Fate/Last sin -19

 あの初雪の日を、今でも鮮明に覚えている。

 父が時計塔の研究棟(カレッジ)へ出かけたのは午前八時四十七分だった。父は魔術師であるということを抜きにしても、かなり几帳面で頑固な男で、細部にわたってあらゆる時間を計測し、計画し、一秒単位で計画が実行されなければ気が済まない人間だった。だから午前九時きっかりに三人の秘書が門を開錠して、研究棟の最奥部にある自室のデスクで魔術書の最初の一ページを開けるようにルーティンを組み立てていた。道を歩くのにかかる時間はもちろん、着古したカシミヤヤギのウールのロングコートを羽織るのにかかる時間、十八年前に死んだ妻から贈られたボーラーハットを頭にかぶって右耳の真上に羽飾りが来るよう調整する時間等々に至るまで彼の計算は及んだ。
 我が父であるが、その時間に対する執着心は異様だと理解していた。
 だがそれと同時に、父が成した功績を考えればその異様さも当然だと思えた。
 貴族主義で閉鎖的な傾向の強い天体科の学部長(ロード)から、右腕と称されるほど絶対の信頼を置かれていた父は、いずれ学部長一派の学派を継承し、ロードになるだろうと周囲に噂されているのを何度も聞いたことがある。若くして典位を授けられた父がロード学派に取り込まれ、色位を与えられるまでそう時間はかからなかったからだ。我が家の専門は天体運営ではなく星間観測に寄っていたが、それでもロードに気に入られたのは父の、異様なまでに精度を重んじる性格の所以らしい。
 らしい、というのは、父がそれら名誉に関する話題を一切口にしない男だったからだ。父に関する名誉や栄光の情報は、まだ何の成果も持っていない魔術師の末席に座していた私をとりまいていた同輩から聞いたものがほとんど全てだった。友人から聞いた話を家で父に吹っ掛けようものなら、たちどころに機嫌を悪くするのは目に見えていたから、一度もそういった話を父としたことはない。
 家では寡黙一辺倒、私と弟の教育に関してのみ口を開き、外ではロードの右腕、いずれルシオン家を学部長の座へ押し上げる男――――の、はずだった。

 あの初雪の日を、今でも鮮明に覚えている。

 全てが一変したのは、その日、父が研究棟に向かってからおよそ八時間後の事だった。
 私は掛け持ちしていた鉱石科の午後の講義が終わって、家に帰るところだった。空は重く灰色で、鼻先が痛むほど冷え込んでいた。今にも雪が降りだしそうだ、と思った矢先に、白く大粒の雪が花弁のように落ちてきてアスファルトの歩道に溶けた。研究棟と家の間は一キロメートル余りも離れていなかったから、執事に車を出させるのも気が引けて、いつも歩いて帰るのが習慣になっていたが、その日ばかりは誰かを呼ぼうかと使い慣れない携帯電話を鞄から取り出した時だった。
 画面に集中していたせいで人にぶつかった。見上げると父の知り合いの、天体科の魔術師の男だった。
「おや、ルシオン家の『お坊ちゃん(bastard)』じゃないか」
 長身に真っ黒な外套、この時世にシルクハットまで被る、頭の先から爪先まで典型的な貴族主義の魔術師であるこの男が、私は心底苦手だった。憎悪していたと言ってもいい。遡っても一世紀程度の新生魔術師だった母と、七百年以上の歴史を持つ父との間に生まれた私と弟を、『お坊ちゃん』と揶揄するのがお決まりの挨拶だ。私は無視して歩き出そうとした。
「いいのか? 偉大なお父さんの研究棟へ行かなくて」
 いつもならそこで鼻を鳴らしながら立ち去るところを、なぜか声をかけられた。雪は激しさを増し、男のハットにうっすらと白が積もり始めている。
 男は薄く色のない唇を動かした。
「今頃、大好きなアンティークまみれの書斎の中で、独り寒くお前を待っているだろうに」
 何かを投げて寄越された。反射的に両手で掴み、手を開く。濡れて黒くなった毛の塊のようなそれを、目を細めて指の先で慎重に解いて開く。
 私が人差し指と親指でつまみ上げたそれは、血に濡れそぼった、ボーラーハットの鳥の羽飾りだった。垂れた雫が、新しい雪の上に赤の染みをつくる。男に目を戻した時、もうそこに彼はいなかった。

