島原編 暁

島原編 暁

1997~2003年作品

慶応二年春

月が翳った(かげ)

 

みるみるうちにぬばたまの闇を増す城の城壁に、孤影が四ツ、降り立った。

「蒼紫、ゆくぞ。」

蒼紫と呼ばれた中の一番年若い青年が、その言葉にうなずいた。

「この仕事は公儀隠密の仕事としては、なかなかのものになりそうだ。命令はたいした任務ではないが。」

言葉を切ると、いかめしい風貌の老人は、じっと城の方をうかがった。

 

公儀隠密――この言葉が青年の脳裏に刻まれるようになって、既に久しい。

この言葉を「公儀」と「隠密」に青年は分けて考えるようになっていた。

自らのいる山里に命令を告げに来る男らは常に、「御公儀の故に」と言い、それに対して今先に立っている御頭や自分たち仲間は平伏し、秘密裏に事を運ばなければならなかったからである。

つまり、自分たちは、「隠密」に過ぎない。

そして命令を告げに来る武士らは、蒼紫らを「下人」と呼んでいた。

 

「しかし、御頭、御公儀も我々にこんな仕事を頼むとは、よほどせっぱつまっておりますな。」

般若の面をつけた男が低く言うに、老人は片手でさえぎり、

「ここからはわしと蒼紫で行くとしよう。般若と癋見(べしみ)は陽動を頼む。」

言うなり、御頭と呼ばれた老人と青年は、闇の中に身を躍らせた。

二人は一分の隙もない動作で城壁をつたい進んで行く。

それを陽動役の残った二人が見やり、感嘆の声をあげた。

「初陣であれとはねぇ。いや見事なもんだぜ。」

癋見が――二人の男のうち、小男の方だ――が言った。片方の男は能面の般若の面を顔につけた、異様ないでたちだ。

「癋見、初陣と言うのではないぞ。御頭は仕事にはいつもあれを連れて歩いていたではないか。私などもあの者がいなければ、今ごろ御頭に殺されていただろう。あれこそ神依りの化身よ。」

「へえ?あいつがおまえさんの命乞いを?あの木石で心根ができているような奴がねえ。」

と言うが早いか、癋見は般若に首根をつかまれた。

般若は言った。

「貴様に言っておいてやろう。その昔、御頭の剣をはじいたのだよ。無言でな。貴様にそんなまねができるか。口をつつしめよ。」

「ヘッ、あいかわらずキツイぜ。」

癋見は首をすくめると、かねての手はず道理か、般若とは別方向の闇に消えた。

しばらくして城の見回り組みのうちの何人かが何者かに倒され、それを発見した所から小さな騒ぎがはじまっていた。「何者かが城の内部に侵入しようとしておるぞ」――と。

しかしすでにその時には侵入は果たされていたのである。

城の奥深く――しかし城内ではない、御頭と蒼紫の二人がたどりついたそこは、隠された中庭に新しく建てられた物置小屋風の建物であった。

札が入口にはかけられていた。

御頭が低くつぶやいた。「火気厳禁。」――

青年がピクリと顔をあげた途端、横あいから城内の武士が「曲者見つけたり」と斬りかかってきた。――がその瞬間。

 

武士の胴体が無残にもはじけ飛んだ。

老人の御頭の体が宙を切って、どのような技をもってしてか数回駿速にて回転したのであった。――回転剣舞・六連。

血煙舞う中で、面を崩さず、青年は心中で冷静に数え上げていた。

つけ加えるならば、自分にはまだ、未完成の技。

「入るぞ。ゲベール銃を出される前に盗らねばならぬ。急げ。」

二人がこの日盗みだすつもりのもの、それはここ、肥前佐賀藩が執念の思いで完成させたアームストロング砲の設計図面である。

正確に言うとその「写し文」だ。

情報筋から来た情報ではそうだった。

むろん藩内部でこの情報を売った者がいる。

実はこの最新式砲門を長州藩に譲るという話がすでに、浮上していたからである。

長州の暗躍を「見過ごせぬ」佐幕派がこの藩にも少しはいたという事か――しかしそれらは、彼ら御庭番衆にとっては「どうでもいいことがら」であった。

目的のものを幕府に渡せば、それでよい。青年もそう固く信じていた。

「あった。」

青年が小屋の中で御頭に合図をした。

見ると、絵図面が入った文書を長持ちの中から出していた。

「たしかにそれか。」というのに、彼は小さくうなずいた。

青年は訓練で夜目がきいたし、外国語が読めたのである。

このような日のために学んだと言っても過言ではない。

設計図に書かれた細かな英文を、彼は読んだのである。

と、その時――。

外で突然砲声がした。

特徴のある風切り音だ。

瞬間、青年は文書を小脇にかかえて身をひいた。

「アームストロング砲!」

老人が叫んだ時には遅かった。

物置小屋に砲弾が命中していた。

青年は心中で叫んだ。

――御頭!

青年は身軽に城壁へ出ると、殺到してくる武士を片端から小太刀で斬りくずし、、文書を懐に入れ、ましらの如く草原へと駆け抜けた。

そして指を口にくわえると呼子笛を低く一度だけ吹いた。

小鳥の鳴き声のようなそれを合図に、他の忍者の影もすすきの原を分けて、城から戻ってきた。

「御頭はどうした?」

「死んだ。」

青年は般若に短く告げると、城の方を眺めた。

うす暗い中に、小さくまだ火の手が上がっているのが見えた。

試し撃ち同然の的にされたらしいとわかると、青年の冷たい瞳にも燃え上がるものがあったが、その一方で、この文書を間違いなく幕府の役人に手渡さねばならぬこと、そして今見た光景をしっかり目に焼き付けておく必要があることを考えていた。

――何処から狙ったのか。しかし一砲目ははずしたな。

 

慶応二年(一八六六)年春――四乃森蒼紫、十七歳の時の出来事である。

 

それから約二年後、―――北陸の小村、春…。

巻町操は六歳になっていた。

 

「母さま、雪が―――」

「そう、まだそんな季節なのね。操、縁がわで本を読むと風邪をひきますよ。」

「はぁい」

操は父にねだって買ってもらった絵本と折り紙を手で寄せると、囲炉裏端で縫い物をしている母の傍によった。北陸の春は、

まだ寒い。器用に動く母の手元を見つめながら、操は甘えた声を出した。

「ねぇ母さま、この本あんまり面白くない。」

「え?なぁに。操の好きな源九郎義経さまでしょう。」

「だって…だって弁慶が義経を殴っているんだもん。そんな場面しか出てこないんだもの。父さまの選んだ本なんて。」

「ああ、安宅の関ね。父様、勧進帳なんか。まぁ金太郎にでもすればよかったのに。」

母の縫はおかしそうに笑った。

操はムッとして、絵本をたたんだ。

縫はあわててとりなした。

「でも安宅の関はね、操、この近くなのよ。」

「京都よりも近く?」

「五条の大橋よりも近くですよ。」

そこでぷつんと歯で糸を切ると、縫は「もう寝なさいね」と真顔になって言った。

操はしぶしふ寝床にもぐりこんだ。

まだ眠くならないし、言い足りないことがあった。

「ねぇ母さま。あの本には静姫が出てこなかったんだけど、静姫って白拍子だよね?」

「そうですよ。」

「白拍子って芸者とおんなじなの?」

「誰かがそんなことを言いましたか?」

「だって…向かいのおばさんとこの子供がそう言ってたんだもの。」

「母さまは芸者とは少し違うと思いますよ。」

「そう…それならいいんだけど。」

「さあもうおやすみなさい。」

 

母の縫はふすまを閉めて出て行ったが、

操はこの夜のことは断片的にだが、覚えている。

父が二度と戻らなかった夜―――。

 

「操はもう寝付いたか。」

「はい。」

操の父、巻町玄播が縫に言った。

「今夜は折り入って話がある。」

縫は気丈な調子で答えた。

「覚悟しております。官軍がもうすぐそこまで来ているとの事でございますから。参挙いたさねばならぬのでございますね。」

「北越ででもやらかすとはあきれたものよ。しかし長期にわたる戦いにはならぬと聞いている。上の方が乗り気ではないのだよ。いや、それよりも縫、少し込み入った話をしておかねばならぬ。私がこの巻町の家に郷士として迎えられた時にしておくべきだったかも知れぬが―――」

「なんでごさりましょう。」

「私の家のことだ。今朝、このような落し文が家の前に落ちていた。」

巻町縫は凝視した。

「それは―――」

「私の父の手蹟のものだ。ただし父は二年前に客死したと聞いている。さる―――京都の老人からの手紙で知ったのだが。」

「どういうことなのです。私、あなたさまの御家族のことは何も。」

玄播はため息をつき、言った。

「父の話はしたくなかった。一種の―――やめよう。私の才が至らなかったせいでもある。」

「お話くださりませ。お願いしたいます。だってこれはまるで―――果たし文のような。」

言いかけて、縫はハッとし、言葉をつぐんだ。玄播はしかし、気にかけずに言葉を続けた。

「おまえもそう思うのか。実は私が浪人として、この地に流れてきたのは―――私が父から破門同然の扱いを受けたからなのだ。」

「では―――あなたさまは元は御武家の出で、破門されてこの北越へいらした。」

「そう思っていてもらえれば、嬉しかったよ。そんな良いものではない。もともと父は、江戸城付きの御庭番衆の頭目で―――」

縫は大きく目を見張った。玄播は続けた。

「私はその後継者だったのだ。だが父は一種剣にかけては天才と言ってもいいほどの狂人で―――私には自分ほどの才能が認められないというだけで、私を破門にもっていった。―――いや、ちがう。ちがうのだ。」

膝の上に置かれた玄播の握り締めた手が震えた。

「父は業が深い男だった。結局子には子なりの幸せを願い、つまり自分の血筋のものは残して、その上で自分の才能の後継者を得ようとしたのだ。世間並の考えの者ならばどちらかをあきらめるところを、父はあきらめなかった。だからこうなるのだ。」

沈黙がしばし流れた。縫は畳の上の落とし文に目をやりながら、言った。

「その方がなさったという確証があるのですか。」

玄播は縫の思慮に驚きつつも、はっきりと答えた。

「ある。私は父のその後継者の者と手合わせをして負けた男だからな。その頃はまだ子供だったが。」

「子供―――!?」

「ある御家人の一人息子でな。その子供の父親もそこそこ腕のたつ男であったが、藩内のもめ事に巻き込まれて腹を切った。母親が少ない扶持からなんとかこの子を育てようとしたが、病が嵩じてな。亡くなられた。」

「では、その子は孤児ではありませぬか。」

「父や父の仲間は、そういった者を探すのが得意なのだよ。しかし憐れみは不要だ。今思い返しても、ゾッとする、底冷えのする目をしていた。父親を切腹させられた恨みとでもいうのか、父から剣を習ったせいなのか―――」

「では私たち親子のことも恨みに思っている―――?」

「かも知れぬ。父が死んで久しいしな。父の後任はほとんどその者がとっているという事だ。京都の翁が手紙を私に寄越してきた。今では単なる御庭番ではないらしい。昔は講武所であったところが、今では陸軍所になっているとの事だ。」

縫は小さく首を横に振った。

「よく―――わかりませぬ。一度にたくさんのお話で。ではその方は、あなたさまのお父上が、養子同然にされた方なのですね?」

玄播は縫の問いかけを即座に否定した。

「養子ではなく、師弟だよ。単なる。父とは才能だけで繋がっていた、十九になるかならぬかの若僧だ。」

縫は冷や水を浴びせられたような気持ちになった。

「やはり…たくさん人を殺めたり。」

「当然だろう。ああいう役についた者は。だから、私は嫌だったのだ。」

 

二人の間に沈黙がしばし流れた。

縫はしかし、勇気を振り絞って顔をあげ答えた。

「わかりました。私も武士の娘でございます。操は守り抜きますから、後の事は御心配召されますな。」

「縫。すまない。なに、奴らは脅かしているだけだと思う。時局が収まったら、幕府の犬だ。何処へなりと流れて行くだろう。今の御時勢では、幕府の御威光も沈むばかりだ。」

「はい。」

「奥羽越列藩同盟も何処までもつか。官軍は軍艦も用意して来ているとの話だ。本当はこちらの方が心配なのだがね。早くあらの上の方で、話をつけてもらいたいものだ。でなければいらぬ民草の血が流されることになるからな。」

「‥‥‥‥」

 

それから一ヶ月。

夫の玄播は城から戻ってこなかった。

風のたよりに、長岡の戦線が篭城策を取っているとの噂であった。

縫は操と玄播の無事を祈る毎日であったが、異変は突然に訪れた。

 

「官軍が‥‥‥官軍が攻めてくるぞーっ。」

 

初めはそんな声が遠くから聞えてきた。

縫は家の外に出た。

すると、村長である老人が、息せき切って走ってきた。

「た、大変じゃ。昨日の晩ここを官軍の部隊が通過したらしいんだ。それを知った幕軍がよくも通しやがったな、って村の者を斬っているらしいんじゃ。あんたも早く逃げなっせえ!」

老人が走ってきた後ろを、バラバラと何人もの村人が家財道具を背負い逃げていった。

「そんな―――」

縫は思わず山の方を見た。昨晩確かに不審な灯がそこを通過していったのが見えたが、それが官軍とは思いも寄らない。それに―――。

「最初に官軍が攻めてくるって声がしたわよ。」

老人は激しくかぶりを振った。

「奴らの手じゃ。やってくるのは、ならず者の下っ端どもじゃ。米や銭をかすめ取って歩いとる話じゃ。何処から来た連中か知れたもんじゃねぇ。早く逃げるんじゃ。」

老人はそれだけ言うと、次の家の戸を叩きに駆け出した。

縫は急いで土間を駆け上がった。

操が尋ねた。

「どうしたの、母さま」

「おさむらい達が攻めてくるの。逃げるのよ!」

手元にあった金と米袋衣類などをかき集め、背中にしょうと、縫は操の手を引いて裏口から外に出ようとして息を呑んだ。

血刀をぶら下げた男が二人、裏口に立っていた。操は悲鳴をあげた。

「母さま!」

男の一人があごをしゃくり、言った。

「おい、女と娘だぞ。あの子供は子取りに売れるんじゃねぇか。」

「そうだな。」

「やめて―――!」

縫は必死で抵抗の構えに出た。

護身用の懐剣を懐から引き抜いていた。

「そこを通しなさい。さもなくば、斬ります!」

「面白い。やってみな。」

縫は激しく斬りかかった。

しばらく男と斬りあっていたが、その時裏口の前に馬に乗って駆けてきた者が声を張り上げた。

「何をしている。さっさと金目のものを奪い取ってずらかるぞ!」

男は獰猛に叫んだ。

「よしきた!」

言うが早いか、残っていた男は縫を袈裟掛けに斬り下ろした。

「あ―――――!」

操は小鳥のように叫んだ。

「母さま!」

男達は二人を残し、疾風のように消え去った。

「だれか‥‥‥‥‥っ!」

縫は戸外にまろび出た。

夜盗と化した一群は、家屋を物色し、村人を無差別に斬りながら逃走していっていた。

この間に操を連れてなんとか‥‥‥!だが縫は数歩歩いたところで道の端にうずくまった。右胸からおびただしい血が流れ出してきていた。

斬られた傷が激しく痛み、気が遠くなってゆく。

――そんな、私が、私がここで死ぬなんて‥‥‥‥!

「母さま、母さま!」

操は必死で縫の体を揺さぶった。しかし少しも体が動かなかった。

「死んじゃいや、死んじゃいやぁ、母さま―――!」

 

それからどのくらい時が経っただろうか、もう暗くなりかけた縫の瞳に、誰かが道の真ん中で立っているのが映ったのは―――。

 

――誰‥‥‥?玄播なの‥‥‥?

縫は夫の玄播が帰ってきたのかと、薄く目を開いた。

見知らぬ青年が一人、目の前に立っていた。

青年は片膝をつくと、低い声で口早につぶやくように言った。

「巻町玄播殿のお内儀であらせられるな。」

「だ・れ‥‥‥?」

と、相手は縫と操に向かい、答えた。

「元江戸城付御庭番衆頭・四乃森蒼紫。巻町殿のお父上には生前世話になった者です。御内儀には申し訳ありませんが、長岡の戦線で巻町玄播殿は戦死なされました。」

「な‥‥んですって。」

縫の目が悲痛に大きく見開かれた。

だが青年は嘘を言っている様子ではなかった。

青年はたいそうつらそうな面持ちで、目を伏せて続けた。

「私は故あってその事を是非お知らせせねばならぬと思い、馳せ参じましたところ、このような事になっておられて、たいそう驚いております。」

相手はまるで報告書でも読むように、縫に向かって早口にこう言った。

しかしこの場に居合わせるのが、たいそうつらいというには変わりない様子であった。

縫は走馬灯のように、玄播から聞いた話を思い返した。

――これがあの玄播の話にあった、若者か。でもあの話にあったのとは、違うような‥‥‥。

縫がこの青年がいるのを認めた時、墨染めの黒装束の忍び服を着ているにもかかわらず、薄い紗綾をかぶせたように、周囲の空気から浮き上がったような光芒はなっているように思えたのは、一体どうした訳なのだろう。

それは死に行く縫がこの者に、わずかな望みをつないだせいだけだったのだろうか‥‥。

縫は切れ切れに言葉を吐いた。

「そなたに‥‥頼めますか‥‥‥?」

青年がわずかに顔を上げた。

縫は息をつきながら、静かにささやいた。

「頼みます‥‥‥この子を‥‥‥操を‥‥‥‥新潟まで‥‥安全なところまで、連れていって‥‥‥‥!」

最期の方は、涙で言葉にならなかった。

縫はそこで大きく息を吐き、事切れた。

操は縫の体に取りすがって号泣した。

しかし、やがて―――。

空にははや月がぽっかりと浮かんでいた。

青年は操が泣き止むまで待っていたのだろうか。

 

「おいで。」

 

幼い操は、差し出された手を凝視した。誰なんだろう、この人は‥‥‥知らないけど、綺麗な人―――まるで絵草子から抜け出した人みたい。

操は知らず、手を引かれて歩き出した。

一度振り返って見た時、母は道端で眠っているようだった。

それから数日後、操は大きな町に出た。

どの町だったかはわからない。

海べりのその町は、灰色の塊が眠っているようで、青年の仲間の男達が幾人か操達を待っていた。

沖には何艘もの黒い船が停泊していた。

さながら一幅の墨絵のように、操はその光景を覚えている。

尋ねた操に、

 

「官軍の軍艦だ。」

 

と青年は短く低い声で答えた。

旅の間も青年は無口で、操はその頃には彼の他の仲間と同じく、青年を「蒼紫様」と呼ぶようになっていた―――。

操は目を覚ました。

――私は今、京都の葵屋にいる――あの頃のことを今夢に見るのは、何故かわかっている。

 

自分は寂しいのだ――あの十本刀と戦って勝利し、あの人も戻ってきたというのに、あの人は決してもう昔みたいに私を見ようとはしないからだ。

昔みたいに。

あの「おいで」と呼んでくれたあの頃みたいに。

あの時私はまだ六歳だった。

 

操は天井を見つめ、むくりと布団から起き上がった。

私もう十七歳になるんだわ。

 

どうしてこの考えが、頭の上で重苦しくのしかかってくるのか、操にはわからなかった。

彼女は本能で感じている。

昔に比べて鼻筋が通ってきた自分の顔、大きくなってきた自分の目、スラリと伸びだした脚や手、なめらかになってきた肌の曲線。

けど、それらの存在が彼女の「蒼紫様」に向かうと、こなごなに無価値にものとして、打ち砕かれてしまうような気がするのだった。

また、彼女の「蒼紫様」が、そこにのみ彼女の存在価値を見出したとしたら、心が裂けてしまう気がするのだった。

 

だってそれだと、私に「おいで」と言ってくれたあの優しい「蒼紫様」は、はじめからいないことになってしまうもの―――。

 

幼い自分が胸の中で叫んでいた。

操は障子を開けて夜気のおりる廊下を歩いた。

水が飲みたいと思った。

京の町屋は奥に深い。葵屋も例外ではなく、操らが暮らすお勝手の廊下の突き当たりにも中庭がある。

中庭から見える中空には、白い玄月がかかっていた。

さらに行ったつきあたりに井戸と水のみ場がある。

操は思った。

 

――そう言えば、蒼紫様の包帯をもう、翁はとりかえなくてもいいんだわ。

 

そう思ったのは、店中にこの間まで漂っていたヲキシフルの匂いを今ツンとまた、鼻にかいだせいかも知れなかった。二日前までいた剣心らは、十本刀の志々雄とやりあったせいで、体中傷だらけで、特に弥彦はかわいそうだった。と、操はふっと少し微笑んだ。恵さんは容赦なく消毒薬を刷り込んでいたっけ。あの人、しっかりしていたなあ。でも、あの人―――操の水のみ場のひしゃくを持つ手が止まった。

 

なんで蒼紫だけは診たくないって言って、障子を開け放って出て行ったんだろう。「悪いけど操ちゃん、葵屋さんは葵屋さんだけで面倒みてあげてね、これお薬だから」って、私の手に薬ビンだけ渡して。

 

翁がその薬瓶を操の手から取ると、蒼紫の部屋へ一人で行った。「おまえは来るな」と言い残して―――。それから二週間。毎日翁は左之助たちと酒盛りやっていたけれど、翁はずっ蒼紫様の傷の具合をみていたんだ。時々私は―――操は思った。

 

時々私は、みんなから取り残されている。

 

翁は多分知っている。東京に居た時の蒼紫のやっていた事。本当は全部―――あの恵さんも、東京から来た美人の女医さんも、蒼紫の事知ってたみたいだった。私は―――知らないでいた方がいいんだろうか。全部は。薫さんの話だと、剣心と対決したって事しかわからなくて…。

いつからだろう、蒼紫様との距離が開き出したのは…。

 

蒼紫とその仲間の式蒸や般若たちは、操をこの葵屋に預けてからも、半年に一度ぐらいは顔を見せていた。さかんに全国各地と東京を行ったり来たりしている様子だった。あれは、明治の六年ぐらいまで…あたしが十二歳位の時まで…御一新で預けられてから、ほぼ五年間。蒼紫たちは、影のように操の支えになってくれていた。でも、そのある時―――と、操は思い出していた。

操が翁に習って花を生けていた時のことだった。花器を床の間に飾っておいたら、夕刻になって軒に花が一本一本全部抜いて半紙の上にきれいに並べられていた。花器の水も全部捨ててあった。

「ひどい。翁、いくら下手だからって―――」

と言って、操が振り返ると、後ろで翁が棒をのんだようになって立っていた。とても嫌なのを見たような顔をしていた。あの時、蒼紫たちは帰ってきていた。翁は私が般若君の教えで、はじめて手裏剣を投げてみせた時も、あんな顔をしていたな。

あと、赤いぽっくり下駄が。

操は瞬間身をちぢこめた。

いや。あれだけはいや。あたしが履いていた、六ツの私が履いていた、赤いぽっくり下駄が、とても綺麗なままで、やっぱり白い紙に乗せて、箪笥の上に置いてあったの。みんながいなくなった時―――蒼紫様がずっと隠して持ってたの?ダメ。バラバラになってしまう。綺麗な丹塗りの赤い下駄。あの時蒼紫様は、二十七歳ぐらいだった。あの花みたいに、バラバラに―――私は私の「蒼紫様」に戻さないといけないの。

と、そこまで考えた時、突然に操の目に涙が湧いてきた。ある感情が不意に忽然と、彼女を襲ってきたのだ。

 

――どうして。どうして、くやしいの。何に向かってくやしいの。去っていったあの人たち…剣心たちに私たちは、決して勝てなかったから、くやしいの?でもあの人たちは仲間なのに―――私たちの命を救ってくれたのに、蒼紫様を救ってくれたのに、どうして私はくやしいと思うの。

 

操は小さく震え、そっと腕で涙をふいた。

こんな涙は誰にも見られたくなかったのだ。

目無し

沢下条張は五月の夏の蒸し暑さの中を、京の、七条大橋の上から西に向かって歩いていた。橋のたもとに七条警察がある。そこから出て葵屋へは二条城の東だから、ちょっとした距離になった。

―――ちょッ、めんどくせえ。斎藤のヤロウ人をこき使いやがって。俺ァあのくそ生意気なガキどもの顔はもう、おがみたあらへんのに。あの店のじじいもうるさいしなぁ。左之のアホゥは東京へ戻っていんでしもうたしな。くそ。やりにくいやないけ。

張は鴨川の流れを少しぼんやりと眺めると、肩をいからせて歩き始めた。

斎藤、おらへんのに、あいつも東京へいんでしもうたのに、きっちり命令だけは出しよる。さすが元新撰組っちゅうかいなぁ。それにひきかえ志々雄さんはホンマによかった。ぶらぶらしとっても何も文句言わへんかったし、やっぱあの人の方がホンマもんの男やったなぁ。この筋まっすぐ行ったら由美姐のいた島原や。黒門でもおがまんことには、やっとられんわ――――。

しかし張は、次の横丁を北に曲がった。心の中では悪態をついていても、存外任務には忠実なのである。またそうでなければあの志々雄真実も、自分の部下の十本刀に張を加えなかったし、斎藤も自分の持ち駒に張をとらなかっただろう。しかし不思議なもので、張はそういう己の性分には気付いていなかった。

俺も、あの鎌足ぐらいの才覚の一つもあればな、と思いながら、張は暖簾をくぐった。海外留学生か。あいつは今は外人さん相手の気楽な商売やからな―――わいも外人やが、わいの場合は相変わらずシノギや。

「ごめん。だんさんはいたはるか。」

奥で不機嫌そうな顔をした娘が、帳面から顔をあげた。

操だ。小麦色の肌に明瞭な大きな瞳に小さな鼻と唇、相変わらず黒髪を細いひっつめの三ツ編みにして後ろに垂らしている。張はこの娘が苦手だった。汗くさそうな日に焼けた小娘。

―――こいつ、ひとつの世界を築いとる。

張はそういう言葉で操のきつい視線をよけ、言った。

「わるいけどあんたでは話にならんのや。斎藤先生からの用向きやて、じいさんに伝えてくれへんか。」

「斎藤。あいつ生きてたの。」

「なんやて。よう聞こえんかったなあ。わいはじいさんに話があんのや。」

なんやこいつ、斎藤のことよう知っとったんかいな。得体が知れへんところあるしな―――と張は、奥に消えた操を目で追った。あんなんでも女なんやなぁ。と、張は思わず一人ごちた。「ええ女だけが旅立ってしまうんや。」

「待たせたのう。まあぶぶ漬けでもひとつ。」

そこへ翁が現れた。切り口上で、目が笑ってない。張は大声になった。

「アホ言え。わいかて来たくて来とんのとちゃうぞ。おまえらが危ないっちゅうから来とんのじゃボケ。」

張は奥の日本間に通された。

「翁、お茶。」

操がやや乱暴に湯のみを机に置いた。

「この葵屋も無事修復を果たし、緋村君たちも無事東京へ帰り、悪賊志々雄一派は一網打尽に倒された。これ順風満帆と言わずして何であろう。沢下条君、いつぞやの白べこでの君の高説にはこの翁、感涙ものじゃったよ。で、今日はその続きを聞かせに来てくれたのかね。」

