御影華

おだまきまな

御影華
  1. 元治元年春
  2. 仇花
  3. 散華

2004年作品

元治元年春

雪が舞っていた。

 

降りしきる雪の道に、紅い花びらが点々と続いていた。

花びらは手からこぼれ落ち、やがて途切れた。

 

青年は暗い瞳で、一軒のこじんまりとした武家屋敷を眺めていた。

かすかに、彼は心の中でその者の名を呼んだ。

―――出ておいで、そこから…。

どうして彼は自分が焦がれているのか、わからないでいた。

その者の父から、かつて稽古で竹刀を交えたとき、「それは剣の道ではない」という言葉を投げつけられたからか。

それを否定したいがために、その者をそばに置くことで埋め合わせをしたいのか。

それとも、あの厳しい老人に、自分はけして御庭番衆を裏切らないということを示したいのか。

その者と自分は何のつながりもないのだ、と思うと彼は無性に悲しいのだった。

自分という存在が、世間という広い海をただ漂流する木ぎれのように思えてくるのだった。

彼がその日、遠国御用の折に、その者の家に立ち寄ったのは、降り積もった想いがその重みで耐え切れなくなったからなのであろう。

彼はそれほどまでに孤独にむしばまれていた。

 

前日の夜半から深夜にかけて降り積もった雪が、朝の光にキラキラと輝いていた。

巻町操は土間を降りると、いつも遊ぶ手毬を片手に表の戸をあけた。

「あぁ寒い。」

まわらぬ口でそう言うと、外に出た操は、雪の道に点々と続く紅い花びらを見つけた。

――なんだろう。

それは手に取ってみると、四角く切り抜かれた小さな折り紙の破片だった。

それは操の家の前から点々と山の方へと続いていた。

操の母の縫が娘よりも先にそれを見とがめなかったのは、偶然と言うより他なかったであろう。

――きれい。

操はその続くほうへと、ぽっくり下駄で歩き出した。

それからずいぶんと歩いたはずだ。

やがて紙切れが途切れた時、初めて操は我に返った。

ここは一体どこだろう。早く帰らないと・・・・と、その時操の頭上で声がした。

 

「そこから先へは、行けないぞ。」

 

はっ、として見上げると、背の高い青年が操の前に立っていた。

濃い藍色の服を身に着けている。

操は逃れようとして後ずさりをしたところを、青年にやさしく腕をとらえられた。

そして―――。

 

「あっ!」

 

あっという間の出来事だった。

操の小さな身体が、かがんだ青年に強く抱きすくめられたのは。

操の幼い体に震えが走った。

この人は知らない、知らない人だ・・・・しかし青年のその動作はわずかな時間であった。

彼は操の身体から離れると、その手に何かを渡し、すっ、と影のように消え去った。

おびえる操の耳に三文字の言葉を残して―――彼女はその意味を理解するにはまだ幼かったし、また彼女はそれを忘れた。

何しろ彼女はまだ二歳であったから―――。青年の言葉は次のようなものだった。

 

「いずれ。」――――

 

巻町縫は娘の握り締めた紙雛を見つけて、呼び止めた。

「それはどうしたの?」

千代紙で丁寧に作られた女雛の人形だった。

操は答えた。

「知らないお兄ちゃんにもらったの。」

「まあ。知らない人からもらってはダメよ。」

そんなもの、と縫は紙雛をすぐに、かまどのたきつけの火にくべて燃やしてしまった。

従って彼のおとずれは、巻町家の人々には、ない事にされたのだった。

それから数年後、彼がその本来の姿を現す日まで―――雪の道の紅い花びらの破片は、夜の闇の中にひっそりとかき消されていった・・・・。

「母上、母上。」

 

蒼紫は夢を見ていた。

それはまだ幼い日の自分―――無力だった頃の自分だ。

必死で少年の日の蒼紫は木戸をたたいている。

中には母がいるはずなのだ。

母が―――死んだ父とは別の男たちと。

蒼紫はそれを認めたくないのだった。

何故病弱な母が―――それは自分を育てるためだという事はわかっている。

そうしてある冬の日の朝、母は蒼紫を一人残して死んだのだった。

 

―――操、お前は俺の母のような悲しい女にはなるな――――。

 

何故あの操という娘の事をそう思うのか―――あの娘は御庭番衆とは別の道を、あの父親の玄播のもとで過ごしていくのだ。それなのに―――。

 

蒼紫はそこで目を開いた。

母が死んだ後のことは考えたくなかった。

あれから今の御頭に拾われるまでの、地獄の日々―――。

自分はあの館につれていかれた頃、間違いなく人を殺すつもりでひそかに剣を練習していた。

そして惨劇は起こった。

あの時、その場に居合わせた何人の人間を斬り殺しただろう。

御頭はそれをじっと影から観察していて、自分を一撃のもとに倒したのだ。

その時の言葉も覚えている。

 

「武士の子供か―――哀れな。それだけの人間を斬った以上、もはや普通の生き方はできまい…。」

 

少年の日の自分、まだ髷を結っていた頃の自分が御頭に向かって、全力で剣をつきつけ走っていく。

御頭はそれを一閃でなぎ払った。

失神した自分が気がついたときには、御庭番衆の館につれていかれていた。

そうして自分は御庭番衆になったのだった。

殺人はすべて不問に処す代わりに、蒼紫は下人として、御庭番衆として生きる道を示されたのだ。

それに背くことはもはや許されなかった。

漂流する木ぎれのような人生、と蒼紫は思う。

そんな自分が見つけた、誰にも知られないひそかな華が、あの操という娘の誕生であった。

三度の手合わせをした時、自分に負けた後の玄播のどなり声はよく覚えている。

「父上。はっきり申し上げておきます。御庭番衆は武士ではない。だからこれは、剣の道ではないのだ!あなたがこの者に何を見出したかは知りませぬが、私は武士としてまっとうな道を歩むつもりでおります。」

蒼紫の誇りは、もちろん十二分に傷つけられた言葉であった。

その武士として上を生きる玄播の娘を、下に落とされた御庭番衆の自分が自由にする。

ありえない、と人は言うだろう。

しかしそれは蒼紫にとっては、愉しい空想なのであった。

 

何年かたてば、あの娘も二歳の幼女ではなくて、花が開くようにまぶしい少女へと成長するだろう。

その頃、ひとまわりも歳の離れた自分は、その娘にとっては、不釣合いな者になっているに違いない。

その娘を俺が汚す―――汚すのだな、と蒼紫は胸中で繰り返した。

心の中で誰かが涙をこぼしながら、獣のような哄笑をあげていた。

その時あの娘はこの俺に抱かれることを喜ぶだろうか―――何も知らずに。

蒼紫の心の中で、母を抱く男たちと、自分とその娘の姿が重なった。

嗚呼、と蒼紫は思うのだった。

やはり自分などは、あの娘に近寄ってはならないのだ。

遠くからその存在だけを見ているのが、一番いいのだ。

しかし一度考えた想像の幻影は、蒼紫の脳裏から去らないでいた。

それは胸をかきむしられるほど苦しくも、甘美な幻想であった。

その時だった。

 

「若、奉行所から庭師として検分に入るように命令が下っておりまする。」

「般若か。」

 

蒼紫は寝床から起き上がると、障子を開けた。

般若の面をつけた、忍びの者が控えていた。

「どうした。何か特別な者が来たのか。」

「女でございます。」

「女。」

「近頃京で暗殺を繰り返している男、緋村とかいう剣客らしいのですが、これに縁の者を殺された女です。」

「奉行所に駆け込んだのだな。」

「その者、御家人の娘なのですが、器量がなかなかによく、九ノ一として送り込めるやも知れぬということでございます。」

「女には気取られてはいないな。落とすのか。」

「左様。京から闇の武の者があがってきておりまする。」

「御頭には知らせたのだな。」

「は。先ほど報告いたしました。」

「わかった。すぐに行く。」

蒼紫は仕度をしに着替えた。

地味な紺色の庭着である。

どこから見ても町の植木職人であった。

―――緋村か。緋村抜刀斎か。

すでに蒼紫は、京に放った忍びからの報告でその名前を知っていた。

―――飛天御剣流の使い手。一度手合わせをしたいものだが―――。

それには命がけなようだな、と蒼紫はひとりごちた。

すでに緋村抜刀斎に殺された幕府の者の人数は、三桁に届きそうになっていた。

雪代巴は、江戸東町奉行所の門の前まで来て、弟の縁に言った。

「ここから先は私一人で行きます。おまえは外で待っていなさい。」

「ねーちゃん・・・・。」

縁は不服そうな顔をしたが、巴に従った。縁は言った。

「清里さんの仇を討つんだろ、ねーちゃん。」

「・・・・・・・・・。」

「ねーちゃんが清里さんと祝言をあげていたら、出ていった親父も喜んだだろうによ。そうだろ、ねーちゃん。御家人と言っても俺たちの家よりも禄高が高いんだ。親戚のおばさんもそれが目当てで、縁談を勧めていたんだもんなあ。」

