青に溺水

萌芽つゆり

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 水川玲という人間を喩えるとしたら、俺は水だと答えるだろう。 掴みようのない、捉えようのない――たとえ手ですくったとしても指の隙間から少しずつこぼれ落ちてなくなってしまう。無色透明なのに綺麗な青色として目に映る、水。 確かその理由は空の青さを反射しているからだとか何とか聞いたことがあるが詳しくは忘れてしまった。……あぁ、そういえばヤツの目も日本人離れした青い色をしていたっけ。
 俺はたまに、水に沈むヤツを想像する。
 透き通った白い肌が、一切の無駄が削ぎ落されたような美しい四肢が、何かに抗うようにもがきながら沈んでいく――そんなワンシーンを。

2

 暦の上ではまだ初夏なのに、空も、太陽も、空気も、真夏のような顔で俺たちを見ていた日だった。
 そこそこ冷房の効いた涼しい教室と昼休みの喧騒から抜け出し、俺は体育館横に設置されたプールに向かう。
 学級委員なんて、言い換えれば担任にとって都合がいい雑用係だ。宿題やプリントの配布や収集、教材や道具の片付けから備品補充他エトセトラ、そして手に余る厄介な転校生兼クラスメイトの世話。平々凡々なウチの担任はヤツの扱いに困っているらしく、何かと俺に押し付けてくる。どうやら、俺が先日口うるさく言って聞かせたにもかかわらずまだ宿題を提出していないらしい。「水川め」と(かぶり)を掻きむしって毒づくが、言ったところで、ヤツはまたあの人形みたいに妙に整いすぎた顔で俺を見返すだけだろう。
 見てくれにコロっといきがちな女子連中は毎日飽きもせずきゃあきゃあと黄色い声を上げるし、色恋の注意を楽しそうにするオバサン教員でさえ、目が合えば顔をほんのりと赤らめるようなルックス。それに加えて運動神経は平均以上、泳ぎなら誰よりも早いらしく、どうやら地の頭も悪くないらしい。が、しかしである。優れている人間はどこかしら抜け落ちているとはよく言うが(きっと、凡人や常人と帳尻を合わせるためなんだろう)ヤツはまさにそれだった。
 宿題は出されたら期日までに出すもので、学校は毎日来るもので、授業は毎時間受けるものだという、俺たちにとってフツウとかアタリマエの感覚が欠如しているのだ――それこそ、ぼこんと。だから宿題を出されても全く手を付けないし(そういうわけで担任直々のご指名で俺が見張り役をやらされている)、いつの間にか教室や学校から居なくなることもしばしば。どこほっつき歩いているんだかと探すのを諦めて教室に帰ってみれば、何事もなかったかのように席に座っていたりする。 そういった一連の行動にやるせなさだとかもやもやとした何かを感じる反面――どうしようもなく気になってしまう、この感じ、この気持ち、この感覚。 現代文は好きだしそれなりに自信はあるものの、俺にインプットされた日本語ではとてもじゃないが言い表すことはできなかった。
 外に出てから一分と経たないうちに汗が肌を伝い始める。コンクリートが日光を反射して、上からも下からも炙られているような気分だ。魚焼きグリルの中はこんな感じなんじゃないだろうかと、頭の片隅で思った。
 俺はじっとりと汗ばんだ身体をYシャツで扇ぎつつ、日に焼けて熱くなったドアノブを回して階段をあがった。何となく、ヤツはここに居るような気がしたのだ。

  ◆

 水川玲が飛び込み台の上に立っていた。
 両腕を真横に真っ直ぐ伸ばし、両眼を閉じているその様子は何かを待っているようにも見える。外はこんなにも暑いというのに、その涼し気な顔には汗すら浮かんでいない。黒くてさらさらした髪が、俺と同じ白いシャツが、黒い指定ズボンが、昼下がりの穏やかな風に揺れていた。
 その様は、さながら一枚の絵のようで。
 俺は、ハッと我に返った。妙に心臓がどくどくと早鐘を打っている。何やってんだ、くそ。男が男に見惚れるなんて気持ちワリィ。
 ヤツは俺に気付いていないらしい。心臓を落ち着かせるように深呼吸をしてから声を掛けようとして――瞬間、ヤツの身体がふわりと宙を舞った。

