君の声は僕の声  第三章 9 ─陽大─

君の声は僕の声  第三章 9 ─陽大─

陽大

  ──誰かが泣いている。膝を抱えて泣いている。あれは──僕。そうだ。まだ小さな頃。川で遊んでいて足を捻挫したときだ。兄(にい)が父さんを呼んできて、父さんが僕を家までおぶってくれた。父さんの大きな背中で僕は安心してそのまま眠っちゃったんだ。

 ──父さん

  目が覚めた。

  夢だと気づいて起き上がると、聡の耳に泣いている声が届いていた。夢は覚めたはず……。誰? 兄(にい)? いや、違う。ここは家じゃない。ここは、KMCの寮。杏樹だ。杏樹が泣いている。

  聡は気づかないふりをしようとそっと横になろうとした。

 ──耐えられないほどの苦痛

  秀蓮の言った言葉が頭をよぎった。

  泣いているのは『心』なのか。聡はそっと杏樹に目をやった。杏樹は壁のほうを向いて、しゃくりあげながら泣いていた。怖い夢でも見ているのなら起こしてあげようか……。
 聡はベッドからおりて杏樹の肩に手を置いた。

「杏樹」

 名前を呼んでみる。杏樹は泣き続けた。聡はためらいながら「心?」と小さく呼んでみた。
 すると杏樹は振り向いた。涙で濡れた大きな瞳で聡を見上げた。聡は頭では信じられなくても、この子は『心』だと感じた。

「どうしたの? どこか痛いの?」

 小さな子供に語りかけるように聡はゆっくりと訊ねた。心は聡に警戒することも怯える様子もなく、小さく首を横に振った。

「誰かに怒られたの?」

 心の表情が恐怖にひきつった。聡は心を抱き起こし「大丈夫だよ。もう誰も怒ってないから」と、心の肩をそっとなでた。心が泣きやむまで、聡はベッドに座り、心の肩を抱きながらなでてやった。

 心の呼吸が落ちついてきたので聡は心にささやいた。

「マリアに聞きたいことがあるんだけど、マリアはいる?」

 心は聡の腕に頭を埋めながらこくりとうなずいた。すると心の頭が力なく垂れた。聡は緊張して唾を呑みこんだ。しばらくして杏樹が頭をあげ聡を見上げた。自分が聡の腕の中にいることに驚き、杏樹は顔を赤らめて、聡の腕から逃れるようにゆっくりと聡の胸を押した。

 聡はおそるおそる杏樹の表情を確認するようにのぞき込んだ。

「マリア?」

 聡は目の前の変化に疑いを持ちながら名前を呼んでみた。すると杏樹の表情がぱっと明るくなり、「そう、私はマリア。夕べの話、信じてくれたの? 私、マリアって呼ばれたのは初めて」と、目を輝かせた。

 聡は返事に困った。その目は確かに今まで泣いていた心のそれではない。それはわかる。だが、杏樹の顔で「私はマリア」と言われて、「はい、そうですか」というわけにはいかない。まだ信じたわけではない。だが、あきらかに杏樹が少年の顔つきなのにたいして、マリアは同じ顔でも少女の顔つきなのだ。男が女のように振る舞おうとすると、たいてい必要以上に科をつくり媚びた表情になる。だが『マリア』にそれはない。母親のような優しい瞳と、どこか大人ぶるような勝気な瞳が同居している。それは少年ではありえない、少女の瞳だった。

 とりあえず、秀蓮が言っていたように、マリアが知っていることを聞いてみようか。でも、何から聞こう。いきなり杏樹の傷に触れるようなことは聞けない。こんなことなら、櫂にどう誤解されようとも、秀蓮にいてもらうのだった……。