「・・・・清里さまの消息がわかればいいのです。」

「ねーちゃん、京で死んだって聞いたろ。長州藩のヤツらに殺されてさ。仇、討ちたいよなあ。浪人ものでも雇ってさあ。お奉行からの話ってきっとそれだと思うな。」

「おまえは来てはなりませんよ。」

巴はそうきつく言うと、奉行所の門をくぐった。

建物までの中庭を歩くと、植木職人たちが剪定しているのが見えた。

巴はその中の一人の青年に、自然と目が吸い寄せられた。

―――清里さまに似ている。

じっ、と見つめそうになるのを、あわてて巴は視線をはずした。

植木職人にもあのような者がいるのだ。

しかし、確かにそうであった。死んだ清里と年や背恰好がその青年は同じぐらいに見えた。

しかも、巴には清里よりもその青年が美しく思えた。

―――私は何を・・・・・。

巴はかすかに頬に血を上らせ首を振って、前を向き直った。

あのほおずき市でほおずきの鉢を買った日の次に、また会おうと清里が申し入れたときだった。

暑い夏の日の午後だった。

巴はそこがそういう場所だとはと知らなかった。

呼び出された茶屋の一室で、巴は清里から逃げられなかった。

祝言をあげる前なのに、清里は私を―――京にこれで安心して行ける、と清里は事が済んでから巴に言ったのだった。

今もその事を思うと、薄氷を踏む思いがする。

―――私が清里さまの仇を考えるのは、私が武士の娘だから。決して清里さまに体を奪われたからでは―――。

清里とはそれきりになったのだが、今私は清里の子を孕むこともなく、新たに血を流すことを求めている。

してみれば、私は清里のことをそれほど好きだったらしい・・・・・巴は自嘲めいた笑いを片頬に謎のように浮かべると、奉行所の本屋に入った。

「雪代巴、参りました。」

「お待ち申しておりました。どうぞこちらへ。」

通された客間は、武士同士の話合いをするような広い場所ではなく、庭に面した小さな部屋だった。

町奉行とその付き添いの者が巴を待って座っていた。

町奉行はでっぷりと貫禄のいい中年の武士だった。奉行は言った。

「さっそくだが、清里明良と京の勘定方を始末した男の名が判明した。」

「はい。」

「緋村抜刀斎という男だ。出身地は不明。今は長州藩の桂小五郎につきしたがっておる。腕は非常にたつ。だが、うわさによればまだ少年のような男らしいという事だ。そこでだ―――。」

巴は考えていたことを、ここで一気にはきだした。

畳に手をつくと、巴は必死になって答えた。

「お奉行さま、仇を討ってもらいたいとは申しません。ただ、その者をこれ以上、幕府方の者を襲うことを許さないようにしていただきたいのです。そうでなければ、死んでいった清里が浮かばれませんから。」

それは巴の考え抜いた末の結論であった。

しかし町奉行は太った体をゆすり、笑って答えた。

「ほほう、殊勝な物言いだのう。おぬしのような女を女房にもらえなかった清里は、本当に無念な男じゃ。」

町奉行はかしわ手を二回打った。

「お呼びでございますか。」

次の間に、目つきの鋭い剽悍な男が控えた。奉行は何がおかしいのか、まだ笑いながらその者に話しかけた。

「飯塚。どうだ、この女。わしが恋女房にほしいぐらいじゃ。長州にくれてやるのも惜しいものじゃ。」

男が顔をあげて、自分を舐めるように見るのがわかり、巴の心は散々に乱れた。

飯塚と呼ばれた男は答えた。

「確かにいい女ですな。ひょっとして、桂小五郎が妾にしてしまうやも知れません。そこをうまく操縦するのが俺の仕事ということですかね。」

巴はやっとの思いで町奉行に言った。

「長州にくれてやる・・・・とは・・・・どういう意味でござりましょう・・・・・。」

町奉行は事もなげに答えた。

「そなたはこれから、長州への間者として働いてもらうことが決定した。おとりつぶしの憂き目に会いたくなければ、そうするのだな。」

「間者・・・・私が・・・・何故そんなことを。」

「うぬが仇を誰かに討ってもらいたいと思っていたらしいが、世間にはそんなお人よしはおらんのだ。わかるか。自分の始末は自分でつけてこそ、武士の名に恥じぬ生き方と言えるのではないか。」

「お話が・・・・お話がそれでは違います。」

必死に食い下がる巴に、飯塚が割って入ってきた。

「そうさ。あんたはもう抜けられないところにまで来ているってことなんだ。せいぜいあんたを、そっちの道に落とした、その緋村という男を恨むんだな。そうすればそうするほど、味も出てくるというものだ。」

「ふふふ、女の味、だな。その緋村という男を篭絡できるかな。」

「できる、ではありません。やってもらうということです。京で観察しましたが、ヤツにはなかなか隙ができない。だが女を買ったりなどはとんとしません。まあ、まじめな野郎です。そういう男にはこういう女が一番いいと思いますね。」

カッ、と巴の頭に血がのぼった。

そういう――そういう意味でここに呼ばれた・・・・私が。

巴は叫んだ。

「嫌です。絶対に私は、やりません。」

その巴の頬を、町奉行は乱暴に分厚い手のひらで張った。

「アゥッ」

悲鳴をあげて倒れる巴に、奉行は冷ややかに言った。

「馬鹿な女だのう。家財が没収されると、たった今申したであろうに。」

巴は畳に倒れていた。乱れた前髪からのぞくその両目からは涙があふれていた。巴は言った。

「縁には・・・・縁には・・・・何もしないと約束してくださいますか・・・・・。」

「うぬの弟か。腐っても雪代家の跡取り息子だ、悪いようにはせん。」

奉行の言葉をどこまで信用していいものか―――巴は自分が、切り立った崖の上から手をすべらせた思いがした。

奉行は立ちあがって言った。

「飯塚。門の外で待っている雪代縁を送っていけ。この者は御庭番衆で預かることにする。」

「あの小僧、素直に帰りますかね。ま、なんとかおだてて帰すことにしましょうかね。」

肩を震わせて嗚咽する巴に、奉行はとどめのような一言をあびせた。

「御庭番衆の者らから、間者の女の作法をまず学ぶがよい。せいぜい励め。そちの細腕では、その緋村という剣客を倒すことはできまい。九ノ一としての技を磨くのだな。」

数人の武士たちが部屋にどやどやと入ってきた。

巴は後ろ手を縛られて、ひったてられた。

―――清里さま。私は・・・・私は・・・・あなたさまのために・・・・このようなことに・・・・・。

何故か巴はそう思った。まだ見ぬ緋村抜刀斎という男には、巴の恨みの感情は向けられなかった。

そして奉行所の裏から外に連れ出された時、巴はもう一度驚くことになった。

―――先ほど見た庭師が―――!

竹ぼうきを横において、数名の紺色の装束の者らが、平伏して待っていた。

さっき見た庭で剪定していた者たちだ。

先頭の片膝をついている青年―――先ほど巴が見とれてしまった蒼紫だ―――が、顔を伏せたまま、武士らに言った。

「江戸城御庭番衆、確かに女一名をお預かりいたします。」

「うむ。ちゃんと仕込むのだぞ。」

「御意。」

巴は裏切られた、とその時思った。

それではこの場に居合わせた者はすべて、私を間者に仕立てあげるつもりで―――。

傷ついた巴は、ふらふらと御庭番衆らについて歩き出した。

そうでなければ、殺されるかも知れないという気がしたのだった。

さっき庭の木々を切っていたときは、まったくの無害に見えたのに、今自分を取り囲んで歩いているこの一群の、気配の殺気だっているのはどうであろう。

巴はこれから先の自分の運命を考えないでおこう、と思った。ただ彼女は、門の外で待っている縁の身柄をだけ心配していた。

巴は御庭番衆預かりとなったが、当面はまだ、預かり置きの状態であった。

巴が危惧したようなことは、当座の間はなかったのである。

ただ、九ノ一としての簡単な心得、あまりしゃべらないこと、行った家屋をよく観察することなど、の訓練とも呼べないほどのことを訓練された。また、護身術なども教わったが、これも武家の娘として巴が知っている最低のことと同じであった。

