味噌茸

味噌茸

茸不思議小説です。縦書きでお読みください

 

 茸発酵研究所、所長 飯田君麿
 彼の名刺に書かれている肩書きである。研究所は京王線笹塚駅から歩いて十分ほどのところにある十二階建てのシエニビルで、二階の全フロアをしめている。このビルは一階から二階までが貸しオフィス、三階より上が賃貸マンションとなっている。マンション区域にはワンフロアーに2LDKの住まいが六軒ある。
 彼はシエニビルのオーナーでもあり、住まいは十二階の富士のよく見える南側に二軒分つなげた広さの特別につくらせた部屋である。
 研究所といっても、世界の茸の輸入会社や、茸の書籍の販売会社、茸グッズの製作や販売を手がける会社などもはいっており、それらも彼が社長である。
 研究所は、ちょっとした化学実験ができる実験室、茸の培養室。茸図書室、それに特許関係の部屋からなっていて、高度な解析研究は、彼が卒業した都内の大学の研究室や科学博物館研究室と手を組んで行なっている。
 彼自身は大学で発酵のメカニズムを研究した。発酵という現象が人間の食に大きく関わっていることはよく知られていることであり、一般の人でも、酒、味噌、チーズ納豆が発酵という現象により作り出されていることを知っている。しかし彼は発酵という現象が食だけではなく、地球の生きものの輪の中で、中心的働きをしていることを学んだ。そこで発酵の研究を進め、大学院生のときに、新しい発酵現象を見つけた。それが二つの特許に結びつくという幸運なスタートをきったのである。
 大豆を早く発酵させることのできる酵母の発見で、カップヌードルのように、お湯をかけると、一晩で味噌ができるインスタント味噌をつくることができるようになった。そのたぐいの菌で米を一晩で酒にすることも可能にし、日本酒の革命とも言われたが、やはり、日本酒のうまみはゆっくり発効させたほうがよいようで、安酒を早く作るのにはよかった。むしろ、アルコールを早く造るためのものとして、かなりの特許料が彼の手にはいった。
 大学での研究生活の中で、彼は古い文献にめぐりあった。大学の農学部の図書館で、発酵に関わる歴史を調べていたときである。和とじのその本は、誰も手にすることはなかったようで、埃にまみれて棚の上に置かれていた。
 昔から毒に関してはいろいろ研究が進められていた。毒が政争に使われたり、薬として人助けのために用いられていたからだ。茸に関しても、毒茸の知見はいろいろな書にまとめられていた。そういった古い文献の中には奇妙な現象が記されていることがある。
 君麿がみつけた文献は、麹を使わず、茸で味噌を造るというものであった。味噌の樽からはみ出すように赤っぽい茸が生え、それは見事だと書いてあった。その茸の菌糸が大豆を発酵させ、味噌にするという。ただ、醤油はとれないと書いてある。
 文献を書いたのは、田舎の下級武士で、小さな城の台所を仕切っていた。食料に関しては知識があったとみえ、いろいろな工夫をしている。
 赤い茸は城の食糧倉庫の脇で、その武士が朝早く偶然見つけた。武士は、茸が「あかたけ」に似ていて、食べられそうではあるが、違う茸かも知れず、毒茸かもしれず、引っこ抜いて台所の土間の端に置いた。後で調べてみるつもりだったのだ。
 土間の竈の脇には自家製の味噌を造るため、ゆでて潰した大豆の入った大鍋が置いてあった。係りの者が突然の用事をいいつかり、忘れたたままにしてあったものである。まだ麹をいれてなかった。ところがその夕、大豆は味噌になっていて、赤味かかった茸が味噌から何本も生えていた。驚いた係りの者が武士に連絡し、その武士は舐めてみて、まごうことなく味噌であると驚いた。
 こうして茸が大豆を味噌にすることを発見したのである。味も悪くない。その武士は赤い茸を味噌茸と名付けた。
 それだけではなかった、病に臥せっていた同僚に、その味噌で作ったうどんを食べさせたところ熱は下がり、治ったのである。その武士は味噌茸から味噌に何かが移って、病の毒素を消したと考えた。
 勇気ある武士はもしやと思ったのだろう、味噌に生えた茸を食べた後に、腹を下す毒茸を食してみた。すると腹を下すどころか、むしろ元気になった。さらに味噌茸を食べもっと強い毒茸を食べた。全く毒の影響がなかった。明らかにその赤い茸は解毒作用があると記されていた。
 こんなにすごい茸であったが、今には伝わっていない。その文献の出所を調べたのだが書かれていない。味噌茸のことを「あかたけ」に似ていると書いてあることから、桜シメジの方言だとすると、長野あたりの可能性を考えた。大学時代、信州ばかりでなく、全国で茸の採集を行なったが、とうとうめぐり合うことはなかった。
 彼は特許料を得たことから博士課程に進み、学位を手にした後は、助手として発酵現象の研究を続けた。古文書のことが頭にあった彼は、茸の研究も始めた。真核生物と呼ばれる生き物は動物、植物、菌の三世界に分類される。物を発酵させる酵母菌も茸もおなじ菌類である。茸の研究は未来の食料につながる可能性もある。。
 助手を四年ほど続けた後に、三十にして今の茸毒の研究所を立ち上げ、十年たった今、いくつかの会社を立ち上げるまでにいたったのである。
 その間も途切れることなく、茸の毒を消すことができないかと考え続けていた。今でもかなりの茸には毒がないのであるが、毒茸との見分けが難しいことから、さわらぬ神にたたりなしといったところで、食べようとはしない。それは賢明であるが何かもったいない。毒消しがあれば食糧難も少しは解消できるであろう。それが茸の成分に含まれているとすればすばらしいことである。そんな茸が無いものか、そういうことで、「茸発酵研究所」という珍しい名前をつけたのである。

