黎明

朱漣

 携帯電話が慄いた。これで四度目だ。
 最初は発表会がはじまる直前で、そのあときっかり三十分おきにかかってくる。
 人目を盗んでそっと着信履歴を確認する。発信者は兄で、用件はたぶん父の容態についてだ。
「……以上で、発表を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました」
 だだっ広い会場にまばらな拍手が起こる。
 漏れそうになる溜め息をなんとか喉元で押しとどめた。『革新的技術』などと謳いながら、蓋を開けてみればどれもこれも『作業改善』に毛が生えた程度のものばかりである。入社十年目でこの活動に携わるようになって五年、前年度のテーマを焼き直したような発表が毎年繰り返される。この程度なら、自分が大学でやっていた卒業研究のほうがよほどマシだ。
「それでは、ここで十分ほど休憩をとります。再開は、十時四十分とします。質疑応答は、そのあとでお願いします」
 隣の席に座る進行役の竹井課長がそう宣言すると、発表を終えたばかりの若手社員の表情が、一瞬だけ歪んだ。休憩は質疑応答が終わってからでもいいではないか、彼の不満が今にも聞こえてきそうだ。たしかにプログラムは十分ほど押していたから、当初二十分の休憩予定を十分に短縮したことには頷けるとしても、発表と質疑応答の合間に休憩をいれるのは少し可哀相な気がした。
 どうするか迷ったが、すでに参席者の何名かは席を立とうとしていたし、発表者の若者も諦めて演壇を下りていたので、結局そのままにしておくことにした。
 手許のリモコンを操作すると、室内がぱっと明るくなった。
 僕は事前に配布された発表資料に、補足説明を書き込んでおくことにした。そうしておけば、議事録の作成が格段に楽になる。
「杉原君、ちょっといいかな?」
 振り返ると、課長のじっと見つめる視線とぶつかった。
「何でしょうか?」
「さっきから何度も電話がかかってきているようだが、御実家からではないのかね?」
「……はい」
 意図的に感情を押し殺した目線をぶつけ返す。
「連絡を取らなくていいのか?」
 僕は書き込み作業に改めて取り掛かりながら、
「大丈夫だと思います。先日、見舞いに帰ったときには元気にしていましたから。それに五月の連休には帰省する予定にしていますし」
「そういう訳にはいかんよ。とにかくすぐに御実家と連絡を取りなさい、いいね?」
 今まで病気らしい病気を患ったことがなく、健康だけが自慢だった父が実家で突然倒れたのは、満開の桜が散りはじめた四月初旬のことである。最近になって腹部と背中に痛みを訴えるようになり、食欲もなく痩せも目立ちはじめたというので、病院へ検査に行こうかと相談していた矢先のことだったそうだ。
 診断の結果は、膵臓癌。ステージⅣ、余命三ヶ月。
 父の症状について、上司には詳しい報告をしていない。ただ、自宅で倒れて入院したとだけ伝えてある。それに休日を利用して実家へ戻ったことにしていたが、実は急報を受けたあと一度も見舞っていない。
 そもそも、最後に実家を訪ねたのは七年前にまで遡る。だが、今回はさすがに無視を決め込むわけにもいかず、仕方なく兄と連絡を取りあって、ゴールデンウィークの帰省を承諾したのだった。
 頻繁にかかってくる身内からの電話が、課長にある種の危惧を抱かせる結果になったことは容易に想像がつく。
「それから、このあとの発表会のサポートは小関君に変わってもらうことにするから、杉原君はデスクで待機しているといい」
 資料に書き込んでいた手を止めて目をあげた。課長の視線を感じていたが、横顔を見せたまま敢えて振り向くことはしなかった。
「わかりました」
 散らばった卓上の資料を手早くまとめると立ち上がる。
「では、お先に失礼します」
 背後で電話をかける課長の声が聞こえた。
「竹井だ。小関君と代わってくれな……」
 会議室の扉が開き、そして静かに閉じられた。