 ―――――時計塔では、よくある話だ。
 私はロンドンの郊外の墓地で石碑に向かって俯きながら口にした。
 貴族主義のこの社会で、権利と名誉をめぐって『不審死』が出るのはよくある話だった。今更誰に話しても驚くまい。
 よくある話だ。
 弟と私、どちらも魔術の素養があった。だから余計に事はこじれた。家を継げるのは一人だけだ。私の堅実さも、弟の奇才も、片方の為にもう片方を殺すには惜しい程度のものとして評価はされた。結局私が七百年の歴史を肩に乗せて、弟は才を買われて他の学派へ消えた。父と母の墓標で別れて以来、弟の消息は分からない。
 私はそれから九年間を、父の遺した研究棟で過ごした。三人の秘書、研修生、執事からメイド、清掃員に至るまで、全ての人間をルシオン家から締め出し、門に来客断りの札を下げて永久に取り外すことはなかった。ただひたすらに、ルシオン家の当主を名乗るに足る成果だけを求めて、一人で書斎に詰まる日々が、九年間続いた。誰とも交友せず、誰とも言葉を交わさず、父の背を追うように魔術書を読み、観測記録を続け、孤独に耐えた。
 二〇〇七年、父が殺されて十年目の春、私の手元には二つの課題が現れる。
 一つに、このままでは到底この研究棟を維持するだけの成果を得られないこと、
 もう一つは、後継者を用意していないことである。



