すくらんぶる交差点(6)

六 警察官 権力 意地 の場合

 今日も何もないよな。あったら困るよな。自転車をゆっくりと漕ぎながら、権藤力は呟く。定年まであと二年。だが、今年一杯で、退職することに決めた。無事、仕事を終えてきた、つもりだ。子どもたちは家を出た。妻はパートで近くのスーパーに勤めている。家のローンも支払い終わった。すべてが結びへと向かっている。こんなときに仕事では何もなくて欲しい。その代わり、家の方は大騒動だ。実家の父と母がボケ出した。認知症だ。母親の方は、最初、厭がっていたが、ニ回の階段からこけて骨折したことから、病院に入院し、そのまま関連の介護施設に入所できた。父親は元気だ。だが、これが問題だ。元気な認知症ほど困るものはない。テーブルの上に置いた金がなくなったと言っては電話がかかってきて、かけつけると玄関先の靴入れの上に置いている。妻が返って来ないと叫び、近所を、時間を問わず、放浪する。その度に、近所の自治会長や民生委員さんから連絡が入る。
 仕事が仕事だけに、いつまでも近所の人の好意に甘えているわけにはいかない。電話があってすぐさま駆けつければ、「権藤さんも大変ですね」と表面上は同情してくれるが、内実は、いいかげんにしてくれ、自分の親だったらさっさと引き取れ、というのが本音だろう。それは当り前の事だ。自分も仕事上、徘徊する老人を保護することがある、一度や二度ならば、仕方がないと同情し、迎えに来た親族に「大変ですね。御苦労さま」と声を掛けるけれど、度重なると、「いいかげんにしろ。あんただけを保護するのが俺たちの仕事じゃないんだぞ」とつい声を出したくなる。もちろん、こちらも税金で生活している身分だ。顔は、御苦労さんという顔をしている。所詮、人は、立場、立場でしか動けないし、動かざるを得ないのだ。
 まあ、自分の親じゃないけれど、最近は、一人家族、一人でも家族というのか疑問だが、いわゆる、族になっていないわけで、家は一軒だが、生活しているのは一人、つまり家単と言った方がいのかもしれない。その家単、つまり、一人暮らしの人々が増えたせいで、いろんな事件、少し大げさだが、問題が発生している。
 家単の人々のうち、最近は、後期高齢者、いわゆる七十歳以上の人だけでなく、六十歳前後でも、ぼけが始まっている。家ではテレビだけが話相手。返事がない。言葉のキャッチボールがない。一方的な垂れ流し。しゃべるだけで、聞く相手のことは考えない。そのため、他人に対し、不寛容。自分のしゃべりたいことだけしゃべり、一方的に、自分の立場だけを、自分の言いたいことだけを相手に突きつける。相手との妥協なんて関係ない。自分の欲望を、相手が聞き入れるかどうかだけが問題だ。聞き入れなければ、大声を上げる、泣き叫ぶ。手足を振り回す、少々の暴力行為も、精神的疾患を武器に無罪放免となる。
 こうなるのも、一人暮らしという生活パターンのせいなのか?それだけじゃないだろう。食べ物の影響もあるのではないか。一人暮らしのため、どうしても、食べ物が偏る。好きな物だけ、食べたい物だけを食べる。朝は、食パンとインスタントコーヒー。昼は、うどん。このK県、T市は、うどん店が多く、また、値段が安いため、どうしても昼食はうどんになってしまう。
 もちろん、うどん店が悪い訳ではない。このあたりが、まだまだ、公務員気質が抜けないところだ。誰も悪くないように言わないと、後から、無用なトラブルを起こすからだ。常に、煙幕や黒幕を引いて、自分の立場をはっきりとさせず、ぼやかしたままにしていた方がいい。あちらも立てて、こちらも立てる。シーソーの真ん中に立って、どちらともが、勝ったり負けたりしないように気を使わなければならない。だが、そんな考えももうすぐ終わりだ。退職すれば、そんな気を使うことから解放される。元公務員、元警察官という肩書はのかないけれど、もーとーうの昔に、そんなものは捨てちゃいましたと言えばいいのだ。反対に、これまで、市民から言われてきたことをそのままオウム返しに言えば、相手は黙ってしまう。伝家の宝刀だ。よく、元教諭、元公務員、元警察官が一番たちが悪いと言うけれど、多分、現役時代の反動が、退職後に現れるのだ。ある意味では職業病だ。許して欲しい。誰に対して?
