猿に育てられた子
『鱈子市内の中心部に近い住宅街で30日、野生のサルが目撃され、同市は住民に注意を呼び掛けています。同日午後には明太県庁近くでも目撃情報があり、同市中心部の市街地を移動しているとみられます。目撃されたサルは4、5匹で行動しており、大人の猿と推測されます。
また、同市農林生産流通課によると、同日午前7時40分ごろ、同市海月町の雑木林で目撃され、1時間後までに同市伊倉町や同市金目台で住宅敷地内に多数出没しています。午後3時ごろには、明太県庁から約300メートル東の交差点付近で目撃され、市街地に向かって南下している状況です。
同課職員や筋子中央署員、猟友会関係者らが目撃された場所に駆け付け、捜していますが、捕獲されていません。住民や捜索している関係者に怪我などの被害はないそうです。
同市では、サルを見かけても近付かず、市役所か警察に通報し、家屋への侵入の危険性もあるので戸締まりをするよう、呼び掛けています。』
早朝に緊急ニュースが流れた。
せっかくの気持ちの良い朝が慌ただしくなった。このようなのどかな地域には、都会でいう、ほとんどの電車が遅延した、というようなニュースに近い重大さを持つ。会社に行く手段がない!学校に遅れる!というような心配が、こちらでは、せっかく順調に育ってた作物が危ない!生活費が…!!となるのだ。むしろ田舎の方が今後の生活に影響しやすいため危機に陥りがちである。
「最近支舎藻山の木を切りまくってるんだから猿が里山に降りてくるのもしかたないじゃん。
…学校、休校にならないかなー」
てるがご飯茶碗を片手に箸をくわえながらぼやいた。
てるの中学は自宅から自転車で40分のところにある。このことからこの地域がかなり辺鄙なところにあるのがわかるだろう。近くに電車が通っておらず、バスは2時間に1本の間隔でしか来ない。そんなところにはゲームセンターや時代の最先端を行くようなショッピングモールなどない。あるとしたら山と田んぼと畑だ。
プルルルルル!!
電話が鳴った。
はいはい、とお母さんが電話をとった。
「もしもし亀井です。…あっ、どうもーいつもお世話になっておりますー!…はい、はい。あー、分かりました、はい、失礼しますーどうもー」
お母さんが受話器をおいて、てるに向かって親指をたてた。
「やったぁーー!学校ないーーー!!」
てるは両手を上げてガッツポーズをした。
####
ピピピピピピピピピピーー!!!
「いたぞーーー!!!」
「こっちだ!逃がすなっ!」
ドタドタッ
ガッ!
ピー、パシャッ
「そっちいったいった!!」
「待て!たくさんいるぞ!気をつけろ!!」
「んー?うるさいなぁー」
真夜中に、騒音に起こされたてるは、寝ぼけながら窓に寄ってみた。
男の人が十数人ほど、道端に広がって慌ただしく動いているようだった。何かを捕らえようとしているらしい。
「サルかな?」
てるは闇夜に目を凝らした。
いくつかのライトのスポットに何匹かのサルが駆け抜けたのが見えた。
2匹くらいかと思っていたが、よく見たら人の倍の数のサルが駆け回っている。明日回収されるはずのゴミ袋と畑を漁っていたようだ。
段々とサルを捕らえている様子をしばらく眺めていたが、畑の一端を見た途端、てるは慌ててガウンを引っかけ、バスタオルを掴んで、一階に駆け下りて外に飛び出した。
「おい!こいつなんだ!?」
懐中電灯を持った一人の男が叫んだ。
「すみません!!」
てるは走ってサルの群れに飛び込んだ。
「この子は捕まえないでください!!