―――私の女としての部分を使えという、お奉行の言葉は何だったのかしら・・・。

巴は数名の下働きの女たちと、御庭番衆屋敷内の家事炊事などをするようになった。

だがしかし、巴の運命はやはり回りだしていたのだった。

巴の知らないところで、それは起きていたのだ。

 

その日、蒼紫は後に先代御頭と呼ばれることになる、老人―――つまり、この時点での御庭番衆の御頭に呼ばれて、茶室で茶をたてていた。

蒼紫はまだ「若頭」であり、配下の者には「若」と呼ばれていた。

まだ春の遠き日、雪も残る寒い午後であった。

御頭は蒼紫のたてた茶を満足げに呑むと、丁寧に懐紙でぬぐった後、こう言ったのだった。

「奉行所から回ってきたあの女、おまえはどう思う。」

蒼紫はにべもなく答えた。

「あのような者にいかほどの大役が務まるのでしょうか。任務を果たして帰ることもままならぬと思います。何故あのような者を。」

「ふ、きつい言い草だのう。おまえは相変わらずだ。」

蒼紫はお手前の茶碗をすすぎながら、答えた。

「抜刀斎にはほとんどの手だれが殺されております。立川流も通じますまい。」

蒼紫の口からその言葉が飛び出したのを、老人はあえて無視して言葉を継いだ。

「抜刀斎という男、話によるとおまえとそう変わらぬ歳の男らしい。だから上の者がこういった手を考えたのだな。」

「邪法をもって忍法とするのは、あなたもよしとしないのでは。」

「・・・・あの女は闇の武が預からせてほしいと申してきた。」

「辰巳ですか。」

「そうだ、辰巳だ。奴は女の扱いには長けている。京まで無事送ることもできよう。」

ここで御頭は、一息ついたように庭の木を見て言った。

「梅の花が咲いているな。見事なものだ。蒼紫よ、おまえも早晩あのような者と接触する機会が出てくるかも知れん。いい機会だ。ここで手引きしてみたらどうだ。」

蒼紫の茶器を片付ける手が止まった。

「どういうおつもりで言っておられるのですか。」

「真田忍群の奴ばらが、あの娘に立川流をやらせるのはもう目の前のことだ。おまえはそれが不服なのであろう。」

「そういうつもりで言ったのではありません。」

「わしにはそう聞こえた。」

「では、お断り申し上げる。」

蒼紫の断りの言葉に、老人は押さえつけるように言った。

「ならば、目の前の地獄を今一度見るのだな。」

「地獄?」

「おまえのそうした心根を悟っている者が、実は大勢いるとしたら何とする。わしが今おまえに言えることは、それだけだ。」

老人はそう言うと、席を立った。

―――また、試されている。

蒼紫はしばらくそのまま座っていた。

老人の言葉は、彼にとっては思いもよらぬものだった。

―――あの女を俺に押し付けるとでもいうのか。

そして、その最後の言葉も―――。

仇花

空に灰色の雲がたちこめる湖畔を、二頭の馬が駆けていた。

先を行く馬には、美少女が乗っていた。少女は長い髪を頭の上で二つに分けていた。

真田忍群を統括する洩矢御沙薙(もりやみさなぎ)だ。

その顔には、美しいが、ある種の冷たさが同居していた。

彼女の後ろを馬を駆っているのは、鰐淵銀礼(わにぶちぎんれい)と言って、御沙薙の参謀を勤めている男だ。

銀礼は忍者としては、整った容貌のほうであろう。

御沙薙とはすでに男女の関係になって久しいが、御沙薙のことは御頭として立てることを忘れない男だ。

しかも銀礼はそこそこ腕が立ち、御沙薙を常に守っているので、この二人につけいる隙はどこにもなかった。

と、御沙薙はスッ、と虚空に右腕を伸ばすと、腕から何かを二連、鋭い音をたてて空に放った。

湖岸に群れていた、鴨の群れがいっせいに飛び立った。

中の一羽が一声鳴き声あげて、地に落ちていく。

鴨の首には苦無が深々と突き刺さっていた。御沙薙が投げたものだ。

横に並んだ鰐淵銀礼が言う。

「見事なもんですぜ、御頭。」

御沙薙は銀礼に鼻で笑って答えた。

「これぐらい、なんてことはないさ。」

馬から降りると、御沙薙は小太刀をスラリと引き抜いた。御沙薙は叫んだ。

「そこにいる男。江戸の者だね。帰って伝えな。真田のものは、召集に応じるとね。」

御沙薙は言うや否や、刀を投げた。

草むらの中の影が動いた。

御沙薙はその様子にしのび笑いを漏らした。

「ふふふ・・・刀が刺さっても声もあげないんだね。その忠誠、我ら真田の者にもほしいぐらいだ。」

銀礼が御沙薙に言った。

「御頭、あまりいじめない方が。あれもいずれは我が配下となる輩かも知れませぬ。」

「そうだったね。まずはうるさい爺いを始末しないといけない。聞こえているか、そこの者。我らはあの四乃森という男が後継者というのは、認めないからね。」

影は声もなく、その場から立ち去った。

銀礼は言った。

「そこまで言ってよかったんですかい。」

御沙薙は答えた。

「江戸城の御頭に報告するか否かは、あの連絡係の心づもりひとつ。ただ上京するにせよ、こちらの意思は伝えておこうと思ってさ。」

御沙薙は手にした苦無を木に向かって投げた。

鋭い音とともに、苦無が幹に突き刺さった。

「江戸にいる奴らにあごで扱われ・・・・。汚いことはみんな私たちがやるんだよ。」

すさまじい勢いで、次々に苦無が突き刺さっていく。

「蒼紫・・・私と行動をともにしてくれたなら・・・・・。」

御沙薙は激しい思いを断ち切るようにそうつぶやくと、来た時のように馬に飛び乗った。

「江戸に行く。銀礼、皆に伝えるんだよ!」

御沙薙は言うと、馬を駆った。銀礼も後に続いた。

 

御沙薙がつぶやいた言葉を理解するには、これより以前の事を少しさかのぼらないといけない。

彼女は何度かの真田忍群の召集で、御庭番衆や蒼紫に会っていたのである。

むろん、仕事としてであり、蒼紫も御沙薙には忍群の頭目として以上のことは何も求めなかった。

しかしそれを御沙薙は、逆恨みしていた。

そして、蒼紫についてのある情報をつかみ、自分がその立場にないことについて、深く嫉妬していたのである。

だが、まだこの時点では、御沙薙は自分が新たに御庭番衆の御頭となり、蒼紫を配下に従えて、銀礼との関係がそうであるように、自分の好きなようにする、といった未来図を描いているに過ぎなかった。

そう、彼らはこの幕末のご時勢を待っていたのである。

戦国の世でそうであったように、彼らは徳川幕府というものに反逆する意思を、三百年の間隠匿し温存してきた。

表面では御庭番衆に忍従するように見せかけながら、その裏では下克上の遺志を伝えてきたのである。

それはしかし、蒼紫も察知していて、だからこそ彼は御沙薙に対して必要以上の距離を保っていたのであった。

御沙薙はその蒼紫の真意を知らない。

ただ、彼女は手の届かないものを求めるように、蒼紫を求めていた。

初めて蒼紫を見たときから、御沙薙は蒼紫のことが好きであった。

しかも蒼紫はただ美しいというだけではなく、御沙薙も一目置かざるを得ないほどの術を体得していた。

御沙薙は、あれほどの男に抱かれるのが女の幸せであると考えていた。

しかし誇りが高い彼女は、蒼紫に頭をたれて自分と一緒になるように言うことは、到底できないのである。

真田忍群の跡取りの娘として、何不自由なく育てられ、その天才とも言える技を持っていることで、蒼紫のほうから自分に申し入れてくる局面が彼女の理想であり、蒼紫が自分にひざまずくこと、ひれ伏すことを考えるだけで、彼女の気持ちは沸き立つのだった。

