月夜の幻想曲☆
前回の作品から、この酒場「ハーフ・ムーン」が気に入ったので。シリーズにしてみました。
以後もなにかの作品で出すかもしれません。
ぱちぱちと、泡の弾ける音がする。
しん、と静まりかえった真っ暗闇の店内で、カウンターの前にある大きな水槽だけが、ひと際輝いている。
その水質はソーダ水のような薄緑色で、たくさんの気泡があとからあとから立ち昇っている。
その中に浮かんでいる美しい生き物は、緩やかに流れるウェーヴの、蒼い髪の人魚であった。
彼女はうっとりと目を閉じて、その見事な尾ヒレのあたりから、エラを通り抜け肌に吸い付くように上昇してくる細かな泡の感触に、その身を委ね漂っている。
カウンターには男が一人、水槽と背をむけて立ち、いつものようにグラスを白い布で拭いている。
黒髪で、左右の瞳の色が青と緑の、先の少し尖った耳を持つこの男は、この酒場『ハーフ・ムーン』の主人である。
ここは、居場所のない半人たち(半分人間ではあるが半分はそうでもないものたち、)が集まるところなのだ。
しかし、今夜は閉店しているので、客がひとりもいない。毎月に何度か、こうして閉店しなければならない理由があった。
それは彼の愛する人魚の体質のためである。
遠い故郷の澄みきった湖から連れて来た彼女には、都会の科学物質だらけの水が体にあわないらしく、いくら天然水と表示されている水だけを使っても、
何週間か経つうちにはまた、体調を崩してしまうのだった。もともとが限定された土地環境でしか生き延びることができない稀有な生物なので、こうして連れて来た事に後悔の念さえ持つこともあった。
だがそれでもいい、と微笑んで自分に全てを任せてくれたのは、まぎれもなく愛しい彼女自身だった。
今では、常連客のひとりである蜘蛛の巣婆さんという老いた魔女が処方してくれるうぐいす色の薬粉を、こうして満月の夜に水槽の水に一包溶かし、その中で一晩中休ませてやると、それだけでかなりの期間、体力がもつようになってきた。しかし、すこし顔がやつれたように見えてはいるが。
そして、翌朝には必ず多量の鱗が剥がれ落ちて、花弁のようにキラキラと水槽に浮く。
魔女は、代金にその鱗を所望するのだ。いつも店内で吸っている、あの紫色の水煙を放つ若返りの秘薬を作るために、人魚の鱗がどうしても必要であるらしい。
☆
「この水に浸かると、故郷の湖の匂いがするわ」
「そうなのか。たくさん鱗が剥がれているが、体のほうは大丈夫か」
「ええ、心配ないわ。むしろ古いのがとれて、サッパリするの」
「そういえば新しいのは色が綺麗だな」
「あら、そんなに見つめないで」
「これは失礼」
「昔は自然に剥がれては生え変わるものだったけど、ここ来てから体がどこか変わったみたいで……。
でも蜘蛛の巣婆さまのお薬に浸かると、それが促進されているみたいなのよ。それからしばらくとても気分がいいの。ほんとうに感謝しているわ」
「それはよかった。俺はあの婆さんのことを少し警戒していたのだが……」
「私には必要のなくなった古いものをあげれば済むことだし、そう悪くない取引だと思うわ」
「ああ、そうだな」
窓を開けると、ちょうど真上に満月があった。そっと夜風が二人の頬を撫でていった。
都会の薄明るい夜空に星はないが、月だけは昔の夜空と同じように、ハッキリと見える。
☆
その時、カウンターの隅っこの椅子の上に、ユラユラと朧な影が沸き立った。
次の瞬間にはそこに、先ほどから話していた例の蜘蛛の巣婆さんが姿をあらわしていた。
「おや、今夜は閉店なのですが……」
「そんなこたぁわかっているよ。それよりあんたの具合はどうかね、シェリー?」
「はい、おかげさまでとてもいいわ。さっき私達、お婆様の話をしていたところよ」
