彼女のカラー

彼女のカラー

この世に存在するものには総べて個々に色があって、人間も例外じゃない。
僕はどれだけの色を知っているのだろう。君の目に僕はどんな色に映ってる?
未完成な僕らは、自分だけの色を探して、今日も彷徨い続ける……

 お昼頃から降り出した雨は、僕が帰る時間には風も伴って、土砂降りになっていた。差していてもあまり意味のない傘を風の来る方へ傾けて、海沿いの道を僕は家へと歩いていた。

 雨の匂いと、海から吹く潮風の匂い……。僕は足を止めて、海の方へと目を向けた。どんより曇った灰色の空から降る大粒の雨が、荒れ狂う波に叩きつけては海に溶けていく。と、目に飛び込んできた光景――。僕はその光景に釘付けになった。
 女の人が泣いている。いいや、「泣いている」なんてレベルじゃない。頭を抱えて髪を振り乱し、顔は涙が混ざってぐちゃぐちゃ。波の轟音と叫び声が変に調和している。おまけに傘も差していないから全身びしょ濡れで、見ているこっちが寒くなる。6月になったとはいえ、雨の日はまだ少し冷える。
 
僕はそこから動けなかった。まさか泣き終えたらそのまま海に……?だとしたら止めに行かなければ。だけど動けなかった理由はそうじゃない。彼女には「色」がなかった。
 美大に通う僕は、人を見る時にその人からイメージできる色を探す癖がある。人見知りの性格で、他人の顔や名前は直ぐに覚えられなくとも、一度会った人の色だけは鮮明に覚えていられる。それでも、今僕の目に映っている彼女には、イメージできる色は出てこなかった。

 哀しみの青――?
 激しさの赤――?

 いつもなら、誰かを見れば瞬時に浮かぶ色。それが出てこなかったから、様々な色を思い浮かべてみる。こんなこと初めてだ。
 結局、彼女をイメージできる色を探すことはできなかった。

 僕が見ているのは幻?もしくは幽霊の類か?そんな気さえしてくる。彼女の激しい姿は、見事なまでに荒波と同調していた。まるで自分の意識を乗り移らせているようだった。
だからか……?魂はすべて荒波と共に。肉体はただ存在するだけのもの。僕の目に彼女の色は映らない。
 敢えて色名を付けるなら、無色透明といったところか。

 暫くすると、雨は小降りになってきた。彼女の慟哭も雨の勢いが衰えるのと一緒に治まってきた。そして顔を濡らしていた、雨だか涙か分からない水滴を手でぐいっと拭うと、背筋を伸ばして颯爽とその場を立ち去った。
 僕に勇気があったならば、彼女に声を掛けることができたかもしれない。いや、たとえ勇気があったとしても、僕はやはり声をかけなかっただろう。
 あの場所は、彼女の為の舞台だった。観客の僕がズカズカ上がっていける訳がない。主演女優のいなくなった舞台を眺めながら、僕は久しく忘れていた感情が目覚めるのを感じていた。

 彼女のカラーを見つけたい。彼女を描きたい――。

 抑えきれない衝動を胸に抱えて家までダッシュで帰ると、二階の部屋まで駆け上がり、夢中でスケッチブックに彼女の姿をデッサンした。頭から彼女の姿が消えない内に何枚も、何枚も…...。

「拓海(タクミ)!」
「うわ!」
 背後からの怒鳴り声に、僕は飛び上がるほど驚いた。振り向くと母さんが仁王立ちしていた。部屋に入ってきたことすら気づかないくらい集中していたのか。
「さっきからご飯だって呼んでるのに!…...あら、学校の宿題でもしてたの?」
「あ、いや…...これは…...」
 母さんが覗き込んできたので、僕は慌ててスケッチブックを閉じた。
「まあ、いいわ。早く降りていらっしゃい」
「分かったよ」
 集中力を削がれたし、素直に下へ行くことにした。

 それから閉じたスケッチブックは再び開かれることなく、そのまま部屋の片隅にたたずんでいた。だけど僕の頭の片隅には、いつもあの日の彼女の影が残っていた。

 いつからだろう。絵を描くことに冷めた気持ちを持つ様になったのは。
 絵をかくことは小さい頃から好きだった。中学の時に夏休みの課題で描いた絵が、文科大臣賞とやらに入った。そのことがきっかけで、僕は絵を描くことに夢中になった。絵画教室に通うようにもなった。
 コンクールで賞を取れば、みんなが褒めてくれたし、それが嬉しくて僕は益々意欲的に描いた。
 あの頃はまだ幼くて、純粋に絵を描くことを楽しんでた様に思う。僕の目に映るモノはそのままの形で、例えば林檎は林檎でしかなかった。だけど林檎はいつまでも林檎の形をしている訳ではない。いつしか朽ちて、その形を無くしていく。
 僕は大人になる。いつまでも純粋なままではいられない。
 一度賞賛の声を浴びれば、「次はもっといい絵が描ける筈だ」「もっと力強い線で」。
もっと、もっと、って……。もううんざりだ。
 絵しか取柄がない僕は、美大に入ることを余儀なくされたが、ただ与えられた課題をこなすだけの怠惰な毎日。
 絵に対する情熱なんて何処かに置き忘れてきた、筈だった。何かを夢中になって描くなんて感覚を味あったのは、本当に久しぶりだった。だけどやっぱり不完全燃焼だ。幻を見た様なあの光景を、長く頭の中に留めておくことはできなかった。

 消えかけた炎を蘇らせるべく、僕は雨の日は何度も海へと足を運んだ。雨の日だけでなく、晴れの日も曇りの日も通ってみたが、あの日以来、彼女の姿を見ることはなかった。
そうしている内に月日は流れ、いつしか彼女を探す為に海へ行くこともしなくなった。部屋の片隅に置かれた彼女をデッサンしたスケッチブックが、時々僕を呼んでいるような気がしていたけど、僕は敢えてそれを無視していた。

 その後、彼女とは意外な所で再会を果たすのだったが、初めて彼女を見た時とはまた違った強烈なインパクトを僕に与え、つまらなかった毎日が突如変化することとなる。
彼女と再会できたことは、さて僕にとって吉だったのか凶だったのか?出会ったばかりの頃は、考える余裕すら与えてもらえなかった。

 
季節が一巡りして、また六月が来た。外は雨。例年通りよりも早く訪れた雨は、ただでさえ沈みがちな僕の心にも鬱陶しい雨を降らせる。
「はぁ……」
 窓の外を眺めながら溜め息をついた。
「よお!相変わらずしけた面してんな!」
 余計な一言も付けて僕に話し掛けてきたのは、同じ大学に通う天野和也(アマノカズヤ)だ。こいつとは中学の時に絵画教室で知り合い、依頼何故か僕に懐いている。
「うるさい。年中頭が晴れ男のお前とは違うんだよ」
 そう言い返すと和也は「違いねえ」と言って高らかに笑った。
 
 ひとしきり笑い終えると、和也はニカッと白い歯を見せて「なあ、明日の夜、お前暇?」と聞いてきた。
「別に予定はないけど」
「じゃ、合コン行かね?」
「はあ⁈お前、サユリちゃんはいいのかよ?」
「サユリちゃん」とは和也の彼女だ。会ったことないけど。
「ああ、別れた」
 またかよ。こいつ、女と三ケ月ともった試しがない。
 僕が呆れた目で見ると、「だってよー、人のケータイ盗み見るなんてありえなくね?」などと言い訳をする和也。彼女に不安を与えるお前が悪い。
 和也は男の僕から見ても、外見はイイ男だと思う。背が高くてがっしりした体格。少し癖のある明るい茶色の髪で、まだ少年っぽいやんちゃさを残した顔は、掘りが深くて外人顔。日に焼けた肌に白い歯がよく映える。
 趣味はサーフィン。性格は至ってマイペース。エネルギッシュで行動力はあるが、ちょっと短気で攻撃的なのがたまにキズだ。
 
 和也を色で例えるなら「赤」。赤の中でも特に色鮮やかな「カーマイン」ってとこだな。

「で、行くだろ?」
「でも僕、そういう場所苦手だし……」
「だ~いじょうぶだって!俺もいるし。お前だってそろそろ彼女くらい欲しいだろ?」
「いや、彼女は別に…今はいい」
「……お前もしかして、亜沙子(アサコ)のことまだひきずってんのか?」
 久しぶりに聞いた「亜沙子」という名前に、胸がズキンと痛んだ。
 亜沙子とは、1年前に別れた彼女の名前。

 亜沙子と付き合い始めたのは、高三の時。文化祭に出展する水彩画を中庭で描いていたところを話し掛けられたのがきっかけだった。
 彼女はいつも陽気で明るく、クラスの中心にいる様なコだった。顔も可愛かったから、当然男にもよくモテていた。そんな亜沙子が、クラスでも目立たなくて地味な僕に興味を持ったのか、全くもって疑問だ。
「あたし、拓海くんが好き!」
 そう僕に告白してくれた亜沙子の恥ずかしげな笑顔は、まるで向日葵みたいに明るくて……。

 亜沙子のカラーは眩しいほどの「イエロー」だった。

「未練、か?」
 和也が遠慮がちに尋ねる。
「そういうのじゃないけど……」
 違う、未練なんかじゃないんだ。ただあの時―亜沙子と別れた日、彼女の言った言葉が今も僕を苦しめる。
 和也は僕の背中をバシッと叩いて、「まあ、酒でも飲みながらバカ騒ぎすればジメジメした気持ちも吹っ飛ぶって。じゃ、明日の夜六時に駅前な!」そう言って去ろうとする。
「おい!和也!」
 カーマインな男、和也は、僕が止める間もなく姿を消した。
まったく…、強引な奴。和也は言い出したら聞かない。だけど和也がいなかったら、今よりもっとつまらないんだろうな。

 帰り道で亜沙子のことを考えた。
――ねえ、拓海くん。あたしを描いてくれない?――
 頭の中で亜沙子の声が響いた。
 僕にとって初めての恋で、初めての彼女。僕は亜沙子に夢中だった。今思えば、亜沙子に恋をしていたというよりも、「恋」というものに恋をしていたのかもしれない。
 その頃の僕は、絵を描くのにうんざりした気持ちを持ち始めていた時だったので、亜沙子の自分を描いて欲しいというお願いは、再び創作意欲を掻き立てるものだった。
よし、今までで一番いい出来の絵を描いてやろう。
 僕は亜沙子をモデルに絵を描き始めた。受験シーズンだったので、放課後の短い時間だけ、夕陽が照らす教室が、僕ら二人だけの空間だった。
 そういえば、亜沙子と初めてキスをしたのもあの教室だったな。なんせファーストキス。ガチガチに緊張して、僕の顔は夕陽の茜色に負けないくらい赤かったに違いない。
 
 絵が仕上がったのは、冬の初めだった。僕は意気揚々と亜沙子の元へと向かう。そして得意げに絵を差し出した。
 亜沙子はさも感動したという顔をして「ありがとう!すごく綺麗に描いてくれたんだね。大事にするよ」と言ってくれた。
 でも何故だろう?その後、少しだけ哀しそうな顔をしたんだ。
 絵は会心の出来栄えだった。亜沙子のいい所を存分に表現したつもりだ。だから亜沙子が哀しげな顔をしたのは、僕の絵に原因があるのではなく、何か別に悩みでもあるのだろうか――ぐらいにしか考えなかった。

 それから亜沙子が、少しずつ、少しずつ変わっていくことに、僕は気づいてやる事も出来ず、僕達は大学生になった。

 亜沙子の様子がおかしい。そう気づいたのは、大学生活も少しは慣れた五月頃だった。
僕達は同じ大学には入らなかったけど、お互い実家から通える大学を選んだので、時間が合えばそれなりに会えた。
 それでも高校生の時みたいに毎日顔を合わせられない。亜沙子は「会いたい」と言っては、僕に電話を掛けてきた。時には夜中に突然「お願い、今すぐ会いたいの」と言われることもあった。いつでも会いたいと思っていたのは僕も同じだったから、僕は嫌な顔一つせずに会いに行った。

 最初は可愛いと思っていた亜沙子の我が儘が、次第にエスカレートしていく。僕は疲れ始めていた。
 このままじゃいけない。亜沙子は僕が考えているよりもずっと寂しいのかもしれない。何とかしなきゃ。
 そこでゴールデンウィークに旅行へ行こうと、亜沙子を誘った。近場の温泉へ行き、ゆっくりと二人で過ごした。空気も景色も綺麗だったし、楽しめたと思う。
だけど時折見せる、亜沙子の寂し気な顔が、僕は気になって仕方がなかった。
 抱いていても、どこか上の空で、そうかと思えば急に「あぁ…...拓海くん!拓海くん!好き!好き!!」と、激しく僕を求めてきたりする。
 亜沙子はこの時既に別れを決意していたのだろうか?旅行が終わった後、亜沙子からの連絡がパタリと来なくなった。

「拓海くんは本当のあたしを見ていない」
 次に会えた時、亜沙子はそう切り出した。
「拓海くんが描いた絵、あれを見た時思ったの。拓海くんはあたしの綺麗な部分しか見ていないって。あの絵を見る度に、自分がいかに醜いかって思い知らされた!だからあたし、いっぱい我が儘言ってみた。拓海くんに怒ってもらいたくて。でも拓海くんはいつだって優しくて……。それが辛かった」
 そこまで言うと、亜沙子は目から大粒の涙をぼろぼろと零した。
 何も言えなかった。亜沙子の言った言葉が信じられなくて。僕は亜沙子の涙を拭ってやる事も出来ずに立ち尽くしていた。
 僕の描いた絵が亜沙子を傷つけていた。認めたくなかった。だってあの絵は、僕が亜沙子を好きだという思いそのもので……。絵を描く楽しさを再び教えてくれたものであって……。
 ああ、そうか。だから駄目なんだ。「ひとりよがり」だったんだな。
「だからごめんなさい。もう拓海くんとは付き合えない。さようなら……」
 去って行く亜沙子の後ろ姿を呆然と見つめながら、彼女が告白をしてくれた時に頭に描いた、向日葵のイエローを思い出していた。僕は恋に夢中になり過ぎて、亜沙子の色を見失っていた。イエローは信号にもあるように、「危険」を表す色でもあったんだな。
 今の亜沙子の色は…...?駄目だ。涙で滲んで何も見えない――。

 ガタンと電車が揺れて、僕はハッと現実に戻った。
 もう一年も前の出来事だ。なのに今も鮮明に残る亜沙子の言葉。
 僕はあれから人物画を描くことが出来ない。学校の課題で描くこともあったが、評価はいつも決まっている。
「テクニックは充分ある。だけど表情が乏しい」
 亜沙子と付き合う前に抱き始めていた、絵に対して冷めた感情には増々拍車がかかり、自ら描こうという気は全くなくなってしまった。
 ――唯一、あの雨の日に出会った彼女を描いたことは除いて。

 電車を降りると、雨は激しさを増していた。波の音が聴こえる。少し歩くと、目の前に広がる雄大な海。
 今日は波が高いな。そういえば海で号泣する女の人を見かけた日も、今日みたいな雨の日で、波が高い日だったっけ……。
 海岸を一通り眺めてみたけれど、人影はなかった。立ち止まり目を閉じてみる。脳裏に浮かぶのは、あの日見た色のない彼女。しかし目を開けると途端に僕の頭から消えていなくなった。
 本当に幻になっちゃったな…。僕もあんな風に泣く事が出来てたら、今頃こんな思いをしなくて済んだのかな。
「はあ……」
 大きく溜め息をついて、僕は家路を急いだ。

 僕の色はきっと「ベビーブルー」。限りなく白に近い、頼りないブルー。臆病で消極的な色だ。今の僕に、子どもの頃のような純粋な絵は描けない。大人の絵は?と聞かれても、それがどういうものなのかも分からない。子どもにも戻れない、大人にもなれない、僕は中途半端な位置で立ち止ったままでいる。
 出来るなら、もっと鮮やかなブルーになりたいんだ。名前に「海」という字があるのだから、晴れた日の海のような「マリンブルー」に、僕はなりたい。

2

 合コン。それは僕にとって居心地の悪い場所極まりない。待ち合わせした駅前には既に和也ともう一人の男がいた。
「おー、拓海、おっせーよ!」
 いや、僕は時間ぴったりに着いてるし、和也、お前が張り切り過ぎだろ。
 和也の隣にいる男は、どこかで見たような…?
そいつは僕を見るなり、「あ~!この前俺のバイト先に来た好青年くん!」と言った。
 と、そこで僕も思い出した。そう言う君は居酒屋で働く「オレンジくん」だね。本人にそんなこと言えないけど。
 和也と飲みに行った居酒屋で、和也と親しげに話していた奴だった。和也と同じ中学の同級生らしい。やたら賑やかで親しみやすい印象の彼に、僕は「オレンジくん」と勝手に命名していたのだった。
「俺、小林日向(コバヤシヒナタ)。日向って呼んでくれていいから」
 名前までオレンジだな、と思って、僕は自然と笑顔になる。
「僕は諏訪(スワ)拓海。拓海でいいよ」
 オレンジくん、もとい日向とは上手くやれそうな気がした。
「んで、女のコは?」
 和也がキョロキョロ辺りを見回してるが、僕はこのまま三人で飲みに行きたいよ。
「現地集合だから、ここにはいないよ」
 日向がそう言うなり、「じゃ、早く行こうぜ!」と和也は率先して歩き出した。
 お前、絶対場所知らないだろ。心の中でツッコミを入れながら、僕は和也の後ろに着いて行った。

 賑やかで派手な曲が鳴り響いた。鳴っているのは、どうやら日向の携帯だ。
「おお、着いたか。……うん……うん、いいよ。じゃあ先に店入ってて」
 相手は合コンのメンバーらしい。
「なあ、日向、今日はどんなコが集まるワケ?」
 携帯を切った日向に和也が尋ねた。
「ああ、一人は俺と同じバイト先のコ。そのコが大学の友達連れてくるって言ってたから、M女大じゃね?」
「マジで!?M女っつったら、可愛いコが多いって有名じゃん!待たせちゃいかん!走るぞ‼」
「か、和也‼」
 ああなったら和也は止まらない。僕と日向は必死で和也の後を追う。
「和也!そこ右だ‼」
 街中で日向が叫ぶ。普通、道も分からず先頭を走る奴があるかよ。まあいいけど、和也、その緩んだ顔は着く前にどうにかした方がいいぞ。せっかくのいい男が台なしだ。
 着いた場所は洋風でお洒落な居酒屋だった。中に入ると、奥の席から「日向~!」と言い、立ち上がって手を振る女のコが見えた。
 あっ――‼、と僕は声を上げそうになる。
「わりぃ、遅かったか?」
「ちわ~、今日はよろしく」
 日向と和也は彼女達に歩み寄るが、僕はその場から動けないでいた。僕の視線の先は、立ち上がったコではなくて、そのコの傍らに座っている女のコに向けられていた。
「拓海?」
 和也が固まっている僕に振り返り、怪訝な顔をしている。
「あ、ああ…...」
 僕は明らかに動揺していた。だって、まさか…...。こんな所でまた会えるなんて。
 一年前、海で号泣していた彼女が、そこにいた。

 目の前にもう一度会いたいと思っていた彼女がいる。だけど僕はどうすることも出来ずに俯いていた。
(一年前に海で泣いていましたよね?)なんて、そんな無神経なこと言えないよな。
(君を描きたいです)いきなりそれはドン引きだろ。
あー、何で僕はこうも要領を得ないんだ!?
「おい」
 和也が肘で僕をつつく。
「何だよ?」
「お前の番だって、自己紹介」
「あ!」
 勢い余って立ち上がってしまった。全員が僕に注目している。
「す、す、諏訪拓海です!よ、よろしくお願いします!」
 深々と頭まで下げてしまった。
「ぶっ!」
 最初に笑ったのは和也だ。
「お前、転校してきた小学生かよ?」
 その言葉にみんなも笑った。
「………」
 僕は言い返すことも出来ず、真っ赤になった顔を見られないように下を向いたまま席に着いた。
 これだから合コンは苦手なんだ。

 和也に無理矢理付き合わされて、ほんの時々参加する合コンだけど、女のコは大概和也に集中するので、僕は居心地の悪さを感じつつも、ただ時間が過ぎるのを待つだけでよかった。居心地の悪さは相変わらずだけど、今日だけはぼんやり過ごす訳にはいかない。
 僕は何度もチラチラと彼女を見る。彼女は終始はしゃいでいて、笑顔を振り撒いている。
「すみませ~ん、おかわりぃ」と、カクテルのグラスを高々と上げて店員を呼んだ。
――と、そこで一瞬彼女の視線が空で止まった。
 遠くを見つめるようにした後、口元だけでふっと笑い、再び明るい顔でみんなの話の輪に加わった。
 凄く違和感を覚えた。今日最初に見た時からその違和感はあった。
 彼女と視線がかち合う。彼女は僕を真っ直ぐに見つめ、そして、にーっこりと小悪魔的な笑顔で笑った。
「――‼」
 僕はテーブルにバンッと手をついて勢いよく立ち上がり、「ぼ、僕、トイレ!」ダッシュでトイレに向かった。

「はぁ、はぁ……」
 息が切れているのは、走ったせいだけじゃない。
 何なんだよ、あの人。でも、違和感の正体が分かった。それは彼女の色。いろんな色を混ぜ合わせると、限りなく黒に近い色になる。彼女のはまさしくそれ。
 彼女もおそらくは自分の色を持っているのだと思う。だけどその色を隠すように、他の色で塗り潰してしまっている。僕はそう思えてならない。
 不自然に明るい笑顔、僕に向けられた小悪魔的な笑顔。普段の彼女を知っている訳ではないが、全部作り物みたいに見えるんだ。
 ただ、一瞬だけ見せた、遠くを見つめる虚ろな表情だけは、彼女の本心を表していたと思う。
 初めて彼女を見た時は無色透明だった。再会した彼女は混濁色。どっちにしろ、彼女の本当の色が分からないことには変わりないけど。
 気持ちを落ち着けてトイレからでた筈なのに、出た途端に僕はさっきよりも動揺する羽目に遭う。そこに彼女がいたからだ。
「あ、えっと……」
 やばい、名前が出てこない。自己紹介の時、聞いてなかった。
「拓海」
 彼女はいきなり僕の名前を呼び捨てにすると、「ねぇ、二人で抜け出しちゃおうか?」
そう言って僕の腕を掴み、引っ張るようにして店の外へ連れ出した。
「え?え?」
 動揺するばかりの僕は、彼女のなすがまま。幸い和也達は話に夢中で、僕と彼女が抜け出した事に気づいていなかった。

 街の中を彼女に手を引かれて走り抜ける。
 何故彼女は突然こんな行動に?僕を連れて何処へ行く?
頭の中は混乱しているのに、不思議と爽快な気分だった。
 僕はただ周囲に流される様に生きてきた。その僕が合コンをエスケープだって?誰がそんな事を予想する?
 つまらないと思っていた毎日。彼女はそこから僕を連れ出して、わくわくする未知の世界へ導いてくれる。
 全身に風を感じながら、そんな事を考えていた。

 確かに彼女は、これから僕を未知の世界へ連れて行ってくれたのだが、わくわくどころの話じゃない。ドキドキハラハラ…なんてものも飛び越えた波乱の夜が、僕を待っていた。

「はぁ~、走ったぁ。ここまで来れば平気かな?」
 そう言って振り向く彼女。
「あ、えっと…...」
 僕はハッキリ答えられえない。
「拓海、ああいう場所苦手でしょう?」
「……はい?」
 いきなり図星を突かれて僕は固まった。
だから連れ出してくれたの?
「それに…...」
 彼女はニヤッと笑って話を続ける。
「あたしの事チラチラ見てた」
 バ、バレてた。
 真っ赤になって俯く僕を、彼女はさも可笑しそうに笑った。
「き、君は良かったの?途中で抜け出したりして…...」
「『君』って、名前覚えてないの?」
「す、すみません」
 さっきから吃り過ぎだし、僕って情けない。
「あたしは早紀。白川早紀(シラカワサキ)。M女大の三年よ」
 早紀、さんかぁ。やっと名前が分かった。大人びた雰囲気だとは思ったが、僕より一つだけ年上だったのか。
「合コンはまあいいんじゃない?拓海、ああいう場所じゃ話してくれそうもないし」
 そう言って再び僕の腕を取る早紀さん。
「え!?何処行くの?」
「こんな所で立ち話もなんでしょ?行こ!」
 だから何処に?

 さっきから予想のつかない展開に、僕は唖然としながら早紀さんに着いて行くことしかできなかった。

 連れられた建物を呆然として見上げた。都会の外れにそびえ立つお城は、青紫の光でライトアップされて幻想的に浮かび上がっていた。
 ここ……?ここってもしかしなくても、ラブホテルじゃないんですかああぁ!?
 