 話は戻る。一人暮らしの食生活だ。そう、昼間は素うどんばかりを食べる。うどんの主な原材料は、小麦粉と水と塩だけだ。これに出汁を入れるが、この出汁も、かつおや煮干しに、醤油と水だ。どう考えても、食生活が豊富で多彩とは言えない。ちなみに、自分がうどんを食べる時、必ず、野菜のかき揚を注文する。これで十分だとは言えないが、ささやかな抵抗だ。さて、夕食と言えば、コンビニかほか弁の弁当か、チェーン店の牛丼だ。繰り返すようだが、コンビニやほか弁屋、牛丼チェーン店が悪い訳じゃない。これしか食べようとしない、つまり偏食する、偏食しかしない奴が問題なのだ。いつも、唐揚げか、焼き肉など肉類が中心で、野菜を食べようとしない。食べたとしても、おまけついでの、しなびたレタスやキャベツを食べる程度だ。時には、その貴重なレタスさえも残してしまう奴もいる。当分の間は、体に異常をきたさないが、この偏食の無理が次第に積もり積もって、早ければ還暦を迎える前に痴呆が始まる。
 その証拠に、以前、家に戻れなくなった痴呆の男を、頭から吊っていた住所入りのカードを基に、パトカーに乗せて送り届けたことがある。その時、部屋を開けたら、安の上、万年床の横に食べくさしの弁当が半分だけ残っていた。どうみても、フライ物が主で、野菜のかけらも見当たらなかった。その男は、放浪を繰り返し、駐車場でうずくまっているところを住民から通報で、市役所の職員の手に寄って、施設に入所となったと聞いている。ああ、無情だ。
 繰り返し言うけれど、コンビニやほか弁の弁当、牛丼店など、外食産業が悪いわけじゃない。摂取目標1日三十品目、自分の体は自分で守るんだと意識なかった奴が悪いんだ。自己責任は置いておいて、困ったら社会が悪い、の一点張り。この繰り返しだ。じゃあ、社会って何だ。単に個人の人間の集合体じゃないのか。社会という幻想に寄り掛かり、過大な要求をしているだけじゃないのか。おっと、あっと言う間に、派出所だ。本署からチャリンコで五分。いやあ、職場が近いことはいい。さあ、鍵を開けて、お茶を沸かし、一服するか。あれ、なんだ。あの人盛りは。
 権藤はスクランブル交差点に近づく。交差点は赤。今は、車が走っている。それなのに、交差点のまん中に人がいる、それも一人じゃない。ひい、ふう、みい、いやー、こんふうに数を数えるのも久しぶりだな、よー、いつ、むう、なな、人だ、それに犬が一匹。あいつら何しているんだ。交差点の中は、タクシーやらバス、トラックに、宅配便の車などがほとんど車間距離の隙間もないまま、左車線も右車線も走り続けている。ここは、JRや私鉄、空港までの高速バスや市内循環バス、タクシー、すぐ傍には、フェリーや高速艇など、公共交通機関の結節点であるため、車などの交通量も多い。また、近くには、シンボルタワーなどのオフィスビルや国出先機関の庁舎もある。ホテルもある。人も多い。そんな中で、わざわざ交差点の真ん中で立ち往生するなんて、なんて奴らだ。フェリーに乗るのか、大型トレーラーが横ぎる。
「あぶない」
 権藤が大きな声を出す。車が通り過ぎた後に、黒い煙幕に覆われた。七人は大丈夫か?いた、ひい、ふう、みい、よお、もういい、七人とわかった。犬も一匹だ。無事だったか。安心するも、早く、救出しないと。女子高校生が咳き込んでいる。そりゃあ、当然だ。あんなに排気ガス吸っちゃあ、まともでいられない。それにしても、遠目だからわからないが、あの女子高校生たち、色が黒いぞ。排気ガスで染まったか。排気ガスギャルだな。そんあ、冗談を言っている場合じゃないぞ。信号はまだか。車線の信号が点滅しだした。横を見ると、知らない間に人が一杯だ。
 そりゃあ、ここは、復唱するが、公共交通機関の結節点だから、人が多いのはわかるが、どうして、毎日、毎時間、毎分と人が集まって来るのだ。人が集まると言うよりも、人が湧いてくると言った方がいい。この地方の気候は、瀬戸内式気候だから1年を通じて晴天が多く、降水量が少ない。だから、いつも、梅雨の時期が気になる。この時期にまとまった雨が降らないと、夏の間中、水不足で困ることになる。盆を中心とした夏祭りにだって、やるのか、やらないのか、ひと悶着となる。もちろんやればいいのだ。祭りをやめたからといって、雨が降る理由はないのだ、だが、世間には、必ずといっていいほど、一言言いたい奴がいて、「水不足なのに祭りをやるのはけしからん、即刻、中止だ」と、何の責任もなくわめき立つ。祭りの開催の是非を問う前に、お前のあまのじゃくの精神で、晴ればかり続くおてんとさまに雨を降らしてみろ、と言ってやりたくなる。とにかく、雨が降らない地方だから、空から雨が降らなければ、地面から水が湧いて来ればいい。早い話が、人の代わりに、地下水が湧けばいいということだ。全然、関係ない話だったな。
