幻の楽園(七)Paradise of the illusion

幻の楽園(七)彼女の香り

中川玲子は黄昏の時間に、街を歩いていた。
今は自分の為の、時間の中に居る。

午後から大学の講義を、受けていた。何の興味も惹かない内容の講義だった。

彼女は退屈の余り、想像の世界にいた。
彼女は、今は深い森のジャングルにいる。

彼女は、膝辺りまで水に浸かっている。

森の中は、一帯が湿地で水没しているのかもしれない。彷徨ううちに気がついた。湿地の水は、何故か透明に近く澄んでいる。


幸せになれる一輪の花を探している。
緑の奥深く、彷徨い続ける。

得体の知れない、動物や鳥の鳴き声が聞こえる。

彼女は不安に押し潰されそうになりながら、前に歩いて行く。

突然視界が開けて、青い空の下に出てくるのだ。その場所だけ、樹々がなく円の形に木が切り取られたような空間になっている。

その真ん中に、一輪の青い花が咲いている。

彼女はどうするのだろか?

摘み取り持ち帰るのだろうか。

それとも、そのまま何もせず立ち去るのだろうか。

ストーリーの分岐点の選択を考えていたところで、講義は終了した。

街のビルの壁が、オレンジ色に夕陽で染まっている。

彼女の淡いブルーのシャツワンピースが風に揺れている。

淡いグレーの華奢なヒールの靴が、歩くたびに音がした。

玲子は大学の正門を通り過ぎた時、同じゼミの川崎慶と南沢遥に偶然会った。

「玲子」

歩いて行く彼女の背後から二人が声をかけた。玲子は振り向いて二人を見た。

一瞬の間をおいてから彼女から笑顔が溢れた。

「あら。久しぶり」

彼女は、そう言いながら右手を挙げて軽く振った。

「偶然ね」

「そうね」

「最近見かけないからびっくり」

「午前中の講義を受けた後は、何もないの」

「私達は、午後からだからすれ違うのね」

「逢えないのは、ほんの少しのすれ違っただけ」

「なんか、ラブソングの歌詞みたいなフレーズだね」

慶が玲子を見て微笑した。

「あ、もしよかったらコーヒーでも飲まない」

「コーヒー?」

「私達、今からコーヒーショップに行くところだったの」

「カフェじゃなくて?」

「小さいお店なんだけど。エスプレッソコーヒーが美味しいの」

「この辺なの?」

「そうなの。Le soleil て言うバーカウンターしかない小さいお店」

「あっ知ってる。青山さんでしょ」

「えっ?知っているの?」

「コーヒーを注文したら。ほろ苦いエスプレッソコーヒーとひとかけらのチョコレートが出てくるわ」

「そうそう、そうなのよ。ほろ苦くって」

「知ってるんだ。青山さんの事」

「あっ。私はあまりよく知らないの。友達がよく行くの。私は、その友達と二、三回くらい行ったことあるわ」

玲子は、二人に少しだけ嘘をついた。

友達ではなく恋人同士だったからだ。

慶と遥は、そんなことを気がつくわけでもなかった。

「へぇ。偶然」

「そうなんだ」

「二人は、私の友達ともう会ってるかもね」

「そうね。そうかもね」

玲子は、アンニュイな表情でそう言って冷めたように微笑した。

「じゃあ。行こうか」

「ええ」

玲子は、静かに答えた。

それから三人は、街の小さなコーヒーショップまで並んで歩いた。

静かな路地の片隅にその店はある。

向かって右側に小さな透明のアクリルプレートにLe soleil とだけ表示してある。

観音開きになっているナチュラルな木目のドアを開けて三人は中に入った。

白い漆喰の壁に、二階の窓から午後の穏やかな光が差し込んで明るい。

静かな空間に、FMラジオが流れていた。

昼の番組のオープニングだった。

Welcome to the afternoon lounge. Ocean Bay FM.

皆さん、こんにちわ。オーシャン ベイFMの七海 理央奈です。

午後の微睡みの時間に、音楽を添えてお送りいたします。

それでは、今日の一曲目。

甘く危険な香り 山下達郎

です。どうぞ。

静かにフィラデルフィアソウル調の楽曲が、緩やかに心地よい空間に流れてきた。

" あなたの思わせぶりな口づけは
 耐えきれぬ程の苦しさ
 心は暗がりの扉の影で
 報われぬ 愛の予感に震える
 息をひそめた 夜にまぎれて mm mmm
 忘れかけてた 愛の香りよ"