「何突っ立ってるの?さ、入ろ」
「ちょ、ちょっと、早紀さん!?」
 僕が止める間もなく、早紀さんはズンズン中へ入って行く。慌てて追っているうちに、僕も入ってしまった。

 ぼ、ぼ、僕いったいどうなっちゃう訳!?
 これって男の台詞じゃないよな。落ち着け自分。何もしなければいいんだ。いや、早紀さんに何かされたら?
 ああ~、どうしよう!?
冷や汗はタラタラ、頭は完全にパニック。そんな僕とは対象的に、早紀さんは涼しい顔をしていた。

 ――バタン――
 部屋の扉が閉まる。扉の音に反応して思わず振り返って、ドアノブに手を掛けた。そしてそのまま動けない。
 扉とにらめっこしたままでいた僕に「拓海……」と、早紀さんが静かに声を掛ける。恐る恐る振り返ると……。
 僕は驚きのあまり、バンッと扉に背中を打ちつけるくらい後退った。

「なっ!何やってるんですか~!?」
 そこには服を脱いで下着姿の早紀さんがいて、キョトンとした顔で僕を見ている。
「何って、拓海だって、ここがどういう所か分かってるでしょ?」
「そうじゃなくて、僕達まだ知り合ったばかりで……その、お互いの事何にも知らないし……。と、とにかく話し合いましょう‼」
 何言ってんだか、もう支離滅裂だ。
「話し合うって……私はこういう人間です、僕はこういう人間ですって言い合う事がお互いを知るっていう事?」
「え……?」
「いい?セックスは五感を使って話をするのよ?言葉なんか要らない。五感をフル活用して自分の事を伝えるの。そして相手が何を求めているのか探るのよ。言葉にして伝えるより、よっぽど有意義だと思わない?」

 早紀さんの言う事は妙に説得力があった。
 でも……それでも僕は……。
「しないの?意気地なしね」
 その言葉にカチンときた。
「意気地なしって……!目の前に出された美味しい物にがっつくのが意気地のあるって事なんですか⁉それを我慢する事の方がよっぽど勇気の要る事じゃないですか!それに……」
 それに僕は、抱き合っても伝わらない、伝わってこない虚しさをよく知っている。亜沙子を最後に抱いた時、僕は亜沙子が何を思っているかまるで分らなかったし、僕も自分の思いを伝えてたとは言い難い。
「言葉にできない気持ちを伝えるのが抱き合うって事じゃないんですか!?相手が好きで好きでしょうがなくて、言葉じゃ足りなくて、求めて求められて……そうじゃなきゃ何も伝わらない……!」

 大声を張り上げて、こんなの僕らしくない。初めて海で見た時からそうだ。この人は僕を内側から狂わす。
 さっきまでおどおどしていた僕の豹変ぶりに、早紀さんが目を丸くして驚いている。僕だって驚いている。自分がこんなに感情的になって人にものを言うなんて、今までなかった事だ。
 早紀さんがツカツカと僕に近寄って来る。
 言い過ぎた!?怒った!?
 ぶたれる覚悟で身をすくめた時、柔らかい感触が僕を包み込んだ。

――え?
 早紀さんが僕を抱きしめていた。
 ひいいいいぃ‼さ、早紀さん!それはマズイです!いくら僕でも、下着姿でそんな事されたら理性がぶっ飛びます!
 そんな僕の心の叫びも梅雨知らず、早紀さんは僕の耳元で「拓海はイイ男だね。今の、カッコよかったよ」そう囁いて、頬にキスをしてきた――。

 僕の思考回路は一旦ここで停止する。
 あ……れ……?
再び頭が動き始めた時、そこに早紀さんの姿はなかった。僕は部屋の扉に背をあずけたまま、床にへたり込んでいた。部屋を見回しても早紀さんは見当たらない。微かに水の音がする。そこでようやく頭がハッキリしてきた。
そうだ、下着姿の早紀さんに抱き着かれて、頬にキスされたんだ。

――拓海はイイ男だね。今の、カッコよかったよ――
 甘い早紀さんの声が頭の中でこだまする。

 僕は母親譲りのぐりぐり眼の童顔で、可愛いと言われることはよくあっても、かっこよいと言われる事は、まずない。あわや僕の理性が吹っ飛ぶという所で、早紀さんは僕からパッと離れて、「じゃ、あたしはシャワーでも浴びてくるわ」と言って、スタスタとシャワールームに向かったのだった。

 シャワーの音が止んだ。
「あれぇ?拓海、まだそんなとこにいたの?」
 シャワーを浴び終えた早紀さんの姿を見て、僕は再び扉に背中を打ち付けた。
 石鹸のいい香りがして、濡れた髪がやけに色っぽい。白い肌が蒸気して、ほんのりピンク色に染まっている。
 そしてバスローブから覗く胸の谷間。ある意味、下着姿より衝撃的な光景だった。
「ぼ、僕もシャワー浴びてきます‼」
 慌ててシャワールームへ逃げ込んだ。
 僕がシャワールームに飛び込んだのは、とりあえずの逃げ場が欲しかった訳で、決して「ヤル気」がある訳ではない。シャワーの蛇口を捻って、まだ温まってない水を頭からおもいっきりかぶる。
 落ち着け……。クールになれ、拓海。
 そう自分に言い聞かせて下に視線を落とした
 ああ!男ってなんて不便な生き物なんだ!

 結局僕は、通常のシャワーを浴びる時間に、余計な時間を上乗せしなければならなくなったのだった。

 そぉっとシャワールームから出る。さっきから早紀さんに驚かされてばかりだから、またシャワールームの入口で待っているんじゃないかとも思ったが、当てが外れた。部屋の中は静まり返っている。その静けさがかえって緊張を誘った。
 早紀さんは首を向こう側にして、ベッドの上に横たわっていた。バスローブからはみ出している、ほっそりとした脚が艶めかしい。
 僕は視線を早紀さんからずらして声を掛けた。
「早紀さん……?」
 返事がない。
 なるべく早紀さんを見ない様に、見ない様に、ゆっくり近づいていく。顔を覗き込んだら、すぅっと寝息をたてて眠る早紀さんがいた。

「ははは……」
 脱力……。思わず笑いが漏れた。
 まったく、なんて人だよ。こっちの都合なんてお構いなし。自分の気が向くまま、自由に奔放に。
 少し、憧れた。
 僕は毎日が退屈だと思っていながら、自分から何かを変えていこうとはしなかった。
 怖いんだ。何かに全力で取り組んでそれを否定されたら、僕はどうしていいか分からなくなる。
 ――亜沙子の絵を描いた時の様に。
 それでも僕は絵筆を捨てられない。絵を描くという事は、僕にとって唯一のアイデンティティ(自己同一性)――僕の存在価値だからだ。

 早紀さんにそっと布団を掛けた。規則正しい寝息を立てて、ぐっすりと眠っている。
 無邪気な寝顔だな。どうして君にははっきりした色がないの?君が隠したい色はどんな色をしているの?
 はあ、とため息をついて時計に目をやる。間もなく日付が変わる。
 とんでもない一日だったな。終電はもう間に合わない。まぁ、タクシーを使えば帰れない事もない、か。
 どうする……?
 僕は着心地の悪いバスローブを脱ぎ捨てて、自分の服に着替えた。そして適当な金額のお金を置き、早紀さんへ振り返った。
 いいよな……?元々無理矢理に僕が連れ込まれた様なものだし。

 女のコをこんな場所へ一人置き去りにする事に、少しの罪悪感を抱いたが、これ以上振り回されるのはゴメンだった。
 もう忘れよう、今日の衝撃的な出来事も、色のない彼女の事も。

そして部屋の扉のノブに手を掛けたときだった。
「行かないで‼」
「うわっ‼ごめんなさい!ごめんなさい!」
背後から聞こえた早紀さんの叫び声にびっくりして、僕は反射的に謝った。
あれ?反応がない。
「早紀さん……?」
近寄ると、さっきと変わらず、早紀さんは寝息を立てていた。寝言だったのか。
「あ……」
早紀さんの顔を見て、僕は小さく声を上げた。
「……な……いで……」
 聞き取れなかったけれど、恐らくはさっきと同じ台詞。
――行かないで――
 そう言いながら、早紀さんは静かに涙を流していた。そしてその涙に洗い流されるように、混濁色だった彼女のカラーが消えていき、後には何も残らず、僕が初めて彼女を見た時の、無色透明な姿がそこにあった。

殆ど無意識の行動だった。僕はテーブルにあったバインダーに挟まっているホテルのアンケート用紙をひっくり返し、裏面の白紙にボールペンで早紀さんを描いていた。

3

「拓海……」
 誰かが僕を呼んでいる。
「拓海」
 ああ、もう朝か。母さんが起こしに来たんだな。
「拓海っ‼起きろ‼」
「うわっ‼」
 母さんとは似ても似つかない迫力のある声に驚いて飛び起きたら、床に落下して腰を強く打ち付けた。そうだ、ここは家じゃない。
「もう、何だってそんなところに寝てるのよ。二人で寝たってベッド充分広いのに」
 既に身支度を整えた早紀さんが、両手を腰に当てて、呆れ顔で僕を見下ろしていた。
 同じベッドで平然と寝られる程、僕は強靭な理性の持ち主じゃありません。
「あたしは別に寝込みを襲われたって構わなかったけど?」
 僕の気持ちを見透かしたかの様に早紀さんが言ったので、赤くなって下を向くしかなかった。

 僕は何かに操られるかのごとく色のない早紀さんを描いた後、まさか早紀さんと同じベッドで寝る訳にもいかず、この狭いソファーに身を小さくして寝た。今ソファーから落ちた時に加わった新たな痛みと共に、体のあちこちがギシギシいってる。
「早くしないと、チェックアウトの時間過ぎちゃうわよ」
「え?今何時?」
「もうすぐ十時よ」
 あちゃー、午前の講義は完全にサボリだ。
「早く顔洗って、支度したら?」
 そう言って、早紀さんはくすくすと笑った。何がそんなに可笑しいのだろう?
 床に打ち付けた腰をさすりながら、洗面所に向かった。まだ眠くて頭がボーッとしている。

「うわああ‼」
 鏡に映った自分の姿を見て、僕はいっぺんに目が覚めた。
「早紀さん‼何なんですか!これは!?」
 洗面所から飛び出すと、目に涙を溜めて早紀さんは爆笑していた。
「あはははは‼だって拓海、すっごく可愛い顔して寝てるんだもの。似合ってるわよ?」
 鏡に映ったのは、ほんのりピンク色の頬にブルーの瞼、唇までピンクの化粧が施され、完全に女のコと化した僕だった。
「ぜーんぜん違和感ないわよぉ?拓海、ホントに女のコみたい。ぷっ、あはは」
 あ、悪魔だ、この人は……。

 何とか化粧を落としてホテルから出ると、日はだいぶ高くなっていた。ホテルの中は、今は昼か夜かが分からなかったから、照りつける初夏の太陽が眩しい。
 一度家に帰って着替えてからでも、午後の講義には間に合うな。
「早紀さんは、大学はいいの?」
「あたし?あたし今日の午前は休講ー」
 自分が休講だからってゆっくりしてるなんて、つくづくこの人はマイペースだ。
「あ、そうそう」
 そう言って早紀さんは、バッグの中を探って何かを取り出した。
「これ、拓海が描いたの?」
 あ、さっきバタバタ支度してたから、すっかり忘れていた。色のない早紀さんを描いた物。描いていた時の記憶がない。ただただ夢中だった。
 彼女は僕を散々振り回すし、できれば関わりたくないタイプなのだが、何故か僕を引きつけて止まない。
「上手いんだね。あたし、こんな顔して寝てるんだぁ?」
「すみません、勝手に描いて……」
「何で謝るの?」
 キョトンとしている早紀さんに僕は、「え、だって……あの……」と、はっきりと答えられない。
「ね、これもらっていい?」
「あ、どうぞ」
「ありがとう」
 早紀さんは僕の描いた絵をしげしげと見つめた後、「表がこれだものねぇ。人が見たらどう思うかなぁ?」と、ニヤリと笑って言った。
 あっ!表はホテルのアンケート用紙だったんだ!
「ダ、ダメです!やっぱり返してください!」
「やぁよ。さっきくれるって言ったもの。早速友達に見せちゃおー」
 この人なら本当にやり兼ねない。
「じゃ、あたしこっちだから。バイバーイ!」
「ちょ、早紀さん!」
 早紀さんはひらひらと手を振りながら、あっという間に人混みの中に消えた。

 嵐の様な人だった。おかげで結局言えなかったな、「君を描きたい」って。忘れようとも思った。彼女といると、僕のペースは乱されっぱなしだし。だけど彼女を描く事で、僕の中の何かが変わる気がするんだ。できるかできないかじゃない。僕自身が描きたいんだ。
 まだ残っていた、描きたいという情熱。熱いと感じるのは、きっと日差しのせいだけじゃない。僕の内側にある熱いモノが静かにゆっくりと動き始めていた。

 大学着くと、午後の講義まで多少の時間があったので、朝ご飯だか昼ご飯だか分からない食事を取る事にした
 早紀さんを描くと決めたはいいが、僕は彼女の連絡先すら知らない。これからどうしようか?日向に聞いたら、連絡先くらい教えてくれるかな?

「たぁ~くみ」
 ご機嫌な声で後ろから僕の首に腕を巻き付けてきたのは、和也だった。
「暑苦しいよ」
 何故和也はこうも僕にベタベタ絡んでくるのだろう?他の人にはそうでもないのに。
 和也は僕の向かいに座り、ニヤニヤと笑っている。
「昨日は途中で抜け出しやがって。お前の分、俺が払ったんだぞ」
「あ、ごめん。幾らだった?」
「いや、いい。俺の奢りにしておいてやる」
 そう言って和也は、僕の肩をガシッと掴んで自分の方へ引き寄せ、「で、早紀ちゃんと何処行ってた?」と、上目遣いで尋ねてきた。
 つまりは「奢ってやる。その代わりに、昨晩の事を話せ」という事だ。嘘を吐いたところで、どうせしどろもどろになって直ぐにばれる。正直に話そう。
「……ホテル行った」
「はあ!?マジで?お前やるじゃん!」
「ち、違う!連れ込まれたのは僕の方……」
 それを聞いた和也は、オーバーにガクッと肩を落とした。
「ま、まあ、拓海が相手ならそれもアリか。にしても羨ましいぞ。んで、どうだったワケ?」
 和也がウシシとスケベな顔になる。
「待て、和也。話を暴走させるな!ヤッてないし」
「は?ヤッてないだと!?あんな可愛いコとホテル入って、何もせずに出て来たっての!?」
「うん……」
 早紀さんって可愛かったっけ? そんな事確認する余裕もなかったよ。冷静になってみれば……確かに可愛かったかもしれない。小悪魔入るけど。
「お前って、イマドキ貴重な男だよなぁ。俺ならぜってー我慢できねえ」
 和也には無理だろうな。僕だっていっぱいいっぱいだったんだから。

「ところで今日、学校終わったら時間あるか?」
「合コンなら絶対に行かないぞ」
「違うって。久しぶりに俺んち来ないか?ばーちゃんが拓海に会いたいんだってさ」
 和也のおばあさん。そういえば最近会ってなかったな。
「うん、僕も会いたい」
「よし、じゃ、決まりな」
 午後の講義もそこそこにこなして、校門の外へ向かおうとしたが、「おい、そっちじゃねえよ」と、和也が僕を制した。
 嫌な予感がする……。
 和也は親指を立てて、クイッと右側の方を指す。そっちは、もしかしなくとも、駐輪場のある方では……?
「俺、今日バイクで来たから」
 やっぱりぃ‼
「い、いや、いいよ。僕は電車で行くから。和也の家で落ち合おう!」
「何で?一緒に乗ってった方が早いじゃん」
 僕の顔はきっと青ざめている。和也はそれを承知の上で面白がっている。
 その薄気味悪い笑みはよせ!
「い、嫌だああ‼」
 僕の必死の抵抗も虚しく、和也はズルズルと僕を引きずって自分の愛車の元へと連れて行く。
「ほらよ」
 差し出されたヘルメット。僕は震える手でそれを頭に被せる。和也のバイクに乗るのは、これで二度目。
「俺のバイクにはイイ女しか乗せないんだぜ?しっかり捕まってろよ」
 だったら僕は男だし……ひぃ‼
 バイクが急発進する。
「か、和也ぁ~‼スピード……ひぃ!……落として~‼」
 僕の悲鳴混じりの声に和也は、「はーはっはっはっ‼何言ってんのか全然聞こえねえ!」とハイテンションに笑いながら、更にスピードを上げるのだった。

 はあ、はあ……。よかった、生きてる……。
 和也の家に着くなり、僕は膝を地面に落として両手をついた。これだから和也の後ろに乗るのは嫌だったんだ。
「どうだ?爽快だったろ?」
 和也は僕のヘルメットをスポンッと脱がせ、憎らしい程眩しい笑顔で笑った。女はみんなこの笑顔に騙されるんだ。
 僕が睨みつけると、ヘルメットでぺしゃんこになった髪をぐしゃぐしゃに撫でられた。
「あ~、拓海のそういう顔も可愛いなぁ」
 なんて意味不明な言葉も付けて。
 昨日の早紀さんとの事といい、僕はどれだけ寿命を縮めたのだろう?

 和也の家は英国風の造りで、かなりでかい。
 門をくぐり玄関に辿り着くまで、石が敷き詰められて作ってある小道を歩く。その両サイドにはみごとなバラ園が広がっている。赤、ピンク、イエロー、様々な色と種類のバラが僕を迎えてくれた。この景色を見ていると、ここが日本である事をしばし忘れそうになる。
 僕はこのバラ園が好きだ。そしてここを手入れしている、和也のおばあさんも好きだ。

「ただいまー!ばーちゃん、拓海連れて来たぞー」
 奥の部屋からゆっくりと優雅に表れた、青い目の貴婦人。この人が和也のおばあさんだ。優しい声と上品な話し方は、いつも僕をホッとさせてくれる。
「こんにちは、ソフィーさん」
 僕はフランス人である和也のおばあさんを名前で呼ぶ。彼女の身のこなし、雰囲気は完璧なレディであり、一人の美しい女性として扱わなければ失礼な気がするからだ。
 壁にはソフィーさんが描いた優しい絵。テーブルに飾られたバラの花。いい香りがする紅茶に、ソフィーさんが焼いたマフィン。和也の家に来ると、まずこのリビングに通されてお茶会が始まる。和也は退屈そうにしているけど、僕はソフィーさんが話す絵の話や、少女の頃暮らしていたフランスの話を聞くのが楽しい。
 くっきりとした二重の目に、筋の通った高い鼻。和也の顔はソフィーさんによく似ている。
 緩やかに巻かれた銀髪を少し揺らしながら、嬉しそうにソフィーさんは話す。
旦那様である和也のおじいさん――昭吾(ショウゴ)さんとの恋物語は、留学でフランスを訪れた昭吾さんが街で絵を描くソフィーさんに一目惚れした所から始まる。二人は恋に落ちた訳だけど、留学期間を終えた昭吾さんは日本へ帰らなければならない。そこで昭吾さんは、駆け落ち同然でソフィーさんを日本へ連れて帰ったのだ。
 和也は、顔はソフィーさん似だけど、熱い性格は間違いなくおじいさん譲りだな、と僕は思う。

 小一時間程ソフィーさんと話していたら、和也が欠伸をしだす。
「なあ拓海、そろそろ俺の部屋行こうぜ」
「あら、ごめんなさいね。つい話に夢中になっちゃて」
 ソフィーさんはまだ話し足りない様子だったけど、最後に「そういえば拓海ちゃん、少し顔つきが変わったわね?」こう言って意味ありげにウフフと笑った。

 その言葉の意味は――?僕にはよく分からない。

「拓海、行くぞ」
 和也が僕を急かす。
「あ、ソフィーさん、ご馳走様でした」
 僕は丁寧に頭を下げて、既に足が部屋へ向かっている和也の後を追った。

 和也の部屋の前まで来て僕の足は止まり、中に入るのを少し躊躇った。ここへ入るのは久しぶりだったけど、まさかまだ「アレ」があるのか?
「どうした?入れよ」
 足を踏み入れた途端、怖れていた「アレ」を目にして、僕は片手で目を覆う。
「和也……いい加減これ外せよ」
 僕がもう片方の手で指差したのは、和也が描いた水彩画。
「何で?俺、これ気に入ってるのに」
 その絵は僕をモデルにして描いた絵なのだが、でもそれは僕の様であって僕ではない。つまり、女のコになった僕が描かれているのだ。

 和也と知り合ってから少しして、突然「絵のモデルになってくれ‼」と頼まれた。あまりにも凄い剣幕だったので、つい了承してしまったのがいけなかった。
 絵はこの部屋で描かれたのだが、描いてる時に僕を見る和也の目が何だか熱っぽくて、怪しく見えたのは気のせいだろうか?
 出来上がった絵を見せてもらって、僕は開いた口が塞がらなかった。
 顔は、僕の様な気がする……。でも僕はこんなに髪が長くないし、服装だって……。
「これじゃあ、まるで女のコじゃないか‼」
 憤慨する僕なんかお構いなしで和也は「俺はこの女を探す!」と、訳の分からない事を言っていた。和也は妙に僕に絡んでくるし、時々ヤバイ趣味があるんじゃないかって、不安になるよ。

 まあ、それでも客観的に見て、この絵に描かれている少女を僕だと思わなければ、よく描けていると思う。フランスでえ本格的に絵の勉強をしていたソフィーさんに、幼い頃から絵の手ほどきをしてもらっている和也の絵は、真っ直ぐに僕へ入り込んでくる。大胆なテクニックと力強さは、僕の描く絵と対照的で、実は密かに尊敬している。絵画教室で初めて和也の絵を見た時からずっと、僕もこんな風に描けたらと思っていた。
――圧倒的な存在感。
「僕はここにいる」と証明するような絵が僕にも描けるだろうか?
 和也の様にとは言わない。僕にしか描けない線で、僕にしか出せない色で、僕だけが表現できる……早紀さん、君を描きたい。

 絵を描く事に冷めた感情を抱きつつも、僕は描くのを止めてはいない。絵は僕のアイデンティティだからだけど、それだけの理由では、僕は僕を支えていられない。
 もっと単純な理由――。
 そう、僕は絵を描くのが堪らなく好きなのだ。他人の評価や期待に埋もれてしまいそうになり、自由に描けなくなっていただけ。
 そして絵を止めずにいられたもう一つの理由がある。それは和也が――和也の描く絵が、いつもギリギリの所で僕を支えていてくれたからだ。

 僕は和也に、今ある決心を話すことにした。
「和也……僕、描いてみたい人がいるんだ」
 急に話を振られた和也は一瞬驚いて、それから目を丸くして興奮した様子だった。
 それもその筈だ。僕が自ら、しかも描きたがらなかった人物画を描きたいと言ったのだから。
「そ、そうか!で、描きたい相手は誰だ?あ、もしかして俺か!?お前が描くっていうなら、俺、脱いでもいいぞ‼」
 和也はTシャツに手を掛け、本当に脱ぎ出した。
「ま、待てって!早まるな‼和也じゃない!」
 上半身は既に裸、Gパンまで脱ごうとしていた和也の手が止まる。スポーツ万能なだけあって、確かに引き締まったいい体してるけどな。
「話すから、とりあえず服着ろ」
「ちぇっ、何だよ。俺じゃねえのか……」
 だから、何だってそんなにガッカリするんだよ。
 和也は渋々服を着直す。恨めしそうに僕を見つめながら。その捨てられた子犬みたいな目で僕を見るのを止めてくれ。

「で、誰なんだ?お前が描きたいと思わせる程のヤツは」
「あ、えっと……」
「さては女だな?」
「……うん」
「オラ、さっさと言えって」
 煮え切らない態度の僕に、和也がイライラし出す。
「実は、早紀さんなんだけど……」
「は?サキ、さんって……この前の合コンで会った早紀ちゃんの事か?」
「うん」
 何故だか分からないけど無性に恥ずかしくなって、僕の顔はカッと熱くなった。
「何顔真っ赤にしてんだよ?さては……やっぱりホテルでナニかあっただろ?」
「ぼ、ぼ、僕は何もしてないよ!」
 早紀さんの下着姿やバスローブ姿がフラッシュバックして、僕はますます顔を赤くした。
「僕『は』?って事は、早紀ちゃんにナニかされたのか!」
 しまった!これじゃあ墓穴を掘った様なものだ。
 和也は手の指をクイクイさせて、「ホレホレ洗いざらい吐け」といった仕草をしている。
「だから~‼お前の想像してる様な事は何もないよ!」
……たぶん。
「話が逸れてるってば!」
 和也は不服そうな顔をしたが、昨日の事はこれ以上話せない。
「何で早紀ちゃんを描こうと思ったんだ?まぁ、確かに可愛かったけど、それだけの理由ならお前は描かないだろう?」
 鋭い指摘だ。
「彼女の……」
「彼女のカラーが知りたいから」と言おうとして、口をつぐんだ。
 僕が人にイメージカラーを付けている事は誰にも話していない。
「彼女の……なんだ?」
 上手い言葉が見つからない。
「いや、何となく……」
 曖昧な答え方しか出来なかった。
「インスピレーションってヤツか?ま、描きたいと思うのに理由なんてないか」
 和也が単純な奴で良かった。僕は深く追求されなかった事に安堵の気持ちを抱く。
 和也の言ってるのもあながちは外れでもない。早紀さんは僕のインスピレーションを刺激する。描きたくて堪らない衝動に駆られる。