私の兄なんです!!!」
私は土で薄汚れた男の子をタオルで包み込んで抱きしめながら叫んだ。
素っ裸の薄汚れた男の子が男に向かって歯を剥いた。
「ぐるるるるるる……」
「あ、兄!?」
「本当にすみません!!この子は見逃して下さい!!」
てるは必死に訴えた。
男たちは戸惑ったようだ。
「そ、そいつは人間だ…」
「しかし、サルと一緒になって畑を荒らしてたぞ!?」
「捕えるべきだ!!」
「いや、保護すべきだろう!」
他のサルは放って議論を始めた。
「あの!私が責任を持って家に連れて帰るので、見逃してもらえませんか??」
てるは男の子を抱えて立ち上がった。男の子は小柄ではあるが決して軽くはない。これが火事場の馬鹿力というやつか。しかも、驚いたことに男の子は静かにしている。
男たちはそれ以外に案がうかばなかったため、了承した。
てるは駆け足で家に戻った。
玄関に電気を付け、男の子を床におろした。
「ぐるるるるるる…」
男の子はこの状況に怯えているらしく、壁際に縮こまっててるに向かって唸った。
男の子の髪は長年手入れしていないようにボサボサで、胸のあたりまで伸びていた。
全身が土ぼこりと泥で汚れていて、獣の臭いがする。
見た目は中学生くらいなのに、全身の筋肉がよく引き締まっていた。サルに育てられたせいか特に腕に筋肉がついていて、手の皮もゴツゴツとして硬かった。
てるを睨みつけている目は人間味がなく、鈍く光っていた。
「言葉…分かる?」
てるは男の子に向かって恐る恐る話しかけた。
すると、何を思ったのか驚いた表情をして、パチパチと瞬きをした。
「分かるの…?」
てるは、ある可能性を考えていた。
「もしかして、捨てられた………?」
意味が通じるはずもなく、男の子はてるをじっと見つめていた。
子供が幼いときに山に子供を捨てた親が過去にいたことがあったのは知っていた。この男の子もそのような目に合ったのではないか。そして偶然、サルに助けられ、群れに加わって生活していたのではないか。
しばらくの沈黙があってから、男の子が口を開いた。
「あ………うー………ぁ」
「は、話そうとしてるの?」
長年言葉を話していないせいか、声帯を正しく使えていないようだった。
しばらくてるは、あまり反抗的ではない男の子を不思議そうに眺めた。
「…そうだ!!身体をちょっと綺麗にしよう!」
そう言って立ち上がり、男の子にちょっと待ってね、とウインクしてから、バスタオルを濡らしてきた。
「大人しくしててね〜」
そして、男の子の身体を優しく拭ってあげた。
顔を拭っているとき、ふとてるの顔が曇った。
「やっぱり……似てる」
顔全体を拭き終わったとき、手を止めたてるの目には涙が溜まっていった。
「そんな訳ないもんね……
だって、こうきは死んだんだもん…」
てるは涙を隠すように手で顔を覆った。
ペロッ
男の子がてるの手の甲を舐めたのだ。不思議そうにてるのことをじっと見ている。
「ごめんね…私の死んだ兄にあなたがそっくりで…今の君と同じくらいの年頃かな、中学2年生のときに癌で死んだの。って、あれ、あなたの年、分からないけど。でも多分そのくらいだよね」
てるは服の袖で涙を拭い、男の子に笑ってみせた。
「君も、身なりをきちんと整えて、言葉を覚えればきっと、元の人に戻れるはず!それまで、私がつきっきりで面倒みてあげる!!」
てるは男の子の肩を景気良く叩いた。
男の子は、分かったような分かっていないような、どっちともつかぬ顔でてるを見つめ返した。
「これからよろしく!……えと、名前、分かんないね。決めちゃおっか。えっとー
………こうき、でいいかな?
今日からあなたの名前はこうき!よろしくね、こうき!!」
####
「誰この子!!!???」
「おま…!いつの間に彼氏が!!!???」
翌朝、両親が絶叫したのは言うまでもない。お父さんの言っていることは論外だ。
昨日から徹夜でこうき(仮)の身だしなみというか、もっと根本的な部分を、必死で、世間一般に出せるようにするため、ハサミで髪を切り(もちろん、人の散髪をしたことがなかったのでかなりざっくばらんである。しかし左眉の上の前髪を切りすぎてしまったこと以外は意外と上手くいったと自負している)、弟の服を引っ張り出して着せ(ここが一番大変だった。何しろ野生での生活を送っていたため、服を着るという文化がないのだ。嫌がったのなんの。てるは体のあちこちにひっかき傷ができたし、服は何着かダメにしてしまった)、座って大人しくする、ということを覚えさせた(窓から抜け出して屋根を伝ったり、物を不思議そうに見ては噛んだり壊そうとしたりした)のだ。今では、ちょっとやんちゃをしそうな童顔な男の子、となっている。
「あのね、説明すると長くなるんだけど…」
そうして一切を両親に説明した。
元々放任主義だった両親は、責任は自分で負いなさいよ、と言ってその話はあっさり終わった。あんたはほんとに昔からお節介なんだから、と嫌味を残してそれぞれ畑仕事と醤油工場にさっさと行ってしまった。
大人しく座って目玉焼きをジロジロ見て匂いを嗅いでいるこうきをちらっと見た。
「びっくりするくらいなんにも言われなかったね…。
このあと、どうしよっか?」