蒼紫を我が物とすることができるならば、二人合わせれば無敵と言えるのではないか。

御沙薙が考えている残酷な場面はそれだけではなかった。

―――その巴とかいう女。私には邪魔だ。

御沙薙にはわかっていた。その女、ただ間者として使うだけではない・・・・・誰かが我らを試すために御庭番衆に近づけたのだ。

きっとあの老人たちだ。

ならば、辱めてやる・・・・と御沙薙は思った。

その場面に居合わせても、あの蒼紫は無表情でいられるだろうか。御沙薙はそれはできないはず、と考えた。

彼女もまた、蒼紫の出自を知る数少ない者の一人だった。

できない・・・・できないはずだ。

だからこそ、あの女なのだ。

御沙薙は残酷にその一言を付け加えた。

―――私はその時のおまえの顔が見たいのだ。

まさしく通称「鬼姫」の名にふさわしい、洩矢御沙薙であった。

かの聖書の逸話、聖人ヨハネの首を請うて、その生首に口付けをしたという王女サロメと同じ血を、御沙薙は有しているのだった。

決してそれでは蒼紫に愛されないことを、御沙薙はもちろんどこかで知っている。

しかし御沙薙は、自分を曲げてまで蒼紫に折れるということを、絶対にするつもりはないのだった。

そんな御沙薙の理解者が、今横にいる鰐淵銀礼であったが、この者は残念なことに蒼紫ほど美しくなく、また天賦の才もなかった。

御沙薙にはその事実も、認めねばならないが非常に腹だたしい事実だ。

そんな御沙薙にとって、ある忍びの者から聞いた情報は、まさに狂乱するにふさわしい内容だった。

―――この私が、子供に負けるだと。蒼紫がそんな者に思いをかけているなど。

絶対に認めない、と御沙薙はギリ、と唇を噛んだ。

蒼紫が子供に懸想しているらしい、という事は彼女にとって忌まわしいものでしかなかった。

彼女は想像の中で、蒼紫を次のようにののしった。

―――それが一人前の男のすることか。

彼女の頭には、今はそれらの事への報復しかなかった。

それでますます蒼紫に嫌われることになっても、御沙薙はそうするつもりなのであった。

真田忍群の本拠地へ帰りつくと、御沙薙は僧侶の者を近くに呼んだ。

来る日のための準備―――真田忍群だけが戦国の世から伝えてきた、秘術のためであった。

―――まずは、手近な巴とかいう女から落としてやる。

その為に古老らはその巴という女を引きずり込んだはずなのだ。

御沙薙の冷徹な判断は、当たっていた。

その日の昼下がり、巴は薪を離れから台所へ移動するのに、一人で運んでいた。

何度目かの往復で、積まれた薪の山がなくなった頃、その男は現れた。

「よう。」

築地塀によりかかるようにして、薪を持った巴の前に、黒装束の男が立ちはだかった

目だけが覆面の上からのぞいている。

忍びというほかないいでたちである。

巴は眉をひそめて立ち去ろうとした。

「・・・・失礼します。」

巴は会釈して男をよけようとしたが、男に肩をつかまれた。

「あんた、なんて名だっけな。」

「・・・・巴と申します。」

「巴か。ふふふ、木曾公の妾と同じ名前だな。もっともあんたは静御前のほうが似合ってるぜ。」

「・・・・そこを通してください。」

「俺ともう少し話をしようじゃないか。俺は中条って言うんだ。覚えててくれっかな。」

巴はなれなれしいと思ったが、黙り込んだ。

中条という男は巴に顔を近づけて、ささやくように言った。

「三日後、あんたはたいした事をやらされるんだぜ。知ってるかい。」

巴は顔をそむけながら答えた。

「・・・・いえ。」

「ほう、そうかい。俺は闇の武の者だが、闇の武でもそんな事はしねぇ。辰巳のおやじもあきれていたぜ。何のためにそんな事をするんだ。あんたは無傷なまま、京にのぼったほうがいい。ま、処女の味っていうのかなあ。そのほうが緋村って男をしめるのには、ちょうどいいってもんだ。あんたもそうだろうが。」

「・・・・・・・・・・。」

「まあもう決まっていることだ、仕方がねぇ。あんたも、真田の鬼姫には気をつけたほうがいい。あいつぁあんたのツラの皮をひんむくかもしれねぇぜ。なにせ、俺から見てもここの若旦那に岡惚れときている。まあそういう女しか、御庭番衆では生き残れないってことなんだがね。」

「お話、よくわかりました。失礼します。」

「まあ待てよ。」

と言うなり、中条は巴を抱き寄せようとした。巴の手から、薪の束がすべって地面に転がり落ちた。

「何をなさいます!」

「無粋だねぇ。ちょっとぐらいいいじゃねぇか。緋村って男を何とかするつもりなら、これぐらいどうってことじゃねぇ。」

と言いつつ、中条は巴の着物の襟下に右手を差し入れようとした。

「おやめください。」

巴が中条ともみあっているその時だった。

鋭い風切り音を立てて、苦無が二人の間に飛んできたのは。

中条は間一髪でそれをよけた。

苦無は築地塀に深々と突き刺さった。

「―――誰だ!」

中条は叫んで、苦無を塀から引き抜いた。

見回した中条は、ある人影を認め凍りついた。

「あ、おめぇ・・・・・。」

蒼紫が二人からだいぶ離れた、庭の木の影から姿を現していた。

蒼紫は黙って立っていた。だが手にはもう数本の苦無が握られていた。

中条の顔から血の気がひいた。中条は思った。

こいつはやる時はやるんだったな・・・・・・。

「けっ、くそったれっ。」

一声叫ぶと、中条は巴の前からあわてて姿を隠した。

中条が姿を消すと、蒼紫もその場から立ち去ろうとした。

「もし、あの―――。」

巴には自分でも思ってもみなかった一言だった。

しかし、口をついてその言葉は出てしまった。

「助けていただいて、ありがとうございます。お恥ずかしいところをお見せしまして・・・・。」

巴は軽く礼をしたが、蒼紫は背中ごしにだまったまま遠のいていく。

巴はすがるようにもう一言言った。

「今の方はあなた様のお仲間なのでしょうか・・・・・。」

蒼紫の背中は立ち止まった。蒼紫は言った。

「違う。おまえは今の男たちと京にのぼることになる。道中は気をつけるのだな。」

「は――はい。」

巴の頬にわずかに血の気がさしてきた。

巴は自分が、生娘のように蒼紫のその一言でうれしくなっていくのを感じた。

―――そんな、そんな事を思ってはいけないわ・・・・私には清里さまが・・・・・・。

巴はそう思い直していたが、自分の心臓が早鐘のように鳴っているのを止めることはできなかった。

 

結局巴は、御庭番衆の普段の生活ぶりをつぶさに観察して、始めに思ったように、やくざ者の集まりとは違うのだということがわかったのだった。

特にこの蒼紫という若者は、武士と言ってもいいような生活ぶりで、その師らしい御頭と呼ばれる老人といる時は、本当に武士の親子のようであり、巴は家を出て行った父親の姿をそこに重ねたりしたのだった。

後に緋村抜刀斎の妻に納まった巴は、女性ならではの驚くべき順応性を身につけていた。

郷に入れば郷に従えという言葉がある。

巴はまさしく、その言葉どうりの女性であり、何の武芸もたしなまなくても、ある種の強さを身につけていたのであった。

―――私はこの蒼紫という方にひかれている。

巴はそう思ったが、それはやはり表に出してはならない感情だと思った。

むしろ、彼女は自分のそんな気持ちを責めた。

―――どうして、支えがないと崩れてしまう切花のように、私の気持ちは誰かに向かうのだろう。そうしないと、立っていられないように。

巴はそう思い、この感情が過ぎ去ることを祈った。

もうすぐ私はここから京に向かい、その緋村という剣客のそばにいることになる・・・・・清里さまの仇を討つために。

しかし彼女にとっては、清里も緋村という剣客の事も、すでに心の重荷になっていた。

第一、剣では緋村という剣客には勝つことができないと、再三にわたり言われている。

絶望の中で、自分を助けてくれる蒼紫という青年を見出したとき、巴がそれにすがろうとした気持ちは自然の成り行きであったと言っていいかも知れない。

今の場面でそうであったように、蒼紫がもしも自分を助けてくれたなら・・・・と巴は思っている。

たとえそれが実現不可能な夢であっても、巴にはそれが今や心の支えなのであった。

こうして巴の立場を考えたとき、そのありようは、先にあげた御沙薙とはまったく逆と言ってもいいであろう。

御沙薙は自分の立場を譲らない娘であったが、巴は自分を曲げて周囲に合わせてしまうことにあまりにも慣れた女性であった。

従って巴は、蒼紫が立ち去った後、静かに面を伏せて涙ぐみ、薪を拾い集めて、また台所にまで運ぶという動作を繰り返した。

蒼紫への気持ちは、徒花のようにうたかたに消えていくのを、巴は待った。

―――縁はどうしているかしら・・・・・。

巴は弟のことをまた心配した。

それから約三日後。

 