「早紀ちゃんには了解してもらえたのか?」
 そう、問題はそこなんだ。
「いや、その、それが……」
「どうした?」
「まだ言ってない。僕、早紀さんの連絡先聞いてなくて……。日向に聞けば分かるかな?だから日向の連絡先教えて」
「お前、一緒にホテル入っておいて連絡先すら聞いてないの?はぁ、要領わりぃな」
 和也が呆れている。要領が悪いのは否定しないけど、早紀さん相手にそんな余裕、全く無かったし。
「いいよ、俺が日向に聞いてやる。待ってろ」
 和也が携帯を取り出し、日向に電話をする。
「日向も知らないかもしれないねぇけえど、あいつとバイトが一緒のエリちゃんなら分かるだろ?」
「悪いな、和也」
「いいって……あ、日向?」
 日向が携帯に出た様だ。と、同時に僕の携帯が鳴り響いた。
 携帯の液晶には知らない番号。誰だ?とりあえず出てみるか。
「はい」
「あ、拓海ぃ?」
 このテンションの高い声は、まさか……。
「あたし分かるー?」
 ええ、忘れてませんとも。
「早紀だけどー」
 あなたは僕を驚かせるのがよっぽど好きな様ですね。
「あ、ちょっと待って下さい!」
 僕は日向と話してる和也に「ごめん、もういい。日向には後で連絡するって言ってくれる?」と告げて、再び自分の携帯に耳を当てた。

「早紀さん、どうして僕の番号を?」
 大体予想はつく。
「ああ、拓海が寝てる間に赤外線通信させてもらっちゃった」
……やっぱり。
「勝手な事しないで下さい」
「それ位いいじゃない。ね、それよりさ、明日の土曜日、暇?」
「え?」
 早紀さんはすることなす事いつも唐突で、僕はちっとも思考が追いつかない。
「暇ならちょっと付き合ってよ」
「はい?」
「それじゃ、S駅に十一時ね!遅れないでよ。じゃあね!」
 僕がハッキリ「行く」とも言ってないのに、早紀さんから一方的に話が纏められ、電話は切れた。

「拓海?」
「あ、ああ……」
 携帯を握り締めたまま呆然としていた僕は、和也の声で我に返った。
「もしかして、今の早紀ちゃんからだったりする?」
「うん……」
「はははは‼早紀ちゃん、サイコー!すっげえタイミング。で、なんだって?」
「明日十一時に駅前に来てって……」
「いきなりデートのお誘いかよ!羨ましいな、オイ」
 デートって雰囲気じゃない気がするけど、これで何とか早紀さんと繋がった。後は、どうやって絵のモデルになって欲しいと切り出すかだな。

「なあ、和也」
「ん?」
「お前さ、女のコにモデル頼む時、何て言ってる?」
「俺ぇ?んなの俺から頼んだ事ねえもん。あっちから描いてくれって言って群がってくるしぃー」
 はぁ、そうだった。こいつに聞いた僕が馬鹿だった。
「俺が自らモデルを頼んだのは、後にも先にも拓海!お前だけだ!」
 だから、どうしてそこで真顔になる⁉

「僕、そろそろ帰るよ」
「お、そうか。俺の愛車で送るぞ」
「いや、いい!電車で帰るよ」
 和也のバイクの後ろに乗るのは二度とゴメンだ。
「ちぇっ、拓海の悲鳴って、何かこう……ゾクゾクすんのにな」
 やっぱりわざとか。このサディストめ。

 玄関でソフィーさんに行き会った。
「あ、今日はごちそうさまでした」
「いえいえ。ねぇ、拓海ちゃん、これを受け取ってもらえるかしら」
 ソフィーさんが僕に差し出したのは、F4サイズの額縁に納められた花の水彩画だった。
「これね、私が正吾さんと出会った頃に描いた絵なの」
 紫色の可愛らしい花が描かれている。高貴な紫色がソフィーさんにぴったりだ。
「どうして僕にこれを?」
「さあ、どうしてかしらね?」
 ソフィーさんは悪戯っぽく、ただにこにこと笑っている。そして一言、「セントポーリア、花言葉は『小さな恋』よ」と、付け加えた。
「ありがとうございます」
 絵はありがたく受け取り、僕は家路についた。

 ソフィーさんが何故この絵を僕に渡す気になったのか、この時の僕には分かる筈もなく……その意味を考えもしなかった。そして僕の胸に芽生えた熱いこの感情が、「絵を描く」以外の事に向けられようとは、もちろん思ってもいなかった。


このスッケチブックを開くのは一年振りだ。ここに描かれている彼女は未完成のまま。
 一年前の雨の日――。
 僕はあの海で君を見つけた。雨に打たれて泣きながら、君は波の向こうに何を見ていたのだろう?君は他にどんな表情をするの?何故君には色がないの?
 何処かに置き忘れてきたのか、それとも見せたくない理由があるのか。僕は君の事をまだ何も知らない。

時間だ。そろそろ家を出よう。
今日早紀さんが僕に会いたい理由は分からない。彼女は僕の予想を遥かに超越した行動を取るから、ある程度覚悟しておいた方がいい。
それに、今日はきちんと絵のモデルの依頼をしなければ――。
会う前から体に緊張が走る。その緊張を振り払うかの様に、僕は走り出した。
本格的な夏は目前。流れる汗を心地良く感じた。

S駅に着いたのは、約束の時間の十分前だったけれど、早紀さんは既に来ていた。時間にルーズかと思いきや、そうでなかったので、意外だと思った。
「拓海~!」
僕を見つけた早紀さんが手を振る。僕は駆け寄り、「すみません、待ちましたか?」と、待たせた事を謝った。
「ううん、あたし待ち合わせには早く来る性質(タチ)なの。待ってる間、色んな人を観察するのが好きなんだぁ」
 そう言って早紀さんは行き交う人達を眺めた。遠くを見つめる早紀さんの横顔がどこか儚げで、不覚にもドキッとしてしまった。
 そういえば、この前居酒屋でも一瞬だけ今と同じ目をしていたっけ。早紀さんの視線は、視界に入る景色よりもずっと遠くを見ている気がする。その先に何を見ているのだろう?そこに君の色をはっきりさせるものがあるの?

「行こっか?」
 視線を僕に戻した早紀さんに、さっきまでの儚さは微塵もなく、また何か企んでいるのではないかと思わせる表情をしていた。
「あの、行くって何処に?」
 僕の問い掛けに早紀さんは、ニヤリと例の小悪魔笑顔を見せる。またしても嫌ーな予感がするんですが?
「ん~、まだ少し時間あるし、軽く何か食べに行こ」
 僕の質問に答えて下さいよ。

 ファーストフード店に入り、ハンバーガーとポテトとドリンクのセットを頼んだ。ポテトをつまみながら、僕はどう話を切り出そうかと考えていた。
 何も難しく考える事はない。普通に「絵のモデルになって下さい」と頼めばいいんだ。
 よし……言うぞ。
「早紀さ……」「ねえ、拓海」
 僕の決心は早紀さんの言葉によって遮られてしまった。
「な、何ですか?」
 たじろぐ僕に早紀さんは、はぁーと深いため息をつく。
「あたしは『拓海』って呼び捨てにしてて、タメ口まで聞いているのに、何で拓海はそんなに畏まった喋り方するワケ?あたしが年上だからっていってもたったひとつ違いよ?」
 うっ……。言葉に詰まる。僕は人見知りな方だし、こうして女のコと二人で出掛けるのも亜沙子以来なんだ。
「せめて敬語は止めたら?」
「あ、はい……」
 思わず口から出てしまった「はい」の台詞に、早紀さんは増々呆れた顔をして、ため息をついた。

「そろそろ行こうか?」
「あ、ちょっと待って」
 残り少ないジュースを一気に飲んで、先に席を立った早紀さんに続いた。
「いったい何処行くんです……行くの?」
「すぐ着くから」
 早紀さんが連れて来たのは、駅前から程なく歩いた所にあるビルの中。エレベーターで五階まで上がり、着いたフロアーの扉の前で立ち止まる。
 僕はゴクリと唾を飲んだ。早紀さんは何も教えてくれず、ただ意味深に笑うだけだし。
 そうだ、きっとここは地獄へ続く門。早紀さんは案内人の小悪魔だ。
「おっはよーございまぁす!」
 威勢のいい早紀さんの声でもって、扉は開かれた――。

 中にいた人達が一斉にこちらを振り向く。
「あらぁ、早紀ちゃん。その男の子が今日の助っ人?」
 中でもとびっきり派手な格好でロングヘアーの男(?)の人が声を掛けてきた。
「可愛い男の子だわぁ。アタシ好みかも……うふ」
 こ、これが巷でいうところのお姉系というやつなのか?それに此処は、スタジオ……?
 背景になるスクリーンがあって、その向かいにカメラがセッティングされている。

「今日の助っ人の拓海くんです。美大生だから役に立つと思って連れて来ました」
 早紀さんが皆に僕を紹介する。
「一人急に辞めちゃってね、ただでさえ人手が足りなかったから困ってたんだよ。僕はカメラマンの黒木。よろしくな」
「は、はい」
 状況がさっぱり掴めないまま、次々と自己紹介がなされていく。早紀さんは助っ人として僕を紹介していたけど、一体此処で何をやらされるんだ!?
 早紀さんに助け舟を求めて視線を送ったけど、彼女は悪戯っぽく舌を出して笑うだけだった。

「で、早速だけど、はいコレ」
 美術担当だという(名前はまだ覚えていない)男の人にペンキとハケを手渡された。
「は、い……?」
「スクリーンにする背景の手直しを頼むよ。苦労して描いたんだけど、所々色ムラがあるから」
 群青色の星空の背景が床に広げてある。こんなでかい絵なんて描いた事ない……。何処をどう直していくか、細かい指示もない。
「ささ、時間押してるから急いで!」
 有無を言わさず背景の前に立たされる。
 ええい!なるようになれ!
 僕は押し切られる形で作業に取り掛かった。

 二時間程掛かって背景を仕上げ、今はその背景の前にクリーム色のふわっとしたドレスに身を包んだモデルがポーズを取っている。
 カメラのシャッターを切る音を耳にしながら、僕はその光景をぼんやり眺めていた。
「お疲れっ!」
 早紀さんがペットボトルのお茶を差し出して僕の隣に来た。
「上手く仕上がったじゃない。拓海に頼んで良かったなぁ」
 きちんと頼まれた覚えはない。
「そんな顔しないでよ。小坂さんも拓海の画力褒めてたわよ?」
 小坂さん?ああ、あの美術担当の人、ね。
「早紀さんはここで何をしているの?」
「あたし?あたしはメイクのアシスタント。今はバイトだけど、いつかメイクアップアーティストになりたいの。ジュリー先生、結構有名なメイクアップアーティストなのよ」
 ジュリー先生ねぇ……あのお姉系の男の人が早紀さんの雇い主か。
 ジュリー先生に目を向けると……ヤバイ、目が合った!な、何だ!?こっちに来るし!
「今日はありがとう。拓海ちゃんのおかげでいい写真が撮れたわ」
 いきなり「拓海ちゃん」呼ばわりですか。
「はは……どうも……」
 僕の顔は引きつり笑いになっているに違いない。
「それにしても、男の子にしておくには勿体ないくらい可愛いわねぇ」
 ぞぞ……。背中に悪寒が走る。
「でしょう?拓海、すっごく化粧映えするんですよぅ?」
「え?早紀ちゃん、もう試してみたの?」
「ええ、こーんないい素材見つけたら試さずにはいられませんもの」
「へぇ~、それはアタシも是非見てみたいわぁ~」
 この話の展開は何なんだ?
「アラ、拓海ちゃん、シャツにペンキが付いちゃってるわよ?着替えた方がいいんじゃな~い?」
「いや、だ、大丈夫です。安物ですから!」
 ジュリー先生が僕の肩に手を乗せて、顔は耳元付近まで迫ってくる。僕、今凄く身の危険を感じています!
「ダメよぅ。すぐ洗わなきゃ落ちないわよ。あ、顔にも付いてるわ。顔はアタシが綺麗にしてア・ゲ・ル」
 肩に乗せられたジュリー先生の手に力がこもる。
 ひぃ‼
 早紀さんはただニタニタと笑うだけ。
 こいつらは悪魔だ‼悪魔が二人になった!やっぱり此処への扉は地獄への入口だったんだ‼

「やっぱりぃ。とぉ~っても似合ってるわぁ!」
「…………」
「拓海、可愛いわよ。ぷっ」
「…………」
 何故僕は、こんな所で女のコの衣装を着せられて、更にプロの手によって完璧な化粧を施されて……。
「いやーん。アタシ負けたかも!」
「ヤバイ、俺惚れそう」
 何故皆の見世物になっているのでしょうか。
「いやはや驚きだね。どうだろう?一枚撮らせてもらえないかい?」
 黒木さんまでそんな事言わないで下さい!
「拓海、せっかく綺麗にしたんだから、撮ってもらいなさいよ」
「嫌です‼」
 早紀さんは完全に面白がってるし。
「大丈夫、大丈夫。これでもプロだから。うんと綺麗に撮ってあげるよ」
 黒木さん。この人も穏やかな善人の仮面を被った悪魔だ。僕に拒否権はないらしい。
 もうこうなったら自棄(ヤケ)だ!
「早紀さん!その代わり、今度は僕の頼みを聞いてもらう!」
「……何?」
 早紀さんは怪訝そうに、眉をひそめた。
「撮り終わったらゆっくり話すよ」
「ふぅん……?」
 絶対絶対、僕の絵のモデルになってもらうからな‼

撮影が終わって、僕は無事男に戻り、やっとあの悪魔巣窟から解放された時には、もうぐったり疲れ切っていた。
「で、あたしに頼みって?」
 とりあえず早紀さんとカフェに入り、落ち着いた所で尋ねられた。
 そうだ、最後の難関が残っていたんだ。でもあんな目に遭ったのだから、僕に怖いものなんて何もない。
「早紀さん、君をモデルにして絵を描きたいんだ」
 い、言えた!
「あたし……?」
 そう言ったきり、早紀さんは黙って俯いてしまった。僕の言った事が気に障ったのだろうか?
「あの……」「拓海は……」
 僕が言いかけた言葉を遮り、早紀さんはパッと顔を上げ、何やら思い詰めた表情で言葉を続けた。
「拓海は将来画家になりたいの?絵を描くのに海外を渡り歩いたり、そういう事がしたいの?」
「え……?」
「早紀さんの顔は真剣そのものだ。濁った色がより一層濃くなっている。
「僕は……自分が絵で食べていける様になれるとは思っていないよ。だけど絵はずっと描き続けると思う。評価されたいからじゃない。自分の為に、自分が描きたい物を自由に描いていきたいんだ」
 そこへ踏み出す第一歩が早紀さん――君なんだよ。
「そうね、それがいいわよ、きっと」
 そう言って早紀さんはガラス窓の方へ顔を向けた。
 彼女の視線を辿る。外は人で溢れかえっている。やはり彼女の視線は何処かに留まる事なく、遥か彼方を眺めていた。
 その目は哀しい……。
「いいわよ」
 呟く様に早紀さんは言った。
「はい?」
 聞き返したら今度は正面にある僕に向き直して、「いいわ、モデルになってあげる」と、ハッキリとした口調で答えをくれた。
「本当に!?ありがとう!」
「今度はホテルのアンケート用紙じゃなくて、ちゃんとした絵にしてくれるのよね?」
「そ、それはもちろんです……」
 赤くなって俯く僕を、早紀さんはくすくす可笑しそうに笑っていた。

「何処で描くとか決まってるの?」
「いや、まだ何も決めてなくて……。その、描く前にもう少し早紀さんの事知りたくて」
「ああ、それは分かる気がするわ。カメラマンの黒木さんも言ってた。いい写真を撮るには、カメラマンと被写体の気持ちが一体にならないといけないって」
「うん、そういう事」
 僕にとって早紀さんはまだ謎だらけの女性(ひと)だ。自由気ままで掴み所のない人。海で激しく泣いていたかと思えば、眠りながら静かに涙を流していたりもする。熱いのか冷めているのか、さっぱり分からない。
「あたしの事が知りたいかぁ……。口説き文句にも聞こえるけど、拓海は好きになった人しか抱かないんだったわね。これからどうするの?」
「時々会って話をしたり、自然な振る舞いをスケッチさせてもらえばいいよ」
「ふぅん」
 
 その前に確かめたい事があった。聞いてもいいのだろうか。
「あの……」
「ん?」
 アイスティーのストローをくわえたまま、早紀さんは上目遣いに視線をこちらへ向けた。
「早紀さんはその、いつもああいう事してるの?」
「ああいう事って?」
「……会ったばかりの人と、ホ、ホ、ホテルに、とか……」
 上手く言えない。語尾は聞き取れない程小さな声になってしまった。
「まさか!」
 早紀さんは即座に否定した。
「そんな自分の価値を落とす様な事しないわよ」
 え?だったら……。
「どうして僕を?」
「どうしてだろう?ん~、そうね、拓海の目が気に入ったから、かな?」
「僕の目?」
「うん、凄く純粋で綺麗な目。その目に映してもらえたら、本当の自分が分かるんじゃないかと思って」
 早紀さんは自分でも気付いているんだ。今の自分がどこか偽りである事に。

 自分に「色」がないって事を――。

 一年前に僕が早紀さんを目撃していた事を話すべきか?一瞬頭にそんな考えが浮かんだが、僕はそれを打ち消した。今は話すには時期尚早だ。話した所で、早紀さんが素直に海で泣いていた理由を打ち明けてくれるとは思えない。
 彼女を知るのはゆっくりでいい。早紀さんの過去、現在。そしてどんな未来を望むのか。少しずつ解き明かしていこう。きっとそこに早紀さんのカラーを見いだせる筈だから。
 そう、信じてる。

 外は暗くなり始めていた。
「そろそろ帰ろうか?」
 早紀さんに促され、カフェを出た。むんっとした湿った空気が体に纏わりついてくる。明日は雨かもしれない。
 見上げた空は、鈍色の雲が星空を隠していた。
「それじゃあ、ここで」
 駅の改札前で、早紀さんが別れの挨拶を僕に告げる。早紀さんの家は、僕の乗る電車の反対方向にある。
「あ、送るよ」
「ううん、まだそんなに遅い時間じゃないし、一人で大丈夫よ」
「でも……」
「平気、平気。今日は無理に付き合わせて悪かったわね」
「いえ。また連絡するよ」
「うん。またね!」
 改札に向かって歩き出した早紀さんが、不意に立ち止まる。そして僕に振り返ると、「ねえ、今度拓海の描いた絵、見せてよね!」手を振りながら、大きな声で言った。
 僕はしっかり頷き、早紀さんに手を振り返した。僕の返事を確認した早紀さんはにっこり笑うと、再び歩き出し、改札の向こうに姿を消した。

 それから数週間後、僕は再び悪夢を現実世界で見る。
 和也が持ってきた雑誌の一ページを見て、僕は死ぬほど驚いた。そこに載っていた、少々ぎこちない笑顔で笑う少女――いや、女装した僕でない僕。
 何であの時の写真がここに!?
「なあ、拓海。このコめっちゃ可愛くね?」
 和也が「僕」の写真を指差して言う。
「そ、そ、そうか?」
 動揺するな……。これが僕だってばれたら大変だ。
「名前何ていうんだろーなー?」
「さ、さぁ?」
 声が裏返る。
「名前、どこにも載ってねぇんだ。……あっ‼」
「な、な、何だ!?どうした?」
 まさか僕だって気付いた!?
「このコ、お前に似てるな」
 和也が雑誌と僕を交互に見比べる。僕は慌てて顔を背けた。
「似てないよ‼」
「何ムキになってんだよ?」
 全力で否定した僕を、和也は訝し気に見つめる。
遠くから早紀さんの高笑いが聞こえた気がした……。

4

 間もなく早紀さんがやって来る。
 僕は待ち合わせ場所である、家からすぐ近くの駅へ向かっていた。待ち合わせ場所である、家からすぐ近くの駅へ向かっていた。時間までまだ全然余裕はあるのだが、気持ちが急いてしまい、早足になってしまう。
 今朝は早起きして部屋を綺麗にした。と言っても、元々散らかさない方だから、殆ど掃除をする場所もない。
 時間を持て余し、そわそわして落ち着かなかった。早紀さんが僕の家に来る。目的は僕の描いた絵を見せる為。ただそれだけの事なのに、何故こうも落ち着かないのだろう?

 早紀さんと知り合って一ケ月余り。大学も夏休みに入り、前々からの約束を果たす時が来た。
 あれから何度か早紀さんと連絡を取り、時々は会ったりもしていた。例の雑誌の写真については、カメラマンの黒木さんがその出来栄えをいたく気に入り、僕の了承もなしに掲載されてしまったのだ。いや、早紀さんには僕の了承を得る連絡がいっていたに違いない。
 先日、早紀さんを通して僕に背景を手伝ったバイト料と、そして……モデル料が支払われた。その時の早紀さんの含み笑いが全てを物語っていた。名前が載らなかったのが、不幸中の幸いだ。

 歩く僕の右側に広がる海。この辺りの海は波が高く遊泳禁止なので、夏でも比較的静かだ。命知らずなサーファーが時々波乗りに来るくらいで、後は犬の散歩で砂浜を歩く人の姿がちらほらいるだけ。

 一年と少し前の雨の日――。
 君はこの場所で泣いていた。今日僕は、君を連れてこの場所を一緒に歩く事になる。君はこの海を見て何を思うだろう?君の反応が少し怖い。

 今日の空は青く晴れていて、真っ白い大きな入道雲が堂々と浮かんでいる。太陽が海を照らし、キラキラと光を反射させる。波の音の心地良い響きが僕の耳の中を通り抜けた。
 ここは僕の好きな場所。特に今日みたいな晴天の日にこの海を眺めるのは、最高の贅沢だと思う。
 早紀さんにとってこの海はどういう場所なのだろう?僕が彼女を見掛けたのは、あの雨の日一日だけ。
 君はここがこんなにも光溢れる場所だって知っているかい?僕の好きなこの場所で、早紀さん――君を描きたいと言ったら、君は何と答える?
 僕は早紀さんの本当の笑顔をまだ知らないと思う。僕と会っている時の早紀さんはいつも笑顔でいるけれど、それらはあくまで場の雰囲気に合わせただけの、他愛ない笑顔。早紀さんが心から信頼し、気を許した相手には、どんな顔で笑うのだろう?
 例えば恋人――。
「恋人」という単語が頭を過った時、僕はハッとして頭を左右にぶんぶんと振った。
 海辺で無防備な笑顔を振りまく早紀さんの視線の先に僕がいる……。
 一瞬そんな場面が頭に浮かんで、何を考えているのだろうと、自分の思考が信じられなかった。胸がドキドキして体が熱く感じるのは、夏の日差しのせいだと自分に言い聞かせた。

 僕の家から最寄りの駅は終着駅なので、降りて来る乗客の数も疎らだ。さっき到着した電車に、早紀さんは乗っていなかった。きっと次の電車に乗って来るだろう。到着まで後二十分ある。
 駅前にある自販機でスポーツドリンクを買い、口から一気に体へ流し込むと、高揚した気持ちが少し落ち着いた。
 僕の絵を早紀さんに見せるのはいいが、迷っている事がある。昨年海で泣く早紀さんをデッサンしたスケッチブックを見せてもいいものかと、僕は考えあぐねいていた。
 この前早紀さんに会った時、どうして自分をモデルにしたいのかと尋ねられた。僕は曖昧な返事しか返せなかった。
 これから早紀さんのカラーを見出す為にも、描きたいと思った「きっかけ」を話すのは重要な事だと思う。
 僕は知りたい。早紀さんがあの日、あれほど激しく泣いていた理由(わけ)を――。
だけど、恐らくは人に見られたくないであろうその姿を勝手に描いたと、早紀さんに咎められたら……。そう考えると、見せるのを躊躇する自分がいた。

 電車が到着した。改札をくぐり抜けて来る人と人の間に、早紀さんを見つけた。一度は冷ました筈の体が、再び熱を発する。
「拓海!」
 早紀さんが着ている服の「白」が眩しい。
「こっちだよ」
 僕は早紀さんの目も見れずに、後ろを向いて先を歩いた。
「待ってよ」
 小走りで近寄ってきた早紀さんが僕の横に並ぶ。早紀さんとは何度か会っているけれど、こうして一緒に歩くのはどうも慣れない。腕が触れるか触れないかの微妙な距離が、余計に僕の緊張を誘った。

 いつもはぴょんぴょん跳ねるように歩く早紀さんだけど、海が見える場所へ近付くにつれて、だんだん足取りが重くなり……。そして海全体が見渡せる所まで来て、完全に止まった。
 じっと海を眺めている早紀さん。その無表情な顔からは感情が読み取れない。だけどポツリと一言「綺麗ね……」と言ったので、「海岸へ降りてみる?」僕は試しに聞いてみた。
「うん」
 早紀さんは頷いた。海岸へ降りても、早紀さんは何も言わない。ただ海のずっとずっと遠くを見ていた。

 早紀さんが色を無くしていく――。

 海に溶けてしまいそうな姿を見て、僕は胸が苦しくなった。
 君は確かにここに存在している。僕もここにいる。遠くばかり見ていないで、ここにいる「僕」を見て欲しい。
 僕は思わず早紀さんの手を握りしめた。本音を言うと、抱きしめたいと思っていた。だけどこれが今の僕に出来る、精一杯。
 早紀さんの横を歩くだけで緊張する僕が、手を握るなんて行為を自らする事自体有り得ない。早紀さんに出会ってから、僕は僕をコントロール出来なくなっていく。
早紀さんは、遠くに飛ばした魂が肉体に戻ったかのように体をビクッとさせ、ゆっくり僕の方へ顔を向けた。
「拓海……」
 そう言って早紀さんは笑った。初めて見る、早紀さんの柔らかい笑顔。
 その一瞬、ほんの一瞬だったけれど、チラリと早紀さんのカラーを垣間見た気がした。
――今、君の心が一歩、僕に近付いた。