 事務所に戻ると席にもつかずに外にでて、携帯電話を操作する。
「大輔か? やっと連絡がついたな」
 電話の向こうで、ほっとしたような兄の声が聞こえた。
「用件はなに? 親父のことだったら来月には帰るって言っといたと思うけど」
「そうなんだが、少し状況が変わってな……」
 兄は言い淀んだ。
「どうだろう、その前に一度こっちへ戻って来られないか?」
「どういうこと? そんなに悪いの?」
「入院してから痛みは引いたようだし、食欲もだいぶ回復してきて、本人はいたって元気そうにしてはいるんだが……」
 兄らしくなく、物言いにいつもの歯切れがない。
「どうも全身状態がよくないらしい。検査の数値もかなり悪くなっていて、本人に自覚症状がないのが不思議なくらいだと主治医は言ってる」
「それって、間に合わないってこと?」
「そうとは言いきれないが、その可能性もあるということだ」
 僕は携帯電話を持ったまま考え込んだ。
 兄が言いたいことはわかっている。実の父親が余命三ヶ月と知らされていながら、多忙を理由に寄りつこうとしない態度には少なからず不満を抱いているだろうし、父親が元気なうちに拗れた仲を取り持ってなんとか和解させたいとも考えているにちがいない。
 しかし、やはりあの一件以来、僕は前と同じ気持ちで父に接することはできなかったし、それは余命宣告を聞かされた今でも変わりはしない。
「おい、聞いてるのか?」
「聞いてるさ。だけど、いますぐには答えられない。帰って相談してみるよ。返事は明日まで待ってもらえない?」
「……とりあえず、お前だけでも都合つかないのか?」
「どういう意味だよ?」
 思わず口調が荒くなる。
「すまん。気をわるくしたのなら謝る。しかし……」
「とにかく、すぐには返事できない」
「……そうか。それじゃあ、明日、返事をしてくれ。頼ん……」
 話の途中で僕は電話を切った。

「だから言ったじゃない、お見舞いには出来るだけ早く行ったほうがいいって」
 妻が夕食の献立を手際よく食卓にならべながら言った。最後にご飯をよそった茶碗を置いて、向かいの椅子に座る。
「おっ、今日はトンカツか。久美さんの料理はいつも美味いから、ついつい食べ過ぎちゃうんだよな。これ以上、太らないようにしないと」
「ごまかさないでよ」
 話を逸らそうとした作戦はあえなく失敗した。
「それで、どうするの?」
「どうするって?」
「もちろん、行くんだよね?」
 行かないなんて言わせない、無言で語りかけてくる妻の強い眼差しに気圧されて、僕はちいさく頷いた。
「さすがに断るって訳にはいかないでしょ。ただ……」
「どうかした?」
「自覚症状がないのに状態が悪化しているって……、何だか腑に落ちなくてさ」
 見舞いに来させるために少し大袈裟に話しているのかと疑ってもみたが、それだと帰省を予定している二週間を待てない理由がわからない。
「それってよくあることなのかな?」
 ひと回り年上の妻は、二十年選手の看護師だ。結婚当時、小学六年生だった妻の連れ子は、この春から東京の大学に通っている。息子との親子関係はうまくいっているが、その代わりに結婚に大反対だった父とは拗れたままだ。
「そうね、主治医の先生から話を聞いてみないと何とも言えないけど、可能性としてなくはないと思うわ。でも……、自覚症状がまったくないっていうのはどうかな。お義父さんはきっと我慢なさってるんじゃないかしら」
 そうかもしれない。人に弱みを見せることを極端に嫌う父である。多少の痛みや苦しさは、口にしないし態度にもださないだろう。
「わたしも一緒に行きたいけど、大型連休にシフト調整してもらってるから、あんまり無理は言えないのよ。だから今回は、大輔くんが一人で行って来てくれると助かるんだけど」
 入社して三年ほど、僕は交替制を敷いた製造現場に配属された経験がある。だから、そういう職場のシフト調整の難しさは理解しているつもりだ。勤務歴が長い妻は、希望すれば日勤のみの勤務形態を選択することもできたし、実際にそういう話も何度かあったようだが、彼女はその度に断っていた。患者に寄り添った看護を信条としている妻にとって、管理職を兼務することで、その距離感が微妙に変わってしまうというのが理由だった。
「わかったよ。明日、休みを貰っとくよ。明後日は金曜日だし、見舞いに行くにはちょうどいいしね」
 そう言って、僕は揚げたてのトンカツに齧りついた。