翁の言葉にフン、と張は横を向き、ふところから一通の書状の包みを取り出した。

「まずおまえらに見せんのはこれや。脳天気におまえらはそこで生きとってくれや。」

と、書状を畳の上にパシッと置いた。翁は目を見張った。

「なんじゃこれは―――。」

「逮捕状。ただし、執行猶予がついとる。言っとくが俺が作ったんとちゃうからな。斎藤がとりおった。」

「緋村君なら東京じゃぞ。」

張は思わず声をあらげた。

「何であいつに逮捕状がくんねや。おまえとこのクソ生意気なガキしかおらへんやろ。ま、俺らに関わるからこういう事になるねや。わい、鎌足からはじめて話聞いた時から、アホな男やなあと思っとったさかい。鎌足、あいつ、あたしにとっては無理めの男ね、とか言っておまえんとこ襲うのに決めたとか言うとったし。アホすぎて死にそうやったわ。あいつもアホな男やけど、おまえんとこのこいつが一番アホじゃ。」

「なんですって。」

と操が叫ぶのを、翁は制して言った。

「操、おまえは下がっていなさい。」

翁は操ほど動揺していないようだ。腕組みをしながら翁は言った。

「で、その逮捕状じゃが、君が持ってきているという事は、人手不足という事になるのかのう。斎藤一、元新撰組三番隊長は今はお留守かね。それともこれは俗に言うアリバイかのう。」

「なんやそのアリバイっちゅうのは。」

「何かあれにやらせたい事があって君が来たとみたが、ちがうのかのう。できなければ首に縄をしょっぴいてでもやらせる――――とまあ、新撰組の流儀から言えばそういう事になるのかの。」

ここで翁は音をたてて茶をすすった。張はあきれた。

「おっさん呑気な顔しとるが、今は明治の世の中やぞ。官憲が来たらおまえんとこの店はもう終りじゃ。」

翁はあごひげをなでて答えた。

「フム。それもいいかも知れん。この翁も京都での長勤め、そろそろ終止符を打ってもいい頃と思っとったんじゃ。君、あれをしょっぴいていくのなら今のうちじゃぞ。最近猫の子のようにおとなしいからのう。まあ相手が君ならどう出るか知らんが。」

「俺は飛天御剣流に負けた男なんぞと殺りおうたない。」

「そう言えば君も負けとったしのう。」

張は肩をすくめた。

「負けたもん同志仲良うするのもごめんや。で、簡単に言やあ一度サツに顔出せっちゅう事や。」

「それだけで済むとも思えんのう。ま、この件は了解した。」

「当然や。あ、わいはサツにはいとらへんさかいに。警視庁からなんやわけわからんのが来とるわ。そいつが斎藤の代わりに話するてよ。」

「なるほどの。まあ今日はゆっくりしていきなさい。」

帰れとも言わずに翁は席を立った。が、張にはわかっている。京でこの言い草は帰れっちゅうのと同じことや。張は机の上の茶を一気に口の中に放り込んだが、あやうく吐き出しそうになった。

「なんや。出がらしの味や。」

あの小娘、と見回すと、通された日本間からガラス障子越しに中庭が見えた。

「ヤッ、ハイッ。」

と気勢をあげながら、白木のくいに小娘――操が手裏剣苦無を無心に投げていた。そのずっと奥に竹矢来があり、その裏に小さな離れがある。そこに一人の男がこちらに背中を向けて、座っていた。何か経机に書籍らしきものを置いて読んでいるらしいが、あいにくふすまで半分遮られていて、よく見えない。

―――あれが四乃森蒼紫っちゅう男やな。おるんやったら出てきて話せんかい。

張にはしかし、この場の図が何とも奇妙な光景に思えた。こちらに背を向けた男は、中庭の操を黙殺しているようなのである。また操も無関係に己の技を磨いているらしい。

―――なんや変な空気が渦巻いとるな、ここは。

張は座布団をけって立ち上がった。かの漱石先生ならば、「非人情の世界」とでも表現するであろう世界だが、あいにくと明治十一年春、庶民派の張にはそんなことはわからない。

―――あんなんでもひとつ屋根の下で暮らしてるんやさかい、夜は乳繰り合っとるんとちがうんけ。

と、春画的興味でこの場面を結論づけた。さらに張は蒼紫について品評をくだした。

―――ま、由美姐みたいな女は相手にできんちゅう事やな。鎌足もバカにしとったしなあ。こいつらにないもんであの娘にあるのは、いわゆる若さだけや。つまり、それだけの男っちゅうことや。

「アホらし。」

張はうそぶきつつ、暖簾をくぐり外へ出た。

張は蒼紫の剣心との対戦の話を、実は瀬田宗次郎からのまた聞きでしか聞いていない。

「僕もよく知らないんですが、――――多分同じ技で負けたんじゃないかなあ。」

とだけしか知らないのである。それを男女関係にまで置き換えて理解しているところが張に真骨頂であり、またそういうわかり方しかできない男なのであった。こういう単純なものを信じて生きているところは、あの左之助と似たところもあるが、この天真爛漫さは明らかに蒼紫にはなかった。張は空を仰ぎ見て、店の空気から逃れてせいせいしたように、深呼吸して言った。

「せやけど、ええ天気やなあ。」

操は低くつぶやいた。

「蒼紫様、またいなくなるの。」

「なんじゃ聞いとったんか。」

パチンパチンパチン。

翁は盆栽にはさみを入れていた。操が何時の間にか縁側の横に立っている。操は苦無を握っていた。

―――また始まったか。

剣心らの前では「ワガママ娘とその爺や」を演じていた翁であったが、本心はこれであった。操はこういう時、少しおかしくなる。その血がそうさせる、とは翁は考えたくなかった。

―――しかしあれは、先代からの血じゃな。

翁はこういう事がある度に思い出す。見事に四本の飛苦無を、操が初めてその手から投げられた日を―――その半年後に蒼紫は葵屋を出て行った。―――本来つながらぬ事をつなげて考えてみせるのは、翁の隠密としての習い性であったが、長年人間を観察してきた結果である。観察しきれているとは思ってもいないが、この頃はなんとなく予測できるようになっていた。―――ただし、操に関してのみだが―――案の定、きつい目を光らせて操は言った。

「蒼紫様がいなくなれば、また私が御頭ね。」

「蒼紫がいようといまいと、おまえが御頭じゃ。今の蒼紫も警察へ行こうが行くまいが、半分囚人みたいな生活しとるからの。」

翁は好々爺を演じきってい。操は眉を吊り上げた。

「囚人?囚人なんかじゃないじゃない。ここにいる蒼紫様は、まだ『自由』なのよ。それを、緋村に負けたぐらいでしょっぴいていく官憲の横暴さには我慢がならないのよ。」

『自由』―――操は白べこに出入りしていた間に、この新思想の言葉をおぼえたらしい。翁はたしなめるように言った。

「しかし志々雄一派に加担したという事は立派な国家反逆の罪になる。それを蒼紫は承知の上でやっとったし、わしも届け出こそ出さんかったが、あやうく蒼紫に殺されるところじゃったんじゃ。操、そういった罪はつぐなうべきだとわしゃ考えとる。」

「翁だって蒼紫様を殺すつもりだったんじゃない。罪って何よ。」

「この問題は、一緒にして考えるのはむつかしいが、剣をとる者の宿命じゃという事ぐらいは理解せんといかん。おまえも頭に血がのぼってそんなものをふりまわすのはよくないのう。」

「わたし―――わたしは。」

操は苦無をふりかざして叫んだ。

「そんな事になったら一生斎藤を許さない!あいつを殺してやるんだから―――離してよ。」

翁は腕をつかみ、ようやく操から苦無をとりあげた。

「道をあやまってはいかん。しばらくこれはわしがあずかっとく。」

操はキッと火のような瞳でにらみあげた。目には涙が光っていた。

「翁にはわたしの気持ちはわからないわ!蒼紫様が監獄に入るのなら、わたしも入る!御頭なんかやめてやるんだから!」

言うなり、操はダッと表へ駆け出した。入口でぶつかったお増が、心配気に翁にたずねた。

「操はん、どないしはりました?」

「すぐにまた帰って来るじゃろ。家出といってもそこらしか行かん。」

蒼紫がまだここにいるからな―――と思い、庭からあがろうとした刹那に翁はギョッとした。何時の間にか、奥の竹矢来の前に和服姿の蒼紫が黙って立っていた。気配が完全に死んでいるので、わからなかったのである。翁を見つめている瞳が、貼りついたように動かなかった。翁はそこに何らかの感情を読みとろうとしたが、盾のように黒い瞳は動かなかった。―――翁はあきらめて思った。

―――剣客としては、天性の目じゃな。

そして思った。―――正義がなかったとはいえ、蒼紫は緋村君の何に負けたのじゃろうと―――その時、一陣の風が吹き過ぎてゆき、蒼紫は口をおもむろに開いた。

「明日、出頭する。今まで迷惑をかけた。」

後のセリフは翁の横に立つお近に対して言っているのであろう。それだけ言うと、蒼紫は離れの方に戻って行った。

―――予想通りのセリフを吐くが、何を考えとるのか以前にも増してわからんようになった。あれでいいものか…。

参禅しても、やはり己を切り詰めていったらしい。それはあの、何があっても己を善に導き善なね光を己に満ち溢れさせ、強く生きようとしていた緋村剣心とは全く逆の生き方のように翁には思えた。精神の袋小路、いやそんな生半なものではない。そもそも、蒼紫は仲間の復讐をしてまわっていた時でも、自分というものをどれだけ計算に入れていたのだろう。その行為を為している自分こそがすなわち己である、という木でくくったような答えが尋ねれば返ってきそうだった。しかしそれでは―――。

―――それでは生きている人間ではない。

翁は思うが、それは言えないでいた。

つまるところ、翁はやはり蒼紫の剣の才能が惜しかったし、もはや剣を持てない身の上になるかも知れぬこの時、この不完全なる魂をこれ以上壊すに忍びなかったのである。

―――回転剣舞六連。操、わしはあの技に破れたのは本当は誇りに思っておる。じゃが、世の道理はそれでは通らぬ。

翁はそう思った。庭の桔梗の花が風にゆれていた。

 

―――御頭なんかやめてやるんだから!

操はあてもなく、鴨川べりをさまよっていた。

どんどん足は南の方に向かって行く。いつぞや蒼紫を探す旅に出た時も、こうだった。

さまざまな考えが操の頭をよぎった。昔の事。小さい頃の事。今の事。そして。操は今、この一点について考えていた。

―――斎藤。わたしは斎藤には勝てない。あんな年上の男には。絶対に。

新月村で一度会ったきりだった斎藤一という男。影のように剣心らにつき従っていたらしいあの男。剣心はこの男を内心嫌っているようだったけど、やっぱりそういうヤツだったんだ。たった一枚の書類で、私から蒼紫様を引き離す―――もう思い切るべきなの?緋村に負けたから、離れるべきだったの?

―――ダメ。そんな事はできない。

操は四条大橋のたもとの下の河原で、膝に顔をうずめて座っていた。さっきから浮浪児のように、ぼんやりと流れる水面を見つめていた。水の記憶は遠いところへとつながっている。幼い私と蒼紫様が、玉石の人気のない河原を歩きにくそうに歩いている。遠くで砲声の音が聞えている。この記憶。蒼紫は忘れてしまったんだろうか…。「二度と俺の前に姿を見せるな。」って、あの時私にそう言ったんだもの。蒼紫が翁を殺しそうになった時。これからもそんな道を生きていくの…。

すでに陽は暮れかかり、橋は黒い影となって水面におちかかっていた。しかし行き交う人々のにぎやかなこと、橋のたもとの旅館や料亭にはぼんぼりに灯りがともり、早やうかれ三味線の音も聞えてきていた。

操はうつむいて考えた。

―――私はもしもあの時、蒼紫様に助けられなかったら、芸者か乞食でもやっていたかも知れないんだわ、今頃は―――。

「帰ろう。」

操は声に出してスッと立ち上がった。そして思った。

たとえ蒼紫様が私を邪魔に思っていても、私はあの人を守って戦うの。この思いは滝の白糸、私はずっとつむいで生きていくの…。

その時だった。

鴨川の清流の上を、バシャッと音を立てて流れてきたものがあった。

「ありゃあ何だ。」

「人だ、人じゃねェのか。」

操は見やり、思わず手で口をおおった。橋の上ではすでに鈴なりの人だかりがしていた。人々は指差し、口々に叫んでいた。

このような場面に出くわす事には、普通の娘よりは慣れている操だったが、それは異常すぎた。

ゆっくりと上半身半裸の男の死体が、上流から流れてきたのだ。

背中には奇妙な刻印が刃でほどこされていた。見たこともないマークだった。えぐられた傷は深く、中の肉が見えていた。

───見たくない。あれは、人間の仕業なの。

操の顔から血の気が引いたが、すぐに身軽にきびすを返して、駆け出した。新たな事件の予感───張の持ってきた逮捕令状と、操の頭の中でそれは符合したのである。

京都府警は河原町を下がった京都府庁の隣にある。明治維新の後に建てられた、煉瓦造りの建物だ。

 

今、その廊下を一人の青年が歩いていた。引きずるような長いコートを着ている。と、青年は一室の前に立ち止まり、扉を開けた。

扉のすぐ中では電信係りの女性がさかんに電信を打っていたが、入ってきた青年の整った容貌に、しばし見とれた。

近頃街なかに置かれ出した、西洋彫刻の塑像のようである。引き締まった体つきに高い鼻梁の陰を帯びた瞳の、研ぎ澄ました鋭い面をもった工芸品といった面持ちである。

だが、青年が後ろ手に長い拝刀を持っているのを見ると、彼女はあわてて目をそらせた。

この廃刀令のご時世に、こういうものを持っている、こうしたなりをした人物と言えば、国体論を唱える武道家か政治家と相場が決まっていた。もしくはヤクザ者である。青年が手にした刀は、彼女が肝をつぶすに十分な長さがあった。

しばらく青年は、書類ばかりが机の上に山積みになっている、人のいない部屋をながめていたが、またふらりと出て行こうとして、背後から呼び止められた。

 

「四乃森さん。四乃森蒼紫さんじゃありませんか?」

 

書類の陰になっていて、見えなかった奥の机から、蒼紫とそう年かっこうが変わらないだろう青年が、腰をあげていた。男は快活そうに言った。

「すぐにここにお見えになるとは、話に聞いただけのことはありますね。僕は東京の警視庁から来た、乗鞍彦馬(のりくらひこま)と言います。まあこちらにおかけになってください。」

彦馬は蒼紫に椅子をすすめたが、蒼紫はつっ立ったままだ。

「斎藤が自分に逮捕令状をとったと聞いたのだが。」

「あァあの先生ですか。」

と、彦馬は糊のきいたシャツのポケットから煙草を取り出した。机の上にはすでに吸殻が山のように積まれている。

「煙ってもいいですか?僕はごらんの通り、いやしい人間なんで、あの先生のように上品な吸い方はできないんですよ。舞台あいさつみたいな感じで、ここぞという時にだけ火をつける。いやぁ見事なもんだ。えーっと、あなたに見せないといけない書類は・・・と・・・。」

彦馬は書類の束から器用な手つきで一枚を抜き出した。英文の文字と地図が書かれていた。

「まずこれが第一現場です。第二・第三現場もありますが、極秘事項なので、あなたにはこれしか見せません。昨日、四条河原でまた猟奇死体があがったそうですが、失礼ですが、あなたはそういったものに興味はおありですか?」

「ない。」

「そうでしょうか。だってあなたもそういう死体を引きずって歩いているんじゃありませんか。むしろあの先生よりも。僕はそう思っているんですがね。これは実にあなた向きの事件ですよ。」

「捕縛するなら早くしろ。」

「捕縛ですか?それはないです。」

「しかし斎藤が。」

「ないと言ったらないんだな、これが。だいいちあなたも署にではなく、昔なじみのここを選んだ以上、まだ捕まりたくないんじゃないですか?」

と、彦馬は下から見上げてニヤリと笑った。

「実は今回の件について、僕は僕なりに調べてみたのです。あなたの所にこの事件がまわってきたカラクリについてですが、僕はあの先生のやり方をはっきり言って好みません。そしてあなたの動き方も悪即斬ではまず絶対につかみきれない。」

「・・・・・・・・・・。」

「ああ、僕がこういうことを言うのは、僕がどこの出身だとか、どういう経歴だったかというのは全く関係ないんです。ただあの先生、ついに愚かしさを露呈したかなというのがあの逮捕状でしてね。本当は僕の方から葵屋に菓子折りでも持ってうかがおうと思っていたぐらいなんです。」

「斎藤は愚かな男ではない。」

彦馬は大声で笑い出した。

「あなたが言っておられるのは、剣客としては、という事でしょう。こういう言い方をすれば剣客としてのあなたを傷つけるかも知れませんがね。話が逸れましたが、つまりあなたは志々雄一派の事件に関しては、以前の武田観流の時と同じく、敵情視察もかねて、あと緋村抜刀斎の監視役として、実に嫌な役回りをしておられた訳ですから。その辺をあの先生は全くわかってない。ずばり言いますと、あなたの黒幕は、薩閥の海軍です。」

彦馬は自信たっぷりに言い切った。蒼紫は少し目を細めた。

「あなたが連中とそういった関係になっていった時期もだいたいわかりますよ。慶喜公が帰順して、幕軍が北に逃げたあたりからでしょう。恐るべき転身の仕方だと言っておきましょう。」

「では斎藤はそこまで読んで、俺を逮捕したくなったのだ。幕閣の裏切り者として。あいにくだが海軍に知り合いなどおらぬ。」

「でも向こうからこうして頼んできているみたいなんですがね。まあいいでしょう。藤田先生のあちらでの御武運を、僕も祈ることにしましょう。しかし今の言葉で、あなたが藤田先生を必要以上に持ち上げる気持ちもよくわかりました。」

「武人としての斎藤に会ったことはあるのか。万事ずいぶん楽観的だが。」

彦馬は愉快そうに答えた。

「あなたが悲観的すぎるんじゃありませんか。僕はこれでもフェンシングが得意でしてね、あの先生と突き合い合戦をした事があります。ヤブ蚊のような奴め、とののしられました。」

「貴様の自慢話なら、帰る。」

「おっとそういう訳にはいかないんです。来ていただいた以上、御指命の向きを聞いていただかないと、東京から今度はどんな人物が来るか、わかりませんよ。」

「貴様。」

彦馬は蒼紫の言葉をほぼ無視して話を続けた。

「さてこの英文の手紙ですが、内容はあなたが読んでおいてください。僕はもう読みました。この斬干状が送りつけられた後、元幕府の要人だった人物が惨殺されたのです。流儀はお信じにはなられないでしょうが、飛天御剣流でした。僕にはわかるのです。」

「緋村は東京で不在だ。」

「ああ、あの人はシロです。東京から一日で殺しに来られませんから。神谷道場に現在もいるウラも取ってあります。そしてこの緋村さんの師匠である人物もシロです。理由ですか?この人は英文が書けないからですよ。また幕府の要人を襲う理由も見当たりません。」

「では別の人間という事になるな。しかし俺には」

「かいもく見当がつきませんか?ではこの手紙の隅のこのマークには心当りはありませんか。」

蒼紫はじっと見つめてから答えた。

「西洋占星術の魚座だが、手紙の趣旨からすれば、キリストが天から与えた神の魚、マナではないのかな。しかし魚座という事は、何かの期限を表しているのかも知れない。」

「御明察。さすが元隠密御庭番衆の方ですな。奴らはこのマークをところかまわず書き込んでます―――人体にもね。」

「奴らか。」

「そう、複数グループです。この点においても比古清十郎はクロではありません。あの先生の孤独癖もあなたに似て、そうとうなものですから。」

「それだけ聞かせて俺にどうしろと言うのだ。」

「次はその地図にある高官の邸宅を襲うとの予告を、昨日あがった死体に印を入れてきました。あなたのお仕事です。僕は知りません。負けても戦ってください。ずいぶんバラバラにしてきたんでしょう、その刀で。」

二人はここで一分間近くにらみあった。

先に口を割ったのは、意外にも蒼紫の方だった。蒼紫は机の上の紙を取り上げた。

「この文面、参考のためにもらっておくぞ。」

「どうぞご自由に。それは写しですから。」

蒼紫は彦馬に背中を向けると、無言でその場から立ち去ろうとした。だが、扉の前まで来た時、彦馬は追い討ちをかけるようにこう言った。

「サイキョウノハナヲテヲルキハナイカ―――これはさる人物から今朝届いた電信です。呑気なもんです、上の方は。でも僕はあなたという大剣豪にめぐり会えた今日という日の事を、一生忘れないでしょう。これは本当です。」

蒼紫は彦馬に冷たい一瞥を投げると、部屋を後にした。

暗い廊下を抜けて、表通りに出た時、馬車道を後も見ずによぎり駆けて行く少女の幻影を、蒼紫は一瞬認めた。

「操」

蒼紫の唇はそう動いたが、彼は全く別の方向に歩き出した。

その日蒼紫は葵屋へは帰ってこなかった。

その夜は風が強かった。

風がうなる度にさかんに木戸がバタバタと音をたてた。

「操はまだ戻らんな。」

翁は文鎮時計を見た。もう九時を過ぎていた。

「そういえば蒼紫様も戻りおへんなあ。」

お近、お増は蒼紫の出先が警察とは知らない。

「二人でどこぞへ行きはったんとちがいますう?」

と、顔を見合わせてクスクス笑っている。翁は表の戸を閉めた。

――昨日、おかしな死体があがったとか操が言っておった。あれも刀を持って出て行った。悪い予感が当らなければいいが。

翁がそう思っていた頃、京の東山のふところのさる高級邸宅で、京都府警からの厳重警備が敷かれていた。

その中に沢下条張の姿もあった。張は斎藤の命令で動いていたが、人手不足とあって廻されてきたのである。張は詳しい命令を受けておらず、また他の警官隊も「十本刀の張」の事など知らずに、単なる用心棒だったので、この場合張は面白くなかった。

―――志々雄さんは京を大火の海にするところやったんやぞ。俺も斎藤の命令やからしぶしぶ動いとったのに、ケッ、おもろない。

張は入り口近くで張っていた。立派な純和風の日本家屋である。

「なんやたいそうな張り込みや。えらいやつでも来るんかいな。」

と思ったその時である。

張の見える横丁の角で張っていた警官二人が、声もなく倒れたのである。何者かがものすごい勢いでこちらに向かってやってくる。

―――なんや。宗次郎の縮地みたいな―――。

瞬間、張は背中の大刀を引き抜いた。

剣心らに折られた刀の代わりに、彼は二本の大刀を背にくくりつけていた。

「おもろい。こういう奴に会うのは久しぶりや。」

張は片方はふりかぶり、片方はわきを狙って入れた。

が、しかし―――。

ガキン!大刀が宙に跳ね飛んだ。

「なん―――。」

張は反動で膝をついたが、素早くふところから白刃の大刀を引きずり出した。

相手はするとなんと、およそ重力というものを感じさせぬ動きで、サッと後ろに退いたではないか。

大きなマントが風にひるがえった。張の鞭打った白刃の大刀は、相手の間合い手前で跳ね飛んだ。

「クソッ、何者じゃあッ。」

張は白刃の大刀のしなる動きを、もう一度相手に打ち込んだ。

マントの男が笑った。長い黒髪をなびかせ、手には長剣を握っていた。張がおぼえているのは、この場面だけである。

次の瞬間、男の体は中空にまで跳ねた。月影と剣が重なった次の時、張は猛烈な打撃をくらっていた。

そしてよろけた張を、神の如き駿速の刃が、優美な弧を描いてなぎ斬った。男は唇の端で笑うと、門の中に侵入した。

「てェイッ」

銃による一斉射撃が男を見舞った。しかし当ったのはマントのすそのみだ。男の走るスピードは全く衰えず、警官隊の一群は全員その場でうめいて倒れた。しかし邸内に踏み込んだ途端、ガトリング銃の連射がまた襲ってきた。

「フ・・・・」

男はバサリとマントで身をつつむと、長剣を構えた形でダッと駆け出した。

驚くべきことに、男は銃撃をきれいによけて廊下を進んだ―――いや、弾痕が当るよりも身のかわしが早いのである。弾の動きまで読んでいるかのような、ほとんど目にうつらないスピードだった。

それでも襖の内側から連射している者がいた。が、無情にも襖ごとザクリと長剣に斬られた。血しぶきが廊下に飛び散り、男は襖を蹴破った。次の瞬間、キン、と音を立てて数本の苦無が飛んできた。男は言った。

「良い娘だ。女は殺すに忍びん。」

奥の大広間で操が立っていた。男が身を沈めて向かってくると、同時に走り出していた。操は腰にななめに小刀を差していた。後ろ手から抜いた。

―――蒼紫様と同じ抜き方なら!