-


 
「キャスター――――――ッ!」
 夥しい量の魔力を帯びた炎が、怒号と共に吹き荒れる。バーサーカーのそれとは比べるべくもない純粋な魔力の火。魔性のモノから与えられた、伝承の中の火。やや鈍っているのは彼のマスターが三流の証拠だ。もっと直接的に、もっと純粋な魔力を注げば、磨かれた悪魔の火は全てを灰燼に帰しても曇らない。
 彼が現れたのは正面玄関ホールではなかった。最上階、ムロロナが管理している天文台の塔の天窓を破ってその男は現れた。
 粉々に散ったガラスの破片が降り注ぎ、ばらまかれた火が内装の調度品や紙の資料に燃え移る。真紅のマントに銀の鎧、小麦のように輝く金髪を左耳の後ろで乱雑に編んでいる。唯一の武器である剣は刃が燃えるように赤く、黒目がちな眼は天文台を焼き始めた火に照らされて陽炎のように揺れた。ムロロナがその青年を凝視している間、彼もまたムロロナを見ていた。
 言わずもがな分かる。この青年こそが最優のサーヴァントであると。
「お前はキャスターのマスターだな。そこを退け。私は現世を生きる人間の生命は奪わない」
「従う気はない。通りたければ私を殺せ」
 セイバーは一瞬虚を突かれたように表情を変えて、すぐに引き締めた。
「正気か?」
「勿論」
 ムロロナは燃え盛る天文台の中、黒い手袋を手に嵌め直し、内ポケットから分厚く折りたたまれたスクロールを取り出した。―――サーヴァントに力で敵うことはない。だが魔術師には、策がある。セイバーはそれを知らない。
 スクロールを手にしたムロロナを見て、セイバーは腹を決めたようだった。躊躇いがちに握っていた剣を固く握り直して、ほんの数歩、後ろに下がる。いかにも騎士めいた動作だが、狭い天文台の中では十分に間合いを取れまい――ムロロナは一瞬口の端で笑い、セイバーの足が床を蹴った瞬間を見逃さず、スクロールを撒き散らすように放り投げる。
「来い、セイバー!」
 言わずともセイバーは、真紅の刃をこちらに向けて飛び込んできた。一刺しで終わらせるつもりなのだろう、その狙いには迷いがない。息の詰まるような速さで飛び込んでくると、切っ先をムロロナの喉に向けて突く。
 それを迎え撃つように、撒かれたスクロールが方々から青白い光を放ち、セイバーに向けて白い熱線を吐いた。ムロロナの首元に刃が届くか届かないかのところで熱線が遮り、赤い刃が爛れ、焼き切られる。セイバーは頭に向かってくる熱線をすんでのところで避けたが、編んだ髪が焼き切られて辺りに散った。
「……」
 セイバーは黒い目をいっそう暗くして、焼き切れた刃を一瞥する。だがそれを手放すことはせず、再びムロロナに向かって飛んだ。スクロールが白線を吐き、セイバーの火が調度品とスクロールを焼き、巻き上げられた熱風がセイバーの割った天窓へ向かって旋回する。
 キャスターのマスターは強かだった。自身に魔術をかけているのか、火事のせいで炉の中のように熱の籠った天文台の中でも汗一つかかず、セイバーを熱線で追い詰めた。セイバーはその灼熱の光を避け、先端の溶けた剣でひたすらにムロロナの心臓と脈を狙う。
「――――往生際の悪い男だ!」
 セイバーが叫んでも、ムロロナは顔色一つ変えない。
「窮鼠猫を噛む、という言葉を知っているか?」
「―――ッ」
 ムロロナは、何度も熱線を浴びてボロボロになった刃が頭上へ向かって振り下ろされるのを前転で避けると、壁に掛かっていた黒い光沢のある杖を掴んでセイバーに向ける。先端に付けられた銀の馬頭が、隙を見せたセイバーの後頭部にぴたりと当てられる。セイバーは動きを止めた。
「たかが魔術師と油断したろう。お前の火は確かに伝承の悪魔の火かもしれないが、私の火は星のものだ。今動けば、摂氏一万度の熱線がお前の脳を貫通する」
 そうなればサーヴァントとて生きてはいられまい、と、ムロロナは頭一つ分背の高いセイバーに向かって言い放った。
「そもそもお前のマスターは随分と未熟と見える。セイバーを召喚できる運に恵まれていながら、それを活かせない三流に命令され、こき使われるとは、お前も不運な霊体だ」
 ムロロナがそう言った瞬間、天文台を焼く炎が突然勢いを増した。スクロールや絨毯、壁紙、膨大な量の本を舐める程度だった火の手が、十倍にも膨れ上がって、轟音を上げて燃えあがる。至近距離まで近づいた炎にムロロナが若干怯んだ気配を、セイバーは逃さなかった。
 後ろを振り返りながら右手を振り上げ、焼けただれた剣で杖を払いのけると、熱線が杖から放たれるのも構わずムロロナの間合いに踏み込んだ。
「もう一度言ってみろ―――もう一度、私の前で私の主を侮辱してみろ! 魔術師風情が、知ったような口を利くな!」
 剣の柄が魔術師の鳩尾に突き刺さった。激情のまま突き飛ばし、剣を振り上げる。だが感情的に振っただけの剣は簡単に見切られ、杖が刃を留めた。
 セイバーの剣を受け止めている杖を震えるほど強く握り、抵抗しながら、ムロロナは言う。
「忠犬ごっこは、構わないが、貴様のそれは……っ、マスターを誇りに思ってのものではないだろう」
 予想外の言葉に、今度はセイバーが怯む番だった。わずかに力が抜けた隙に、ムロロナが渾身の力で刃をはねのける。間髪入れずに馬頭から熱線を撃つが、急激に酷使した筋肉が痙攣して狙いが外れる。それでも、セイバーが熱の掠めた右肩を庇ったのを見、ムロロナはわずかに笑い、言う。
「今の言葉は貴族らしくて良いな。従者が主を誇りに思う言葉ではなく、権力ある者が更に権力ある者の下へ入った時の遠吠え。マスターを侮辱されたことではなく、王たる自分の主を侮辱されたことへの怒り。どういうことか分かるか?」
「……黙れ………」
「お前はマスターである人物を敬ってなどいないのだろう? 出来るわけないだろうな、その魔術師は本当に三流以下なのだから!」
「俺は黙れと言ったんだ!!」
 吼えて、剣を振るう。もはや鈍器と化した刃は暴れる竜の尾のようにムロロナの杖を叩き折り、部屋中に散らばるスクロールを塵一つ残さず焼き尽くす。喉の奥からせりあがってくる、血のように赤い炎を唇の端から零しながら、セイバーは激昂した。
「王の言葉を聞けぬ愚蒙(ぐもう)が! お前に何が分かる! お前に、楓の、何が分かるというんだ!」
 全く使い物にならなくなった剣を捨てて、セイバーはムロロナの細い首に掴みかかった。そのまま炎の燃え盛る壁際へ魔術師を押し付け、自分より頭一つ分背の低い魔術師の喉を締め上げた。だが気丈にも、その魔術師は声を振り絞って嗤った。
「……図星、か。分かりやすい……男だ……」
「言い遺すことはそれだけだろうな!」
 セイバーは身を震わせてムロロナを炎の中へ押し込む。ジリ、ジリと、赤い火がムロロナの周囲に張られた透明な結界を焼き焦がし、剥がしていく。青ざめた指先を、髪を、頬を、炎が舐めるように炙った。魔術師はセイバーに比べてはるかに細い腕で窒息と火から逃れようと呻きながらもがいたが、力では到底敵わず、全身を炎が覆いつくしていく。
「う、あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
 ――――死ねない。まだ私は死ねない、まだ何も成し遂げていない。父のように偉大にならなくてはならない。ルシオン家を潰えさせてはいけない。こんな、自分より遥かに劣る無名の魔術使いの従えるサーヴァントなどに、殺されはしない!
 ムロロナは結界を溶かした火が、衣服や髪や肌に燃え移るのを感じた。耐えがたい熱が四肢の感覚を奪っていくのが分かる。
 閉じようとする意識の最後に脳裏に浮かんだのは、妻と子供の姿だった。
 ――――もしかしたら。
 ふとそんな思いが頭をよぎって、ムロロナは目を閉じた。
 ―――もしかしたら、本当はこれでいいのかもしれない。
 今、私が死んだら、リリィとルルアドは、魔術を知らずに済む―――


