瑞獣の城

おだまきまな

瑞獣の城

2006?年~作品

人質

砂の風が、日没の荒野の上を吹き抜けていった。

何処から来て、何処へ行くのか──それは誰も知らず、誰も痕跡をたどる者はない。

朝歌の都はその残骸を日没の陽の下にさらし、かつての黄金を見る者はその胸の中にのみ、その姿を垣間見るであろう。

遠く高原の大地から都の上に砂が吹き付けてくる―――憐れむように、いつくしむように、やがて風に砂の風紋が消えていくように、地に深くうずめていく―――それは、あの紂王の、妲己へのおとないがそうであったように。

 

もう誰にも手渡さない・・・・・・いっそのこと、死の杯をそなたに。ともに滅び、ともに消えよ。

妲己はただ、金色の涙を流し、茫漠とした砂の嵐の中に、その姿を掻き消してゆく――――。

 

 

 

 

 

 

その日、き州候は人質として、自分の娘を殷の帝乙(紂王の父)に差し出さねばならなくなり、苦悩していた。

き州候には二人の愛娘がいた。

一人は玲瓏たる佳人に成長しそうな姉姫であり、妹の妲己はまだ可憐な幼子であった。

二人の娘の母は言った。

「この子のどちらかが、帝乙様の人質になろうとも、後室にいずれ入るのであれば、かわいそうすぎます。あなた・・・妲己はまだ幼いのです。この子は人質には。」

き州候は嘆息した。

「私には長男の蘇全忠がいる。全忠の前途に、殷に対する障害があっては困るのだ。幼いとはいえ、妲己を差し出すよりほかあるまい。上の姫は、殷に差し出すにはあまりにも惜しい。」

「そんな・・・・・!帝乙さまは、もうお歳をたいそう召されているのに・・・・こんな幼い娘を・・・・・・。」

妲己の母は人知れずに泣いた。

「母さま、母さま、一体何が悲しいの?」

幼い目をまんまるく見開き、妲己は母の顔を覗き込んだ。

妲己はすばらしい黒髪の、薄い瞳の色の美少女で、その大きな瞳が印象的な娘であったが、残念なことに姉姫ほどの度量はなく、何かに押し流されていくところのあるような、おおどかなところのある姫であった。

「妲己はこれから旅行に行くのですね。」

「ええ、そうですよ。旅行に・・・・・。」

馬車に一人で乗せられ上機嫌な妲己の姿に、母は声を詰まらせた。

人質の何たるかを、妲己はまだ知らない。

「では、父上、母上、妲己は行ってまいります。おみやげには何がいいでしょうか?」

妲己の問いに父と母は答えなかった。

従者は馬に鞭を当て、馬車は動き出した。

「妲己、妲己、元気でいるのですよ。いつか・・・・母の元に帰ってきて・・・・・・!」

妲己の母は、馬車に追いすがるように、駆けてそう言ったが、妲己の耳にそれは馬車の音にかき消されて届くことはなかった。

最初は上機嫌で歌を歌っていた妲己であったが、馬車が何日も旅を続け、何処か知らない土地に向かって行くのだとわかると、やがて不安で泣き崩れるようになっていった。

「父上・・・・母上・・・・・妲己は何処に行くのでしょう・・・・・おつきの者も何も答えてくれません・・・・・。」

野営の陣で、妲己は一人泣いていた。

と、その時何か夜の影に動いた気がした。

なんだろう・・・・大きなもの・・・・・・。

―――泣かないで・・・・ずっと君のそばにいてあげるから・・・・・・。

妲己は少し安心して、あどけない顔で眠りについた。

それは妲己のみが感じた、何かの気配であり、誰も知る由もない何者かであった。

 

やがて、馬車の一群は、朝歌の都に着いた。

まず馬車から降りた妲己は、あたりの壮麗な感じに目を見張った。

ここは一体何処だろう・・・・御伽噺にある、天の都だろうか・・・・・・。

妲己はまず、王宮の控えの間に通された。

帝乙が検分に訪れるはずの、その短い時間に「彼」は現われた。

少年―――すばしっこそうな一人の少年が、妲己の前に現われた。

「あなたは?」

目を見張った妲己に、少年は答えた。

「その方は、胡人だな。天狼星の方角から来たのか?ずっと砂漠を旅してきたのか?」

妲己が目をぱちくりさせていると、二人の後ろに背の高い男が立った。

「受子(紂王の幼名)さま、その者は胡人などではありません。みだりに人質に話しかけるのは、おやめになられた方がよろしいかと。」

「そう申すな、聞仲。予はこの者と話がしてみたいのだ。旅をしてきた者は、この王宮の中で鳥かごのように閉じ込められている予では知らぬことも、たくさん知っているに違いない。」