 実家までは、車で三時間ほどの距離だ。以前はよく通った道だったので、久し振りに車を走らせていると何だか懐かしい気がした。季節を刻む銀杏並木もむかしのままで、今は初夏の陽射しを浴びながら碧色に芽吹いている。
車窓を流れ過ぎていく景色は、あの頃とほとんど変わりない。変わったのは、遠く離れてしまった父との心の繋がりと、父の人生の執着駅までに立てられた里程標の数だけだ。
 父が入院している市立総合病院は、海が見える小高い丘の中腹に建っていた。
 病室の前で立ち止まる。四人部屋の入口に取りつけられている名札入れには、『杉原敬三』と黒マジックで書かれたネームプレートだけが挿し込まれてあった。
 ひとつ、深呼吸をして中に入る。手前にある人気のない二組のベッドをやり過ごす。父の病床は窓際奥の右手にあった。
 父はスポーツ新聞を大きく広げて読んでいた。顔は隠れていて見えない。かえって読みにくいのではと思うのだが、そうやってかざすようにして新聞を読むのが父の癖だ。
 枕元のパイプ椅子に腰かけて、母がリンゴを剥いていた。最後に会ったときよりも白いものが目につく髪がほつれて、汗ばんだ首すじに張りついている。
「……久し振り」
 声をかけると、母が顔をあげた。新聞がちいさくガサリと音をたてた。
「大輔……。あんた、元気しとったんね?」
「うん、まあ」
「何年振りになるとかねえ?」
「……さあね」
「久美さんは、お元気ね? まだ、看護婦さんばしとらすとやろ?」
「うん。元気にしてる」
 七年の歳月を埋めようとする母との会話は、ぎこちなく躓きがちだ。
父は新聞を黙ってひろげたまま、こちらを見ようともしない。病衣の裾から、ごつごつと骨ばった足が覗いていた。
「立っとらんで、こっちに来て座らんね」
 壁際に置かれていたパイプ椅子を引き寄せ、手招きしながら母が言った。
「うん」一歩を踏み出そうとした瞬間だった。
「何ばしに来たとか?」
 新聞越しに父の声が聞こえた。少し嗄れた感じはしたが、張りのある力強い声色はむかしのままだった。
「何ば言いよっとね。お父さんのこつば心配して、見舞いに来てくれたとやがね」
「誰も頼んどらん」
 父は言い放った。
「お父さんっ! そげんこつば言うもんじゃなかよ」
 母はおろおろして、二人を交互に見やっている。
「忘れたとか? あん時、言うたはずぞ。お前とは二度と会わんち」
 父は手にしていた新聞をおろした。目が合った。その瞬間、僕は踵を返していた。
「待たんね、大輔!」
 背後で母が椅子を蹴立てて立ち上がった気配がした。
 構わず病室を出て、もと来た廊下を引き返す。
「追いかけんでよか!」
 父の声が聞こえた。
「また、来んばんよ。待っとるけんね!」
 僕は懸命に呼びかける母の声を背中で聞き流した。ナースステーションの前を通って、突き当たりのエレベーターの昇降ボタンを押した。母が廊下に出て見送ってくれているのはわかっていたが、乗り込んで扉が閉まるまで振り返ることはしなかった。
 母はきっと、僕の退室を父の態度が招いたものだと思い込んで、ひとり気を揉んでいることだろう。だけど、事実はそうじゃない。
 艶のない寝乱れた白髪、落ち窪んだ眼窩、こけて尖った頬、荒れて血が滲んだ唇……、想像以上に変わり果てた父の姿に、僕は怯んだのだった。
 
 父の容態が急変したとの知らせを受けたのは、それから三日が経った月曜日の夜遅く。夜勤の妻と連絡を取ろうとしたのだが、ようやく電話にでた看護師が申し訳なさそうに告げた。国道で大型トレーラーとバスの衝突事故があって、病院では続々と運ばれてくる怪我人の対応に追われているという。妻は、始まったばかりの緊急手術の助手としてオペ室にいた。
 妻にはこちらの状況を携帯メールで知らせておくことにして、僕は先に自分だけで向かうことに決めた。応対にでてくれた看護師に伝言を頼んで電話を切った。
 居間のテーブルに置かれていた携帯電話を取り上げてガレージへ急ぎながら、妻へ送るメールの文面を起こす。
『父、危篤。先に病院に向かいます。久美さんも出来るだけ早く来てください。』
 送信ボタンを押そうとして、ふとその手を止めた。
 このメールを妻が目にするのがいつになるのか、それはまだわからなかったが、その時には公共の交通機関は止まっていて、流しのタクシーも拾えない可能性が高い。
 僕は運転席で少し考えて、『悪いけど、急ぐので車を使わせてもらいます。』そう付け足してメールを送った。
車に乗り込んでエンジンをかける。
 妻ができるだけ早く駆けつけてくれることを祈るしかなかった。