「早紀さんは、その……海の向こうに何を見ているの?」
 おかしな質問だったのかもしれない。だけど目前の海の景色より遥か遠くに視線を送る君は、そこに何かを見出したいと思っているに違いなくて、僕も同じ景色を見てみたいと思ったのだ。
「……何も……何も見えない」
 早紀さんはぎゅっと痛いくらいに僕の手を握り返した。
「海の向こうは遠すぎて……そこへ行きたくて必死で泳いでも、あたしは途中で溺れて沈んでしまう……。だから海なんて嫌いよ」
 それだけ言って僕の手を離した。
 再び歩き出した早紀さんと僕の間を潮風が通り抜けて、近付いたと思った二人の距離がさっきよりも開いてしまったのを感じた。

――海なんて嫌いよ――
 そう言った早紀さんの声が少し涙混じりに聞こえ、少しだけ見えた心のキャンバスは、瞬く間に様々なカラーで塗り潰されてしまった。
 君が行きたい海の向こう。君が見たいと望むものは何?それとも、そこに逢いたい人がいるの?僕は何も聞けなかった。

 僕は今まで女のコを家に招いた事がない。元彼女の亜沙子ですら、この家に足を踏み入れてないのだ。
「お邪魔しまーす」
「あ、今日親いないから遠慮しないで」
「ふぅん……」
 早紀さんがニヤニヤと笑う。
「な、何?」
「拓海、エッチなコト考えてる?」
「は?そんな訳ないよ!」
「あはは!冗談よ。拓海ったらすぐ本気にするんだから」
 この人の冗談はホントに笑えない。そんな事言われたら返って意識してしまう。
 今、この家に早紀さんと二人きり……。ダメだダメだ‼邪な気持ちを抱くな!それこそ早紀さんに付け入れられる。
 階段を上る背後で、早紀さんがくっくっくっと押し殺した笑い声を漏らしていた。

「へぇ……これが拓海の部屋かぁ。いかにも絵を描いてる人の部屋って感じね」
 机のペン立てにあった絵筆を一本取り出して部屋のあちこちを指してはチェックを入れている。
「僕、飲み物取ってくるよ。適当に座ってて」
「はぁい」
 アイスティーを二つ入れて部屋に戻ると、本棚から勝手に高校の卒業アルバムを取り出して眺めている早紀さんがいた。
「何勝手に見てるんですか!?」
「いーじゃない。あ、拓海見っけ。うわー、今よりもっと可愛い!」
「可愛いとか言わないで下さい!」
 童顔なのは結構気にしてるんだ。
早紀さんからアルバムを取り上げると、ページとページの間から一枚の紙がハラリと落ちた。あっ……と声を上げる間もなく、早紀さんがさっとそれを拾い上げる。
「誰?このコ。拓海の彼女?」
 それはノートを破った紙に描かれた亜沙子だった。僕は亜沙子と付き合いだしてから、授業中にこっそり亜沙子を盗み見しては彼女の横顔をノートに描いていた。
 こんな所から出てくるなんて……。
「彼女じゃないよ」
「あ!分かった!片思いしてたコでしょう?当たり?」
「いや、はずれ。『元』彼女なんだ」
「そっかぁ……拓海、振られちゃったのね」
「な、何で分かったんですか!?」
「そりゃ、拓海のそんな顔見たら、ね」
 僕は慌てて顔を隠した。亜沙子の事は吹っ切れてる筈だったけど、こうして過去の思い出に触れると胸が痛い。
「そういう早紀さんはどうなんですか?」
「何がー?って、拓海また敬語に戻ってるし」
 ぷっと吹き出す早紀さんをジロリと睨みつけて僕は言った。
「彼氏いないの?」
「今はいないわよ。いたらこんな風に拓海と会ったりしないわ」
「今は」ね……。
 いつもいつも僕ばかりからかわれてばかりだったから、たまには早紀さんに意地悪な台詞を言ってみたくなった。
「早紀さんも振られたんだ?」
「…………」
 あれ?反応がない。いつもみたいに適当に交わされると思ったのに。早紀さんは押し黙って俯いている。僕、もしかしてマズイ事言った?
「早紀さ……」「……んな男……」
 僕の呼び掛けを早紀さんの低い声が遮った。そして「あんな男、こっちから切り捨ててやたのよ!」と、怒鳴るように吐き捨てた。
 普段から次にどんな行動を起こすか全く分からない早紀さんだけど、今日の早紀さんはますます分からない。
 気まずい雰囲気が流れる。
「ごめん……」
 何に対しての「ごめん」かはよく分からないけど、とりあえず謝った。
「やぁね。何で拓海が謝るのよ」
 少しだけ早紀さんが笑った。

「それより、拓海の絵見せてよ。その為に来たんだから」
「あ、うん」
 いつもの早紀さんに戻って、僕はホッとする。
 あらかじめ用意しておいて部屋の隅に寄せてあった、何点かの絵を早紀さんに見せた。
 何か茶々を入れてくるかと思いきや、意外な程真剣に見てくれた。そして「これ」と一枚の絵を指差し、「この絵が一番いい」と改めて言った。
 その絵は僕がまだ中学三年生の時に描いた物で、まだ基本も何もなっちゃいないシロモノだ。だけど僕にとっては思い入れの深い絵で……。
「どうしてそれが一番いいと思うの?それはまだ絵を習い始めた頃に描いたやつで、下手だと思うけど」
「これが一番拓海らしい」
 早紀さんは言い切った。
 僕らしい?この絵が?
「僕らしい絵だったらまだこっちの方が……」
 僕は比較的最近描いた、淡いブルーの空と海、砂浜には誰かが置き忘れた麦わら帽子の絵を手にした。絵は海を描いたものが多くあるけど、その中でも消え入りそうな淡いブルー――ベビーブルーの絵だ。
「あたしが言っているのは、表面的な事じゃなくて中身の事よ。拓海は大人しそうに見えて、いざって時はハッキリ言う意思の強さを持ってる。拓海が持ってるその絵は、そういう所をひた隠しにしているみたい。それに絵の魅力って上手い下手じゃない。どれだけ心で描いたかでしょう?」
 早紀さん、君にそれが分かるの?それが分かる早紀さんは、絵を見る目があるのかもしれない。

 早紀さんがいいと言ったその絵を描くきっかけを与えてくれたのは和也だった。いや、正確には和也の絵だった。その時僕らはまだ知り合ってもいなかったのだから。
 和也の描いた絵は、激しく僕の心を揺さぶった。いつも「こうありたい」と思う自分の理想が和也の絵の中にあった。
 そして思わず手に取った「赤」の絵の具――。
 出来上がった落日の海の絵は、僕と和也を引き合わせてくれた。
「絵は心で描くもの」早紀さんの言う通りだと思う。一番古い絵を描いた頃は、自分の思うがままを絵に描いていたし、他人の事も素直に真っ直ぐに見れていたと思う。

 和也と出会い、自分の奥底にある感情を知る。そこから先は、他人の評価ばかりを気にしてテクニックばかりが先走りしていた。
 亜沙子に恋をしてから僕の目に曇りがかかって狂い出す。目の前にある物の本質から目を背ける様になった。人に対しても同じ。僕は人と正面から向かい合う事を怖れている。
 早紀さんに対してはどうだ?早紀さんは何度か「らしくない所」――だけどそれが彼女の本質であろう部分を僕に見せた。
 海で手を繋いだ時の柔らかい笑顔、昔の恋人を罵った時の険しい顔。その度に僕は戸惑いを感じるだけで、彼女の領域に入れない。早紀さんを知りたいと思っていながら、もう一歩を踏み込めないでいる。
 僕は早紀さんが分からないんじゃない。分かろうとしないだけだ。
「でも……」
 不意に早紀さんが口を開く。
「確かにこの絵、拓海らしいんだけど、それでもまだ拓海の『一部』って感じでしっくりこないのよねぇ」
 それは僕も思う。「赤」は僕のカラーだとは言い難い。
「拓海はさ、まだ自分を百パーセント出した絵を描いてないのよ。それにそんな拓海を受け止めるだけのモチーフにも出合えてないんじゃない?」
 驚いた。絵を見ただけでそこまで読み取る早紀さんの目は、思った以上に本物だ。
「そういえば、この中に人物画はないのね」
「あ、ああ。人物画は得意じゃないんだ」
「でもこの『元彼女』は描いたんじゃない?こんな風にスケッチまでしてる訳だし」

 亜沙子……。ありったけの思いを絵に託したつもりだった。だけど結果、僕の理想を亜沙子に押し付ける形になってしまった。

「描いたけど……失敗作だったんだ」
「そう、じゃあ彼女じゃなかったのね。拓海らしさを引き出す相手は」
 僕らしさ、か。早紀さんといると僕らしくなっていくと思っていたけれど、本当は「僕らしさ」に近付いているのかもしれない。僕はいつも本音を押し殺して生きてきたから。
 僕と早紀さんは、一見正反対だけども、本質を隠している点ではよく似ている。

 早紀さんは再び亜沙子を描いた絵を手にし「ねぇ、どうして苦手な人物画を今になって書く気になったの?」と、僕に聞いてきた。
「それは……インスピレーションってやつで」
 悪い、和也、台詞借りたぞ。
「インスピレーションって、あたしに?」
「うん、まあそんなとこ」
 ああ、また僕は本音を誤魔化している。
 ちらっとクローゼットの方を見た。あの中に早紀さんを描いたスケッチブックが入っている。見つかったらまずいと思って、部屋を片付け時に隠しておいた。
 僕の視線を気にも留めず、いつの間にかベッドサイドに移動していた早紀さんが、そこに立ててある絵を見ていた。
「これは拓海が描いたんじゃないわね?」
「ああ、それは和也のおばあさんが描いた絵なんだ」
 セントポーリアだったかな?あの時花言葉も教えてもらったんだっけ。確か「小さな恋」。
 恋、か。今はまだ考えられない。亜沙子を思い出して胸が痛む内は無理だ。

 それからは和也の話になり、異色なあいつの残した数々の伝説に、話題は事欠かなかった。
 バイクでこけて肋骨にひびが入っているのにも関わらず、海に出て波に乗ったり、付き合い始めた彼女と始めてベッドインしたら、「彼女」だと思っていた相手が実は「彼」だったとか……。僕にしては珍しく饒舌だった。早紀さんはお腹を抱えて笑っていた。

 時が経つのも忘れるくらい、楽しい時間を過ごした。そうしていつの間にか、部屋に西日が差し始める。
「そろそろあたし帰るわ」
 バッグを腕に掛け、早紀さんが立ち上がろうとしたのを僕は引き止めた。
「ちょっと待って。急いでないならもう少ししてから家を出るといいよ」
「何かあるの?」
「まあね。今日はかなりいいと思うよ」
 君が言った僕らしさの「一部」を見せてあげよう。

 部屋に差し込む陽の光が赤みを帯びてくる。徐々に濃い赤へと変化していく光を注意深く観察して、僕はうん、と頷く。よし、頃合いだ。
「行こう!」
 部屋を出て、早紀さんを連れて海岸へ降りた。
 この景色を見ても、君は海が嫌いだと言うの?
 昼間と全く違う表情を見せる、黄昏の海。海が夕陽を飲み込んでいく。今日という一日がまた終わる。
 沈む夕陽は僕の激情を少しの時間だけ呼び起こす。後にやってくる暗闇に怯えない様に、そしてやがて迎える新たな明日の光を受け取る為に、夕陽の「赤」を借りる。
 僕の隣で目を細めて同じ夕陽を見つめる早紀さんは、昼間の海を眺めた時の無表情な顔と違い、穏やかで優しい顔をしていた。
 綺麗だ――。
 夕陽の「赤」が早紀さんを優しく照らし、彼女の素の部分を浮き立たせている様に感じた。今日一日だけで彼女の色んな一面を見たが、今の早紀さんが一番綺麗だ。
「綺麗ね……」
 昼間の海を見た時と同じ言葉を発した早紀さんだけど、その言葉に込められた感情はまるで違う。
「うん、綺麗だ……」
 そう同意しつつも、僕の意識の殆どは茜色に染まる早紀さんに向いていた。僕達は自然に手を繋ぎ、夕陽が完全に姿を消すまで言葉を交わす事なく海を眺めた。

 早紀さんを駅まで送り届け、自分の部屋へ戻り、クローゼットを開けた。そして一冊のスケッチブックを取り出す。
……結局こいつの出番はなかったな。
 机に向かい、パラパラとページをめくる。僕が最初に引きつけられた、早紀さんの慟哭。あの時程の衝撃はないにしろ、海に沈む夕陽を眺める早紀さんの表情は、深く深く僕の心に染み渡った。
 さっき見た早紀さんを描こうと、コンテを握り新しいページを開く。が、一向に手が進まない。僕の頭には映像はしっかり残っている。なのに手が言う事を聞かない。早紀さんと繋いだ右手が脈を打って熱く震えていた。

「あー!何なんだよ、もう!」
 描きたいのに描けないもどかしさに苛ついて、コンテを放り投げた。こんな訳の分からない感情を僕は知らない。味わった事もない。いつだって「描く」と思えば、出来栄えはどうであれ、どうにか形にはなった。僕に絵の才能があるかなんて分からないけど、まああったとして、その才能も枯れ始めたという事か。
 分からない……。ただ一つだけ分かったのは、生半可な気持ちで早紀さんは描けないという事だ。
 机に突っ伏した頭を少しずらした時、亜沙子を描いた絵が視界の隅に入ってきた。
 何で今頃になってこれが出てくるんだよ。
 卒業アルバムに挟んであったことすら忘れていた。絵は元の通り、卒業アルバムに挟んでから本棚へ戻した。

5

 かつてよく足を運んだこの場所は、少しも変わらない空気で僕を迎え入れてくれた。コーヒーのほろ苦い香りが僕の鼻腔をくすぐる。大正時代を匂わせる、和のテイストに洋風を取り入れた、落ち着いた雰囲気の茶房。ステンドグラスを通して差し込む優しい光が、慌ただしい日常を束の間忘れさせてくれる。
 僕の足は、自然と決まった席へと運ばれる。少し入り組んだ店の右方向、奥から二番目の席。そこに彼女の姿があった。違うのは、僕が近付いている気配にも気付かずに、俯いて神妙な表情をしていたところだ。僕は彼女の前に立ち、声を掛けた。
「亜沙子……」

 何故僕が、元彼女である亜沙子とこうして会っているのかというと、話は数日前に遡る。 僕は早紀さんのショッピングに付き合わされていた。
「早紀さぁん、まだ買うの?」
「あったり前でしょ?バーゲンで買わなくていつ買うのよ!」
 人混みに揉みくちゃにされながらも、まだ目を燦々と輝かせてる早紀さんはタフな人だ。バーゲンは女の戦場だな。大人しそうに見える可愛らしいコも、その戦場に向かう後ろ姿は闘志に燃えている。
「さ、次はこの店よ!」
 意気揚々と戦場へ向かう早紀さんの背中を見送りながら、「ご武運を……」。僕は力のない声で呟いた。

 早紀さんが勝ち取った戦利品を両手に抱えた格好で、僕は空を見上げた。
――夏真っ盛り。
 太陽が容赦なく照り付け、僕の肌をジリジリと焦がす。
 暑い、暑いなぁ……。
 汗が額からつうっと流れてこめかみを伝い、顎に到達したその刹那――。
「拓海くん……?」
 名前を呼ばれて振り返り、顎から真っ直ぐ地に落ちる筈だった汗はその進路を変え、やけに冷たく首筋を伝った。
 僕の名を呼んだのは亜沙子だった。
「亜沙……」「亜沙子、誰だよ?」
 僕が名前を言い切らない内に、亜沙子の後ろに居た男がずいっと前へ出た。亜沙子は少し気まずそうな顔をして「あ……高校の同級生」と、その男に告げた。
 そう、僕達はとっくの昔に別れている。ただの同級生だ。
 亜沙子の動揺した様子に、男は「ふぅん?」と言いながら、怪訝そうに僕を上から下へじろじろ眺めた。
 亜沙子の新しい彼氏、だろうか?僕に敵意丸出しの態度にいたたまれなくなる。逃げ出したい衝動に駆られた。
「拓海~、お待たせ!」
 そこへ、いいタイミングなのか、悪いタイミングなのか、早紀さんが戻って来た。
「ん?」
 三竦み状態の僕達を見て、早紀さんは一瞬で状況を把握したらしい。早紀さんは僕の描いた亜沙子を見ていたから、彼女が誰だか分かっているんだ。だから僕の腕に自分の腕を絡ませ、わざとらしく「誰?拓海の友達?」と、聞いた。
 亜沙子の顔が青ざめて、悔しさを交えた様に歪んだ。
「あ、あたしは拓海くんと同じ高校だった同級生です。それだけです」
 言い訳みたいな台詞を、作り笑顔だと分かる顔に乗せて言った後、「じゃあ」と会釈をしてその場から去った。その後ろを慌てて男が追って行った。
 亜沙子の去る姿を見つめながら、僕は言いようのない思いに囚われていた。

 あれ程好きだった亜沙子……。一年半ぶりに会ったけど変わっていなかった。寧ろ、以前より綺麗になった?
 なのに――。突然の再会に驚き、気まずい思いはしたものの、僕の心は動かなかった。
「拓海?」
 早紀さんの声にハッとして、我に返った。
「やっぱり元カノに彼氏がいてショック?」
「……いや、そんなんじゃないよ」
 別れてからもう一年半もの時間が経過しているんだ。
「もう」一年半?「たった」一年半しか経っていないじゃないか――。
 亜沙子の事が本気で好きだったのに、気持ちがここまで変化していた自分に戸惑いを感じていた。

 未練はないと言ったのは、自分に言い聞かせる為。本当に吹っ切れているなら、亜沙子を思い出して胸を痛める事もない筈だ。だから亜沙子と再会すれば、あの頃の気持ちが蘇ってもおかしくないのに。何故僕の心は動かなかった?
 過去の自分、現在の自分、頭の中で一致しない自分像がくるくると回る。眩暈を起こしそうになりながら、早紀さんと荷物を家まで送り届けた。
「寄ってく?」
 部屋に誘われたけど。
「いや、また今度でいいよ」
 今は一人になりたかった。
「じゃあ」
「拓海!」
 立ち去ろうとした僕に早紀さんが声を張り上げて言った。
「『今』の拓海はどうしたいの?過去には戻れないのよ。過去は今を生きる為にある……。あたしはそう思いたい」
「え……?」
 返す言葉がなかった。
「送ってくれてありがとう。じゃあね」
 早紀さんは物憂げな笑みを浮かべ、部屋へ入って行った。パタンと扉が閉まるまで、僕は早紀さんの寂しそうな背中をじっと眺めていた。

 家に帰って一人になっても落ち着かなかった。亜沙子との思い出が鮮明に頭の中を駆け巡る。
 僕に声を掛けてくれた日、告白をしてくれた日、それから初めてキスをした日は――。その合間、合間に早紀さんの言った言葉が過ぎる。

――「今」の拓海はどうしたいの?――
亜沙子の向日葵の様なイエローが明るくて、僕も明るい気持ちになれた。屈託のない笑顔が好きだった。困った時に唇を尖がらせる仕草が可愛かった。

――「今」の拓海はどうしたいの?――
 違う、違う!
「なれた」「だった」「かった」全部過去形じゃないか。どれも過去の僕が抱いた気持ちだ。今の僕じゃない。僕の気持ちが立ち止まったままでも、時間はどんどん経過していく。今は?今は?と悩んでいる「今」だって、一瞬にして過去になる。
 時間の経過だけは誰にでも平等だ。僕が過去に囚われたまま怠惰に過ごしている間に、どれだけの人が何かを決意し、行動を起こしたのだろう?
 決意だけなら僕もした。「早紀さんを描く」という決意が僕にはある。だけどまだ何も行動に移せてない。
 今を生きる為に過去がある、か。早紀さんもいい事を言う。積み重ねた過去の頂点に今があるものだもな。過去と現在は切り離して考えられない。
 ん?待てよ?早紀さんはその後にこう続けたんだ。
「あたしはそう思いたい」
「思う」とは言わなかった。それはつまり、早紀さんも過去に囚われている一人だという訳で。でも何もしないで過ごしてきた僕と違い、早紀さんはすべきかきっと分かっている。あがいてもがいて過去の呪縛から抜け出そうとしているんだ。僕よりずっと前向きに生きている。
 僕は今、どうしたい?亜沙子とよりを戻したいのか?
――それはない。
 だったら何故僕はこうも過去に縛られているんだ?亜沙子が別れる時に言った言葉に僕は本当に苦しんでいるのか?苦しみの理由はもっと別な所にあるんじゃないのか?僕を苦しめるものの正体は何――?

 考えに行き詰った時、携帯がけたたましく鳴った。突然鳴った携帯に体がビクッと反応した。流れている曲は、設定した当時は最新だったヒットソング。今では誰もが「懐かしい」と言う曲。こんな所にも時間の経過を感じた。
 この着信メロディーで掛かってくる相手はただ一人。僕はそっと通話ボタンを押した。
「……はい」
「あ、あの、あたし……。誰だか分かる……?」
 電話の相手は亜沙子だった。
「うん、亜沙子だろう?」
「拓海くん、あのね……」
 そう言ったきり、亜沙子は黙ってしまった。気まずい沈黙が続く。微かに亜沙子の息づかいが聞こえる。
 暫くして、聞き取れない程の小さな声がした。
「……い……たい」
「え?何て?」
「た、くみ……くんに……会い、たい……」
 搾り出す様に発せられた途切れ途切れの言葉。もしかしたら今、亜沙子は泣いているのかもしれない。
 一人で考えても出せなかった答えが、亜沙子と会う事で出せるだろうか?逃げるのはよそう。僕は前に進みたい。
 再び黙り込んだ亜沙子に、待ち合わせの場所と日時、時間を告げて電話を切った。


「亜沙子……」
 僕が声を掛けると、亜沙子は俯いてグラスを見つめていた顔を上げた。
「拓海くん。良かった!来てくれて」
 亜沙子は嬉しそうに笑った。
「ここを指定したのは僕だから、そりゃあ来るよ」
「うん、でももしかしたら来ないかもって思ってたの」
 以前と変わらない明るい笑顔で言っているけど、何処か陰りがある。もし今が亜沙子と初対面だったら、僕は彼女に向日葵のイエローをイメージしないだろう。
 
今の亜沙子は少し赤みを帯びた淡いイエロー――梔子(クチナシ)色だ。

 恋に夢中になっていた時は気付けなかった。きっと別れる前の亜沙子はこんな色をしていたんだろうな。
 亜沙子の向かいの席に座った。程なくして店員が水とおしぼりを持ってやって来た。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
「モカをホットで」
「かしこまりました」
 店員が去った後、亜沙子はくすっと笑って、「相変わらずコーヒーはモカなんだ?」と、言った。
「あ、うん」
 モカの深くまろやかな酸味が僕のお気に入りだ。亜沙子、僕のお気に入りを覚えてたんだんだな。
 コーヒーが運ばれてくるまでの間は「元気だった?」とか、「髪型変わったんだね」などの他愛のない会話が続いた。どちらも核心に触れないで、相手の胸の内を探り合っているみたいだ。もどかしく、息が苦しい。
 運ばれてきたコーヒーからは、モカ特有の果実の様な香りが漂っていた。僕はカップに鼻を近付け、香りを堪能する振りをしながら大きく息を吸って、肺にくぐもった空気を吐き出した。
 コーヒーを口に一口含み、さり気なく亜沙子を観察する。ショートカットだった髪が肩まで伸びて、オレンジブラウンに染められている。化粧が上手くなって、まだ幼さが残る顔に大人の色香が漂い始めていた。やっぱり綺麗になった。
 亜沙子の口紅に彩られた唇が戸惑いがちに動いた。
「あたしと会ったりして、彼女……大丈夫?」
 彼女?ああ、早紀さんが彼女だって誤解してるんだな。
「あの人は彼女じゃないから」
「え!?あ、そうなんだ。あたしてっきり……」
 亜沙子は間の抜けた表情になって、そんな自分を誤魔化す様に氷の溶けたアイスコーヒーを口にした。
「亜沙子こそ、この間の彼はいいのかい?」
「あたしも違うってば。彼氏、いないから。ただ……」
 目を泳がせて動揺した様子だ。
「拓海くん達に会った後、『付き合ってくれ』って言われた」
 だから――?
 亜沙子は僕にどんな返答を期待しているんだ?
「そうか……」
 結局、肯定も否定もしない言葉を僕は返した。
「あたし、どうしたらいいと思う……?」
 何故それを僕に聞く?
「どうって、僕には分からないよ。亜沙子の事だろう?」
 冷たい言い方をしてしまった様だ。亜沙子の目にはみるみるうちに涙が溜まっていく。
 だけどそれを冷静に見る事ができる僕は、やはりあの頃とは違うのだと思う。
「ごめんね、拓海くん……」
「どうして謝るの?」
「あたし、ホントはずっと拓海くんと別れた事、後悔してた。あたしは我が儘で自分勝手で。拓海くんはいつ優しかったのに」
 でも、その優しさが君を傷つけていた。
「拓海くんが描いてくれた絵、今でもよく眺めてるの。もっと素直になれてたら良かった。拓海くんがこんな風にあたしを思ってくれたなら、あたしはそれに近付ける様に努力すれば良かったって、近頃思うの」
 それは違うと思うよ、亜沙子。君は君のままでいいんだよ。無理をして自分を装うのは辛いだろう?そうして付き合いを続けたところで、別れの日が少し延びるだけにしかならない。きっと僕達はお互いの深い所まで理解し合おうとしていなかった。