中条の言葉にあった通り、御庭番衆は秘密裏の会合を開いていた。

それは江戸城の武家屋敷の中に建てられている、秘密の集会所にて行われた。

議題のひとつは次期御頭の選出について、もうひとつは巴の処遇についてである。

会合には幕府方の御庭番衆の目付け役も来ていた。

が、この者らの目当ては御庭番衆が九の一を仕込むさまを見ることであった。

次期御頭の選出については、後に回され、まずは引き出された巴に酒に含んだ麻薬を飲ませることから始まった。

その作業は、御沙薙が率いてきた真田忍群の忍者らが行った。

彼らはその昔、戦国時代に真田幸村が高野山のふもとで暮らしていた折に、この法力を学んだのであった。

また、もともと紀州の忍びにその起源を持っている江戸城御庭番衆にとっても、真言宗は無縁の宗派ではなかったのである。

すでに真言密教の経文が、堂内にはこだましている。

僧侶らが唱えるのは、真言宗でも邪宗とされる、立川流の文言であった。

こうして、巴に殺された清里の霊をおろして、宿らせるというのが目的である。

老御頭は、このような場面には慣れているのか、不動のままである。

蒼紫は御頭の横に座り、半ば正気を失って暗がりの中で白い脚をあらわにした巴を見るとはなしに見ている。

その表情に沈痛なものがある。

巴の横には御沙薙がいたが、さっそく巴に残酷な罵声を浴びせかけていた。

「もっと脚を開きな!清里の仇を討つ気はあるのかい!」

巴の額には脂汗が浮かんでいる。

両手は手首のところで縛られている上に、脚首も縄で台座に開かれて固定されていた。

うわごとのように、巴はかすれた声で繰り返していた。

「できません・・・・・私には・・・・・できません・・・・・。」

「やる気はあるのかい!もっと声をあげて!腰を使うんだよ、腰を。」

巴の脚の付け根に、御沙薙はある物をあてがった。

そのままぶすりと差込み、かき回しながら、御沙薙は目を細めてたずねた。

「法具の独鈷緒でないだけ、ありがたいと思うんだよ。これは特別に作らせたんだ。あんたの愛しい清里のものか、あるいは憎い緋村抜刀斎のものか―――。」

「・・・・・ううっ・・・・・・くぅっ・・・・・・。」

「気持ちいいのかい?そうかい、そうかい・・・・・でも、相手を気持ちよくさせないと、ダメだよねぇ。その緋村って男をさ。」

目付け役の武士たちは、身を乗り出して半裸にむかれた巴を見ている。

「ああして、一人前の九ノ一になるということですかな。」

「まさか。霊をおろすなど、この場の誰も信じておりませんよ。まあ眼福と言ったものですな。」

「御庭番衆ならでは、ということか。」

巴がもだえて苦しむのを、武士らは舐めるようにながめていた。

これらの者には、巴の姿は、町のいかがわしい出し物以上の何物でもなかった。

老御頭は、横に座る蒼紫に言った。

「蒼紫。つらいのか。」

「いえ。」

「手が震えておるぞ。」

蒼紫の膝に置かれた手が硬く握り締められて、びりびりと震えていた。

激情を抑えているのだ。

老御頭は諭すように声を低めて言った。

「あの者の姿がおまえの目にどのように映ろうと、今は目の前の光景から目をそらしてはならぬ。男はな、いく時にもっとも隙ができるのだ。」

その瞬間であった、老人のもとに苦無が飛んできたのは。

「――――――!」

蒼紫は瞬間、小太刀をわしづかみ、御頭の目の前で一閃した。

暗い堂内で、刀がはじかれる音が響いた。

「何者。」

老御頭はすでに抜刀している。

「あれまあ。無粋だぜ、これは。」

御沙薙の後ろで巴を押さえつけていた、銀礼が肩をすくめた。

蒼紫は剣を抜いたまま、その場から立ち上がって言った。

「今御頭を狙ったやつは、前に出ろ。」

江戸城御庭番衆の向かいに座っている、闇の武の中の辰巳が答えた。

「我らは知らぬ。儀式を続けよ。」

蒼紫は叫んだ。

「儀式は中止だ。真田の者は下がるがよい。」

「なんだと、てめぇ。」

銀礼が蒼紫に答えた。

「俺たちが狙ったって口ぶりだなあ。」

「そうは言っていない。」

「銀礼、やめな。若の趣味ではなかったってことかねぇ。」

御沙薙はスラリと腰の剣を引き抜いて蒼紫に言った。

「じゃあこの女のことはこの辺にして、次の議題に移ろうじゃないか。次期御頭だけどさ、前にも言ったとおり、真田ではあんたが後継者ってのは、認められないんだよ。何せ、あんたは世襲ではないし。それにこんなぐらいで音をあげるようないくじなしじゃあ、こちらとしてもねぇ。」

堂内に座っている、真田忍群の忍者たちが、御沙薙についてそうだそうだ、と気勢をあげた。

対する江戸城御庭番衆は沈黙したままだ。

巴はぼんやりした頭で、何事かが動いているのを感じていた。

―――あの方が、私のことで何かを言っている・・・・・?

自分が大股びらきでいることも忘れて、巴は気も狂わんばかりになった。

忍者たちが、蒼紫らに不満をぶつけて、「殺せ」と繰り返していた。

―――お願い、あの方を責めるのはやめて・・・・・・・・!

巴は耳をふさぎたい衝動にかられた。

目付け役の武士らは、忍者たちの反乱に恐れをなして、この場から逃げる用意を始めた。

「そこな頭目!それからお前だ、そこの若造。この場をきちんと押さえるのだぞ。仲間割れは幕府は断じて許さん。」

言うだけ言うと、武士らは跡目も残さず堂内から飛び出した。

「蒼紫よ、これは果たし合いということになるかな。」

老御頭は殺せ、とやじを飛ばして繰り返す真田忍群の忍者らに向かって言った。

蒼紫は黙って立ったままだ。

御沙薙はにやりと笑って言った。

「完璧な囲みは死力をつくさせることになる。私はおまえには生き延びてほしいと思っている。蒼紫、我らの張った罠を抜けられるならば、おまえを次期御頭に認めてもよい。」

「はじめからそのつもりか。」

言うなり、蒼紫は御沙薙に向かって猛然と突き進むと、巴を縛った縄を刀で切った。

御沙薙は一瞬ひやりと恐ろしいものを蒼紫に感じたが、すぐに気を取り直した。

―――そういうお前のあいまいな優しさを、私は許すことができないんだ。蒼紫。必ず屈服させてやる。

今までの蒼紫の態度で、御沙薙は巴への蒼紫の気持ちを十分見抜いたのであった。

手に入らなければ、いっそ殺す。

御沙薙はその時そう考えていた。

巴はゆっくりと目を開いた。

あのお堂から、自分が運ばれ、日本間の布団に寝かされていることに巴は気づいた。

―――私は一体・・・・・・。

巴は全身が疲労していて、身動きするのにも痛みが生じることに気がついた。

あの妙な儀式のせいだとわかっている。

―――でもあれは、一体何のためだったのだろう・・・・・。

巴には理由がわからないでいた。

ただ、自分は間違いなく「九の一」としての烙印を押されたのだということはわかった。

静かな絶望が巴を襲った。

巴は立ち上がり、次の間へ入った。

誰か座っている―――誰?