「受子さま!さああちらへまいりましょう。」

妲己が見ているうちに、受子と呼ばれたその少年は、聞仲にひきずられて、廊下に出された。

「その方の名は何と申すのか?」

まだ聞仲に抵抗を続けている、受子が妲己に向かって叫んでいる。

妲己はおそるおそる少年に答えた。

「妲己・・・・。」

「そうか。その方は胡人の娘だから、公主と名乗るがいいぞ!」

妲己はなんだか、それを聞いて安心した。

受子と呼ばれたその少年は、黒髪で黒目の少年だったが、年恰好は妲己と同じぐらいであり、妲己の目には何だか親しみを持って写ったのであった。

おもしろい人・・・・・この王宮の人なのかしら・・・・・。

だから、妲己はそれからずいぶんたった後ほどこの少年が、帝乙の息子であると知ったとき、たいそう驚くと同時に、受子に対して哀憐の情がわきあがってくるのを抑えられなかった。

妲己の前に立った帝乙は、威厳のある沈うつな人物で、無言で妲己を頭からつま先まで眺め回すと、「後室につれていけ」とだけ命令した。

後にこの歳をとった中年の男が、自分にとってどのような男であるのかを知った時―――妲己の心はひび割れてしまった。

 

では私は、この人の妾になるために―――。

 

帝乙は殷の支配者であり、皇帝を名乗るようになった最初の王であり、その王権は絶対であった。

妲己はその帝乙へのご機嫌伺いのために差し出された人質であったのだ。

しかししばらくの間は、妲己は人質として後宮にとめおかれるだけの身であった。

しかも、帝乙は妲己のもとへしばしば通って遊んでいる我が息子の受子の行動を、しばらくは静観していたのである。

子供同士で遊んでいるその姿は、王宮の中に突然できた陽だまりのようだった。

「妲己、予とそなたはこれから兄妹になろう。だって、親もいないんだろう。予の母上も死んでおらぬ。その方と予は、これからは兄弟だよ。」

「妲己・・・・・そんなの恥ずかしいわ。だって受兄さまは、大切な王太子ですもの。わらわのような後室の者と、そんなことをしてはいけないと思うの。」

妲己は使いにくそうに、「わらわ」という、後室の女たちの一人称を使ってみた。

「受兄さまは、これからお后さまをどこかからお迎えになるから、わらわのことは、きっと余計な者になってしまいます。わらわは遠くから受兄さまを応援しているわ。」

「そんなの、ダメだよ。妲己はただの予の周りの者じゃないんだから。予にとっては、妲己だけが一番大切なんだよ。」

妲己は受子の言葉に真っ赤になった。

とてもうれしい―――だけど、自分の立場では、断らないといけないというのが、おぼろげに妲己にはわかっている。

「受兄さま、もう帰って。後宮の女官たちに見つかったら、またしかられてしまいます。」

「妲己!」

妲己は息をはずませて、急いで部屋の扉を閉めた。

―――受兄さま・・・・・一番大好き・・・・・でも、お父さまに見つかったら、きっとまたしかられてしまいます・・・・。

妲己が胸の鼓動を沈めていると、後ろに背の高い、目つきの鋭い女官が一人立った。

妲己の「付き人」である。

「妲己や、またひきこんだね!人質らしくしなさい!」

妲己の頬に女官の張り手が走った。

「あ・・・・ごめんなさい・・・・・妲己、少し、寂しかったの・・・・・・。」

妲己ははずみで床に倒れこんで、乱れた黒髪の下で、女官に打たれた頬を押さえた。

涙がぽろぽろとその頬にこぼれている。

「まったく・・・・!き州の女は魔性の女が多いっていうけど、おまえもそうだよ。王の息子にちょっかいを出すんじゃないよ。おまえは大切な儀式の生贄なんだからね。」

「はい・・・・・ごめんなさい・・・・妲己はもう悪いことはしません・・・・。」

妲己は女官が部屋から出ると、窓のそばにより、格子に手をかけて、震える瞳で外を見た。

―――わらわは籠の鳥・・・・・ここから出ることもできないのね・・・・・・。

妲己と紂王のその年は、そのようにして暮れていった――――。

「妲己、妲己。」

ある夜だった。

妲己の寝室は後宮の中でも粗末な離れに作られていて、妲己とおなじような身の上の娘がいくばくか暮らしていた。しかし、妲己はその中でも王の息子に気に入られているという噂がたっているので、仲間はずれに近い処遇を受けていた。年老いた後室の女たちの間でも、妲己はそうであった。

