中二

中二

 その洞窟は母の在所のすぐ近くにありました。
 え? ああ、在所ですか。在所というのは母の実家のことです。方言ですかね。
 在所は東三河の山奥の辺鄙なところにあって矢作川の上流でダムの近くなのですが、毎年夏休みや冬休みになると妹と一緒に一週間ほど滞在していたものでした。名古屋の自宅から両親の車で送ってもらい、一週間ほどするとまた車で迎えに来てもらって名古屋に帰っていましたね。
 数百坪……いや、もしかしたら千坪以上あるかもしれません。広い敷地で、母屋のほかにいくつかの離れや土蔵もあるような広いところですが、当時から住んでいるのは祖父母の二人だけでした。ええ、今も二人で暮らしています。今年のゴールデンウィークにも行って来ましたよ。今は京都から遠路はるばる自分の車で一人旅ですがね。

 そうそう、洞窟の話でしたね。
 在所の土蔵の裏手から獣道のような狭い通り道が山の方に通っていましてね、その道を途中で左にそれるとちょっとした丘の麓にあったのですよ、その洞窟は。
 入口はちょうど大人一人がぎりぎり通れるほどで、一見小さそうな洞窟でしたが、子供ながらに「これは何だろう?」とふしぎに思っていました。ええ、もちろん大人たちに訊いてもみました。訊いてみたのですが、どうもいまいち要領を得ないのです。人によって言うことが違うのです。祖父によれば松平家が財宝を隠した場所だという話ですが、祖母は弘法大師が妖怪変化を封印した塚だと言っていました。近所の大人たちに訊いても、ある人は昔の豪族の墓の跡地だと言い、別の人は落ち延びた平家の要人を匿った場所だと語る始末です。どうやら実際に入ったことのある人はいないようでした。というか、そもそも皆ほとんど関心がないみたいで、私が話を訊こうとした時も、たいがい「何だっけ?」という反応だったのですから。
 私もなんとなく入ったことはなかったのですが、中学二年の夏に洞窟探検に行くことにしたのです。いえ、別に何か決意してとかそういうことでもなく、ただなんとなく行ってみようと思っただけです。洞窟探検のことは祖父母にも話したのですが、晩御飯までには戻ってくるように言われただけでした。おそらく洞窟への関心自体がほとんどなかったのだと思います。
 どんよりと雲の垂れ込めた少し涼しい午後でした。麦茶を入れた水筒と懐中電灯と携帯電話、それから父のお下がりのデジタルカメラを持って、私は洞窟の中へと足を進めました。

 洞窟に入ると、入口と同じほどの広さの通路が左へとカーブしていました。そのからも広さはだいたい同じでしたが、道はほぼ真っ直ぐな一本道の緩い下り坂になりました。それがたぶん百メートルほど続き、やがて行き止まりになりました。
 私は「何だこんなものか、つまらないものだ」といささか拍子抜けして、ここの写真だけ撮って帰ることにしました。ところが、カメラのファインダーを覗いてシャッターを切り、撮った写真をモニタで確認したところ、右奥の壁面に何か光る物体が写っていたのです。さっき懐中電灯で一瞥しただけではわからなかったものです。近寄ってよく見たところ、ゴツゴツした岩壁の一角に明らかな人工物があります。それはハガキほどの大きさの四角い金属板で、顔の高さに埋め込まれています。その大きさと位置から家の玄関にあるインターホンを想像しましたが、実際のそれはボタンもスピーカーもない銀色の板でした。傷や汚れは全くなく、よく磨かれて手入れが行き届いている様子でした。その滑らかさは、ちょっとした鏡としても使えそうなほどでした。
「これは一体、何だろう?」と思った私は、何気なくその表面に触れてみたのです。
 すると、背後でゴトゴトと立て付けの悪い引き出しを開けるような音がして、驚いて振り向きました。懐中電灯の光を向けると、岩陰に幅三十センチ、高さ二メートルほどの隙間ができていました。出っ張った岩の陰なので、最初から隙間があったのに気づいていなかっただけかもしれませんが。
 私の中で一瞬、恐怖と好奇心の葛藤がありましたが、勝ったのは好奇心でした。私はその隙間を覗きつつ、懐中電灯を向けようとしました。が、しかし。懐中電灯の光を向けるよりも早く、闇の中に何かが動く気配を感じました。私はすばやく懐中電灯を消し、息を潜めて気配を殺しました。やがて人の足音と懐中電灯のものらしい光が近づいてくるのが見えました。
 やがて光と足音が停まると、不意に灯りがつき、隙間の向こう側の空間がぱっと明るくなりました。隙間からあふれた光で私は目がくらみ、思わず目を閉じたのですが、そのとき
「おや? 君は角岡悠希じゃありませんか」と、私を呼ぶ声が聞こえました。
 光に目を慣らすようにゆっくりと目を開けると、そこには私の知っている一人の男が立っていました。男は三十歳ぐらいの痩せ型で、黒い服を着て手には懐中電灯と小さなカバンを持っていました。
 驚いたことに、その人物は三年前、私が小学五年生だったときのクラス担任、柘植先生でした。しかし、私が驚いているのと同じように柘植先生も驚いていました。
「先生? もしかして、牧野池小の柘植先生ですか」
「そうですよ。それにしても奇遇ですね」
 先生はこちらに来ると、隙間に手をかけて引きました。すると、岩の一部が引き戸のようにガラガラと開いたのです。私は先生に促されて中に入りました。そこは八畳間ほどの広さの空間で、別のところに続くと思われる通路がいくつか開いていました。先生は明かりを消して懐中電灯をつけると、私について来るように言い、右側の通路の方に歩いて行きました。私たちはゆっくり歩きながら、私の卒業後の牧野池小のことや私の中学生活のこと、そして、母の在所がすぐ近くにあることや、以前からここが気になっていたことなどを話しました。
 通路の先には木でできた扉があり、私たちはその中に入りました。