彼女はこの日まで、ひそかに御庭番式を練習していたが、帯刀した事はなかった。どうしてそんな無茶をする気になったのか。

操はこの時、たしかに男が斬りかかって来る姿を目に見たのである。

しかし、次の瞬間―――。

「ハウッ」

稲妻の如き閃光が操を襲った。彼女の小柄な体は木の葉のように宙を舞い、目を暗黒の闇が貫いた。そのまま頭から畳に落ちようとした刹那、何者かが影となって闇を縫うように駆け上ってきて、彼女の体を抱きとめた。操は気を失っていた。

黒い人影は蒼紫だった。コートを脱ぎ捨て、体に張り付く一見警邏隊のような袷の上下を着ている。蒼紫と広間をはさんで対峙した男が剣気を感じたのかつぶやいた。

「政府の剣客か。」

蒼紫は流れるような動作で操を床に置くと、持っていた長刀のさやの胴を口にくわえ、首をひねって上下に両刀を抜刀した。その動作は普段の彼の沈静さから遠く、抜刀斎とやり合った時よりも獣じみていた。

続けて両刀を交差させると、地を這うように、恐るべき速さで迫った。呉鉤十字のクロスをななめにした形で、相手の足を狙っていた。相手の男は、長刀を逆刃に返して、斬り上げた。返されたが、男の足をかすった。男の長い異国めいた衣装の一部が切り裂かれた。男は言った。

「なるほど、そういうたぐいの者か。言え。政府高官の奴はどこに逃げた?」

「知らぬ。」

「では貴様を倒して帰るとしよう。人一人の為にご苦労なことだ。」

男は宣言して剣先を蒼紫に突きつけると、片手で悠然と構えた。蒼紫も狙っているが、踏み込めない。

―――飛天御剣流。しかし、小技ではない。抜刀斎とはちがう流儀だ。何故だ。比古の教えた者ではないのか。

蒼紫は観察した。若い男だ。抜刀斎と比べずいぶんと長身で、髪を伸ばし戦国時代のような南蛮風の長衣を身にまとっている。と、胸に何やら数珠に似たものが光っているのを認めた。

―――魚座のメダリオか。

手紙のマークと一致した。

と、その瞬間、男は斬りかかってきた。

思った通り上段からの一撃。俊速だ。

蒼紫は二の刀地で受けて、利き腕で突いた。連続技でつなげて隙を狙い、回転剣舞でしとめる。室内での攻撃である事に賭けた。

闇の中で、青い刀身の光がたて続けに火花を散らし、尾をひいた。

ところが相手は、蒼紫の動きについて来たのだった。

その長い太刀で突きを全部受けてしまう。太刀の間合い、角度、相手との距離、すべてを読んで、知り尽くして剣をさばいている。蒼紫は戦慄を覚えた。本当に、抜刀斎とは違うタイプだ。

―――この男、俺の動きも読み取りつつある。しかし。

蒼紫は上段より振りかぶった。回転剣舞六連。が、男は間一髪でよけて言った。

「私を釘付けに張り付けようとしても、無駄だ。」

蒼紫はとっさに身を伏せた。剣でまだ攻撃しようとしていたから、一瞬の判断だ。

男の剣が、そのためを取った距離からは信じられぬ速さで伸びてきて、蒼紫の即頭部斜めを強打してきたのだった。かわす事ができたのはまさに紙一重だ。しかし蒼紫は肩の一部を斬られた。男と蒼紫は交錯し、離れて体勢を立て直した。

「―――くっ。」

「―――見切られたか。こんな者は初めてだ。しかし次で終わりだ。」

男は剣を水眼に構えた。蒼紫は前のめりになって、剣を握り締めた。背中に血が滲みはじめている。ここで敗北、そして死か。

―――奴は抜刀したままだ。また今の技か。

蒼紫は剣を縦十字に構えた。男が口の端で笑った。

「守りきれるかな。」

声とともに、男が飛び掛ってきた。正面から数回連続して打ち込むつもりだ。蒼紫は寸時で後退した。背後にこの日本間の土壁がある。蒼紫は体をひねり壁を蹴った。

―――かわした!

男の顔が動揺した。しかし剣を旋回させすぐに蒼紫を追った。蒼紫はその時にはもう、小太刀を攻撃の形に離し構えていた。

蒼紫は一瞬に全力をこめた。小太刀が空間を切り裂いた。陰陽撥止。だが同軌軸ではダメだ。

―――もう一撃は奴が身をそらせた時に。ここだ。

蒼紫は限界まで身を屈してバネで投げた。相手が剣で胸をかばうのが見えた。剣と剣とが激突してはじかれる音が残響した。蒼紫は畳に影となって片膝をつくと、光るものを素早く握った。苦無が三連。さっき投げられたものだ。蒼紫はすさまじい形相でそれを構えると、男を凝視した。男は言った。

「恐ろしい男だな。汚い手を平気で使う。」

男の胸から血が流れた。キン、と音がして胸にかけられたメダリオが落ちそうになるのを、男は左手で受け止めた。男は苦笑して言った。

「貴様など本当はどうでもいいのだ。私をこれ以上追えば殺すぞ。」

男は言うと、マントをひるがえし、来た時と同じように疾風の如く闇に消えた。

―――誇りか。

蒼紫は闇の中で立ち止まった。

あの男の目ははっきりと自分を軽蔑していた。

蒼紫は操を抱え上げると、剣を腰に斜めに差し、黙って門の方へ歩き出した。

累々と、警官隊の傷死体が続いている。蒼紫らが歩いた後も点々と血の華がにじんだ。

――操。

蒼紫自身も負傷していたが、操もけがを負っているらしい。背負っていると、手に血液のぬめる感触が感じられた。と、門を出て数歩歩いた時に、向こうから人影が多人数でやって来るのが見えた。とっさに身構えたが、警官らが駆けつけて来たのだった。

その中に、昼間見た乗鞍彦馬がいるのを見て、蒼紫は眉をひそめた。彦馬は蒼紫に尋ねてきた。

「賊はどうしましたか?」

「去ったように思うが、用心にこしたことはない。」

「しかし、本当に来られるとは思いませんでしたよ。」

「あの逮捕状を帳消しにしてもらいたいからな。」

「藤田先生にはお伝えしておきます。」

「たのむ。」

と、行き過ぎようとした蒼紫を、彦馬は呼び止めた。

「やっぱり飛天御剣流でしたか。どんな男でしたか?」

蒼紫は立ち止まった。鋭い目つきで振り返って言った。

「俺が会った男は一人だ。飛天御剣流だった。魚座のメダリオを首にかけていた。その線で洗うのだな。」

「ご協力感謝します。その背中の人は警察病院の方へでも―――。」

「断る。」

取り付くしまもなかった。蒼紫の孤影は瓦斯灯のあわい光の下に、青い影を引いて坂道を下って行った。彦馬は言った。

「いい人だが、これからも利用されるな。」

 

翌朝葵屋は一騒動であった。店は朝からのれんを落としている。

昨日の深夜、蒼紫が店に傷を負って、操と帰ったせいである。

今、蒼紫はまた包帯を巻いて和服姿で翁と向かい合っていた。

翁は言った。

「どういう事なんじゃ、これは。蒼紫、おまえはわしらに隠している事があるな。言ってみんか。」

「翁には話したくない。」

「なんじゃと。わしはおまえを御頭に推薦した時からよく見てきておる。ならば言ってやろう。何か警視庁の方から言われたんじゃろう。それかもっと別のところか。」

「――――――――。」

「おまえがわしらを裏切った時に、見当をつけとったんじゃ。身売りは結構じゃが、もうわしらを巻き込まんでもらいたい。」

「身売りではない。翁には、武田観流の館で死んだ同志四人の無念はわからぬ。」

「わかる。緋村君の話の他に、わしの判断でわかっておる。しかしおまえも悪い。最強の称号とは何じゃ。おまえ自身の奴らへの手みやげか。緋村君を倒す事に何の意味があった。維新志士を斬る事に何の意味があった。」

「抜刀斎を倒す事に意味があったのだ。それ以上は話したくない。」

「なに。」

「あの頃京都は遠かった。俺も若造で翁について深く考えたことはなかった。」

「失敬な。わしはわしで幕府と朝廷の舵取りに懸命じゃったわい。」

「同じ御庭番衆でもすでにそこで道は別れてしまっていたのかも知れぬ。翁がちょうどこの二階の窓から、抜刀斎が通るのをながめた時からな。」

ここで蒼紫は凄惨な笑みを唇に浮かべて言った。

「俺はその頃の抜刀斎は知らぬが、翁は見たのだ。天才が人を斬る技を。最強というものに惹かれているのは、むしろ翁の方ではないのか。」

「わしを見くびる気か。」

「ならば言おう。長州の命により幕閣の重鎮とは言えずとも、それなりの役職についていたかなりの者を斬って歩いていた男を、幕府の隠密の御庭番衆の者がかばいだてする理由は何もないのだ。緋村は今は真人間となって生きているようだから、俺はこれ以上言いたくはない。しかし翁はこの事を時々忘れている。」

「蒼紫。」

「鳥羽伏見の戦いで幕府軍は京都を守らなかった。仕えるのは幕府であっても、感情は動く。この話はそういう事にしておく。」

翁は横を向いた蒼紫を見ていたが、やがて下を向いて言った。

「おまえにとってはわしが生きている事すら間違いか。人は過去を振り返ってばかりでは生きられん。思い直してくれ。おまえ自身の生き方を。出て行っては傷を負って帰ってくる。わしはもう嫌なんじゃ。そういうおまえを見るのは。操もな。」

その時、静かに襖が開いた。お増だ。

「操はん、気がつかはりましたえ。」

翁らが次の間に行くと、操が浴衣着で布団に寝かされていた。藍に柳の模様の地味な寝巻き用のものだ。かたわらに宿の主治医と看護婦が座っていた。かかりつけの者だ。

「どうですか、先生。傷の具合は。」

翁に医者は答えた。

「刀傷は一週間ぐらいで治るでしょう。しかし―――目の方が。」

蒼紫はその時気がついた。操の目に包帯が新たに巻かれているのを。医者は言いにくそうに続けた。

「神経が切れたわけではないのですが、開くと痛がります。多分―――大変申し上げにくいのですが、打撃による一時的な損傷で仮の失明状態に陥っているんではないかと。あと、打撃は眼から頭部にも及んでおりまして、少々意識の混乱が見られますな。しばらくは安静にしておいた方がよろしいかと思います。」

「なんじゃと?!」

あわてた翁が操に駆け寄り、蒼紫は自分が蒼白になっていくのがわかった。あの時の一撃で――――!

「ここ‥‥どこ‥‥。」

操はゆっくりと起き上がった。おずおずとした動作がとても痛々しい。

操はしばらく首をめぐらせていたが、突然包帯を巻かれた頭を両手で抱えて、ふりしぼるように叫んだ。

「あたし‥‥‥あたしなんにも見えないの‥‥‥あたし今どこにいるの‥‥‥。」

翁はあわてて答えた。

「操、おまえは今葵屋へ帰ってきたんじゃ。昨晩蒼紫の跡をついて行ったからこんな事に。」

「いや――――っ!だれも来ないで――――っ!」

「操、しっかりせい。」

 

「大きな黒いものがそこにいるの。翁も殺されちゃうよ――――っ!」

 

操はそう叫んで翁を払いのけると、布団の上を必死で手さぐった。盲目の操が何を探しているのかわかった時、蒼紫の心を大きな衝撃が貫いた。

記憶の混乱が生じて―――あの時の修羅になった俺の姿を恐れているのだ。これが普通の怪我なら、操が勝手について来たからと俺はまた操のせいにしていただろう。俺はそういう男だった。何故あの時病院へ行く事をすすめられたのに断った。あの時行っていれば操は――――――!

 

蒼紫は昨晩背負って歩いた時の、操の身の軽さを想った。あんな小さな、いたいけな体を―――しかし、彼は内心の震えを抑えてその場に立ち尽くしていた。また、そうするよりほかなかったのである。

理性では、彼はその場で操を支えてやりたかった。今日まで築き上げてきた自分の中の大切なものが、一瞬で瓦解したのである。むろん操が悪いわけではなかった。むしろ自分の小心さから、操を形而上的存在として、切り離して考えるように努めていたのだ。

そしてそのように、自分とは遠い所で別の時間を生きている存在として時折考えることは、彼にとっては密かな愉しみだった。

それは、亡きあの先代御頭から、自分に孫娘が生まれたという事を告げられた時から、蒼紫の中で積み上げられてきたものであった。多くの者が過ぎていき、死んでいくのを見てきた彼にとって、「生きている者」とはある時から操の事になっていた。抜刀斎に言われずとも、その事は蒼紫にとっては自明の理であった。あの決闘の後日、自分はあれほどの熱意を持って人を動かそうとは思った事もなかったと、抜刀斎には感動の念さえ湧いたほどである。同時にあらためて、抜刀斎を自分とは全く違う生き方をする男と認識した。

つまるところあの時剣心が言っていた事は、死んだ仲間四人の命よりも、今を生きている操一人の存在の方が重いという事だった。蒼紫はこの種の考えが嫌いであった。彼があの時剣心の首根を狙ったのは、この考えに逆上したからである。今さえよければそれでいいのか。

しかし蒼紫はこの論理に負けたし、実際に技の上でも負けたのだ。そして今はその操さえもくだかれてしまった。―――己れの無力さから。

―――操がただ‥‥‥生きていてくれさえすれば‥‥‥元気に生きていてくれさえすれば‥‥‥‥。

蒼紫はただ、蒼白になった拳を握り締めるより他なかった。そしてきびすを返して立ち去ろうとした。操を脅えさせている以上、自分はこの場にいてはならない人間である。

「蒼紫、おまえどこへ行くんじゃ。おまえのせいで操は―――。」

翁の言葉にお近が涙を流しながら叫んだ。

「そんな事言わんといていてあげておくれやす!操はんは任務に出てけがしはったんどす。そっとしといてあげた方がええ、そない思うて―――。」

「あれがそんなにやさしい考えの男か。逃げとるだけじゃ。」

「翁にはわからしまへんのどす。お増、操はんの面倒はわたしらで見ますよってに。」

「はい。お近はん、私もそうさせていただきます。」

二人手をついて言ったのには、翁は思わずたじろいだ。

「そりゃどういう事じゃ。わしでは具合が悪いのか。」

お近はぴしゃりと言った。

「当然どす。操はんは病人さんなんどすえ。それに、今は操はんの代わりに、あのお方が御頭どす。」

翌日から蒼紫の探索が始まった。

蒼紫は翁をほぼ無視して出かけた。ついに翁は言ったものである。

「この剣きちがいめ。操の面倒もほったらかしにしおって、わしに何故諜報活動をやらせん。京の都に網の目のように張り巡らせたわしの探索網で―――。」

「警察へ行って頭を下げる方がマシだ。」

にべもなかった。

蒼紫は何回か府警の方へ足を運んだが、こちらの事情聴取を取られただけで、かんじんの彦馬はいなかったりした。

―――政治家を守るのに奔走しているようだな。せっかく暗号は解いたのだが。教えたところであの男もとっくにわかっているのかも知れん。それよりも――――。

今、蒼紫の足はある道場へ向かっていた。

―――多分、幕末の頃から考えて、関係があるのはここぐらいだろう。

以前は剣術道場だった横に、小さな礼拝堂のようなものが建てられている。

最近になって建てられた様子だ。板張りのアーリー・アメリカン様式である。

道場の看板はしかし、もちろん、飛天御剣流ではなかった。

蒼紫が裏へ回ると、井戸のところで洗濯ものを洗っている青年がいた。

蒼紫は青年に尋ねた。

「この道場の者か。」

「え?僕のことですか?ええそうですけど‥‥。」

「ここに飛天御剣流の使い手の者がいるはずだろう。紹介してほしい。」

青年はびっくりして立ち上がった。

「どうして知っているんです?先生は十年間剣を握ったことがないのに―――あ、その頃からのお知り合いですか?」

「違う。今紹介してくれと言っただろう?強いて言えば、あの建物だな。道場の横にあんな物が建っているのは、京都中でここぐらいなものだろう。」

「はあ‥‥‥。」

青年は首をかしげながら、奥へ入って行ったが、すぐにまたあわてて飛び出してきた。

「大変です。先生が。すぐに来てください。」

蒼紫は青年とともに、家屋の中に入った。

奥の日本間で老人が一人、布団に寝かされていた。

「先生、先生、しっかりしてください。」

「どうしたんだ。」

蒼紫が声をかけると、青年は老人を支えながら言った。

「この方があなたの言っておられた方なんです。僕は大陸に渡ったことがあって、そこで無一文だったところを先生に拾われまして。先生の薦めで剣道を始めたんです。後はもう、ずっと一緒に。だって先生はものすごい使い手でしたから。」

老人は青年の言葉にわずかに目を開けた。

「私は‥‥君に‥‥ほとんど何も教えていない‥‥教えてはならないと思ったから‥‥‥。」

蒼紫は老人の目を見て衝撃を受けた。

―――この方は、盲いておられる――――。

「先生の容態は三日前から悪化しまして―――どうかもう今日のところは―――」

と青年が言った時だった。老人が寝床から叱責した。

「待て。その者剣客だな。翔伍の使いの者か。」

蒼紫は言った。

「翔伍とは―――。」

「常人にはわからぬだろうが、そなた血の匂いがする。その剣、人を斬ったことがあるな。それもずいぶんと。」

蒼紫は老人の枕元に座りなおした。

「おたずねしたい。飛天御剣流の事についてです。今京都で騒ぎが起きていますが、あれはあなたの教えられた者なのでは?」

「そうだ。しかしあなたは翔伍とは関係がないのか。そうか。何かの理由であれを追っているのだな。」

青年が老人を起こして蒼紫に言った。

「三日前に投げ文がありまして、先生に読んで聞かせたとたん、この有様なのです。」

蒼紫は言った。

「それは『昼が死に 夜が止む時 天守天草四郎時貞は 神としてよみがえるだろう』という文面では?そしてあと犠牲者の名前が書かれていたのではありませんか?」

老人は激しく咳き込んだ。―――労咳。それも末期の症状だ。

「あなたはわかっているのだな。そう、あれはわしに知らせる為にこんな事をやっておる。―――この京都で。断じて許せぬ。あなたの力で何とかしてもらいたいが、それも頼めぬこと――――。」

老人は必死で語りだした。

「あれは十年前―――私は私の甥である武藤翔伍とその妹の小夜をつれて、長崎へ彼らの両親の墓参りに行った時の事であった‥‥‥‥。」

 

彼らは長崎にある教会を訪ねた。老人もまだ若く、翔伍もまだ少年であったその時――――。

 

「翔伍どうしたんじゃそのなりは?」

夕闇迫る礼拝堂の中で、男は少年に尋ねた。

少年は怜悧に笑って答えた。

「叔父上。私はこの地に来て、私の両親の墓にまみえて、心づもりを決めました。」

言うなりスラリと長剣を引き抜いた。男の顔が見る見る青ざめていく。

少年は構えて続けた。

「叔父上、私は天草姓を名乗り、神の王国を作るつもりです。」

「なにッ。」

「私はあの飛天御剣流奥義、天翔龍閃よりもさらに神の領域に近づく技、雷龍閃を会得しました。これは神が私にこれを(いしずえ)に王国を築けとのおぼしめし―――――。」

「神の王国だと‥‥‥まさかおまえの言っているのは、あの、四百年前の!」

「そうです。私はあの島原の乱で神に召された者達、すなわち復活者達の声を聞いたのです。それらの者達は私に向かって、さまざまな事を行うように言いました。」

「復活者の声なぞわしには聞こえん!世迷言を申すな、翔伍!」

少年は美しい口元で笑って答えた。

「天が私に命じたのだから仕方がない。だが私はそれまでの地獄を叔父上には見せたくない。だからこの剣で―――。」

男は身を震わせつつ抜刀した。

「翔伍、おまえにはすまぬが、ここで死ぬより他ないようだ。私はおまえが強くあれと願って飛天御剣流を教えたのだが、それはすべて間違っていたようだ‥‥‥‥。」

男は少年に向かって全力で斬り付けたが、それよりも早く漆黒の闇が男の目を射抜いていた―――そして少年とその妹は失踪した。

そして十年。

 

「あの技は、誰にも破れぬ。神の――神が―――。」

そこで老人はガクリと肩を折った。青年が叫んだ。

「先生、先生、しっかりしてください!先生―――――ッ!」

数刻後、看病する青年と蒼紫の見守る中で、老人は息を引き取った。顔に白布をかけながら、涙ながらに青年が言った。

「こんな事を申し上げては何ですが、うちではお葬式が出せません。仏教徒ではないんです。先生をでも、葬ってさしあげたいんです。今は夏場なのでこのままにしておけません。」

蒼紫は答えた。

「墓を作るのならば手伝おう。」

「動じて――らっしゃらないんですね。仏教徒じゃないのに。」

「こんな事には慣れている。」

青年が鼻白んだ顔になったので、蒼紫は答えた。

「すまない。失言だった。」

二人は道場の裏手の畑の木のかげに穴を掘り、老人を埋めた。

野の花を手向けた時、蒼紫は夕暮れの薄闇の中で、人影がいるのを感じ取った。隠密の勘であった。

―――誰だ。天草翔伍の手の者か。

しかし蒼紫は何事もなかったかのように、そこで青年と別れた。蒼紫は思った。

―――あの老人、心では俺に始末を頼んで逝ったな――――。

「あれ。蒼紫様。」

お増はその昼さがり、操の部屋に膳を持ってきてのぼってきて少し驚いた。

蒼紫が無言でそこに座っていたからである。

「操はんだいぶようならはりましたえ。落ち着いて話はるようにならはりましたさかい。」

そう言って、操に食事をとらせようと手ぬぐいをあてた時、蒼紫が静かにさえぎった。

「俺にやらせてみてくれないか。」

「は‥‥‥はい‥‥‥。」

お増は心配気に階下に降りて行った。

蒼紫は銀の匙で白がゆを操の口に運んだ。

操はゆっくりと食物を呑み込んだ。

しばらくその動作が続いた後、ぽつりと操が言った。

 

「いつものお増さんじゃない。」

 

蒼紫の手が止まった。

 

「誰―――男の人?」

 

蒼紫は答えられずにいた。

彼はかつての自分を考えていた。

―――二度と俺の前に姿を現すな――――。

かつて彼は操に、御庭番衆の御頭として、常套句のこの言葉を投げつけた事があった。その事が、今蒼紫の心をさいなんでいた。

ところが操はあどけない調子で少し考えてから、こう続けたのだった。

 

「私知ってる。私にやさしかった人。蒼紫様。」

 

操はそこで微笑んで言った。

「蒼紫様どこにも行かないでね。」

蒼紫の心はとまどった。操の心が今どの辺にあるのか、彼にはわからないでいた。

―――幼い日のつもりでいるのかも知れない。

彼はそうなろうと努力した。

従って静かな動作で、銀の匙で操の口にかゆを運ぶことを繰り返したのだった。

蒼紫は自分が、とても年老いてしまったような気がした。ふと彼は思った。あの緋村ならば、そのまっすぐな瞳に答えられるのはおまえしかいないと―――今こそ盲目の操の手を取り、抱きかかえてやるべきなのだと言うのだろうと。

―――俺にはその資格はない。

俺は操を守れなかったのだから。いや、もうずっと以前からはっきりとでなくても、そう感じていた気がする――――。

やがて操はかゆを全部食べたので、下げようとした時だった。蒼紫は行こうとして驚いた。

 

「蒼紫様!」

 

操が畳に手をついて倒れていた。起き上がろうとして転倒したのだった。操は大粒の涙を流していた。

「蒼紫様、行かないで―――戻ってきて。お願い約束して。」

操は肩を震わせ、きれぎれにそう言った。取り乱してそう言っているのだが、実際蒼紫は葵屋を出るつもりでいた。

蒼紫は膳を床に置くと、操の腕をつかんで引き寄せた。

「戻ってくる。約束する。」

「ホントに?本当に戻ってきてくれる?」

「ああ。本当だ。」

操の顔がパッと一瞬輝いたのが、蒼紫の瞳の中で反射した。

 

―――笑ってる‥‥‥。

膳を下げに来たお増は廊下で少し驚いた。

本当は様子を見に来ただけであったのだが、襖のかげからのぞいた蒼紫の横顔が、少しばかり優しく微笑んで見えたので、心底ビックリしたのだった。

同時に自分などが見てはならないものを見たような気がした。

―――操はんは、今のあのお方の顔は見えへんのどすからなあ。

お増はそっと涙をふき、用心しながら足音を忍ばせて階段を降りて行った。

 

 

蒼紫は翌朝の朝早く、葵屋を出立した。行き先を島原とだけ告げて出てきた。

―――みんな。葵屋で操を守っていてくれ。

彼は今、淀川の堤の近くまで来ていた。ここから先はもう、京ではない。

と、道程標の石塔のそばに、異様な風体の男が一人立っているのを目にした。

「久しぶりだな。」

比古清十郎だった。白木の大剣を肩に担いでいた。

「どうして俺のところへ来なかった。警察のヤツらが俺のアリバイについてしつこく尋ねるものだから、何かあると思ってな。お前が行く前にあの教会へも俺は行ったんだが。」

比古が言うのを、蒼紫はさえぎった。

「あの老人は死んだ。」

「そうだったな。俺も後で墓参りをした。しかし飛天御剣流の事なら俺にまず相談するのが筋ってもんだろう。俺はこれでも葵屋を救った事もあったんだがね。」

「礼が欠けていたのならあやまる。先を急いでいるのでな。」

「まあ待て。俺が奴らを野放しにしているのが、我慢ならないってツラだな。実は奴らは俺達の流儀では、存在しない事になっている。戦国時代に邪教を信じたからだ。」

「今も信じているようだが。」

「そうだ。狂人に刃物というヤツさ。しかし今の話で、俺が出て行くわけにもいかない事もわかってもらえたかと思う。」

蒼紫はザッと砂を蹴って、比古に向き直った。

「つまりあなたが行けば、あれを飛天御剣流のものと認める事になる―――そう言いたいのだろう。」

「さすがに頭がいい。俺の弟子とはえらい違いだ。」

「緋村の弁証法の使い方は、あなたに学んだようだな。」

「俺は無益に殺生を好まないんでね。今ここでお前と殺りあっても何の意味もない。」

「それはこちらも同じ事だ。」

「しかしそのまま島原へ行っても、確実にお前は負ける事になる。」

蒼紫は比古の顔をにらみつけた。比古は唇の端に笑みを浮かべていた。

蒼紫は言った。

「何か言いたい事でもあるようだな。」

「あるさ。葵屋の娘はいい娘だった。ああいう娘を悲しませてでも剣の道をとろうとするから、そういう事になる。ひとつ教えておいてやろう。あの老人やお前の女を襲った技は、我らの流儀に奴らが勝手に新しく付け加えたものだ。我が流儀の奥義は天翔龍閃だが、本来九頭龍閃をもって、基礎となすべき流儀なのだ。」

「九頭龍閃?」

「剣法の極意だ。これ以上は貴様には教えん。で、そいつが何を付け加えたのかも俺にはわかっている。―――二階堂平法・心の一方。名づけて雷龍閃。俺はいかずち系と呼んでいる。ま、禁じ手だな。」

「禁じ手とは。」

「相手の気を奪う技だよ。」

「非科学的だな。気を呑まれたぐらいで、ああいう状態は長くは続かん。」

「相手を殺せば技は解けるそうだ。ま、殺すぐらいの気迫でがんばれ。どうしてもダメな場合は俺がそいつを殺してやる。」

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」

「どうした。何か不服か。」

蒼紫は冷ややかに答えた。

「俺が死んだ後の事は俺にはもはやわかりようもないから、何もできないが、これだけは言っておく。二階堂平法の心の一方は催眠暗示だ。そして雷龍閃はこれとはちがう技だ。」

島原 上

狭霧に船の黒い影が浮かぶ湾を見渡せる位置に、その洋館はあった。

黒檀をふんだんに使った黒の調度でまとめられたその一室には、やはり海をよく見下ろせる窓があった。

その部屋の中を、今、背の高い金髪の女が、優雅な身のこなしで歩いていた。

女はサイドボードの上に、黒い黒曜石を刻んだ十字架の首飾りを首からはずして置いた。そして寝台の男を振り向いて言った。

「傀王様、天草翔伍、うまく大陸に渡る事ができるでしょうか。」

「そうだな。よくやってくれているが、少し石頭だからな。信徒を増やすはいいが、烏合の衆と知りつつも面倒を見る気でいるらしいところがある。奴らはより強い者の教えや導きを乞うて集まっているに過ぎんと、あの男わかっているはずなのだがな。存外やさしい男なのかも知れん。」