てるは椅子に座り、無意識に目玉焼きに箸を刺した。
「勉強、しなきゃね…。
あ、これ、箸を使って食べるの!この2本の棒をこういう風に持って…」
学校に行かなければならない時間を過ぎても夢中になってこうきに食事のマナーを教え込んだ。
元々人間なだけあって飲み込みは早かった。やはり、言葉を少しは覚えているのかもしれない、とてるは思った。
「やば!学校忘れてた!!」
腕時計を見て初めて正午をまわっていることに気がついた。
「と、とりあえず学校に行くよ!」
てるは自分の学校のカバンを持ち、こうきを引っ張って外に出た。
「自転車、後ろに乗って!ココ!!」
こうきは何も言わず、自転車の荷物置きの上にしゃがみ込んだ。
「よし、行くよー!」
てるは思いっ切りペダルを踏み込んだ、が、二人分を漕ぐのはかなりきつく、ノロノロと走りだした。
しばらくして重さに慣れたのか、スムーズに走れるようになった。
てるが気になって後ろを振り向くと、こうきは洋服の袖にあるボタンを噛みちぎっていた。
しばらくするとこうきはソワソワし始め、立ち上がったり(「こうき!危ない!!」)辺りをキョロキョロした。
そして、大きなイチョウの木に差し掛かったところでこうきは自転車から飛び降り、自転車と平行して走り出した。走る、と言っても人間のように二本足ではなく、サルのように四本足で駆けていた。じっと座っているときよりも生き生きとしていた。静かにしていたのがよほどストレスになっていたのだろう。
それにしてもよくこんなに器用に走れるなぁ、と感心しながらてるは自転車をこいでいた。
学校に着いた。
今はちょうど5時間目の授業が始まる頃だったので、辺りには人っ子一人いなかった。
こうきは明らかに怯えているようだった。全身から緊張が伝わってきたし、髪の毛が逆立ち、始終目をあちこちに向けていた。
連れてきたのは良いものの、この後どうしようか、と思案にくれていたてるは、まず職員室に向かうことにした。
正面にある花壇が並んでいる階段を上り、突き当りを左に曲がってお客様用の玄関口から校舎に入った。職員室のドアの前に来たとき、こうきは鼻をフンフン言わせ壁に貼ってあるポスターに手を掛けていた。
コンコン、ガラガラッ
「失礼します、1年B組の亀井です。榎本先生に用があって来ました」
「榎本先生は、確かB組で授業やってるよ」
職員室の右端から女性の今井先生が顔を覗かせて応えた。
「分かりました、ありがとうございます。…あの、この学校って、生徒の編入は可能ですか?」
思い切っててるは聞いてみた。
「編入?ええ、できるわよ。どうしたの、誰か転校生が来るわけ?」
「えーっと…転校生、というか…これから入ろうかな、って思ってる子がいるんですけど…」
てるはチラッと後ろを見た。こうきはアルコールの消毒液を、破いたポスターと一緒に床にぶち撒けていた。
「かなりな問題児で……。ちょっと前まで人間じゃなかった、っていうか…」
「え?」
「昨日までサルだった、んですけど…」
「人間の祖先はサルってこと?」
「いや、そうじゃなくて…!」
「きゃああ!!!何やってるの!!?」
「がるるるるる!!!」
後ろから悲鳴とこうきの唸り声が聞こえた。
何事かと音のする方を向くと、こうきが廊下を走って逃げていく後ろ姿と、保健室の小山先生が腰を抜かして、床に座り込んでいるのが見えた。
「こうきっっ!!」
私は反射的にこうきを追いかけたが、階段のところで見失ってしまった。
「亀井さん!!」
息を切らせて、こうきが上の階と下の階のどちらに行ったのか考えあぐねていると、後ろから今井先生の怒鳴り声が聞こえた。
てるが恐る恐る後ろを振り向くと、訳がわからない、というような憤慨した様子でツカツカと近づいてきた。
「説明してください!今逃げていったのはどなたですか?これはどういう事ですか?」
てるは俯きがちに今井先生を見上げた。
「あの…話すと長いんですけど…」
てるは遠慮がちに説明した。
説明してる間に他の先生方が見物に来て、野生のサルに育てられたこうきという名前の男の子が学校の中にいて、逃げ回っている、と学校中に知れ渡り、警察が来るなど、騒ぎが大きくなってしまった。学校の全ての扉が閉められ、生徒は教室に閉じ込められてしまった。
そのうち、いくつかの目撃情報が入り、先生方が総動員で捜索にあたった。
職員室前で警察官から事情聴取を受けていたてるは、騒ぎに紛れて抜け出し、校庭に出て木々が立ち並んでいる学校の周りを探してまわった。
もしかしたら学校の敷地から出ていってまた山に戻ったのかもしれない。そうしたらもう二度とこうきには会えないかもしれない。私の兄にそっくりだった人に会えて、その人と一緒にいることで今までの寂しさを払拭しようとしてたのに。
てるは走りながらこうきの名前を叫び、辺りを見回した。
しばらくして、ブランコの近くにワイシャツが破り捨てられているのを見つけた。
てるは走り寄ってシャツを手に取った。
「こうきのシャツだ……」
てるは近くにある木を見上げた。
「あっ!」
こうきが木の上に登って口に葉っぱをくわえながらてるのことをじっと見つめていたのだ。
「こうき!一緒に戻ろう!