 彼は上田の茸栽培の現場を見学に行った帰り、佐久の温泉宿に一人で泊まることにした。ちょっとした骨休めである。一人暮らしの彼はどうしても働きすぎてしまう。このような出張時には、ふらっと温泉などに寄るようにしている。帰りは小諸から小梅線で小淵沢にでて、中央線で帰ろう。そう思った彼は佐久駅で降りて、駅の案内所で宿をとった。
 とれたのは佐久の駅からバスで二十分ほどいったところにある古い宿である。このあたりは、中山道の昔の宿場町で、歴史を感じさせる建物も残っている。
 泊まる宿も古い建物で、戸を開けて入ると、たたきは土間になっており、女将らしき人が部屋に案内してくれた。十畳ほどの畳の間である。食事は部屋食で、二つの温泉がある。久しぶりにのんびりできそうだ。。
 まず、一風呂浴びた。大きな風呂場ではないが、檜の板が敷き詰められた洗い場と、木の湯殿は、おそらく昔のままのものなのだろう。ゆっくり浸かり、部屋に戻ると、女中さんが夕食の用意をしているところだった。
 「湯はいかがでした」
 「よかったですよ」
 「ビールでもお持ちしましょうか、生がありますが」
 「お願いします」
 皿を並べていた女中さんは、いったん戻って、ビールを持ってきた。コップにビールを注ぎながら、
 「ご旅行ですか」
  と聞いてきた。
 「仕事の帰りで、ちょっと骨休みです」
 「それはいいですね、何のお仕事ですか」
 「茸の栽培を見学してきました」
 「そうですか、このあたりでも、山のほうに行けば茸はいろいろでます、今日の食事にも何種類かはいってます、天然の滑子や舞茸、香茸の炊き込みごはんもつきます」
 「それは嬉しいですね、このあたりに茸で味噌を作るというような話は伝わっていませんか」
 「それは聞いたことないですね、昔からいろいろな茸を採ってきて、食べていたようですよけどね」
 「近くに城か寺や神社はありますか」
 「ええ、大昔、この地域にはたくさんの小さな城がありました、一番近いのは、望月城の址でしょうね、なんにもないんですけどね」
 「近くですか」
 「歩くと大変ですね、望月山の上にあるんですよ、歴史はあるけど、手入れはされてないしね」
 「いつ頃のですか」
 「戦国時代だと言うから、ずいぶん昔でね、城主がこの辺を統治していたそうだけど、滅ぼされたみたいだね」
 「行ってみたいですね」
 「あそこに行きたいと言う人は珍しいですね、お城がお好きなのですね」
 「ええ、まあ、タクシーでは行けますか」
 「ああ、タクシーならそんなにかからんですよ」
 ということで、次の朝、彼はタクシーを頼んで望月山の上に行った。かなり広くて、もともと植わっていたとおぼしき古い木が茂っている。タクシー会社の電話を教わってタクシーを返した。
 見晴らしもいいところであるが、丈の高い草が一面を覆っており、縁には背の高い木が茂っている。ほとんど残っていないが、古びた石垣が歴史を物語っている。あまり高い石垣ではない。山そのものが要塞なんだろう。とりあえず彼は一周した。天守があったところはちょっと高くなっており、やはり石垣に囲まれている。
 北の方角から登ってきて、ぐるりと一周回ってみたところ、どこからも見晴らしがよく、西から北にかけて山々が見え、東から南にかけては街道が通っている山間の平地が見渡せた。
 草の中を歩いたが、茶色のよく見かける茸が生えていたり、切り株に腰掛けの仲間が生えているだけである。
 天守閣があったところに上ってみると、やはり縁には木々が植わっており、跡は草原になっていた。南東の角に行くと、草の中に赤いものがちらちら見えた。茸のようだ。卵茸かもしれない。そばによると、それは唐笠茸と同じような形をしている真っ赤な茸だった。大きい。彼も随分色々な茸を見てきたが始めてみる。根元に壷はなく、茎まで真っ赤である。写真をとり、生えている状況のメモを書き終わると、引っこ抜いた。紙袋にいれ、リュックの中にしまった。紅天狗茸に似ているところもあるが、茎まで赤いところが違う。あの文献にあった桜シメジらしい赤い茸とはまるで違う。しばらくあたりを探したが、赤っぽい茸はそれ一つしかなかった。
 望月城を後にして、昼過ぎには笹塚の研究所に戻った。
 望月の赤い茸の名前はわからなかった。外国の図鑑にも載っていない。地球上にどのくらいの茸の種類があるか明らかではない。今わかっている茸の何百倍もの種類がある可能性がいわれているのである。
 胞子を培養しよう。研究所の研究者に、その茸の胞子を渡して、培養をするよう言った。
 次の日、赤い茸をたずさえて、科学博物館の茸の専門家に会いに行った。いつも鑑定を頼んでいる茸学者だ。
 「唐傘茸の仲間であるようでもあるし、紅天狗茸の仲間のようにも見えますが、始めてみる茸で、同定には時間がかかります」
 彼も驚いていた。かなり大きな茸であり、新種なら学会でも話題になるだろう。
 かなりたってから、研究者から、その茸が何に属しているのか分からないと言う返事がきた。DNA解析をしたのだが、日本の茸のどの系統にも属していないようで、海外の茸との比較をするということだった。茸の種類はわからなかったが、一方で、何かありそうだと言う期待がわいてきた。
 
