朧月

吉原の晦日は降り続く雪のように厳かで静かである。
いつものこの時間ならば居続けの客が数人見られるが今日はどこも早くから開店休業状態。メインストリートである中之町にも人の影はひとつとしてみえず、静謐が郭を包んでいた。
「もう大晦日でありんすか…」
玉鬘は感慨深く呟いた。吉原いちの大店、文久屋の昼三である彼女も今日ばかりは暇を持て余し、手に持った螺鈿細工の煙管をぷかぷかとふかしながら窓の外ではらはらと舞う白い花に目をやる。
玉鬘が売られたのも、こんな雪の降る寒い日だった。享保の大飢饉によって食べていくのもやっとの家族を助けるため、自らこの世界に足を踏み入れたのだ。きくところによると吉原というのは世の中では苦界と呼ばれ、長く苦しい生活が死ぬまで続くという。
しかしいうほど苦しい生活ではない。それは他の遊女らと境遇が違うというのもあるだろうが、そればかりではないように思う。金銀の装束に螺鈿の煙管、豪華な食事に自室までついている。少女の時を思うとえらい違い、天地の差である。
「おとっつぁん、おっかさん……」
玉鬘の頬を雫が流れた。驚いて目尻を拭うも、とめどなく溢れては止まらない。望んではいった世界とはいえ、彼女もひとりの少女である。父や母からの十分な愛を受けずに、家のため家族の為と自らの身をこの世界に沈める。小さな少女なりの大きな決断だったのだろう。
あれから数年が経った。最初は寂しさのあまり妓楼の生活になじめず、姉女郎である薄雲姉さんには何十倍も苦労をかけてしまった。しかし、姉さんの厳しくもあたたかい指導のおかげか、今や昼三という妓楼のなかでそれなりに地位のある職に就くことができた。

そんな姉さんは、これまで見たこともないような量のご祝儀でもって肥後藩のお殿様の付き人に身請けされた。
「ねえ。人間というのは不思議なものね。私のような借金のカタで売られて全国方々を彷徨った挙句ここに流れ着いた人間でも最後には幸せになれる」
身請けされる直前、姉さんは何の脈絡もなしに切り出した。
「いいかしら玉鬘。私はこれからあの方の元へ嫁ぎます。あなたに会うのもこれが最後です。よく聞きなさい。私が教えられることはすべて教えました。性技から手練手管、そして遊女としての立ち振る舞い。あなたは私が教えたことのすべてを吸収し、自分のものとしました。しかし、私はあなたにまだ教えていないことがあります。それは"幸せ"というものです。私はこの問いに合致する答えを持っていません。しかし私なりの考えを伝えることはできるでしょう」



「幸せというのはいつどこから降ってくるかわかりません。それを逃してはいけませんよ。次はないかもしれません。あったとしてもそれは数十年先かもしれません。幸せになる機会をしっかり捕まえるのです。いいですね」



気が付くと、袖を大いに濡らしていた。遠くでは除夜の鐘が聞こえる。
「薄雲姉さま......」
嗚咽が雪で消される。
少女はまた、悲しみの海に沈んだ。

朧月

2018-12-31 22:58

朧月

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-31

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