妲己の心の支えは、今や紂王――受子のみになっていた。

その受子とも最近は、疎通になっている。

そんな矢先、涙にくれていた妲己の枕元の木戸で作られた窓を夜半、ほとほとと叩く音がした。

紂王であった。

紂王は声をひそめて言った。

「出てきてごらんよ。妲己に見せたいものがあるんだ。」

「なに?」

妲己は起き上がり、物音をたてないように廊下をつたって、紂王の待つ中庭へ出た。

「こっちだよ。」

紂王は妲己の手を引き、中庭を横切り、後宮の裏手の小山の中に入って行った。

紂王の手には燭台のろうそくが灯っていて、二人の道行きをぼんやりと照らし出していた。

「受兄さま、妲己に見せたいものって何かしら?」

「しっ。」

二人は丘の上に出ると、山すその崖の下の小さな祠に向かった。

妲己は知らない場所であった。

「ここは・・・・。」

不安気に言う妲己に、紂王は言った。

「ここは、予の考えた摘星楼だ。」

「摘星楼?」

「うん。星の観測をする場所さ。ここは、見晴らしがいいだろう。予はここから星空をよく眺めるのだ。空には軍神の神々が星に住んでいて、予を守ってくれている。ほら、あそこ。あの一等光っているのが、予の好きな天狼星だ。夜空で一番明るいのだ。白くて、とても輝いているだろう?宝石のようだ。予はあんな星を妲己に譲りたい。」

「まあ・・・・。」

冬の夜空だった。

立っていると、冷え冷えとした冷気が体中に痛むように伝わるのだが、妲己は紂王のその言葉に胸が熱くなった。夜空は、誰のものでもない。しかし、「譲りたい」という王らしい紂王の物言いが、妲己には嬉しかったし、紂王の思いがほのぼのと暖かく思えたのだ。

紂王はしかし、そこで残念そうに言った。

「今が夏ならばな。夏ならば、そこに紅鷺星が見えるのだ。南の地平線の上に輝く。あの星も予は妲己に譲りたいと思う。それに、夏には牽牛と織女が見える。予は・・・・。」

そこで、紂王は少し恥ずかしそうにした。

「織女星も、妲己にお似合いだと思うぞ。」

「ありがとうございます。」

妲己が頭をたれると、紂王はあわてて言った。

「そんな、へりくだらなくてもいい。予と妲己の仲ではないか。いつものように、受兄さまと言ってくれ。」

「はい。」

「そうだ。予は妲己のために詩を書いたのだ。後で、読むといい。」

紂王はそう言うと、妲己の手にわら半紙の折りたたんだものをすばやく握らせた。

「今は夜だから、読むな。明日、明日だぞ。」

妲己は紂王に微笑んだ。

受兄さまは、いつも私に嫌だと思うことはしない。

そして、いつも自分を私に下げて言うようになさる。

王の息子なのに、とても奥ゆかしいのだ――受兄さまは―――。

妲己はそれが、妲己に対してだけ発揮される紂王の好意の賜物であるとは知らない。

後になって、妲己はそれで苦しむことになるのだが、この時はまだ妲己はただ、紂王の兄のような熱意に嬉しくなるばかりであった。妲己は尋ねた。

「受兄さま、さっき申された摘星楼というのは、この祠のことでしょうか?」

「う、うん、そのことか。」

妲己が尋ねると、紂王は照れたように言った。

「父上はご存知ないのだが、予がもしも位を父上から譲られることがあったなら、予は必ず王宮の中に星の世界を解明する研究所を建設するつもりなのだ。父上はそんなものには、反対すると思うがな。予は、戦争があまり好きではない。できれば戦争をせずとも、人民を平定できる方法はないものかと考えている。」