 それは、全く不思議な光景でした。

 上品で落ち着いた内装の、学校の教室ほどの広さの部屋でした。ベージュの壁紙にグレーの絨毯、ソファーやテーブルなどの調度品も、質素だけれども決して安っぽくはない感じだと思いました。空調もよく利いており、とても地下とは思えない空間です。そこには先生と同年代と思われる四人の人がいて、テーブル上に広げた大きな図面を囲んで、何やら話し合っていました。先生は私を四人に紹介すると、皆は私にソファーの一つをすすめてくれました。私がそこに座ると、この座のリーダー格らしいメガネの男がこの洞窟について説明してくれました。
 それによると、この洞窟は異界の概念へと続く時間が通る場所だという話でした。しかし、そういう説明を聞いても私にはさっぱりわかりません。ですが、普通の日常とは違う場所なのだろうということは、なんとなくわかりました。
「どうにもよくわかりません」と私が正直に言うと、五人はさもありなんという風に笑って、傍らの戸棚からオルゴールのような箱を取り出して来ました。蓋を開けて中を見せてくれたのですが、何もありません。いや、箱が空っぽという意味ではなく、箱の中身を認識することができなかったのです。たぶん、中には何らかの存在があり、それを五感で感じられたはずなのですが、どうしてもそれを意識でつかむことができなかったのです。箱の中に手を入れてみても、何かが触れたのかどうかすらわかりませんでした。これは驚きでした。私がどこかおかしくなってしまったのかとも思いました。
 他にも、見るたびに変化する物や、聴覚で味を感じられる物など、いろいろ不可解で不可思議な物体がありました。これは一体どういうことなのかと尋ねたところ、
「簡単には説明できないので、興味があったらまた来なさい」と言われたのです。そして、ここへの入り方はわかりますかと訊かれたので、ここに入った時の銀色の板のこととか、左側の隙間のことなどを言ったところ、五人は「その通り、それでよい」とうなずいて、一枚のカードを渡してくれました。そして、
「このカードの意味をつかんだ時、君はあの扉の先に進むことができるよ」と言いました。その指差す先はさっき入って来た扉と反対方向で、別の扉がありました。その扉は金属製で、昔のSFに出てくる宇宙船の扉のようだと思いました。
「あの先には何があるのですか?」と訊きましたが、その時が来たら自ずと知れるであろうと言われるだけでした。

 その日はそれで帰りました。
 帰ると祖父母に洞窟探検の様子を聞かれたのですが、百メートルほどで行き止まりだったとだけ言い、その先の話はしませんでした。いえ、とくに口止めとかそういうことはなかったのですが、なんとなく言ってはいけない気がしたのです。