巴は目を見張った。

蒼紫が刀を抱いて、目を閉じてそこに座っていた。

他の人間はいなかった。

巴は声をかけようとしたが、喉に声が張り付いてしまってうまく声が出せなかった。

あの恥ずかしい肢体を見られた、というだけではない。

―――私にはこの方の生きている世界は、耐えられない。

一度は蒼紫に望みをかけた巴であったが、御庭番衆の生きる世界の片鱗をあらたにかいま見、その修羅は巴には耐えられないものであった。

耐えられず、ついていけない―――巴は静かに蒼紫の前に座った。

蒼紫が目を開いた。

「気づいたか。」

蒼紫が巴に声をかけた。

巴はようやくの思いで言った。

「はい―――。」

「京への出立は明日。闇の武の連中が迎えに来るだろう。」

巴は震える唇をかみ締めた。

―――私は泣きたい―――なりふりかまわず、今この場で―――。

しかし涙が流れるのを、巴はこらえた。

しばらくしてから、巴は口を開いた。

「私・・・・私・・・・本当は逃げたいのです。このまま何処かへ・・・・できない事はわかっています。」

「・・・・・・・・・。」

「私にはかわいい弟がいます。弟のためにも、私がしっかりしないといけないのです。」

蒼紫は言った。

「残酷な事を言うようだが、あなたはここから抜ける事はできない。秘密を知った者は任を解かれることはまずない。」

巴は内心震えながら、やっとその言葉を口にした。

「では・・・・・では・・・・・私はやはり・・・・・これから先は・・・・・・女郎ではなく・・・・でも女郎のように・・・・・。」

「―――母も女郎だったことがある。短い間だったが。」

巴は目を見張った。蒼紫がそんな風に自分のことを話すなど、彼女は思いもよらなかった。

巴は少しうれしくなって、言葉を継いだ。

「では、あなた様の母上様も、やはり忍びの方だったのですね。私のように。」

「違う。母は武家の出だった。だから、あなたを見ていると、母を思い出す。」

巴は蒼紫の言葉に、胸を打たれた。やはり、この方は――――。

「あの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

「なんだ。」

「私は・・・・・・あなた様のためならば、がんばれると思います。忍びの女として・・・・・・。」

「清里という男のことはどうなる。」

「清里は私を抱きました・・・・・婚約したばかりのある日、茶店へ行くと、そこは――――。」

「――――――。」

「汚されたと思ったのです。どうして私、うれしくなかったんでしょう。清里は私のことを愛してくれたはずだったのに、当然のように私を―――私を――――。」

蒼紫はさえぎるように言った。

「もうそれ以上は言葉にしないほうがいい。」

巴の目からどっ、と涙があふれ落ちた。

堰を切ったように、巴は蒼紫に言い募った。

「私には仇は討てません。その緋村抜刀斎という人に、私の腕では勝てないのです。何故私が―――私が。」

蒼紫は立ち上がって奥の間へ行くと、一振りの黒塗りの懐剣を手に戻ってきた。

巴は目を見張った。

「それは――――?」

「これをあなたに持っていてもらいたい。母の形見だ。」

蒼紫は巴の前に懐剣を置いた。

「母はこれで自害をしなかった。あなたにも、そうしてもらいたい。あなたもこれを自分には使わないでほしい。」

巴は蒼紫の真意を察した。

生き延びて、また江戸に戻ってくる―――この私が。

巴は震える手で懐剣を受け取った。

少し鞘を抜いてみると、白明な光を宿す剣に、自分の顔が映りこんでいるのが見えた。

巴が顔をあげると、蒼紫が無言でうなずいていた。

それを受け取れ、と言っているのだ。

しかし巴には、蒼紫が自分のことを許してくれたように見えた。

巴はたまらず、蒼紫にすがりつくようにその身を投げかけた。

―――このような事を、清里が言ってくれていたら・・・・・・・・・・・・・・・・・!

巴は思った。

今ここで抱いてほしい、あの忌まわしい儀式のことを忘れさせてほしい・・・・・・。

巴は全身で、蒼紫に愛情を訴えかけようとした。

しかし蒼紫は、巴の顔を少しあげさせて、わずかに唇を重ねただけだった。

それも一瞬のことだ。

巴には、鳥の羽が触れたかと思ったほどだった。

蒼紫はすぐに巴から離れた。蒼紫は言った。

「すまない。出来心だ。忘れてくれ。」

立ち上がって、蒼紫は障子を閉めて出て行った。

 

あの方とはこれきり・・・・巴は思った。必ず江戸に戻ってあの方にもう一度まみえる・・・・。

その時、緋村抜刀斎という男に対して、巴は初めて憎い、という感情を抱いた。

その者に対して、愛情があるそぶりを私は見せてやろう、そうすれば隙がない男にも隙が生じるというもの―――。

そして、その者に抱かれることも私は考えよう。

巴の頬に、謎のような笑みが浮かんだ。

 

巴はその時初めて、確かに忍びの女となったのであった。

散華

「するとやはり蒼紫は、あの女を抱かなかったか。」

闇の武の辰巳は、中条からの報告を聞いていた。

辰巳は水ギセルをふかしている。

中条は言った。

「まあそういう男だということですぜ。据え膳を断るなんざ、そうそうできる事じゃねぇとは思いますがね。普通の御頭だったら、九ノ一になった女はかわいがってから、敵地に送り込むもんですぜ。あのすかした野郎、それを知っているはずなのに。」

中条は言いつつ、右手から手裏剣を鋭く投げた。

闇の武らがつどっている家屋の板塀に、手裏剣はぐさりと突き刺さった。

辰巳は含み笑いをした。

「ふふふ、老人どもの失望がわしには目に見えるようじゃ。その女、もう少し役だててもらおう。」

「何に使うんで?」

「いずれにせよ、あの若造は我ら闇の武が動くには邪魔だ。あの者がいなければ、あの場で御頭の老人を殺せたかも知れなかったのだ。それは真田忍群の連中も同じことだ。連中も今頃ほぞを噛んでいることだろうて。」

「でしょうね。」

「しかし、御沙薙は本気だ。現に江戸城の御頭を軟禁状態に置くように、古老らに指示を出した。」

「古老ってのは、あの御頭の元はといえば同僚のヤツらなんでしょう。なんで意見が違うんですかい。」

「古老があってこそ、今の御庭番衆があるのだ。古老らの命令は絶対だ。あの蒼紫とかいう若造のことも、御庭番衆の先例を破ることが多いということで、古老らは目をつけているのだ。蛇の道はへび、そのようにふるまえばいいものを、あの者、出自が武士だけあって、下人の役には徹しきれないのだな。しかし、それこそが我らの目のつけどころ・・・・・。」

辰巳はネコのように目を細めた。

「真田忍群の重包囲の中、御頭と巴を終点の東屋に置いておくのだ。ヤツは安堵するだろう、そこを寝首をかくのだ。」

「その前に真田の連中に絞められますぜ。」

「ふふふ、そう簡単にいくかな?御沙薙という女、あの様子では蒼紫を殺すに手段を選ばないつもりだが。わしが見た限りでは、まだ蒼紫のほうに分がある。恐ろしい恋もあったものじゃ。」

「恋、ですか。」

「それもまた恋―――業と呼ぶにふさわしい。この世は業深き者らの所業でまわっているのじゃ。」

辰巳はそう言うと、次の間への襖を開けた。

京へ出立しているはずの、巴が気絶して放り込まれていた。

中条は目を丸くした。

「御頭、これはいつの間に・・・。」

辰巳は笑って答えた。

「この女も業が深いぞ。何もなかったとはいえ、蒼紫と言葉を交わしただけでも、すでにあの者の業を背負っておる。」

辰巳はそういうと、巴の体を身軽にかつぎあげた。

「では参ろうか。死地の十絶包囲陣へ。」

辰巳がそう言うと、闇の武らは気勢をあげて腰をあげた。

巴はまだ気がつかなかった。

 