「そうでございますか。」

「また、その言い方だな。妲己、他人行儀はやめてくれないか。」

「これは失礼しました。」

「またそれだ。」

紂王はおかしそうに笑って言った。

「だがそんな妲己が予は大好きだ。」

「受兄さま、私もです。」

「だから、その時には、妲己に予のそばにいてもらいたいのだが―――。」

と、その時だった。二人の立つ丘の下に、ともし火が見えた。

女官たちが探しに来たに違いなかった。妲己の名を呼ぶ声がした。

「妲己、予がいてはそなたがまた責められる。予はこれで帰るが、いつもそなたのことを思っているからな。」

紂王はそう言うと、ザッ、と茂みの影に隠れた。

あとに取り残された妲己は、一人気丈に燭台を持って立っていた。

「妲己、何処に行っていたのですか。」

女官長とその下の者が、さっそく妲己を見つけて詰問した。

妲己は言った。

「狐がいたのです。」

「なに、狐ですって?」

「そこに二匹ばかり。追っていたらここに来てしまいました。」

「まあ、嘘をつくのもたいがいにおし。おまえがここで、誰かと会っていたのはわかっていますからね。」

女官長はがみがみと妲己にいろいろとまくしたてたが、妲己はふところに忍ばせた紂王からの手紙のことで、頭がいっぱいだった。

見つからないようにしながら、次の朝、妲己は紙を大切に広げて読んでみた。

それは漢詩だった。

 

『梨花帯雨争驕艶―――』

 

――わたくしのことを、梨花、と。

妲己は胸がいっぱいになった。

梨の花は中華でもっとも純潔可憐とされる花だ。

紂王は妲己をそれにたとえたのであり、それは精一杯の紂王の妲己を愛しく思う気持ちの表現であった。

――受兄さま・・・・受兄さまと、故郷のき州に帰れたなら、どんなにいいだろう。

妲己はそう思うのだが、それは人質の身の上では実現不可能な願いだった。

もしかしたら、紂王は今頃私と会っていたことがばれて、怒られているかも知れない。

それが妲己は悲しい。

――どんなに受兄さまのことを思っても、仕方がないのかも知れない。

と、妲己はもう気づいている。

 

その頃、殷王室に久しぶりに朝献に訪れた国があった。

周の姫昌、であった。

朝歌はその日は晴れ渡っていた。周の姫昌は幼い息子の伯邑考と姫発の兄弟を連れてきていた。

姫昌は後年、伯邑考に朝献させた際のような、変わった手土産は持ってきていない。彼らの国は殷よりも西にあるので、持ってきたのはシルクロードでの交易で手に入れた、変わった織物や酒、工芸品などであった。それらに紂王の父王は満足した様子である。何代か前には、殷王室は周王室に、姫を后として差し出している。遠い親戚関係にある両王室であった。

姫昌はひととおりの儀式の挨拶をすませると、息子たちと部屋にさがった。紂王の父帝乙が用意した部屋は、テラスに面した豪華な一室であった。姫昌は嘆息した。帝乙が皇帝を名乗るのだとしても、まだ我が祖国に対して牙をむく様子はない。むしろ縁戚関係にあるのだから、崑崙山脈から向こうの、騎馬民族の群れに対しての外憂を、ともに戦っていこうと思っている───そうではないかと思うと、遠路はるばる帝乙に呼ばれて、周から殷にまで旅してきたのも無駄ではなかったと思う姫昌であった。ただ、帝乙が皇帝を名乗るに際して、妙な噂を姫昌は聞いていた。

───殷では宇宙図を作ろうとしているのですよ。

と、付き人の一人が姫昌に言った。

宇宙とは、盤の上にあるもの。

天の知らせを占うもの。

姫昌はそう聞いていたし、自分でも竹軸で八卦で星読みをして占うことがあった。

だから「宇宙図」の話を聞いて面食らった。

───星々の地図を作って何がわかると言うのか。星は天の意に従って、その道筋を気ままに変える。地図など、考えるだけでも途方もないことだ。

と、姫昌は考えた。しかし殷はそのようなことに国家の予算を使おうとしている。

実は姫昌はそのことが気がかりであったので、偵察もかねて殷に来たのであった。

しかし幼い息子たちにはその話はしていない。

「父上、テラスの向こうから呼ぶ者があります。行ってもよろしいでしょうか?」

と、伯邑考が姫昌の機嫌を伺った。姫昌は答えた。

「誰が呼んでいるのか。」

伯邑考は会釈して答えた。彼は幼くとも礼儀正しい息子で、弟の姫発とは対照的であった。

「父上、殷の第三皇子です。」

「行っておあげなさい。」

「はい。」

瑞獣の城

瑞獣の城

封神演義にはまったころ少し書いた作品です。紂王妲己というけもの道カップルで、藤崎竜さんの漫画ではまったのですが、藤崎版で書いておりません。Pixivにあげた殴り書き漫画でその片鱗は出ているのですが、ちゃんと小説にしてみようと思って書き始めたのですが未完のままです。これも登場人物が非常に多くて、最後まで書くとなるとかなりの分量になります。読んでいただけるだけでもありがたいことで、今回蔵出しということで出してみました。

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