-


 キャスターのマスターがふっと瞼を閉じたのを見た瞬間、セイバーは奇妙な感覚に襲われた。生きたまま炎の中で死ぬ人間はこんな顔をしない。これではまるで―――安堵しているようではないか。
 怒りが削がれて、天文台の中の炎が勢いを弱めた。
 だが奇妙なことに、次の瞬間には、煌々と燃えていた炎が不意に消えた。残骸の中でくすぶっていた残り火さえ、息を吹きかけられた蝋燭の火のようにかき消える。辺りは一瞬で闇に包まれた。
「誰だ!」
 刃の溶けた剣を握って振り返った。自分の声が静まり返った天文台によく響く。塔の中は青黒く沈み、先ほどまでの熱が嘘のように、冷気が足元を漂っていた。
 コツ、コツと床を歩く足音が聞こえたかと思うと、焼け焦げて殆ど炭になった扉を白く骨ばった指が押し開いて、一人の男が闇の中から浮かぶように現れる。武器は持っておらず、乾いた白髪を胸元に一房垂らし、重そうな布の衣服からのぞく手足は老人のように骨ばっているのに、セイバーを真っ直ぐに見据える赤い虹彩の目は鷹のように鋭く、青年のように背筋を伸ばして立つ男は、紛れもなくサーヴァントの気配を纏っていた。
 だがその霊基は酷く痩せ細っている。
「お前がキャスターだな」
「……そうだ」
「無関係な人々を巻き込み、命を奪った。大量にだ。到底許されることではない。私はお前を倒すために来た。情状酌量の余地はない。ここで消えろ」
 キャスターは今にも崩れそうな霊基で、しかし弱った素振りは少しも見せずにその場に立っている。
「そうだ。私は許されない。殺せ、今、ここで」
 セイバーは切れなくなった剣を降ろし、眉をひそめた。
「何故だ?―――何故あれほどの力を振るっておきながら、今更そんなことを?」
 セイバーの発した問いには答えず、キャスターはふと目を逸らし、セイバーの立つ場所より奥を見た。そこには首に痣を作り、手足や顔を焼け爛らせて冷たい床に倒れる自身のマスターがいる。キャスターは細く長い指で彼を指さして口を開いた。
「馬鹿な男だろう。……妻子を街の外へ逃がし、私を地下に拘束し、むざむざ殺されにおまえの眼前に現れたのだ」
 低く地を這うような声だった。
「お前の言う通り、あの男は愚かな魔術師だ。そして哀れな父親だ。孤独を貫くことも許されず、親として愛を与えることも許されない。その狭間で長く苦しんできた。もういいだろう」
 キャスターの言葉が終わった時、部屋の奥で、ぐ、と呻き声が上がった。セイバーは驚愕して部屋の隅を振り返る。
 暗闇のなか、火傷で赤く爛れた指先を震わせて、その男はもがいていた。数回激しく咳き込み、うつ伏せのまま血を吐いたようだった。
「……生きているのか、まだ」
 呆然と、セイバーは呟いた。
「……キャ、スター……やめ、……やめろ、ッ、何の為に、お前を……地下に……」
 喘鳴の間を縫うように、ムロロナはくぐもった声を上げる。
「聖杯を、聖杯を――――このまま、負ける………、ち、父上が―――家を―――……」
「もうやめろ、マスター」
 キャスターが静かに言い放つ。セイバーはキャスターの目を見た。鋭い眼光は消え、凪いだ水面のように何の色もない視線が返ってくる。その時、彼が何を求めているのか、セイバーは、はっきりと理解した。
「終わりだ、こんな戦いは」
 それ以上の言葉は要らなかった。セイバーは最後の魔力を振り絞って剣の刃を鋳直すように修復すると、真っ直ぐな十字架のように佇立する彼の心臓部へ、息の詰まるような速さで鋭い刃を突き刺した。
 そのまま、彼の霊基が完全に消滅するまで剣士は目を閉じていた。


