フニクリフニクラ 1
本作品はフィクションです。
人名、地名、作品名などが数多く登場しますが、一切関係がありません。
高尾山を登られる際には、事前情報を
http://www.takaotozan.co.jp/(高尾山電鉄HP)
などで収集し、無理のない登山を楽しんでください。
「レイちゃん的に、どの辺がいいの?」
「やっぱり、一生懸命努力してるところ!」
「え? 努力?」
「うん」
「ディオって、完璧な悪じゃないの?」
「ううん、全然完璧とはほど遠いって」
「強いし、切れ者のイメージがあるなぁ」
「それは、ディオ様が頑張った成果だって。ほら、時間停止だってエンヤ婆に言われて練習してたでしょ?」
「うん」
「ディオ様は、あんな感じで毎日練習して、打倒! ジョースター家を目指してるの。それこそ毎日、毎日」
「毎日練習? 変な絵が思い浮かんじゃった」
「どんなの?」
「目に力を入れて体液を遠く飛ばす練習。タルカスやブラフォードに的を持って貰ってて、そこに当てるぅ! バ、バリッ、バッ」
「高圧の体液を目から発射する! 名付けて、スペースリパー・スティンギーアイズ!」
頭の中では、完全にアニメの子安さんの声が鳴り響くけど、ディオ様や吸血鬼たちの様に目から高圧力体液は出せないから、指でミュウをつつく。
「もう、レイちゃん」
「あはは、ディオ様最高……」
顔から火が出るって、今の私がまさにそれ。
同時に、自分への嫌悪感に胸がつぶされそうだ。好きなこと話しているとすぐに周りが見えなくなる。ディオ様の話題で一気にテンションがマックスになったところで、ここがいつも雑談をしている理科室前のベンチ兼収納じゃなくて、終点の一個手前、高尾駅で急に混み始めた電車の中だと気がついた。無論、周りの大人達が私たちのことなんか気にするはずがないし、自意識過剰になっているのがわかっていても、変なものを見る目で見られているような気がする。
ミュウは、そんな私に気がつく様子もなく、いつもの笑顔だ。
「レイちゃん。ディオの元ネタになった人の曲買ってみたの。聞いてみる?」
「元ネタ?」
「うん。古い洋楽」
アウターのポケットの中からスマフォとイヤホンを出すと、「はい」とイヤホンの片方をわたしてくれた。私は周りの視線から逃げ出すように、そのイヤホンを耳にする。
もちろん、ジョジョの登場人物やスタンドの名前とかが、洋楽から取られていることは知っている。だけど、ディオ様に元ネタがあるとは思わなかった。ディオはイタリア語で「神」を指すと言うのを誰かから……多分ミュウから聞いて、荒木先生はやっぱりすごいと思っただけだ。
曲は、最初、重々しいエレキギターの旋律とそれに合わせたドラムスで始まった。私が興味を持てない曲だって聞いて五秒でわかるけど、まだ顔をあげて車内を見渡すことができない私は、そのままおとなしく聞き続けた。歌は英語で、なんとなくわかるようなわからないような。リスニングが苦手な私でさえ単語が拾えそうな綺麗な発音を高らかに響かせ歌う。でも、サビらしいところを聞いても、あんまりいい曲には思えない。結局、意味がわからないままに終わった。
それでも、発音はいいから、エンドオブザワールドという単語と最後のバイバイと言う言葉は拾うことができた。
「どうだった?」
「うーん、よくわからない」
私は苦笑いを浮かべてたと思う。
「この曲のタイトルなんだと思う?」
「わからない」
「ジョジョ関係」
「石仮面?」
「レイちゃん一部から離れてよ。エンドオブザワールド」
何やってんだ私、とか思う。歌詞の中でもエンドオブザワールドって歌っていたのに。今私たちにエンドオブザワールドと言えば、それは、第三部のアニメOPだ。ディオ様のスタンドのワールドとも絡む。
「これが元ネタ?」
まさか、それは違うでしょ。と言いたくなるのを我慢した。
「じゃないかな。アニメの方は、エンドオブザワールドの後に少し歌詞が入るけど。締めはオラオラでしょ」
「オラオラだね」
「こっちはバイバイ。偶然だとしてもすごいね。ディオのスタンドはワールドだし。ディオって歌手がエンドオブザワールドを歌うって」
「そう言われてみれば……そっか、そうだよね。コレが元ネタかも。すごいミュウ。でも、何で最後がバイバイなの?」
「「代替品と呼ばれていたものが逝ってしまった」という歌詞があるから、偽物の世界が終わるって意味なのかも。なんか訳してもはっきりしないの」
「ミュウでも訳せないの?」
「この詞を書いた人、自分の中からあふれ出るイメージで単語を選んでる感じがする」
「中二病外人?」
「そうかな? そうかも。でね、おまけがあって、このディオって歌手。メタル界の北島三郎って呼ばれてるんだって」
「北島三郎?!」
マイク片手に、着物を着て歌い上げるディオ様の絵が思い浮かんでしまった。背中には、冬の荒波と旭日旗のような太陽を背負ってる奴。
あ、すごくいいかも。
頬が思いっきりゆるむほどの妄想世界にいたため、ワンテンポ遅れた。車内の圧力が減っていた。
「レイちゃん着いたよ。さぁ立って」
ミュウはすでに席を立っていた。周りの大人たちはほとんど電車を降りている。
「終点?」
後ろの窓を見ると、赤い鳥居とトリックアート美術館と書かれた建物が見えた。
「さぁ、レイちゃん。はやくいこう」
ミュウは、私にはできないような笑顔を向けた。
私は、小山内麗だから、ミュウは私をレイちゃんと呼ぶ。
ミュウは、能勢美羽だから、私はミュウをミュウと呼ぶ。
私もミュウも、五年生の新学期が始まる春休みに、駅前にできたタワーマンションに引っ越しして来て、同じ階、同じクラスになったのがそのはじまり。
ミュウは私の家が引っ越してきた様子を見ていたらしい。私がミュウを知ったのは、転校生紹介で体育館ステージに出されて、さらし者のような自己紹介をしてから、先生に言われるまま五年一組の列の後ろに着いたときだ。
第一印象は少女漫画っぽいだった。とは言っても私は少女漫画を読んだことがない。引っ越す前、毎週のように泊まりに来ていた叔父が必ず置いていく少年週刊雑誌が私にとっての漫画であって、少女漫画を改めて読む余地は最初からなかった。
ミュウに聞くと私の第一印象は、活発な男の子だったらしい。あのころは、転校前に住んでいた前橋が寒くて、スカートを嫌っていたし。ママは丈夫だからという理由で登山服を私に着せていて、私の方も服には興味がないことと、冬の暖かさと、夏のさわやかさから、そういった服を好んで着ていた。今と比べれば運動にもはるかに積極的で、毎週、日本のどこかの山を登らされていたから、体力もきっとあのころの方がずっとある。
あれから三年もの時間が経った。今の私は、教室の隅の方でノートの端っこに落書きしているのが習慣のような、美術部所属の、どうみてもオタク女に仕上がっていた。
少年週刊雑誌を置いていった叔父が、ジョジョの単行本を一部から順に全部置いていったのがそもそも悪い。それらをママの目を盗んで一日四冊のペースで読み進み、すべてを読み終わると、また一部から読み返す。それを一年も繰り返していれば、目は悪くなるし、道を踏み外すのも当然だ。
しかも、もともと絵を描くのが好きだったのが、運の尽きというか、トドメ。なるべくして私はオタク女として完成した。
美術部所属と聞くと、叔母さん叔父さん連中は、何か絵を見せてと言う。でも、そういう大人が期待しているのは風景画や静物画、よくて有名なゆるキャラであって、私が描く様な漫画の絵ではない。私が描くのは、もちろんディオ様。時々、ジョナサンか拍手をするゆるタルカスとゆるブラフォード。せめてもの救い(?)は、私が荒木先生の絵をそ
