君の声は僕の声 第三章 10 ─静かな瞳─
静かな瞳
「楽しそうだね。君たちの笑い声、ここまで聞こえてきたよ」
倒木に座って泉を眺めていた秀蓮が微笑んでいた。
「秀蓮!? 外に出て大丈夫なの?」
聡が駆け寄る。
「体、なまっちゃうからね」
秀蓮は立ち上がると「君が看病してくれたおかげだよ、ありがとう」と杏樹に手を差し出した。
杏樹は何のことかわからず、一瞬迷った表情を見せたが、にこやかな笑みを浮かべて「たいしたことじゃないよ」と秀蓮の手をにぎり返した。
「僕を看病してくれたのは、君じゃなくて『心』だけどね。君はだれ? 杏樹ではないね」
秀蓮が笑顔の下から試すように訊ねた。
杏樹はさっと手を離すと、警戒の色を浮かべて秀蓮を見つめ返した。
「秀蓮……」
思わず二人の間に入ろうとした聡を、秀蓮は手で遮った。それから杏樹の警戒を解くように笑みを浮かべながら、杏樹の中のひとりひとりに話しかけるように、優しい口調で、ゆっくりと話した。
「君の名前を教えてくれるかな。僕は君のような人を知ってる。人に隠す必要などないことも知ってる。聡も僕も、君をおかしいなんて思ったりはしない。僕たちは君の力になるよ。話してくれないか?」
杏樹はじっと顔を動かさず、警戒する瞳だけを動かして秀蓮と聡を交互に見た。聡もゆっくりうなずいてみせた。杏樹の瞳が落ち着きなく動く。どう応えるべきか迷っているようだった。
「話す訳にはいかない。僕たちの秘密は誰にも話さないと、みんなで決めたことだから……」
杏樹の応えに聡が口を挟んだ。
「でも、杏樹は知らないんだろう? 杏樹の知らないところで勝手に決めたりして、杏樹はどう思うのかな」
杏樹は困惑の表情を浮かべた。
「杏樹が知らない?」
聡が頷く。
「『マリア』から聞いたんだ。杏樹は『心』や『マリア』や他の人たちのことは知らずに、ずっと眠らされてるって」
「そんな……」
「なんで『心』と『マリア』を知ってるんだ? マリアが話したのか?」
杏樹の問いに聡は応えに窮した。代わりに秀蓮が応える。
「『心』が僕に名前を言ってしまったんだ。それでひどく怯えている。『マリア』は心配して、僕たちに秘密を話さないようにと、お願いしただけだよ」
すると、杏樹の目が虚ろになり、ゆっくりと俯いた。
──別の人格が現れる。
そう思った聡は息を詰めた。杏樹の唇が微かに動いている。顔を上げると、そこには口もとを引き締めて秀蓮を静かに見つめる、別の少年が現れた。
秀蓮がその様子を息をのんで見つめていた。症状を知っている秀蓮もさすがに目の前で起こった変化に驚きを隠せなかった。
「『心』と『マリア』が君たちに喋ってしまったんだね」
少年は腕を組んで深いため息をついた。そして視線を落とすと、ほとんど口を動かさずに何かつぶやき始めた。瞳が左右に動いている。まるで隣に見えない誰かがいて、その誰かと話しているようだった。
聡と秀蓮はその様子に釘づけになりながらも、冷静になろうと固唾を飲んで見守っていた。すると少年が顔を上げた。その表情は淡々としている。
「『心』に優しくしてくれたことには礼を言う。だけど、僕たちの名前を知る必要はない。僕たちのことを誰にも話さないでいてくれたら、それでいいよ」
少年の口調は「礼を言う」というわりには事務的だった。
「僕たちも『心』が怯えているのを見ているのは辛いんだ。『心』を安心させてやりたい。だから、君たちのこと知りたいんだ」
秀蓮の言葉に少年の瞳が揺れた。聡が続ける。
「僕たち、友達になりたいんだよ。『心』や『マリア』だけじゃなくて、みんなと。名前を知らないと友達になれないだろう? マリアは自分の名前を呼ばれて喜んでいたよ。君は杏樹じゃないだろう……君、玲なんじゃない? そうだろう? 玲」
聡は少年の腕を掴んで、少年の瞳を真っ直ぐに見つめた。名前を呼ばれて驚いた少年は、腕を払い、聡の瞳から逃げるように泉のほうに向きなおった。
自分の名前を呼ばれたことなど一度もなかった。いつも自分は『杏樹』と呼ばれる。小さい頃、杏樹の母親に自分の名前は玲だと言ったら、杏樹の母親は声を荒げて「何を言っているの! あなたは杏樹。杏樹でしょう!」と言って手を振り上げた。玲が思わず目をつぶると、杏樹の母親は思い切り玲を抱きしめて泣いた。それ以来、みんなは自分の名前を口にしなかった。杏樹と呼ばれればそれに応えてきた。
「考えておく」
泉を見つめたままそう言うと、ふたりに目もくれずに玲は行ってしまった。その場に突っ立ったまま玲を見送る聡の耳に、荒い息づかいが届いた。秀蓮が胸に手を当てている。その表情は苦しそうだ。聡はすぐに秀蓮を倒木に座らせ、それからボートハウスまで戻り、何か水を汲めるものを探し、手頃なカップを手に取り泉へと急いだ。泉の水を汲んで秀蓮に渡す。
「ありがとう」