「ごめんね、ごめんね……」
 謝る亜沙子の目からは、重力に逆らえ切れなくなった涙が次々と零れ落ち、テーブルに幾つもの斑点を作った。
――ごめん、亜沙子。
 謝るのは僕の方だ。君の涙を見ても、やっぱり気持ちは動かない。何も、感じないんだ。僕は君が望んでいるだろう言葉を与えられない。黙って涙を拭う為のハンカチを差し出した。
 亜沙子は差し出されたハンカチをじっと見つめていた。そして全てを理解したのだろう。
 僕らが付き合っていた頃、亜沙子の涙を拭う役目を果たしていたのは僕の手の指だった。
――あの頃とは違うんだよ。
 差し出されたハンカチには、そんな意味が込められていた。
「……ありがと」
 受け取ったハンカチで涙を拭いて、俯いた顔を上げた亜沙子は、少しだけ晴々とした顔を見せた。
「突然会いたいなんて言ってごめんね。さっき言った事も忘れていいから」
 テーブルにあるコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。それを口に含んだら、いつもよりほろ苦さを感じた。

「……あたしに告白してくれた彼ね、拓海くんにみたいに、凄く優しい人って感じでもなくて、思った事、何でもズバズバ言うの」
「……うん」
「いつもくだらない言い合いばかりしててね……」
「うん」
「だけどあたし、飾らない自分でいられる」
「そう、か」
 亜沙子の強がりとも取れる発言――そう思うのは僕の自惚れか――を頷きながら聞く一方で、僕はこれまで過去の「何」に苦しんでいたのだろうと考えていた。

「今日、拓海くんに会えて良かった。何だか胸のつかえが取れたみたい」
「うん……」
 それは僕も同じだよ。ここで判断を誤って僕達がよりを戻しても、空白の時間は決して埋められない。その時間でできた距離を、僕と亜沙子はしっかりと認識した。

 店の前で、僕と亜沙子は別れた。
「この前みたいな偶然でもない限り、もう会う事もないんだろうね」
 亜沙子の言葉に、鼻の奥がツンと痛くなった。
「そう、だね」
 一度は本気で好きになった人。忘れる事はきっとない。だけど今までみたいに痛い思い出にはならないだろう。思い出す度にほんの少しの切なさを伴う、優しい思い出に、きっとなる。
「さようなら、拓海くん」
 亜沙子が差し出した手を握り、あの時――亜沙子と別れた時には言えなかった言葉を亜沙子に告げた。
「さようなら、亜沙子」
 一瞬、離れがたそうに、亜沙子が僕の手を強く握った。そしてパッと手を離したかと思ったら、くるりと僕に背を向けて、少しだけ肩を震わせた。一歩前に進んで亜沙子は振り返り、目に涙を浮かばせたまま口元だけの笑顔で言った。
「ホントはね、拓海くんに『もう一度やり直そう』って言うつもりだったの。でも今の拓海くん見てたら何も言えなくなっちゃった。ねえ、拓海くんは今、好きな人いる……?」
「あ、いや、えっと……」
「あー‼やっぱりいい!言わないで。たとえひと時でも、拓海くんはあたしを好きでいてくれた……。そうでしょう?」
「うん、それは間違いない」
 僕がしっかり頷くと、ようやく作り笑顔でない、本物の笑顔を見せてくれた。
 くすんで見えた亜沙子のカラーが鮮やかに色づいていく。

――ああ、僕が好きだった、向日葵のイエローだ。

「それじゃあ……」
「ああ、元気で……」
 再び僕に背を向けた亜沙子は、一歩、また一歩と歩き出す。もうきっと振り向かない。
 夏の日差しを浴びながら歩く亜沙子の後ろ姿は、眩しくて目を細めてしまいそうになるけど、僕はしっかりと目を向けて見送った。
 かつての別れ際では涙に滲んで確認出来なかった亜沙子のカラーを目に焼き付け、これで本当に過去との決別だと自覚した。

 さようなら、亜沙子。君のイエローがいつまでも鮮やかでいられますように。
 どうか、どうか幸せに。
 僕の初恋の人よ――さようなら。

 小さくなった亜沙子の背中に僕も背を向けた。家に帰る方角は亜沙子が歩いて行った方角と同じなのだけど、僕は敢えて反対方向へ行く事を選んだ。
 本当の意味での「別れ」に、また少し過去への未練が付き纏ってきた。だけど僕は振り返らない。僕は僕の道を行こう。

 とはいったものの、今から何処へ行こうか?遠回りしてそのまま家に帰る気分でもない。
 あ、そうだ!
 ふと思い付いて、ポケットから携帯を取り出した。そしておもむろに電話を掛ける。電話をした相手は直ぐに繋がった。
「もしもし和也?ちょっと頼みがあるんだけど……」
 三十分程待っていると、バイクのエンジンを唸らせて和也はやって来た。
「悪かったな、急に呼び出したりして」
「いいよ。どうせ暇だったし。お前が『頼みがある』なんて言うから何かと思えば」
 そう言って和也は「ほらよ」とヘルメットを投げてよこした。
「お前からバイクに乗せてくれって言うとはなぁー。この真夏に雪が降るんじゃねえの?」
「うるさいな。いいじゃないか。スカッとしたい気分なんだよ」
「そーかそーか、じゃあ飛ばしてもいいんだな?」
 この時の、漫画にしたら「キラーン」なんて効果音が入りそうな、白い歯を見せた和也の笑みは、僕にとって良くない事を意味する訳で……。それをつい見逃し、「構わないよ」なんて答えた僕は大馬鹿者だったと思う。
 バイクが風を切って走る。
 くっ……相変わらず飛ばすな。
 全く恐くないと言ったら嘘になるけど、今日の僕は悲鳴をあげなかった。体を和也の背中にぴったりくっ付けてそうしていると、肉体以外の魂だとかが全て吹っ飛んでしまいそうだ。
 そうだ、過去へのこだわりや未練は全部飛んでいってしまえばいい。そして新しい風を呼び込むんだ。

 不意に国道を走っていたバイクが左へウインカーを出した。
 え……?まさかそっちは……。
「お、おい、和也‼」
 和也はバイクを減速させて、料金所の手前で一旦停止した。慌てふためく僕にチラリと振り返り「飛ばしたって『構わない』んだったよな?」と言って、ヘルメットの向こうの目をいやらしく光らせた。
 い、いくら何でも、こ、こ、高速道路はないだろ!?
「ぎぃやあああぁぁ‼」
 和也の運転するバイクは、前方を走る車を次々と抜いて驀進する。僕の叫び声は、バイクの音に掻き消されて和也には届いていないだろう。だから和也が何かを言っていても僕の耳に届く筈もない。
 にも関わらず、僕には「たまんねぇ~‼」と叫ぶ、和也の心の声が聞こえた。

 恐怖のツーリングを終えた後、和也のバイクは僕の家近くの海岸で停まった。
 砂浜に倒れ込む様に寝転ぶと、遠く沖の向こう彼方からやってくる波の音が、耳の奥まで響いた。
「……ははは」
 無性に可笑しくなって、僕は笑った。
「あははは……」
「拓海?やべっ、壊れちまったか?」
「違うよ。ははっ」
 和也が心配そうな顔で見下ろしていたけど、僕は笑い続けた。
 今日亜沙子に会って、よく分かった事がある。僕を苦しめていたモノの正体。確かに僕は亜沙子と別れた時に傷を負った。だけどその傷も時間と共に癒えていて、傷痕だけが残った。傷は塞がっているのだから、痛みはない筈。なのに僕は傷痕を自分でほじくり返し、悪戯に新たな痛みを作り出していたんだ。

 僕を苦しめていたのは――。
 僕自身だ。

 亜沙子に会って何も感じなかったのも、苦しみの原因が自分自身にあったから。亜沙子の事はいつから過去になってた?
 ――いつから、なんて区切りをつける自体間違ってるな。
 過去も現在も未来も、全て一つ。過去と未来、全てを繋げる必要はなかったのに。
 僕はどんな時だって僕でしかなかった。
 思う様に絵が描けないのを、過去のせいにしたかったんだな。

「ははは……」
「おいおい、ホントに大丈夫かよ?急にバイクに乗せてくれなんて言い出すし、お前何かあっただろ?」
 間もなく日が沈む。夕陽に照らされた和也を見上げながら、やっぱりこいつには「赤」が似合うな、と思った。
 僕が和也にイメージした「カーマイン」という色は、少し紫がかった鮮やかな赤で、夕陽の穏やかな赤とは違うのだけど、今の和也はやけに優しいからいいことにする。
「和也」
「ん?」
「僕、今凄く絵が描きたい」
 質問の答えにはなってなかったけど、和也は「そうか」と言って、似合わないくらい優しい笑顔で笑った。

6

 真新しいスケッチブックを買った。これからここに、早紀さんの様々な表情を書き留めていこうと思う。まだ早紀さんのカラーが見えない内はコンテ一つで描く。いつか彼女のカラーが見える時が来たその時は、モノクロのスケッチブックからキャンバスへと描く手を移動させよう。出来れば笑顔がいい。
 一緒に夕陽を眺めた時の様な……いや、それ以上の笑顔だってきっとある。
 絵を本格的に習い始めた時の様な、わくわくした気持ちだった。描きたくてたまらない思いが胸の奥から次々と溢れ、やがてそれは力となり僕の右手に宿る。
 後は心の向くまま、自然に描いていけばいい。そんな時は描きたい物の輪郭がはっきりと見える。
 
 スケッチブックを脇に抱え、僕は新鮮な気持ちで早紀さんに会いに行った。待ち合わせた公園には既に早紀さんの姿があった。
 待ち合わせ時間までに十五分はあるというのに、相変わらず早いな。
 もう八月も終わりなのに、茹だる様な暑さの中、早紀さんは背筋をシャンと伸ばして木陰に入っていた。白地に小花がプリントされたノースリーブのワンピースがよく似合ってる。
 ふと、早紀さんのカラーは「白」なのかもしれないと思った。純粋な色なのに染まりやすい。純粋なだけじゃ世の中生きていられないから、様々な色を取り込んでしまったのかな?
――いや、ここで早紀さんのカラーを決めつけるのはよそう。見えないものを無理に見ようとすると、思い込みでもって「見えた」気になってしまう。いつか自然に見える時が来るまで焦らずにいこう。

 少し離れた所から早紀さんに声を掛けようとして、言葉が喉の奥で止まった。
 あ……この表情いい。
 早紀さんの視線の先にはボール遊びをしている小さな子ども達。それを早紀さんは微笑まし気に見つめている。
 僕の右手が疼いた。その場でスケッチブックの一ページ目を開いた。本能的な衝動と言っていい。いつだって早紀さんは僕のインスピレーションを刺激する。早紀さんを待たせてる事も忘れて、僕はスケッチブックの紙にコンテを走らせた。

 どうやら夢中になり過ぎていたらしい。我に返ったのは、つま先に何かが当たった感触でだった。足元を見ると、子ども達が遊んでいたボールが転がっていた。離れた所で子ども達がまごついている。僕はボールを拾い上げ、軽く投げてやった。
「ありがとう!」
 可愛らしい笑顔で手を振る子ども達に、僕も手を振って応えた。

「拓海!」
 や、やばい。僕、早紀さんと待ち合わせしてたんだっけ……。
 明らかに怒りのこもった早紀さんの声。
「はい……」
 声のする方へ恐る恐る顔を向けると、案の定、両手を腰に当ててかなりご立腹の様子で早紀さんがそびえ立っていた。
「もう!居るなら居るって言いなさいよ!暑い中どれだけ待たせるの‼」
「ごごごめんなさい」
「ったく……あれ?それ、スケッチブック?」
「あ、うん。今日から描き始めようと思って。待ってる早紀さんが何か良かったから、つい……」
「見てもいい?」
「は、はい、どうぞ」
 待たされた怒りは、どうにか治まった様だ。
「へえ……やっぱり上手いわねえ。あたしって拓海にはこんな風に見えるワケだ」
「ええ、まぁ……」
 早紀さんは例の小悪魔な笑みでとんでもない発言をした。
「拓海、あたしに惚れちゃったりした?」
「な、何言って……‼そんな訳ないってば!」
「そんなに全力で否定しなくたっていいじゃない。あーあ、傷ついちゃうなぁ」
 早紀さんが俯いてしまった。こんな時、何て言ったらいいんだ?
「あの、だからつまり……、早紀さんは綺麗だから、僕じゃなくたっていい訳で……」
「くっ……」
 また言葉の選択を間違えた!?早紀さんが肩を震わせている。まさか、泣いてる?どうしよう……。
「くっ……あははははっ‼」
 やっと顔を上げた早紀さんの目には、確かに涙が溜まっていたのだけど、悲しい涙ではなく、可笑しくて堪らないといった涙だった。
「何がそんなに可笑しいんですか!」
「だって、だって……くくっ。拓海ったら必死になって慌ててるんだもん。もー可笑しくって……あははっ」
 返す言葉もない。早紀さんは僕の反応が面白くてからかってたんだ。こっちは早紀さんを泣かせたかと思って動揺し、とてつもなく恥ずかしい台詞を言った気がするのに。
「拓海?あ、やっぱり怒ってる?」
 ええ、怒ってますとも。早紀さんを待たせた事は悪いと思ってますよ?でもこんな仕打ちは酷過ぎる。
「ごめんね?だけど……」
 笑い過ぎて流れそうになった涙を手の甲で拭いながら、早紀さんは更に驚異(脅威と言いたい)的な言葉の爆弾を投下した。
「あたし、拓海のそういうとこ、好きよ」
……え?
 爆弾が炸裂するまでに、変な間が生じた。つまり、あまりにもサラッと言われたので、そのまま何でもないようにしていたら、不発弾だと思われた爆弾が突如火を噴いて僕を襲ったのだ。
「好き」って……?え?え?
 真っ赤になって呆然となっている僕を早紀さんはにこにこと笑って見ているのだが、その顔にいつも僕をからかう時の小悪魔は見当たらなくて……。それどころか、早紀さんの髪に太陽の光で出来たキューティクルの輪が天使の輪にも見えちゃったりして。僕は胸の動悸を抑えられずにいた。

「あたし、喉乾いちゃった。何か冷たい物でも飲みに行こうよ」
「待たせたお詫びに奢るよ」
 やっぱりからかわれただけだよな。早紀さんが「好き」って言ったのだって、きっと深い意味はなくて、僕が過剰に反応しているだけなんだ。
 そう自分に結論付けてみたものの、その考えに至った途端、胸の奥がチクリと痛んだ。こんな胸の痛みを僕は知らないし、感じた事がない。
「暑いんだから早く行こうよー」
 早紀さんが僕の腕を取った。心臓が一際大きく跳ねた。早紀さんとは手を繋いだ事もある。なのに腕を取られただけで何故こんなにも胸が騒ぐのだろう?
 僕が早紀さんに対してこんなにも動揺しているのに、早紀さんにはひたすら余裕がある。その僕と早紀さんの差を腹立たしくも感じた。

 
 スケッチブックのページが十枚になる頃、暦の上では夏が過ぎ、九月も下旬に差し掛かった。にも関わらず、残暑は猛威を奮い、テレビのニュースでは地球温暖化問題を取り上げていた。

 今日の海は波が高い。吹く風も湿り気を含んで空気が重く感じる。間もなく台風がやって来る。子どもの頃は荒れ狂う波の轟音が恐ろしくて、家が波に飲まれるんじゃないかとビクビクしていた。今となってはこうして堤防に腰かけて嵐前の海をぼんやり眺めていたりする。
 僕が産まれる前に、ここの海で津波があったそうだ。波がすうっと退いていって、普段は海に隠れて頭の部分だけ見えている岩が丸見えになったらしい。それから一気に波が押し寄せてきて、町を飲み込んだ。僕の家は一階の浸水で済んだけれど、被害は相当なもので、家屋が倒壊し、死者も少なからずいたと、父さんからよく聞かされた。この町で暮らす子どもが大人からまず聞かされる。僕はそのリアリティをテレビの映像でしか知らない。

 嵐が来ると、僕は決まって早紀さんを思わずにはいられない。嵐が去った後の海の濁りは、今僕に見える早紀さんのカラーと同じだった。
 彼女のカラーは、未だ見つけられない――。

 明日は電車が不通になるかもしれないな。夏休みの最後に早紀さんと会う約束をしていたけど、明日は中止にしておいた方が良さそうだ。僕は早紀さんに電話を掛けた。
「はーい!拓海?」
 受話器の向こうからは、相変わらずテンションの高い早紀さんの声がした。
「あ、うん。明日なんだけどさ、台風が来そうだから会うの止めにした方がいいと思うんだけど」
「うーん、そうねぇ……。あ、そうだ。拓海、今から時間ある?あたし今バイト終わったとこなんだけど、これから会わない?」
「別に構わないよ」
「ホント?なら、あたしのうちにおいでよ。場所覚えてる?」
「大体分かるよ」
「夕飯一緒にどうかな?あたし作るから」
「いいよ」
「拓海、好き嫌いとかある?」
「強いて言えば椎茸」
「分かった。じゃあ待ってるわね」
 電話を切ってそのまま早紀さんの家へ向かおうとしたけど、スケッチブックを持っていない事に気付き、まずは自分の家に戻った。

 手ぶらで行くのもどうかと思い、途中でクッキーの詰め合わせを買った。そして早紀さんの家の前まで来て立ち止まった。ゴクリと唾を飲み込んだ。僕は一体何故こんなに緊張しているんだ?早紀さんは僕の絵のモデルで、友達で……ただそれだけじゃないか。堂々としていればいい。とはいえ、一応男と女。僕は早紀さんと二人きりになる事を恐れている。
 突然扉が開く。俯き加減で頭を前に傾けていたので、開いた扉に頭をぶつけてゴツンと鈍い音がした。
「痛ぁ……」
「家の前で人の気配がすると思ったら、拓海じゃない。何だってそんな所に突っ立ったままでいるのよ?入ったら?」
「うん……」
 今日の早紀さんはいつもよりラフな格好で、Tシャツにジーンズだった。それを見て少しホッとした。
 しかし嵐はすぐそこまで来ている。

 早紀さんは意外な程料理が上手だった。
「この唐揚げ、市販の粉使ってないよね?」
「そうよ。にんにくと生姜をすりおろして、醤油とみりんで漬け込むの。あと、漬け込む前に水に肉を十分くらい浸しておくと柔らかく仕上がるのよ」
「へえ~」
 母さんが作る市販の粉の唐揚げも美味しいけど、それよりも美味いや。結構な量があったけど、僕は全部平らげて大満足だ。
 食後のコーヒーを飲みながら、僕の持ってきたクッキーをつまみ、早紀さんは外では見せない寛いだ表情を見せた。
 スケッチブックを持って来ていた事を思い出し、自然と手が伸びた。断りもせずに描き始めた僕に早紀さんは、「あたし、動かない方がいい?」と聞いてきたけれど、「あ、好きにしてて。なるべく自然な表情を描きたいから」と、僕はこう答えた。
 早紀さんが目を丸くして驚いている。
 あれ……?僕、変な事言ったのかなあ?
「どうかした?」
 僕が尋ねると、早紀さんは我に返った様にハッとして、複雑な笑みを浮かべた。
「やっぱり似てるわねぇ……そういうとこ」
「え?誰に?」
 思いがけない一言に僕は訝しんだ。
「あ、ううん。ちょっとした昔の知り合いよ」
 何気ない振りをして言葉を繋いだ早紀さんだったけど、慌てている様子が伝わってきた。
 ちょっとした知り合いというのは恐らく嘘だと思う。早紀さんは時々寂しそうに遠くを見つめる。視線の先にはやはり誰かがいて、その人は早紀さんにとって特別な存在なんだ。
 そして僕と同じ台詞を言った。つまり、早紀さんが絵のモデルになるのは、僕の絵が初めてではないという事。
 再び早紀さんは、コーヒーを飲みながら寛ぎタイムに入った。僕もリラックスした早紀さんを描こうと、コンテをスケッチブックに走らせたのだが……。さっきの早紀さんの表情が頭にチラつき、どう描いても切なげな早紀さんを描いてしまう。
 絵を描く時は、客観的にモチーフを見つめ、あるがままを捉えなくてはならないと思うのだが、時々主観が混じる。僕の感情が顕著に表れてしまうのだ。だから「本物の絵」を描きたいと思うのなら、特に人物画の場合、モデルとなる人と描く側の気持ちが通じ合っていなければならない。

「風が強くなってきたわね」
「うん」
「台風情報見てみよっか?」
「うん」
 早紀さんの言葉に適当に相槌を打ってみたものの、描くのに夢中で、殆ど聞いてなかった。
 嵐は目の前だ。
 絵を描き出すと、つい夢中になって時間を忘れてしまうのが僕の悪い癖だ。予定より早く到達した台風に、外は大荒れ模様だ。
「あー、駄目だわ。電車も止まってるって」
「はい?何が駄目なの?」
「だーかーらー、電車止まってるって言ってるけど」
 誰が?と思ってようやく顔を上げると、早紀さんがテレビのニュースキャスターを指差してた。
「え?台風明日じゃなかったの?」
 豪雨の中カッパを着て、傘も折れそうなのに、必死で台風実況するニュースキャスターに問いかけてしまった。聞こえる筈もないのに。
「拓海、どうする?」
 どうするって言われても……歩いて、は帰れないだろうな。タクシーも今頃は出払っているのかもしれない。
「泊まっていってもいいわよ?」
 うん、それしかないな、って……ええっ!?
「何慌ててるのよ?前にも同じ部屋に泊まった事あるでしょ?あ、でもこの部屋にお客用の布団ないから、一緒に寝てもらうわよ?」
「む、無理です‼僕は床で布団なんてなしでいいから!い、いや、泊まるなんて駄目駄目駄目‼」
 ホテルより狭いこの部屋で早紀さんと二人きりで一晩過ごすなんて!今度こそ僕の理性なんて当てにならない。
「じゃあ台風の中、帰る方法があるっていうの?」
「うっ」
「それに……」
 ああ、またこの微笑み。きっと爆弾を投下するんだ。そうに決まってる。
「あたしは拓海とセックスしてもいいって、前にも言ったでしょ?」
「はい?」
 彼女はどこまで本気でそんな台詞をサラッと言えるのだろう?セ、セック……ス、なんて、言葉にして言うのですら僕には恥ずかしいのに。
「さ、早紀さんは、好きでもない人と、セッ……いや、その、そういう風になっても平気なんですか?」
「誰がそんな事言ったのよ?」
「はい……?」
 次の台詞を聞いてはならない。僕の予想を遥かに凌駕する台詞が待っているに違いない。外は嵐。この部屋の中にも、いや、僕の心に嵐が吹き荒れていた。
 そして雷が落ちた。安っぽいドラマみたいに、ナイスなタイミングで外の雷が轟いたのではない。早紀さんが続けて言った台詞が、僕の体を雷のごとく貫いたのだ。
「あたし、拓海が好きだからしたいんだけど」
 今……何て……?
 早紀さんが……早紀さんが、僕を「好きだ」と言った?
「おーい、拓海?」
 瞬きすら忘れて唖然とする僕の目の前で、早紀さんが手をかざして振っている。
「ふぅ、まあいいわ。あたしお風呂入って来ようっと」
 あくまでマイペースに、早紀さんは浴室へ向かった。
 僕はこれからどうすればいいのでしょうか?誰か教えて下さい。

 お風呂上りの早紀さんを見て、またしても僕の「男センサー」は反応してしまう。緩くウェーブの掛かった早紀さんの髪が濡れて、雫が光っている。なるべく見ない様に下を向いても、ほのかに香ってくるフローラル系の香りからは逃れられない。冷房は十分に効いている筈なのに、汗がダラダラ流れてくる。
「拓海も入った?着替えは……これなら大丈夫かな?」
 早紀さんが僕にTシャツとハーフパンツを差し出した。早紀さんはタンクトップとハーフパンツでさっきより露出度が高い。更にノーブラ……。
 お風呂に入ったらますますドツボに嵌まるだけなのに、この状態に耐えられなかった僕は、浴室を避難場所にする他選択肢はなかった。
 どどどどうしよう!?これからどうする?
 平静を装えたのは浴室に入るまでだ。このまま朝までここにいたいよ。

 そうだ、僕、早紀さんに「好き」だってはっきり言われたんだ。
僕は……?僕は早紀さんをどう思ってる?
――分からない。
 亜沙子に告白された時はただ嬉しくて、舞い上がっていたと思う。それ以前は可愛いコだなという認識しかなかったけど、「好き」だと言われた瞬間、僕は恋に落ちていた。
 僕が早紀さんに対し、絵のモデル以上の存在に思っている事は、薄々気付いている。だけどそれが「恋」なのかは分からない。だって僕には彼女のカラーが見いだせないのだから……。
 この気持ちは恋じゃない。
 何故こうも胸が高鳴るのかは、説明が付かないけど。

 覚悟――何の覚悟なんだか――を決めてから浴室から出た。早紀さんは部屋の真ん中で寝転んで雑誌をめくっていた。
 だから、そんな無防備な姿を晒さないで下さいよ……。
「あら、随分と長風呂だったわね」
 どうしてそんなにのんきでいられるのか、僕には理解不能だ。
「やっぱり少し小さかったわね。拓海って華奢に見えて、結構いい体してるのね」
 もう泣きたい。次から次へと爆弾を投げられて、僕の理性は粉々に砕けてしまいそうだ。
 ただ、告白の返事を要求されないのにはホッとした。

「うわっ!」
 いきなり頬に冷たい物が当たり、僕は飛び上がって驚いた。
「ビール、飲むでしょ?」
 くすくす笑いながら早紀さんはよく冷えた缶ビールを渡してくれた。
 そうだ。飲んでさっさと酔い潰れちゃえばいい。そうすれば気付いたら朝が来て、その頃には嵐も去っている。
 ビールの蓋を開けて、一気に体へ流し込んだ。

 ……今、何時だろう?
 いつの間にか眠ってたみたいだ。朝が来てればいいな、と思ったけど、時計の針は午前一時を指していた。思ったより時間が経っていなくてがっかりした。
 早紀さんも床で眠ってしまっている。ベッドに移動させた方がいいよな?
 少しふらつく体を動かして、そおっと早紀さんに近寄った。よく眠っている。
 黙っていれば、早紀さんって綺麗だし、僕のタイプでない事もないんだけどな。
 起こさない様に、慎重に抱き上げた。
……軽い。
 女のコって柔らかいよな。それにいい匂いがする。僕も同じシャンプーを使った筈なのに、明らかに僕とは違った香りがする。
 今の僕はきっとどうかしている。男の性(サガ)だとか、そういったものを飛び越えて、早紀さんに惹きつけられている。
 早紀さんをベッドに下した。布団を掛けてから、暫くの間寝顔を見つめていた。
 そう、普段ならここでスケッチブックを開くんだ。なのに、どうして僕はここから動けないでいる?
 駄目だ、止められない。早紀さんに顔が勝手に近付いていく――。
 ほんの少し触れるだけだったけど。こんなの外国人の挨拶にも満たないだろうけど。
 僕は早紀さんの唇にキスをした。

 な、何て事を僕はしてしまったんだ‼
 自分のした事信じられなくて僕は口元を抑え、慌てて早紀さんから離れた。反対側の壁まで後退って、ドンッと背中に本棚が当たる。その拍子に上に乗っていた物が頭めがけて落ちてきた。
「痛っ!」
 まずい、大声を出してしまった。早紀さんは……起きてないよな?
 ふぅ、大丈夫そうだ。
――ん?
 落ちて来たのはとても意外な物で、更に僕の興味を大いに引く物だった。
 スケッチブックだ。
 早紀さんが絵を描くなんて聞いてないぞ?いや、もしかしたら描いているのかも。絵を見る目は確かなものだったし。しかし何だって本棚の上に隠すようにして置いてあるんだ?埃を被っているから、随分長いこと置きっぱなしだったのだろう。
 早紀さんだって、僕の部屋で卒業アルバムを勝手に見てたんだ。
……いいよな?