「あなたのことですから、もうとっくにご存知だろうとは思いますが……お茶を淹れましょうか?」
「あぁ、一杯もらおうか。ところで今夜はあんた達に、今のうぐいす粉(薄緑の薬粉のこと)より、もう少しいいものを持ってきたんだが、どうだい?」
「もう少しいいもの、ですか……」
「月光石というものさ。今のうぐいす粉にはねシェリー、あんたの故郷の湖に生えている、月光苔を干して、粉にしたものを混ぜてあるけれど、それでもあと半月も
たたないうちに、たちまちあんたの体は、また調子を崩しちまうだろ? あの薬粉には限度があるのさ。
だけど、この小岩はちがう。なぁに、名前は月光石となっているが、正体はあそこの湖にごろごろしている、光り岩のことさ。
あれには月の魔力がたっぷり染み込んでいるんだよ。あたしはね、あんたの薬を毎回、この小岩に生えてくる月光苔から作っていたのさ。
でもこれをほれ、そこの水槽に鎮めておけば、あんたの体が悪くなることも、もう当分はなくなるだろうよ」
「しかし、どうして今になって私達に、そんな話をして下さるのです?」
「さっき夜風にあんた達の話事を持ってきてもらって知ったんだがねシェリー、あんたのそのきれいな鱗、前には自然に剥がれていたんだろ?」
「えぇ、そうですわ。あの湖にいた頃は」
「あんたの体をシャンとさせるにはね、古くなった鱗をどんどん剥がれるようにしないといけないんだよ。あの粉にはそういう魔法を吹き込んであるのさ。ここの水を、
できるだけあの湖水に近づけようとしてね。だけど、この小岩をまるごと、そこに置いておけば、月の魔力が染み出して、自然にむこうと同じ水質に、いつも保つことができるよ」
「本当なの? お婆様」
「あたしの言うことは、真実だけさ」
そう言うと魔女は、薄汚い枯葉のコートを脱ぎ、しばらく懐のあたりをゴソゴソさせたかと思うと、
そんな物どこにしまっていたのかと思うほどすばやく、酒樽ほどの岩を取り出した。
「でも、それはお婆様のとっても大事なものじゃないの?」
「あぁ、あんたをお客にしておくぶんにはね。それ以外にはとくに使いようも無いただの石っころなのさ。あたしは、これを手放したっていいと思っている。
他にもうまい話をいくつも持っているからね」
「もし頂けるなら、本当に感謝しますわ。でも、お婆様のことだから、タダというわけにはいかないのでしょうね?」
「あたりまえさね! 世の中そこまで甘くないよ。あたしが若返りの薬を作るのに、あんたの鱗をほしがっていることは知っているだろ?
しかし、この小岩をあげちまっても、あんたは毎回鱗が剥がれたら、それを私に取っておいてくれなきゃならないよ」
「はい、そのことでしたら、おやすい御用ですわ」
「それから、あんたの旦那にも、これから一働きしてもらわなくちゃならないよ」
そこまでいうと魔女は、お茶を、一息に飲み干した。湯のみをあまり乱暴にガチャンと置くので、その音が暗い店の中に響き渡った。
男は一瞬、鋭い表情をする。
この年寄りの魔女は、この俺の色のちがう青と緑の瞳を見て、自分の両親の人間ではない父親の出生を、見抜いている。
そのうえで、いったい何をしろというのだろう?
「それで、俺は何をすればいいのです?」
「なに、あんたならわけない事さ。ひとつこの石から聞きだして貰いたいことがあってね。
あたしの庭に植えている、『変わり葡萄の木』というのを知っているだろ?あれで作った酒には薬効があって、いつもよく売れていたんだが、この三年ほど、いっこうに
実をつけないんだよ。この岩は、その木陰のベンチの横に置いてあったから、なにか見ているかも知れないのさ。あたしゃ、魔法で動物と話したり、風にものを聞いたりはできるけれど、石のことはてんでわからない。あんたは父親が山の頂上の結晶から産まれたくらいだから、石との話し方を知っているだろう?