のまま模写するところから入って、今もがっつり模写してるから、大人に見せられなくもないこと。ジョジョを知らないおじさんたちは、劇画という古い漫画を例えに出して感心するし。ジョジョを知るおじさんたちは、きまって三部ネタをリクエストしてくる。ポルナレフ、承太郎、花京院そんなところだ。もちろん、見せなくていいならスケッチブックなんか見せたくもない。
そもそも、公立中学校の美術部がガチ美術をやっている方がまれだ。美術部部員の子たちは、後輩も先輩も、ただ一人のぞいて皆オタク。私のクラスには、その勘違いをガチで
やっているガチ美術部員の唐金さんと、所属を聞かないとまず美術部だとは思われないミュウがいる。
ミュウは日本一さわやかなオタク中学生だ。五年生からの付き合いの私が言うのも変だけど、なぜオタクやっているのかわからない。おっとりしているかと思えば、フットワークが軽いし、運動神経抜群で、顔も広い。同じバスケ部なのに犬猿の仲の和田さんと田中さんが、一線を越えて歯止めが気かなそうになったとき、正論をまっすぐ二人にぶつけてその雰囲気を解消してしまったり。派手系の都心まで遊びに行っている子たちや、ガチ運動系の子たちとも別け隔てなく会話の輪に加われるし、他のグループともLINEを交換してるらしい。
しかも伝説を持っている。一年の時、ミュウのクラス担任が体育の先生だったこともあって、ミュウは体育祭の応援看板を描かされた。いやがる唐金さんを巻き込んで、紅組看板に(進撃の巨人の)超大型巨人を描かせて、ミュウは、私も色塗りを手伝ったけど、(泣き虫ペダルの)御堂筋翔が、長い舌をくねらせながら、スプリントをかける絵を描いた。
「今年の体育祭はお化け屋敷か」と先生は苦笑いしていたけど、全校に大好評で、間違いなく、あの時から美術部そのものの株が上がった。そういえば、ミュウが部活動対抗リレーで怒濤の三人抜きをやって陸上部の先輩にたかられたのは、体育祭の後からだっけ。
そうした伝説を聞かされているから、今年部に入ってきた後輩たちに慕われているし。ファンクラブはまだないけど、これがラノベの世界だったら間違いなくファンクラブくらいとっくにできている。
私はそのミュウの幼なじみと言うポジションだ。
◇ ◇ ◇
「ね、レイちゃん。山行こう」
おはようの挨拶を交わした木曜の朝一番、エレベーターのところでそういう風に言われた。
「え? 山?」
「うん、高尾山」
「高尾って? あの高尾?」
「うん、あの高尾」
「何で?」
「いいから、いいから」
まただ。ミュウの口から「いいから、いいから」が出ると逃げ道がない。
小学校のときは、ちょっとした遊びのやるやらない、本屋に行く行かない、誰々の家に行く行かないは、たいていそれで押し切られた。でも、中学になってからというものミュウの「いいから、いいから」は確実にパワーアップした。
体育祭の看板のときだってそうだ。いつも美術室の片隅で、独りラボルトという石膏像をゴリゴリデッサンしている唐金さんが、普通に考えて私たちの手伝いをするはずがないのに。
「なんで、私が」
唐金さんの暗く尖った声と表情を前にしても、ミュウは「いいから、いいから」といつもの笑顔で応じた。
「描かない。と言ってるだろう」
「お礼は出るよ」
「それは、現金じゃないだろ」
「お金? 唐金さんはお金がいるの?」
「ああ。絵には金がかかるんだ」
唐金さんは会話を打ち切るためか乱暴な言い方をしたが、ミュウは引き下がらない。
「唐金さんが必要とする画材を、十分な量は無理でも、少しなら現物支給できると思う」
その言葉に、唐金さんはミュウをじっと睨んだ。
「ちょっと、待ってて」
私の「どうするつもり?」に、「いいから、いいから」と同じ答えをしたミュウは、美術室を出た足で職員室へと向かい。「体育祭看板には新しい画材が必要です」と体育の先生を説き伏せて、領収書と交換で学校の予算から五千円まで出して貰うことを約束させた。
話をまとめて美術室に戻るまでわずか十分。唐金さんに考え直す時間を与えなかった。
しかも、最後には、あの唐金さんもノリノリで超大型巨人を描いていたと思う。
最初から、美術室に転がっていた古い絵の具や、ペンキで看板を描くつもりだったのに、五千円分ギリギリまで唐金さんが欲しがっていた油絵の具を買った。そのときは、ミュウも嘘をつくんだと変な感心をしたけど、描き上がった看板を見てミュウが嘘をついていないことに気がつき、改めて開いた口が塞がらなくなった。
バスケ部の犬猿の仲の田中さんと和田さんの時も、正論をぶつけて二人が黙った後。遠巻きに見ていた他のバスケ部の連中が「部外者は黙ってろよ」とミュウに噛みつきかけた。
「いいから、いいから」と笑顔で返すと、怒りの炎が燃え上がりそうになったバスケ部連中に、和田さんが田中さんに向かうはずだった怒りの分まで、「おまえ等こそ部外者だ」と言い放って、その場が完全に収まってしまった。
私が同じことを同じように言ったら、血の気の多いバスケ部のことだから小突かれ蹴りを入れられてた。そもそも、正論をぶつけた時点で、バスケ部のメンバー全員から集中砲火を食らっていただろう。
完全に逃げ道なんかないことを予感しながら、私は抵抗を試みる。
「いやいやいやいや。何で高尾山なの?」
「富士山の方がいい?」
「富士山はいい」
私は思いっきり首を横に振る。
「昨日、レイちゃんのおばさんに、高尾山に行きたいこと話したら、レイちゃんのことを後ろからけっ飛ばしてあげてって言われたよ」
うわ、ママを押さえられてる。
「卑怯だぞー」の台詞は、まだアニメ化されていない四部の康一くんの台詞だけど、ディオの子安さんの声で、頭の中に鳴り響いた。
うちは、アウトドア一家らしい。パパとママの出会いが、パパが大学時代にママがバイトしていた中央アルプスの山小屋に泊ったなんて、漫画でもやらない山男と山女のカップル。そんなパパとママの子供だから、私は自分の足でしっかり歩き回れるようになる前から、あちらこちらの山に登らされた。
この三年はご無沙汰だったけど、ママにしてみれば、ミュウの提案はいい機会だと思ったに違いない。
ママが賛成なら、パパは間違いなく賛成する。少なくとも、山関係ならママが反対でもパパは喜んで賛成する。
ミュウ本当すごいよ。私に逃げ場がないよ。
「い、いつ?」
「次の土曜か日曜」
中学生にとって、同じ部活に入っていて、親に予定をすでに聞いていると思われる相手に、その日に用事があってという言い訳は通用しない。
私は「う、うん」と答えながら、ミュウの笑顔に対し、朝からどんよりした気分になった。
「晴れるといいね。富士山見られるかな」
富士山は無理じゃないかな季節的に。すぐモヤっちゃうし。と思っただけで言葉には出さずに、土日雨になればなぁ、諦めてくれるかなぁ、とか思っていた。
学校に行く間、たわいのないことを話しているうちに、ミュウが超の付く晴れ女だったということを思い出して、木曜は、憂鬱なまま過ぎていった。
◇ ◇ ◇
高尾山口のホームに降り立ったミュウが「懐かしい」と声を上げた。
「本当だね」
パパとママは、それこそ他の山に行かない週末は毎週来ているらしい。でも、私が高尾山口に来るのは五年生の時以来だ。
「え? 意外。レイちゃんのおじさんとおばさんは高尾山に毎月登ってるんじゃなかったけ?」
「もうさすがに、親と一緒には来ないよ」
「最近、山とか登ってないの」
「うん」
ここで、「なぜ?」と聞かれると困ってしまう。五年の夏休みに御来光を見に富士山に登ったとき、七合目の山小屋がたくさんある所を過ぎたあたりから、急に具合が悪くなって、結局、下山することになった。そのあとも、秋の谷川や赤城には登ったから、それが原因とは言えないけれど、何となくあのときから、山から遠ざかってしまっている。ミュウに誘われなければ、今年も山に登ることはなかったかもしれない。