さっきは驚かせちゃってごめん!私、これからもこうきと一緒にいたいの!」
こうきは何も聞いていなかったかのようにそっぽを向き、隣の木に飛び移った。
「待って!お願い!あなたは人間なの!だから、学校に通って、ちゃんとした生活を送ろう?」
こうきからは何の表情も読み取れなかった。スルスルと滑るように木から降りて次はジャングルジムに駆け上った。
「怖がってるんだよね。人間が、怖いんだよね。」
てるはぽろぽろと涙をこぼした。
「自分も同じ人間なのに…」
てるはぐいと目を拭った。
「だ、だから、私は、あなたを助けたいの」
目を上げると、いつの間にかこうきが自分のそばに来ていて、頭を傾げててるのことを見ていた。
「ご、ごめんね。私、泣いてばっかりだ…」
てるはまた溢れてきた涙を拭いた。
するとこうきは、グミの実を持った手を伸ばし、てるの手にその実を押し付けた。
「これ…くれるの?」
こうきは手の爪を噛んでいた。
「ふふっ……優しいのね」
てるは微笑んだ。
こうきに近づいて頭を撫でた。
「ありがとう。
……これから辛いことがたくさんあると思うけど、私がいつもそばにいるから大丈夫だよ。ちゃんとヒトとして生きていけるように支えるから。一緒に頑張っていこうね」
こうきはてるの前髪をじっと見て、毛づくろいをするかのように手を伸ばしてぐしゃぐしゃと髪を乱した。
####
そうしてこうきは無事保護された。警察が駆けつけたため、里山に下りてきたサルの話題を追いかけていたマスコミが、何事かとカメラを構えてついてきたが、校長先生の配慮により追い返した。
それから、こうきにとって地獄のような日々が始まった。
まずは生活のマナーから、平仮名の発音、単語漢字、算数、理科、社会、英語……。
一日中野山を駆け回っていた頃からほぼ半日は椅子に座る生活にガラリと変わってしまったため、最初のうちは落ち着きがなく、机に向かってから30分ごとに立ち上がり、歩き回って物を倒したりした。あわよくば教室から抜け出そうとするので2人は監視役をたてなければならなかった。
そんなこうきに辛抱強く付き添ってくれる人が私以外にもう一人いた。
小金先生だ。
小金先生は中学校の相談員として臨時で来ており、不登校になった生徒や悩みを抱えた生徒の相談相手をしていた。
背が高く、ガタイが良い見た目の割には優しく、とても生徒思いであるため生徒から好かれていた。また、とても熱心な勉強家であったので、かなり騒がしいこうきにも辛抱強く、最後まで丁寧に勉強を教えていた。
一度てるは、小金先生になぜこんなに真面目に付き合ってくれるのか、と聞いたことがあった。
その時小金先生は、
「ただ単に人にものを教えることが好きなんだよ。それに、こんなにイチから教えていける機会なんて他にはないだろ?楽しくてしかたがないよ」と、答えた。
その指導の成果にはてるも目を見張るような進化があった。
1ヶ月後には、中学生レベルまでには話せるようになり、小学6年生までの学習は全て習得していた。
2ヶ月もすると表情が豊かになっていた。
ある朝、てるが生卵をご飯にあけようとして机の角で卵にヒビを入れようとしたとき、寝ぼけていたため中身を全てぶちまけてしまったことがあった。
制服まで汚してしまい慌てていたてるを見ていたこうきは、
「下手くそ」と、一言言ってニヤッと笑ったのだ。
それを見たてるは黄身が白い靴下に滴っているのにも構わずに、
「今、笑った!!こうきが!笑った!!!」と、叫んだ。
「うるさい」と、ピシャリと言ってこうきはその後黙々とご飯をかき込んでいたが、てるは、そんなこうきを嬉々として見つめていた。