 人が、一直線状、および、その後ろに、運動会の徒競争のように、二列、三列、よ、いつ、むう、うーん、十列以上並んでいるぞ。当然、対面にも、同じぐらいの人が並んでいる。ホントに、全く、どこから、人が湧いてくるんだ。まさか、墓場から起きがってきたゾンビじゃないだろうね。だが、安心したまえ。日本では、よっぽど山奥の、神式じゃないと、そのまま死体を埋葬なんかしていないぞ。本当は、法律上、死体の埋葬なんかできないのだろうけど、自分が小学生の頃、母親の故郷のK県の山奥では、確かに、母親のじいちゃんの死体を土に埋めたはずだ。俺も、仕事柄、法に触れるような行為は慎まなければならないけれど、この仕事に就く前の事だ。とうに時効だ。
 とにかく、宗教上、死体を土葬じゃなく、火葬にするようになって、おばけも変わってしまったんじゃないか。日本でも、以前は、ゾンビのように死体が甦るような恐怖があったのだろう。だから、死体を折り曲げて石を抱かしたりしたんじゃないだろうか。確かに、死体が甦ったら怖い。火葬が普及してからは、幽霊も、体が燃えちまった以上、ゾンビのように死体として甦るのじゃなく、足がなく、魂が、怨念が甦ると信じられるようになったのじゃなのいか。自分はもうすぐ仕事をやめる。やめてからは、日本全国で、まだ、土葬が風習として残っている地域で、ゾンビ伝説が、死体が甦るという言い伝えがないか、調べてみたい。うーん、自分も、たまにはいいことを思いつく。よし、日本のゾンビ伝説の調査、これが俺のライフワークだ。
 その前に、交差点の真ん中で、立ち往生している生きた人間を助けないといけない。信号が変わった。さあ、ダッシュだ。なんだ、あいつら、動こうとしないぞ。怪我でもしているのか、病気なのか、それとも、好きであそこにいるのか。おっととっと。ここから真ん中まで、斜めには進めなおい。おい、俺は警察官だぞ。市民が困っているんだ。助けに行かないと。だが、自分の身長百六十センチ。同じ世代の人にとっては低くはないが、現代小学生や中学生でもそれぐらいの身長はある。若い女性も同様だ。女性は、誰も知っているからこそ、正々堂々と知っている間に身長が五センチ以上も高くなるハイジャンプヒールを履く。そのため、百六十センチなんて、一回でクリアできるぐらいの身長となる。上から見下ろされる警察官の自分。残念だが威厳がない。犬だって、人間を飼い主と思うのは、餌をくれるだけじゃなく、人間の身長を見て、自分よりも大きいので恐れをなしているんだと言われている。くそ。覆面パトカーじゃないけれど、今すぐ、頭にサイレンを付ければ、この危機的状況から脱出できるのに。今度、携帯型サイレンを上司に要望しよう。とにかく、今は待てない。
 権藤は、何とか、昔、ため池で覚えた得意の犬かきで、この人波をかき分け、交差点のまん中で沈んでいる人々を救うため進もうとするが、思うように前に進まない。警察だ、警察だと大声を上げても、声はすれども姿が見えないせいで、誰も避けようとしない。こうなればと、百八十センチ級のアルプス人間の谷間を縫って進もうとするが、目的地から離れるばかりだ。救出すべき者は疲れて座りこんだのか、この位置からは見えない。どうにもならない。信号が点滅しだした。これじゃあ、俺までもが、スクランブル交差点難民だ。
 信号が変わった。「きゃー」「まだ、人が通ってんだよ」そんな叫び声とも悲鳴とも思われる声が飛ぶ中、車たちは、一斉に走り出す。四つんばいとなり、息も絶え絶えの権藤。ようやく陸の孤島に辿りつけた。そこで七人と一匹から、憐みの目を持って歓迎を受けた。

すくらんぶる交差点(6)

すくらんぶる交差点(6)

交差点に取り残された人々が、取り残されたことを逆手に取って、独立運動を行う物語。六 警察官 権力 意地 の場合

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-07

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