秀蓮は冷たい水を一気に飲み干すと、口もとを手で拭いながら「話しには聞いていたけど、実際にまのあたりにすると、さすがに平常心ではいられないな」と息を吐いた。
「そうだよ。僕は夕べもひとりで心とマリアと話をしたんだよ。他にも知らない奴が出てくるんじゃないかと気が気じゃなかったんだから」
秀蓮の横に腰かけながら、少し嫌味を込めて大変さを強調するように、聡は頬を膨らませた。
「悪かったよ。──でも、聡はさすがだな。人の気持ちに触れるのが上手い。きっと玲も君に心を開くよ」
「そんなふうに僕を持ち上げなくても、ひとりでやってみるよ。僕がやるより秀蓮のほうが上手くやると思うけどね」
「持ち上げたりしてないよ」
聡は眉を寄せ「何やったって秀蓮のが上手くやるじゃないか」と口を尖らせた。
「わかってないんだな」
秀蓮の言った意味が聡にはわからなかった。
「でも、秀蓮の傷の具合が良くなったら、僕たち家に帰るんだろう? これ以上杏樹と関わって、僕たちに何ができるの? 杏樹は治るの?」
「治すのは難しいだろうな。だけど、杏樹の気持ちに寄り添ってやるだけでも違うんじゃないか? 少なくとも『心』の不安を軽くしてやりたいし、できれば『杏樹』に目覚めてもらいたいじゃないか」
「それは、そうだけど……」
心の涙に濡れた瞳を想うと聡はやり切れない気持ちになる。いったい杏樹に何があったのか、何が杏樹をあんなに冷たい瞳にさせるのか、気にはなる。杏樹の中には、『マリア』でも知らない少年がいるはずだった。秀蓮の言うように力になれるものなら、なってあげたい。
だが、自分にはやらなければならないことがある……。
うつむいている聡に秀蓮が声をかけた。
「それから、僕は歩けるようになったら、ひとりで行きたいところがある。そのあいだ、聡にはここにいて欲しいんだ」
「ひとりで!? どこに行くの?」
「他にもまだ調べたいことがある」
「僕も行くよ」
「駄目だ、今度は絶対に駄目だ」
「どうして?」
「KMCに忍び込んだとき、警備員が銃を持っていただろう? 普通の民間企業の警備で銃を持ってるなんて考えられない。あれは軍の人間だ。KMCには、玖那政府が関与している」
「だ、だから……何?」
政府だの軍だのと、今まで考えたことのない世界の話を持ちだされ、正直、聡はたじろいだ。だが、そんな弱気な自分を秀蓮に見せたくなかった。
「危険だ」
「それなら、なおさら秀蓮をひとりで行かせられるわけないだろう?」
「別に危険なところに行くわけじゃない」
「なら、一緒に行けるだろう? どこに行くの?」
聡は立ち上がって秀蓮を見下ろして言った。
「…………」
秀蓮は聡を見上げたまま黙っている。
「そうだね。僕は、足手まといにしかならないよね」
聡は秀蓮から顔を背け、石を拾い泉に向かって投げた。駄々をこねている子供のようなことを言っている自分に腹が立った。でも口が止まらない。
「櫂のように頼りにはならない」
聡はそんな言葉を吐く自分に嫌悪を感じながらも、他に言葉が見つからないもどかしさに唇を噛んだ。例え頼りにされなくても、秀蓮をひとりで行かせるわけにはいかない。
「違う……それは違うよ」
秀蓮が立ち上がって聡の正面に立って言った。わかってる。秀蓮が自分を守ろうとしてくれていることはわかっていた。それでも聡は秀蓮を睨んでいた。
しばらくふたりは睨み合った。
目を反らす訳にはいかない。聡は瞬きもせずに秀蓮を睨みつけた。
秀蓮がため息を吐く。
秀蓮がおれた。
「──わかった。聡も一緒に来てくれ。行くところはふたつ。ひとつは、僕を助けてくれたシノという女性のところだ」
秀蓮は警備員に銃で撃たれたあと、リュウジというKMCの男に助けられたこと、シノという女性の家で療養していたことを聡に話した。
「あの男は警備員の行為を良く思ってはいなかった。もし警備員が軍の人間だとしたら、KMCでは、政府と手を組んでいる者と、それをよく思わない者がいる。あの男が何者で何を考えて僕たちのことを隠したのか、それを知りたい。──それから、都へ行く」
「都へ……瑛仁のところ?」
「まずはね」
まずは。
そのあと、秀蓮に相談したという皇族のあるひとに会うことになるのだろうか。そのひとに会えば、疑問に思っていたことがわかるのだろうか。
小さな泉に足を浸したつもりが、大きな渦に呑み込まれていくようだった。聡は体の奥が小さく震えるのを感じた。怖いんじゃない。
泉を見つめる秀蓮の瞳は、そこに映る水面のように凪いでいる。それでも、瞳の奥は泉の底から湧いている水のように熱いはずだ。さらに地中深くは熱く燃えている……。聡は秀蓮が警備員の腕を折ったときのことを思い出した。
秀蓮の怒りは、静かに見えてとても深い。
「一緒に行くよ」
聡が静かに言うと、
「うん」
秀蓮は子供のような顔で素直にうなずいた。
君の声は僕の声 第三章 10 ─静かな瞳─