「私は、五年生の遠足以来かな」
「レイちゃんも遠足以来なんだ」
「うん」
「あ、見て、駅が新しくなってる」
エスカレーターを下る前から雰囲気が違っていたけど、エスカレーターが下ると、私は、言葉を上げることもせずに、あたりを見渡した。駅がまるで杉の木か何かがとれる産地であることを主張しているかの様に、木々が香るような建物に生まれ変わっていた。以前の駅がどんな風だったかもう思い出すこともできなかった。
「すごく、変わっちゃったね」
「うん」
「まるでアウトレットみたい」
確かにそう思う。
「人も多いしね」
私はジョジョのパスケースを改札にタッチした。
「駅前も、人が多いね」
改札口前の、高尾山の地図看板の前には、八王子駅前並に多くの人がいた。お年寄りは、昔ながらのチェックのシャツに制汗素材のパンツ。若い人は、最新のウェアとパンツ、機能性ストッキングといった山装備。中にはもっと重装備な人もいるが、ヒールを履いてる人もいる。
「うん。たしかミシュランガイド効果って奴かな」
「ミシュランガイドに載ってるの?」
「ママの受け売りだけど、最高峰の三つ星なんだって」
「だからこんなに人がいるんだ」
「うん」
私は、ちょっとソワソワし始めた。今着ているウィンドブレーカーにしても、ジャージのパンツにしても、なんか場違い。小学生くらいの子でも山向けのおしゃれな格好をしている。とはいえ、私がどんな格好をしていても気にする人なんて、いるはずもないのに。
ミュウは気合い入ってて、機能性ストッキングの膝が見えるスカートと軽めのウェア。ジョギングかなんかで公園にもいそう。着てきたアウターは片手サイズに畳まれて、もうリュックサックの中に入っている。形こそあれだけど、色合いは街中に着ていくこともできなくはない。
「なに?」
「ミュウ気合い入ってると思って」
「うん。気合い入りまくり」
「ははは、お手を柔らかに。まずは足首回しとアキレス腱を伸ばしたら行こうか」
パパの友達が山で捻挫したことがあったとかで、必ずやらされている。高尾とはいえ山には違いないからほぐしておきたかった。
「うん」
「どこから行く? 一号路、四号路、山頂? 六号路、山頂? それとも、ケーブルカー、一号路? リフト?」
右足の腱を伸ばし、左足に交代する。
「今日はリフトもケーブルカーも使いません」
ミュウは肩のストレッチも始めた。
「使わないの?」
「もちろん」
その返事に、本当はケーブルもリフトも使って欲しくなかったから、ホッとした。
一年の夏休みに、叔父さんを味方に付けての交渉の末、スマフォを買って貰った。だから、私の月のお小遣いは、今時の中学生としては少ない千五百円しかない。毎週ジャンプを買った途端に半減、コミック一冊買い足したらほぼ終了。
マックでの買い食いが入り込む余地はないような額だ。
木曜日、家に帰ってから、ミュウと高尾山に登ることになったことをママに話したら、ママは何でもないことのように、交通費として二千円と温泉のタダ券までくれた。片道百七十四円。うまく行けば、千六百五十二円。水を買って飲んでしまっても、千四百円は手元に残せる計算だ。この計算に基づくと、ケーブルカー料金は出なかった。
このママの気前の良さは、前もってミュウが手を回してくれたおかげだ。お年玉を切り崩すピンチから助かった上に、次のお小遣いまでの補給までできた。ミュウには本当に大感謝。言葉に表しようもない。
「六号路で行こ」
「うん」
このときの私は気軽に答えてしまった。たかが高尾山と思いこんでいた。私は小学校の時に富士山に登っていたし、富士山よりもきつい男体山にも登っていたから、油断があった。
私たちは人の流れに流されるようにして細道を抜け、おみやげ屋さん通りへと出た。
「レイちゃん見て、モモンガだよ」
ミュウがケーブルカー駅前の銅像に駆け寄って、スマフォに収める。
「モモンガーじゃないの?」
私もつられてスマフォでモモンガーを撮った。
「モモンガじゃないの?」
「ううん、ガー」
「ガー? あれ、ムササビって書いてある」
ミュウの言うように、確かにムササビと書かれたプレイトがはまっていた。
「ムササビ!」
「ムササビ!!」
「ムササビぃ」
「ムササビー」
私たちはおかしなテンションになって笑った。
笑いが一段落したところで、「レイちゃん行こうか! 高尾の頂上へ」
何かの漫画かアニメの台詞のようにミュウが言うものだから、私もつい。
「うん、行こうではないか、あの頂へ!」
なんて、ケーブルカーの駅を指さしてみたけど、他の山と違って、高尾山は山という感じではない。どこからどこまでが高尾山で、どこからがお隣の稲荷山なのか、今一わからない。
でも、とんがり頭のケーブルカーの駅がそうさせるのか、テンションは上がる。本当ならこんな学校の中だけのテンションで話しているのは、恥ずかしいことだけど、私たちのこんなテンションでさえ、周りの大学生たちや高校生の団体の前には隠れてしまう。
駅前で三段ピラミッド作って写真撮影するか普通? かと思えば、いかにもといった人たちから、深夜アニメのヒロインの名前が飛び出してきて、耳に付いた。あの人たちはみんな学校でもきっとあんな感じなのだろう。
「登山鉄道と言えば、フニクリフニクラだよね」
「六年の時の?」
六年の時。プロの声楽団が学校にやってきたことがあった。その演目の中にフニクリフニクラがあった。鬼のパンツの歌じゃなくて元々イタリアの登山鉄道のCMソングだと
か。楽団の太ったテノール歌手が日本語訳された歌詞と、なぜかパンツになってしまった歌、元のイタリア語版の歌詞をユーモラスにミックスして歌ってみせた。
「そう」
「♪ 山、山、やまやまやーまって」
私は記憶の中の歌を歌ってみた。
「そうだっけ?」
「そんな風に歌ってなかったけ?」
「う~ん」
「山でもはこう鬼のパンツ。でしょ?」
「街でもはかないと大変よね」
「うん。それは言えてる」
私たちはそんなくだらない話をしながら、ケーブルカーの向かって左側のアスファルトの坂道を上り。途中、稲荷山コースの入り口で階段を上がっていく人たちと分かれて、さらに先へと進んだ。
六号路の入り口はまっだ見えてこない。でも、まだ、歩いた内に入らないのに、さっきまでのテンションを維持するのも難しくなってきた。
「ちょっと、ミュウペース早くない?」
ミュウは本当に軽快に歩いていく。
「え? そうかな」
「早いって」
おばあさんたちの一団を颯爽と抜いちゃったし。
「早くないってば。レイちゃんまさか」
「まさか、って何」
「老けた?」
「まぁ、十歳の頃のようには行かないわ」
「レイちゃん。本当にまったく登山してないの?」
「五年の秋が最後かな」
「知らなかった」
あれ? 話していなかったけ?
「毎日顔を合わせていても、六年と一年の時はクラスも違ったからね」
「また一緒のクラスになれて良かったね」
私は自然に「うん。良かった」と答えていた。
そう言っておきながら、私は違和感のような違和感じゃないような、変なものを感じた。
派手系の子たちと教室で話していたり、体育のバレーやバスケの時、ガチ体育会系の子たちと声を掛け合って得点したり、攻撃を阻止したりするときのミュウは、私たちの部での
ミュウと何も変わりないはずんだけど、なんか違う気がする。
私じゃそのポジションにはなれない。なんかすごい。これってミュウが羨ましいのかな。
でも、小学校の時からミュウって運動神経良かったっけ?