日に日に強くなっていく人間味と共に、兄のこうきの姿も見えるようになってきていた。
両親も、まるで自分たちの子供であるかのように扱っていた。「こうき」という名前の呼び方からそれを感じられた。
5ヶ月経った頃には、てると同じクラスで授業を受けられるまでに成長した。
最初、クラスメイトたちは恐怖半分と興味半分でこうきにどのように対応すればいいか迷っているようではあったが、てるとのやり取りを見てから、普通の人として接してくれるようになった。
しかし、冬休みに入る直前に、一度だけ小さな騒ぎを起こした。
クラスメイトの中の一人の男子が、今や頭もよく、運動神経も抜群なこうきにヤキモチを妬いて「サル」とからかったのだ。
それにカッとなってしまったこうきはその男子の胸ぐらを掴んで睨みつけた。
それに驚いたその子は泣き出してしまった。
「人間の親がいないくせに!!お前はサルに育てられたんだろ!!ケモノくせぇんだよ!!」
その言葉を聞いたてるはいきり立って、その子に掴みかかろうとして立ち上がったが、こうきがそれを制した。
「いいよ、本当のことなんだし。てるが怒る必要はない」
「いや、でも──」
「俺がやる」
そう言うやいなや、男子の顔面を殴った。
しばらくして担任の先生と小金先生が到着した。先生方が仲介して話し合い、お互い謝ることによってその件については解決した。
しかし、その男の子の言葉にてるは引っかかっていた。
こうきの親は誰なんだろう?校長先生の厚意でこの学校に通ってるけど、実際、戸籍とか法律上どうなるのだろう?
そして、冬休みに入ってからてるは、図書館に通って、法律について調べたり、こうきが捨てられたと思われる1〜3歳の頃の新聞を読み漁って、子供の誘拐事件や行方不明の記事を探すことにした。
このことはこうきには内緒にしていた。
####
「……これかもしれない」
冬休みに入ってから2週間経った。
大晦日と元旦を除いて毎日図書館に通いつめたてるは、12年前の新聞のある記事を食い入るように見つめていた。
籠目市在住の女性の一人息子が行方不明になっている、という内容だ。
こうきが幼少期の頃に当てはまるような、今から10〜12年前の新聞を読み漁って、ようやくそれらしきものを見つけたのだ。
***
2歳男児がきのこ狩り中に行方不明 (ひもせす新聞)
【森 涼太くんが可愛らしくピースしている写真】(明太県警提供)
明太県根部町宿狩山で、同県若芽市の森 涼太くん(2)が12日午前から行方不明になり、県警などが捜索を続けている。13日午前になっても見つかっていない。
筋子署によると、涼太くんは12日が2歳の誕生日。12日から母親と一緒に同町内の宿狩山にきのこ狩りをしに来ていた。
涼太くんは12日午前10時半ごろ、母親(23)ときのこ狩りに、登山口から歩いて約5キロメートル離れた山頂に向かったが、母親は家から山の中腹のところまで歩く涼太くんを確認したが5分ほど目を離していたらいなくなっていたという。
涼太くんは白地の長袖シャツ、迷彩柄のズボンを着て、青い運動靴を履いていたという。
***
2日後の新聞には母親の声が載っていた。
『一刻も早く見つかることを願っています。でも、2日も経ってるから…もう無理かもしれないですよね』
その後の新聞を見ても、その男の子が見つかったというニュースは無かった。
宿狩山は支舎藻山の2つ隣にある山だ。しかも、あの山はきのこ狩りをするような山ではない。もしかしたら別の口実を作ったのかもしれない。