「若、私もお供いたします。」

般若は蒼紫の重装備を見守りながら、片膝をついて言った。

蒼紫は答えた。

「御頭が古老らからの叱責を受けた理由のひとつは、俺にある。おまえには関係がなかろう。」

「しかし、これは罠でございます。次期御頭の件は、蒼紫様を殺すための口実にすぎません。」

「般若、勘違いをするな。」

「何をでございますか。」

「俺はどうしても御頭になりたいわけではない。ただ俺の命を狙う輩は全力を持って排除する。それだけだ。」

般若は黙り込んだ。

蒼紫はその般若に、さらにこう尋ねた。

「般若、古老らが御頭を軟禁した理由がわかるか。」

「いえ。」

「御頭が強すぎるからだ。それでずっと恐れているのだ。幕府の役人どもと同じだな。」

そう言うと、蒼紫は屋敷から出て、馬にとび乗った。

「般若、俺と御頭が帰らなければ、ここの屋敷から出て身を隠すがよい。御庭番衆として生きるのをやめて、時勢に従うのだ。わかるな。」

それだけ言うと、蒼紫は真田忍群の指定した場所へと馬を駆った。

般若はついに蒼紫にはついて行かなかった。

蒼紫の立ち居ふるまいには、般若の同行をこばむものが、あまりにもはっきりと出ていたからだ。

―――あのお方は、なんでも一人でやってみたいのだ。

般若は蒼紫の身の無事を祈った。

それが、かつて蒼紫に一命を救われたこの老兵の、生きがいであり信念であったのだ。

蒼紫は馬から降りると、泥炭地の様子をうかがった。

―――十絶の陣。御頭のいるところまで、十数人の盾がある。

蒼紫は小太刀をかまえた。

待つこと数間。

まず、彼方から鎖釜が飛んできた。

「お命、頂戴。」

鎖釜を振りまわしている忍びが言った。

――これは、囮だ。

蒼紫は鋭く苦無を投げた。

「うがっ、ごぼっ。」

鎖釜の男の喉笛に苦無は突き刺さった。

その間も蒼紫は草むらを移動し、もう一人の忍びに襲い掛かっていた。

「ううっ。」

蒼紫の小太刀の一閃にまたひとり、忍びが倒れた。

そこへ手裏剣が間を待たず飛んでくる。

蒼紫は小太刀でそれをよけた後、また刀をひらめかせた。

足場の悪い泥炭地で、蒼紫は必死で刀をふるった。

忍びは襲うたびに増えているかのようだった。

―――これだけの人数をただ消耗させるために置くのか。あの御沙薙という女は。

蒼紫は数十人を切り伏せて、泥炭地から扇状地の中腹にまで出た。

蒼紫の脳裏に、危険を知らせる信号が点滅した。

―――いる。

敵が、いる。

蒼紫は一歩を踏み込もうとしたが、その歩みを止めた。

口に苦無をくわえると、もう一刀をすばやく抜いた。

二刀流の構えになった。

空はまだ明るいはずなのに、異様にこの扇状地の空だけが暗い。

「後をとったぞ。」

銀礼の声がした。

蒼紫の体がその瞬間、何かに引きずられるように傾いた。

―――斬鋼線。

目の前の坂の先に、御沙薙が立っている。

御沙薙は片腕をスッと虚空に伸ばした。

腕の先から何万羽の蝶がひらひらと、極彩色の色をしながら舞いはじめた。

幻術であるのはわかっていた。

しかし蝶の動きは、狂うように目の中に飛び込んでくる。

御沙薙は言った。

「緩慢に、蝶に包まれながら、死ね。」

御沙薙は言うと、刀を構えた。

銀礼は斬鋼線を引きながら、釜状の武器を構えた。

「こうして、前後に敵がいれば、いかな御庭番衆でも、破れまい・・・・抜けられぬぞ、蒼紫。」

びょう、と音をたてて銀礼の手から武器が飛んだ。

蒼紫の首をその武器は狙っていた。

ザン!

鈍い音がして、蒼紫の首は血潮をまいて、地面に転がった。

鰐淵銀礼は狂喜した。

「やったぞ・・・・蒼紫を俺はやったぞ!はははははははっ。」

だがその時、闇の中で蒼紫の声がした。

<<その技は見事・・・・だが貴様の技、真の円月の陣ではなかろう・・・・・。>>

「貴様っ。」

銀礼はあわてた。

あわてて地面に落ちた首を見返した。

―――変わり身!

蒼紫の首と思ったものは、木の根であった。

「あわてるんじゃないよっ。」

御沙薙がどなった。

御沙薙は言った。

「幻術には幻術を・・・・という事かい、蒼紫。だがおまえの体には斬鋼線がかかっている。どこに潜もうが、我らには無駄だ。そして、おまえの幻術などすぐに敗れる幻術を我らは用意している。」

銀礼は御沙薙の言葉に、すぐに体勢をたてなおした。

そうだった、ここでやるんですな、あねさん・・・。

「こういう、幻術をね!」

御沙薙は叫んで斬鋼線を引いた。

ボコッ、と音がして、地面の中から現れたものは――――。

 

その瞬間蒼紫の中で、何かが壊れた。

それまで平静を保っていた外側が崩れ落ち、中からどす黒い感情が噴出した。

―――外法。

 

 

斬鋼線の中心におかれ、虚空に吊り下げられたものは、斬り刻まれた幼い操の、変色した死体であった。

―――操。

その光景は、蒼紫の中のある部分に火をつけたのだった。

幼い操に会っていたあの時、すでに何人かは知らぬが、監察の目を免れ得なかったとは――――。

もちろん、目の前にぶら下げられているこの操の死体は、本物ではない。

外法の忍術をもって、何者かが作り上げた人形である。

そのことは蒼紫にはよくわかっていた。

わかってはいたが―――しかし、蒼紫の中で何かが凶暴なうなり声をあげていた。

コロス、コロス、コロス・・・・・・・。

オマエタチヲコロス。

銀礼は釜状の刃を下に向けて、ゆっくりと動かした。

円月の陣―――やはり、目くらましの術であったか。蒼紫は小太刀を十字に構えた。

いつ襲ってくるかわからない銀礼に対して、守りの構えをとったが、銀礼は驚くべきことに、操の死体に向かって刀をふりあげた。

びょう!と音がして、操の首が刀に断ち切られ、皮一枚を残してぶらり、とぶらさがった。

蒼紫の心にきしむ思いが走った。

―――外道っ。

銀礼はもう刀を取り戻している。銀礼は言った。

「蒼紫。貴様はそうして隠れたところから、俺がこの死体をばらばらに切り刻むのを見ていろ。」

銀礼はまた刀を投げた。

「おまえにはこの小娘が、よほど大事な娘なんだろうっ!」

ギンッ、と音がして、刀がはねた。

蒼紫の手にした小太刀が、陰陽撥止の型で片方だけ投げられたのだ。

―――なんだっ。

銀礼はあやうく蒼紫の猛攻を避けた。

銀礼の頭上にある木立から、蒼紫が銀礼に向かって飛び掛ったのだ。

「てめぇっ。」

銀礼に対して、恐るべき速さの太刀が次々と繰り出された。

ものすごい速さで銀礼に対して、蒼紫の小太刀が打ち込まれていく。

―――こいつは―――。

銀礼の心に、ひやりとしたものが走った。

「銀礼っ、あぶないっ。」

御沙薙があわてて刀を蒼紫に向かってふるおうとした。

しかし。

蒼紫は苦無を投げた。

御沙薙のすぐそばの木に、苦無はグサリと突き刺さった。

「おのれっ。」

御沙薙は蒼紫に向かって突っ込んでいった。

―――やったか。

御沙薙が思った瞬間。

「あ、あねさん・・・・・・・・。」

御沙薙ははっとした。刀が突き刺さっているのは、銀礼の体だった。

蒼紫は―――すでに頭上の木を伝って東屋のほうに移動している。

「銀礼っ!!」

御沙薙は、ドウ、と崩れる銀礼の体を支えた。

「おのれ、蒼紫っ!!!!」

御沙薙は大声で叫んだ。

「よくも、よくも銀礼を・・・・・・・・!」

御沙薙の蝶の術はすでに破られており、蒼紫は斬鋼線をどうやってはずしたのか、操の死体を片手に抱えて東屋に向かっていた。

「青二才め。真田の封印を逃れたわ。」

東屋の外には、辰巳が立っていた。

横には気を取り戻した、巴が手をついてうずくまっていた。

―――あの方は何故あんな子供を大切に抱えているのだろう。

巴は思った。あの子供はあの蒼紫の一体何なのだろう。

その後ろを、御沙薙が追いすがって来ていた。

「蒼紫・・・・蒼紫っ。」

叫びながら、刀を振りかざしている。

蒼紫はついに御沙薙に振り向いた。

それは巴の目の前から数メートルの場所での出来事だった。

蒼紫の身が深く下に沈んだかと思うと、跳躍して、御沙薙の胸から斜め下に俊速で剣が振り下ろされたのだ。

御沙薙は上段に構えていたので、とっさによけられなかった。

「ああっ。」

御沙薙は一声高く、叫んだ。

御沙薙の胸から血が噴水のように噴出した。

―――血の雨。

巴はその血に大きく目を見開いた。

血は蒼紫の体にも勢いよく降り注いだ。

御沙薙はそのままゆっくりと崩れた。

蒼紫は血まみれで、立っている辰巳と、崩れ座っている巴をほぼ無視して東屋の中に入った。

片手には操の死体を抱えていた。

蒼紫は片膝をついて御頭に言った。

「真田忍群、総勢22名を処罰いたしました。」

御頭は立ち上がった。

「そうか。蒼紫よ、よくやった。」

瞬間、御頭の手から手裏剣が飛んだ。中条はあやうくそれをよけた。

「闇の武よ、その方らの意向は無に帰した。京にのぼり、緋村抜刀斎を斬ることだけに専念するのだ。これ以上の戦いは無用。真田と同じ道をたどりたいか。」

御頭は重々しい口調でそう言った。

言いながら、外に立つ辰巳に近づいた。

辰巳はすでにひざまづいていた。辰巳は言った。

「めっそうもございませぬ。我ら闇の武、任務以外の何をいたしましょうや。」

辰巳はこのような狸芝居が得意なのであった。

「確かか。」

御頭はそれだけ言うと、このような地獄絵が展開されたのを、露ほども何も思わない態度で東屋を後にした。

蒼紫はなかなか東屋から出てこなかった。

しばらくしてから東屋から出てくると、何かを手からほうった。

ゴウ、と東屋に炎が走った。

彼は闇の外法で作られた操の人形を、東屋ともども荼毘に付したのだった。

その時巴は、蒼紫にすがりつくことができなかった。

蒼紫の背は、何者が近づくことをも、固くこばんでいた。

 

―――操・・・・・・・・・・・・・。

 

俺はこの先も操を守れるのか。

蒼紫はただ一度だけでも操の前に姿を現したことを悔いていた。

そして本物の操が、このような目に会うことがないと、どうして言い切れるだろう。

ただ一度の過ちがこんな意味を持つことになろうとは。

 

―――それでも俺は操に会いたかった。

 