 聡が何をどう聞いたらいいのか迷っていると、マリアが口を開いた。

「私に何を聞きたいの?」
「えっ」
「心が教えてくれたの」

 マリアの言っている意味を聡は一瞬考えた。

「心と……話しができるの?」

 聡は自分で自分の言ってることが信じられないまま、そうマリアに聞いた。

「いつでも話せるわけではないけど、今、心は起きてるから教えてくれたの」
「起きてる?」
「そう、今はね。たいてい私たちは、こうして外に出ていない時は眠ってるの。眠っていない時は、ただ見ていたり、本を読んでいたり。絵を描いたり……」
「ねえ、『私たち』って言ってるけど、君たちは何人いるの?」
「私が知ってるのは、心と純と陽大と玲だけ、他にもいるって玲が言ってたけど。玲が私たちのこと一番知ってる」 

 聡は疑いながらも、マリアの話に引き込まれていた。

「杏樹は? 誰が本当の杏樹なの?」
「本当の杏樹なんていない。私たちは杏樹のにせものじゃないから」

 マリアの口調がきつくなった。

「──ごめん。だけど、杏樹って名前の子はいるんだよね?」
「杏樹はいるけど、眠ってる。ずっと」
「ずっと?」
「玲が眠らせてるの」
「どうして……」
「杏樹が目を覚ますと、あの子はパニックを起こすの。あの子は私たちのことを知らないから」
「知らない!? それじゃあ、君たちが出ているときのあいだ、杏樹は……」
「記憶を失ってるの。私たちも記憶がとぶけど、他の誰かが時間を盗ったんだとわかってるから、他の誰かに聞けばわかる時もあるし、わからない時もある。でも杏樹はそれも知らないの」

「…………」

 それはすごく怖いことだと聡は思った。自分が知らないあいだに、自分の知らない誰かが自分の体で何かしているということだ。麻柊が話してくれた、あの浴室での事件。例えば、気付いたら目の前に血を流した人間が倒れていた……ということだ。パニックを起こさないわけがない。マリアにとっては当たり前の事のようで、マリアは普通にお喋りをするように聡に話した。聡には冷静に受け止めるのは難しかったが、あまりに現実から飛躍しているせいか、マリアの調子に合わせ、湧いてくる疑問をぶつけた。

「杏樹は一度、死のうとしたの。玲が強引に止めなかったら、私たち、みんな死んでたの。だから玲が眠らせてるの」
「僕は杏樹に会ったことがあるのかな?」
「ないと思う。杏樹はここに来るまえから眠ってるから。ここに来てからは、たいてい仕事をしているのは純。彼は器用に何でもこなすけど、あまり笑ったり、怒ったりしないの。人と話しているのはたいてい陽大。彼は人と交わるのが好きで、とても話し好きだから」

 聡は、なんとなくふたりのことはわかるような気がした。だけど、泉で杏樹を見てしまったときの、あの冷たい目の少年は誰だろう。

「マリアは心と仲がいいの?」
「私が初めて目を覚ましたのは、心に呼ばれたからなの」

 聡が眉をひそめて首をかしげた。マリアは、わかりやすく説明しようと考えていた。そのマリアの様子を見ていて、聡はいつのまにか杏樹ではなく、相手をマリアとして話をしている自分に気づいた。

「心が泣いていると私は辛いの。みんな、心が泣いていても知らんぷりだから、私が心を慰めようとしたの、そしたら心は眠ってしまって、気がついたら私は自分の足で歩けるようになっていた。自分の口で話せるようになっていたの」

 マリアが、わかる? と言いたげに聡の目をのぞき込んだ。聡はすぐに声が出なかった。「あ、あう……ん」とりあえずうなずいておいた。マリアの言うことが理解できずに何をどう聞いていいものか迷う。聡は目をおよがせながら言葉を探した。

「心はどうしていつも泣いているの? 何をあんなに怯えているの?」

 聡はマリアの反応をみながら、できるだけ優しく、ゆっくりと訊ねた。

「心は痛みに敏感なの。杏樹が酷い目にあうと、杏樹の痛みを感じて心が痛みを引き受けるの」
「杏樹が酷い目にって、どんな酷いことにあうの? 誰がそんな酷いことをしたの?」

