君の声は僕の声 第三章 7 ─透明─
透明
「あなたが聡ね。私たちの秘密を黙っていてくれてありがとう」
「…………」
聡はキツネにつままれたように茫然と杏樹を見ていた。月明かりのせいか、杏樹の白い肌が真珠のように輝いて見える。いや、月明かりのせいではない。杏樹の顔はしているけれど杏樹ではない。
そんなはずはないのだが……。
「心が怯えているの。彼に名前を言ってしまったって。聡、あなたは私たちの秘密を守ってくれた人だから、私はあなたを信じる。だから、このことも誰にも言わないで欲しいの」
杏樹は胸の前で手を合わせ、真剣な眼差しで聡に訴えた。
聡には杏樹の言っている意味がまったくわからない。自分は遊ばれているのだろうか。杏樹の言葉づかいや仕草はまるで女の子だ。
「いいかげんにしてくれよ。君は僕をからかってるの? そりゃあ、僕は君に酷い事をした。悪いのは僕だ。僕を許せないのなら、気のすむまで殴れよ。そんなふうにひとをからかうのは、もうやめてくれないか」
聡は毅然として言った。
杏樹は自分の想いが伝わらないもどかしさに視線を落とした。聡はまた杏樹の気が変わるのではないかと、気が気でなかった。凶器になるような物がないか、杏樹に気づかれないようそって見まわした。
「私は……からかってなんかいない。『心』は私たちだけにしか心を開かなかったのに、あなたには心を開いた。それから、そこに寝ている彼にもね。でも、私たちのもうひとつの秘密を彼に話してしまって怯えているの。だからこのことも黙っていて欲しいの」
「…………」
聡は口を半開きにしたまま返事に困った。聡を見つめる杏樹は、今まで見たことのないような優しくて暖かい眼差しをしていた。やはり自分をからかっているようには思えない。聡は、濡れたような瞳で懇願する杏樹を睨みつけている自分が、いたいけな女の子を虐めているように思えてきた。
「あの……『心』って、ひとの名前なの? 誰なの? 私たちって誰のこと? もうひとつの秘密って何のこと?」
「誰にも言わないって約束してくれる?」
「約束する」
聡はよく解らないまま即答した。
「心はひとの名前よ。花瓶を割ったときに足に怪我をして、あなたに手当をしてもらったのが心。心は痛みに敏感なの。痛みを感じると出てくるの。彼の痛みに共感して痛みをやわらげたのも心なの。それから私の名前は『マリア』」
杏樹の話を聞いてますます聡の頭の中は疑問符でいっぱいになった。
「なに言ってるの? 君は杏樹だろう? 怪我をしたのも杏樹だ。それとも君は双子なの? それとも三つ子。ああわかったよ。きっと君は何人もいるんだ。クローゼットにでも隠れていて、入れ替わり立ち代わりで僕の前に現れるんだね」
聡は途中からやけになって言った。だが、杏樹は更に必死に訴える。
「そう、私たちは何人もいるの。でもクローゼットに隠れているわけじゃない。私たちは杏樹の中にいるの」
聡はあんぐりと口を開けたまま呆れて杏樹を見つめた。杏樹の顔は真剣だ。杏樹に悪気はまったくないように見える。杏樹にからかうつもりはないのかもしれない。だが、聡はもうこれ以上杏樹と話をするのはうんざりだった。
「ああ、そうなの。天使にマリアね。よく解らないけど、僕は君のことを誰にも話すつもりはないし、僕たちはもうすぐここを出て行く。これ以上君に関わることはないから安心してよ」
聡はなげやりに言って寝袋にもぐってしまった。
杏樹はしばらく、何か言いたげに聡の横に座っていたが、そのうちに部屋を出て行った。きっと泉へ行くつもりなのだろうと聡は思ったが、もう杏樹の事を考えるのはやめることにした。杏樹に振りまわされるのはまっぴらだった。
翌朝、聡は杏樹と顔を合わせたくなかったので、杏樹に起こされても寝たふりをしていた。そして、杏樹が部屋を出ていくのを確認してから寝袋から起き出した。
聡の机の上にはふたり分の朝食が置かれていた。杏樹が置いていってくれたのだろう。聡は寝たふりをしたことを少しだけ後悔した。パンをかじりながら、夕べのことをぼんやりと考える。
杏樹は嘘を言っているようには見えなかった。杏樹の口が「怪我をしたのが心。私はマリア」と言った。
──あれは杏樹だよな? 僕のことも聡と呼んでいたし……
「聡」
「!」
背後から呼ばれて飛び上がるほど驚いた聡はミルクを零しそうになった。カップを置いて振り返ると秀蓮がベッドから起きて壁を背に座ろうとしていた。
「ちょっと待って」
聡は急いで椅子から立ち上がったが、秀蓮は痛がる様子もなくひとりで起き上がった。
「もう大丈夫だよ」
秀蓮の笑顔にほっとした聡は、食事をベッドの上に置いた。
「杏樹が持ってきてくれたの?」
「ああ、うん」
聡は表情を曇らせ、秀蓮から目を反らして机の椅子に腰をおろした。
「──なあ、聡。杏樹は病気なんじゃないか?」
「えっ」
「夕べの君たちの会話。聞こえちゃったんだ」