小さなL字のカウンターの向こうに笑顔の青山健二がいた。

「こんにちは」

南沢遥が、三人を代表するように控えめに挨拶した。

「いらっしゃい。今日は、珍しく三人だね」

「えぇ。さっき彼女と偶然に出逢って誘ったの」

「あれ、彼女。何度か奈津子さんと来てたよね」

青山健二が玲子を見てそう言った。

「えっ。玲子、奈津子さんの事を知ってるの」

「へぇ。偶然だね」

遥と慶は驚いた様に玲子を見た。

「えっ?」

玲子は少し困惑した表情で二人を見た。

二人が奈津子を知っている。まさか、奈津子との関係までは知られてはいない。そうよ。そんな事、わざわざ彼女が言うとも思わないし......。

三人はカウンターに座った。玲子は、一番隅の席に座った。隣に、遥が座った。続く様に慶も座った。

「青山さん、僕はエスプレッソね」

「はい、エスプレッソね。遥さんは?」

「私、キャラメルエスプレッソ」

「キャラメルエスプレッソね」

青山健二は二人を見て微笑した。

「それて、なに」

玲子は、隣にいた遥に聞いた。

「あ、キャラメルエスプレッソ?」

「そう」

青山健二が、玲子にさりげなく説明した。

「キャラメルソースを静かに底に入れてあるから、飲むと少しずつほろ苦いエスプレッソの味から少しづつキャラメルソースの風味と甘さが増してくる。美味しいよ」

「じゃあ、私もキャラメルエスプレッソ」

「はい、かしこまりました。エスプレッソとキャラメルエスプレッソが二つね」

玲子は、青山健二を見て微笑した。

早速、遥が玲子に話しかける。

「ねぇ、玲子。夏休みどうするの」

「別に、予定はないけど......」

「そう、よかった。私達、夏に島に行こうと思うの」

「島?」

「うん、都内から車で高速に乗ったら二時間くらいだし。早朝のフェリーで行ったら、その日は島で遊べるじゃない。海で泳いで、その後で散策してさ。リゾート施設もあるのよ。泊まりで行って食事や温泉も楽しめるし。何よりも、夏の島に居られるなんて幸せじゃない?」