 夜の病院は静かだった。前回は外来患者でごった返していた待合室も、いまは人気がなくがらんとしている。規則正しく並べられたたくさんのロビーチェアが、常夜灯にぼんやりと照らされていた。かえって片隅に置かれた自動販売機の電照板の明るさが目を引いた。
 停止しているエスカレーターの階段を上がって二階へ行くと、そこからエレベーターに乗り込んで行先ボタン[7]を押す。手にしていた紐付きカードケースを首に掛けた。時間外受付の窓口で手渡されたもので、中には黒マジックで〝8〟と書き込まれただけの厚紙が入っていた。この数字が多いのか少ないのか、僕にはよくわからない。
 エレベーターの扉が開くと、白いリノリウムの廊下が左右と正面に続いている。左手は手前がナースステーション、その先は個室病棟だ。右手には浴室やシャワールーム、共同トイレ、洗濯室などが連なり、最奥には休憩室が設けてあった。4床室や6床室などの一般病棟は正面の廊下沿いにならんでいて、父の病室は一番奥の右手だ。
 薄暗い廊下正面の奥、父の病室から漏れる明かりが床を照らしていた。それはどこか幻想的ですらあった。あの柔らかな光のなかで、父はいまにも旅立とうとしているのだろうか……。病み衰えていたとはいえ、数日前の父からは想像もできなかった。僕を叱りつけた声には張りがあったし、落ち窪んだ眼窩の底から見上げた眸にはまだ力強さが宿っていた。気持ちの整理がつかないまま、しばらくエレベーターの前で立ち尽くす。
 その時、光が揺れた。
 病室から出てきたのは兄と義姉、それから母だ。足元がおぼつかない母を、兄夫婦が両脇から支えるようにしてゆっくりとこちらに近づいてくる。母は後ろを振り返って、何かをしきりに訴えている様子だった。気にはなったが、大きな声をだすわけにもいかない。僕は足早に歩み寄った。
「何でわたしば連れだすとね? お父さんの傍におらんと……」
 近づくにつれて、母の声が耳に入ってくる。
「大丈夫だって、看護師さんに付き添ってもらってるから。そんなことより、少し休んだほうがいいって」
「お父さんば、ひとりにはでけんばい」
 母の苛立ちと困惑が入り混じった声が、静かな廊下に響いた。薄暗がりのなかに見える顔にも声と同じ感情が窺えた。
「どうかした?」
 声をかけると、三人が顔をあげた。
「大輔か。さっき、オフクロが病室で倒れてな」
 兄は、そう言って母を気遣わしげに見やった。
 義姉は、黙って醒めた会釈を送って寄こす。
 母は、僕の姿を認めると表情を和らげた。
「……大輔、来てくれたとやね。お父さんもきっと待っとらすよ」
 母の気持ちがいくぶん和らいだのを見てとって、兄が諭すように言い募った。
「オヤジのことはしばらく大輔に任せて、オフクロは休憩室で休ませてもらおう、な。……大輔、あとは頼んだぞ。休憩室はすぐそこだから、何かあったら知らせてくれ」
「わかった」
 そのとき、兄はふと気づいたように捜すような視線をぼくの背後に向けた。
「ところで……、久美さんはどうした?」
「急な手術が入ってしまって、どうしても一緒には来られなかった。だけど、もうこっちに向かっていると思う」
「そうか。間に合ってくれるといいんだがな……」
 兄夫婦は、まだ未練がましく病室のほうを振り返る母を半ば強引に連れ去っていった。
 三人の気配が遠ざかったあと、改めて病室の明かりに目を向ける。廊下にこぼれる洩光が、いつのまにか現実感をいや増した。
 僕は意を決して、父が待つ病室へと一歩を踏み出した。