「妹が死んだらあの男は変わるわ。」

「フ―――氷のように冷たい女だな。あの男の妹とはえらい違いだ。」

女はつ、と寝台のそばに戻ると、傀王と呼ばれた男の手にグラスを差し出した。傀王は言った。

「何故翔伍の前に姿を見せん。」

「言ったでしょう。私はくの一ですのよ。妹が死ぬまでは顔を見られたくありませんわ。驚く顔が見ものですわね。」

「我々がまた大陸に戻ると知った時にか。」

「ええ、そう―――私が愛しているのは傀王様だけですもの。上海にまた戻るのね。」

「そういう事になるな。しかし何故それほどまでにあの男を嫌っているのかな。」

女はウェーブのかかった金髪をかきあげた。

「母はらしゃめんでしたから―――。」

「しかしおまえもキリストの教えを信じておる。」

「死んだ母が信じていたから。それだけですわ。」

「十字軍の遠征にも、おまえのような女がいたのかもな?」

「清廉潔白な方々と私のような女を同列にすれば、ああいった男が怒りますわ。」

「それぐらいの働きをしておる。来い、朧。」

朧と呼ばれた女は、朱の唇をひきあげると、黒レースのローブを脱いだ。

妖艶にして豊満な白い身体は陶器のようで、月光を浴びて、白い肉の厚い薔薇だった。

「本当は何もかも凍りつかせてやりたいの。」

「あの男の心もか。それでも大陸へ無事渡れるかどうか心配をする。そういう事か。」

傀王は低く笑うと、朧の身体を抱き寄せ、その精悍な腕の下に抑えていった。

 

                                    †

 

蒼紫は大阪から船に乗り、九州に渡った。

門司港から島原半島までは徒歩である。途中、いくらか海岸線が続く道がある。

今、蒼紫はそういった海岸のひとつを歩いていた。が、街道筋ではない。途中で意図してはずしたのだ。

―――つけられている。

乗客でにぎわう船の中では気がつかなかった。自分の勘がにぶっている事を認めざるを得ない。

船の中では別の事―――今回の事件と東京とのつながりについて考えていたのだ。それには膨大な情報量を整理していく必要があった。真相を知れば単純な事でも、蒼紫はそういう男であった。が、蒼紫はその考えよりも今は背中に貼り付いてきている人間について考えている。

―――認めたくないが、そういう事か。

蒼紫は目をすえると、断崖の上に出た。下は岩場だが、目のくらむ距離である。蒼紫はトランクの手荷物を下に落とすと、静かに身を下に傾けた。

「――――!」

崖の上を小走りに走りよってきた二つの影があった。

「いない。」

「落ちたか?こんなに簡単にくたばるとは。」

一人は大きな傘をかぶった小男で、もう一人は背の高い男だが、二人で身をかがめて覗き込んでいる。

と、傘の方の年若い男の方が、指差した。

「あそこだ。でも見つかってしまいましたね。」

「ケッ、そうだと思ったぜ。例のトンボ返りか。まさかあの年でもやりやがるとは。」

蒼紫が空と紺碧の海を分ける板状に広がった柱状列石の上に立っていた。

コートからその腕を引き抜くと、左手に一刀を握っていた。背の高い男が立ち上がった。

「ありゃあ威かくだな。ついて来たら斬るって事だね。」

「御頭の性格、よく覚えているね、辰政(たつまさ)は。」

「俺の方が奴とはつきあい長かったんだぜ。少うし恨みもあるしな。来い、猩々(しょうじょう)。」

二人は崖を走り出した。すぐに姿を消したが、蒼紫はしばらくそのままで立っていた。

と、その時彼方から手裏剣が飛んできた。

「―――無駄な事をする。」

蒼紫はつぶやくと、手裏剣の流れを剣で止めながら、その方へと岩場を移動し始めた。

そのまま手裏剣の軌跡の頂点へ蒼紫が飛び掛ろうとした時、大きな岩の影からさっき辰政と呼ばれた男が猛然と斬りかかってきた。

横合いからである。蒼紫は受けて言った。

「辰政。」

この男は待ち伏せしていたのである。腕はかなりたつらしく、剣で蒼紫を追い込み始めた。豪腕で野の剣をふるうタイプである。しかし剣さばきは正確だった。

「なんでぇ。右腕は片輪か。」

と、辰政が言った時、蒼紫はサッと退き、軸足で円軌道を描きながら飛び退り、弓の如く刀を閃かせた。

「うわッ。」

辰政はあやうく逃れた。蒼紫は表情も変えずに言った。

「よけられたか。もう一人は猩々だな。貴様も来るのなら、両腕でいく。」

「俺は嫌だよ、辰政。」

辰政と呼ばれた男は声に向かっていまいましそうに言った。

「チッ、こいつの腕はなまっているってあれほど言ったのに、臆病者なんだからよ。これぐらいアイサツなしじゃあ、俺としてもな。」

と、刀を納めると、辰政はあごをしゃくり、傘の男を呼んだ。

「猩々。てめえも出て来い。元御頭さんだ。」

辰政と猩々―――二人は元は隠密御庭番衆である。辰政は先代御頭の頃からいた男で、元山賊の出自で蒼紫よりも年上だ。

蒼紫は幕末の頃、ふくれあがった隠密の数を整理した事があった。それは近代戦に入ると、むやみな諜報活動は必要ないと考えたからである。辰政は主に賭場やヤクザ関係盗賊関係の情報筋を仕入れてきた男であったから、その時左遷した。すると辰政は京都の翁に訴え出て翁配下として収まり、維新になると姿をくらました。

この蒼紫の任を解いた件をいまだ不服と考えている者もいるのだが、辰政もその一人である。その風貌には獲物を放さぬ群狼の剽悍さとしたたかさがあった。

もう一人の猩々の方は、蒼紫よりも若い男だ。大きな傘に「弐心」と自分で大書していて、それでめったに顔は見えないのだが、その上にまだ猩々緋の面をつけている。小男で、この者は辰政と違い、剣の覚えのない山の民である。無学だが武士にはあこがれていて、そういう事をしているのだ。しかし猩々には忍びの心得がある。武器も山刀と手に持つ錫杖が三節棍に変化する。猩々は主に連絡係をつとめて江戸と京都を何度も往復していたが、維新の時、蒼紫の元を自ら辞して去った。また蒼紫もそれを止めなかった。考えが卑屈で皮肉なところがある上に幼く、顔も童顔で肩にはみのむしろをかけていた。猩々は出てきて言った。

「御頭、俺は死んだ般若とはちがうけど、この面はとらないよ。御頭を見張るように言われたんだよ。」

「バカ。こいつを御頭と呼ぶな。こいつはもう御頭なんかじゃねえんだ。おっとにらむなよ。俺やこいつを斬ったら、悪即斬であんたや葵屋がどうなるかわかんねェぜ。」

「斎藤―――」

「そうあいつだよ、あいつ。元新撰組のダンナ。あいつが俺に旅行付きのいい仕事があるとか言うからよ、来てみたんだよ。なんせ落ちぶれた元御頭さんの顔を拝めるとあっちゃよ。仕事もアンタが殺すまで横で見てりゃいいらしいしよ。そんで猩々も呼んだのよ、な、猩々。」

「斎藤のダンナに二人一組て言われたんだよ。」

蒼紫は二人に冷ややかに答えた。

「愚かな。これから死地に入るのだぞ。」

辰政は答えた。

「なんだと。てめェのその機械みたいなしゃべり方が気にくわねェんだよ。いいか。しゃべるな。俺から言ってやる。」

「辰政、あんまり怒らせない方がいいね。」

「うるせぇ!いいか四乃森。てめぇ精鋭かなんだかしらねェが、般若火男べし見式尉の四人を玉砕させたそうじゃねェか。え?武士の覚悟かなんだか知らねェが、イカれてるね。てめェにあん時首切られて俺ぁよかったよ。誰がてめぇみたいな人間の為に死ぬかよ。気取りやがって。腕がたっても、こちとらごめんこうむらぁ。ま、これからはもう政府の下僕扱いらしいからよ。俺があの世の四人になりかわってあんたの行動をせいぜい監視しといてやらぁ。」

「辰政の言い方はキツイけど、俺もそう思うよ。般若やべし見はかわいそうだったよ。御頭がどうしてあんな仕事をしていたのか、俺にはわからないよ。」

「決まってるじゃねェか。こいつは太公望気分で、その緋村とかいう剣客まで始末しようとしたんだぜ。策士だからよぉ。策士策に溺れて二兎を追うも一兎も得ずってヤツ。生きててもみじめなもんだよなあ。」

ここで辰政は歯をむいて笑った。蒼紫は沈黙して立っていた。猩々は言った。

「俺は辰政と来たから辰政の言うことしかきけないからね。御頭。でもその―――その―――。」

「四人が死んだ理由か。あの四人は武田観柳に撃たれた。」

瞬間、蒼紫の顔に辰政の拳が飛んだ。

「そんなごたくは斎藤から聞いてるんだよ。いいなあ、うすのろと天才の会話は。」

蒼紫は無様な態で立ち上がった。口から血がにじんでいた。辰政は言った。

「てめぇよりも物知りの俺が教えといてやる。島原には傀王って奴がいるんだとよ。まあ悪の親玉だな。上海から来た武器商人だと。フン、越後屋ってとこか。そいつを退治すりゃいいんだ。やってくれよ四乃森。」

「そんなに簡単ではない。」

「なんだと…てめぇ。ま、観念したようだからもう少しいたぶっとくか。まったく警視庁のお墨付きってのは免罪符だよなあ。」

「辰政はそんなつもりだったんだね。もうやめといた方がいい。」

「うるせぇんだよ!!!ここでしめとかねぇとよ。さっきみたいなマネされると困るからよッ!!!」

「辰政…やめるつもりないね。」

猩々は下を向いていたが、辰政は構わずほとんど抵抗というものを見せない蒼紫を蹴り続けた。

夜―――――。

今、彼ら三人は先程の場所から更に目的地に近づいた、やはり海岸線で夜営をしていた。蒼紫は焚き火をする辰政、猩々らから少し離れた所に座っていた。眼前に黒々とした海が広がり、夜風が痛む頬をなでていた。

―――武田観柳の館か。

 

今頃思い出すとは。

 

辰政が蒼紫に言った言葉は半分は当っていた。蒼紫はあの館で剣心に敗れた時から、正確にはその事を思い出すのをやめていた。

復讐心へと己れへの慙愧の念をすりかえていたのである。それは帝都という魔都に埋もれてしまえば、堕ちてしまう陥穽だったのかも知れない。

蒼紫はあの頃落ちぶれた幕閣の者にも呼ばれたが、きらびやかな華燭の宴にも出かけた事があった。むろん仕事としてだが、大物と呼ばれる政治家の陰の始末を頼まれた事もあったのである。やがてそれは選ぶに関わらず淘汰されて、武田観柳の館へとたどり着いた。陸軍省からの横流し品が大陸へ輸送される。初めはそう聞いた。そこへ用心棒として入るようにある政治団体に言われた。

観柳もその事は心得ていたが、蒼紫が軍から一枚かんでやって来た事は知らなかったはずである。

―――ところが奴は知っていたのだ。

それを蒼紫に気取らせないように、あの男は高荷恵を利用した。わかれば簡単なカラクリである。そう考えれば全ての辻褄は合うのだ。

―――奴は最初から俺たちを殺すつもりだった。女に阿片を目の前で作らせて、自分がいかに愚劣な男かをことさらに俺に向かって演じてみせていたのだ。猿芝居だった。

高荷恵はあの館で阿片を作っている必要はなかったのだ。元会津藩の御典医の一族の娘。蒼紫を観柳と同じ青年実業家だと最初は見て、救いを求めるとともに媚態を示してきた女。しかし単なる用心棒以下の存在と知った途端、その目は侮蔑に変わり、態度は驕慢になった。

―――私は士族。落ちぶれても士族の女よ。けがらわしい。

そう袂を振って立ち去った時、蒼紫は顔には苦味のある笑いを浮かべていたが、その頃得た抜刀斎潜伏の情報で、ここで血祭りを上げてやると算段を瞬時に弾いたのだった。単純にして血も凍るほどに冷血。翁が見たらそう評したに違いない。しかし武田観柳も武器密輸で甘い汁を吸っていたし、高荷恵も口では士族と言いながら、誇りを捨てて阿片密造に手を染めていた。阿片密造は細心の設備もなしに行えば、指から吸引し中毒を引き起こす。失った家族を探すため、命を賭してでも逃げればいいものを、絶望とわけのわからぬ復讐心から密造に手を貸したのだろう。昼間も澱のかかった瞳でふらふらと歩くこの女を自害に追い込み、武田観柳を射殺し、抜刀斎をおびき出して斬殺する。あの鵜堂刃衛を退治して、政府高官の影の噂で評判になりつつあった緋村抜刀斎の真の暗殺者としての過去を知る者としては、この血の饗宴の景色は申し分のないものに思えた。自分も腐っていたが、自分以上に腐っているものは酸鼻を極める前に握りつぶす。それがあの堅牢にして蒼朧(そうろう)(そうろう)とした三階建の明治の建物にはよく似合っているように思われた。

 

そして――――。

 

誰もいない武田観柳の館のテラス付の夜の食堂の間に、蒼紫は一人立っている。もうすぐこの館から出て行く。

白いテーブルクロスのかかった机で、さっきまで武田観柳は食事をしていた。赤い絨毯の上で観柳は、息をひきとっている。三階では高荷恵が自殺している。二階のダンスホールでは緋村抜刀斎が、せっかくつかんだ第二の人生を失って、放心の態で斬り刻まれている。自嘲とも蒼紫への軽蔑ともつかぬ微苦笑を死に顔に浮かべながら―――拙者ほどの男を斬って、何が楽しいでござろうよ。拙者ほどの――――自分のような小者として生きている人間を、という意味と、かつての自分の苦しみがおまえなどにわかるかという、王者の如き尊厳。貴様がそういう男だから斬ったのだ。抜刀斎の言葉は時に二重奏を奏でる。普通の者には聞こえぬその通奏低音(つうそうていおん)を、蒼紫は聞き取る事ができる。

 

―――俺も貴様の(きん)のような、血まみれの(そう)を握っている。

 

コトリと音がして、蒼紫は細長い窓の方を向いていたのを、振り返る。テーブルの上にあった銀の皿の数が増えている。薄暗い光線の中で、皿に盛られたオードブルや季節はずれの果物の鉢、冷えた仏蘭西(ふらんす)料理がそれ自体の陰影を伴って、クロスの綿布の上に置かれていた。その後ろの背の高い椅子に観柳の代わりに純白の襟元の開いたドレスを着た操が座っていた。

操は蒼紫の視線を感じたのか、そっと唇の上に手をすべらせつぶやいた。

 

「冬みたい。」

 

すべては光彩を失った物憂いフィルムのようだ。操の途方にくれた表情に、造物主の与えたもう乙女の資質を感じ、蒼紫は心の中で微笑する。だが幽か(かす)なる気配を感じて、蒼紫はこの彫琢(ちょうたく)の均衡を崩す静謐なる影の主に目を向けた。

 

「私の孫娘をそれほどこの椅子に座らせたかったのかね。愚かな。」

 

声は憐れみを帯びたあの老人のものだった。たちまちにして夢想の館は四散し、蒼紫は年若い姿で林の中に立っている。霧雨が空から降っていて、地面に二本の小太刀が破れ去ったままの形でころがっていた。蒼紫は屈従の姿勢で片膝をつき、小太刀を拾い上げる。―――――愚かな。

蒼紫はまどろむ瞼をあげた。夜明けの薄明かりの中に、観柳邸で死んだ四人の幻がほの白い姿で立っていた。

―――俺の下らぬ野望の為に命を落とさせてしまったな。すまぬ。

蒼紫は深く頭を垂れた。御頭、辰政と猩々はああいう奴らだけど、ちゃんと面倒みてやりなせぇよ。俺達より面倒かけると思うけどな。それにしてもそれほどならば一緒に連れて歩きゃよかったのに。操はそういう女ではないんだ、ですかい。あの目はきっとよくなりますよ…………。

蒼紫は薄明の光の中で、しばらく影のまま動かなかった。

「そうか。」

一言つぶやくと、彼は二刀を束ねて腰をあげた。そして朝の海岸へと降りていった。

その日の昼前、海岸線を走る二人の男達がいた。辰政と猩々だ。

「居やがらねぇ。くそッ、先に行きやがったか。」

「だから怒らせない方がいいと言ったんだよ。」

「でもだいたいわかるぜ。行き先もひとつしかねェ。島原だ。」

辰政は蒼紫の姿がいないので、あわてて探しに出ているのである。ここで猩々は立ち止まって言った。

「辰政はさ、御頭が維新の頃からあんまり変わってないと思ってるかい。」

「そりゃどういう意味で言ってんだ?」

「斎藤のダンナの話だと、回転剣舞六連できるって。あれは先代御頭しかできなかったんだよ。」

「でも飛天御剣流に破れたんだろ。そんでよ、今度の敵の中にもそいつが使えるのがいやがるんだと。斎藤はあいつをブッ殺したがってるな。」

「うん。自分の手は下さずにね。それで少々人が死んでもいいんだ。」

「おまえうまい事言うじゃねェか。まァ俺達は見てるだけだしよ。ヤバくなりゃ逃げりゃいいんだ。」

「でもむずかしくなるかも知れないよ。だって敵、強いんだろ。それに御頭は朝猛練習していたし。」

辰政は猩々の首をつかまえてどなった。

「てめェッ、見てたんじゃねェか!奴がどこに逃げたか教えろッ!」

「なんだか御頭の顔見てたら逃げたしたくなっちゃって…。」

「てめェ………いいか。奴の死に際を微に入り細に入り斎藤に語れねぇと残りの金払ってもらえねぇんだぞ。」

「その金がどこから出てんのか、辰政は考えた事ある?」

パッと猩々は辰政から離れた。手にした錫杖を振るとたちまち三節昆に変化した。

「あってめぇ。」

「うん。ちょっとやってみようかと思って。昨日ちょっとバカにされたし。」

「なんでてめェとそんな事やんなきゃなんねェんだ。猩々、おまえ昔よりボケたな。来い、どっちが上か教えといてやる。」

「本気で行くよ。」

辰政は腰から刀を引き抜くと、猩々の三節棍を次々にかわした。

「てめぇなんざ敵じゃねぇんだよ。」

と、辰政が言った時、猩々はヒラリと宙返りをし、今度は背中から山刀を引き抜いた。

―――とその時。

「やめろ。」

蒼紫が岩の上に姿を現していた。

「あ、出てきたね。よかったね辰政。」

「てめぇなんのつもりで………やいッ、四乃森!貴様俺達をからかってんのか。それとも見張ってでもいたのかよ。」

「そんなヒマはない。島原の状況を見て回っていた。」

猩々は言った。

「ほらね。そうだと思ったし。」

辰政は刀を納め、ひとりごちた。

「なんで戻ってきやがったんだ。」

蒼紫は答えた。

「俺を逃せば責任を問われるのだろう、斎藤に。あと、そういう事になっている気がしてな。」

猩々は蒼紫に言った。

「なんか見つかったんだね、島原で。」

蒼紫は答えた。

「秘密の集会所を見つけた。同行してもらいたい。」

辰政は蒼紫にどなった。

「え、偉そうにぬかしやがったな。」

蒼紫は言った。

「なるほど。その点についてはあまり知らされていないのだな。奴がそこにひそんでいる可能性があるからだ。」

「奴ってのはなんだよ。」

「飛天御剣流の使い手。俺が倒さねばならぬ相手だ。」

 

                                    †

『うるわしの白百合  ささやきぬ昔を

イェス君の墓より   いでましし昔を

 

うるわしの白百合 ささやきぬ昔を

百合の花、百合の花 ささやきぬ昔を

 

春の会う花百合  夢路よりめさめて

かぎりなき生命に  咲きいずる姿よ

 

うるわしの白百合 ささやきぬ昔を

百合の花、百合の花 ささやきぬ昔を

 

冬枯れのさまより 百合しろき花野に

いとし子を御神は 覚したもう 今なお

 

うるわしの白百合 ささやきぬ昔を

百合の花、百合の花 ささやきぬ昔を』

 

一人の美しい少女が、背の高い若者にともなわれて、小鳥の如く、縁台の上で人々を指揮し、唄っていた。

そして、見よ―――美しき天然の水がその腕からこぼれ落ち、水盤の中にたたえられていくではないか。人々は「御神水じゃ」とざわめいた。

「みなさん。これは潔めの水、聖水であり、主イェス・キリストの慈悲の涙なのです。主はあなた方とともにいます。アァメン。」

少女はひときわ声を張り上げた。丈の長い上品なベールのついてローブ付きのドレスを身にまとっている。はしばみ色の瞳、栗色の髪にはウェーブがかかっており、あらゆる挙動に品格と威厳と、そして愛を一身に受けて育った者が持つ、おおらかな高明さが感じられた。

蒼紫は辰政らとともに、最後列の人々の陰からそれを見ていた。辰政は「きれいな女だなァ」とあごをなでて見入っていた。蒼紫は鋭い目つきで見上げている。猩々は何も言わないでいた。―――と、辰政が横目で蒼紫に向かってささやいた。

「よう。ああいう女が好みなんだろ。ありゃあ生娘だぜ。」

蒼紫は答えた。

「残念だが、敵の女だ。」

「残念ね。正直でいいな。」

やがて会合が終わり、人々が三々五々に帰って行った後、蒼紫はコツコツと靴音を響かせて、洞窟の真ん中へと近づいた。少女と若者が礼拝道具を片付けている。若者が気づいて叫んだ。

「なんだお前。村の人間じゃないな。」

蒼紫はコートに手をつっこんだまま答えた。

「今の聖歌はプロテスタントの聖歌だな。この集会はカソリックと聞いたのだが。」

ガッシャーンと少女の手から燭台がすべり落ちた。色をなして震える少女を見て、若者は蒼紫に詰め寄った。

「なんだ貴様。俺たちに難癖つけようってのか。」

蒼紫は片頬で笑って答えた。

「しかし、その女もその事は知っているようだぞ。天草四郎時貞の遺志を継ぐにしては、少し無理があるのではないのかな。」

若者は叫んだ。

「マグダリヤ様を女呼ばわりするな!貴様政府の犬だな!」

「庄三!」

少女が止める前に、庄三と呼ばれた若者は、蒼紫に殴りかかってきた。猩々があわてて出てきて言った。

「何をやっているんです。早くそいつらをつかまえて―――。」

「貴様は黙っていろ。」

蒼紫はすでに徒手で庄三の拳を受けはじめている。

「てめぇ、できるなっ!」

「庄三やめなさい!」

と、蒼紫と庄三が拳で渡り合っていると、辰政が少女の背後にいつの間にか移動していた。少女が抱きすくめられて叫んだ。

「何をするの!」

辰政は少女の胸をさぐりながら言った。

「そう邪険にしなさんなよ。妙な会合開いてたよなぁ。」

「あれは礼拝です。」

「気が強い女だなあ。お、何だこの首飾りは。」

辰政は昔の盗賊の頃の手癖の悪さが、治らないのだった。少女が「いや」と身をよじると、蒼紫が叫んだ。

「辰政!よせ!」

「ヘッ、いたたぎさ。」

「返してください!」

辰政が少女の胸からメダリオを取り上げていた。庄三が叫んだ。

「てめェッ!」

庄三が向かってくるのを叩き伏せると、蒼紫は辰政に向き直った。

「辰政。」

猛然と向かってくる蒼紫をからかうように、辰政はペンダントを猩々に向かって投げた。猩々はあわてて受け止めた。

「ほれよ、受け取れ。おい、遊んでねェでさっさとこいつらをつかまえなよ、御頭さん。」

「話をするつもりだったのだ。」

「そんな風には見えなかったけどな。」

その時庄三が少女―――マグダリヤの手を引き、ダッと洞窟横のほら穴に向かって駆け出した。

辰政が叫んだ。

「逃げやがったぞ。」

猩々も言った。

「言わんこっちゃないよ。」

「仕方がない。追うぞ。」

蒼紫は言うと、彼らの後を追った。ほら穴はくねくねと道が曲がっており、途中二手に別れていた。辰政は言った。

「どっちに行きやがった。」

蒼紫は答えた。

「右だな。」

猩々は言った。

「よくわかるね。」

「しかし左に行ってみよう。」

「あぶねェんじゃねェのかい。」

「火薬の匂いがする。」

三人は用心深く降りて行った。御庭番衆ならではの度胸である。

「人間はいないようだな。」

蒼紫はポッカリと巨大な口を開けた空間を覗き込んだ。船便の積荷が置いてあった。辰政は積荷を見回して、言った。

「いわゆる密輸品か。簡単な事件だったなあ。さ、あとはヤバい使い手をあんたが始末すりゃあいい、と。」

蒼紫は答えた。

「これをこんな所に置いておくところを見ると、蜂起は近いな。来るのが間に合ったようだ。」

「誰が蜂起するんだ。」

「今の村人達だ。」

「あいつら人畜無害な様子だったぜ。」

「あやつっている男がいる。そして―――ここにこの積荷を置いた奴はその男に協力的ではない。」

「どうしてわかる。」

「猛烈な湿気だ。下層部に置かれた三分の一は使い物にならん。ここは海とつながっている。」

蒼紫はほら穴の奥を見た。行き止まりだが、木で頑丈な蓋がしてあった。

「どうする。降りてみるかい。」

「戻ろう。」

辰政はあきれたように蒼紫に言った。

「いやなまってるね、すっかり。昔のアンタなら見に行ったと思うけどな。」

蒼紫は辰政に無言で道を戻り、さっきの集会所の所まで来た。

「おい、どうするよ。これから。奴ら逃げちまったし。」

「ここに張り付くしかない。今から手紙を書く。猩々、それを俺が書いた宛先にまで持っていってもらいたい。」

「なにぃ。」

辰政が目をむいた。

「てめェ、半分囚人の分際で、俺達を使おうってのか。」

「貴様には頼んでない。猩々、出てきてくれ。」

大きな傘がおずおずのろのろと、前に進み出た。

「御頭、俺は御頭を見張れって言われてるんだよ。」

「辰政一人で十分だ。人の命がかかっている。おまえの命もだ。」

「おい、勝手に決めんなよ。」

蒼紫はいつもより優しい口調で猩々に言った。

「ここにい続けるよりは安全な仕事だ。渡したらまた戻ってくればいい。」

猩々の傘が上に向いた。

「本当?俺それならいいよ。」

辰政が言った。

「猩々、てめェ。」

「悪いね。俺、生きて山に戻りたいんだよ、辰政。」

「じゃあ報奨金は俺が全部もらうぜ。それでもいいのかよ。」

「……いいよ。」

蒼紫は集会所の机で手紙を書いた。その落ち着き払った行動ぶりに、辰政はイライラした。

―――なんでこいつはビクビクしねェんだ。あやつっている男、そいつが飛天御剣流の使い手じゃねえのか。

辰政の勘は半分は当っていた。

その頃さっき逃げたマグダリヤと庄三は、やはり洞穴に作られた小さな礼拝堂の間にまでたどり着いていた。

マグダリヤは疲れきった様子で、床に座り込んでいる。

天窓には綺麗な色硝子のステンドグラスがはめ込まれ、そこから陽の光りが差していた。

「小夜。」

声がして、背の高い美しい顔をした男が別の入り口から近づいてきた。マグダリヤが顔を上げた。

「お兄様。」

「庄三。小夜を疲れさせてはならんと、あれほど言ってあるだろう。」

天草翔伍だった。庄三はうつむいた。この若者はどうすればいいのかわからぬ態で、横に立っていたのである。翔伍の立ち居振る舞いには、ものすごい威圧感があった。

「すいません。変な連中が礼拝に参加していたので。」

「政府の密偵だな。どこへ逃げた。」

「逃げてきたので。三人いました。」

「三人か。よい。今は捨ておけ。ロレンゾ、下がれ。」

翔伍は言うと、小夜の手を取り立ち上がらせた。小夜は翔伍の胸にもたれかかるとようにした。それをかばうようにして、翔伍は長椅子に座らせた。翔伍も横に座った。小夜は言った。

