんて、他愛もない言葉のやり取り。その中でせっちゃんが笑ったり、首を傾げたり、驚いたり。そんな彼女が可愛らしくて。だからこそ、得体の知れない存在への憎悪が、音もなく沸々と湧き上がる。黒いパーカー。それが、せっちゃんの邪魔な存在なのか、と。
そうやって、駄弁っていたら、空はすっかり暗くなっていた。薄闇の広がる窓の外を見つめて、空っぽになったカップを片手にせっちゃんが席を立つ。
「そろそろ帰りましょうか」
そうだね、と。せっちゃんの一言で店を出たわたしは、ソレを見つけることとなる。
突然部屋に現れたゴキブリのように不快な異物を。
店の外の、道路を挟んだ向かい側の住宅路。街灯に照らされて、ぼんやりと影がコンクリートの上で揺れている。
目深に被ったフードの下の顔は見えない。けれど、確かにこっちを見ているのが分かった。正確には、それはせっちゃんを見ている。そりゃ、こんなに美人のせっちゃんを見つめてしまう気持ちは痛いほどわかる。でも、あの視線は“そう”じゃない。
そいつは踵を返して、住宅路の奥へ進んでいく。
「ちるちゃん?」
佇んだままのわたしを不思議に思って、せっちゃんが声をかけてくる。わたしは目線だけせっちゃんに返して、微笑みかけた。日常を壊さないように、柔らかく極自然な笑顔で。
「せっちゃん、先帰ってて」
「……うん」
それじゃあまた明日、とわたしは手を振って。つられて彼女も手を振り返す。そうしてせっちゃんは背を向けて去ってゆく。その後ろ姿を見送って、わたしもせっちゃんとは逆方向に歩き出す。
あの視線は。――凄く、おぞましい、冷たく粘着くような言い様のない気持ち悪さを孕んでいた。だから、たぶん“それ”だ。黒いパーカー。確証はないくせに確信は持てた。
大丈夫。せっちゃんに害のある存在はわたしが潰す。せっちゃんを護れるのは、近くに寄り添っていられるわたしだけだ。
わたしは不意に、昼間に殺したスズメバチのことを思い出す。教科書ではたき落として、床に転がったのをすかさず踏み付けて、とどめを刺した。靴底では、海老の尻尾みたいな感触の固形物が、ぱりぱりと音を立てて悲鳴もなく死んでいった。
同じように。してしまおう。わたしはせっちゃんを絶対に守るのだ。
せっちゃんは、わたしの世界だから。
わーるどいずゆう