 小柄な看護師の背中が見えている。父に覆いかぶさるようにして、何かの作業に没頭しているようだ。父の顔のあたりで処置を施してくれているみたいだが、華奢な背中が死角になってよく見えなかった。
 枕元に持ち込まれたモニターに映し出されているのは、数字や波形などの単調な幾何学的記号に過ぎない。しかし、それは父が最後の力を振り絞って、懸命にもがき闘っている証しでもあった。
 足許を回り込んで窓際に移動すると、僕は父の容貌と若い看護師の所作に目を瞠った。
 痩せて尖っていた頬はさらに削げ落ち、頭蓋骨の輪郭すら透けて見えそうなほどだった。口をちいさく閉じたり開いたりしながら、わずかに首を上下させて、浅い小刻みな呼吸を繰り返している。ぼんやりと開かれた目は虚空に向けられたままだ。その白く濁った眼球が映じているものは、もはや同じ世界のものではあるまい。
 看護師は父の瞼を閉じてやろうとしているようだった。包帯やガーゼを固定するときに使う肌色の粘着テープで、左眼の上下の瞼が丁寧に貼り合わせてあった。彼女は右眼に取り掛かろうとしたところで、ようやく僕に気づいた。
「……どなたですか?」
「息子です。父が世話になってます」
 この期に及んでの挨拶にしては間が抜けている気もしたが、初見なのだから仕方がない。若い看護師は少し考えこんで、それから思い当たったように大きく頷いた。
「ああ、弟さんですか?  間に合って良かったですね」
 看護師らしい優しい微笑みを投げかけたあと、彼女は改めて父の右瞼を閉じる作業に取り掛かろうとした。
 父は生きようとする精一杯の努力も空しく、死への誘いにゆっくりとしかし確実に歩み寄ろうとしている。瀕死の父の傍に近づくことが、まだ認めたくはない現実を突きつけられているようで恐ろしかったが、それでも僕には話さなくてはならないことがあった。その機会は今しか残されていない。
「しばらく、父と二人だけにしてもらえませんか?」
 何かに急かされるように、僕は身をかがめる看護師に向かって言った。
 彼女は再開しかけた作業を中断して探るような目線を注いでいたが、それでも一応は納得してくれたようだった。
「患者さんの状態はナースステーションでもモニタリングしているので問題ないと思いますけど、何かあったらすぐに知らせてください」
「わかりました」
「杉原さんは昏睡状態ですが、最後まで聴覚は保たれているはずですから、たくさん話しかけてあげてください。……きっと聞き届けてくださると思いますよ」
 そして胸ポケットからちいさなメモ帳を取り出して何かを書きつけると、僕に向けてそれを示してみせた。そこには若い女の子らしい丸っこい文字で、『もうあまり時間はないかもしれません』と記されていた。
「三十分ほどしたら、ご家族をお連れして戻って来ます。それまで、よろしくお願いします」
 彼女はそう言い残して、病室を出て行った。
 枕元に置かれた椅子に座ると、父の手を両手でそっと包み込む。
 父との大切な時間は、あといくらもない。
 悔恨の念が込み上げてくる。叶えてあげたかったことがいくつもあった。
「……父ちゃん、ごめん。もう時間がなかとよ」
 右手で父の手を握ったまま、左手を伸ばして額に手をあてる。湿った肌触りと消え入りそうな温もり。途端に僕のなかで父に対するたまらないほどの愛しさが湧きあがってきて、涙が止まらなくなった。
 東京見物、連れて行ってやりたかったばい。配管工の見習いとして住み込みで働いとった、下町界隈ば歩いてみたかったとやろ? その頃は、東京タワーがまだ半分だけしか建っちょらんかったち言いよったよね? 筆不精の父ちゃんが、〝日暮里の大将〟だけには年賀状ば欠かさんだったもんね。
 父ちゃんは旅行好きやけん、そのうち母ちゃんと二人で旅行に招待するつもりでおったんよ。ばってん母ちゃんは出不精やけん、結局は近場の温泉に落ち着くとやろね。そう言えば新婚旅行で泊った老舗の温泉旅館が車で二時間で行かるる処にあるち言よったろ? そこに泊まるともよかかもしれんね。
 この前、仕事でギリシャに行ったとばい。酒が大好きな父ちゃんにち思って、ウーゾ(Ouzo)ち言う現地の酒ば買ったとよ。父ちゃんの口に合うかどうかはわからんばってん、いつか一緒に呑みたかったばい。水と混ぜると白く濁ると、おもしろかろ?
 泡沫のように浮かんでは消えていく数々の想いは、父の残された時間を埋めるにはどれも希薄過ぎた。できなかった後悔など、生きていく者が背負っていけばいい。
 去りゆく者にしてやれることは限られている。せめて安らかに旅立たせてやりたかった。
「母ちゃんのこつは、なんも心配せんでよかよ。兄ちゃんと二人でちゃんとするけんね」
 父は最後まで精一杯生きようとしている。わずかな時間を前向きに。その先にある父らしい終止符を見届けてやりたい。
 僕は父の額を優しく撫でてやりながら語りかけた。
「父ちゃん、よう頑張ったね。ばってん、まだ逝ってしもたらいかんよ。もうすぐ母ちゃんが戻って来るけん、それまで頑張ろうな」
 死んで欲しいわけでは決してない。だけど、矢尽き刀折れた姿を見せられたとき、僕のなかに芽生えた感情は〝ご苦労さん、もうよかよ〟だった。
 ふと見ると、父は穏やかな表情を浮かべていた。薄く開かれていた右の瞼も今は静かに閉じられている。
 その瞼の奥で父が目にしているものは何だろう。
 暗闇の中、遠くに見えている光。生きるために身に纏っていたすべてのものを脱ぎ捨てるにつれて輝きを増していく。光が近づいているのか、自分が向かっているのか。やがて素朴で優しい光に包まれて……。