やはり、こうきは捨てられたのかもしれない。母親の諦めきった声明でも分かる。母親はこうきのことを愛してはいなかったのか。邪魔な存在だったのだろうか。
「………可哀相」
もし、これが本当にこうきだったら、今こうき(涼太くん)はてるの一つ上で14歳ということになる。
「涼太くん、か………」
母親が見つかって本当は喜ぶべきなのは分かっているが、5ヶ月間ずっと一緒に過ごしてきた日々が失われてしまうことを考えるとやりきれない気持ちになった。
このことを本人に言うべきかどうか、とても悩んだ。
そこで、小金先生に相談することにした。
新学期早々てるは、こうきが載っている新聞を手にして相談室に向かった。
小金先生はてるが来たことに驚いたようだったが、「こうきのことなんですけど…」という出だしで納得したようだった。
「何かあったの?」
座布団を勧めながら小金先生が聞いた。
母親が見つかったこと、これを本人に言うべきか、自分のワガママであることは分かっているがこうきと一緒にいたい、など、新聞を見つけたときから溜まっていたことを涙を浮かべながら赤裸々に打ち明けた。
「うーーん、難しいね…。実際、急に、本当のお母さんはこの人だよって言われても整理しにくいだろうからなぁ。しかも、自分を捨てたのかもしれない人でしょ?……でも本人のことを思えば真相を全て話すべきだとは思うよ。」
「私が話すべきですよね」
てるはそんな役は受けたくないと、思っていた。
「うーん、ちょっと、校長先生に話してみるよ。だからそれまでに亀井さんの心も整理しておきな、ね?」
小金先生はてるに微笑みかけた。
「分かりました」
とりあえず、自分の溜まっていた気持ちをほとんど吐き出すことができて満足したてるは、すごすごと教室に戻った。
「こうき、帰るよ」
てるを待ってる間本を読んでいたこうきに声をかけた。
「雪、止んでるね」
てるが下駄箱から靴を取り出しながら言った。
「あぁ」
こうきはちらっと空を見上げたきり、帰り道はずっと地面を見ていた。
辺りはフワフワとした雪に包まれていて、雲に阻まれている太陽の光を反射しているかのように真っ白な色が目を刺した。
足元の雪は左右にかき分けられて高く積み上がり、茶色の土と交わりながら凍っている。
雪のため自転車を使えない二人は約1時間30分かけて家と学校を行き来することになるのだ。
普段はてるが一方的に話し、こうきは聞き役となっているのだが、今日は二人とも黙々と歩いていた。
二人が雪を踏みしめる足音だけが辺りに響いている。
てるは小金先生とのやりとりを頭の中で反芻させながら、こうきになんて伝えようかを考えていた。
「なあ」
こうきが口を開いた。
てるがこうきの方を向くと、こうきは赤いほっぺを膨らませ、白い息をふーっと吐いた。
「なに?」
こうきから話しかけることは滅多になかったからてるはかなり驚いていた。
「…………俺の本当の名前、『りょうた』かもしれない」
「………」
てるは絶句した。
こうきはただ足元を見続けながら続けた。
「なんか、廊下ですれ違ったとき、3年の人たちが、『おい、りょうた』って言ったんだ。それを聞いたときに勝手に体が反応して、気持ち悪くなった。懐かしいような感じ。でもよく分からないけど、寒気がした」
「……そう」
二人はそれぞれ俯いて歩き続けた。
足音だけが響く。
「……」
「……」
「……っていう報告」
こうきが付け足した。
てるは、胸のざわつきを感じていた。
まさか、こうきからこのような話を持ち出してくるなんて思ってもみなかった。今、あの新聞の話をするべきなのか?