 三週間ほど経ったころ、培養担当の研究員が、望月から採ってきた茸の培養がうまくいって、茸が生えそうであることを言ってきた。彼も培養室に行くと、培養瓶の中には菌糸が発達しており、幼菌が顔をだしていることを確認した。
 「誰か、専門にこの茸を培養してくれる人はいないかな」
 この研究所で雇っている研究者は三人である。
 「今、みんな大事な局面の研究をもってます、時間がかかるのなら、先生の大学の学生さんに来てもらったらどうですか」
 ときどき、アルバイト代を出したり、場合によっては奨学金をだして、彼の卒業した研究室の学部学生や、大学院生をやとっている。
 彼は自分が卒業した研究室の教授に会いに行った。
 都内のその大学の実験室では、発酵や菌類の培養についての研究が今でも進められている。
 「先生、また新しい茸をみつけたので、誰かアルバイトで培養管理してくれる人がいないでしょうか」
 「うん、いないことはないよ、君の研究所は近いし、アルバイト代はいいし、喜んで行くと思うよ、来年卒業研究を始めるのが六人いるけど聞いておくよ」
 「お願いします、どのような茸かわからないのですけど、新種のようなので、科学博物館で調べてもらっています」
 「それなら、その茸の培養に関して卒論研究にさせてもらうということでどう」
 「もちろんいいですよ」
 研究室に戻るとすぐに電話があり、一人の学生が興味を持っているということだった。次の日に来てもらうことにした。
 