 携帯電話が鳴った。ディスプレイを確認する。発信者は妻だ。通話ボタンを押した途端、妻の声が飛び込んできた。
「いま何処にいるのよ?」
「屋上だよ。ちょっと外の空気が吸いたくてさ」
 僕は朝焼けの空を見上げながら言った。海が見える丘の上に建つ病院の屋上からの眺望は、一面が朱色のモノトーンで染められている。眼下には半円型の広場とそこから続く桟橋に繋留された、たくさんのヨットやクルーザーが揺らめいていた。どこからか車の往来が奏でる丘下の喧騒が低く響く。遠くへ視線を転じると、海岸線に沿って建ちならぶ工場群の処々に林立する煙突が、吐き出す煙を静かにたなびかせている。
「探したわよ。こんな処にいたのね」
 振り返ると、疲れた顔に淡い笑みを咲かせた妻が立っていた。妻は結局、父の臨終に立ち会うことは叶わなかった。彼女が病院に駆けつけたとき、父が亡くなってすでに一時間あまりが経っていた。
「これ、お義母さんから。大輔くんからお棺のなかに入れてあげて欲しいんだって」
 言いながら差し出された妻の手には、使い古されたボロボロの革財布があった。型崩れが著しい焦げ茶色のそれは、そこかしこで裏地が剥き出しになっていた。ひび割れが目立つ表面は、年齢を重ねた人間の肌のようだ。
「お義父さんの宝物だったんですって。入院中も枕の下に置いてらしたそうよ」
 僕は黙って受け取った。ザラザラした手触りが指先にまとわりつく。それは僕が最初にもらった給料で父にプレゼントしたものだった。
「わたし……お義父さんに最後まで会ってもらえなかったこと、ずっと心残りのままだと思う」
 妻がぽつりと言い置いて背を向けた。
「……もうすぐ、お迎えが着くそうよ」
 暁闇の空をもう一度だけ見やる。朱く色づいていた空は澄んだ朝の空気に希釈され、地平線から顔を出した太陽が、周囲に多彩な色合いをもたらしつつあった。
 明日も明後日も……。陽は昇り、また、陽は沈む。
 もう手が届かないと思っていた父との隔たりは、七年前と何も変わってはいなかった。自分の心の在り様が、指呼の間を遠い彼方に見せていたに過ぎない。父との絆は、日輪の営為の如く不変だった。
 ――父ちゃん、ありがとう。
 心のなかでそっと呟く。
「どうしたの?」
 着いてくる気配がないのに気づいて妻が足を止めた。その横顔は少しやつれて見えた。
 僕は軽く手を振って妻に歩み寄ると、
「今日は、いい天気になりそうだな」
 さして返事を期待するでもなく呟いた。
「そうね」
 妻の答えも期待にたがわず素っ気なかった。

黎明

黎明

第53回 北日本文学賞二次選考通過作(三次選考落選)。原稿用紙30枚。 北日本文学賞は、三十枚という規程があって、この作品では想いを書き切れませんでした。あまっちゃった想いを原稿にしたくて、リライト挑戦を模索中。「笑えぬ道化師」という作品に生まれ変わる予定です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
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