 聡の声がふるえた。

「私は……わからない。ただ、心が泣いているから、私は出て行くだけ……」

 マリアの目がとろんとしている。また別の誰かが出てくるのか? 聞きすぎてしまったのだろうか。もしも泉で会った少年が出てきたら……。じっと息を凝らしていると、マリアは聡に寄りかかり眠ってしまった。時計を見ると五時を回っていた。    

 聡はほっとして、大きくため息をついた。緊張して体に変に力が入っていた。杏樹をベッドに寝かせると、自分もベッドへもぐりこんだ。

 翌朝ふたりは、慌てて駆け込んできた流芳に揺さぶられても、目を覚まさなかった。


 杏樹が茫然と突っ立って机の上の時計を見ている。

「おはよう」

 目を覚ました聡が声をかけると「ああ、おはよう」と聡を見ずに返した。

「なんでこんな時間なんだ……。なんで|誰も (・・)仕事に行かなかったんだ? 何で|誰も (・・)起きなかったんだ!?」

 そう言って、はっとして聡を見た。

「おまえも起きなかったの? こんな時間じゃあ朝飯も、もうないな」

 杏樹が不満そうにため息を吐く。ふたりで明け方まで話していて寝過ごしたことを知らないようだった。
 杏樹は窓を開けた。太陽が高く、気持ちのいい風が吹きこんだ。

「いい天気だなあ。なあ聡、せっかくだから遊びに行こうよ。ボートでも乗ろうか」

 風に揺れるカーテンの中、屈託のない少年の顔で杏樹は言った。

 湖までの小道を、杏樹は鼻歌を歌いながら手に持った枝で周りの木や茂みを軽く叩きながら歩いている。この少年は陽大(はると)だろうか? 聡はどう対処したらいいのか悩んでいた。聡の悩みをよそに、杏樹は無邪気に聡に話しかける。ボートに軽々と飛び乗ると「おいでよ」と聡に手を差し出した。天使の笑みにつられて聡は自然に手を取ってしまった。杏樹が慣れた手つきでオールを漕いだ。

 水面を渡る風を気持ちよさそうに頬に受けている杏樹は、夕べの『心』や『マリア』とはまったく別人だ。誰だって気分次第で表情は変わるが、表情が違うだけではない。ちょっとした仕草や笑い方も違う。オールを漕ぐ手つきで気づいたが、この少年は左利きだ。

 聡がじっと見つめていても気にせずに杏樹が喋りはじめた。

「僕はこの湖が好きなんだ」と、ひとりでもよくここへ来ることや、みんなで釣りをすること、透馬が一番大きな魚を釣ったことを聡に語って聞かせた。それから、夏にはこの湖のほとりにテントを張ってキャンプをし、花火や肝試しをしたこと。肝試しでは、みんなを驚かそうと森の中に隠れていた麻柊が、本物の幽霊を見たと言って猛然と逃げてきて湖に落ちたことを、麻柊の真似をしながら話した。それがあまりにも似ていたので、聡は腹をかかえて笑った。ふたりの笑い声に、驚いた水鳥たちがいっせいに飛び立ち、揺れる水面に反射する光がふたりの頬を輝かせた。

 こんなに笑ったのは久しぶりだった。杏樹の巧みな話術にすっかり魅了されてしまっていた。そういえば、杏樹は食事のとき特定の友達と食べることはない。いつも違うグループに顔を出し、会話の中心にいて笑いを起こしていた。この杏樹とならいつまでも話していたいと思える。あんな事件を起こしたあとに、みんなと一緒にいられるのも、流芳が「杏樹はいい奴だよ」と言っていたのも納得できた。

 湖からの帰り道でも杏樹はよくしゃべった。寮の少年の話になると、かならず真似をしながら話す。それが特徴をよくとらえていたので聡は感心しながらも、涙を流して笑った。

「誰かいる」

 泉を通り過ぎようとして、泉のほうを見ながら杏樹が言った。聡は杏樹の視線を追ったが、茂みで何も見えない。杏樹は茂みをかき分けながら入っていった。

君の声は僕の声  第三章 9 ─陽大─

君の声は僕の声  第三章 9 ─陽大─

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-03

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