「そっか、一歩前進したかもね」
「何が?」
「こうきはさ、…自分がどうしてこういう状況になったのか、って知りたいと思う?」
てるはこうきの首元についている校章を見つめながら聞いた。
「……いや、知りたくないね。このままでいたいと思うよ」
てるは話を切り出すチャンスを失ってしまった。
####
次の日の朝、てるはとてもスムーズに学校に向かうとこができた。
寝坊することもなく、目覚ましの3分前に目が覚めたし、生卵を机にぶちまけることもなかった。靴下を左右同じものを選んでいたし、持ち物も2回も確認して、テレビで天気予報を観るほど余裕があった。こうきに先に家を出てもらって走って追いかけるのが日課だったが、今日だけは一緒に家を出ることができた。
「珍しいな、今日槍でも降るのか?」というこうきの嫌味を軽くあしらって、雪が降る中、てるは元気よく学校に向かった。
しかし、昨日のこうきの話が引っかかっているのか、二人は無言になった。
いつもとは何ら変わりないのに、気まずいと感じていた。
しばらくして、てるはこうきが息を飲むのを感じた。
こうきを見ると目を見開いて前を見つめている。
てるもその方向を追うと、その先に1匹のサルがいた。
サルもこちらを見ていた。というより、こうきを見ていた。
てるはこうきとそのサルを交互に見た。
「あいつは、俺の兄弟だったやつだ」
「えっ……?」
一瞬、時間が止まったように感じた。降っている雪が地面やコートに落ちる音が聞こえるほど静かだった。
「ゥキィーーー!!」
「!?」
サルが一声鳴いた。そして姿を消した。
てるはこうきの表情を見た。
「な、なんて言ったの?」
「……知らない」
こうきは歩き始めた。さっきよりも大きな歩幅で歩いていた。
「こうき?」
こうきの目に、何かを決心したような、生気が宿ったような気がした。
てるはよくわからないまま、早歩きでこうきの後をついていった。
ブロロロロロ…
「あ、車だ。…またサルの報道かな?」
テレビ局の会社名が書かれていたのだ。
「さあ」
「でも、珍しいね。こんなところを車が通るなんて」
「あぁ」
1時間ほど歩いて小さく学校が見えてきた。
「ん?」
こうきが顔をしかめた。
「ん?」
てるもその異変に気づいた。
学校の正門に人だかりができているのだ。近くに車が10台以上も停まっている。生徒と先生を集めてもあんなに多くないだろう。しかも、その人々のほとんどがスーツを身にまとっている。
何事だろうか。
近づいていくと、周辺に学校に入りあぐねている友達がいたので、その子に声をかけた。
「おはよ、めぐ!ねえ、あれどうなってるの?」
「あぁ、おはよ。分かんない。でもどこかのテレビ局だとか新聞記者だとか雑誌記者とかいるみたい。教頭先生が相手してるんだけど…なんか、質問責めされてて…。よく聞こえないんだけど」
めぐは背伸びをしながら教頭先生を見ようとしていた。
「ふーん、まぁ私たちには関係ないでしょ。行こう」
てるはこうきに合図をして、報道陣の間を縫っていき、門の端を目指した。
学校になんとか入れて、一息ついた。こうきも後から出てきた。
「何かやらかしたのかなぁ」
てるが報道陣を見ながらそう呟いたとき、後ろから肩を捕まれた。
「おはよう、亀井さん、こうき!朝から騒がしいねぇ!」
後ろを見上げるとそこには小金先生がいた。てるとこうきの肩を抱くように腕を回している。
「ほら、君たちを呼んでいるんだ。行くよ」
ぐいとてるとこうきの背中を強引に押した。
「えっ、先生?どういう意味──?」
「報道陣のみなさん!この二人が、皆さんの求めている子たちです!!」
小金先生が高らかに叫んだ。
「「!?」」
てるとこうきは顔を見合わせた。
「どちらがサルに育てられた子供なんですか!!?」
「サルにどういう風に育てられたの?!」
「小さい頃の記憶ある?!」
「どういう気持ちでこの子を引き取ったの!?」
人々がどっとてるたちに押し寄せてきた。
小型マイクや、たくさんのカメラがこちらに向けられ、フラッシュを焚いて何十、何百枚と写真を撮られた。女性の声、男性の声、カメラの音、ひしめき合う人々の熱気。
てるは人酔いをしそうになっていた。
「てる」
こうきはてるの手を握りしめた。
「涼太ぁっっ!!!」
一人の甲高い女性の声が響いた。
みんなが一斉にその声の方を向いた。
「母親だ!!」
誰かが叫んだ。
「「おぉーーーーっ!!!」」
一部の人たちが急いで身を引いて道を作り、小柄な女性がその先に見えた。
「涼太……!!!」
こうきの母親は頬を涙で濡らし、信じられないというような表情でこうきのことを見つめた。
「おかあ…さん?」
こうきが呟いた。
てるは無意識にこうきの手を強く握りしめた。
「運命の再会です!こうき、おめでとう!!」
小金先生がにこやかに言い放った。
こうきの母親はこうきの元に転がるように駆け寄って抱きしめた。
「こんなに大きくなって……!」
その途端、周りで見ていた人たちは二人の姿をカメラに収めようと、押し合いへし合いしながら取り囲み、質問を浴びせ始めた。