 やってきたのは、今どきの女の子にしては珍しい、地味な格好をした小柄な女の子であった。しかし受け答えは非常にはっきりしていた。
 「先生から話は聞きました。茸の培養は、実習で一応やりましたので、指示していただければできると思います」
 その子は佐和静子といった。培養室を見せると、
 「研究室のものとほとんど同じですから、出来ると思います」
 と頼もしいことを言った。
 大学の研究室には小さな培養室が五つある。実は彼が指定寄付をして作ったものなので、茸発酵研究所のものとほとんど同じである。
 「佐和さんは、卒業したらどうするの」
 「醸造関係に就職するつもりでいます」
 「大学院はいかないのですか」
 「とてもお金がかかって無理です」
 彼女は笑顔で答えた。
 「それでは明日からでもこれますか」
 「ええ、ただ、まだ講義もありますので、朝のうちなら、培養の面倒を見て学校に行くということができます。火曜日と木曜日、土曜日はいつでもこれます」
 彼女の予定に沿った、研究所に来るタイムテーブルを作り、その時間にきてもらうことにした。自給二千円でお願いしたら、高額なのに驚いていた。
 教授に電話すると、
 「それは良かった、出来る子でね、ただ母子家庭でアルバイトしながら頑張っているんだ」とやはり喜んでくれた。
 「もし、何か新しいことが出てきて、興味を持つようなら、奨学金をだしますよ」
 「そうしてくれれば、とても助かるね」
 苦学生ほどいい研究結果をだすものである。大いに期待できそうだ。
 