 外の雨は止んでいた。だけど風は依然強く、嵐の余波はまだ続いている。
 ただの好奇心。僕はゆっくりとスケッチブックの表紙を開いた。
 表紙を開いた途端、目に飛び込んできた少女の笑顔。一瞬誰だか分からなかったけど……。
 これは、早紀さん?
 髪はストレートで長くしてて、今より幼いイメージがあるけど、ここに描かれているのは間違いなく早紀さんだ。
 ページをどんどんめくっていく。どのページにも早紀さんが描かれていた。鉛筆で描かれていて、色はついていない。
 だけど、早紀さんの弾ける様な笑顔、照れくさそうにはにかんだ笑顔、そして描いた人をそんな風に見つめていただろう、愛おし気な顔……。どれも僕の知らない、見たこともない早紀さんばかりで、色がなくたって十分彼女を表現出来ていた。
 ここに描かれている早紀さんを見ているだけでも分かる。これらを描いたのはきっと男の人で、早紀さんはその人をとても好きだったんだ。

僕の心に荒波が迫る。荒波はこれまで早紀さんが僕に見せた不可解な言動を一斉に連れて来た。
 遠くを寂しそうに見つめる早紀さん。モデルを依頼した時に言っていた、「拓海は招来画家になりたいの……?絵を描くのに海外を渡り歩いたり、そういう事がしたいの?」の台詞。昔の恋人を「あんな男」と激しく罵っていた事。
 それからついさっき――。僕を「ちょっとした昔の知り合い」に似ていると複雑な表情で言った。
 全てがこのスケッチブックに繋がっていく。この絵を描いたのは、早紀さんの昔の恋人で間違いないと思う。そして今は彼女の手の届かない所にいる。
 早紀さんの中ではきっと、まだ終わってない恋だ――。
 早紀さんのからーを濁らせているのはこの「彼」の存在なのだろうか?「彼」は早紀さんの本当のカラーを知っている?
 心の荒波が一層激しく荒れ狂う。
 僕がどれだけ素晴らしい技術を持っていて、どんな色でも自在に作り出す事が出来たとしても、ここに描かれているモノクロの絵にすら敵わない。それだけに早紀さんのこの笑顔が眩しすぎて、悔しい。
――悔しい。

 眠れぬまま時を過ごし、空に白みがかってきた頃、僕は早紀さんの部屋を出た。そろそろ始発の電車が動く時間だ。
 風も治まってきたし、ダイヤの乱れもないだろう。早紀さんはまだ眠っている。目を覚ました早紀さんに平然と顔向け出来る程図太い神経を、僕は持ち合わせてはいない。
 僕の頭の中を支配していたのは、早紀さんに好きだと言われた事でもなく、キスをしてしまった事でもなく、スケッチブックの中の彼女だった。
 僕を好きだと言いながら、君はあんな笑顔を僕にくれないじゃないか。
 目に触れたくないから隠す様にスケッチブックをあんな所に置いていて……でも、捨てられない。それは気持ちも同じ。捨てられない過去の気持ちを、早紀さんは抱き続けている。

 電車の中でスケッチブックを開いた。僕のスケッチブックの中でも早紀さんは笑っている。この笑顔が嘘だとは思わない。ただそれ以上の笑顔があっただけで。
 焦るつもりはなかったのに。早紀さんのカラーがじっくり待って、それから最高の笑顔を探すつもりだった。だけど、あのスケッチブックの存在が僕を焦らせた。
 あんな笑顔を見つけてしまったら、僕はあれ以上の笑顔を探さなければならない。
 そんな自信、僕にはない。
 早紀さんと恋人同士になれば、彼女はあんな風に笑ってくれるだろうか?どこまで本気か見当もつかないが、彼女は僕を好きだと言っている訳だし……。
 それは無理、か。僕自身、自分の気持ちがあやふやなのだから、そんな僕に彼女は最高の笑顔など見せないだろう。
 あのスケッチブックと僕のスケッチブックを並べて見る勇気はなかった。並べなくとも画力、表現力、全てにおいてその差は歴然だ。
「くっ……」
 悔しさと虚しさが僕を襲い、自分のスケッチブックを引き裂きたい衝動に駆られた。描いたページの上部を纏めて握り締め、真ん中から縦に引き裂こうと手に力を入れた。
 が、少し裂け目が入った所で手は止まった。
 出来ない。この絵が未熟であろうと、僕が自分の意志で描きたいと思った絵なんだ。早紀さんだって、僕がそんな事をしたら悲しむだろう。

 僕が座っている席の向かい窓から、眩しい朝日が差し込んできた。朝日の光は僕が描いた早紀さんの輪郭を照らし、消えてしまいそうなくらい薄くさせたのだった。

7

 夏休みも終わり、大学は学祭ムードが漂っていた。忙しそうに往来する学生達を遠巻きに眺めながら、僕はこれからどう早紀さんと向き合えばいいかと朧げに考えていた。
 早紀さんとはあの嵐の日以来、会っていない。
 早紀さんから会わないかと電話が掛かってくる事もあったけど、適当な理由を付けて断っていた。電話にすら出ない事もあった。
 また、早紀さんとの距離が開いていく――。
 だけど会って顔を合わせてしまえば、僕はあのスケッチブックについて早紀さんに聞いてみたくなってしまう。そしたら早紀さんは何て答えるだろう?いつもの調子でさらりと交わす?それともその絵を描いた人を、どれだけ愛していたかを語るのだろうか?
 知りたいけど……聞きたくない。
 収まりのつかない、矛盾した気持ちが頭をもたげて、自分がこれからどうしたいのか考えあぐねいていた。

「たぁーくみん」
 センチメンタルな気分は、このご機嫌な声で一掃された。僕は、背後に立った人物に振り返らずに言った。
「『たくみん』って何だよ?気持ち悪い呼び方するな、和也」
 和也は「バレたか」と言いながら僕の前に回り込んで来た。
「さっき女達がお前の噂してたんだよ」
「僕の?」
「『最近のたくみん、何だか影があってちょっといいかも』だってよ。お前が暗いのは今に始まった事じゃないけどな。まあ確かに、諏訪さんちのたくみん、この頃少し変よ~?」
 みんなのうたにある曲の調子で言うのはヤメロ。
「この前俺のバイクに乗せてやった時はあんなに晴々とした顔してたのによー、今度はどうしたよ?」
「別に……どうしようもないよ」
 僕は聞かれて動揺したのを悟られない様に、和也から目を逸らした。だけど、和也には僕の浮き沈みの原因が何か、気付いていたみたいだ。続けてこう言った。
「絵は――早紀ちゃんの絵は順調か?」
 核心を突かれてしばし声を失った。和也は僕をからかうつもりで言ったんじゃない。こいつはこいつなりに僕の事を心配してくれている。その気持ちが伝わってきたから、僕はつい本音をポロリと漏らしてしまった。
「カラーが……早紀さんのカラーが見えないんだ」
 和也は長い睫毛をバサバサさせながら瞬きをして、「あ?カラーが……何だって?」と不思議顔で言った。 しまった!人にカラーをイメージしている事は誰にも言いたくない。
「いや、何でもない」
 視線を落として僕は答えを言う事から逃げた。
「要はスランプって事か?」
「まぁ、そんなとこ」
 スランプなんて生易しいものじゃないけど。
「そうか……」
 そう言った後、和也は僕の顔をまじまじと見つめてきた。
「何だよ?」
「いや、さ。女共がお前の噂するのも分かる気がするなーと思って。今の拓海、ちょっといいぞ?」
「は?」
「この前ばーちゃんがお前見て顔つき変わったって言ってたっけな。そん時は分かんなかったけど、こうして見ると……お前、確かに変わったな」
「どこがだよ?」
 和也は腕を組んで「うーん」と考える仕草をしてから、「数ヶ月前までのお前って、無気力で毎日つまらなさそうにしてたろ?それが今じゃ一枚の絵を描くのにテンション上がったり下がったりしててよ、生き生きしてるってカンジ?」
 そう言って、僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「や、やめろよ」
 この上なくダークな自分をいいと言われたって、嬉しくも何ともない。ボサボサになった髪を手櫛で整えながら、和也に向かって蹴りを入れた。
「おっと」
 僕の蹴りが入る寸でのところで、和也が避ける。その拍子に和也が手に持っていたビラがハラリと地面に落ちた。
「何か落ちたよ」
「ああ、その辺で配ってたやつだし、別に要らねぇよ」
 だからって、ゴミを捨てたままにするなよ。
 渋々拾おうと手を伸ばした――その手が一瞬止まる。僕はそのチラシに描かれていた一つの絵に目を奪われた。
 セピア色の海に少女の後ろ姿。
 少女の顔は見えないのに、哀愁漂う背中に僕は堪らなく惹かれた。
 チラシを拾い上げ、ざっと目を通した。チラシにはこの大学出身で、海外でも成功したという画家の、個展情報が書かれていた。
 瀬名貴一(せな きいち)というその画家は、僕より一回り年上で、この大学を卒業した後は海外に留学し、日本に戻った当時は売れない画家だったらしい。そして奮起して再度海外に渡り、ひょんなきっかけから成功した、とそのチラシには簡単なプロフィールと共に載せられていた。他にも何点かの絵も載っていたが、色鮮やかな風景画ばかりで、人物画はない。だからこそこのセピア色の海に佇む少女の絵が、尚更僕の興味を引き付けたのだ。
 この海は外国の海だろうか?にしては、わざわざセピア色にしている辺り、ノスタルジーな雰囲気をを匂わせる。
『瀬名貴一 日本で初の個展!』
 見出しがチラシには大きく書かれていた。この絵は日本を思い出しながら描いたものではないか?日本に残した、自分を待っているだろうこの少女を想いながら、彼女は今どんなカラーをしているのだろうと――。そんなドラマさえ思い描ける、一枚だった。
 この絵を自分の目で見てみたい。
「何だ?気になる事でも書いてあったか?」
 しゃがんだまま、チラシを食い入る様に眺めている僕を、和也が覗き込んできた。
「ああ。和也、このチラシ要らないなら貰っていくな?」
「構わねえけど?」
 個展会場はそう遠くない場所だ。よし、行ってみよう。
 そうだ、早紀さんも誘ってみようか。ここのところ避けがちだったし。

 セピア色の海に君は何を思うだろう?君の絵を見る目は確かだと思うし、これからの僕らに何かいいきっかけを、この絵が与えてくれそうな気がするんだ。
 セピア色の少女は、彼――瀬名貴一に振り向いた時、どんな感情の色を見せるだろう?
 色のない早紀さんとセピア色の少女。早紀さんが時折見せる淋し気な後ろ姿と、この少女の後ろ姿にどこか共通点を感じた僕は、先程までの鬱々とした気持ちから一転、早く早紀さんに会いたい気持ちで急いでいた。

 電話を掛けて最初に聞こえたのは、「……はい」恐ろしく不機嫌な早紀さんの声だった。
「あ、」
 次に繋げる言葉が見つからなくて、僕は声を詰まらせた。
「……拓海?」
「は、はい」
 早紀さんが言葉を発する前の「間」がやけに威圧的で恐い。
「あたしの事、避けてたでしょう?」
「あ……いや……」
 不意に早紀さんの体から漂う甘い香りや、唇の柔らかい感触が蘇り、受話器に当てた耳が熱くなる。
「あたし、拓海に避けられる様な事、何かした?」
 すみません……何かしたのは僕の方です。
「……ごめん」
「何に謝ってるのよ?」
 しまった!これじゃあ墓穴を掘った様なものだ。
「その、学祭の準備やら忙しくて、連絡出来なかったから……」
「へぇ?拓海、サークル入ってないって言ってたのに、そんなに忙しかったんだぁ?」
 うっ、ドツボに嵌まってしまった。
「……で、あたしに会いたくなかった理由は?あたしに心当たりなんか腐る程あるんだから、ハッキリ言ってくれていいわよ」
 あ、自覚はあるんですね。やっぱり僕をからかって、反応を楽しんでたって訳か。そんな事は最初からそうだったし、いちいち気にしていられない。僕が早紀さんに会えなかった理由は……。
「急にどう描いたらいいか分からなくなって……」
 嘘は通用しない。何故、と言われたら困るけど、正直に打ち明けた。
「そう、別にいいんじゃない?」
 早紀さんの答えはあっさりとしたものだった。
「スランプなんてよくある事よ。だからって、あたし達が会えない、連絡も取らない理由にはならないでしょ?それで、スランプから抜け出せたから連絡してくれたの?」
「いや、まだなんだけど、気分を変えようと思って、付き合って欲しい所があるんだけど……」
 成り行きだけど、やっと本題に移れた。
「絵の個展に行かない?」
 この一言に辿り着くまで、随分と冷や汗をかいたものだ。
「気分転換って言っても、結局絵から離れられないのねぇ」
 早紀さんは呆れた様子だったけど、一緒に行ってくれるのを了承してくれた。
「何て人の個展に行くの?」
「あ、えっと、瀬名……何だっけな……」
 鞄にしまってあるチラシをがさごそ探る。
「……瀬名?」

「ああ、あった、あった。瀬名貴一さんって人の。この人の絵が見たいんだ」
「…………」
 急に黙りこくる早紀さん。
「早紀さん?聞こえてる?」
「き、いち?」
 それきり早紀さんはまた黙ってしまった。もっと高名な画家を想像してたのだろうか?瀬名さんは日本ではまだ無名に近いだろう。がっかりさせたかな?
「ごめん、知らない画家かもしれないけど、どうしてもその人の描いた絵が見たいんだ。嫌だったら無理強いはしないけど……」
「…………」
「早紀さん?」
「あ、ううん。ごめん。今バイトの空き時間で、ちょっと呼ばれてるみたいだから。いいわよ。いつ行くの?」
「今週の土曜。十時に駅前でいいかな?」
「分かった。じゃあ土曜日ね」

 僕は、いつも人に嘘を見破られるけど、他人の嘘はちっとも見破れない。後から思えば明らかに様子がおかしかった早紀さん。
――土曜日。待ち合わせ場所に早紀さんは来なかった。

 早紀さんと待ち合わせをして僕が待ったのは、彼女が僕の家に来た時のたった一度だけ。早紀さんはいつも先に到着してて、行き交う人達を眺めていた。メイクのバイトをしているのだから、人の顔に興味があるのは当然なのだろうが、僕は早紀さんの彷徨う視線に、誰かを探しているみたいだと感じた事もある。だから僕はいつも、声を掛けるのを一瞬躊躇う。
 何度掛けても留守電に繋がってしまい、メールを送っても返信がない携帯をポケットにしまった。こいつがあるおかげで、時間にルーズな奴が増えただろうな。だけど早紀さんは違った。その早紀さんが来ない。急用で来れないにしても、早紀さんは連絡もなしにすっぽかしたりしないだう。
 小一時間程待って、僕は再び携帯を手にした。メールで先に行くと伝え、場所を添付した。
 ごめん、早紀さん。僕、どうしても瀬名さんの絵が見たいんだ。

 瀬名さんの個展は、ギャラリーを貸し切ってのものだった。美術館で見るのとは違い閉鎖的な空間に少々緊張する。瀬名さんの絵は、ヨーロッパの風景画が多かった。凱旋門やドゥオーモなど、歴史的建造物の絵も迫力があって見応えがあったけれど、僕はヴェネチアのゴンドラ風景や田園風景といった、素朴な絵に惹かれるものがあった。これらだけでも見に来て良かったと思える作品ばかりだった。
 そして、順路からいって最後になる絵――。
 あった。僕が一番実物を見たいと思っていた、セピア色の海の絵があった。
 他の絵は色彩豊かに描かれているのに、どうしてこれだけは単色で描かれているのだろう。
 僕は暫く立ち止まって、その絵を食い入る様に見つめた。思うに、この絵に描かれている場所はイタリアではない、僕はそう確信した。
「帰りたい」
 不意に絵からこんな声が聞こえた気がした。描かれた少女の言葉なのか、描いた瀬名さんの言葉なのか……。
 とにかくこの絵は、ノスタルジーに呼応する。
 いつだったか、和也が言ってた。芸術作品とは、作る側と見る側の感性を共有するものだ、と……。
 僕はありったけの感性を使い、この絵に込められた思いを読み取ろうとした。背後に近付く人にも気付かずにいたのだから、随分と集中していたのだと思う。
「その絵が気になるのかい?」
 突然話し掛けられて「うわっ」と声を上げそうになった。振り返ると、穏やかな笑みを浮かべた男の人が立っていた。
 この人は――間違いない。瀬名貴一さん本人だ。
 まさか本人に出くわすと思っていなかったから、緊張で背筋がピンッと伸びる。瀬名さんは、今度は目と目と合わせて「驚かせてすまなかったね。その絵が気に入ったのかい?」と、言った。
「はい、でも、あの……どうしてこの絵だけは単色なんですか?」
 僕の問いに優しく目を細め、でもどこか寂しそうに瀬名さんは答えた。
「これは、故郷である日本を思い出して描いたものだから」
 やはり、僕の予想は当たっていた。
「この絵の人が、今はどんな色をしているのか分からなかったから、単色になってしまったけれどね」
 続けて話した瀬名さんの言葉に、僕は驚きを隠せなかった。この人は僕と同じ事を考えている。人にイメージカラーを付ける僕と同じだ。

 瀬名さんの色はグリーン。他人を和ませる、癒しの色だ。
だが、その暖かなグリーンに陰りが見える。

 瀬名さんは僕と並んで、セピア色の絵を見つめていた。横目で瀬名さんをちらりと見た。陰が一層濃くなっている。
 再び絵に視線を戻し、僕は思わず呟いてしまった。
「帰りたい……」
 口に出してしまった事を直ぐに後悔したのは、瀬名さんが僕を凝視していたからだ。
「す、すみません。僕の勝手な憶測です。この絵を見ていたら、そんな気分になってしまって、つい……」
 瀬名さんは気分を害した風でもなく、優しく僕に微笑んだ。
「君も絵を描いているのかい?」
「あ、はい。まだ美大生ですけど。あの、瀬名さんと同じ大学です」
「そうか。あの大学も懐かしいなぁ」
 遠くを見る様な目をした後、瀬名さんは、僕の目をじっと見つめて、こう言った。
「君はきっといい絵描きになるよ」
 瀬名さんにそう言われ、僕は恥ずかしくなって俯いた。
「この絵にタイトルは付けなかった。だけど君の言った通り、『帰りたい』という思いで描いたものなんだ」
 瀬名さんは、この絵の少女には会えたのだろうか。そして、今はどんな色をしているか、見る事が出来たのだろうか。
 聞きたかったけれど、プライベートな事だし、図々しいと思って聞けなかった。

「今日、見に来て良かったです」
 場を去る前に、それだけを告げた。
「ありがとう」
 瀬名さんは、嬉しそうに笑い、僕を出口まで送ってくれた。
「そういえば、名前を聞いてなかったね」
 名乗る程の者じゃないと思ったけれど、「諏訪拓海です」と、答えた。
「諏訪、拓海くんか。君の名前は覚えておくよ」
 瀬名さんみたいな立派な人に名前を覚えてもらえるなんて、なんて光栄な事だろう。
「あ、ありがとうございます」

 瀬名さんに見送られて、外へ出た時だった。数メートル先に、早紀さんが立ち尽くしていた。目を大きく見開いて、こちらを見ている。
 良かった。来てくれたんだ、と思ったが、様子が何だかおかしい。僕と視線がかち合わない。早紀さんの視線は、僕の肩の向こう側へ注がれていた。
「早紀さ……」「早紀‼」
 僕が声を掛けるのと同時に彼女を呼ぶ声。そして、僕の左側に風が立った。
 瀬名さんが早紀さんの元へ走って行ったのだ。
「早紀、来てくれたんだ?」
 二人は知り合い?――。
 ああ、そうか。そうだったのか……。早紀さんの不可解な言動の答えがここにあったんだ。
 僕は全てを一瞬で把握してしまった。早紀さんは、部屋にあったスケッチブックを抱えている。

「勘違いしないで。今日ここへ来たのは、これを返す為だから。こんなスケッチブックだけを残して黙って消えるなんて卑怯よ」
「ごめん、早紀。夢を、諦めきれなかったんだ」
「だからって、何の相談もなしにいなくなるなんて、やっぱり卑怯だわ」
「相談したら早紀はどうしてた?着いてくるって言い出し兼ねなかっただろう?念願だったメイクアップアーティストのアシスタントになれたって喜んでいたじゃないか」
「せめて『待っていて欲しい』くらい言えなかったの?」
 僕は二人のやり取りをぼんやり聞いていた。僕はここに居るのに、まるで蚊帳の外だ。
 頭の中でパズルのピースがどんどんはめ込まれていく。
 二人は恋人同士で、瀬名さんはあのスケッチブックだけを早紀さんに残して海外へ渡った。早紀さんが時折遠くを眺めていたのは、瀬名さんの姿を無意識に探していたんだ。
 別れの言葉もなかったのは、瀬名さんは早紀さんの事を本気で愛していて、だからこそ「さようなら」も言わないまま姿を消した。スケッチブックだけを残したのは、自分を忘れて欲しくなかったから。無理な要求だとしても、早紀さんに待っていて欲しかったんだと思う。
 僕が、あのセピア色の絵に惹かれたのは当然の事だったんだ。あそこに描かれていたのは、紛れもなく早紀さんだったのだから。

 早紀さんが瀬名さんの胸にスケッチブックを押し付ける。そして僕に振り返り「拓海、行こう」と言って、僕の手を取った。何処に行くのか、全く見当もつかなかったけど、繋がれた早紀さんの手が異様に冷たかった。対照的に僕の手は熱かっただろう。

 瀬名さんが言っていた。
「この絵の人が、今はどんな色をしているのか分からなかったら、単色になってしまったけれどね」
 と、いう事はつまり、彼は早紀さんの本当の色を知っている?早紀さんが今の混濁色になってしまったのも、きっと瀬名さんが原因で……。
 僕はそれらの事実に、激しく嫉妬心を覚えた。僕が苦労して見出したいと思っていた彼女のカラーを、瀬名さんは知っている。打ちのめされた気分だった。

 早紀さんに手を引かれ、辿り着いた所は、いつかのホテルの前だった。入口で立ち止まり、早紀さんは僕の顔色を伺う様に見つめてくる。見つめ返した僕は、早紀さんの手をぐっと握り締め、今度は躊躇わずに中へと入って行った。
 部屋に入るなり、相手をベッドに押し倒したのは、僕の方だった。
「ちょ、拓海!?」
 有無を言わせない様に、僕は早紀さんの口を口でふさいだ。

 僕は認めなければならない。こんな形で気付きたくなかった。
 僕は早紀さんが好きだ。

 こんな強引なやり方はしたくないのに。僕を突き動かしているのは、狂おしい程の嫉妬。瀬名さんの全てに僕は嫉妬している。
 瀬名さんの絵の才能に、早紀さんをあんなに感情的にさせる事に、そして彼女のカラーを知っている事全てに、僕は嫉妬しているんだ。