「ペンダントをなくしてしまいました。あれは大切なものだったのに。」

「では私のを与えよう。」

「いいえ。お兄様と私のペンダントは、お母様たちからの形見です。お兄様はお兄様で持っていらして。」

小夜は不安そうに目を閉じて言った。

「お兄様ひとつたずねてもよろしいですか。京都の叔父様のところで何をしてらしたの。」

「……………。」

「きっと叔父様は心配していらっしゃったでしょう。だって私達―――あの時―――。」

小夜は小さく肩をゆすって咳き込んだ。

「私ずっと叔父様達のそばに居たかったわ。」

「あんな暮らしではおまえの病気はよくならない。」

「高いお薬を飲んでも治らないわ。私、わかるの。もうすぐ私、神に召されるのね………何もかもが真っ白になって………。」

翔伍は暗いまなざしで、もたれかかる妹をそのままにしていたが、やがて立ち上がって言った。

「小夜。私はこれから信者の者達と、あの四百年前の幻を善きものとして復活させねばならん。時は来たれり。今こそ信徒五百名の者と立ち上がり、正しき事は何かを、世に知らしめねばならぬ。」

小夜は威厳に満ちた兄の姿を、その透明な光の宿る瞳で見つめていたが、やがて静かにうつむいて言った。

「でも私はきっと、お兄様の足手まといになりますわ。」

「そんな事はない。何もかも小夜、おまえの未来のためなのだ。もう体を押してミサを行う事もいらぬ。ずっとここで休んでいるのだ。ここは閉め切れば安全な処だ。」

「はい。」

翔伍はその時、ふところから一丁の銀装の短銃を取り出した。

「用心の為におまえに渡しておく。庄三にも持たせる。私はここにばかりいられないからな。」

小夜の顔色が変わった。

「お兄様、私にそれを使えとおっしゃるの。」

「使い方は簡単だ。まず撃鉄を起こしてから引き金を引く。この銃は装填式で六連発撃てるようになっている。おまえは使う必要もないだろうが、持っているだけでも違うものだ。」

「お兄様。」

小夜は立ち上がったが、その全身に絶望の色が彩られていた。翔伍はそんな妹の様子には気づかないのか、そばの岩肌を一発銃で撃ち抜いた。

「驚かせたか。だが政府の連中はこんなものをもっと用意している。決して外へ出てはならぬ。」

「………わかりました。」

翔伍が去っていくと、小夜はどっと床に膝をついた。

「お兄様……私にはもう、何もかもわかりかけているの……でも、お兄様には言えないの………。」

小夜はその目に白い涙をあふれさせ、肩をふるわせ手を組み合わせた。彼女はそれでも、兄の贖罪を祈っているのだった。

「めでたき成長ましますマリヤ、主は御身にまします。主は御身に満ち………。」

小夜の祈りは続いた。そばに短銃が光っていた。

 

                                        †

「今銃声がしたな。」

蒼紫が顔をあげた。辰政が洞窟の高い天井を見上げた。

「そんな音したか?いつまでここで待ってるんだよ。何考えてんだ。」

「何も考えてない。猩々が帰るのが早ければいいと思っている。」

「何を書いたんだ。」

「貴様には関係ない。」

「おい。なんで右の道をさぐりに行かねぇんだ。おじけづいたのか。」

「―――来たか。」

蒼紫は急にふらりと立ち上がり、腰の刀に手をかけた。

「なんでぇ。さっきまで死人かゴミくずみたいに座ってやがったのによ。」

と、辰政は言ったが、洞窟の奥に黒い野犬の群れが現れ、牙をむいてこちらに走って来るのを見て驚いた。

「おい。わかってたんなら早く言え!」

蒼紫は無言で剣をふるった。たちまち何頭かが頭蓋骨から真っ二つに裂けた。血しぶきが飛び、叫喚があがった。見ていて、人間に対する以上に、気持ちのいいものではなかった。

「かーっ、すごいねこりゃ。久々に御頭さんらしいぜ。」

蒼紫は言った。

「辰政。そこにさっきの男がいる。拳銃を握っている。」

「なんだと。」

構えている蒼紫を見て、あわてて辰政も抜刀した。

「チッ、斎藤に飛び道具ねだっときゃよかったぜ。」

蒼紫は目の前の暗黒の空間をにらんでいる。犬が低いうなり声をあげてまたとり囲んできた。

と、チィンと岩に一発がかすめ飛んだ。

「出て来い!政府の犬!全員神の御名において撃ち殺す!」

辰政は声に言った。

「犬使ってんのはてめぇだろ。」

「辰政、下がっていろ。」

蒼紫は言うなりダッと走り出た。犬の群れが襲ってきたが、全部なますのように斬り刻まれていった。

思わず呑まれた庄三に向かって、蒼紫の拳が入った。刀を持ったままの拳技。ピストルが地に落ちてころがった。

「―――クッ。」

庄三はしかし、蒼紫に向かってきた。腰を落として巧夫の構えである。脚が空を切って、蒼紫の頬スレスレに飛んだ。

続いての連続技、目にも止まらぬ速さで、庄三の徒手強拳が打ち込まれていく。だが、蒼紫に受けられるばかりか、そんなにも激しく動きまわっているにもかかわらず、明白な隙があるのか、蒼紫のコートは風を切り、身をひるがえしてよける。

庄三は力の極限を感じた。自分の力と技のどうしても及ばない、高い黒々と切り立った断崖のような―――それはあの天草翔伍に常日頃感じていたものと同質のものか。

―――この男は笑っていない。

しかしその思念は庄三の心を、ほんの一瞬かすめたにすぎない。

―――勝てそうにないからか。くそっ。

と見た瞬間、蒼紫は小太刀の下から拳を繰り出した。庄三は小太刀を当然よけて動いていたので、虚をつかれた形になった。

「ううっ。」

倒れた目の前に剣先が突きつけられた。

「さっきの者のところまで案内してもらおう。」

「マ―――マグダリヤ様のところへだと!」

「あれは天草翔伍の妹だろう。拒否すれば殺す。」

冗談じゃない、と叫ぼうとして庄三は息を呑んだ。

蒼紫の沈み黒ずんだ静けさの頭上に、ありありと真空が見える。この男は今拳で自分と渡り合ったが、犬と同じように本当に斬るつもりだ。

庄三は立ち上がり、拳で口の血をふき答えた。

「わかった。」

小夜は不意に振り向いた。誰かがこの小礼拝堂に近づいて来る。何人かの足音だ。

「誰?ロレンゾとガスパルなの?」

と、部屋の外で押し問答をする声が聞こえた。

「どうした。早く開けろ。」

「…開けない。絶対にここは開けないからな!マグダリヤ様を人質にとるつもりだな。」

「辰政。」

「へいへい、こいつをふんづかまえときゃいいんでしょう。こん中に金になる奴がいるとあっちゃ仕方がねぇ。」

ギンッ、と鋭い音が走って、木製の扉が上下斜め左右に分かれ、バラバラと地に落ちた。

小夜は本能的にそばにあったピストルを手に取った。扉は鋼鉄の枠がはめこまれていたのに、すべて分断していた。

「来ないで!来たら撃ちます!」

恐怖心から小夜はそう叫んで、銀色の銃を腕で突き出した。

が、はっとなり、その姿勢のまま凍りついた。神よ、私はなんとまた愚かしい――――。

「マグタリヤ様!」

ロレンゾ庄三が叫んでいた。その横に影になった男が低い声で答えた。

「辰政、離してやれ。」

「あの女はピストル持ってるぜ。」

「構わん。ついでにこれも返す。」

辰政に突き飛ばされた庄三に横に、蒼紫が投げ捨てたマグタリヤのメダリオのペンダントが、軽い音をたてて地面をころがった。小夜は目を丸くした。

「それは私の。」

辰政が叫んだ。

「あ、いつの間に盗りやがったんだ、この野郎。」

蒼紫はもう納刀している。今度は形勢が逆転した。庄三は小夜の手からピストルを奪うと、蒼紫に銃口の狙いを定めた。

「さっきはよくもやりやがったな。」

小夜は悲鳴まじりに叫んだ。

「庄三、やめて!殺すのはいけません!」

蒼紫は冷静に言った。

「おまえたち、投降をするのだな。もうすぐここで皆既日食が起こる。それを機に混乱に乗じ、気勢をあげるつもりなのだろうが、世の中はそんなに甘くはない。」

辰政が笑った。

「なんだと。おいずいぶんでかい口たたくじゃねぇか。」

蒼紫は言った。

「辰政。おまえの警視庁からの見解を今述べてみた。俺の見解はこうだ。今九州北部では内務省の炭鉱汚職により、人心の乖離現象が起きている。廃仏毀釈と西南戦争は、人心をつかむのに絶好の機会だったのだろうが、世界はこれからは富国強兵によって動く。上海の武器商人と手を組んだ時点で既に間違いだったのだ。」

庄三がピストルを構えたまま叫んだ。

「黙れ!」

マグダリヤが小声でささやいた。

「庄三。この人は私達のことをきっと知っているのよ…。」

「だからどうだって言うんだ!こいつはマグタリヤ様を――――。」

「もう一度同じ事を繰り返す気か。」

ここで辰政が横から出てきて言った。

「おい、天草翔伍をここに呼んでこい。こいつはそいつと殺りあいたがってるんでね。」

「辰政。」

「俺がてめぇのわけのわかんねぇセリフを整理してやるぜ。悪いがあんたの兄貴は極悪人さ。」

「兄の神を信じる気持ちは間違っていません!悪いのは傀王よ。兄はだまされているんです!」

マグタリヤの剣幕に庄三はつぶやいた。

「マグタリヤ様…。」

蒼紫は髪の下から鋭い目つきでにらんで言った。

「おまえ達二人、どちらかを選べ。今俺をここで射殺するか、天草翔伍か傀王かいずれかの所へ案内するか。こうしている間にも軍は動いている。軍の出動を甘く考えるな。」

「ちょっと待て。おまえそれじゃ俺をはめていたのかッ!四乃森!」

辰政のどなり声ももうずいぶんと遠くだ。

庄三の手のピストルが発射され、蒼紫は自分の頭から脳漿が飛び散り、頭蓋骨が砕かれて床に倒れこむ事を考える。同じような軌道を描いて、天草翔伍が苦無を持った操をその剣で乱暴になぎ払い、操は頭から血を出して闇の中でのけぞって倒れていく。

そのスローモーションのような動きは、蒼紫の頭の中に焼きついている映像だ。

生きようとする意志が不可欠なのでござるよ、と抜刀斎の声がひび割れて反響した。完全なる敗北じゃな、と翁の声もした。逃げているからそういう事になる、と比古清十郎も背中ごしにつぶやいた。

―――今ここで操に殉ずる事を考える俺は、おまえ達から見れば、拙劣な男か。

庄三は目の前の男を凝視した。

こいつは俺が撃たないという期待を抱いていない訳ではないのだ。いや、撃たない事を恐らく確信している。しかしこう考えている時点で既に、この男の前に俺は隙をぶら下げているに違いない。しかし蒼紫の気配は動かない。ここでこいつを殺した方がいいのか、今なら撃ち殺せるのではないか――――。

庄三が迷ったその時だった。横から小夜の声が聞こえた。

「お願い、庄三。私を失望させないで。この人を傀王の所へ案内して―――神は殺人を望んでおられません。お願い。」

小夜は床に崩れるようにして座り、懇願していた。神への信仰は庄三にもある。あるばかりか、彼はひそかに小夜を愛していた。本当は病弱な小夜の為になら、命を投げ出してもいいとさえ思いつめているのである。が、彼はそれを口にした事はなかった。そして庄三は、小夜の清い教えに傾倒するにつれ、かつての元々の仲間の傀王らを憎み始めていた。庄三はピストルをおさめて言った。

「わかった。あんた達を傀王の元に連れて行ってやる。しかし本当に軍が動いているのか。」

蒼紫は答えた。

「警官隊でなくて残念だったな。ここは地方なので、鎮圧に容赦はない。」

辰政がからんで言った。

「おい待てよ四乃森。貴様はそれじゃさっき軍あてに手紙を書いていたのか。」

「俺は軍になど手紙は書かない。辰政、斎藤はそれを知りたくて俺を見張るように貴様に命じたのだ。帰ってそう報告するのだな。そして志々雄真実の事件の調書をもう一度書き直すように、斎藤に言っておけ。」

「な―――なんだと、この…。」

蒼紫はまさに冷たい視線を辰政からはずすと、小夜に向き直った。

「ではお望み通り傀王の所へ行くとしよう。立てるかな。」

小夜は気丈に振り仰いで答えた。

「ええ、もちろん。兄の潔白を証明してごらんにいれますわ。」

彼女は兄の身を守る為にそう言った。

蒼紫はその様子を冷然と見下ろしていたが、すぐに横を向いた。その渺渺たるまなざしは、小夜の見知ったどの人間にもないものだった。

―――この人はなぜ私に敵意のようなものを抱いているの。

小夜はわからず、そう思った。天窓の陽は傾きかけており、蒼紫の濃い藍色の影は、小夜の心を不安にさせた。

「ここだ。」

庄三がさっきの潮のたまっている武器庫の木の蓋をはずした。奈落へ通じる暗黒の道が見えた。

「ここは抜け道になっている。傀王らの居場所の館までつながっているんだ。四乃森さん?」

「なるほどな。」

辰政が横から言った。

「おい、そんな危険なマネ俺はごめんこうむるぜ。どうせ軍や警官隊の連中が来るんだろ。そいつらにまかしときゃいい。」

蒼紫は言った。

「辰政。奴を退治するように俺に言ったのは、おまえだろう。斎藤もそう望んでいるはずだ。」

「ケッ、もう斎藤のことなんざどうでも…。」

「俺はそうはいかない。奴は葵屋をつぶしてもいいと考える冷酷非情な男だ。おまえも覚悟して帰ったほうがいい。奴の信条は悪即斬だ。」

蒼紫はそれだけ告げると、先に降りて行った庄三と小夜の後を追った。辰政は憮然としていたが、やがて決意して後を降りた。もはや捨て鉢な気持ちである。それでも前を行くのが元御頭で、自分も腕に覚えがある事が、この男を支えていた。

―――しかし斎藤がそういう奴だっていう、こいつの目の方が確かなのかねぇ。

もし蒼紫の言う通りだとすれば、斎藤一というのはとんでもない男だ。

―――軍部については予測もできねぇくせに、俺をはめやがった。奴は志々雄真実の事件についての手柄話を俺に語っていたが、そもそもその軍艦や製錬所はどう考えても軍関係じゃねぇか。奴は自分がなんとか取り押さえたと語っていたが―――そしてこいつはどこかで軍部とつながっている。軍部と警視庁のイタチごっこか。

辰政の頭の中で、謎がぐるぐると渦を巻いた。

―――こいつは緋村抜刀斎を倒すために、志々雄真実側についた。それだけじゃねぇのか―――しかし今回の件と。

似ている気がするのである。何故そう思えるのかまでは、辰政にはわからないでいた。

―――でもどうせ一人で動いてるんだ。たいした後ろ盾じゃねぇ。斎藤を今コケにしやがったが、逮捕状とられてんだ。結局今もそいつのせいで動いてんだからな。こいつの動く理由なんてそんなモンだ。

と、ずい分隋道を歩いた時だった。庄三が立ち止まって言った。

「ここです。この扉の向こうに―――。」

と、手をかけようとした時だった。

「ご苦労だったな、ロレンゾ。いよいよ最期の時という事でそのお嬢さんを我々のもとにまでお連れしてくれたのかね。」

重々しい男の声が響き渡り、重厚な装飾の扉がゆっくりと開いた。庄三は開いた中を見て息を呑んだ。いつもの廊下ではない。

「な――なんだ。この空間は。」

「ホホ、いつもと違うでしょう。さっき犬を使う音がしたから、翔伍が最後の掃除をしているのがわかってね。」

「こちらからお迎えにうかがおうとしていたのだが、ネズミが入り込んだとあって遠慮した。」

扉の中はずい分広い洞窟の空間があった。大講堂のようなその広間の向こうに、高い段があり、そこにマントにつつまれた傀王と彼につき従う者が数名立っていた。しかしひときわ目を引くのは、うす暗い照明の下に浮かび上がった、高段の後ろに描かれた油彩の額縁画だ。キリスト受難の図のようだが、不遜にも顔が小夜の兄の翔伍に似せてあった。

「―――お兄さま!」

小夜が叫んだ。傀王が答えた。

「これは特別にそなたの兄君の為に画家に描かせたものだ。気に入っていただけたかな。翔伍がこの地で天に召されれば、それなりに意味がある絵になるのだが。」

傀王に従う朧が答えた。

「それも天草翔伍の心がけ次第という事かしら。どうせあの男はこんな所では死なないわ。傀王様、この絵の下であの女をひきむしってやるんでしょ。」

「仮にもキリスト者である私に、そんなマネはできないだろう。朧。」

「はい―――。」

戦闘服に身を固めた朧は、そばの者から巨大な槍を受け取り、傀王に渡した。

「まずは裏切り者を罰さねばならん。ネズミを殺し、それからあの女だ。」

「庄三…。」

小夜は脅えて庄三の影に隠れた。蒼紫が傀王に低い声でたずねた。

「おまえが傀王か。何故天草翔伍に手を貸した。」

「何故?友愛の精神だ。私はああいった若者は好きでね。」

「それは近代的功利精神だろう。」

傀王は蒼紫の言葉に、皺のある顔で破顔した。

「んん?何の事かな?私はもうすぐここを去るので、記念にいろいろと計画を立てていたのだ。あの廃棄処分の品もそれなりに役に立ってくれそうだし、最新式のものもその効用を世に知らしめる場をこうして得る事ができた。いやこれは、天啓というものかな?天草翔伍の神への祈りが天に通じたのだよ。神のなさる事は、すべてムダというものがない。」

小夜は喉をふるわせ、息も絶え絶えに叫んだ。

「あなたの言葉は、神を冒涜しています!」

朧は冷たく答えた。

「そうかしら。天草翔伍はあなたみたいな妹がいなければ、私たちにも近づかなかったんじゃないの―――あの男こそ偽善者よ。神を利用しているのよ。」

「ちがうわ!兄はそんな事―――。」

「とにかく、あの男もあなたのおかげで、それなりの信者を獲得できたのだし、役には立ったみたいだわね。」

傀王が言った。

「朧よ、そういじめるものではない。彼女はまさしく聖女だからな。そして我々には死後まさしく、地獄の苦しみが待っておる。人は争いという原罪から等しく逃れられんのだ。」

その時蒼紫が凛とした口調で傀王をさえぎった。

「しょせんは志々雄真実と同じ輩か。下らぬ。」

蒼紫の顔は陰になっていて、傀王らからはよく見えなかったが、その鋭い目が闇の中で光っているのが見えた。あまつさえ、抜刀していた。傀王はささやいた。

「朧よ、あの者もう抜いているぞ。」

「これはこちらに好都合―――おまえ達お殺り。とんだ単細胞ね。」

と二人が言った時、闇を飛ぶ怪鳥の如き影が俊速でこちらに迫ってきた。影は一気に高段に飛び移り、急速で刃を閃かせた。

「なにッ。」

傀王は槍で受けた。

「青二才めが!」

傀王を守る為に、部下が新たに現れた。

「あいつ、さっきまでとちがう―――。」

庄三が言いながら、あわてて銃を構えた。蒼紫が阿修羅の如く傀王らに襲い掛かっていた。思わず辰政が叫んだ。

「御頭、そいつはまずいって!」

言いつつ剣を引き抜いた。辰政には大鉄斧と鉄球をぶら下げた男が襲い掛かってきていた。

―――あの野郎、人間が変わりやがったか。

傀王やその部下と斬り結んでいる蒼紫の恐ろしい形相が、一瞬目に飛び込んだ。いつもは明晰さを好むたちなのに、この豹変の仕方が辰政にはわからないでいた。

―――たしかにこいつらは悪だろうがよ。冷静な判断が必要な時は今じゃねぇのか。

傀王の部下は数十人ほどおり、そのうちの一人の骸骨のマークを身体につけた男が天井にまで飛んだ。何か糸のようなものを動いている蒼紫に向かって投げた。

「言わんこっちゃねえ。」

辰政は鉄球をよけながら、つぶやいた。蒼紫の体が床にまでひきずり下ろされた。が、天井の男もそこへ落ちてきた。

「うわっ。」

待ち構えていた小太刀が、男の体を貫いた。

蒼紫は身をかがめ、刀身を地をけずるほどにまで斬り下ろして、男の体を寸断すると、次の者へと飛び掛った。

小夜が庄三の後ろで真っ青になっていた。

「庄三!あの人…。」

「わかっている。ここから逃げるぞ。もうごめんだ。」

庄三が数発傀王らに向かって発射した。

「ピストルを使うな。」

蒼紫の声が飛んだ。その腕は傀王の部下数名を一閃でなぎ払っていた。赤い鮮血が舞う中で、蒼紫は少しのためらいもなく斬り進んで行く。

「その者を撃て!」

朧が叫んだ。傀王の部下達が、下にいる部下に構わずに銃で乱射した。が、倒れたのは部下達だけだ。朧は息を呑んだ。

「―――奴はどこへ?」

鉄球を振り回す大男と辰政は戦っていた。辰政は力に押されている。と、その時不意に目の前に蒼紫の影が現れ、大男と空中で一瞬すれ違った。

「げッ。」

辰政は大声をあげた。大男の胴体が骨まで見せて、血を振りまきながら、斬られて地面をころがった。蒼紫は目もくれず、また傀王らの所へと肉迫して行く。修羅の地獄絵が地底に展開された。

―――ひでぇ。容赦ってモンがねェ。こいつは前からこうだったか?

見ている辰政の顔が引きつった。あの幕末の頃、任を解かれる以前の、まだ少年だった蒼紫でも、こんな調子では―――いやあの頃はその肩に御公儀の重圧がのしかかっていたのだ。同様の修羅場もあったのだが、蒼紫にはまだ若者らしい呵責というものがあり、辰政などはそれでずい分バカにしていたのだった。しかし今の様子は―――。

―――水を得た魚じゃねぇか。さっきまでは戦わされているってツラだったのによ。こいつは血に酔うタチじゃなかったハズだろ。

なおも殺陣の中心で血刀をふるい斬り崩す蒼紫の横顔に、不敵な笑みさえ見え隠れしているのを見て、辰政はゾッとなった。

高台の朧は乱闘を見つめているうちに、ケリがつきそうにない事に焦りを感じ始めていた。その上、ロレンゾ庄三までもが拳をふるい、この場から小夜と逃れようとしているではないか。朧の眉間に険しいものが走った。

「傀王様、最後の手段のお許しを。」

傀王は戦っている蒼紫を見下ろし答えた。

「よい。なかなかの手の者であった。」

「では落とします。マグダリヤも死にますが。」

「フフフ、事故死だ。翔伍にはそう言う。奈落はああいった者にはふさわしい死に様よ。」

傀王はマントをひるがえすと、高台の奥に消えた。朧は高台の中ほどの壁にある鉄鎖を思い切り引ききると、やはり身をひるがえして数名とともに逃げた。かすかな地響きがドームの天井から聞こえ初めていた。

「―――!」

蒼紫は気配を感じて上を仰ぎ見た。と、傀王がいないのを見てとると、一瞬にして悟った様子で、凄まじい形相に変わった。

―――はかられたか。この程度の罠を見抜けなかったとは。

その目は傀王の立っていた後ろの、天草翔伍の画布を刺すように見つめていたが、その頭上に大きな音を立てて岩は落ちてきた。

 

落盤。すべては闇に変わった。

島原 下

雨が降っていた。

密集する灰色の瓦屋根り上に、天から細い雨が降っていた。

操は濡れ縁に座っていて、その手にはお手玉の袋が握られていた。

苦無は全部、翁が危険なので片付けたが、今でも操は包帯を巻いたまま、苦無をしまったあたりを探そうとする。お手玉は、その代わりだった。

お近が操に声をかけた。

「操はん、そこに座ってはると濡れますえ。」

「大丈夫か、操。」

翁が操に軽く手をかけた。すると操はいきなり、その手を振り払った。

「いや。」

「な――なんじゃ。」

「翁、操はん今日は気が立っとるんです。」

「しかし、わがままになってきとるぞ。ワシの言う事を全然聞かん。」

「目が見えへんのどす。目あきの人には、わかりまへん。」

お近はそう言い、操の手を取ってゆっくりと立ち上がらせた。

「操はん、翁も心配してはるのどす。優しうしてあげんといかんわ。」

「うん・・・・・。」

操はかすかにうなずいたが、その表情は硬かった。

部屋に戻ると、お近とお増が操の目の包帯を取り替えて、その黒髪をほどき、櫛を使ってまた結直した。

と、操がつぶやいた。

「お近さん。」

「なんどす?」

「黒さんも白さんも、家にいるよね。蒼紫様は独りでまた何処かに行ったの?」

「はあ・・・・そうどすなあ。あのお方はやっぱりもう、御庭番衆とはちがうみたいやさかい。操はんの事も、兄弟のように思うてはったんでしょう。」

「私あの時、ついて行けばよかったのかな。」

「あの時?出て行かはった時の事どすか。それは操はん、目が治ってへんのやし。」

「違うわ。薫さんは何があっても緋村を信じていたじゃない。緋村がたとえ、人斬り時代の流浪人に戻っても、東京から着いてきたじゃない。だから、私も、翁やみんなを捨ててでも―――。」

「操はん、それは―――。」

お近は言葉を失った。が、思いなおしてきっぱりと答えた。

「あの、翁と蒼紫様が殺りおうた時のことは、早う忘れはった方がよろしいどす。翁は操はんをここまで育ててくれた、大事な恩人どす。それを、そないに言ったらあきまへん。それに剣心さんは優しいお人やさかい、ああして人がついてきはるのどす。百三十八針も縫うようなケガさせはった時の蒼紫様とは。」

