夜空に沈む
魔女になりたかった少女の儀式につかわれた、誰かの靴。
夜は深い。
深い、海のようだと思った。
いつもやさしい恋人が、ときどき、乱暴になるのは、わたしが詩的に物事を表現して、恋人曰く、アタマノオカシイヤツって感じがして自分の恋人がそんなのは嫌だ、ということなのだった。恋人の平手打ちは、でも、痛くはなくて、痛いというより、やんわりと痺れるようだった。恋人に叩かれるのは勿論、かなしいのだけれど、けれどもやっぱり、夜は深い、深い海の底のようなので、空気が澄んだ冬の夜空には魚が泳ぎ、ちらちらと銀色に光るのがわたしには見えた。見えないのが当たり前だと、恋人は云った。
「わたしにも見えるよ」
少女は魔女になりたかったのだけど、諸々の事情でなれなかったそうだ。
諸々の事情の内容は教えてくれなかったけれど、あきらめずに魔女になる勉強をしていると少女は話してくれたので、わたしも恋人とのことを少女に打ち明けた。少女はわたしよりもうんと年下であるはずなのに、ふいに見せる仕草や、言葉に滲む力強さに幼さはまるで感じなかった。
今日も夜空には魚たちがいて、あちらこちらで銀色の光が点滅していた。光は星ほど小さいのだけれど、おそらく星よりも地球に近いところを泳いでいるから、星よりも鮮明に輝いてみえた。スマートフォンが恋人からの着信を知らせたので、棄ててやろうかと思った。わたしと少女は、歩道橋の上にいた。二十四時に行き交う車は少なく、こんな時間に少女が外にいていいのかなと思ったけれど、身長はわたしよりも二〇センチくらい違うだろうに、少女はわたしよりもりっぱな大人のようだった。
少女が着ているワンピースは夜よりも深い色をしている。
深海よりも深いところ。
そんなところはないかもしれないけれど、あってもいいかもしれない。
恋人からの着信を無視して、わたしはスマートフォンをトートバッグにしまった。
初期設定のままの着信音が鳴り続いているけれど、少女はなにも言わなかった。なにごともないように、少女は白い息を吐きながら、天に向かって指差した。
「あれはたぶん、ラブカ。そっちはきっと、リュウグウノツカイ」
少女が儀式につかった靴が誰の靴かは、なんとなく想像ができた。
おかあさん。
魔女になる勉強をしていると話してくれたときに少しだけ、おかあさんを忌み嫌うような発言があった。少女の年頃で、おかあさんに対して辛辣な、おかあさんという存在を否定するような言葉が、仄かに色づいた薄い唇の隙間から零れたことに、わたしは、ひっ、と思った。けれど、家庭事情はひとそれぞれだからと、わたしは黙っていた。
リュウグウノツカイって、なんだかかっこいい。
わたしがそう呟くと、少女はわたしの顔を見上げて、あやしく微笑んだ。
かっこいいよね。
少女が頷いて左耳の三日月のチャームがついたイヤリングが、揺れた。
夜空に沈む