石仮面を被った?
いやいや、ジョジョからは離れよう。ミュウが清潔な感じで誰にも好まれる性格なのはずっと変わらない。日本一、さわやかなオタク女子能勢美羽。そういえば、この子がオタクやっているのは、……間違いなく私のせいかも。
初めて、ミュウの家に上がったときのことを思い出した。
転校してきた始業式から二日目、私が家の鍵を忘れてしまいミュウの家でママの帰りを待つことになった。
ミュウの家は、私の家とちょうど左右反対の作りになっていて、私の家ではパパが撮った富士山の写真が飾ってある靴収納正面の壁に、水道の蛇口からあふれ出る水のイルカたちの絵が飾られていた。水のイルカの体は透き通っているから、その中に、貨物船や観覧車、特徴的なビルの横浜の街が見える。
「これ、能勢さんが描いたの?」
「うん」
ミュウは恥ずかしそうに頷いたが、私はすぐに言葉を返せなかった。
節水を呼びかけるポスターで、後になってから転校してくる前の横浜市で実際にポスターとして使われたものだと知った。
そのミュウに、私が週刊少年ジャンプを勧めた。ナルトが好きだというミュウに漫画の模写も勧めた。多分、カカシ先生を自由帳に描いたのが始まりだと思う。
「六号路入り口に着いたよ。レイちゃん疲れたの?」
振り返ったミュウは、汗一つかいていないのに、無口になってた私は、すでに下に着たシャツが汗ばんできていた。
「え? やっと」
アスファルトの道から逸れるように、六号路を示す看板や入り口のポールがあって、森の中を進むように、山頂へと続く道が通じている。
「まだまだ。最初の十分を抜けると疲れ知らずになれるよ」
ミュウは腕時計を見た。
「ミュウ、スパルタ過ぎ」
「え? そうかな? あ、レイちゃん昨日夜更かししたでしょ」
「一時には寝たよ」
「遅い。背伸びなくなっちゃうよ」
「寝る子は育つって?」
「そうそう。よく食べて、よく運動して、よく眠らないと、年取ったときに骨粗鬆症になっても知らないよ。しかも夜更かしは太るって」
「う、いや。太るのは勘弁。でも、ミュウって、そんなに健康オタクというか体育会系だったけ?」
「体育会系かな私。タダのオタクでしょ」
「いやいや、そんなさわやかなオタクいないって」
「さわやかかな? レイちゃんにほめられてうれしいけど」
「さわやかだって」
美術部の仲間が頭に浮かぶ、ガチ美術部の唐金さんは異彩を放っているが、彼女にしてもどこか野暮ったい。同じ二年の小島彩花はコメントアウトだし、後輩も、先輩方もあまりぱっとした人がいない。スポーツするより絵を描いていたい。日本代表のサッカーチームを応援するより好きな漫画やアニメ、ゲームを見ていたいし、やっていたいといった感じ。ミュウはとてもそう見えない。
「ありがとう。これでも、五年生の時から毎朝公園の周り走ってるからかな」
「マラソンしてたの?」
初耳だ。
「え? 知らなかったの」
「うん」
「毎朝、ジョギングしてシャワー浴びてる」
「ちょっと待って。朝の忙しい時間にどこにそんな時間が」
「朝四時起きしてるから私」
「は? 四時」
山を登るときとか、御来光を見るためにとか、もっと早い時間に起きることもあったけど、毎日朝四時に起きるというのはすごすぎる。
でも、そんなことも知らなかった。特に隠していた訳じゃないのに。
「レイちゃんも一緒にやる?」
「無理無理無理無理」
ミュウの「いいから、いいから」が飛んでこないように、祈る気持ちで無理を連呼した。
「無駄無駄無駄無駄?」
「無理無理無理無理」
「無駄無駄無駄無駄!」
「無理無理無理無理」
ミュウが笑ったところで、上手くジョジョネタにに流すことができたようだ。
これがママの耳にでも入って、ミュウと毎朝ジョギングをする羽目にでもなったら、私は間違いなく死ぬ。
「あ、ちょっと、レイちゃん待って」
「何?」
ミュウはカップルに近づいていき「写真を撮りましょう
か?」と声をかけた。
メガネの男の人が「お願いします」とカメラを渡す。
こんな何気ないやりとりだけど、ミュウは気がつけるし、すぐ動く。私だったら、まずないけど写真を頼まれても後込みしてしまうと思う。だいいち、私にカメラを渡してくれるのか?
「お待ちどうさま。レイちゃんがいつもの調子を取り戻したところで行きましょうか」
「うん」
ミュウに言われて、疲れた感じが、この立ち止まっただけの休憩で、吹き飛んだことに気が付いた。
「まだ、びわ滝にも着いてないよ」
ミュウは立ち止まっていつものように振り返った。一方の私は、米袋を担いで山を登っているかのような有様だった。
「びわ滝って全体のどの辺だっけ?」
「四分の一くらい?」
「え? ま、ま、マジですか」
私は六号路で登ってきたことを軽く後悔した。
こんなに険しかったけ?
「貧弱ぅ、貧弱ぅ。そんなことじゃ立派な吸血鬼になれないよ」
「いやいや、頑張っても、私は吸血鬼にはなれないから。
ディオ様にでも出会わない限りは。
それに、吸血鬼だったら、こんな山なんて一っ飛びでしょ」
「その前に太陽で溶けちゃわない?」
「あ、ああ。そうか」
「ちぐしょ~っ あの太陽が最後に見るものなんていやだ~っ!」
ミュウの台詞に私は吹いた。これは、一部のディオ様が死にかけたときの台詞だ。
「レイちゃんのせいでディオの台詞ほとんど覚えちゃった」
「え? 私のせい」
「私も結構なジョジョマニアになれたと思うよ」
「あははは」
なんだか、ものすごく悪いことをしている気になった。ミュウをオタクにしたのは完全に私だ。ミュウのパパ、ママごめんなさい。
「またこれで歩けそうだね」
「え?」
「がんばろう」
「うん」
私は、納得したようなしないような体で、また歩き出したミュウの後を追った。
びわ滝と登山道の分岐は、そのあとすぐに見えてきた。
「びわ滝行ってみよ」
寄り道せずにさっさと登りたい感じだけど、びわ滝自体はすぐなのを知っていたから「うん」と答えた。
びわ滝は、水行修行場になっていて、更衣室らしい建物と社がある。びわ滝前で分岐した登山道が取り巻くように登っていくのが見えた。
「滝と言っても華厳の滝のようにはいかないね」
我が家は、男体山をはじめとする日光の山々にいくと、パパのカメラ趣味で華厳の滝に立ち寄ることが多かった。
「日光の?」
「うん、日光の」
「私も家族で行ったことがある。レモンミルクおいしいよね」
「うん。私もあれ大好き。あと、ダイヤル式のメダル刻印機かな」
「メダル刻印機? あの滝の展望台にあったあれ?」
「え? ミュウ知ってるんだ」
「うん。メダル作ったもの。あれ、どこやっちゃったかな」
「今度行ったら、絶対ディオ様で刻んでやるんだ」
私は嬉しくなった。自分だけしか知らないことをミュウとシェアできた気がした。
「そのときは一緒に行こうね」
「うん」
私は大きく頷く。
「と言うことは次は、男体山だね」
「いやいやいやいや」
高尾で悲鳴を上げている私が、あの険しい山を登れるはずがない。登り切れたとしても、降りることができずに死ぬ。
「こんにちは」
背後から声をかけられた。
「こんにちは」ミュウは、私たちの後から来た老夫婦にそう答え、私も遅れて「あ、こんにちは」と答える。
「今日はいい天気だね」
あ、この感じは、山によくいるおしゃべり好きなお爺さんだとか思う。
「そうですね」
ミュウは笑顔でお爺さんに答えた。
「高尾はよく登られるんですか?」
「二人とも五年生の遠足で登って以来です」
「ほぉ、遠足で」
「地元なので」
ミュウは、はきはき答える。私だったら少し挙動不審が入ってしまって、こうはいかない。
「六号路にはセッコクという珍しい花が咲くと聞いてきたのですが」
「それは、レイちゃんの方が詳しいです」
振らないでよ。と思いつつも、セッコクのことはよく知っていた。パパが先週撮りに行ったばっかりだ。杉の木に寄生する、ズームで撮らないと埃のようなあまりぱっとしない花で、パパはそれがいいとかいうけどよくわからない。元々パパが今のマンションを買ったのも、セッコクをはじめとする高尾の自然に魅せられたからぽい。私としては、雪を残すアルプスと青空、緑に広がる花々とか、空を染め上げるような夕暮れに沈んでいく石階段と山小屋とか、もっとわかりやすい方が好きだ。
「えっと、この先あがった先に、右側に大きな杉の木が見えるところがあって。多分、今日も写真を撮る人たちがいっぱいいるから、見落とさないと思います」
「ありがとう」
お爺さんはお婆さんに何やら言うと、ウエストポーチから、封の開いていないドライマンゴーの入った袋を出した。
「二人で食べて」
お婆さんの笑顔に、ミュウはすぐに「いただきます」と答える。
こういうときのミュウの反応がうらやましくなる。私もありがとうを言ったけど、おじさん達が満足になれるような素直な笑顔を私は浮かべることができていない。多分、申し訳ない半分、困惑半分といった感じが隠せたか、わからない感じが精一杯だ。
「おいしそうだね。頂上で頂こう」
「うん」
「レイちゃん私の鞄の中に入れて」
「うん」と答えて、ドライマンゴーだと思って受け取った袋が、実は砂糖ショウガだったのに気がついた。少し苦手だ。チャックを開けるとミュウのリュックサックの中にスケッチブックが見えた。山頂で絵でも描くのだろうか?