「同じよ。」

操は何かをつきはなすように言った。

「緋村は抜刀斎だったんだもの。昔あんな風にたくさん人を殺してきたんだもの。」

「操はん・・・・。」

「翁は私を大切に育ててくれたけど、それは私が先代御頭の孫娘だったからよ。もう目が見えないから、何の役にもたたないし。」

操は顔に自嘲の笑みを浮かべていた。

お近は答えた。

「操はん、それは言うたらあかん事です。それに蒼紫様かて操はんが、先代御頭の孫やったさかいに、あんな北陸まで行って拾わはったんでしょう。そんな考えでは、治るもんも治りません。」

お増がお近の袖を引いた。

「お近はん、ちょっとキツイどすえ。」

「いいのや。病人さんのワガママやさかい。」

お増は心配気だったが、お近について部屋を出て行った。

操は独り、布団に座っていた。と、ポツリと涙がお手玉の上に落ちかかった。

「・・・・・ふ・・・・・。父さま、母さま・・・・・あたしもう、死にたい・・・・。」

青い夜のとばりが、部屋に静かに下りてきた。

蒼紫は暗がりに倒れていた。

傀王の放った罠により、地底に埋められたのだ。

彼が間一髪で地底中央部から逃れられたのは、奇跡と言っていいかも知れない。

身についた忍びの術がとっさに働いたのである。

――しかし、若い頃ならば身軽に身を転じて、傀王にとどめの一撃を何も考えずに与えていたであろう。庄三からピストルを奪い。そう――――十二歳ぐらいの俺なら。

何を考えていた。

蒼紫は起き上がった。

最後に奴の首を斬ることだけを考えていた。

それは俺自身のためにではなく、あの盲いた操に捧げるために…。

蒼紫は瓦礫をどけて進んだ。

酸欠になる前にここを出なければならない。

と、そばで呻き声が聞こえた。

「マ・・・・・マグダリヤ様・・・・・・。」

庄三が岩の間にはさまっていた。

横に小夜が倒れていたが、これは無傷な様子だ。

庄三がかばったのだろう、しかしその顔色は真っ青だった。

「こいつはもうダメかもな。」

辰政も忍びの術をもって逃れたらしかった。

蒼紫は言った。

「手伝ってくれ。上の岩をどかす。」

「そんな奴ほっとけって。」

「ここは迷路のようになっている。出口はこの者に尋ねるしかない。」

蒼紫はそう言うと、瓦礫の中から柱を引きずりだした。

「私・・・・手伝います・・・。」

蒼紫が岩の下に柱を入れて、テコの原理で持ち上げようとするのを、横から小夜が手伝った。

「あんた・・・・人がいいのか、悪いのかわかんねぇな。」

庄三が持ち上げられた岩の下から、這いずり出した。

「さっきはなんで、俺に銃を使うなってどなったんだ?」

庄三は片足を引きずっている。あやうくよろけるのを、蒼紫が肩を貸して支えた。

「…洞窟の中は暗い。おまえの銃の腕では、戦っている味方を撃つ可能性があった。」

庄三はため息をついた。

「ずいぶん見限られたもんだな。こっちだ。」

庄三は蒼紫に行く先を、示した。

真っ暗な隋道が前に続いている。

「ここを降りるのか。上へ出るのか、この穴は。」

「…たしか、海岸に続いているはずだ。館へ通じる入り口は、ふさがれてしまった。」

「行こう。」

一同は、歩き出した。

小夜は、自分たちの立場を歩きながら話し出した。

「お兄様は、悪くないのです。私たちのことを少しお話しましょう。」

 

今から十三年前―――ここ、島原でも幕末の攘夷の風が吹き荒れた。

隠れキリシタンとして長年にわたり信仰を続けてきた、小夜たちの一族も、一朝夜のうちに追われる身となったのであった。

「私たちの敬うキリスト像は、仏像の裏に大切に隠してありました。」

小夜は寂しそうに笑った。

「父は――私たちの信仰を強いて広めようとは思っていませんでした。ただ、この島原の美しい里で、いつまでもささやかな幸福の中で信仰を守り暮らしていけたらと―――ですが、母は私と同じ不治の病に犯されて・・・・。」

そんな一家に攘夷の魔の手が襲ってきた。

まずはじめに殺されたのは、父だった。

攘夷を唱える浪人もの数名に、切り殺されたのである。

残った母と小夜、翔伍は海岸づたいに浪人ものから逃げた。

だが――母は激しく咳き込み、倒れてしまった。

「母さま、母さま。」

まだ幼い小夜が泣き出しそうな顔で母を見ている。

翔伍は海を指差し、叫んだ。

「兵衛叔父様の船だ!」

若い兵衛か゜、一艘の小船をあやつり、こちらへ向かってくる。

だが、浪人ものも刀を持って、小夜たちに迫ってきつつあった。

母は気丈に小夜と翔伍に言った。

「お逃げなさい。叔父さまの用意した船に乗るのです、あなたたちだけでも。」

「でも・・・・。」

翔伍が言うのを、母は強くたしなめた。

「あなたは神の子なのです。何よりも、もっと強くなって。」

そして、小夜らを船のほうに行くように叫んだ。

「早く!走って。」

母の気勢にうながされて船の方に小夜と翔伍が走ったときだった、母に浪人ものが切りかかったのは。

「母さま!」

母が倒れたのは、二人が兵衛の船に乗り込んだときであった。

「母さま・・・翔伍は強くなります。母さま・・・・。」

涙ながらに、船の上の翔伍は幼いながらも、そう強く誓ったのである。

 

「・・・・それから兄は、強くなりました。剣の腕も、心づもりも。兄は大陸で医術も習得し、少しならばここ島原の村人を診てまわったりもしているのです。」

小夜は言った。

「ですから、お兄様は、決して悪い人ではないのです。あなたが兄の何を見たのかは知りませんが・・・・。」

蒼紫は答えた。

「半月前、天草翔伍は京にいた。」

「えっ。」

「俺は奴と戦った。奴は大勢の人間をその剣で切り殺した。嘘ではない。」

小夜は大きく目を見開いた。

「では・・・・お兄様は・・・・私に嘘を言って・・・・・。」

庄三は叫んだ。

「あんた!マグダリヤ様によけいなことを言うな!」

蒼紫は答えた。

「ならば、もうよけいなことは言わん。だが、真実はひとつしかないのでな。」

そのとき、一同はぽっかりとした空間に出た。

「広場みたいだな。」

蒼紫が言った。

たしかに、その空間は、洞窟ではなく、天井はなくて空が見えていて、空には月が出ていた。

庄三の顔が明るくなった。

「やったぞ。もう少しで海岸だ。四乃森さん、俺は一人で歩けるよ、もう。」

その時だった、朧の冷たい声が答えたのは。

 

「それはよかったわね、庄三。」

 

朧が暗がりから進み出た。

横にも数名、手下たちが立っていた。

バサリ、と朧が黒い羽のついたマントを取った。

体にぴったりとした、胸もあらわな戦闘服がマントの下から現れた。

「待ち伏せしていたのよ。こっちの道を来ると思ってね・・・・。」

朧はそう言うと、大きな槍のような武器を構えた。

「大三弧矛・戟簾(げきす)。庄三、おまえに試すつもりはない。そこの男。おまえだよ。」

蒼紫は無言で朧の方を見た。

朧は言った。

「おまえに少し話があるのさ。」

朧は蒼紫に向かって言った。

「恐ろしい男・・・・だが、傀王様の身を汚すわけにはいかない。それで私がこうして出向いてきたというわけさ。さっきはとんだご挨拶だったね。」

朧は槍を回転させ、蒼紫に狙いを定めた。

「なぜ貴様は傀王様の邪魔をする?そこのマグダリヤやロレンゾの仲間というのでもないのに。私はそれが聞きたくてね。」

「何故?それは・・・・。」

蒼紫は低い声で答えた。

「・・・・・・のためだ。」

「何?聞こえないねぇ。」

朧は言うなり、槍から―――槍の先が、銛のようになっていて、発射するのだ―――鋭い刃先の切っ先を蒼紫めがけて発射した。

蒼紫はよけた。流水の動きである。

朧はけたたましい声で、蒼紫を笑った。

「ホーホホホホホッ、傀王様が何のためにこの地に赴いたか、わかるかい?征韓論はご存知?」

「・・・・西南の役で西郷隆盛が唱えた、論考か。」

「あれをもう一度、傀王様はおやりになるつもりなの。あの方はまさしく、天才よ。」

朧は言うが早いか、続けて切っ先を回収し、槍を繰り出してきた。

「大三庫鉾・神楽の舞!受けてみよ!」

恐るべき高速で回転した槍は、朧の手から離れ、ブーメランのように蒼紫に向かってきた。

蒼紫は抜刀し、槍を受けた。

「・・・・・見込んだとおり、やる男だね。だけど、おまえは目障りさ。死んでもらうよ。」

戻ってきた槍は、手品のように朧の手に吸い付いた。

まさしく、武具と朧は一体になって動いていた。

と、朧の手下たちが、庄三と小夜に向かって動いた。

「くそっ、てめえらっ。」

庄三が動きにくい体で、刃をふりかざした手下たちに向かっていく。

小夜はおびえたように、庄三の影に入った。

「庄三・・・・おまえだけでも、村人たちのところへ行って・・・・傀王はきっと、村人を見捨てます。」

「マグダリヤ様、そんなことは俺にはできません。あなたを今ここで見捨てるなんて・・・・・!」

「お願い、庄三。この人たちは、きっと私を助けてくれます。あなたなら、ここを抜けて早く知らせに行けるわ・・・・・!」

辰政が抜刀しながら、言った。

「けッ、たよりにされてるぜ、御頭さんよぉ。」

蒼紫は朧の槍と激しく刀を交えていた。

朧は蒼紫の小太刀に気づいて言った。

「小太刀・二刀流。おまえ、闇の者だね。」

「そういう貴様もな。」

「ふっ、政府の犬というだけでもなさそうだね。」

その時、小夜と庄三の前に巨大な男がぬっ、と立ちはだかった。

「―――ガスパル源右衛門。おまえが何故・・・・・!」

庄三は叫んだ。

「仲間じゃないかっ。」

源右衛門は少し頭が弱いのだが、やさしい性格で、村人たちの護衛についていた。

マグダリヤたちとも親しく、信仰心も篤い若者であった。

だが―――。

「すまねえ、マグダリヤお嬢様。わしはこいつらの下で働けと、翔伍様のご命令ですだ。」

ガスパルは巨大な斧を構えている。

「ここは通すわけにはいかねえだ。」

ぶんっ。

庄三の耳の横を、巨大な斧がかすめて通った。

小夜は悲痛に叫んだ。

「何故おまえまでが、村人たちのところにいないのです。お兄様は一体・・・・!」

蒼紫が言った。

「行け、庄三。ここは俺たちにまかせて。村人たちのところへ。」

小夜も言った。

「行きなさい、庄三。源右衛門、庄三を通して、お願い。」

小夜の言葉に、源右衛門の表情が、困ったようなものになった。

「わしは・・・わしは・・・・困っただ・・・・。マグダリヤ様のご命令には従いたいだ・・・・。だが、翔伍様が・・・・・。」

朧の罵声が飛んだ。

「うすのろっ、ぼんやりするんじゃないよっ。」

声と同時に、朧の腰から短剣の一本が飛んだ――その腰に差している短剣、竜首(りゅうず)である。これは、槍の矛と対の動きをするものである。

だが、その一瞬前に庄三は隙を見せた源右衛門の前から逃げおおせた。

庄三はよろめきながら、広場の向こうへと必死に走った。

その先にまた、穴がある。どうやらそこから、海岸線までは近いらしい。

「逃げたぞ。」

手下たちが、あわてて追おうとした。が、朧は叱責した。

「追うんじゃないよっ。どうせその先には傀王様がいらっしゃるんだ・・・・・ここはこいつらを殺す方が先だからねっ。」

朧は蒼紫と向き合って、構えたままじりじりと回った。

どちらも相手の出方を見ているのだ。

朧の脳裏に、目の前の蒼紫とだぶって、翔伍の姿がよみがえった。

―――美しい男。だが、こういう男は私を裏切る。

傀王には秘密にしていたが、朧は実はこっそり翔伍に会っていたのである。

だが、翔伍は朧を袖にした。

「私にはあなたは、少しどぎつすぎるようだ。お互い、合わない者同士・・・・馴れ合うのはよしたほうがいい。」

そう翔伍が朧を拒んだとき、朧は顔色を変えた。崩れるように座ったベッドの上で、やっとの思いで彼女は口にした。

「そう・・・・そうね。」

比べられているのだ、と思った。翔伍は私を自分の妹と―――その瞬間、朧の心で、翔伍への慕わしい思いは翔伍兄妹への激しい憎悪に変わった。

―――殺してやる。

朧は槍を構えたまま、短剣の竜首を蒼紫目掛けて突き出した。

剣先が蒼紫をかすめた。

蒼紫は表情も動かさずに、言った。

「貴様もニ刀流を使うか。」

その一言が、朧の心に火をつけた。

朧は火のような調子で大声で叫んだ。

「しかし、こういう使い方はできまいっ。」

なんという動きであろう、朧は自身が高速で独楽のように回転をはじめた。

「―――香具の舞!」

それは、蒼紫の技・回転剣舞六連よりも速く、かつ、大技であった。

回転しながら、朧は槍の下から短剣をひらめかせた。

ちょうど巨大なのこぎりが回転しているような具合だ。

「ホーッホホホ、手も足も出まい!」

蒼紫は剣の小太刀の方を投げた。

朧は叫んだ。

「―――なにっ。」

「悪いが、足を狙うのはこの場合いたし方がなかろう。」

朧は片足をついた。

回転の軸足に剣が突き刺さっていた。

朧は悔しさに歯噛みしながら、剣を抜いて地に放り投げた。

「おのれ・・・・っ。どこまでも私を馬鹿にして・・・・・っ。」

「貴様を馬鹿にした覚えはない。」

「私にはあるっ。おまえや翔伍のような男には・・・・・。」

朧は立ち上がり、狂気のように笑うと、小夜に向かって走った。

手下と斬りあっていた辰政が叫んだ。

「あっ、まずいぜ。」

だが、朧は小夜を人質に取っただけであった。

朧はだが、恐るべきことを蒼紫にたずねた。

小夜を剣で羽交い絞めにしながら、朧は言った。

「この女と私と、どちらが綺麗かい・・・・・答えなくば・・・・今すぐこの女の首を・・・・・・。」

蒼紫は目を細めた。

「何故俺にそんなことを尋ねる。」

「答えろっ。」

朧は凄まじい形相にもかかわらず、その髪は金色に輝いていたし、傀王に愛され続けたその肉体は、暗がりでも光り輝いていた。

戦闘服でも、朧の生来持った肉体の芳香の香りは抑えきれない。

それに比べると、病弱な小夜は弱弱しい光に過ぎない。

だが―――。

蒼紫は静かにニ刀を構えた。

「貴様の体の美しさには、敬意を表しよう。」

「そうかい・・・・。」

朧の頬がゆるんだ。

蒼紫は静かに続けた。

「それほどの動き、習得には闇の者とて、ずい分かかっただろう・・・・それを壊すのは忍びない。その風前の美、讃えぬわけにはいくまい。」

「なんだと―――」

朧が言葉の裏の意味を悟った時、蒼紫の体はすでに宙返り宙空に浮いていた。

その体が宙をよぎり、月をかすめた時、朧は中空の影に向かって必死で突いた。

「―――クッ。」

槍は蒼紫の体に届かなかった。人質にとった、小夜の体があだになった。

 

ザクッ。

 

にぶい音がして、朧の胸に小太刀がめりめりとめり込んだ。

朧は呻いた。

「・・・・・こんなはずでは・・・・・・アアアア。」

小夜は目の前で惨劇が起こったのに、顔をおおって金切り声をあげた。

「イヤァアアアアア。」

蒼紫は朧の胸を串刺しにしていた・・・・だが、それは右胸であった。

狂気の美姫はいまだ生きていた。

朧はざんばらになった髪の下からつぶやいた。

「おまえも・・・おまえも私を裏切るのだね・・・・私を心の底から愛してくれるのは、傀王様だけ・・・・・・やはりおまえのような男は生かしておくわけにはいかないわ・・・・・・。」

朧は血の気の引いた顔で、地に伸びていた紐のひとつを引いた。

朧がつぶやいた時、蒼紫ははっとし、小夜の体を横抱えにして飛んだ。

 

バゥッ。

 

「うわぁぁあああっ。」

手下たちが爆破でふっ飛んだ。

その広場の空間は、朧の仕掛けた爆薬で、はじけ飛んだのであった。

「あの人、死んだの」

洞窟の中からやっと出たとき、小夜はたずねた。

蒼紫は答えた。

「多分。」

モリガン朧のことを指して言っているのだった。

そばには逃れた、辰政がいた。

「傀王の部下はあれで全部なのかい。」

辰政のたずねるのに、小夜は首をふった。

「わかりません・・・・六人か・・・・もっとたくさんいたのかも知れない。」

足を引きずるようにして、三人は歩いた。

疲れが泥のように襲ってきた。

少し歩くと、小夜がたまらずに岩陰に倒れこんだ。

さかんに、小さく咳き込んでいる。

蒼紫は見てわかった。

――労咳。

この時代、まだまだ不治の病であった。

蒼紫は岩陰に身をひそめた。

「少し休もう。」

辰政も相当疲れていたのだろう、それにならった。

――海岸線の向こうは、天草の島だ。そこへと、傀王や翔伍は船で渡ったのか。

蒼紫は考えた。

――夜明けまでは動くまい。砲撃はまだ、軍が到着していない。明日の昼が勝負だろう。

蒼紫は目を閉じた。

――操はどうしているのか。

蒼紫は遠く京都に残してきた、操を想った。

まだ盲目のままなのだろうか。

自分にあの操にしてやれることは、一体何なのだろうか。

蒼紫の脳裏に虚像の操の幻影がかすめて、消えていった。

記憶の断片に残るそれは、蒼紫にとっては辛いものだった。

両親を失い、戦場におびえきった一人の幼い少女が、その表情を凍りつかせていた。

――あの頃、操は笑わなかった。

蛍の淡い光が、彼らの頭上をかすめ飛んでいった。

 

 

庄三はまだ、洞窟の中にいた。

彼の行く手に、ガスパル源右衛門がいるのだった。

「くそっ、源右衛門、俺の邪魔をするな。」

源右衛門は、朧の仕掛けた爆薬による傷を負っていたが、まだ斧を引きずるようにして、庄三目掛けて何度も振り下ろした。

「翔伍さまの命令だよ・・・・翔伍さまは、世の中のために、これから立派なことをするだよ・・・・マグダリヤ様は、なんでおらにやめるように言うだよ・・・・よそ者の言うことを聞くだよ・・・・。」

庄三は後ずさりながら、叫んだ。

「翔伍様は、傀王と同じだ!俺たちを見捨てる気だ。本当だっ。」

「庄三様も、よそ者にたぶらかされただよ・・・。」

源右衛門の斧が、庄三の頭上にかかげられた時、ついに庄三はピストルを発射した。

「あ・・・・あ・・・・あ・・・・・・。」

源右衛門が呻いた。

「源右衛門!」

庄三は愕然として、ピストルを構えたままだ。

弾は源右衛門の肩を貫通していた。

そのまま巨体が倒れこむのに、庄三は駆け寄った。

「源右衛門・・・・すまない・・・・・!」

源右衛門はかすかに微笑んだ。

「庄三様・・・・マグダリヤ様を守ってくだせえ・・・・おらみたいな下働きには、それしか言えねぇだ・・・・おらはこのままここにいるだよ・・・・。」

「源右衛門、馬鹿なことを言うな。村人のところへ行って、俺もおまえもみんなを守るんだよ。」

「庄三様・・・・・。」

「待ってろ。今、みんなのところへ行くからな。」

庄三は言うと、痛む体を必死で、洞窟の外に這い出た。

そこは、蒼紫らの出た出口とは違う場所で、切り立った崖の上だった。

庄三はそこから、崖の下の朝の海を見て息を呑んだ。

 

――傀王!

 

傀王を乗せた小船が、しらじらと明るい沖に停泊している一艘の大型船に向かって、漕いでいっているではないか。

庄三はピストルを構えた。

ここからでは、届く距離ではない。

もとよりそれは、承知の上だった。

そして弾丸は一発しか残っていなかった。

――俺の銃の腕が、見限られたもんか、見ていてくれ。

庄三はゆっくりと引き金を引いた。

 

バーン。

 

ゆらり、と傀王の体が船の中で前に倒れるのが見えた。

――やったか・・・・・・。

安堵した庄三はその時、ふらりと前に倒れた。

下敷きになったときの傷で、ついに彼は気を失ったのである。

恩寵

長崎市街には外人居留地と呼ばれる場所がある。

その海に近い一角を、一人の大きなすげ傘をかぶった少年が、小走りに走っていた。

と、彼はオランダ商館の前で立ち止まった。

「ここだ。」

手にした四つ折の封書と引き比べると、少年は洋館の扉を叩いた。

中から執事の者が顔を出した。

「誰かね、こんな朝早くに?君は―――。」

「これを御頭から渡すようにことづかりまして。」

少年は執事の持つランプの明かりの下で、泥だらけの顔で白い歯を見せて、ニッと笑った。

その時この館の主、オランダ領事官のエルステンと彼の旧友である医者のポンペが、たまたま階段を降りてきた。

「どうした?エイブラハム。」

「おかしな小僧がこんなものを持ってまいりました。表書きはたしかにご主人様の名前になっております。」

「どれ。」

エルステンは手紙を受け取り、中身を開いた。

中から流麗な文字が現れた。

「この手紙は外務省管轄できているな。書いた者の署名がない。君、待ちなさい。誰にこの手紙を受けたのだね?」

少年はすでに立ち去ろうとしていた。

エルステンの呼びかけに、彼は立ち止まり、一言答えた。

「シノモリアオシ。」

そう告げると、灰色の町並みの中に傘は消えた。

ポンペは思わず、手紙を見返した。

「四乃森蒼紫?まさか彼がこれを書いたのか。」

エルステンはポンペにたずねた。

「君はその者を知っているのかね?」

「維新の前だ。印象的な少年だったよ。彼はヨシツネと同じ芸当ができた。」

「ヨシツネ?」

「木の葉が地面に落ちるまでの間に、それを刀で全部裁断できた。彼はまだ人を斬って歩いているのか。」

「君はどうしてそう思うのか。」

「あのさっきの少年は背に刀を背負って歩いていた。十年前の彼もあんな具合でね。私が学問をするように、彼にすすめたのだ。」

「フム。」

エルステンはしばらく考えていたが、やがて執事に申し付けた。

「朝一番に馬車の仕度を。」

その同じ頃、東京では川路利良と斎藤一が山縣卿に呼ばれていた。

山縣はいら立っており、川路は額に汗をかいている。

山縣は言った。

「残念ながら福岡の師団が島原へ向かうことに決定した。」

川路は驚いた。

「何故です。西南の役から後、国内の沈静化には警視庁が全力をあげて――」

「川路君。君は第一の殺人、第二の殺人という言い方を知っているかね。」

「はあ。用語としては存じております。」

「この天草翔伍という男、飛天御剣流の使い手だそうだが、彼の第一の殺人、すなわち政治家の粛清には警視庁は及び腰だったな。それは彼が飛天御剣流の使い手だったからかね。」

「だ、断じてそんなことは。」

「しかし維新の礎を築いた剣のひとつとして、そして先の志々雄真実の一件で、あの剣は正義の剣であり天誅であるとの見方が、すでに成り立っているらしい。―――そして今度の蜂起で、第一の殺人のことは忘れられていく。」

川路の面に険しいものが走った。

「では、この天草翔伍という男、たいしたくせもので―――。」

山縣は机をたたいて叫んだ。

「なぜそれを陸軍兵部省の私が口にせねばならん!この男を阻止できなかった理由をはっきりと言ってもらいたい。」

斎藤は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

軍関連のことを洗っていたとは、いかな斎藤でも言えたものではない。

川路は答えた。

「たしかに警視庁の力不足でありました。」

山縣は言った。

「下がりたまえ。君たちの用はすんだのだ。」

ドアを出て、川路は斎藤に言った。

「斎藤君。東京の事件も大変だというのに、島原の件はもう軍にまかせるよりほか、無理だ。」

斎藤は答えた。

「最初からそれはわかっておりました。そもそも軍の内部抗争に端を発しておりまして。」

「それだけではあるまい。山縣先生は政治家暗殺の件を嘆いておられた。斎藤君、この敵はそうとう腹黒いぞ。」

川路はそう言うと、斎藤を後に残して足早に廊下を立ち去っていった。

斎藤は歯噛みした。

「ちっ・・・・・あちら立てばこちら立たずか・・・・・!」

斎藤なりに、計算していたのである。

前の志々雄真実の事件の時、明らかに軍疑獄級の一件だったにもかかわらず、軍はこれを黙殺した。

彼が目をつけたのは、敵として潜入していた四乃森蒼紫の存在だった。

斎藤は身辺をさぐり、結論づけた。

―――こいつは軍の掃除屋だ。

斎藤は従って、考え得る限りの糸をつけて、蒼紫を島原へ行かせるようにした。

しかし志々雄の時と今回の結果は逆だ。

今回は軍が動く。

―――飛天御剣流への読みが甘かったのだ。

そして、その先は、斎藤には踏み込めえない闇が広がっていた。

―――政治か。

斎藤は剣心と道場で渡り合ったときのことを思い出していた。

あの大久保卿が一介の剣客の剣心に頼んできた。

元新撰組隊長としての、忘れ去った過去の古傷がうずいてくる。

そのことを考えるとき、斎藤の目には冷たい光があった。

―――この俺が表面変節をとげているのに、四乃森貴様が昔のままの動き方をすると踏んだことは浅はかだった。認めよう。

奴はあの天草翔伍を止めるだろうか。

斎藤は席に戻り、逮捕状をしばらくながめていたが、そのままにした。

―――単なる掃除屋ならば、ほっておけばいい。いずれ軍と合流する。貴様の正体、もう少し見せてもらうぞ。

やはり朝早く。

巻町操はゆっくりと、静かに起き出した。

彼女はすべての神経を研ぎ澄ませて、家の外へ出た。

誰にも気づかれていない。

雨の匂い。

その強くなる方向へ、彼女の足は歩いていく。

やがて高台に出た。

小さな空き地に木立ちが植わっている。

操はその樹の幹にもたれかかった。

透明な雫が、操のほほを濡らした。

 

―――森の匂い。あの人の匂い。ずっとこうしていよう。――――

 