こいつに、私の庭で何を見たのか、聞いておくれ」
「わかりました、やってみましょう」
「よろしく頼むよ。うまくいけばあたしにゃ金づるが戻るし、あんたらにはこの岩が手に入って、どちらさまもいうことなし、さ。それじゃ、今夜はこのへんで帰ることにするよ」
蜘蛛の巣婆さんは脱いでいた枯葉の上着を羽織って、くねくねと曲がって節くれだった杖をつきながら、ドアの外の闇へと去っていった。
愛しいシェリーが、水槽から半身をだして、心配そうに自分を見ている。そんなこと出来るの? というふうに、薄桃色の瞳を潤ませて。石と話すということは、確かに必要以上の精神力がいる。しかし、このような瞳をされては。
「シェリー、それじゃあ俺は別室でひと仕事してくるよ」
「はやく、帰ってきてね。」
「あぁ、すぐさ」
☆
別室にて。
彼が時々一人で考え事をするのに使っている、バーの二階にある小さな書斎である。
中央の客用のテーブルの上に、白い布を敷き、岩を置く。部屋の灯りは、手元のライトのみ。
話しかけるといっても、口から声をだすのではない。むこうから話すのを待つのである。
岩は、自分が信用できるものには、自ら語り出すのだ。
彼はそれを父親から聞いた。
自然に存在するすべてのものは、語りかけているのだ、と。
それらを無視して、ひとりだけの世界に閉じこもっては、けして生きて行けないのだと。
父親自身、始めは物言わぬ岩のひとつ、単に輝くだけの結晶群の一片に過ぎなかったのだ。彼は誰かに自分の居ることを語りかけたくて、意志をもった。
雨風に毎日磨かれて行くうちに、その意志は生きたいという強い願望へと変わり、数百年そうしている間にやっと、エルフの身体を得たのだった。
しかし、岩から生まれたエルフの男は、人の女との間に子孫を一人だけ残して世を去った。
死に際にも、彼はやさしく微笑んでいたような気がする。彼がほんの五、六歳の頃であった。
もう届かないけれど大事な、遠い過去の出来事だ。
「それはおまえの過去の記憶か」
急に、あたりの気配がゆらいだように感じた。岩がひとりでに、彼に質問をしていた。見た目には少しも変化はないが、周囲の空気がまるで違う。
岩が一言ずつポツリポツリと語るたびに、ビリビリと空気が鳴っている。
「まぁ、そんなものです。よろしければ私にも、あなたの過去を少し、お聞かせ願えませんか」
「ふん、あのきたならしい婆さんのしもべかい」
「いいえ、ただあの方は私のお店のお得意様なのです」
「おまえは、いったい何を、わたしにききたいのだ」
「あの婆様の庭の『変わり葡萄の木』に、ここ三年間ほど、実がひとつも採れなかったのは何故ですか。あなたはそれについて、何かご存知ありませんか」
「ふん、簡単なことじゃわい! あの婆さんは、わしをゴロゴロと転がして、変わり葡萄の根元へ置いていった。それからわたしの頭の上に、採った実を入れておくための大きな壷をひとつ、ドスンとのっけて去っていった。婆さんが去ったすぐ後に、もじゃもじゃの悪いボガートがやって来て、その壷の中へ住みついちまったのさ!
あのもじゃくれ頭は、昼は村へ降りて行って悪さをし、夜になると壷の中へ帰ってくるのだ。そうして、実という実は、夜のうちにみーんな一気に食べちまうというわけだ」
「そのボガートさんは、今もそこにお住まいなのでしょうか」
「いんや、もういないよ。わしらの重みで、根っこがやられちまって、実がならなくなったんでね」
「そうだったのですか。いやいや、貴重なお答えを、ありがとうございました」
「それであの婆さんは、わしをここに置いていくつもりか」
「はい、そのようです」
「おまえは、このわしを、今度はどこへ置くのだ」
「あなたの故郷にたくさんいた、人魚のレディがここに一人おりまして。彼女は都会の水には耐えられないようで、とても苦しんでいるのです。そこであなたをお連れしたいのですが、ご同意をお願いできますか」
「人魚っこが居るのか! そりゃあ、そりゃあ。このあたりの水に浸かっておっては死んでしまうぞ!わたしは、その娘のそばへ行こう。わたしも丁度、あの乾いた草地
から出たかったのだ」
「それはよかった。本当に助かります。ありがとう」
「今、わたしはとても気分がいい。はやくここから持って行け」
☆
「あぁ……」
ぱちぱちと、泡の弾ける音がする。
しん、と静まりかえった真っ暗闇の店内で、カウンターの前にある大きな水槽だけが、ひと際輝いている。
その水質はソーダ水のような薄緑色で、たくさんの気泡があとからあとから立ち昇っている。
蒼い髪の人魚は、気持ち良さそうに声をあげながら、ゆらゆらと漂っている。
いまでは傍らに、酒樽のような岩が置いてあるせいで、彼女の体調はすこぶるよくなった。
水槽は、見た目はあまり変わらないが、岩から溶け出す成分が効いているのか、どうやら中身の水質がだんだんと、彼女の故郷の湖のそれへと変化しているらしい。
彼女の頬には明るみがさし、蒼く長いウェーヴの髪には深い艶めきが現われてきた。
そして、薄桃色のカクテルにちなんだ名のとおりの、その美しい双眸にも、元気な輝きが戻ってきつつある。
岩のほうといえば、この愛しい彼女を気にいってくれているようだ。話し相手ができて、さぞ気分もよいことだろう。
蜘蛛の巣婆さんは、相変わらずこの店に通いつめている。紫の水煙草をふかして、きっとまた割のいいうまい話でも入ったに違いない。
<終>
月夜の幻想曲☆
人魚さん、元気になってなによりです。
主人の出生の秘密が、ばれちゃいました。
改行に慣れなくてすみません・・・。