「いただきます。ありがとうございました」
ミュウは再びお礼を言って、私は一緒に頭を下げて元きた道を戻った。
「なんか今日はいいことありそうだね」
「うん」
「富士山が見えるといいなぁ」
いや、無理でしょ。と心の中だけで答えた。
ミュウは高尾で富士山が見たいのかな?
あれ? 何でいきなり高尾に登ろうなんて言い出したのだろう?
高尾。高尾山。
五年生の時の遠足ってどんなんだったっけ?
ミュウと私と高尾山を結ぶ線は五年生の遠足しかなかった。小学校の頃というか、五年生の頃のミュウは、病弱でよく学校を休んでた。私が少女マンガみたいと思ったのも、かわいらしいというのもあるけど、線が細い感じがしたからだ。少なくとも前橋の小学校にはいないタイプだった。
ミュウは五年生になるまで一度も遠足に行ったことがなかったという。まるで漫画か、人から聞いた嘘のような本当の話のように、遠足の前の日は、決まって眠れなくなって熱を出したと言うのだ。だから、朝、元気に、エレベーター前に現れたときは、ミュウ本人よりも、私の方がうれしかった。
遠足は六号路ではなく、一号路から登り、お寺を抜けて山頂まで行き。帰りは四号路を通り、ケーブルカーで下って来るコースだったと思う。
男子を中心にケーブルカーの順番が逆だろと騒いでいたけど。すでに、何回か登っていた私は、朝は意気揚々と登れるので、誰でも登りきれる。逆に、疲れて下って来るには、あの坂は正直きついんじゃないかと、一人得意になっていた。
最初のうちは、背の順通り歩いて登ったけど、一番最初の急カーブからのきつい登りが始まる頃には、仲の良いもの同士のグループに分かれて、だらだら登っていた。先頭と中盤、最後をそれぞれ見守る先生方は、それで良しとしていたみたいだ。
私も、ミュウと、私立に行ってしまった、かこちゃんと、中学に入ってからバレー部に入って、私とは疎遠、ミュウとはLINEの交換をしているユナちゃんが、グループにいたと思う。四人でアニメの話や、かこちゃんが夢中のお笑い芸人の話を中心に、登った。
あれ?
なんか記憶が曖昧。
一号路を登るときは、四人一緒だった。でも山頂でお昼にしたとき、ユナちゃん、かこちゃん、私の三人しかいなかったような?
あれ?
「レイちゃん大丈夫?」
無口になってしまった私のことを疲れ切って口も開かなくなったと思ったのかもしれない。
「あ、ごめんごめん。少し考え事をしてて。あ、セッコクのところだね」
右側の谷に向かって、大砲のようなカメラを構える男の人や、三脚で写真を撮影する一団がいた。狙いは、大きな杉の
木の幹や枝に寄生している白い花だ。杉の緑とのコントラストも人気の一つなのだろうか?
でも、その良さは、私にはわからない。ズームすれば細長い花びらの百合のような白い花になるけど、一枚の写真に溢れるように写って、ちょっと賑やかすぎる。遠くから見ると、埃。じゃなければカビのようだ。どうせ白い花なら、タテヤマリンドウのようなそこかしこに咲いていても、あまり群れない花の方が好みだ。
「季節はずれのクリスマスツリーみたい」
頭を叩かれたような気がした。埃やカビみたいと思った私とは大違いだ。
「いい例えだね。私は埃みたいに思っちゃった」
「花に埃の例えは……でもなんかまとわりつき過ぎかも。杉だけに」
「えっと……過ぎと杉?」
私の自信なげな問いかけに、「うん」とミュウは自信を持って頷いた。
「そこで受けねらっても。ここら辺で、だいたい半分だよね」
「うん。やっと半分」
「橋を渡ってから少し先行ったところの登りと、階段が地獄か」
五年生やその前には、パパママを置いてぴょんぴょん登っていたが、今の私に登りきれるか?
「大丈夫」
ミュウが口元でつぶやくように言った言葉が、私に言ったというより、自分自身に言ったような気がした。
不意に五年生の時の山頂でのお弁当がよみがえった。
ママのお得意の挽き肉卵焼き。キットカットの抹茶味。水筒の中で生ぬるくなった、水で溶かすタイプのスポーツドリンク。
お笑いタレントの話にますます熱がこもるかこちゃん。引き気味の私とユナちゃん。
あのとき確かにミュウはいなかった。ミュウはどこにいたのだろう?
「ミュウ」
「何?」
「五年の時、頂上まで一緒に行ったよね」
それは問いかけというより、ただの確認。
「ううん」
首を小さく横に振った。ミュウはいつものミュウだったけど、あれ? 今の何かヤナ感じがする。
今、言わなきゃ。
「ちょっと待って。私いろいろ記憶が抜け落ちてる。絶対に思い出すから、絶対に何も言わないで」
ちょっと待て、本当にこれは何か重要な何かだ。絶対に私が自分で思い出さなければいけない。
お弁当のリンゴを食べるフォークが入ってなくてお箸で食べた。
付き添いの教務の先生の背負うリュックサックが開きっぱなしになっていた。
一組の男子がトカゲの死体を投げ遊んだらしく、その後、こっぴどく怒られた。
お菓子を五百円以上買った子がさらし者にされていた。
後ろ向きに登ったり、下ったりすると楽になれるというおかしな流行がはやった。
余計なことばかり鮮明に思い出せるのに肝心なことが思い出せない。
ミュウはいったいどうしたか、そのとき私はミュウと何を話したか。
でもなんだろう?
二人で高尾山に登る約束でもしたのかなぁ。
絶対今日の登山につながる何かがあったんだ。
……くそだめだ。
「敗北を認めるんじゃない!」こんな時まで、ジョジョから離れられない。承太郎の小野Dさんのイケメンボイスが聞こえた。これには私もため息が漏れた。
「思い出せない。頂上までには思い出すから宿題」
「うん」とミュウがいつもの様子で頷くのを見て、私は少しだけほっとした。
何やってんだか。
ミュウとの思い出なのに忘れてる。幼馴染みとか、親友とか、そんな言葉じゃ足らないミュウのことなのに。
……私ダメだな。
ミュウはこんな私といて楽しいのかな?