ただひとつ見つけた、愛でるべきささやかな華。

しかし、自分が御庭番衆であるかぎり、操に会うことは許されないことだ。

そして。俺の手は血ぬられている。

蒼紫はさっき抱いていた、人形の体の小ささ、軽さを思った。

あの体が息づいて、自分の手の中にあった記憶。

あの記憶。

自分はいつか、流される血でなくしてしまうのだろうか・・・・・・。

 

―――いや、決して失いはしない。

 

蒼紫は思った。誰のためでもない、自分のためですらない。俺はただ、あの操が生きて、生き続けていくためだけに剣をふるう。

間違っていてもいい、俺には他に何もないのだから―――。

蒼紫の目の中に、東屋の焼け落ちる炎が写った。

巴はその蒼紫についに声をかけることができなかった。

―――この方は、私などの入り込む余地もない思いを、何かに抱いているのだ・・・・・・。

だから、あのとき私に手を伸ばさなかったのだわ・・・・・。

巴はさびしく思った。

―――私はでも、この刀とともに、忍びの女として生きてみせます。

それがあなたへの、私の思いなのです。

巴の頬をゆっくりと涙が伝い落ちた。

東屋は炎をあげて焼け落ちていった。

京に上ってから、巴は日記を付け出した。

ひとつは任務のため、もうひとつは自分の気持ちを見つめなおすためであった。

だがしかし、巴は御庭番衆のことや、蒼紫のことについては何ひとつ書かなかった。

いつかこの日記を、抜刀斎が見るかも知れない・・・・・そう思った巴は、書くのをやめたのであった。

緋村という男は、話にあるとおり、少年と言ったほうがいい剣客で、巴はすぐに彼に慣れた。

―――子供。

抜刀斎について、巴が思ったことはそれであった。

まだ、何者についても、よくわからずに剣を振るっている少年。

このような少年に清里は殺されたのだ。

そう思うと、巴にはすべてが取り返しのつかないことに思われた。

桂小五郎の提案するままに、大津の山里に身を隠した巴は、抜刀斎と本物の夫婦になった。

―――さようなら、私の愛した二人目のあなた・・・・・・・・・・・・・。

巴の心に、しずかに雪は降り積もっている。

あの方は私を愛さなかった。どんなに私が愛していても―――あの四乃森蒼紫という人は。

清里も、抜刀斎も私の体を抱いたのに――――。

そう、私はそれを知っている・・・・・それは愛ではないと。

それは愛ではない、ともう一人の私が私に諭している。

巴は今、静かに雪を踏んで、闇の武のアジトに向かっていた。

追ってくるだろうか―――あの緋村抜刀斎は。

人を斬るにそぐわないやさしさを秘めたあの剣客は―――。

私は、と巴は思った。

手近なやさしさに身をひたしてしまいました。敵なのに、私を守ると言ってくれました。

そのやさしさに私は今、殉じたい・・・・・・・・・・・・・。

 

それから月日は流れた。

蒼紫は観柳の屋敷にひそんでいた。

あの女―――雪代巴が抜刀斎の妻に納まった、という話を聞いた時、蒼紫の心にあったのは失望の念であった。

女とは、そうしたものなのか。

夫婦となり、三ヶ月は一緒に暮らしていたという。

自分の婚約者を斬った男と―――確かに雪代巴は、婚約者の清里をこころよく思っていないことを、あの時自分に告白していた。

しかし、と蒼紫は思うのだった。

それでも自分の婚約者ではないか。

自分はあの時、抜刀斎の寝首をかくこともできるだろう、との含みをもたせてあの懐剣を与えたのだった。

巴はそんなことをする由もなく、三ヶ月以上も抜刀斎と平安のうちに暮らしていたという。

蒼紫はそれを思うと、自分の思いを汚されたような気がするのだった。

そして、だからこそ、あの緋村抜刀斎を自分は許すことができない、と思った。

雪代巴のことはそのきっかけに過ぎない。

何人の幕府方の人間をあの男は簡単に切り捨てたことか。

―――来るがよい。

自分は一度だけ幕末に抜刀斎と戦ったことがあった。

その時は抜刀斎に敗れた。

今回もまた敗れるかも知れぬ。しかし、俺はあの男と戦ってみたいのだ。

 

そしてまた月日は流れ・・・・・・。

 

「これ、薫さんがほしいって言った日記だよね、巴さんの。」

操は巴の古びた日記をかかえて叫んでいる。

「ああ。」

とだけ、蒼紫は答えた。

操に言うべき言葉は見つからなかった。

自分の思いを裏切った女の日記だ、とはいかな蒼紫といえども言えるセリフではない。

これから東京まで操とともに旅をする・・・・・。

あの頃の自分では思いもよらなかった出来事だった。

今は許されて、操のそばにいる。

いつもおまえのことを思っていたよ。

けしてそれは言葉にしてしまえるのではなく。

 

―――操、おまえは俺の母のように・・・・・・・・・・・・・・。

 

蒼紫は思った。

それを自分は操に告げなくてもいいのだ。

なんと長い道のりであったのだろう。

操は何も知らず、ただ無心に自分の名を叫んでいる。

「蒼紫さまーっ、はやくーっ。」

その姿を蒼紫は胸に刻み付けた。

ずっとおまえのことを祈っていたよ・・・・・。おまえが俺を知らないうちから・・・・・・・・・・・・・。

 

この幸せを壊したくない。

 

そう、だから巴も抜刀斎との平穏な日々を選んだのだ―――俺はそれを責めることはできない、今は・・・・・・・・・・・。

 

蒼紫は操を追って、寺の階段をゆっくりと下りていった。

 

 

 

―完―

御影華

今回、まずあやまらなければならないことがあります。

最初の登場人物紹介であげた、翁の出番をまったくつくれなかったこと。

他にもたくさんあるでしょうが、まずこれは明らかに私の力不足です。どうもすいません、翁の出番がなくなってしまって。翁はもちろんこの設定でも、今は京都にいるはずなので、どうも出番を作れずに終わってしまったのです。巴と抜刀斎が出会う場面の周辺で出そうと思えば出せたのですが、そこまでこの話をひっぱる自信がなくなったのでした。

 

それから、蒼紫×巴ですが。エッセイでは、ああ書いたのですが、結局こういった、巴の片思いにしてしまいました。蒼紫も巴のことは憎からず思っていたはずなんですが、やっぱり蒼紫はまじめなんで、書いているうちにどうしても巴に手を出すという話にはならなくなってしまいました。製作ノートでは、「ここで巴を抱く?」みたいな走り書きのメモもあったのですが、なんか今回はダメになってしまって・・・・。蒼紫っていい加減な生き方をしない人なんで、やっぱりこの場合、一度断ると言った以上は抱かないだろうと。でもキスはしているので・・・・・・それだけでも、うちを訪ねて来てくださる方にはブーイングの嵐だと思いますが。でもどうしても、書きたかったので・・・蒼紫巴・・・・。書いていてうまくないなぁ、と思ったのは、操の死体が外法で出てきたとき、もっとショッキングにしたかったんですが・・・・・やっぱりこの程度ということになりました。殺陣なんかも前作に比べて、ずいぶん簡単なおとなしいものになっています。

 

やっぱり島原編はもともとの、脚本家の方が作られたしっかりした箱があるので、書きやすかったですね。島田満先生はやっぱりうまいです。あー、それからそれから・・・・今回は敵キャラが死亡していてすいません。蒼紫、やっぱり殺しました。殺さないでおこう、とか考えていたんですが・・・・・。次回はあんまり殺さない話になるといいです。でも忍者ものを続けたいから、多分無理かな・・・・。次はこういう、るろ剣の枠の中の話じゃなくて、もっと飛躍した話を書こうと思います。だって皆さん、ドリーム小説書いてらっしゃいますし。今までマジメにるろ剣の枠内で書いていたのですが、次はどうなりますかね(笑)。

 

今回はBGMとか考えずにひたすら、OAV追憶編のいい雰囲気を出したいなあ、とそれだけです。巴さんの白梅香の香りがまったく出てこないのは、巴さんはこの頃はあの香水をつけてなかったんですよ。やっぱり剣心に近づくときに、あの香水を選んだんじゃないでしょうか。色街の香水ですし。それでは。

 

2004年3月26日  おだまきかこ拝

御影華

【完結作品】るろうに剣心の追憶編の前の話として書いた、過去話です。蒼紫と巴のなれそめを書いたつもりですが、今ではこの設定はあまりよくないと考えており、新しい過去話の話「山霞」という作品を執筆しています。それはまだ執筆中ですので、あげるのはもう少し先になると思います。これは蒼紫操の要素も少しあるので、お好きな方にはいいかもしれないです、巴が出てきますが。

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