水のあるところ
ぬるま湯
温い湯に入りたかったのに、風呂を沸かすのを忘れていた。
忍びよる混沌。
駆けめぐる悪心。
湯の中へ落ちそうな、黒色の蜘蛛が壁にへばりついている。
無機質そうな水、湯気は無し、冷たく、気持ち悪い。
呆然と眺めていたら、身体を洗う気をなくした。
服を着るのも面倒だった。
どこにも行けなかった。
仕方なしに裸のままで靴を履いて、玄関の扉を開ける。
外へ出ると、隣の家の壁にペンキを塗っているおじさんを見かける。ピンクと水色が交わらないよう上手く交互に、縦に塗っている。
おじさんは俺に気付かないで、夢中になって色を塗っている。
ああ、すみません。おつかれさまです。すごく偉いんだな。この人は。
いきなり足におもりをつけられたような感覚に襲われて、家の中へ戻ろうとする。
肺から笑いがこぼれた
足を引きずりながら玄関へ入ると、靴たちが下駄箱から飛び出していたみたいで、砂の混じった石の床に「すみません」の文字を作っている。
はぁ。
ため息が出る。
貴様と比べられても困るんだよ。
寒気を感じて、やっと服を着る気になった。下着と、そこら辺にあったスウェットを着て、ソファーにどっしりと座り、流れるようにスマートフォンを手にとる。
ぱっと明るくなる目の前に、色々な悲劇の肩書を見る。
この、悲劇の肩書が自分にも欲しいと思ったが、自らの過去、現在の有様のどこをどう取っても、素敵で物憂げな名前を並べることができない。
水のあるところ