蠍の下の、真紅
※こちらの小説はカクヨムにも掲載しています。
ある老騎士の元に届いた一通の手紙。
「あの海岸で、もう一度会おう」
忘れもしない懐かしい名前に、老騎士は馬を走らせた。
―――――
夜空に重なった黒い影が、森の中を駆け抜ける。
紺色の鎧の騎士は、走らせた馬の鼻よりも先へ、先へと、あの懐かしい顔に会いに行こうとしていた。
暗い森を抜けた先の平原は、既に地平線の帯を赤く染めていた。
顔を覆った兜の下で、俺はそんな地平線を睨みながら馬の腹を蹴って速度を上げた。
目を覚ましたようにゆっくり影を脱いでいく。黒の大地と紺の空。
ここで初めてあいつと会ったときも、こんな景色だった。
四十年前、俺達王国軍の前に現れたのは、俺達と同じ夥おびただしい数の、蠍のように恐ろしい姿をした真っ赤な鎧の群れだった。
早朝の冷たい風を受け、波のようにうねる敵国の旗。
そのずっと奥に、あいつはいた。
今やここは何が建つでもなく俺の国のものとなり、あの赤い鎧も俺達と同じ紺色に変わった。
しかし、鎧が変わっても尚、あいつの心は赤い鎧を纏っていた。
無駄な戯れなどない素早い剣さばき。
瞬きする間もなく眼前に翳される、鋭く光る剣先。
共に戦うようになっても、あいつの中には蠍がいた。
兜の下の見えない目は、赤い兜のときと同じ、冷たい殺気が込められていた。
『もう一戦交えたいと言われても困るな』
柔らかくて腹立たしい、あいつの懐かしい声が聞こえた気がした。
あいつはとても人を殺せるように見えない、穏やかに目が垂れた優男だった。
『決着は着いたじゃない。俺は彼女の夫になる。そうじゃなくても、彼女は俺の方に気があるんだ。お前より頼りやすいんだって。俺は頼られると断れないからな。正直、自分に素直なお前が羨ましいよ』
「馬鹿が」
東の地平線から登る朝日を横目に、俺はしわがれた声で記憶通りに呟いた。
「口も立つっていうわけか」
『嫉妬してる? けど、本当のことを言ったまでだよ。自分に正直に生きることはお前から学んだんだ。彼女のことでようやくそれを実践することが出来た。他でもないお前のおかげだよ。もし彼女を守れそうもなくなったら、そのときは戦ってあげる』
「人を苛立たせる以外に出来ないのかお前は」
ふん、と冷酷に、それでも優しく笑うあいつの声が頭の中に響いた。
『死に損ないが』
辺りはすっかり朝日で色づいていた。
俺は数日前に受け取った手紙の内容を思い出しながら、海岸へと馬を走らせた。
波打ち際に大きな岩が見える。
あれは、赤い鎧のあいつの攻撃を必死に躱かわした際、辿り着いた場所だ。
あの場所は本来は、自分の墓場になるはずの場所だった。
あいつの姿はまだ見えない。
馬を止め、姿を探しているときだった――突然背後から、何かがこちらに向かって駆けてくる音が聞こえた。
俺は咄嗟に剣を抜き、振り返った。
無意識に振り上げた剣は運よく相手の剣を受け止めた。
ふっ、と思わず声が漏れる。
四十年前までぎらぎら光っていた赤い鎧は、すっかり古びていた。
「これは失敬。少々礼儀知らずのようでしたな。貴殿のご意思も受け取れず、弁えのない身なりで来てしまったようです」
柄を掴んだ手に力を込めて、思い切り相手を押し込み、俺は素早くその場から離れた。
剣を掴んだ赤い鎧は、あの頃と変わらずすっと背筋を伸ばして、こちらを静かに見つめている。
俺も負けじと老いも忘れて背筋を伸ばした。
馬に跨ったまま真っ直ぐと向き合う、紺の鎧と赤い鎧。
あれからどこか遠い地で、農民として生きることを決めたこいつの汚れた鎧を除けば、四十年前とまるで同じ光景だ。
波の音が、涼しげに辺りに響いている。
赤い鎧は剣を握り締めると、刹那――雄たけびもなく、痰たんを切って襲い掛かって来た。
俺は瞬間的に剣を避けると、反撃のため容赦なく剣を振った。
騎士を辞めても尚、その精神は腐らずにいるのだろう。
相手も機敏に攻撃を避け、再び攻撃を繰り出してくる。
無駄を嫌う、静かでいて鋭い剣さばき。
その勢いのある突きは蠍の毒針なのか、見る者の背筋を変わらず凍らせる。
しかし――と俺はその剣を振り払った。
やはり腕は鈍ってしまったのだろう。
騎士のままの俺と渡り合えることもなく、赤い鎧は呆気なく剣を落とし、そのまま落馬した。
「時が経つのは寂しものだな……だが、再び会うことが出来て光栄だ」
と、俺は兜を外して赤い鎧を見、思わず眉を潜めた。
「……誰だ」
兜の下の茶色の髪は長くうねっている。
女はゆっくり体を起こすと、俺を見上げ真っ赤な唇を動かした。
「約束は果たさせて頂きました。貴殿の勝利。私の母は貴方の妻になります。今更でしょうか?」
三十歳ほどの女だったが、穏やかな口調と強さを秘めた目はあいつと同じだった。
「あいつはどうした」
「意志ならまだ、私の胸にありますよ」
女は立ち上がり、誰かを思わせる優しい笑みを浮かべた。
「会いたいという気持ちも受け継いでます。父が天に召すまで慕っていた貴方に、娘の私も会いたかった……貴方は私の中で、もう一人の父ですから」
いや、と俺は首を振った。
「君の父はあいつ一人だ。そっくりだよ、腹立たしいところが」
ふふっ、と俺は寂しげに笑って髭を揺らした。
蠍の下の、真紅