 そして翌日、私は再び洞窟に向かいました。今度は祖父母や妹にも何もいわず、散歩に出るような感じで出かけました。
 洞窟に入ると前日同様、下りの通路を百メートルほど行き、行き止まりで右側の銀の板を探したのですが……見つかりません。
 確かにここだったはずと思えるあたりをしばらく探してみたのですが、どうしても見当たらず、結局その日はそのまま帰りました。翌日もその翌日も同じように洞窟に行ったのですが、同じことでした。
 そうこうしているうちに帰る日になり、私は疑問を宙に浮かせたまま名古屋に帰ったのです。
 その後、冬休み、その翌年の夏休みと、在所に来るたびごとに洞窟に来ていたのですが、二度とあの部屋には入れませんでした。
 えっ? カードですって? それもいろいろやってみました。洞窟の中で振ってみたり投げてみたり、外で光にあててみたり水につけてみたり、いろいろ試してみました。それでも結局何も起こらなかったのです。
 やがて私も徐々に洞窟のことは忘れていきました。最後に入ったのは高校二年の冬休みでした。三年の時は受験対策やら何やらで在所には行かなかったのです。
 高校を出た後は京都の大学に入り、大学卒業後は高槻の会社に就職したため、私はそのまま京都に住んでいます。その後何回か在所にも行きましたが、洞窟には入っていません。

 さて、前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に入ります。
 昨年の秋、仕事の出張で行った先の名古屋駅でばったり会ったのです、柘植先生に。先に気が付いたのは柘植先生でした。
「おや? 君は角岡悠希じゃありませんか。奇遇ですね」と、先生は声をかけてきました。
 私がとても驚いたのは言うまでもありませんが、次の先生の言葉は私を困惑させました。
「ところで、君はあれから一度もあの洞窟の部屋に来ませんが、何かあったのですか」
 そこで私は、あれ以降洞窟に行っても銀の板が見当たらず、中に入れなかったことを言いました。しかし、先生は「おかしいなぁ、そんなことはないはずなのですが…」と、首をかしげるのでした。カードのことも教えてもらおうとしましたが、自ら知る必要があるということで、教えてもらえませんでした。
 私は狐につままれたような気分でしたが、次の機会にもう一度行ってみようと考えました。それでその場は別れたのですが、先生の連絡先を聞いておかなかったのは大失敗でした。この大失敗のダメージが後々効いてきたのです。

 次の年末年始、久しぶりに在所を訪ねたとき、もう一度洞窟に向かいました。しかし、あの部屋はおろか洞窟自体が見つかりません。というか、その洞窟のある丘そのものがなくなっていたのです。さらに驚くべきことに、祖父母に訊いてみたらそんな洞窟はないと言うではありませんか。近所の人に訊いてみても同じでした。皆が示し合わせて私にウソを言っているのでしょうか。それとも私の頭がどうにかなってしまったのでしょうか。
 その二日後の一月四日、名古屋の実家に立ち寄ったときに“事件”は起こりました。夕方、近くのサークルKに行ったのですが、そこで加藤に会ったのです。加藤は小中学校が同じで、何度か同じクラスになったこともある元クラスメートです。久しぶりだということで盛り上がり、いろいろ昔のことなどを話していたのですが、その中で柘植先生の話が出ました。すると加藤が、
「それにしても、柘植先生は残念だったよね」と言ったのです。
 どういうことか、聞いてびっくりです。先生は去年の春、事故で亡くなったというではありませんか。
 では私が秋に会った先生は、一体誰なのでしょうか?
 洞窟の隠し部屋の話を知っていたことから別人とは思えないし、幽霊にしては存在感がありましたし、えっ? 洞窟の先生がそもそも偽物だった可能性ですか。それはないですね。洞窟で話した時に、本物しか知りえないはずの、小学校の時の話を知っていましたからね。
 そんなわけで、あの洞窟の件から十三年経ちましたが、謎は増すばかりで混乱しているのです。
 もう、何がなんだか……

   ◇ ◇ ◇

 以上が角岡悠希さんの話である。
 彼女はこの一連の件が、もしかしたら心理的な問題なのではないかと疑い、当心療内科を訪れた。実際のところ、精神医学的にも心理学的にも異常は見られない。
 だが、彼女は一つ重要なことを忘れている。それは十三年前の夏、あの洞窟の部屋にいたメンバーの中に、私がいたことである。
 そして、私は本当のことを知っている。しかし、これを彼女に語ることはできないし、本当のことを語らずに彼女を納得させることはできない。
 願わくば、彼女が自力で正解に到達することであるが……

中二

中二

中二の夏、以前から気になっていた謎の洞窟に、探検に入る。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-30

CC BY-NC-SA
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