最初は驚いて、少しの抵抗を見せた早紀さんだったけれど、長いキスの間に、僕に身を任せる様になった。
「た、く……んっ」
 彼女は時折、僕の名をかすれた声で呼ぼうとする。僕はその度に早紀さんの声を遮る様にして唇を重ねた。
 怖かった。「拓海」と呼ぶその声が、いつ「貴一」とすり替わってしまうのではないかと危惧したからだ。早紀さんの恍惚とした表情は、僕を見ている様で、僕自身を見ていない。
 君は今、誰に抱かれているの?「拓海」と呼びながら、本当に叫びたい名前は「貴一」じゃないのか?
 そうした僕の疑心は、僕の嫉妬を更に駆り立て、僕の熱となり、荒々しい行為に転じた。僕は早紀さんを好きだけど、好きだから彼女を抱いているのではない。
 ただただ、嫉妬に狂っているだけだ。

 一筋の涙が流れた。僕の僅かな理性の涙だ。それは僕の汗と混ざり合い、早紀さんの白い肌の上に落ちた。僕の下で喘ぐ早紀さんを見つめながら、心の隅で自分を責めていた。互いに心が通じ合えないこの行為は、何て愚かな事なのだろう。

 終わった後に、天井をぼうっと見つめていると、早紀さんは僕に寄り添い、こう尋ねてきた。
「拓海は、あたしの事が好きだから抱いたのよね……?」
 僕は答えなかった。早紀さんもそれ以上何も聞いてこなかった。


 早紀さんは僕を好きでいてくれたかもしれないけど、きっと愛してはいない。愛しているのはきっと瀬名さんで、僕は代わりに過ぎない。それでも僕は気付いてしまった自分の気持ちを、もうごまかす事は出来なくなっていた。
 体は急激に冷えていくのに、熱くなっていく恋心。
 しかし、この気持ちを早紀さんにどう伝えればいいのか、分からなかった。

 早紀さんを抱いても、彼女のカラーは変わらなかった。
 混濁色――それは迷いの色。
 多分今の僕も、早紀さんの色に染まる様に、濁った色をしていると思う。
「出ようか」
 重苦しい沈黙が続く中、早紀さんが言った。
「うん……」
 これ以上早紀さんと一緒にいたら、僕の心が壊れてしまいそうだ。
 早紀さんと駅で別れ、ようやく一人になった時に襲ってきた感情。

 今はただ……。哀しい。哀しい。哀しい。哀しい……。

 どうして早紀さんを好きだと気付くのが「今」なのだろう。昨日までの僕は、早紀さんと瀬名さんの関係ですら知らなかった。知らないでいれば、ごく自然に早紀さんを好きだと気付く日が来たのかもしれないのに。早紀さんと瀬名さんを引き合わせたのが僕だったなんて、何て皮肉な話だ。終いには、自分勝手な感情で早紀さんを抱いて……。
 あんな風に僕に抱かれた早紀さんはどう思っただろう。きっと傷つけた。
 どうしようもない後悔の念が僕を支配する。哀しくて、苦しくて、叫びたいのに声が出ない。人を好きになるってこんなにも辛いものなのか。少なくとも、亜沙子と付き合っていた時も、別れた後も、こんな気持ちになった事がない。

 家には帰り辛かった。今の僕は酷い顔をしているだろう。何処へ行ったらいいのかも分からず、何となく途中で電車を降りて、ふらふらと歩いていた。何処をどう歩いていたのかは覚えていないけど、気付いたら僕は和也の家の前にいた。
 和也の部屋を見上げる。明かりがついていない。バイクも見当たらないから、和也は何処かへ出掛けているのだろう。シーズンを終えたバラの庭が、寂しく僕の目に映った。
 帰ろうと思って踵を返した時、バイクの音が近付いて来た。和也だ。
「……拓海?こんな時間に何か俺に用かよ?」
「…………」
 言葉が出てこなかった。
「おいおいおい、どうしたよ!?」
 和也が焦っている。無理もない。和也に会って気が緩んだのか、言葉の代わりに出てきたのは、無数の涙だった。
「とにかく、俺に会いにきたんだろ?入れよ」
 和也は僕の肩を抱いて、家に入れてくれた。涙はまだ止まらない。そんな自分を情けなく思う。和也の部屋に着くまで、誰にも会わなかったのは良かった。こんな醜態、本当は和也にも見せたくない。
 しかし、無意識とはいえ、ここへ足を運んだという事は、僕は思っている以上に和也を頼りにしているみたいだ。
 部屋に入ると「ほらよ」と言って、和也はタオルを投げてよこした。そのタオルでごしごしと顔を拭った。和也は何も聞いて来ない。何も聞かない代わりに、おもむろに音楽をかけた。カーペンターズの曲だ。
 そして和也は出窓に腰掛け、曲に合わせて鼻歌を歌う。
 いつもはロックばかり聴いてるくせに。僕に何かあると根掘り葉掘り聞きたがるくせに。どうして今日に限って何も聞かないんだよ?
 曲はやがて「イエスタディワンスモア」になった。この曲は、高校の授業で和訳させられたから、よく覚えている。
 早紀さんを好きだと気付いた今、色々彼女に振り回されて困惑していた日々でさえ、輝かしいものだったと自覚する。そんなに昔の事じゃないのに、戻れるものなら、あの頃に戻りたい。
 部屋の隅で両膝を抱える様にして座っていた僕は、再び目に滲んできた涙が頬を伝う前に、タオルへ顔を埋めた。

 曲が変わり、気持ちが落ち着いてきたところで、僕は和也に尋ねる。
「どうして何も聞かないんだよ?」
 和也は、鼻歌を止めて「お前が話したいなら聞くけど?」と、茶化すでもなく、真面目な顔で答えた。
「お前、弱そうに見えても芯はしっかりしてるんだから、人前では絶対に泣かない奴だ。そのお前が泣いたんだ。よっぽどの事があったんだろうう?」
「僕……」
 言い掛けて言葉に詰まる。和也はじっと言葉の続きを待っていた。
「僕、今日、早紀さんと……寝た」
 途切れ途切れに発した声は、自分でも情けなくなるくらい、小さな声だった。
「それで?」
 意外にも和也は冷静だった。
「お前は気付いてなかったみたいだったけど、早紀ちゃんに惚れてんだろ?早紀ちゃんとヤッただけなら、そこまでお前は自分を追い詰めないだろ」
 僕が自分を追い詰めた原因。それは……。
「早紀さんのカラーが、どうしても、見出せないんだ」
「カラー?どういう意味だ?」
 僕は他人に初めて、自分が人にイメージカラーを付ける癖を和也に話した。
 そして、早紀さんの恋人であった瀬名さんが、恐らくは彼女のカラーを過去において知っていた事、その事に酷く嫉妬心を覚えたいきさつを話した。
「イメージカラーか。それって俺にもあるのか?」
「和也はカーマイン。鮮やかな赤がよく似合う」
 でも最近は妙に優しかったりして、いつだったか一緒に眺めた夕陽みたいな、オレンジ色――京緋色―に近い穏やかな赤が似合う様になってきた。そういえば、和也はここのところ、適当に女のコと付き合ったりしていない。
その事を告げると、「最近の拓海を見てたら、俺も本気の恋ってヤツをしてみたくなった」と答えた。
「早紀さんはいつも混濁色にしか見えない。しかも時々無色透明だったりして……。無色の時は瀬名さんを想っていたに違いないと思う」
 和也は出窓から下りて、僕の正面までやって来た。そして僕の目をしっかり見据えて言った。
「お前が他人にイメージするカラーは間違ってないと思う。感受性の強い、拓海らしいとも思う。だけど、人間ってそんな単純なものじゃないだろう?お前は早紀ちゃんの心の奥底まで知りたいと思うからこそ、そんなカラーに見えるんじゃないのか?」
 正直、和也の口から最もらしい意見が聞けるとは思っていなかった。確かに和也の言う通りだと思う。亜沙子と付き合っていた時は、彼女の表面しか見ていなかったから、描いた絵でもって亜沙子を傷つけてしまった。僕は無意識に亜沙子を美化して見ていた。
 けれど、早紀さんに対しては違う。出会いからして衝撃的だったせいか。僕は彼女の見えないカラーを見たいと思っている。
 何故早紀さんの色が分からないのかは、近いようで遠い、僕と早紀さんの心の距離だろううか。抱いても心までは近付けなかった。

「なあ、和也。誰かを本気で好きになるって、こんなに苦しいものなのか?」
「お前は今までちょっと綺麗過ぎたんだよ。恋愛なんて、綺麗どころばかりじゃねぇ。醜い部分だってわんさかあるぞ。だから、そんなに落ち込まなくたって大丈夫だ」
 さすが和也。恋愛に百戦錬磨なのは伊達じゃないな。言葉に説得力がある。和也も一度くらいは本気で惚れた相手がいたのかもしれない。いつもおどけてばかりで気付いてやれなかったけど、和也でも恋愛で傷ついたりしてたのだろうな。
「今日は泊まって行くんだろ?」
「いいのか?」
「帰りたいなら、バイクで送るけど?」
 先日の高速道路での恐怖は忘れてないぞ。和也の運転するバイクの後ろに乗るなんて、もう二度とゴメンだ。
「いや、遠慮なく泊まらせてもらうよ」

 和也に打ち明けて、ホッとしたところがあったのだろうう。僕のお腹の虫が「グー」と派手な音を立てた。そういえば、昼からまともに食事をしていない。
 和也は笑って「ちょっと待ってろ」と言って部屋を出た。
 一人になった部屋で、僕はカーペンターズの曲に聴き入っていた。壁には(僕がモデルだと今は思わないことにした)少女の絵画をぼんやり眺めながら。
 嫉妬で燃え上がっていた気持ちだとか、その反動で襲ってきた哀しみが洗われていく様だった。音楽にしろ、絵にしろ、芸術はやはりいいものだと感じた。

 程なくして、和也がお盆に乗ったおにぎり二つと味噌汁を持って、部屋に戻ってきた。
「味噌汁は晩飯の残り物だけど、おにぎりはばーちゃんの特製だ」
「え?ソフィーさんが?」
 僕が思わず聞き返してしまったのは、ソフィーさんとおにぎりがあまりにもイメージとかけ離れていたからだ。ソフィーさんといえば、甘い洋菓子のイメージだったし、実際いつもご馳走になっていたのは、クッキーやスコーンなどのお菓子ばかりだったのだ。
 まさか、おにぎりの具はチョコレートだったりして……。
 和也は僕の強張った表情を見て察したのだろう。
「ばーちゃんの作る日本食もなかなかのものだぞ?さっさと食え」
「はい、いただきます……」
 味噌汁で喉を潤してから、一つ目のおにぎりにかぶりついた。
「……美味しい」
「だろう?」
 おにぎりの具は梅干しだった。塩加減もちょうどいい。

 思えば、駆け落ち同然でフランスから日本へ渡ってきたソフィーさん。今でこそ日本語も流暢に話しているけれど、異国の地で暮らしていくのは大変だったに違いない。
「日本はね、少女の頃から興味があったのよ」
 いつだったか、ソフィーさんがそう言っていた。だけどフランスへ帰りたいと思った事はないのかな?瀬名さんが「帰りたい」と思いながら描いた、あの絵を思い出す。しかし、帰りたいと願った場所は「日本」ではなく、「早紀さん」のところだ。ソフィーさんは愛する正吾さんが傍にいたから、これまで暮らしてこれたのだろう。
 人は皆、だだの「場所」でなく、「大切に想う人がいる場所」へ帰りたいと願うものなのかもしれない。

 翌日の朝、早くに目が覚めた僕は、一階で物音がするのに気が付いた。和也はいびきをかいて、まだ眠っている。
 昨日、遅い時間に突然来てしまった上に、宿泊までしてしまったから、一言お詫びをした方がいいだろうか。
 少し考えてから、僕は起き上がった。和也を起こさないように(と、言っても和也は絶対に起きないと思うが)そっと部屋を出て一階に下りた。
 物音はキッチンの方から聞こえてくる。キッチンを覗くと、そこにいたのはソフィーさんだった。
「おはようございます……」
 恐る恐るソフィーさんの背中に向かって声を掛けた。
「あら、おはよう、拓海ちゃん」
 ゆっくり振り返って、にこやかに挨拶を返してくれたソフィーさんにホッとする。
「あの、昨日は突然泊まりに来てすみませんでした。それから、おにぎりありがとうございました。とても美味しかったです」
「それなら良かったわ」と言い、優雅に微笑むソフィーさんを見て、女性の美しさに年齢は関係ないんだな、と感じた。
「今ね、クロワッサンが焼けたところなのよ。拓海ちゃん、良かったら一緒に朝食を食べましょう?」
「はい、喜んで」
 ソフィーさんと二人きりで食べる朝食。
和也の家では、休日は皆起きるのがゆっくりだ。従って、休日はブランチなんて洒落た習慣になっている。
ソフィーさんと向い合せの席に座ると、クロワッサンにオムレツ、スープにフルーツヨーグルトが置かれていく。
「飲み物はオレンジジュースで良かったかしら?」
「はい」
「食後のコーヒーは、拓海ちゃんの好きなモカにしましょうね」
 完璧な朝食だ。ソフィーさんの作ったクロワッサンが香ばしく鼻腔をくすぐり、僕の腹の虫がきゅるきゅると音を立てた。

 食事中は終始無言だった。
 いつもなら、こうして向い合せていれば、絵画の話なんかをして穏やかな時間が流れていくのに、昨晩の早紀さんとの事が頭から離れず、僕の気持ちは沈んだままだった。
 そんな僕の心中を察しているのか、ソフィーさんも何も言わず、時折僕と視線が合った時だけ、柔らかい微笑を称えるのだった。
 クロワッサンもオムレツもスープも、泣きたいぐらい優しい味がした。
 食後のコーヒーがテーブルに置かれ、ソフィーさんが再び席に着くと、不意にこんな事を言われた。
「拓海ちゃん、恋をしているのね」
 いきなり核心を突かれ、僕は「あ、え?」と、動揺を口にする事しか出来なかった。そんな僕を見て、ソフィーさんはフフッと笑い、「以前拓海ちゃんにあげた絵を覚えているかしら?」と、僕に尋ねた。と、僕に尋ねた。
「もちろんです。部屋に大事に飾ってあります。セントポーリアでしたっけ?紫色がソフィーさんのイメージにぴったりです」
「ありがとう。あの時言った花言葉も覚えているかしら?」
 僕は記憶を辿り、ソフィーさんの言った言葉を思い出していった。
「……確か、『小さな恋』でしたよね?正吾さんと出会った頃に描いたって」
「そう。あの日の拓海ちゃんを見ていたらね、とても懐かしい気持ちになったわ」
 それはどういう意味だろう?
「拓海ちゃんの中でも、恋が芽生えているのじゃないかと思ったの。きっとあの頃は、まだ自覚がなかったでしょうね。だから『小さな恋』」
 昨日、突然に気付いた早紀さんへの恋心だったけれど、本当はもっと前から始まっていたのかもしれない。ソフィーさんはそれを見抜いていたんだ。
「恋をすると、女は綺麗になると言われているわね。でも私は、男の人だって同じ事が言えると思うわ。まして、拓海ちゃんは感受性が強いもの。最近の拓海ちゃん、顔つきが変わって、男らしくなってきたわ」
 そこまで言って、ソフィーさんは、コーヒーを口に含んだ。
 和也にも似た様な事を言われた。僕自身は何も変わっていないつもりだったけど――いや、寧ろどろどろした感情に苛まれて、酷く醜い顔になっているのじゃないかと思う。
「……苦しいんです」
 搾り出す様に出した声は、ソフィーさんに届いたかどうか分からない。ただ、ソフィーさんが柔らかく微笑んだから、僕は涙が零れそうになるのを必死で堪えた。
 僕の好きなモカをすすった。ソフィーさんの淹れてくれたモカにも、彼女の優しさが感じられ、また泣きそうになる。
「我慢しなくていいのよ」
 その言葉によって、とうとう僕の目から涙が零れ落ちた。
 昨日から泣いてばかりだし、恋とはこんなにも自分を弱くするものなのか。
 早紀さんの気持ちが分からない。瀬名さんの前で、あんなにも感情を顕(あらわ)にして、いつも飄々としている早紀さんとは思えない程の激情を、僕は目の当たりにした。
 早紀さんは、今でも瀬名さんを好きなのだろうか。ならば、どうして僕に抱かれたりした?
 分からない。分からないから、苦しい。
「拓海ちゃん、苦しみを味合わない恋は、本物の恋じゃないわよ」
 囁く様なソフィーさんの声を聞きながら、僕は泣き続けた。そして泣きながら、早紀さんを初めて見つけた日の事を思い出していた。彼女は、海外へ向かった瀬名さんを想い、海へ向かって激しく泣いていたのだと。

 僕が泣き終えたのを見計らって、ソフィーさんはテーブルの上にカップを置いた。
「カフェオレを淹れたわ。気持ちが落ち着くでしょう?」
「ありがとうございます」
 鼻をすすって、僕はカフェオレを飲んんだ。そして、深呼吸を一つ。
「すみません、泣いたりして……」
「いいのよ。拓海ちゃんがその方にどれだけ本気なのか、よく伝わってきたわ。こういうのは失礼かもしれないけど、とても綺麗な涙だったもの」
 綺麗な涙……?
 僕が首を傾げると、ソフィーさんは笑って答えた。
「言ったでしょう?恋で変わるのは女だけじゃないって。そうね、人間に深みが増すとでも言うのかしら……。もう、拓海『ちゃん』なんて呼べなくなるわ。拓海『くん』って呼ばなくちゃね」
 ソフィーさんの言葉に、僕は顔を赤くして俯いた。正直僕は男なのだから、「ちゃん」を付けて呼ばれるのは、本来喜ばしい事ではない。だけど、ソフィーさんが「拓海ちゃん」と呼ぶのに不快感はなかった。優しく「拓海ちゃん」と語りかけるソフィーさんを、も一人の祖母の様に思っていたりもした。だから、急に「拓海くん」などと呼ばれたら、少々寂しい気もする。でも彼女はきっと、今までの様に「和也の親友」としてだけでなく、「諏訪拓海」という一人の男として認めてくれたのだと思う。

「今の拓海くんに花を贈るとしたら……」
 ソフィーさんは、少し考えてから再び口を開いた。
「タイムかしらね」
「タイム?」
「紫色の小さな花をつけてね、料理にも使われたりもするし、エッセンシャルオイルにもなるわ。花言葉は『勇気』」
 勇気。きっと今の僕に足りないもの。
 早紀さんに気持ちを確かめる事も、自分の気持ちを伝える事も出来ていない僕に必要なものだ。
「ソフィーさん、ありがとう……」
 お礼を述べると、ソフィーさんは柔く笑った。今日はこの笑顔にどれだけ救われただろう。重々しかった心が、少し軽くなった。
「拓海くん、」
 やっぱり、ソフィーさんに拓海「くん」と呼ばれるのは、まだ慣れないな。
「大切なのは、自分の気持ちに嘘をつかない事よ」
 早紀さんの気持ちは分からない。でも、僕が早紀さんを好きなのは紛れもない事実。ソフィーさんに言われ、改めて受けた止めた事実を、僕は否定してはならないと思った。生半可な気持ちではないのだから、早紀さんの気持ちがどこを向いていようと、僕の気持ちは変わらない。

 それから暫くソフィーさんと談笑して、時計の針が午前十時を回った頃、ようやく和也が下りて来た。
「拓海、こんな所にいたのかよ。起きたら部屋にいねえし、どうしたのかと思ったよ」
「ごめん。早くに目が覚めちゃったから、ソフィーさんと話してたんだ」
「……大丈夫みたいだな」
 和也が僕の顔をしげしげと見つめて言った。こいつにも随分心配をかけていたらしい。
「和也、悪かった。ありがとう」
 僕がお礼を言うと、和也は寝癖だらけの髪をガシガシ掻いて、「俺は別に何もしてねえよ」と、照れくさそうにした。
「それじゃあ、僕は帰るよ」
「バイクで送るか?」
「それだけは勘弁」
 僕らの会話を、ソフィーさんがにこにこしながら聞いていた。
「ソフィーさん、ありがとうございました」
「拓海くん、またいつでもいらっしゃいね」
「はい」

 帰りの電車の中で携帯の電源を入れ、「タイム」という花を検索してみた。ソフィーさんが紫色の小さな花と言っていたけれど、本当に小さな花で少し驚いた。花言葉が「勇気」なのだから、それに相応しい力強さを想像していた。画面に映っているタイムの花は、小さな花が群れをなして咲いている。
 ふと、こんな事を思った。何か事を起こす時は、一度に大きな勇気を必要とせず、小さな勇気が集まって踏み出していけるものなのではないだろうか。まずは、この花一つの小さな勇気、最初の一歩を踏み出すのが大切なんだ。
 僕が今しなくちゃいけない事は……。

 考え込んでいると、手の中の携帯が突如震え出した。メールの着信。早紀さんからのメールだった。
 件名はなく、ただ一言「話したい事があります」とだけ、絵文字もなく綴られていた。続いて二通目のメールが届く。
 早紀さんは普段こんな風にもったいぶってメールを二通に分ける事なんてしない。言いたい事はまとめて言う、そんなタイプだ。
 僕がメールを開封するのにいちいち躊躇う様に、早紀さんも送信ボタンを押すか押さないか、躊躇ったりするのだろうか。
 もうごちゃごちゃ考えるのも疲れてきた。どうせ読まずにはいられないのだから、と勢い任せで決定ボタンを押す。
「話したい事」がどんな内容かは分かっている。が、僕の予想に反して、メールの内容は待ち合わせの日時と場所があるだけだった。
 なるほど、僕は真正面から直撃を喰らう訳だな。ふっと吐いた溜め息にも力がない。

 いつの間にか僕の家の最寄り駅に着いた電車のドアが開き、目に沁みる潮風が流れ込んできた。僕は一度ぎゅっと目を閉じてから開き、なるべく上を見るようにして立ち上がった。一度下を向いて歩いたら立ち止まってしまいそうで、意識して顔を上げていた。
 堤防沿いの道で視線を少し落とし、顔を左に向けて海を眺めるのがいつもの習慣なのだが、今日の僕の目に入る景色は違った。
 正面を向いて視線を上げたその先には、海より果てしない空。海がどれだけ果てしなく見えても、地上に存在する以上果てがある。
 どれだけ知りたくても知り得ない、早紀さん……君は空の様な人だね。
 初めてこの海沿いを一緒に歩いた日、君は言っていた。
「海の向こうは遠すぎて……そこへ行きたくて必死で泳いでも、あたしは途中で溺れて死んでしまう」と。
 空の様な君を海に沈めては駄目なんだろうな。早紀さんは海を泳いで行くのではなく、風になり空を渡って行きたいところへ行くのが相応しい。

 早紀さんを抱いた後はあれだけ哀しかったのに、今は少し落ち着きを取り戻していた。足取りもしっかりしている。真正面から喰らう直撃に少しばかりの覚悟が僕にも出来ている。
 亜沙子との「恋」が終わった時の僕は、涙のせいにして彼女のカラーから目を逸らした。そして皮肉にも本当の意味で「恋愛」に終止符を付けて初めて一番美しいイエローを見つけた。
 打ち明け話をする早紀さんからは、決して目を逸らさない様にしよう。未だに早紀さんのカラーが見つけられてないのは、ある意味ラッキーだな。打ち明け話の後に続く早紀さんの答えに、僕は先入観に囚われず、自分の気持ちのままに動ける。

「ただいま」
 ここ最近、言葉にしていなかった台詞だ。
「おかえり」
 反射的であろう母さんの返事を聞いて力が抜けた僕は、そのまま二階に上がって、ベッドに腰を落とした。ベッドに腰掛けたまま目の前の空間を見つめる。視界に入るのは、僕が中学生の時に描いた百合の絵だ。
 まだ好きなものを好きなように表現出来ていたあの頃は、こんな未来が待っているとは思いもしなかった。
 百合の絵が僕を見て哂う。まだ描きたいのだろう?だったら、乗り越えてみせろよ。
 僕はそれに応える。覚悟が出来たところで、不安は消えやしない。僕一人の一方通行な気持ちで早紀さんは描けないよ。

 どのくらい時間が経っているのか、目測さえも誤った。時計の針が二時間も進んでいた事に気が付いて、どっと疲れが襲ってきた。
「もう、どうでもいいや」
 どうでもよくないくせに、声にしてみて少しの安堵を自分に与える。
 下から晩御飯の時間を知らせる母さんの声がしたけど、僕は既に寝たという事にして、返事はしなかった。実際に体はもうベッドに預けてしまっているし、このまま僕は眠りに就くのだろう。
 せめて、夢の中だけでも幸せな僕でありますように。
 そんな自虐的めいた祈りを捧げながら目を閉じた。


 翌朝は、アラームが鳴る前に目が覚めた。波の音と鳥のさえずりが聞こえる、静かな朝だ。今日の波は穏やかに一定のリズムを刻んでいる。
 昨晩眠りに就く前は何も聞こえなかった。耳を塞いで、自分の心さえもぐっと押し込めて栓をしていたかのようだった。
 少しの揺らぎはあれども、こうも落ち着いていられるのは、願った通り幸せな夢でも見れたのか、現実を受け入れる覚悟ができたからなのか、説明がつかないけれど。
 着る服も特に何も考えず、シンプルにシャツとジーンズを纏い、スニーカーを履きかけた時、背中に何かの気配を感じてハッと振り返った。
 忘れ物だ。二階に駆け上がってクローゼットを勢いよく開けた。
 そうだ。「ここに在った」んだ。答えはそう、最初からこの場所で眠っていた。