-


 

「む」
 空が白み始めた頃、教会の地下にある居住室で、一人の男が声を上げた。向かっていた机の上の多くの書類から顔を上げ、乱雑に長い白銀の髪を結い直し、革を張ったソファーで眠りこける少女の寝顔をちらりと見る。首を傾げて、神父は椅子から立ち上がると、温くなったコーヒーのカップを手に持って部屋を後にする。痛いほど寒い冬の明け方の空気の中、石造りの階段を上って地上へ出た。 
 外は小雨が降っていた。灰色の空は東の方角が白く明るくなり始めている。薄闇に沈む街を眺めて、神父は坂の下からゆっくりと近づいてくる人影をみとめた。遠くの方で濃い灰色の煙が空へ立ち上っている。つい先ほど、キャスターのサーヴァントが消滅したことと無関係ではないだろう。
 さてどうやって後始末しようか―――そう頭を巡らせ始めた監督役の耳に、キイ、と金属音が届いた。
 見れば、坂を上ってきた人影が、教会の門を開けてこちらへ近づいてくる。霧雨に傘もささず、ゆっくり、ゆっくり歩いてくると思ったら、一人の男の肩を支え、やや引き摺るようにしてやっとの思いで歩みを進めている、一人の女だった。
「……もうすぐ来ると思っていた」
 金髪も顔も服も、煤で黒く汚れている。薄いブルーの目をすがるように、けれどどこか怯えるように向けてくる女が担いでいる男は、全身を酷い火傷が覆い、出血もかなりあるようだった。だが息はまだある。女は今にも倒れそうになりながら、無言で男の身体を神父に預けた。
「よく生きていたものだ、もういつ逝ってもおかしくはない」
「治して」
 女―――クララは強い口調でアルパに言った。目のふちは赤くなり、頬には号哭の痕がはっきりと残っている。
「治してください。私は、他の何を失ったって、この人だけは失いたくない」
 神父は縋るように、脅すように言い募るクララの顔を見下ろし、腕に抱えたムロロナを見た。先ほど一瞥したとおり、全身に大火傷を負い、指の先は爛れ、気管から血を噴いた痕がある。普通の病院へ連れていき診せたとしても、十人中十人の医者が「もう助からない」と断言する重傷だ。
 だがアルパは、クララに向かって微かに首を縦に振った。
「分かった。出来るだけのことをすると約束しよう」
 それだけ言って教会の奥へと入っていくアルパに、クララは震える声で言い洩らす。
「本当に」
 振り返って見ると、彼女は胸の前で煤と血痕だらけの指を組み、続きを口にした。
「本当に、これも聖杯の意思だというのですか」
 アルパは少し考えて、
「そうだ」
 と、短く言った。

Fate/Last sin -19

Fate/Last sin -19

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-12

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work