  本当に佐和静子は有能であった。茸の培養はうまくいき、どんどん茸は増えた。
 そこで無駄だとは思うが、培養床に茹でた大豆を混ぜてみることにした。
 「なぜ、大豆を混ぜるのですか」
 静子が不思議そうに尋ねた。
 「実は、こういう文献があってね」
  彼は学生時代にであった古い文献について話をした。
 「私も、図書室にいってみます」
 彼女はそう言うと、次の日にはコピーをもってきた。
 「まだ、古文書はあったのだね」
 「ええ、ありました。確かに面白い話しですね、でも文献の茸とはだいぶ違いますね」
 「うん、違うと思う、だめかもしれないけどやってみようと思っただけなんだ」
 「面白そうです」
 彼女は好奇心の強い子である。
 その日から、茹でた大豆入り培地による茸の栽培を始めた。静子は、「他の茸でも同じように大豆の培地でやってみます」と、マッシュルームやエノキでも試し始めた。
 二日すると、彼女が
 「先生が採ってきた茸だけ、培地の中の大豆にも菌糸がはいりこんでいます」
 と報告に来た。培養室に行ってみると、確かに、マッシュルームやエノキでは大豆の周りに菌糸が伸びているが、望月の茸のように、大豆の表面に取り付いているのは見られない。
 「面白いね、大豆がどうなるか判らないけど、大豆でも培養できるかもしれないね」
 そういって、また一週間すると、
 「幼菌がでました」と彼女が言ってきた。
 見ると、赤い小さな茸の頭が見える。
 「それが大きくなったら、大豆がどうなっているのか調べるのと、大豆だけで培養してみよう」
 「私もそう考えていました」
 佐和静子はうまく行っていることもあり、やる気満々である。さらに大豆を取り出してみると、柔らかくなっていて、指でもつと、ぐしゃっとつぶれ、つーんと味噌の匂いがした。まさかと思っていたことがおきそうだ。
 「いい匂いがします」
静子も驚いている。彼は指の先でちょっと舐めてみて、唾をティッシュにだした。「味噌の味だ、君も舐めてごらん、でも飲み込まないように、毒かもしれないからね」
 彼女も同じように舐めた後、唾をティッシュで拭き取った。
 「お味噌です」
 「うん、面白い、大豆だけでやってみてみよう、この発酵した豆は分析にまわすから」
 食物成分の分析会社に、その発酵した大豆を送る手はずを整えた。
 「茹でた大豆だけでやるとき、酵母も同時にやってみます」
 彼女はそういった。比較対照群として、酵母を使いたいということである。研究能力がずいぶん高い、こういう子は是非大学院に行ってもらいたいものである。研究が進んだら、奨学金のことを話そう。
 その結果、大豆だけで茸の培養はうまくいった。むしろ茸の顔をだすのが早いくらいであった。しかも、酵母より早く発酵が進んでいる。
 それらの発酵した大豆の分析結果が出た。
 成分の結果はアミノ酸をたくさん含んだ、とてもリッチな味噌になっていることを示している。酵母のものよりも旨味のアミノ酸が多い。それだけでなかった。面白い成分が含まれてていた。セロトニン、アドレナリン、ギャバなど、動物の脳、からだの中で働いている物資で、おまけに副腎皮質ホルモンと同じ作用のある物質が含まれていた。これはすべて、ストレスを和らげる成分である。しかも味噌の中にその成分が溶けだしている。これはすばらしい味噌である。茸で味噌が作れるだけでも驚くことなのに、普通の味噌よりはるかに栄養価が高い。
 
 その年も終りになろうとしていたころである。大豆で培養した茸に異変が生じてきた。
 唐笠茸のような形をしていた子実体にまじって、マッシュルームの形をした茸が、ポコポコと瓶の先からでてきた。ただ真っ赤だった。マッシュルームの菌が混じった可能性を考えたが、真っ赤なマッシュルームは見たことも無い。
 静子も彼もどうしてそうなるのか、わからなかった。ただ大豆は上等な味噌となっていた。胞子をとって培養を続けていると、茸の形が卵茸になったり、松茸になったり、大きな猪口になったりする。すべて赤い色をしているが、茸の形が一定しないのである。それはともかく、味噌はきちんとできる。
 あまりにも不思議な現象で、とまどっているところに、科学博物館から、遺伝子解析の結果が届いた。
 日本では未発見の茸であることは、すでに調べがついていたが、やっと何の種類か分かったと書いてある。
 物まね茸の仲間。
 こんな茸は全く知らない。
 科学博物館に電話をした。茸の専門家はこんなことを言った。
 「本当の日本名はまだないから、勝手に物まね茸って呼びました、ある菌は植物にくっついて、自分の細胞を変化させ、とある植物と同じような花を形成させ、花の先にその菌の精子を出して、止まった虫に運ばせる。そんな菌類もいるのです。飯田さんが採ってきた茸はそれとは違いますが、遺伝子の中に、唐傘茸、作り茸、松茸、椎茸、ありとあらゆる形の茸を形成させる遺伝子が存在するのです。どのようなきっかけか判りませんが、どれかの形の茸を作ることになると思います」
 「ええ、その通りで、まさに、そのことが、我々の、培養室で起きています。マッシュールームが出たり、榎茸が出たり、松茸が出たり、ただ色はみな真っ赤です」
 「ええ、茸の色形成の遺伝子は赤のようです」
 「今度、研究所にきてみてください」
 「是非いきたいと思っていました」
 やってきた科学博物館の茸の専門家は、茸発酵研究所の培養室で、目を見開いたまま、無言で驚いていた。
 この茸については、科学博物館、大学と共同で、あらゆる面からの科学論文を書き、和名は、味噌茸と彼が名付けた。
 いくつもの特許の出願も行なった。