 待ち合わせ場所には、妙に早紀さんに負けたくない気持ちが働いて一時間早くに到着した。早紀さんが来たのは十五分前――きっといつもよりは遅い――で、真っ直ぐに僕を見つめる事なく、やや俯き加減だ。
 ああ、いつもと真逆じゃないか。心の片隅で冷めたことを思う。自分に自信が持てなくて俯いていた僕を、真っ直ぐな目で見ていたのは早紀さんの方だったのに。
「お、おはよ……」
 躊躇いがちな早紀さんの挨拶は、僕を苛立たせた。
 何をそんなに怖がっているの?聞くつもりでここへ赴いているのだから、さっさと言えばいいよ。
「…………」
 そうか、僕のこの態度が怖いのか。
「どこか落ち着いた所へ行こうか」
 口調は優しく言ったつもりだ。「うん」と小さく答えた早紀さんの肩がすとんと落ちた。
 そうして二人でよく入ったカフェに落ち着いたどころで、どちらも言葉を発せずにいた。少し離れた場所では、高校の制服を纏ったカップルが顔を寄せ合うようにしてお喋りをしている。
「やだ~!なにそれ、超ウケる‼」
 お喋りがヒートアップして女のコが一際大きな声を上げたものだから、店内の客の視線がそのカップルに注がれた。男のコにたしなめられて、女のコは顔を赤くしてシュンとした。
「可愛いわね」
 早紀さんが眩しそうに目を細めた。続けて「高校生の頃ってそんなに前じゃないのに」と懐かしそうに言ったので、その先の言葉を容易に察する事が出来た。
「瀬名、貴一とは……あたしが高校生の時に知り合って……」
「うん」
「両親が、離婚したばかりの時で、ふらっと電車に乗って海を眺めに行って……」
「うん」
 途切れ途切れに話す早紀さんに僕は相槌しか打たない。早紀さんが本当に話したいことは以前の恋人とのエピソードではない筈だ。だから、そこに至るまでまでは何も口を挟まずにいようと思った。
 見透かされてると早紀さんは感じているのだろう。瀬名さんが海を眺めている早紀さんをスケッチした事がきっかけだった事、瀬名さんの画家になるという夢の話、話す声その声はとても乾いていた。しかし君は、テーブルの下で僕が握り締めている拳に気付いていない。
 うん、そうだね。僕は瀬名さんにどこか似ている。
「でも貴一は何も言わず、たった一冊のスケッチブックをあたしの部屋の前に置いていなくなったわ。着いて来いとも、待っててともとも言わずに!だからあたしは海に貴一ごと吐き捨てたわよ!だから海なんて嫌いだったのよ‼」
「知ってる」
「え?」
 聞きたくなかったけど、その激情を僕は欲していた。やっと話してくれたね。
 相槌でない言葉に早紀さんがやっと僕の目を見た
「見てたから」
 僕は早紀さんの前にスケッチブックを差し出した。いつも早紀さんと会う時に持ってきていたものではなく、クローゼットにしまい込んでいた、早紀さんの慟哭を描いたスケッチブックだ。
「これ……って」
 悲しみの青なのか、激しさの赤なのかも分からなかった、あの時の君だよ。
「僕は合コンで出会う前から早紀さんを知っていた。早紀さんを描いて……早紀さんのカラーを見つけたいって思ったんだ」
 それだけ言って僕は立ち上がった。もうこれ以上何も言えない。
「待って!」
 待たないよ。瀬名さんと同じことしてるって言いたい?でも僕は瀬名さんとは違う人間だ。今の早紀さんにその判別はつかないだろう?
 背を向けた僕に、早紀さんが呟いた。
「貴一に今度は一緒に来ないかって言われた」
 振り向きたい衝動を抑えた。きっと早紀さんは俯いてる。また僕の目を見ない。背を向けたまま「どうするかは早紀さんが決める事だ」とだけ告げた。
 酷く冷たい声だったと思う。

 カフェを出てから足早に歩いた。逃げる様に去った僕の後ろ姿は、どんな風に見えるだろうか。気になったところで自分の後ろ姿など、確認のしようもない。背後を確認しても、早紀さんを置き去りにしたカフェが小さく佇んでいるだけだった。ここからでは早紀さんの姿も見えない。
 何故だろう?言いたいことは言えた筈なのに涙が出てくる。情けない。零れ落ちそうな涙をぐっと堪えた。僕が立ち止まっていても、人の流れは変わらずに僕の横をすり抜けてゆく。
 誰も僕のことは知らない、気にしない。まだ何も失ったわけではないのに、虚無感からか。何を眺めてもカラーはグレーにしか見えなかった。

8

 新しいスケッチブックを買った。何かが描きたかったからではなく、大学で使用するページが無くなったからだ。
 早紀さんと最後に会ってから二週間が過ぎていた。恐ろしい程何事もなく、静かに時だけが刻まれていく。朝起きて、軽く朝食を食べて大学へ行き、友達と談笑して、家に帰る。
 平和だよな。早紀さんとあんな離れ方をしても僕は笑っていられるし、大学でもちゃんと絵は描けている。これが本来の自分なんだと、つくづく思ったりもする。
 白と黒のモノトーンの世界。その色が混ざり合えば、落ち着いた優しいグレーになる。
 本当は誰もがグレーの場所にいて、白か黒か答えを探しているのかもしれない。他人に色を当てはめること自体、おこがましい行為だったんだな。
 今後の進路も少しは考えないといけない。就職先に僕は絵筆を持っていくことはないだろう。

 学祭の慌ただしさが抜けた構内には、冷たい秋の風が吹いていた。
「今日は人物画の基礎をおさらいします。二人ペアになって、互いの顔を描いてください」
 今日は厄日だな。そういう課題は散々やらされているし、面白くも何ともない。うんざりした空気に僕達は苛まれていた。
 仲のいい者同士が自然とペアになっていく。和也は……と思ったが、案の定、既に女のコ数人に囲まれていた。あわよくば、和也の次期彼女の座に納まりたいコであふれ、モデルにも不自由しないんだったな。
 人物画、特に美人画は和也の十八番だ。女に見立てた僕ですら描ける技量を持っている。あいつの目には、どんな女のコでも三割増し綺麗に見えているんじゃないかって思う。
 意外だったのは、いつもは女のコにデレデレしていた和也が、少々困惑の笑みを浮かべている事だ。どうやら本気の恋をしたいと言っていたのは、僕を慰めるだけの言葉ではなかったみたいだ。
 ぼんやりしている場合じゃないな。気の進まない課題だからって、僕も誰か見つけないと教授をモデルにしなくちゃいけなくなる。誰を描いても評価は変わらず、せいぜい「良」だと思うけど。
 こうやって考え事をすると俯いてしまう癖も直したい。えいっと顔を上げたら、さっきまで遠くにいた和也が待ってましたとばかりに目前にいた。
「よう!お前食パン余ってねえ?朝飯で持ってくる分も食べちまった」
 消しゴムに使用するパンは和也の胃袋で消化されつつあるって訳ね。
「余ってるけど……」
 ビニール袋から食パンを取り出して差し出すと、和也はそれを受け取らず、僕の顔を見て目を光らせていた。
 そして「ちょっと待ってろ」と言うと、さっきの女のコ達の所に戻り、何やら耳打ちしていた。再び僕の所に来た和也は、おもむろにキャンバスを僕の前に広げた。
「俺、お前を描くぞ。拓海もさっさと支度しろよ」
「は?僕を?」
 また女のコに描くつもりじゃないだろうな?
「インスピレーションがきたんだ。安心しろ。男の拓海を描いてやる」
 本気モードにスイッチが入った和也だ。こういう時に描いた和也の絵がどれだけいい作品になるかは、僕はよく知っている。
 この鋭い目に射貫かれてばかりだった。和也の絵の様な力強い線が描けたらと、憧れて。
 こうして対峙してキャンバスを広げた事はなかった。見飽きた筈の和也の顔が、初めて会った男に見える。
 僕も今のこいつを描いてみたい。それだけの感情で僕はキャンバスに線を描いていった。描いている間はお互い終始無言で、誰に声を掛けられる事もなかった。

そして出来上がった僕の人物画のデッサンは、いつもは和也の絵の特等席だった壁の中央に貼られた。

「まさか拓海に取られるとはな。俺、今回も自信あったんだけどなあ」
「お前は自信過剰なんだよ。うん、この絵はどう見ても拓海の勝ちだな」
「美大生でもない日向に何が分るんだよ、チッ」
 この大学生でもない日向がわざわざ潜り込んで来て、壁の絵について和也と語り合っている。和也の絵は僕の左隣に掲げられていた。もちろん紛れもなく男の僕としてだ。
 僕って、モノクロにするとこんな顔として表現されるのか、と二人のやり取りを無視して僕は「僕」を見つめていた。
「しかし、俺って絵にしてもやっぱりイイ男だよな」
「自分で言ったら魅力も半減だよ、なあ拓海?」
「え?ごめん、聞いてなかった」
「さては拓海、お前も自分ってイイ男かもとか思ってんだろ?」
「そんな事思ってないよ!」
 和也に手掛けてもらって三割増しになった僕だなとは思ったけれど。
「俺は絵を見たって何がどういいかなんてうんちく語れないし、抽象画っての?あれって色がごちゃごちゃ塗ってあるだけじゃんとかとしか思えないから、こういうシンプルな絵がいいな」
 オレンジ日向はモノトーン画を好むのか。色を作るのに躍起になる僕達美大生とはまた違った観点を持っている。僕の最初は、こんな風にいいと思った絵に素直に感動していたんだよな。
「拓海って繊細な線を描きそうって思ってたけど、ちゃんと和也らしさを表現する太い線も描くんだね」
「こいつは元々描こうと思えば描けんだよ。悪かったな、俺は太い線で描いた拓海でよー」
「悪いとは言ってねぇよ。拓海に一番取られたからってむくれてんのか」
 まだまだ続きそうな二人の会話に、僕は傍らで噴くのを堪えるばかりだった。

 初めて構内に絵が張り出された事で、僕の周辺が騒がしくなった。
「あのデッサン良かったよ」と声を掛けられるのは、照れくさくあるものの、正直嬉しい。 困るのは、「簡単にでいいの。あたしをデッサンしてくれないかなぁ」などといった依頼が増えてしまった事だ。
 一度カフェテラスでぼんやりしていた時に安易に描いてしまったのがいけなかった。その時は暇だったし。今は僕に隙あらば……と、描いてくれと言われる。そして女のコばかりだ。
 時間のある時なんかはいいとして、課題の多い日に言われようものなら、苛立ちがそのまま描く線になるから依頼を受けたくない。それでも依頼してきたコは「ありがとう!綺麗に描いてくれて」と僕を褒める。
 その度に僕は亜沙子を描いた絵を思い出して苦笑いをする。そして、上手く断れない僕に「意気地なしね」と叱る早紀さんの声が聞こえる気がして揺れ惑う。
 和也に依頼の断り方を聞いてはみた。
「俺は断ったことねえって」
 全く参考にならなかった。「俺は最近やっと少しは周りが静かになって動きやすくなった」とニヤニヤ笑うだけだった。
 僕に期待を込めて依頼をしてくるコの表情は本当に可愛いとは思う。だから何とも無しに描けてしまう。断るのも面倒臭くなって片っ端から描いてもみた。皆、喜んではくれるけど、僕は物足りなさを感じるだけだった。
 
 君じゃない、君じゃない。
 僕のアイデンティティを証明出来る絵はこれじゃない。
 
 この頭の中で響く自分の声は次第に大きくなり、僕は依頼を断る為に忙しい振りをして歩く速度を上げた。

9

 そういえば、近頃和也とあまり話をしていない。和也は僕がいなくとも人に囲まれているけど、僕に気を使っているのが本当だと思う。
 一限目は教授が急な出張で休講になった。かったるいし、教室から出ようと思った矢先、鳴りを潜めていた携帯が大音量で響き渡った。
「うわっ!」
 放っておいても鳴らなかったから、マナーモードにするのを忘れていた。つい声に出して驚いて、恥ずかしい事したな。僕は慌てて鞄の中をまさぐって携帯を取り出す。そして浮かび上がる液晶の名前に身が凍るような思いがした。
 早紀さんからのメールだ。
「固まってないでメール開けよ」
 いつの間にか僕の背後にいた和也が、半分怒った顔で僕を促す。
「い、嫌だ。見たくない」
「駄々っ子みたいなこといってんじゃねえよ!短気な俺がお前に言いたいことどんだけ堪えたと思ってんだよ!?拓海のシケた面はもううんざりだ‼」
 和也は自分で言ってるみたいに短気だけど、マジギレしたところを見たのは初めてだった。
 和也の怒号で教室内はシン……と静まり返っていた。皆がチラチラと僕達を見ている中、僕はメールの画面を開いた。
 無機質な文字はたった一行。
「JAL415便 パリ行 11時40分発」
 たったそれだけ。
「何て書いてあった?」
 和也の問い掛けに僕は力なく答えた。
「ほら、な。僕が瀬名さんを越えられる訳ないじゃないか」
 顔を背けて携帯の画面だけを和也の目の前に突き出してやった。
「拓海、てめえは……」
 そんな和也の低い声と、携帯が床に落ちる音がしたかと思ったら、僕の前髪が鷲掴みにされて引っ張られた。
「んぐぁ‼」
 目の前が真っ暗になって、何が起こったのか分からなかった。刹那の静寂。そしてざわめきの波紋が広がった。
「うわ……マジかよ」
「やだあ……」
 事の次第を把握した僕は、ひっくり返って床に腰から落ちた。
「な、なな……」
 何しやがる!という台詞は言葉にならなかった。それだけ濃厚なキスを、和也は僕にかましてきたのだった。
 和也は教室内の声にも僕の狼狽えにもお構いなしに吠えた。
「ちったあ目が覚めたか!この大馬鹿野郎が‼」
 ざわめきも瞬時に吹き飛んだ。僕は間抜けにぽかんと和也を見上げていた。
 荒い息を整えてから、和也は抑え気味に声色を落とした。
「つくづく早紀ちゃんが不憫だな。あのなー、このメールの意味、よく考えてみろよ。他の男を選ぶ女がわざわざ知らせてくるかよ?拓海に止めて欲しいんじゃねえのか?」
「え?あ!」
 そう言われて反射的に今の時間を確かめる。まだ、間に合うのか?
「来いよ!」
 和也に手を引かれて教室を出る。
「ご両人!」
 そんな野次が聞こえたりもしたが、そんな事はどうでもよかった。
「俺のバイクでもギリギリだぞ。手加減しないで飛ばすからな」
「分かってる」
 このまま早紀さんを失う以上に恐い事は、僕には何もない。和也の背中にしがみついても悲鳴は出なかった。
――速く、少しでも速く。
 体感するスピードは最高速度だったのにも関わらず、僕は頭の中でその言葉ばかりを叫んでいた。

「お前、男らしくなったな」
 ヘルメットを外してぺしゃんこなった僕の髪をガシガシ撫でて、和也は言った。
 言葉と僕に対する態度が違ってないか?でも、男らしさの塊の和也にそう言われるのは悪くない気分だ。
「……もし、拓海が女だったら」
 こいつのこの手の話にも慣れたな。次にどうくるかも分かっているから、僕は一歩下がる。
「俺はどんな卑怯な手を使ってでもモノにしただろうよ」
 あれ?絡みついてくるかと思ったのに。
 和也は親指を立ててニカッと笑っただけだった。
「キスまでしておいてよく言うよ」
「クォーターの俺からしたら、キスはご挨拶程度だ」
……随分とまあ、濃い挨拶だったな。
「残念だが、俺は男とはヤレねえ」
「想像もしたくないな」
 和也とはこんな馬鹿なやり取りばかりだ。呆れることも多いけれど、こいつとはずっと友達なんだろうな。
「行けよ。ちゃんと早紀ちゃん見つけろよ!」
「うん、ありがとな」
 僕は走り出した。
「俺は拓海以上の女見つけてやるからな!頑張れよ‼」
 僕の背中に向かって大声で和也が言うものだから、何人かはあからさまに反応した。
 前言撤回。友達やめてやろうか?本当、馬鹿だよな。顔が綻びそうになるじゃないか。
 今だけは振り向かないで他人の振りだ。まだ、気を緩める訳にはいかない。

 飛び立つ飛行機が近い。轟音が胸に響く。出発ロビーに着いた僕は息も絶え絶えになっていた。
 免税店が軒を連ね、人だかりだ。北ウイング、南ウイングどっちだよ?どうする?こんな場所でどうやって早紀さんを探せばいい?
 パリ行きの搭乗アナウンスが流れてきて、いよいよもってタイムリミットが迫る。携帯を開く。アナウンスと早紀さんが送ってきたメールの便は一致していた。いや、メールの確認をしている場合じゃない。
 早紀さんに電話を掛けた。発信音が長い。電話が繋がったところで何を言えばいいかなんて考えられない。
「早紀さん……」
 頼むから電話に出てよ。
 気付かないのか、出たくないのか、鳴り続ける電子音が苛立たしい。
「早紀さん」
 もう僕に残された手段はない。電子音に話し掛けたって早紀さんには届かない。繰り返されるアナウンスも、ここにいるやつらの声も全部が雑音だ!

 だったら僕は――。
「早紀‼」
 この名を持つたった一人の君に、僕の声が聞こえたらそれだけでいい。

 走った後よりも息が切れる。好奇の目がいくつも突き刺さって痛い。
 そう思ったのも束の間で、また僕は雑音の中に立っていた。両膝に手をついて、呼吸を必死で整える。もう、これ以上は無理だ。頭が垂れかかったその時。
「拓……海?」
 やっと会えたその姿に、息が止まるかと思った。

「電話……」
 言葉を用意していなくて出たのがこれだ。
「え?あ、電話ね。……ごめん、着信に気付いてなかった」
 僕に言われて鞄を漁って携帯を手に取ったから、本当に気付いてなかったんだな。
「来てくれたんだ」
「う、うん」
 い、言わなきゃ。でも何て言えばいいんだ?
「あ」「あの」
 今度は声が被る。どちらも言葉に詰まって、気まずい沈黙ばかりが続く。
「早紀!こんな所にいたのか」
 沈黙を破ったのは瀬名さんだった。
 僕が追いつきたくても追いつけない画家で。だけど、すみません、早紀さんに関して僕は瀬名さんのライバルだ。
「諏訪くん、だったよね?見送りに来てくれたのかい?」
 皮肉だと思った。カッとなった僕は負けじと言葉を返した。
「見送りではありません。早紀さんに好きだと言いに来ました」
「拓海!」
 早紀さんは口元を抑えて真っ赤になっていた。
 瀬名さんはと言うと、面食らった顔をしたかと思ったら、「あははははは‼」。お腹を抱えて笑い出した。
「何が可笑しいんですか!」
「あ、いや悪いね。諏訪くんって意外と度胸もあるし、うん、いいと思うよ。で?早紀は?」
「貴一が聞かないで」
 この流れは、一体何なんだ?
「そうだな。じゃあな、諏訪くん。今度パリに招待するから来るといいよ」
「はい?」
 瀬名さんはそれだけ言い残して、手をひらひらさせながらエスカレーターを降りていった。
「え?あれ?早紀さんは?」
「何言ってるのよ?」
 どういうことだ?瀬名さんは浮き足で去って行った。で、早紀さんはここにいる。お別れを二人でしろということなのか?
「その……早紀さんは、瀬名さんとパリに行かないのかなって……」
「そんなこと一言も言ってないと思うけど」
 僕が(瀬名さんに)早紀さんを好きだと言った時に垣間見た「赤」が、今度は「青」に変わる。何だか混乱してきた。さっきまでは何を眺めてもグレーにしか見えなかったし、それでいいと結論付けていたのに、突然赤や青が飛び込んできた。
「話を、してもいい?」
「あ、はい」
「拓海は、あたしが貴一とパリに行くと思ってここに来てくれたの?」
 思いきり図星をつかれて、うんと頷くことしか出来なかった。
 そして早紀さんのカラーはピンクになった。こんな早紀さんは見たことがない。
「貴一はね、日本へ逃げに来たのよ」
「逃げ……?」
「芸術家によくあるスランプよ」
 ああ、それなら僕にもよく解る。描きたくても納得できる絵を描けるのは数少ない。
「おまけに向こうの恋人にも逃げられちゃったらしくて、それであたしに今更ついて来いなんて馬鹿にしてるわ。そういうところ、全然変わってなくて笑いが漏れちゃった」
「じゃあ、絵画で成功したから早紀さんを迎えに来た訳じゃなくて……」
「そう、寂しかっただけなのよ」
 そうとは知らずに、和也にキスはされるわ、空港の真ん中で叫んだ僕は一体何なんだ?
「でも、ついて来いって言われて動揺はしたのよ?拓海はちっとも気持ちを見せてはくれないし……」
「つまりは僕を試したってこと?」
 あんな思わせぶりなメールで僕を振り回したとしたら、早紀さん、君は本当にずるい。
「そうね、あたし自分に自信なくなってたし、本心を出せなくなってたから、そう思われても仕方ないわ」
 どうしよう、また混濁色の早紀さんに戻ってしまった。
 僕が返す言葉に詰まってしまっても、早紀さんは僕の目を見つめたままだった。
「それでも、あたしが貴一にはついて行かないという答えに揺るぎはなかった。それでもね、もし、拓海がここへ来てくれなかったら、拓海にはもう会えなかったと思う。だから、あたしは……」
 それ以上早紀さんに言わせては行けないと思った。瞬きを何度もして、今にも零れそうな涙を必死になって堪えて、僕に気持ちを打ち明けてくれている。
「僕も早紀さんが好きだよ」

 何かがパンッと弾ける音がした。早紀さんは泣きながら笑っていた。そして堰を切ったように零れ落ちた笑顔の涙がキラキラと光って、それを見た僕は一切の感覚が研ぎ澄まされた。
 僕が早紀さんに見出したかったカラーは「プリズム」を通したものなんだ。ガラスを通して光る七色のカラー。壊れやすくて儚い、一瞬の煌き。
 僕はこの瞬間をキャンバスに描いてみたかったんだ。

 こういう時、テレビドラマだと一目もはばからず早紀さんを抱きしめたりするのだろうな。人の視線を集中させるドラマみたいなことはもう済ませた。今だって泣いてる早紀さんと呆然とする僕とでは、悪者扱いされるのは圧倒的に僕の方だ。
 早紀さんも涙を手で拭って泣き止もうとしている。その手を僕は掴んで、出発ロビーから一目散に去った。
「ちょ、ちょっと拓海!何なのよ、急に!」
「いいから、黙ってついて来なよ」
 泣き足りないって言うなら、後からいくらでも泣かせてあげるよ。まあ、その必要もないかな。急に走らされて、涙も引っ込んだみたいだ。
 あと、ね。ああいう綺麗な涙は僕以外の人に見せたくないと思ったことは、一生誰にも言わない。

エピローグ

「ねえ、あたしのイメージカラーって?」
「教えない」
 それが簡単に分かったら、こうやってパレットの上で混ぜる絵の具のカラーにも苦労しないよ。
「参考までに聞くけど、早紀さんの好きなカラーは?」
「拓海が教えてくれないなら、あたしもひーみーつー」
 ほらね、君もやっぱり分かっていない。

――あれから瀬名さんとは一度だけ電話で話した。
 早紀さんの少女時代の話を少しと、二人の間をかき乱して悪かったと謝罪された。
 謝る必要なんてないのにな。瀬名さんが現れなかったら、僕と彼女は平行線のままだった。
 そして、電話を切る前に、「色彩豊かな人物画が描けるといいな」と言った。それはきっと、瀬名さんは早紀さんを描いても色を付けられなかったことを示唆している。
「じゃあ」と穏やかな声を残して電話は切れた。
 瀬名さんはパリへ招待すると言ってくれたけど、それがいつになるか約束はない。互いの連絡先だけだという細い繋がりは、日常に紛れて見えなくなるだろう。
 そうだな……また思う様に絵が描けなくなった時、僕は瀬名さんを思い出す。その時は僕も今より大人になっている筈だし、パリに旅立つ勇気くらい出せるかな。

 
 キャンバスを広げたまま、海の向こうに思いを馳せている間に、早紀さんは波打ち際へ歩を進めていた。初冬の海にそっと手を入れて「冷たっ!」なんて言ってはしゃいでいる。手に取った海水が、早紀さんの手から零れ落ちてキラキラと光った。
 そのプリズムを通した光を捉えた僕は、モノクロのキャンバスに最初のカラーをのせた。


 僕は君を揺らす優しい「海」になる。

彼女のカラー

彼女のカラー

彼女のカラーを見つけたい――。 美大に通う諏訪拓海は、出会った人にイメージカラーを付ける癖がある。得意とする絵画は風景画だ。そして、人物画は描くとなるとどうしても躊躇してしまう。 男色家かと粉う和也、元彼女の亜沙子、そして海辺の彼女、様々な人のカラーに揺れ動く拓海の心情。 絵を描くことでしか自分の気持ちを表現出来ない不器用な拓海は、色彩豊かな人物画を描けるのか?アイデンティティ(自己同一性)を絵に求める拓海の色探しが、今始まる。

  • 小説
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-06

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