操は今寝台に静かに横たわっている。

彼女は森の中を歩く夢を見ているのだった。

その手をお近が握りしめて、操の顔を見守っている。

そばには心配気に見守る翁たちがいたが、やがて医師らしき人物に外に出るように言われた。

「では、手術を始めよう。」

操の目に巻かれた包帯を丁寧にはずすと、医師は手術道具のメスを操の皮膚に当てた。

「麻酔が効いているはずだが。それにしても、何という剣檄だ。」

医師は二人の看護婦に指示を出しながら、手術を始めた。

お近は耐えきれず、手術室の外で泣き伏している。

「手を――手を握っていて、って言ったんです、操はん。よっぽどつらかったんどすなあ。」

翁は暗い顔をして、閉められた戸を見つめてつぶやいた。

「蒼紫は、どうしとるかの。」

                                  

蒼紫はそばの木に倒れている娘の肩に手をかけた。

「立てるか。」

小夜は目を開き、乾いた唇をゆっくりと動かした。

「神に・・・神に祈っておりました・・・あの女の方に・・・・安らかな眠りと祝福を・・・・。」

「辰政、起きろ。天草翔伍を阻止する。」

辰政は頭を振り、立ち上がった。

「ケッ、てめえ一人で何ができるってんでぇ。ま、勝負はつけてもらわねぇといけねぇけどよ。戦争おっぱじめる中へ行くのはごめんだがね。」

蒼紫は言った。

「オランダ領事館へ手紙を書いた。あそこにはキリスト教徒への理解者がいる。また、古くからの日本の信徒への理解もある。そして内戦についても、反対の意見だろう。」

小夜は蒼紫の言葉に、うつろだった表情を初めて明るくした。

「そ・・・それは本当ですか。」

「恐らくあなたの考えにも彼らならば共鳴するはずだ。」

「あの・・・私、兄に手紙を―――手紙を書きます。」

小夜はスカートの中から、筒状のペン入れを取り出した。

「神の言葉を書くために、いつも持ち歩いているのです。紙はありますか。」

蒼紫がコートから懐紙を出すと、小夜は羽ペンで文をしたためはじめた。

辰政はしばらく見ていたが、やがて蒼紫に言った。

「おやさしいこった。それよりもてめぇがそういう越権行動に出るとは思わなかったぜ。オランダ領事館だと?そんな奴らが何をしてくれるっていうんだ。外国人だろうが。」

「・・・・・・・・・・・・。」

「まあ斎藤へのみやげ話がまたひとつ増えたってところで、どこまでこんな病人を連れて歩くつもりなんでぇ。」

「彼女は兄に会いたがっている。これから島に渡る。」

蒼紫は言うなり、小夜を抱えあげて背負った。

小夜がひるむ間もなかった。

辰政は驚いた顔になったが、蒼紫の表情は冷淡そのものだった。

辰政は言った。

「ま・・・・天草翔伍のところへ行くんだから、文句は言えねぇか。」

三人は山から海岸へ下り、しばらく歩いた。

「船がある。」

乗り捨てられている粗末な棹舟を見つけ、蒼紫は小夜を下ろすと棹を手にして飛び乗った。

小夜を船倉に横たえると、辰政の助けで海へ出し、沖へと漕ぎ出した。

目前に天草群島の黒い影が見えた。

小夜はささやいた。

「兄たちは・・・・島の聖霊の丘に・・・・。」

小夜が苦しげな息でつぶやくと、蒼紫は言った。

「あまりしゃべらないほうがいい。」

蒼紫は巧みに棹をあやつっている。表情に冷淡さに加え、苦いものがある。

舟のはじに座りながら、蒼紫から目を離さない辰政は考えた。

―――あの顔はどういう意味なんでぇ。まさかこの女に気でもあるというのかね。

辰政は小夜に顔を近づけ、ささやいた。

「おい嬢ちゃんよ。こいつが兄貴のところまで連れてってくれるとよ。」

小夜はかすかにうなずき、放心した顔で目を閉じた。

蒼紫は黙って緑色の濃い深い海水を、棹で分けていた。

―――この女の向こうに、操を考えるのはよせ。

蒼紫の頭の中を、影のようにその考えがかすめた。

しかし彼のような人間の感情移入の仕方としては、仕方のないことであった。

この少女、小夜の命はもう長くない。

それは蒼紫の知識として知る、冷徹な事実であり真実である。

労咳は不治の病なのだ。

そして今の自分としては、何の手の尽くしようもない。

この少女がもしも天草翔伍の妹でさえなければ、自分は長崎の知人の医師ポンペの元へ連れて行ったに相違ない。

してみれば、いかに今こうして為している行為が冷酷非情なものか、と蒼紫は考えるのだ。

―――だがどうしても天草翔伍にこの妹を連れて会わねばならぬ。

ふと蒼紫は自分はまた同じことを繰り返しているのだろうか、と思った。

いつも見る夢の残像が脳裏をよぎった。

自分の心が朽ちてきているのだろうか、あの時みたいに――― 一人、緑の魔境に入って行ったあの時のように。

 

 

 

富士の樹海のそこには昼なお暗い深い原生の森があり、背後は切り立った峡俊な渓谷がそびえ、人の足跡など絶えてない。

連続して東西に広がる広範囲な樹林の森は、踏み込んだ人間の方向感覚を過ち、たまに生き倒れた白骨死体を見ることもあった。

森以外のところは、風穴のように開いた荒涼とした原野で、これも骨のように白々と朽ち果てた老木が、無残な野ざらしの態で呆然と立っている。

蒼紫は昼間は雲以外に動くものもないそこへ、着のみ着のままでわずかばかりの食料を手に入って行ったのだった。

ずっと昔、山人の小屋に行ったことがある。―――「武士の暮らしでは、おまえはこれ以上強くならない。」―――その頃は瞳に何かへの憎悪の炎を燃やしていたが、この時はどうだったであろう。

山に潜んで最初の数日で、世俗的な時間の観念は失われた。

ここでは東京での彼の生活の大半を占めていた、社会的な規範や習俗は何もない。

空腹のために漁をする以外、あるのは剣と己れのみである。

失った四人の精鋭であり、彼に最期まで忠節を尽くしてくれた者たちや、あの憎むべき緋村抜刀斎の存在すら、山にかかる天上の靄のように希薄になりがちだ。

時として自分の存在すら、この広大な原野の中の灰色の一点のように感じられ、そのまま急俊な谷に飲み込まれ、山の頂きに抱かれて獣のように息絶える、幻想の誘惑にかられる。

それを敗北とするのは、下界の論理だ―――この自然の圧倒的な力は、人為のそれを凌駕する。

蒼紫はこの心の内なる吐露を半ば慙愧するかの如く、小太刀を血の滲むまでに振るい、自分の肉体を痛めつける修行を続けた。

人を拒む山の自然は、美しく、かつ厳しく無情であった。

 

昼間でさえそうなのだから、虚無の訪れる夜の闇ではなおのこと。

蒼紫はある日、上流より流れてきた傷ついた鷺の雛鳥を見つけた。

その時彼は岸辺で回転剣舞の剣戟(けんげき)にいきあぐんでいた。

これが為せなければ、ここへ来た意味はない。

彼は最初目の隅に見つけた幼鳥の鳴き声を捨てるつもりだった。

が、意を返して水に飛び込んだ。

雛鳥を救うと、そのまま上流へと水の中を移動して行き、行ったこともなかった谷間の瀑布に出た。

巣を探すと、湿潤たる松の木の陰にあった。

蒼紫は樹の枝をつたい、登った。

木立ちの上からは、遥か向こうに夕闇迫る山並みの緋に染まる稜線が見えた。

巣にそっと雛鳥を返した時、胸に去来した空虚な思いは、魔が棲む闇からのおとないだったのかも知れない。

数十メートルは眼下の、先ほどの瀑布の中に、彼はその幻影を見たのだった。

ハッと肌がひきつり、凍りついた。

蒼紫が見たと思ったのは、白い少女の裸身であった。

蒼紫はそれを、現実の人間だと思った。

もちろんその考えをすぐに彼は打ち消した。

こんな樹海に自分以外の、それも女がいるはずがない。

いるとすれば、それは「水妖」だ。

水妖は孤独から来る幻影であり、外国の書物にて彼はそれを知っていた。

船乗りは、長い航海の孤独から波間に人魚の水妖を見る。

だが蒼紫は、今の精神状態が危うい一点に差し掛かっていると、考えざるを得ないのだった。

 

山の夜は眠れなければ長い。

時折山の獣たちの遠吠えの声が闇に木霊する中、蒼紫は考えた。

自分は今までそれほど人間を好きだったわけではない。

そしてあの帝都の街も―――そこで得た多大なる知識も。

結局好ましくなかったから、こんな闇の中で獣のような暮らしを続けている。

そして亡き者たちに手向けるあでやかな朱の華のために。

自分としては、あの剣舞の技で、出来うる限りの美しい放物曲線を描かねばならない。

暗闇に、その理想とされる緋色の、なめらかな斬軌道を想像してみる。

士道の美辞麗句も、国体の擁護論も―――彼の嫌いな長州浪士がさかんに口にしていた―――この一瞬の力学の前には、無である。

そうではない銃や砲撃戦の時代にもう入っているのだが、蒼紫は剣を捨てるつもりはなかった。

しかし剣によってもたらされる、斬死体は醜い。

血はたちまち変色し、どす黒い暗赤色の染みに変わる。

それもあでやかな朱と言い切れるのか。

蒼紫は半眼になった目を閉じた。

武田観柳の、ガトリング銃の銃弾に貫かれた死体の血の色よりはましなはずだと思った。

あの痛みの記憶はまだ自分の中には残っている。

その恨みを、抜刀斎に向けるのは間違いだろうか。

ああいった者たちが、今の明治の世の中を作ったのだから。

そして今も立派なる社会の一員だ。

蒼紫はそこまで考えて、闇に意識を手放した。

 

最初は水の音の記憶だった。

青錆びた月のかかる、闇の天空より滔々と滝は流れ落ち、黒い岩をえぐって、深い底知れぬ滝壺を作っている。

夕闇の中で見たあの川底か―――その黒いすべらかなる岩肌から一人の少女が白き片手をついて、すっくと立ち上がった。

それは水妖たる変化の裸形の美少女である。

その双(ひとみ)には綺羅の(すい)なる星河を宿し、滝の瀬に涼しげにそよぐ緑の黒髪、その象牙の体躯は透けて出る輝きの(かさ)を被り、ニの脚の下には月光に萌える水滴をきらめかせた青苔を踏んでいる。

その眸が蒼紫をとらえた。

その透徹たるまなざし。

蒼紫は黒々とした水流をかきわけ、その岩に近づいた。

畏れ(おそ)るだろうか―――水から挙げた陽に焼けた腕を、ゆっくりと雪白の項に近づけていった。

 

 

それから時は経て、山は初春の頃。

蒼紫はしまってあった、例の灰褐色のコートを羽織った。

剣を腕に収めると、下草を踏み、彼は切り立った岩場に流れる川岸に出た。

遥かな山並みをよく眺められる丘の上に、彼だけを待っている人影があった。

 

「行こうか。」

 

変わらぬ玲瓏たる横顔で低くささやいたが、眼に暗い炎のようなものがある。

蒼紫が片腕を広げると同時に、さあっと山風が吹き降ろし、白き幻影は蒼紫のコートの中に溶け消えた。

そして半月後、蒼紫は東京から京都へ向かう街道筋を下っていた。

彼のそばにはやはり、この現実に生きている操とは、別の存在があった。

もちろん本当の操が生きてあることが、蒼紫にとっては安らぎである。

ではあの死んだ四人の部下とともに、彼は彼と行動をともにする幻影を付け加えたかったのだろうか―――答えは否である。

それは孤独が生み出した、彼の魂をさまよわせる迷宮の虚像である。

はじめは剣戟を為すのに、この幻影は彼にとっては邪魔な存在であったが、日がたつにつれ、彼の魂の奥深くに食い込んでいき、ついにはその魂魄の半分を奪われ、この陰鬼を道連れとする道を蒼紫は選んだのだった。

つまり、彼はその後この幻と、彼が手にした剣の前に、現実の人間たち、そして現実の操をも退けたのだった。

だがそれが、天翔龍閃の一瞬の閃きの前に、破幻し去ろうとは。

その後飛天御剣流による落雷の如き傷が癒えるまでの間、蒼紫が参禅を繰り返したのは、すべてこの時までの己れの解体のためであった。

よって彼は、かの幻を生み出した暗闇を、巨大な檻の中に封じ込めたと思っていた。

だが、その悄とした魂が今、彼の奥底で啼いているのだ。

この幻影は、傷ついた操のみならず、彼が舟に乗せて運ぶ少女の上にも、時に重なり座像を結んだ。

蒼紫の棹を握る指先が、固く握り締められ白くなった。

 

考えてはならない。

 

これは抜刀斎が言ったとおり、俺の心が弱くなってきている証拠だ。

こんな―――この程度の不運、不幸でさかしらに、しかも女のことで―――そう考える蒼紫だが、己れの目が座ってきていることに気づいてはいなかった。

「あなた方によく言っておく。新しき葡萄酒は新しき皮袋に入れなければならない――――。」

 

天草諸島の中で、一番大きな本島の天草灘側には二つの天主堂がある。

長崎の浦上天主堂に比べれば、規模も小さく粗末な建て方だが、今そこで天草翔伍は、集めた群衆を前にひときわ声も高らかに聖書の一説を読み上げていた。

祭壇には立派な飾りつけがほどこされ、そのマタイによる復音の一説は翔伍の好むところであった。

と、そこへ一人の男が入ってきて、翔伍に告げた。

「そろそろ刻限です。」

翔伍は脇待の少年たちを下がらせると、天主堂から丘を登り始めた。そこにも群集が道を作っていた。

人々は翔伍が通り過ぎると、口々に言った。

「ありがたや、翔伍様のおかげで病が癒えた。」

「翔伍様ってなんでもできるんだね。」

「天草四郎様の再来じゃ。」

老人や子供たちがざわめきながら、見守っている。

中には手を合わせて祈っている者もいた。

翔伍はその前ょ、柔和な笑みをたたえて進んでいく。

と、丘の上に立つと、翔伍は腰の大剣をスラリと引き抜いた。

天にはにわかに黒雲が流れ、陽は妖しく明滅しはじめていた。

観衆らはどよめいた。

偶然なのか、翔伍の立つ丘を残して、あたりが薄闇の中に沈みはじめたのだ。

「陽が・・・欠けていく。」

「昼が死んでゆくぞ!」

翔伍は落ち着き払って大剣を、残っている陽光にかざした。

薄明の中、この剣だけが異様なる白迅の光ょ放った。

ザッと信徒らは地にいっせいに膝をついた。

「天帝様!天帝様じゃ!」

「天帝様が降臨されるぞ。」

翔伍は固く目をつむっている。

彼はこの世ならぬ者の声を聞いているのだろうか―――が、突然カッと目を見開くと、彼は叫んだ。

「そなたたちはこれからは、神の申し子である。すべての命は、殉教しても、天国へ聖なる天使たちが迎え入れるだろう。わが身も既に天草四郎時貞殿によって、導かれている。天にいたるまで、私は七つの煉獄の門をくぐり、そして、主によって天に召されるだろう!」

 

その同じ刻限―――。

 

「時間ですな。」

望遠鏡をのぞいていた陸軍仕官が短く告げた。

仕官の横の男が低くささやいた。

「ヤツらは最新式のスナイドル銃をもって武装しているとのことです。」

「しかし信徒すべてが武装しているとは―――。」

「あまり甘く見ない方がいいと思いますがね。彼らは殉死を何とも思っちゃいません。」

「乗鞍君、しかしキリスト教徒なのだがね。」

「いずれにせよ、私の任務はここまでです。私は東京に戻ります。」

「うむ。君の調査は大変役に立ったよ。」

「それはいたみいります。」

それは、以前蒼紫が京都で会った、乗鞍彦馬であった。

彼は仕官らの陣地を抜けると、軍艦が停泊している浜へとくだって行った。

仕官らは一言つぶやいた。

「警視庁の狐め。銃が渡る前に、敵をあげんか。」

「あの鋼鉄艦は、出撃命令が下されているのありましょうか。」

「知らんな。海軍のことは・・・・。」

と、そこへ歩兵が走ってきて言った。

「本島の敵は、歩塁を築いています。」

仕官は目をむいた。

「何ッ、歩累だと。そのような物、暴動の流徒が―――。」

「知識を持った者が煽動しているのではないのかね。」

司令官だった。さすがに冷静だ。

「だとすれば、篭城戦になることを見越して、それぐらいするだろう。敵の流した情報に踊らされるな。」

「情報、でありますか。」

「天草四郎時貞の復活とやらの、赤新聞のような告知文だ。彼らは鎮圧せねばならん暴徒だということだ。」

その時また、伝令の者が走ってやって来た。

「司令官殿、長崎から軍医を呼びましたか?」

「軍医?」

「外国人軍医が、先刻馬車から降り、本島へ渡航したようなのであります。」

「そんな連中は私は知らん。外国人、というと信徒と関係があるのかも知れんが。今はかまっておれんな。」

司令官は命じた。

「移動を開始せよ。連中が一砲目を発射したら、全軍あげて一斉射撃だ。」

エルステンは本島に上陸してから、すぐに馬を二人の男にとめられた。

「止まれ、止まれーっ。」

銃を持った、クリスとミスター山東だ。

エルステンは二人に言った。

「私はオランダ領事館のエルステン・ロペスだ。天草翔伍に会いたいのだ。通してくれ。」

クリスと山東はエルステンの言葉に、顔を見合わせ、ほくそ笑んだ。

「翔伍様のところへは、自分たちが案内してさしあげますよ。」

「それはありがたい。」

クリスらは連れている馬に乗ると、山道を入って行った。

「早くしないと、砲撃が始まってしまう。それまでに、天草翔伍を説得できなければ。」

エルステンは馬を急がせた。

 

その山道の付近を、小夜をつれた蒼紫ら一行は反対側から登りつつあった。

やはり、蒼紫は小夜を背負っていた。

「聖霊の丘は、この山の向こうです。」

小夜が言うのに、三人は山を登っているのだった。

と、その時、銃声が聞こえた。

蒼紫は急いで山を駆け上った。

「あれは―――!」

蒼紫の知っている、エルステン・ロペスが二人のならず者に銃をつきつけられ、脅されているではないか。

エルステンは崖のふちに追い詰められている。

「あの人は誰?」

「オランダ領事館の外交官だ。助けるぞ。」

言うなり、蒼紫は小夜を下ろして駆け出した。

小夜もあわてて、後を追った。

辰政も後を追いかけたが、もはや捨て鉢な感じである。

「ちっ、まためんどうなことに・・・・。」

小夜は大声で叫んでいる。

「クリス、山東、その人を殺してはなりません。」

エルステンは風のように突然現れた、自分を守る人影に驚いた。

「君は。」

「あなたに手紙を書いたものです。」

「では、君が四乃森蒼紫君か―――!」

蒼紫はクリスと山東に、抜刀の構えを見せていた。

クリスが言った。

「なんだてめぇは?めんどうなことになりそうだから、こいつを始末しようってのに。」

銃を発射しようというその時、蒼紫の手から、小太刀をしまっている刀の鞘が飛んだ。

鞘はクリスの手から銃を跳ね飛ばした。

蒼紫はクリスに向かって小太刀を一閃させた。

クリスは斬られて、大声でわめいた。

「てめえっ!」

その瞬間であった、山東の銃がエルステンに向けて発射されたのは。

「あぶないーーーーっ!」

小夜が悲鳴をあげて、エルステンの前に飛び出した。

 

バーン。

 

蒼紫もエルステンも、愕然としていた。

小夜がエルステンをかばったのだ。

エルステンは小夜につきとばされた。

小夜はそのまま、前かがみになって倒れた。

エルステンは小夜に駆け寄った。

「きみ、きみ、しっかりしなさい。」

あわててエルステンが言うが、小夜の左肩に弾丸は命中していた。

蒼紫はダッ、とクリスと山東に向かうと、小太刀をひらめかせた。

「うおっ。」

山東もやはり斬られたが、もはや遅かった。

一瞬の隙を狙われたのだ。

エルステンは小夜を抱えて、応急処置をほどこしていた。

「ここは十分な設備もない。早く長崎へ運んでいかないと―――。」

小夜は小さくかぶりをふった。

「いいえ・・・・・あなたは兄の身を助けに来られたのでしょう・・・・・兄を・・・・村人たちを救ってください・・・・私の命など・・・・・。」

「あなたは・・・それでは天草翔伍の妹殿ですか。」

エルステンは胸がいっぱいになって、その目に涙が浮かび、言葉が出てこなかった。

「そうです・・・・・お願い・・・・兄を・・・・兄を・・・・・この手紙を・・・・・兄に・・・・・・・。」

かよわく震える指先が、虚空をつかんだ時、小夜の命は天に召された。

まぼろしの純白の小鳥が一羽、天に向かって羽ばたいていった。

蒼紫は血のりのついた小太刀を握り締め、呆然と立っていた。

こんなにもあっけなく―――守ろうとした命が別の形で死を迎えようとは、彼は思ってもみなかった。

「手紙とは―――?」

エルステンが問うのに、蒼紫はかがみこんで、無言で小夜のポケットから手紙を取り出した。

その時、蒼紫らの背後で砲声がした。

「西南戦争の再来か。」

エルステンが言うのに、蒼紫は馬を引いた。

その形相は、先ほどよりもさらに殺気だっていた。

蒼紫は言った。

「馬をお借りする。あなたは軍の司令部に行って、砲撃を中止するよう、言ってください。」

「待て。そんなことは軍は聞き入れないぞ。私は、先ほど説得を試みたのだ。取り合ってくれなかった。君一人で何処に行くのか。」

エルステンが叫んだとき、すでに蒼紫は馬上の人であった。

辰政があわてて、蒼紫の後を馬で追った。

エルステンは小夜の遺骸とその場に取り残された。

「なんと、哀れなる女人であることか。」

エルステンは帽子を取り、小夜の亡き骸に向かって十字を切り合掌した。

翔伍の胸のメダリオが、キン、と高い音を立ててはずれた。

「小夜の身になにか・・・・?」

拾いあげて、翔伍は不吉な予感を払いのけた。

ふっ、と京都で斬りあいをした時の、蒼紫のことも思い出された。

「まさか――な。」

予感を打ち消すように、翔伍は采配をふるった。

「村人たちを歩累の前へ出せ。」

村人たちは、旧式の銃を持たされている。

殉教するのだ、と翔伍に言いくるめられた彼らは、泣きながら軍の砲撃に向かっていく。

最新式の銃で武装しているのは、天主堂にたてこもる、翔伍を守っているならず者たちばかりだった。

何という冷酷さであろう、天草翔伍は信徒らが殉教死するように仕向けていたのである。

―――その方が、日本政府がキリスト教を信ずる諸外国に対して、顔向けができまいからな。好都合だ。

小夜がこうした兄の冷酷さを知らずして死んだのは、ある意味では幸いであったかも知れない。

「神のみもとに行くだーーーー!」

村人と子供たちが、蒼紫が旧式で使い物にならない、と言った銃で軍の砲撃にむかって走って行く。

「えーん、えーん、翔伍様、翔伍様・・・・・。」

泣く村娘の前にその時、翔伍様とみまごう人影が現れた。

「あっ、翔伍様・・・・。」

それは、馬で駆けつけた蒼紫だった。

土煙の中で、蒼紫は抱えあげられるだけの子供を抱えると、砲撃から逃れた。

「翔伍様、翔伍様・・・・・。」

蒼紫は子供たちに翔伍と間違えられていた。

その時、樹の上で人影が動いた。

「猩々か。」

「ここに。」

「俺がいいと言ったら、仕掛けろ。」

かつての御庭番衆の受け答えの呼吸で、猩々がすばやく退いていく。

辰政は木陰に隠れて、蒼紫たちの様子を見ている。

「ちっ、あのヤロウ・・・・・。寝返りやがったか。」

蒼紫の姿は一瞬かき消えたが、次の瞬間、軍の最前線の前に現れていた。

司令官が大声で叫んだ。

「なんだーっ、貴様はーっ。」

「砲撃を中止しろ。」

「貴様はぁっ、軍の命令をーっ、阻止するのかーっ。」

「もう一度しか言わん。砲撃を中止しろ。」

蒼紫は繰り返した。

司令官は蒼紫を無視して、命令した。

「ええい、撃て撃て。」

その瞬間、軍の陣地全体が音をたてて陥没した。

猩々の土遁の術である。

蒼紫は御庭番衆の用いる、簡単な策を弄したのだった。

「きさまーーっ。」

司令官たちは、土煙の中でうめいた。

すでに蒼紫は樹上の人である。

身軽に天主堂にむかって、飛んでいた。

それを猩々のすげ傘が追う。

「御頭!」

「貴様の用向きはここまでだ。」

はっ、と猩々が見回したとき、蒼紫の気配はなく、声のみが木々の間に伝わってきた。

猩々はあることを悟り、その瞳に涙があふれた。

「御頭!俺は――俺は。」

あなたのことが、と言いかけた時、蒼紫の声はさえぎった。

「御庭番衆は解体した。俺がしたのだ。さらばだ、猩々。」

二度とは、会えない―――猩々は面をはずして一礼をすると、その場を風のように立ち去った。

 

蒼紫は風のように天主堂に向かって走った。

―――海の方が心配だ。俺の予感では。

天主堂の前を守るならず者らに小太刀を一閃させると、蒼紫は堂の窓を蹴破った。

「天草翔伍!」

だが、堂内はもぬけの空だ。

天主堂は海に面して立てられている。

その窓から、蒼紫はある物を見て息を呑んだ。

―――長崎海軍の鋼鉄艦!

軍艦の砲門は残らず、天主堂を狙っていた。

―――そういうことか。

その時。

蒼紫の背後でなつかしい声がした。

「ホーホホホホ、やっとここまでたどりついたね。」

死んだはずの朧であった。

蒼紫は驚かず無表情だ。

「やはり変わり身―――。」

「おまえが斬ったのは、血袋さ。あいにくだったね。」

だが、朧はかすかに右脚をひきずっていた。

蒼紫は小太刀を呉鉤十字に構えて言った。

「捨て身の変わり身だったようだな。」

「問答無用!」

朧は一声叫ぶと、槍をふりかざした。

二人の激しい斬り合いが展開された。

その時、沖の鋼鉄艦から砲撃が開始された。

砲撃はものすごく、天主堂の中をぶちやぶった。

「あれも貴様のシナリオ通りか。」

蒼紫の問いに、土煙の中で朧はくやしげに顔をゆがめた。

「翔伍が・・・・翔伍が・・・・私たちを裏切るとは・・・・・・!」

「飼い犬に手をかまれたな。」

朧はその言葉に、一瞬ひるんだ。

その瞬間、蒼紫の姿は目の前になかった。

―――またあの流水の動きとやらかっ。

朧は目の前の空間に激しく槍を突き出した。

恐らく、そこに、蒼紫はいるはずなのだ。

だが―――。

手ごたえがなかった。

―――何処に隠れる空間が―――?!