 味噌茸のプロジェクトは大きく走り出した。
 健康味噌を作る会社を新たに立ち上げた。
 佐和静子は、彼の奨学金をもらい、博士課程まで進むことになった。
 味噌茸の解析は、佐和静子の協力を受けて、次のステップにいった。
 古文書にあるような茸の毒を打ち消す作用について調べることにしたのである。
 動物実験では、この茸を食べたマウスは、毒茸を食べさせても、大丈夫なことから、毒消しの効果は認められる。直接毒性分を注射しても、この茸を食べさせておけば生きていることから、確かであることが証明された。ところが、茸の中のどの成分が毒消し効果をもつのか、いくら調べてもわからない。茸をすり潰して、上澄みを注射しても毒消し効果はなく、沈殿物を食べさせても効果がない。丸ごと食べたときのみ毒消し効果がみられた。この茸の菌糸だけ取り出して、食べさせてみたが、効果はない。ということは、茸になった菌糸を直接食べて、それを動物の消化液か、腸内細菌によって化学反応が起きた結果といえる。
 茸を食べさせたマウスの胃の中の物を取り出し、その上澄みに毒茸を浸したところ、毒茸の毒性が消えていた。どのようなタイプの毒でも同様であった。
 これは、すごい薬にもなるし、最初考えたように、これによって毒茸もすべて食べることのできる茸になる。
 この茸を乾燥させておいても、その効果は保たれた。
 大発見である。ただ、胃の中に入ったその茸がどのような物質になって効くのかはいくら調べてもわからなかった。これでは、薬としての特許は難しいかもしれないが、この茸を粉末にしたり、乾燥して、健康補完剤としては特許がとれるであろう。
 こうして、数年がたち、佐和田静子が博士をとるときには、海外の、特に茸の好きな北欧、フランスなどのヨーロッパ各国の特許をとった。
 これは、あらゆる茸が食用になることから、食料事情の改革をもたらした。味噌は日本の食べ物としてよく知られていたこともあり、彼らが特許をとった健康味噌は、売れ過ぎぐらいに売れたのである。
 もう一つおまけがある。この茸の栽培キットを販売した。味噌が造れるのと、うまくすると、茸が生えてくる。その茸はもちろん毒消しの役割として食べてもいいが、とてもきれいな茸が生えることがある。どのような形の茸が生えてくるかわからないところが面白い。ネットにこんな茸が生えたと写真を送るサイトができ、世界中の、まだ見つかってない茸もそこに投稿された。すると、今度は、サイトに投稿された茸の、自然のものを探す人たちが現れ、探し出した人は、その茸に名前を付ける権利が与えられ、人々の新しい趣味となったのである。
 さて、この偉業をなしとげた、飯田君麿はなにをしているかというと、甘い茸、塩辛い茸、酸っぱい茸を作ろうとしていた。そのまま食べてもいいが、それから、砂糖、塩、酸を抽出することを考えていた。土の中に菌糸を張っている訳で、土の中の成分を吸い取るのではないかと考えたのである。カルシウムの豊富な茸もいいだろう。さらに、土の中の微量な金属を吸収させるようにして、金などをとるのもいい。彼の頭の中では、人間のからだに必要な成分が、すべて茸でまかなえるような世界を描いていたのである。
 3018年、まさに、そうなっていた。

 参考文献 「奇妙な菌類」ミクロ世界の生存戦略 白水貴著 NHK出版新書484、2016年
 

味噌茸

味噌茸

古い文献に味噌を作る茸の話がのっていた。その茸を見つけた。その茸は味噌を作るだけではなく、茸毒を打ち消す働きを持っていた。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-18

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