突然心の中で、自分じゃない誰かが呟いたかのように、そう思った。
ミュウと私は、同じ階に住んでいるけど、同じ世界の住人じゃない。
学校で、クラスの人たちから自分の興味の無い話題を振られて、仕方なしに自分でもわざとらしいなって思う笑い声をあげることがある。そんなことをする自分が嫌になるけど、例えば唐金さんのように「興味ないから」とか、きっちり自分を主張して、場を白けさせる勇気は私には無い。ミュウは、全く別だ。そもそも興味の無い話題がないように見える。どんな話題でも食いつけるし、逆にふることが出来る。誰とでも別け隔てなく楽しんで本当に楽しそうに笑う。道に外れたことなら、場の空気など構わずに注意するし、真面目かと思えば、どのグループの相手にも気軽に冗談を飛ばし、また冗談を投げかけられる。それをまた上手に返す。
「レイちゃん気にし過ぎだよ。無口になってるよ」
私の無口を五年生の遠足のことを覚えていなかったことと結びつけてしまったらしい。
「いや、その……」
素直に、「ミュウ、私と一緒にいて楽しい?」なんて言えなかった。
「どうしたの?」再びそう聞かれて、適当な嘘もつけなくて、空気的に答えなきゃと思って、
「何でミュウはオタクなんだろうなーて」とぽつりと言った。
ミュウがよろけた。
「レイちゃん痛い。物凄く痛いよ。グサって言ったよ。今グサって」
ミュウが泣くような声(冗談だけど)を上げた。
「ごめん。いや、でも、だってさ。ミュウて、すごくお洒落じゃん。どう見たってオタクには見えないし、音楽だっていろんなの知ってるし。スポーツだってメチャクチャやるし。芸能人とか好きな人たちとも盛り上がれる。バスケ部の人たちとバスケだって出来る。漫画とかアニメとかオタクっぽいことだけじゃなくたって、何でもかんでも楽しんでる感じだし」
なぜだか言葉を重ねれば重ねるほど目が潤んできてしまう。
「そうかな? そんな風に私見えてるのかな?」
「そうだよ。オタクって普通コミュ障だけど、ミュウのコミュニケーション能力は無敵だし」
ミュウはにこりと笑って、
「レイちゃんにそんな風に見られてたんだ」
何だか目を合わせられずに「うん」と頷いた。
「ちょっとうれしくて、誇らしいかも」
呟くように言った。
「誇らしい?」
半分聞き違いだと思った言葉を聞き直すように訊いた。
「五年生のとき、私の目標ってレイちゃんだったんだ」
「は?」
「何度も言わせないで。レイちゃんが目標だったの」
「何それ? ジョーク?」
「嘘でも冗談でもなく本気」
ミュウは真面目なときの顔をしていた。
私は、「目標」って言葉を何度も頭の中で繰り返してみたけど、「目標」って言葉がわからない。意味が飲み込めない。
「そう。それは大変だったね」
自分の言った言葉の意味もわからずに、言葉を返していた。
「全然大変じゃなかったよ。楽しかったかな。
私、ちいさい頃から絵を描くのが好きだったけど。レイちゃん覚えてる? 五年生の頃、レイちゃんはディオ様を一生懸命、机やノートや教科書にいっぱい描いてたの」
「う、うん」
さすがに授業中、机をディオ様だらけにしたときには担任の先生に怒られて、そのバツの悪さまで蘇ってきた。
「レイちゃんは、上手く描けたときはもちろん、上手く描けなかったときだって、本当に、笑顔で楽しそうだったの。私だったら消しゴムで消しちゃうか、丸めちゃうのに。レイちゃんはちゃんと最後まで描き上げて、失敗しちゃったって笑顔で言うの。その時、私もレイちゃんみたいに、いつでも楽しく絵を描きたいなって思った。上手く描けなくて自分が嫌になっちゃうことなんか、やめてしまおうと思った」
「え? そうだったかな」
「うん、そうだった」
ちょっと違うと思う。明らかにディオ様に似ていなくても、体が崩れていても、荒木先生の領域には、簡単に届くはずがないって、その頃から思っていたから、失敗してても開き直っていただけのような気がする。
でも、ディオ様を描くのは楽しい。今でもメチャクチャ楽しいし、大好きだ。だから、失敗してても、笑顔というか、ニヤニヤしながら描いていたんだと思う。
頬が熱い、体も熱い。三年も昔だっていうのに、あの頃からディオ様一筋だったことや、今以上に気が狂ったようにディオ様を量産していたことが、つい昨日のように思い出されて、穴があったら頭から飛び込みたくなってきた。
「でね。私、その頃も今も、好きなことや、やってみたいことがたくさんあったから、その全部、レイちゃんがディオ様を描くときのように、楽しみたいと思ったの。失敗したって、上手くいかなくたって全部」
「全部?」
「そう、全部」
「ちょっと、凄すぎ」
「そうかな? でも、レイちゃんに、何でもかんでも楽しんでるって言って貰えて良かったなぁ。あのときの目標が達成できたんだもん」
ミュウ。あんたって子は本当にマジ凄いよ。十分達成しちゃってるし。
そう心の中でつぶやいて、なぜだか、すっきりしていることに気がついた。
「ねぇ、今も私、絵を描いてるとき楽しそうに見えてる?」
ずるいなぁとか思う。ミュウが絶対否定的なことを言わないのがわかっていて、訊いていた。
「うん。ディオ様を描いてるときは特に楽しそう」
なんか場違いだけど、ミュウにありがとうを言いたくなった。
顔の熱さが、さっきのミュウの告白で赤くなったためか、登山道を歩く体の熱がそうさせるのか、よくわからなくなってきた頃。
「レイちゃん、橋があるよ」とミュウが指さした。
「大山橋だね」
登山道の先に、右手側を流れている沢を越える橋が見えてきた。大山橋の名前が付いていて、橋の先のベンチには結構人がたまっている。だいたい一時間半で登りきれる六号路の中盤を越えたところなので、ここでみな休憩を入れてるようだ。
「レイちゃん、休んでく?」
「ううん。先に行こう」
やっと、私の体が登山モードに入ったらしく、駅から六号路入口までの疲れと、今の疲れに差はなかった。だから今のペースを乱したくない。このまま行きたかった。もし、ここにいる人たちが私たちの休憩中に動き始めたら、少し厄介だ。私たちを追い越していった人たちではないから、歩く早さは私たちよりも遅い。この人たちの後を歩くというなら、急いでいるわけではないので、問題はないけど。気を利かしてくれて道を譲ってくれるとなると、大問題だ。追い越していくときにはどうしても気を使うし、どうしても歩くペースがあがってしまう。そのちょっとのペースアップが、その後に控えている階段の登りには、命取りになるかもしれない。
「レイちゃん本気モード?」
「うん。我が流法は「山」」
ネタとしては二部のラスボスカーズのネタ。もちろん井上さんの声帯模写はできていない。
「山ってどんな攻撃をするの?」
「力業ぽい響きだから、ロードローラーだッ! をやるとか」
第三部の最終攻防、ロードローラーを挟んで、最高に「ハイ!」ってヤツになったディオ様と承太郎の応酬が思い浮かんだ。
「でも、登場から一週で倒されちゃいそう」
ヒドいと思う前に確かにそうだと思った。最後のコマに現れて、不思議なポーズと独特の擬音で強敵をアピールするんだけど、次週最後のコマで、あっけなく敗北。リタイア ――「山」の麗、高尾山山中で再起不能――
縁起でもない。
「私は噛ませかぁ。なんてこった」
「しかも土属性!」
「土属性! 四代元素属性の一つ! 防御力は非常に高い! と言っても、龍属性とか闇とか光とか、もっと良い装備がボロボロ出てくるから、やっぱりダメだ~」
炎や氷には攻撃の時に特効効果があるし、風だって使いどころがある。もしくはイベントアイテムとか。でも土属性で役に立ったゲームをやった覚えがない。
「でも、レイちゃんは頼もしいよ」
「そう言ってくれると助かります」
ミュウのフォローの言葉を私は軽く受け流した。
やがて、大山橋からの登りが左に折れるように曲がるその奥に橋が見えてきた。この橋からの登りは、いかにも山に来た感じがする登りだったはず。
「ミュウちょっと止まって」
「どうかした?」
「さっき飲まなかったから、飲んでいこう」
私は、ペットボトルを出すと一口飲んだ。
「のどは渇いてないけど」
「だめ。のどが渇いたと思ったときは脱水症状の初期症状だって、ママもパパもうるさく言ってた」
「はーい」
ミュウはリュックサックの脇に差したペットボトルに口を付けた。
「一口でもいいんだって。一気に大量に取るよりも小口に分ける方がいいらしいよ」
「さすがレイちゃん詳しいね」
「低学年の頃は毎週登ってたからね。
ここから先のことだけど。今までよりも山道っぽいところを登って。その後、とび石の道を越えると、最終試練の階段が待ってる」
そう言葉に出しながら、五年生の遠足の時のことを思い出すリミットが迫っているのを実感した。
とび石が終わるまでに思い出さないときついかも。その後の階段は今の私には思い出すどころじゃなさそうだし。
後ろがにわかに騒がしくなってきた。振り返ると、大山橋で休んでいたお爺さんたちの姿が見えた。
「行こう」
リュックサックを背負い直すと私は歩き出した。
ミュウが体調を崩したのは間違いない。五年生の時の登山で一号路をどんな感じで登ったのかさえ思い出せないけれど、一緒に小学校を出発して、電車にも乗った記憶があるのに、頂上には行っていないと言うのだから間違いない。
ちょっと待って、よく考えると、エレベーターのとこにミュウが現れてめちゃくちゃうれしかったのは本当に遠足の日のこと?