てるは弾き出され、地面に尻もちをついた。
てるは呆然とその人だかりを見上げた。
「記者会見の場が設けられているんですよね?馬場さん!」
小金先生が誰かに呼びかけた。
「はい!もちろんです!」
呼びかけられた男性が、周りの声にかき消されまいと声を張り上げて答えた。
「みなさん!詳しい話は会場でお願い致します!!」
それから、こうきはあっという間にてるの前からいなくなってしまった。
「こうき待って…」という呟きも虚しく、てるは次々と出発していく車を見送ることしかできなかった。
制服のスカートが雪のせいで濡れていることに気づかないまま脱力し膝をついていた。
「ぅぅ…」
触れていた雪を握りしめるように引っ掻いた。
「亀井さん、授業が始まってますよ」
後ろから肩をたたかれた。
ゆっくり振り返るとそこには校長先生がいた。
「残念でしたね」
校長先生が静かに言った。
「風邪を引きますから中に入りなさい」
てるは何も言わずにその言葉に従い、そして校長室に連れられた。
「座りなさい」
校長先生は緑茶を急須から注ぎながらソファを勧めた。
言われるがまま、ソファに座り、渡された湯呑を啜った。
「あちっ!!」
「落ち着いてお飲みなさい」
校長先生がたしなめた。
改めて感覚を取り戻したてるは、今までの出来事が走馬灯のように蘇り、感情をせき止めていたものが壊れる音が聞こえた。
「うっ、うぅ…ううぅ〜〜!!」
涙を拭おうともせず、ただ前を向いて気が済むまで泣いた。
どうして今泣いているのか。
こうきのことを愛していたからだ。
兄の姿を認め、自分とつなぎ留めておきたいと思っていたのが、今ではその姿ではなくこうき自身を愛していた。
家族同然だった。てるのことを兄弟のように慕っていたこうきはもういないのだ。
こうきの母親はこうきのことを捨てたのではないのか?こうきをあそこまで育てたのはあの母親じゃない。それなのに我が物顔で連れて行った母親に腹が立った。その理不尽さにやるせなさが残った。
これからも成長を隣で見ていたいと思っていた。そんなことはあり得ないと分かっていても、そのまま見られると思っていた。しかし、薄々、いつか別れなければならない時が来るのは知っていたし、それは分かっていたつもりだったが、いざそうなってみると、自分を構成していた支柱が失くなったような感覚に陥った。
もう会うことはないという事実はてるを締め付けるように苦しめた。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
こうき…………。
その後、テレビのニュースでこうきの話が流れていたが観ようとは思わなかった。
てるの家に取材の電話や訪問が殺到したが無視し続けた。
こうきの情報を外部に漏らしたのは小金先生だった。情報をお金で売ったのだ。それが学校にバレたため小金先生は解雇され、今どこで何をしているのかは分からない。おそらく収入源を探して彷徨っているだろう。
また、こうきがどこにいるのか、てるは知らなかった。
1ヶ月ほど時の人として世間に扱われたこうきは、その後、家から脱走したらしい。
警察が調査のため家に入った際、暴行した可能性があると見なした。その為、母親は刑務所にいる。今でも無実を叫んでいるが、世間の見解は、『奇跡的な涙の再会を果たした母親』から『DVをして二度も子供を捨てたクソ女』に一転した。
てるはそれを小気味良く思った。しかし、こうきの行方は未だ分かっておらず、警察は捜索する人数を減らしているため、見つけることを半ば諦めている。
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そして12年が経った。
てるは、無事地元の国立大学を卒業し、首都圏近くにある都流布県で中学校の国語先生をしていた。
ある日の土曜日、最寄り駅のお花屋さんに立ち寄った。
ガラス越しに見たハナキリンの花がとても可愛らしかったのだ。
ウキウキしながらその鉢を提げて歩いていた。
「てる……?」
後ろから声がかかった。
てるは後ろを振り返った。
てるよりも20cmも背の高い男性がてるのことをまじまじと見つめていた。
てるはこの人を知っていると思ったのと同時に、懐かしいと感じた。
「こう、き…?」
てるは思わず手で口を覆った。涙で目の前が霞む。
「やっぱり。久しぶり。変わらないね」
「信じられない……。今までどこに行ってたのっ……!ずっと、ずっと会いたかったのに……」
てるは涙を拭いながら嗚咽をもらした。
「泣かないで、てる。今、こうやって会えたんだ」
こうきはてるを抱きしめた。
「バカ……」
「俺だって、ちゃんとした人になるためにあの後頑張って勉強して、大学まで行って、今は獣医やってんだ。てるに会ったときに恥ずかしくないよう、頑張ったんだぜ?」
てるは驚いたようにこうきを見上げた。
「俺もずっと会いたかった。……会えて良かった!」
「私も…嬉しい!」
こうきとてるは満面の笑顔を見合わせた。
終
猿に育てられた子
人物描写をもっと頑張りたいです。