「―――上っ。」

朧はあわてて振り仰いだ。

蒼紫の身体が梁の近くにまで旋廻していた。

朧の瞳が大きく見開かれた。

蒼紫の両小太刀が今度こそ、蒼紫の全体重をかけて朧の両肩に直撃していた。

「あああああッ。」

朧の両腕が胴体から切り離されて、天主堂の床に血をふりまきころがった。

「傀王さまーっ、傀王さまーーーっ!!!」

朧は両腕をなくして、声の限りに絶叫した。

その声に、傀王は答えたのだろうか・・・・。

死んだはずなのに―――。

沖の海軍の鋼鉄艦にその時、発砲しながらつき進んでくる一艘の大型船があった。

傀王の海賊船だ。

指揮をしているのは、まぎれもなく傀王であった。

「朧よ・・・・わしがこときれる前に、このわしの姿をとっくと見よ・・・・・!」

本島から遥かに離れた、野母崎の彼方から、その船は進んできていた。

海軍の軍艦に乗る、乗鞍彦馬はその瞬間、恐怖した。

「アウッ。」

彦馬の肩に砲撃の破片が当たった。

「舵を切れーっ、舵をーっ。」

彦馬は宗舵手に叫んだが、遅かった。

船の回頭までには、時間がかかるのだ。

海賊船は、鋼鉄艦にのりあげた形でぶつかった。

傀王の執念であった。

「この距離から、アームストロング砲を撃てば・・・・!」

狂気の表情で傀王が言った時、巨大な火花があがった。

蒼紫は言った。

「やはり、砲身がはじけ飛んだか。」

今の衝撃で、傀王の乗る船のアームストロング砲が自壊したのである。

朧は、放心の態でそれを見ている。

ぼろぼろになった朧でも、金髪がかかるその横顔は美しかった。

「もはや、思い残すことはない・・・・斬れ・・・・・。」

朧がかわいた唇でそうつぶやいた。

蒼紫は無言で見下ろし立っている。

「・・・・・おまえは一体どっちの味方だ!早く斬れ!」

その時、朧の喉を、大剣が音もなく貫いた。

「天草翔伍――――。」

蒼紫は目を見張った。

翔伍が武装したさむらい集団を引きつれて、堂内に入ってきた。

朧は無論、即死であった。

翔伍は大剣をすらりと喉から引き抜いて言った。

「やれやれ。よくもまあ、これだけしゃべる。女がどなるのは、見苦しい。そう思わんか。」

翔伍が言うと同時に、銃の重包囲が蒼紫を取り囲んだ。

蒼紫は銃の包囲の中に立っていた。

「・・・・・あまり俺を怒らせるな。」

翔伍は蒼紫の言葉に冷笑をかえした。

「その女を哀れに思うのか。」

蒼紫は鋭い目つきで見返して言った。

「貴様の妹は、死んだ。」

「なに。」

翔伍の顔に動揺が走った。

「小夜が――小夜が死んだだと。それは嘘ではあるまいな。」

「小夜、と言うのか。」

あとは蒼紫は無言であった。銃に対して、小太刀を構えていた。

そばには手をもがれたモリガン朧の死体がころがっていた。

翔伍は言った。

「貴様があの軍艦を呼び寄せたのだな。言え。海軍の誰とつながりがある。」

「・・・・・・・・。」

「まあいい。いずれその者の首も打たせてもらう。」

その時、天主堂の上にすさまじい砲撃が見舞った。

鋼鉄艦は一艘ではなかったのだ。

翔伍の顔に、焦燥が走った。

「ちっ、まだ一艘いたのか。」

だが、その一瞬。

蒼紫を囲む銃を構えた者らは、声もなく、いっせいに倒れた。

すべて峰打ちであった。

翔伍がそれをよけたのは、恐らく本能である、と言っていい。

間一髪、翔伍は蒼紫の小太刀をはじくと、ダッ、と外の砂浜に向かって駆け出した。

蒼紫は翔伍を追った。

 

まだ散発的に砲声の声はとどろいていた。

村人らは、翔伍に見捨てられ、あの砲声の中を逃げ惑っているのだ。

戦さというのは、いつも同じだ。

弱い者のみが、このような悲惨な目に会うのだ。

「天草翔伍!」

蒼紫は逃げる翔伍の前についに立った。

翔伍は言った。

「貴様は、あの時の男だな。京で俺の前に立った。」

「・・・・・・・・・。」

「貴様が軍部の犬だったとはな。」

天草翔伍は剣に手をかけ、鯉口を切った。

蒼紫と相対することを覚悟した風であった。

蒼紫は言った。

「何と言われようとかまわん。今は、おまえに問うことはひとつだけ。何故あの時操を倒した。」

翔伍は考えをめぐらせていたようだが、こともなげに言った。

「あの時の女か。あれは貴様の兄妹か何かか。」

「ちがう。」

翔伍は蒼紫の答えにうすく笑って答えた。

「では同情はしよう。しかし、刀を持って向かってくる時点ですでに間違いだったのだ。女として穢れた魂と言わざるを得ない。あの技はその罪への報いに過ぎぬ。甘んじて受けるべきだ。」

「なに。」

翔伍は蒼紫の思いもよらなかった言葉を続けた。

「私は穢れなき魂の妹の小夜を失った。その前に、穢れた魂のひとつが神によって召されるのは、むしろ誉むべきことと言っていい。貴様も天上の魂について思いをめぐらせば、この地上の生死など草葉の露の葉のまたたきにすぎぬことがわかるだろう。それだけの技を会得した者を殺すには忍びん。ことに貴様のような、執念深い男はな。」

「――――。」

「我が同士となるならば、貴様をここで倒すことはやめにしておいてもよい。」

翔伍はガラス玉のような瞳に冷たい光を宿して、言い切った。

その絶大なる自信は揺るぎようもなかった。

 

蒼紫は自分の中の凶暴さが目覚めるのを感じた。

こらえろ、と彼は己れを叱咤した。

―――感情に動かされてはならぬ、感情に・・・抜刀斎の時と二度と同じ轍は踏まぬ・・・・・・。

目の前の男を動かし形作ってきたのが、この理なのだと、蒼紫の冷静な部分は判断できていた。

しかし―――。

 

―――穢れた魂だと。

 

目に見えない言葉の鋭利な破片が、一瞬で蒼紫の胸に突き刺さり、突き抜けていった。

それは翔伍が自分の妹と引き比べて、操をおとしめたからだけではなかった。

かつて操が九ノ一として生きる道を選び、また選ばせるように仕向けたのは、ほかでもない御頭だった蒼紫なのだ。

般若が操に苦無の使い方を教えるのを見た時も、蒼紫は受け入れ黙認した。

あの時操を完全に手放していれば、操は違う空の下を自由に羽ばたいていけたかも知れないのだ―――例えばこの男の本当の妹の、あのマグダリヤ小夜のように。

そう考えることは、心にできた傷をさらに大きく拡げ引き裂くようなことだったが、操の目がどんなに祈り続けたところで治らぬと思う蒼紫にとって、当然の帰結点と言えた。

心も血を流すことがあるのかも知れない、と蒼紫は思った。

つまり俺は、それほどまでにあの操がそばにいてほしかったのだ―――――――――――――――。

 

「どうした。答えはなしか。」

翔伍が剣に手をかけた。

相手はガクリと首を垂れていて斜めに目を切るように下がった髪で、その表情は読めないでいた。

翔伍は少したじろいだ。

一瞬すさまじい冷気のようなものを蒼紫から感じたのだ。

しかし翔伍はすぐに打ち消した。

―――フ。かかりの姿勢にすぎん。

蒼紫はバサリとコートを脱いだ。

が口をついて出たのは、意外な言葉だった。

「貴様を捕縛する。」

翔伍は苦笑した。

「ふふ。言ってみるものだな。私は上京して今度は別の標的を狙う。日本政府はキリスト教徒を弾圧した。それを諸外国に向けて、さらしものにすることができた。次はまた政府だ。新たなる伝説の始まりだ。」

「村人たちもその礎か。」

「そうならざるを得なかった日本政府を、私は心より憎む。傀王もくぐつだ。来い。貴様は惜しい男だから、それなりの流儀で殺してやる。」

翔伍は抜刀術の構えを取った。

蒼紫も両刀を引き抜いた。

翔伍は内心嘲笑した。

―――構えた時点ですでに負けだな。太刀筋がまる見えだ。一瞬で殺す。

二人の男が対峙しているこの海岸に、人が降りてくる気配はなかった。

ここでの戦いは終わってしまったが―――小夜がもし生きていたら、潜伏し、さらなる次の機会を待つ。

翔伍がそう思ったとき、蒼紫の垂れた首が動いたような気がした。

―――もらった!

翔伍が踏み込んだ。

逆風が足元から巻き起こった。

相手が引き込まれる抜刀術―――『天翔龍閃』・最も美しく、最も恐るべきかの抜刀術―――刀身が流れるように空間にひらめいた。

蒼紫の頭から胴までを両断する刃が、上段より駿速で襲ってきた。

蒼紫の体は無残にも寸断され、小太刀は宙に舞うであろう。

しかしその時。

 

―――いない!

 

翔伍は刀の第一撃が空をかすめるのを感じた。

蒼紫が体をひねって、海岸の岩を蹴り、その反動で高く宙空へと跳ね上がっていた。

一瞬見えた目つきは鋭く、獲物を狙う猛禽類のそれであった。

―――しまっ・・・・!

翔伍に殺される、という意識はない。

ただはっきりとした恐怖心というものを、剣が宙をかすめた時意識したのだった。

翔伍は轟然と剣を振り上げた。

―――斬る!奴が落ちてきたその時!

不吉なる暗き巨鳥の爪牙と、臥龍の閃光の雷撃が、明暗を分けて交錯した。

 

 

―――呼んでいる・・・・・・・・。

 

蒼紫様がまた何処かで戦っているの―――操は布団から起き上がり、座っていた。

何だろう、この感じ・・・・・・・操は光の手を感じた。

ずっと昔・・・・・触れられても恐ろしくはなかった。

あの人の手がそこにある。

その感触を私は嫌ではなかった。

操はゆっくりと手を後ろに回すと、静かに包帯の端をほどいた。

 

―――私・・・・私・・・・見えるわ!

 

操は澄んだ瞳でまばたきをした。

美しい白銀の光が降りてきて、彼女の手の輪郭を空間の中に浮き上がらせた。

この確かな形。

私であるという形。

彼女は己が手のひらを見つめた。

この瞬間にも、彼女の心はただ一人の存在に向かって、祈りを捧げていたので、唇は自然にその名をささやいた。

 

「蒼紫様。」

 

波濤がくだけた。

翔伍は『天翔龍閃』の技を終えた姿勢で立っていた。

左よりの居合い抜きで上段よりの技、近づく者はみな、竜の牙につかまれ、呑み込まれるというあの技――――。

しかし、翔伍はつぶやいた。

「なぜ――――。今の技は―――。」

と、彼の体はゆらぎ、肩からは血を吹いた。

そのままゆっくりとくずれた。

翔伍の顔は無念さに引きつっていた。

それは剣技とは言わぬ、剣法とは言わぬ。

しかし彼はその言葉を吐くことはなかった。

倒れ伏したからである。

蒼紫は数間離れたところで、片ひざをついていた。

肩で息をついていたが、ようやくの想いで言った。

「御庭番式小太刀二刀流、九連宝塔――――。」

言うことに何の意味があるのだろうか、と蒼紫は思った。

翔伍の雷竜閃と同じく、戦国の世に封印された異形の技―――。

 

蒼紫は比古清十郎の「飛天御剣流には九頭龍閃という技もあるのだが」、という短い言葉から、この技を考えていたのである。

九回の連続打撃技。

蒼紫の意地であった。

そして九回の打撃を行うには忍びの技を加えることで、もはや剣法の世界からはみ出るということも、彼にはわかっていたのである。

蒼紫はまた、何度ものイメージ・トレーニングで、まともにこの技を頭から仕掛けた場合、人体がどのように切り刻まれるかも計算していた。

宙空に飛んだ時、一回転し、相手にフェイントをかけて同時に反動する力で九回、らせん状に剣打をその着地までに加える。

これに手心を加えるようになるまでには、並たいていのことではなかった。

この為庄三に対しても、拳技を行い、肉体を酷使していたと言ってもいい。

―――それでも身の軽い抜刀斎には敗れるだろう。この技は、相手が天翔龍閃に絶対の勝利を確信していたからこそできたこと・・・・・。

そして抜刀斎もやはり言うだろう。

それは兇剣に過ぎぬと―――何故ならば、以前として蒼紫は剣心を倒すつもりでいたからである。

翔伍を救ったのは、軍命のほかに、小夜があまりに哀れであり、また抜刀斎ほどの過去からの恨みを、翔伍には見出し得なかったからである。

村人を集め煽動した罪は重いが、それは自分が下すべき鉄槌ではないし、この場合してはならないことなのだ。

それが、この場合自分に求められた裁量というものなのだった。

 

―――操。おまえ一人の為であれば、この者を今ここで―――――!

 

蒼紫はようやくの思いで、翔伍に剣を向けることを思いとどまった。

心の中を嵐が吹きすさんだが、蒼紫は静かに剣を鞘に収めた。

これもまた、抜刀斎の言うところの殺さずの勝利か。

俺は何故これを肯定できない。

蒼紫は己れの苛烈さを想った。

翔伍は気がつくと、見知らぬ病院のベッドに何時の間にか寝かされていた。

傷が痛むが、何とかベッドから起き上がった。

―――助かったのか。

半ば呆然として白い壁を見つめていると、病室のドアが開いた。

看護婦ともう一人、恰幅のいい紳士が入ってきた。外国人だ。

「ムトウ・ショウゴさんですな?」

紳士は会釈をし、帽子をぬいでそばの椅子に座った。

「私はオランダ領事館のエルステン・ロペスと言います。はじめまして。単刀直入に言いましょう。あなたは日本にいてはいけない。オランダへ渡りなさい。オランダでは、あなたやあなたの信徒たちを友として迎える人が大勢します。でもその前にひとつやっていただきたいことがある。」

エルステンはそこで、背広から黒革の小冊子を取り出した。

「これは新約聖書です。私はプロテスタントを信じています。本当はこんなことを人にすすめるのさえ、私の宗派ではいけないことなのですが、私はあなたにプロテスタントを勧めます。そうでなければあなたが救われないと思うからです。キリスト者はキリストであってはならない。いいですね。」

長い沈黙の後、翔伍は答えた。

「はい。」

エルステンはホッとした様子で言った。

「よかったです。拒否されればどうしようかと思いました。私はあなたにも戦う理由はあったのだと思います。昔カソリックはこの国で弾圧されましたからね。」

エルステンは小冊子とともに一通の手紙を翔伍に渡した。

「これはあなたの亡くなられた妹さんからの手紙です。私があずかってきました。たしかにあなたにお渡しします。」

「亡くなった―――小夜が、死んだというのですか。」

エルステンは顔を曇らせて答えた。

「ピストルで撃たれました。私はその場に居合わせたのに、恥ずかしいことですが救えなかった。私を恨んでくださっても構いません。」

エルステンと看護婦は示し合わせて出て行った。

翔伍は手紙を拡げた。

 

『お兄さまへ―――お兄さまがこの手紙を読むとき、すでに私はこの世にない者かも知れません。でも死を目の前にして、不思議と私の心は明るいのです。神に召されるからかも知れません。

お兄さまは覚えておいででしょうか?私たちが大陸に渡ったときことを。幾度もくじけそうになる私を、お兄さまはいつもその広い心で支えていてくださいました。私はあの日々を糧にして、今日まで生きてきました。お兄さま、どうか思い出してください。人々は信じています。互いを労わりあい、額に汗して働き、神の心を持つことを。私が信じるように、お兄さまも信じる。それはすなわち、お兄さまが神となられることなのです。私はその日が来るまで、神の御許にても祈り続けています。』

 

―――小夜。

翔伍は思わず瞑目した。

大陸に渡ったとき、西海岸でたどりついた小さな教会は、プロテスタントの教会であった。

その日々を今思うのは、捕縛となった今、耐え難いものであった。

翔伍は内心の憤りを抑え、神に祈った。

―――小夜。しかし私はずっとおまえにそばにいてほしかった・・・・・・!

この時が来るのは覚悟していたのだ。

だが―――。

その時、彼方からサラサラと衣擦れの音がして、高貴なる少女の幻影が、かがみこんで祈りを捧げているのを、翔伍は感じた。

私は、永遠にお兄さまとともにいます―――。

「小夜・・・・・・!」

翔伍の心は悲しい喜びに満たされた。

彼は、それほどまでに妹を愛していたのである。

 

その同じ頃。

 

東京の警視庁本部の廊下を、川路良利が急ぎ歩いていた。

西南戦争からこの方、このころ各地での蜂起事件が増えて、めっきり心労が増えた。

少し顔色も悪い。

川路は課の扉を開けた。

斎藤に総監室に来るように伝えると、軽くせきばらいをして立ち去った。

―――来年こそは、君にまた外遊してもらう事になるかも知れん。

山縣がふともらした言葉が、気にかかった。

が、先の事などわかるものではなかった。

斎藤は昼すぎに外まわりの仕事から帰ってきた。

すぐに総監室に出向くと、川路が窓際で後ろ手に組んで立っていた。

「島原の件が解決した。」

斎藤は答えた。

「は、存じております。海軍の鋼鉄艦で鎮圧したとか。現在五隻あるうちの二隻ですか?」

「うむ。長崎海兵所から派遣された艦だという事だ。」

斎藤はその時、テーブルの上に自分に向けておかれた一通の書類に気づいた。

川路は言った。

「それは司法省から君宛に来た勧告文だ。受け取りたまえ。」

斎藤は中身を改め、目を見張った。

「―――右ノ者 書類不備ニツキ逮捕訴状ヲ棄却スル。―――バカな!」

斎藤は川路に向かって叫んだ。

「志々雄真実の事件は、現在服役中の囚人も大勢おり、被疑者は間違いなく事件の関係者であり、首謀者たちの国家転覆に関与していたのであります。それは本官も自ら出向き、承知の上で―――。」

「それならば速やかにその場で逮捕するべきだったな。しかし書類不備ならいずれにせよ、不起訴処分だ。君の京都での報告文は、むろん真実だと私も思う。だがこの男の訴状は棄却された。」

斎藤はいつになく、冷ややかな川路の物言いに、その時やっと気づいた。

突然、目の前に鉄壁が立ちふさがったかのようであった。

明らかに、島原の件を陸軍にまかせると言っていたときの川路ではない。

そして、この川路良利も薩閥の一人だという事に、斎藤はようやく思い当たった。

斎藤はそれでも、一歩踏み込んだ気持ちで言った。

「何故です?不起訴の理由をお聞かせください。」

川路はにべもなく答えた。

「それは君自身が考えたまえ。」

それから数日後、翔伍は村人らとともに、港でオランダ船に乗船していた。

その中にはロレンゾ庄三の姿もあった。

この若者も小夜の死には手放しで泣き、エルステンが建ててくれた小夜の墓の前からなかなか去ろうとはしなかった。

翔伍も共に祈った。

庄三はそんな翔伍の厳しい姿に打たれたが、後ろから殴りたくなる気持ちを必死で抑えた。

村人たちを無事にオランダまで届けないといけないからだ。

彼らは今故国を離れようとしていた。

出航の合図とともに、船は岸壁を離れた。

翔伍は遠い目で岸を見つめた。

と、その時だった。

港から少し離れた岬の上に、人影が動くのを翔伍は認めた。

―――あの男、生きていたのか。

蒼紫が岬の上に立っていた。

翔伍は一瞬目を見張ったが、己れの敗北を認めぬわけにはいかなかった。

―――しかしオランダ領事館に事情を話すとは。一体どういう男だったのか。わからぬ。

蒼紫の孤影は見ているうちに、崖の上から遠ざかって行った。

そばに一人男がついていたが、これも去った。

翔伍は思った。

―――オランダに行けば、二度と私は剣を持つこともないだろう。―――

と―――。

 

それから数刻後―――夕刻。

 

海を見渡せる丘の上に、真新しい墓が建てられている。

翔伍が祈り、庄三も祈った墓である。

下で辰政が蒼紫を待っていた。

―――やっぱりあの女にホレとったんだねェ。

と、辰政は思ってキセルをふかしていた。

―――ま、邪魔しちゃ悪いしよ。

辰政は心得たつもりでいた。

あの女もあんたのことは、まんざらでもなかったようだぜ・・・・・。

蒼紫は野の百合を一輪手にしていた。

その花は、聖母マリアに捧げられし花―――。

目の前の墓には大きな花束と、翔伍の大剣が備えられており、蒼紫の目はじっとそれらを見つめている。

あの男はもう、剣を捨てていったのか。

蒼紫の中には忸怩たる思いがある。

その髪を海風が穏やかに散らしている。

やがて日が翳り、木々の葉ずれが風にざわめいた時、蒼紫は無造作に墓の下に花を置き、墓の主に心の中で語りかけた。

 

―――あなたはさげすむだろうが、俺はあなた方二人を憎んでいた。

 

ザッ、と海から突風が吹き、降りてきた影を辰政が「じゃあ行きましょうか。」と迎えた時、確かに「失せろ」という声が響いて、辰政は今すれちがった人をあわてて振り返り見た。

丘の上は静かで、ただ遠くで波の音が刻んでいて、今にも海中に沈みゆく夕陽があたり一面を照らしていた。

辰政はギョッとなり、その静寂さの中であたりを見回した。

 

 

元隠密御庭番衆御頭・四乃森蒼紫の影は、すでにそこにはなかった。

 

 

 

―完―

 

 

挿入歌:賛美歌第496番「雑」

―Beautiful lilies, white as the snow―

Alice Jean Cleator 作詞

Lincoln Hall 作曲

日本基督教教会

島原編 暁

映画「耳をすませば」の中で、主人公の少女・雫が、自分の書いた小説を読んだ西老人の前で叫ぶセリフがある。

「ウソです。ウソです。書きたいことがまとまっていません。後半なんかメチャクチャ。自分でわかっているんです。」

私の今の心境もこれに同じである。

とりあえず、終わった。

しっかりしたテレビ版のプロットがあるにもかかわらず、私は後半からの、制作ノートを作っていなかった。

ただあらすじだけは頭にあり、ほとんどぶっつけ本番で書いた。

私が言いたかったことは、この物語ではなんだったのだろう、と今はぼんやり考える。

昔から小説を書いてきた。ボトムズ、トルーパー、未完に終わった作品もたくさんある。

それらの作品でも、私は恋愛の甘い雰囲気のものは書けず、登場人物は運命に翻弄され、

相手との「絆」を遠くから強く願う。それが私の定番なのである。

この本作では、最後に蒼紫が手向けの花を捧げるのだが、この花に私はさまざまな意味をこめた。

それは蒼紫が以前に言っていた「最強の華」でもあるし、小夜へのいたわり、そして嫌悪、またその裏に秘められた操とその家族への相反する二つの思いである。蒼紫は何処かで、操の家族に恨みのようなものを持っている。

公式に近い設定では、代々の御庭番を支えるために、生き残った孫娘の操を守ったという平和な設定のようだが、私はこの設定にひねくれた解釈を与え、少し蒼紫と操の関係を複雑にしてみた。そうでもなければ、どうして志々雄のアジトに行くときに、操に「失せろ」と言えるであろう。

私はこの「るろうに剣心」での蒼紫の基本設定がわかるにつれ、この「主家の娘に仕える青年」というモチーフは何処かで見たと思い、やがてあああれだと思いいたった。谷崎潤一郎の「春琴抄」である。

谷崎先生の小説の青年は大変にたよりなく、また娘春琴も大変に驕慢な性格だが、おのが目を針で刺して永世の愛を誓う場面の迫力は、蒼紫に通じるものだと思った。

そのようなものを自分でも書いてみたいと思った。

いわゆる剣豪小説では、私がはじめて感嘆したのは、柴田錬三郎先生の「剣は知っていた」である。二度目に驚嘆したのは、山田風太郎先生の「甲賀忍法帖」だ。

剣も剣術のことも何もわからず、ただあんなものを蒼紫で書いてみたいと思い、ついうかうかとホームページを立ち上げて小説を書くというはめに陥ってしまった。

島原編はご存知のように、テリビオリジナル話で話数も十話と中篇である。

テレビサイズの中では、脚本演出声優さんの演技と、どれをとっても一級品であった。

ただ、私はあの話を蒼紫で取ってほしかった、その一心でこの話を書いた。

もとより、華やかなところに私は似合わない。

でも、影ながら応援してくださった人たちがいて、なんとか完という文字にたどりつけた。

今はその方たちに、感謝の念でいっぱいである。

 

付記:るろ剣イメージソング集の2に収録されている、操の「ICE BLUE EYES」と、小夜の「悲しみにためされても」は、執筆中何度も聞いた。この曲のイメージにはずいぶん助けられました。ほかはラフマニノフのピアノ協奏曲の2番をテーマミュージックにして書きました。フィギュアスケートの伊藤みどりさんが銀メダルを取ったときにこの曲の第三楽章が使われましたが、私が好きなのは第一、二楽章です。この暗さ、そして超絶的な技巧を必要とする部分が蒼紫だなーと思います。この曲はカセットレーベルにも蒼紫の顔入れて大切にしてます。ラフマニノフ先生、どうもすいません・・・・。あと、こういう事を言うと反論がたくさんくると思いますが、ロックの曲だと、イエスの「ラウンド・アバウト」ですか。これの新録音の方ですね。これが蒼紫だなーと思っていて、昔エアチェックしたカセットレーベルにも蒼紫のアニメ誌からの切り抜きいれて聞いていますね。ロックは詳しくは知らないので、これは絶対「違う」という人いると思いますけど。でもベースギターの感じがなんかすごく蒼紫っぽいんですよ。もし機会があったら聞いてみてください。まあレンタルCD店にもあまりないと思いますけど。「ロンリー・ハート」が入っているアルバムに入っているのかな。「1/3の純情な感情」もまあいい曲ですが。

なお作中使用した讃美歌は、昔歌って知っていたものです。

 

2003年10月27日            おだまきかこ拝

島原編 暁

【完結作品】るろうに剣心のテレビ版オリジナル話の「島原編」を、蒼紫を主人公に書き換えた同人作品で、書いたのは今から10年ほど前で、テレビ放映の熱さめやらぬ頃に手がけました。テレビ版では剣心が主人公ですし、マグダリヤ小夜と淡い恋愛模様が左之助にはあったのですが、それも蒼紫に置き換えています。ただし、小夜との恋愛はあまりありません。操がヒロインで、操を助けるために島原に行く設定になっています。 操の父母の過去話を捏造のほか、オリジナルキャラが二名ほど出てくること、あらすじがテレビとは若干違っていることなど、正統派のファンの方にはいろいろと容認できないこともあると思いますが、同人二次創作としてお許しいただければと思います。トルーパーの頃から考えると、久しぶりの長編小説を書くことができて、当時はすごくうれしかったです。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • アクション
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-07

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. 慶応二年春
  2. 目無し
  3. 島原 上
  4. 島原 下
  5. 恩寵