あれ? なんかミュウ、ダッフルコート着ていたし、私も学校のジャージじゃなくて、秋の山のアウターを着ていた気がする。それって、声楽団が学校でフニクリフニクラを合唱してくれた日じゃなかったっけ?
あれ?
遠足は……何かやたらめったら台風が来て、九月末。ううん違う、台風で順延して十月の最初の金曜日に行ったんだ!
あの日、エレベーターのとこにミュウは現れなかった気がする……私が迎えにいったんだ。
あの頃の、特に月曜の朝は、なんかイヤだった。ミュウが笑顔でエレベーターのところにやってくる日よりも、ミュウの代わりに、ミュウの美人のママがやってきて、欠席連絡が書かれた連絡帳を渡す日の方が多かったからだ。連絡帳を受け取った日は、決まって面白くない一日だった。神奈川の自動車工場見学の日に休んだときは、せっかくの校外学習なのに、私までベッドで塞ぎ込んだような気分になった。待っているのに、ミュウが来ないだけでつまらなくなる一日。そういうのがものすごくイヤだった。
だから、高尾山への遠足の日は、エレベーターのところで待っていることなんかできなくて、約束の十分前、ミュウの家のピンポンを鳴らしていた。
インターホンに出たのも、扉をあけたのもミュウのママで、ミュウがもし遠足にいけなかったらどうしようかと、ものすごく不安だった。
「レイちゃん、ちょっと待っててね。美羽さん、レイちゃんが迎えに来たわよ」
その声に、ミュウがのろのろと出てきて、やっと私は落ち着くことができた。
「熱はない? 大丈夫? 具合悪くない?」
私のマシンガンのような質問に「うん」と頷き、笑顔を見せてくれたので、良しとしてしまったが、思えば、いつもと比べて変だった。
そう言う風に考えていけば、かこちゃんがなぜ熱心にお笑い芸能人の話をする必要があったのか、わかるような気がしてくる。かこちゃんは、お笑いが好きだったけど、ネタをまねることが好きで、別に、タレントの本人のことはどうでもよかったはず。ミュウが本調子でなかったから、場を取り繕おうと無理をしたのかもしれない。
長い長い一号路の坂道。
私は本調子じゃなかったミュウに気がついてなかった。無駄に張り切って、ミュウをぐいぐい引っ張っていったのかもしれない。
何をやってるんだろう私。ずっとミュウに迷惑ばかりかけてる。
「あれ? 道が」
ミュウが声を上げた。
沢を越える橋の向こう側に、稲荷山への道標と降ってくる階段が見えていた。
「右見て」
「川だよ」
「うん、ここからは、その川の中にある飛び石の上を歩くの」
思ったよりも水の量が多めだったけど、無理に飛び石の上を歩かなくても、踝までは濡らさずに行けそうに見えた。
六号路と稲荷山コースとの合流点から頂上へと延びる、とび石は、靴の底を濡らす程度の川の中を進む沢登り。
「川登り?」
「沢登りのこと?」
「うん、それ」
「沢登りなんて本格的だね」
「沢登りと言えるかな。棒の折りって山が埼玉にあって、そこなら簡単に沢登りができるけど」
「本当? それじゃ、今度そこへ行こう」
「えー、遠いよ。山頂の景色も今一だった気がする。しかも」
「しかも?」
「トイレがない」
これは大きいと思う。そりゃ、登山道入り口近くにしかトイレのない山の方が普通だけど。
「棒の折りって名前なのに、棒が置いてあるトイレがないなんて」
すぐにわかった。これは、第三部ネタだ。小松さんの奥行きがある声で悲鳴とポルナレフが慌てふためく様子がアニメで見える。インドのトイレは工事ミスで、腹を空かした豚さんが便器の間から顔を覗かせるのだ。ミュウの言う棒とは、その豚さんの顔を突くための棒だ。
「ギャースって擬音入りで、豚さんが顔を覗かせるの?」
「うん」
「埼玉の人に怒られるよ」
「怒られちゃうかな」
「皇太子殿下お気に入りの山で、麓には温泉もあるし、ダムもあるし、埼玉の隠れたとっておきなんだって」
「本当? 次、行こうよ」
ミスった。
「う、ううん。また今度ね。それより、ゆっくり、滑らないように行こう」
「うん」
川の中に置かれたとび石を進む登り道は、もっと歩きたいなと思い始めたところで、唐突に終わる。
予想通り、ミュウは「もっと歩きたかったな」と声を上げた。
「大丈夫、イヤでも歩くから」
とび石から先、折り返すようなカーブと共にまた普通の登りが始まる。
「もう少し行ったら、また一口飲もう。最終試練の階段が見えてくるはずだから」
「うん」
「少し暑いから、あまり無理はしないでね。頂上は逃げないから」
そう言いながら私は落ち着かなくなっていた。
まずい。スゴくまずい。
ミュウがリタイアしたときのことが思い出せない。
私はミュウに何を話したんだろう?
ミュウは私に何を話してくれたんだろう?
多分間違いなく、今、この高尾登山は、五年生の時の続きなのに、何の続きかさえ思い出せない。まずい。
「階段が見えてきたけどあれ?」
ミュウが見えてきた階段を指さす。
私は内心悲鳴を上げたいのを抑えて、
「うん、あれが始まり。カーブを曲がって階段がどーん。休もうか」
「うん」
ミュウが笑顔もなくまじめに頷いた。
気合いが入っているのと違う感じがする。
まさか。
「ミュウ。大丈夫。マラソンで三キロも走れるなら楽勝だよ。脱水症状とか少し脅かしすぎたかも」
「ううん。大事なこと。高尾山だって山でしょ」
「うん」
「年五十件も事故があるって聞いたよ?」
「四号路とか六号路は足を踏み外すと落ちる場所があるからね。これから先の階段だって捻挫すれば、かなりアウトだし」
「でしょ」
「でも大丈夫。今のミュウなら大丈夫」
逆にあっけなさすぎてガッカリすると思う。
リュックをおろし、一口ではなく、三分の一くらい飲んでペットボトルを軽くした。
満タンでも五百グラム。その三分の一、わずか百五十グラム。階段登りにはこれが効く。小学校三年生の夏休みに登った鳥取県の大山は、木の階段が整備された山で、それを千メートル分ひたすら登る。八合目から九合目にかけては、手に持っていた空のペットボトルすら投げ捨てたくなった。
ミュウが、ペットボトルを戻したリュックを背負って、私の方を見た。
まずい。
時間切れ。
思い出せない。
山頂で謝るしかない。
いつものように、ミュウは笑顔でいてくれるだろうけど、なんか悔しいな。いつも、ミュウに迷惑かけてる。私がミュウに報いたことってあるのかな?