秀蓮がすまなそうに言う。
「盗み聞きするつもりはなかったんだけど、彼の言っていることが気になったから」
「それはかまわないけど……病気?」
「うん。病気と言っていいのかどうか……。おそらく精神的なものだと思う。杏樹は嘘を言っていないし、聡をからかっているわけじゃない。『心』も『マリア』も杏樹の中に存在してるんだ」
聡の口は少しずつ開いて、そのままになっている。秀蓮の言うことはいつも正しいと思ってきた。だけど今度ばかりはそうは思えない。
「悪いけど、秀蓮の言ってることわからないよ。あいつの話はもういいよ」
聡は机に向き直り食事を続けた。それでもかまわずに、秀蓮も話を続けた。
「父から聞いたことがある。そんな症状の患者の話を。目の前でいろんな人間にかわるんだって。まるでひとりで芝居をしている役者のように。でも演技なんかじゃないんだ。聡もそれは感じているんだろう?」
秀蓮が聡を見上げた。聡の背中がぴくりと動く。
「小さな頃に、ひどい苦痛を繰り返し経験すると、苦痛から逃れるために、何人もの人格を作っていくんだって。いや、分裂してしまうと言うべきかな」
「自分を分裂させるなんて、そんなことできるわけないじゃないか」
聡が振り向き、怒ったように言った。
「意識して分裂させているわけじゃない。それだけ耐えられないほどの苦痛を経験したってことだよ。僕たちには想像もできないほどの……」
聡は秀蓮の視線から逃れるように机に置かれた食事に目を落とした。そして、花瓶を割ったときのことを思い返した。聡が触れようとしただけで『ぶたないで』と身をちぢめて震えていた杏樹。
「マリアなら何か知っているかもしれない。彼女とまた話せるといいけど……聡、君は口止めされたから僕は知らないことになってるんだよね」
聡が思わず秀蓮を振り返る。秀蓮は苦笑いして聡を見つめていた。その目は聡に訴えている。
「それって、僕に『マリア』から聞き出せってこと?」
聡がうんざりして聞くと 秀蓮はゆっくりうなずいた。
「……魔女」
聡は恨めし気につぶやいた。
空の食器を乗せたトレーを食堂へ運びながら、聡は廊下の窓から湖を見つめた。湖の手前に、ここからは見えない杏樹が水浴びしていた泉がある。
秀蓮の言っていたことは信じられないし、本当にそんなことが起こるとは思えない。でも、もしもそれが本当なら、今までの杏樹の不思議な行動もつじつまがあう。『心』が、花瓶を割っただけであんなに怯えていたのもうなずける。耐えられないほどの苦痛──自分は『心』の傷口に絆創膏をはっただけだ。それが感謝されるほど優しくしたことなのか?
杏樹はそんなふうに誰かに優しくしてもらったことがないのだろうか。杏樹の母親は、彼に優しくなかったのか。天使と名づけたわが子に……。
聡が部屋に戻ると秀蓮は眠っていた。ついていなくてもよさそうだったので、久しぶりに外へ出た。
寮から見えた湖まで歩いてみる。湖までの小道には石畳が敷かれていた。湖にはボートも浮かんでおり、桟橋にはボートハウスも建てられている。夏に寮の少年たちが遊ぶ光景が安易に想像できた。
湖が近づくにつれて森がひらけ、空が大きくなる。茂みの奥には泉が見えた。聡は茂みをおしのけて入っていった。
「──イシカ」
聡は泉のほとりに立ち、その神秘的な光景をまのあたりにして無意識につぶやいた。
泉の水面は鏡のようにまわりの濃い緑をそのままに映し、泉の中心はどこまでも透明な翠玉色。水底はすぐそこにあるように、水草や石ころまでがくっきりと見える。だが、倒木が何本も折り重なっているから水底はある程度の深さがあるはず。杏樹が入っていた泉のほとりのほうでも腰の高さまであったはずである。まるで水底に手が届きそうな透明度だった。
水底の砂が舞い上がっている。水が湧いているのだ。聡はそっと手を入れてみた。
「わっ」
冷たいと思っていた水がぬるかったので聡は思わず声を上げた。杏樹が入っていたあたりを見ると、底の砂があちらこちらから舞い上がっている。そこまで行って手を入れてみると、思ったとおり暖かかった。
聡はあたりに人がいないか確かめると、服を脱いで裸になった。
そっと足を入れてみる。なんだか異世界に吸い込まれそうな雰囲気だ。おそるおそる足を入れて水底に立つと、一気に頭までもぐった。目をあけみると、そこは別世界だった。
倒木や湧水に舞い上がる砂粒がくっきりと見える。まるで水があるとは思えない。空気よりも透明な世界だ。聡は水面から顔を出すと、
「気持ちいい!」
叫んでいた。
両手を広げて、高い青空を仰いだ。大きく深呼吸する。ここ数日でいろいろなことが起こりすぎた。頭の中のごちゃごちゃを吐き出すように聡は息を吐ききった。
自分の体の中のあらゆる物質が、この神秘的な泉の底のように透きとおっていくような開放感だった。
君の声は僕の声 第三章 7 ─透明─