「楽しそうね」

「うん、ぜったい楽しいよ」

「けど、二人で行くんでしょ」

「あ、もう一人行くの。神田くん知ってるでしょ」

「あぁ。川崎くんの親友......?」

「まあ、親友と言うか。悪友だな」

慶は、少し苦笑いした。

「どう?玲子も行かない?もちろん、部屋別に予約するし」

「いいんじゃない。一緒で」

「えっ?いいの」

「着替える時だけ外に居てもらうけど」

「あぁ。全然オーケー」

「じゃあ。決まりね。ねっねっ」

玲子は、二人に誘われて、みんなと島に行く事を決めた。

今のところ予定はない。しかし、ほぼ夏休みは奈津子と過ごす事になる。

玲子は、時には奈津子と会わずに過ごす夏も悪くないと思った。

注文してあったキャラメルエスプレッソが来た。

玲子は、マグカップを持ってキャラメルエスプレッソを飲んだ。

エスプレッソの独特な苦味の中にキャラメルの香りがする。

何度かに分けて飲んでいくうちにキャラメルの甘みが強くなっていく。苦味と甘味がバランスが変化していく中でそのどのバランスも絶妙で美味しい。

玲子は、キャラメルエスプレッソに意識を集中させた。

コーヒーを飲んだ後、二人と別れて玲子は街を歩いている。

「玲子は、卒業したらどうするの」

と、遥から聞かれた。

「まだ、決めてないわ」

玲子は、淡々と応えた。

今、歩きながらその事を考えている。

これから先の事。就職して誰かと出会って結婚を機に退職して家庭に入って子供が出来て......。

幸せとはそうゆうの事なの?それなら、私は違う。そもそも今は愛している相手が奈津子であり女性なのだから。

だからと言って、それを特別な事のようには思えない。他人に私は特別な存在であるなどとアピールするなど意味のない事だ。

たまたま、自然な形で愛してしまった人が女性に過ぎない。そう思う。

子供は欲しいと思う。奈津子と付き合っていても、それは望めない。

それに、結婚の事にしても同性婚なんてこの日本の国で正しく認識されるのかも疑わしかった。

そんな事で、どうでもいい他人の視線や意見を避けて暮らしていくなんて絶対嫌だった。

私は、自由に生きたい。好きなように生きたい。そう思えば思うほど不自由になっていくような気がした。

沢山の溜息の分、不安を心に溜めながら生きていくなんて嫌だけど、どうしていいのかわからなかった。

それに、自分が年老いた姿なんて考えもしなかった。

しかし、永遠に二十代の容姿でいられるわけでもなかった。


大学に入った頃はそんな事など考えもしなかった。私は、現実を何処かに隠して忘れていたのかもしれない。この若さと輝きが永遠に続くものと錯覚さえしていたのだ。

彼女は駅前のスーパーマーケットに、入って行った。
店内に入ると、二人分の食材を、時間をかけてゆっくり選んだ。

最後に自分の為の、ミントを棚から選んだ。
店内に、次の音楽が流れてきた。

あの曲だわ。
と、玲子は心の中で思った。

その曲はラテン調のアレンジで、軽快にユーモラスだった。
流れている曲は、店内によく似合っていた。

その曲は、しっとりと落ち着いたバラッド調になると、雰囲気が変わる。

彼女は曲を聴きながら、ミントを一つ選んで、レジに歩いた。

レジで清算を済ますと、袋に丁寧に食材を入れていった。
最後にミントのパッケージを、開けて一粒口に入れた。
玲子は口の中で、ミントの清涼感を楽しんだ。

スーパーマーケットから外へ出て来ると、辺りは夜に包まれていた。
彼女は食材の入った袋を持って、駅へ向かった。

玲子は電車に乗っている間に、大学一年生の頃を思い出していた。

当時、彼女には彼がいた。社会人の男性だ。出逢った頃は、素敵な男性だった。
きっかけは、以前から知り合いだった彼と駅で偶然出逢った。どちらからともなく誘い気があった。
二人で、近くのコーヒーショップに入り、コーヒーを飲んだ。
それが始まりだった。

彼女は、電車の窓を見ていた。闇に浮かぶ自分の姿の向こうを、色々な光が走り去って行く。

彼女はその光景を、自分の生きて来た時間に重ね合わせた。

最後に彼と会ったのは、大学三年生の時だった。

彼は部屋のキーを置いて、玄関のドアを開けて外に出た。

彼女は見送りもせずに、リビングの椅子に座り、彼の去って行く音を聞いていた。
彼女の中で素敵な男性としての彼は、何処にも見当たらなかった。

もう、うわべだけの男に自分の大切な時間を使う事に疲れ果てていた。彼が去っていく刹那さも心の痛みも無かった。涙すら枯れ果て出なかった。
心は、スッキリと整理された気分だった。

玲子は郊外の駅で電車を降りると、南に向かって歩いた。

駅から数分ほど歩いた小高い丘に、マンションがある。

煉瓦造りのマンションの、周りを囲むように緑が調和している。

入り口のインターホンで、部屋の番号を入力してブザーを鳴らした。

インターホンから澤田奈津子の声がした。艶のある声だ。

入り口の自動ドアが開くと、玲子は中に入った。

エントランスホールからロビーを横切り、エレベーターに乗った。

七階でエレベーターを降りると、
回廊のような廊下を歩いて、ドアの前に立った。

鍵を開けてドアを開くと、
玄関で奈津子が立っていた。
第二ボタンまで開けたオーバーサイズ気味の白いシャツを身につけていた。髪を後ろに緩く束ねている。

「今日は、午後から居たのよ」

玲子は食材の入った袋を、彼女に渡した。

「ありがとう。助かるわ」

と、奈津子が言った。

二人は、並んで廊下を歩いた。

二人は、キッチンに入った。

玲子は、買い物袋をシステムキッチンの調理台に置いた。

「玲子」

不意に、奈津子が呼んだ。

「なに?」

玲子が振り向いた。

奈津子が側にきて、二人は抱き合った。

玲子は、システムキッチンの流し台に腰を当てるように支えて抱かれた。

二人は重なり合って抱き合い口づけを交わした。

長い口づけの後、玲子は奈津子の腕を優しく外した。

「今は駄目。着替えてくるわ」

玲子は、気分が高ぶったような甘い口調で奈津子を諭した。

二人は、微笑した。

玲子は、彼女を残してキッチンを出て自分の部屋へ歩いていった。


自分の部屋として使っているドアの前に立つと静かにドアを開けた。

玲子は部屋で服を着替えた。
一旦、服を全て脱いでショーツ一枚だけの裸になった。
それから、胸元が深く開いた黒いタイトなタンクトップと色褪せたブルーデニムのショートパンツを身につけた。

彼女は鏡の前に立った。

露出した白い素肌の深い胸元や、胸からウェストをなぞる様な曲線を描いていき、量感のある腰回りを経て、ショートパンツから出ている脚の曲線は、充分に女性らしく見えた。その姿に多少の色香が漂うことも自覚していた。

彼女は、そんな自分の姿を奈津子に見てもらいたかった。自分の心の内に、彼女の視線を期待している事を自覚した。

やがて奈津子が部屋の前に歩いてきた。

「入ってもいい?」

そう言いながら、入って来て後ろから歩みよった奈津子は、彼女の後ろ姿を少しの間、眺めた。

それから、歩み寄ると彼女を背後から優しく抱いた。それから玲子の耳元で囁いた。

「綺麗だわ。素敵よ」

「あぁ......」

玲子は、瞳を閉じて溜息のような吐息を漏らした。

玲子の呼吸が乱れていく。奈津子は、彼女のほのかにかおる甘い香りと体温を背後から感じとった。

玲子は、奈津子に背後から抱かれながら、この後の寝室の出来事を想像した。

次第に、甘く熱い気持ちが込み上げてくる。

「あぁ......。貴女がたまらなく好きよ。愛してる」

奈津子は、更に強く抱いた。彼女の唇がうなじに触れた途端に、再び玲子は口元から吐息を漏らした。

引用

甘く危険な香り  山下達郎

Songwriting 山下達郎

幻の楽園(七)Paradise of the illusion

幻の楽園(七)Paradise of the illusion

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-17

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