「行こうか。レイちゃん」
「あの頂上へ? かな」
「うん。行こう」
ミュウは軽快に私は多分のろのろと、階段を上がり始めた。建物の階段と違って、曲がりくねるから、その終わりは全く見えない。
十段登らないうちに、ミュウとの間に差ができてしまった。その間は一段ごとに広がっていく一方だ。多分学校の校舎なら、三階にさしかかったあたりで、私の息は早くも上がり始めた。まだまだ先は見えない。
私よりずっと先になってしまったミュウが私の方をちらりと見た。全然余裕そうに見える。
「ミュウ先に行って、自分のペースを守るのが大事だよ。少し登った中間地点にベンチがあるから、そこで待ってて」
私は声を上げた。
「待ってる。一緒に登ろう」
ミュウは首を横に振って立ち止まったままだった。
あ、そうだ。
思い出してきた。
一号路の延々延びている坂道をだらだら上がっているとき、ミュウが遅れ始めたんだ。丁度こんな風に。
私は気が付かずに先に行こうとする、かこちゃんたちを止めて、ミュウのペースに合わせた。
私は大きく息をついた。
階段の中間地点、小さな広場に出た。ベンチには早いお昼を始めた家族連れがいた。もしベンチが空だったら、私もミュウにここでのランチを提案したかもしれない。
広場の先、まるで木が通せんぼうするかのようになっている先に、続きの階段が整然と見える。
「レイちゃん休んでく?」
「ううん。行こう」
この最終試練の階段で、一気に等高線五本分百メートルを登ってしまうのだ。
「うん」
歩き始めたミュウを追うように私も続いた。
ほぼまっすぐの階段を登る。
遠足の時のことはまだ完全には思い出せないけど、今は登ることしか考えられない。
段数なんか最初から数えていなかったけど、もううんざりするほど階段を登ったと思える果てに階段が終わった。
縦に長い広場とベンチ、休憩する人たちの姿が数多く見える。
着いた。やっと着いた。
「終わった」
私は背中に汗を感じながら、ふぅとため息をついた。もちろん、頂上はまだ先だということは知っていた。でも、六号路終点の広場に出たのだ。
「ここが頂上?」
「違う。けど、ここが六号路の終点。この先の十字路をまっすぐ進んでいけば、頂上はすぐ」
「そうなんだ」
顔を輝かせたミュウは、ちっとも汗をかいていないように見えた。
「うん、ちょっと待って水飲む。ミュウも飲んで」
「うん」
私は、リュックから出したペットボトルを一気飲みした。頂上のお茶は高かったけど、ケチれるものじゃないし、これはケチっちゃいけない水だ。
一息ついて、顔をあげるとミュウと目が合った。
「富士山見えるかな?」
ミュウにとっては、きっと何気ない一言だったに違いない。でも、私にとっては最後の空白を埋めるキーワード。
私はミュウの手を取った。
「行こう、行こう! 頂上へ!」
「え? うん」
躊躇いは一瞬で、ミュウも握り返してきた。
思い出した。五年生の遠足の日を思い出した。
「ミュウ、私、全部思い出したよ」
ミュウは「うん」と答えて、それ以上は訊こうとしなかった。
六号路から、コンクリで舗装され緩やかなスロープを描く五号路を登り。ほどなく、一号路と合流してたくさんの登山客と頂上への最後のスロープを登る。
私の中に予感があった。
遠足の日以来、エレベーター前にミュウのママがやって来ることは減り。クラスが変わった後も必ず毎日一緒に登校した。だから予感がある。
ミュウは超の付く晴れ女。
「え? レイちゃん頂上の標識」
「いいから、いいから」
私はミュウの台詞を奪って、撮影渋滞ができている真新しい標識を越えて、一番奥の見晴らし台、その先を指さした。
一番左は相模湾、そこからいかにも山らしい大山。少し離れて丹沢の山々が三つ、塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳が並び、袖平山、低い山は石老山。大室山。そして、山を知らない人でもその名前も姿も見落とすことが絶対にできない山が、空の青さを背景にはっきりと見えた。
山頂からその斜面の筋に沿って白い残雪を見せる優美な山。
あの日。あの遠足の日。ミュウは朝目覚めた時から調子が悪く。とうとう一号路の最初のカーブの前で歩けなくなってしまった。でも、ミュウは介抱しようと駆け寄ってきた先生を嫌がった。
「大丈夫。大丈夫。私、レイちゃんたちと一緒に頂上まで行きたい」
涙目で、そのときまで私は、ミュウの大声なんて聞いたことがなかったのに、叫んでいた。
「ミュウちゃん。今度、私と、この高尾山じゃなくって、うち(マンション)から見える富士山に一緒に登ろう。あそこで見る日の出は何よりもきれいで美しくて、すごいものなんだよ。それを私と一緒に見に行こう」
我ながらとんでもないことを言ってくれたものだ。
富士山に心奪われたかのように固まっているミュウの横顔が、あまりに面白かったのでスマフォを取り出して撮った。
まるで時が動き出したかのように、
「もぉ、レイちゃん。次はあそこに登るからね」
「やっぱりあの山なの?」
口ではそう言ったけど、今なら登れる気がした。
本当なら、この季節は空気がもやってしまって、その輪郭しか見えないはずの山。富士山が、その姿を高尾山山頂に佇むすべての人に見せていた。
「うん」とミュウは大きく頷いた。
そのあと
私たちは、ミュウが朝早く起きて作ったお弁当の甘々卵焼きと、ママの定番、挽き肉オムレツを交換したり、スマフォに山頂の標識前でポージングする姿を撮ってもらったりした後。霞始め、輪郭しか見えなくなった富士山を名残惜しみながら、下山を開始した。
下山は一号路。コンクリートで舗装された安全楽ちんな道で、すれ違う人の中には、ヒールの人や、幼稚園くらいの子供の姿まで見える。一部を除けば一号路は本当に楽なのだ。
神社の裏から階段を下り、薬王院というお寺を巡って、江戸時代のテーマパーク? のような、様々な願掛けのパワースポット? がある境内を抜けて、山門を抜けた頃には、私もだいぶ油断していたに違いない。
「ね。大変! レイちゃん見て!」
突然、ミュウが私の手を引いて声をあげた。
え?
私は、「杉苗奉納者御芳名」と書かれた札を見た。
鉄道会社や観光会社の名前に並んで、北島三郎と書かれた大きな札があった。
「サブちゃん!」
と声に出していたが、心の中ではディオ様と絶叫していた。
頭の中に、旭日旗のような太陽と富士山、日本海の荒波を背負う、白い着流し姿のディオ様が、マイク片手に、子安さんの声で「Hey Hey Whooo……」と重く渋く格好良く歌い上げる姿が見えた。
「サブちゃん!」
ミュウの言葉に、めちゃくちゃなテンションのまんま、
「ディオ様!!」と返す。
「ディオ様!!」
「ディオ様~!!」
私たちはメチャクチャなテンションで叫び笑いあった。
フニクリフニクラ 1
2016年5月 コミティア新刊 イラストワークス武市えん