 それは、スローモーション。

 跳ねる水音。 上がる水飛沫。太陽の光が反射してきらきらと光っている。
 雲ひとつない快晴の空を映すプールの水面は、 純度の高い、透明な青。
 その中へ重力に従って落ちていく。
 あるいは――――――沈んでいく。

 俺は息も瞬きも忘れて、長すぎる数秒に魅入っていた。

 どくんどくんと、心臓が沸騰したみたいに熱い血液を送っている。何度となく夢想してきたあの映像が、今、まさに俺の目の前で再現されたことへの妙な高揚感。胸の高鳴り。生唾を飲み込んで、微かに震える足を一歩、また一歩と動かしていく。水面をゆっくりとのぞき込むと、ヤツはぷかぷかとそこに浮いていた。
 愕然として、茫然として、我に返る。
 一体、何に興奮したんだろう。生きているヒトの身体は計算上ちゃんと浮くようにできているのに。だからヒトは泳げるのに。
 俺は頭(かぶり)を振って、
「何やってんだよ、水川」
 制服も着たままで、と、俺が呆れた口調を作って言うと、水川はいつものように澄んだ青い双眸と綺麗な顔をこちらに向けた。水を含んだ髪が、濡れて透き通ったシャツが、白い肌に張り付いている。 白磁にも似た滑らかなその上を、光や水滴がゆっくりと流れ落ちるたび、陽光が反射して光った。
「どーすんだ、午後の授業。お前、制服の替えとか持ってきてんのかよ」
 俺はプールサイドに両膝と両手を付き、ずいと身を乗り出してヤツと目を合わせた。
 水面と似た色をした青い目。 その中に俺がいる、映っている。
 その瞬間だった。まるで俺もヤツと同じように水中にいるような感覚に陥る。心臓がどくんと軋んだ音を立てた。徐々にスピードをあげ、リズムを乱していく心拍数。ゴボッと音を立て、目の前を立ち上っていく白い泡。反対に沈んでいく身体。いくら手足をばたつかせても水が絡みついて思うように動かない。
 あの時と同じだ。
「澪木」
 水川が俺を呼んだ。綺麗な声だった。
 俺ははっと意識を取り戻した。ちゃんと陸にいることに何故か無性に安堵した。
「しゅ・く・だ・い。 ……お前だけなんだぞ、あと出してないの。 さっさと出せ、俺の仕事増やすな」
 ヤツはぱちくりと大きく瞬きをして、首を少し横に傾ける。
「そうだっけ」
「あのな」とむしゃくしゃする気持ちを発散させるように後ろ頭をガリガリ掻き、声を上げかけて――直後、勢いよく飛び出そうな言葉たちを唾と一緒に飲み込む。 もう、ヤツは俺を見ていなかった。 ほっそりとした身体を水面に揺蕩わせるように浮かんでいる。 思案に暮れているようにも、逆に何も考えてないようにも見えるその表情は、有名な美術館に並ぶ作品のひとつにあってもおかしくなかった。
 まただ。
 掴みどころがなくて、捉えようがなくて、理解できなくて、それが意味分からなくて心も思考回路もぐちゃぐちゃにかき乱される。落ち着け、と俺は息を吐き出した。二酸化炭素と一緒にこのどうにもならないもやもやも吐き出したかったが、フィルターに張り付いたカスの様に体内に付着したままだった。
「なぁ、澪木」
「……なんだよ」
「お前は泳がないのか?」
 一瞬だけ止まった世界で、ヤツが俺をじっと見ていた。荒唐無稽な誘い文句ではなく、何故プールの授業に出ないのかという質問であることは何となく察しがついた。
 水の色をした青い双眸のなかに囚われたような感覚。錯覚。息が吸えない。俺は確かに二本足で陸に立っているというのに、どうして、こんなに呼吸が苦しい。
「泳がないっつーか、泳げねェの。 俺」
「泳げない?」
 ヤツの声音に、不思議そうな響きが混じっているのが分かる。
 そりゃあ、そうか。お前からしてみたら意味わかんねェよな。「世の中、お前みたいに泳げるヤツばかりじゃねェんだよ」
 言いながら思い出していた。 ――先日の授業中に見た、ヤツの姿を。
 飛び込み台からジャンプ。宙を舞う身体は、プールに吸い込まれるように入水する。水面下で進んでいく様は、そして浮き上がってからしなやかな動きで前に進む様は、今まで見てきたどのクロールとも違った。普段のヤツとはまるで別人のようで。水を得た魚、とはこのことだと思った。
 ああ、そうか。水川玲は魚なんだ。だから俺とは違う生き物なんだ。
 ゆらゆら揺れる水面に、そっと、指先から手首の辺りまで入れてみる。冷たい何かに包まれているような感覚はどこか心地よかった。
「なぁ、水の中ってどんな感じなんだ?」
 気付けば俺はそう問うていた。
 答えは、ヤツが無視をしたのだと誤解するには十分な間を置いて、静かに返ってきた。
「生きてるって感じがする」
 そうかと俺は返した。普通ならおかしい返答も、ヤツが言うなら額面通りの意味なんだろう。
「……じゃあ、澪木は?」
「え?」
「澪木はどこで生きてる?」
 唐突な質問に、息が詰まる。
 気付けば水川の姿はそこにはなかった。きらきらと光を反射する水面の下を、まるでそここそが自分の居場所だと言わんばかりに悠々と泳いでいた。

  ◆

 俺が小学校に上がるか上がらない頃だったと思う、溺れたのは。
 その時のことは今でもよく覚えている。いくら手足をばたつかせても、もがいても、まるで水底から伸びてきた手が俺を引きずり込もうとするように沈みそうになるばかりで――その一件以来、海が、プールが、透明な液体が、得体の知れないアメーバのような怪物に思えて怖くて仕方なかった。
 人間の祖先は猿というのは歴史で習うような話だが、実はその前段階があって、それが魚であるという学術記事を目にした時。不意に、俺の脳裏を水川が泳いでいった。人間社会にはおおよそ不釣り合いで、不適合で、陸上よりも水の中でなら自由自在に動き回れるヤツ。
 なあ、水川。
 水の中って、そんなに気持ちいいのかよ。

3

 ヤツが死んだと聞いたとき、俺はそれよりも死因の方に驚いた。 まさか、あんな人間離れした魚みたいなヤツが、交通事故なんて人間としてありふれた死に方をするなんて思いもよらなかったから。
 気が付いたら、俺はプールの飛び込み台の上に立っていた。空の色を落とし込んだ水面は、この間の雨のせいだろうか、少しだけ濁っているようにも見える。
 棺に入れられ、どこかの葬儀屋で焼かれたヤツの肢体は、骨と灰になるのだろうか。そして壺に入れられ、地中深くに埋められるのだろうか。
 そうやって、ヒトと同じように葬られるのか。
「なぁ、水川」
 俺はぽつりと呟いた。
「お前が俺と同じ人間とか意味分かんねェ」
 たとえ姿かたちはヒトであっても、ヤツには――水川玲には別の生き物であってほしかったのだと俺はその時はじめて自覚した。否、違う。そうじゃない。別の生き物なのだ。誰かの言いなりになって、誰かと足並みをそろえて、常識とか世間体とか普通とか当たり前とか目に見えないルールに盲目的に従属して。社会という煩わしさを感じながらもそこで生きていく選択しか選べないヒト科ヒトの人間の俺と、水川が、同じなわけないじゃないか。水の中でしか生を実感しないヤツが、水の中が居場所なようなヤツが、無様に溺れる俺と同じ種族であるはずがない。そうだろ、水川。
 だったら。水川はヒト科ヒトじゃないんだから、ヒトでいう”死”の概念や定義に当てはめて考えるのはナンセンスだ。

 俺は、ヤツの机に置かれた花瓶から拝借した白百合をひとつ、プールに投げ入れた。
 衝撃で水面にさざ波が起こる。白百合はしばらくその間を溺れるようにゆらゆら動いていたが、やがてゆっくりと沈んでいった。

青に溺水

青に溺水

Text-Revolutions 第8回アンソロジー「花」に提出。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
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