君の声は僕の声 第三章 6 ─心─
心
「具合はどうだ?」
夕食の後、櫂が部屋にやってきた。
「久しぶりだな、櫂」
「おう、お互いちっとも変わらねぇけどな」
櫂の皮肉にふたりは笑った。櫂はベッドのはしに腰をかけ、聡は机の椅子の背もたれにまたいで座り、背もたれに回した腕にあごを乗せたまま杏樹(あんじゅ)に目をやった。杏樹はベッドに横になり静かに本を読んでいる。
「久しぶりの再会にしちゃ面倒なものをよこしてくれたよな」
「退屈してると思って……どうだった?」
「ああ、おかげでいつも使わない頭をフル回転だよ。徹夜で読ませてもらった」
面倒くさそうにそう言って秀蓮に封筒を差し出し「本気なんだな」と、真剣な眼差しを秀蓮へと向け、秀蓮の意思を確認するように瞳の奥を見据えた。
「ああ」
秀蓮(しゅうれん)の口角が上がる。
櫂は短いため息をつくと、「これもな」と言って、持ってきたカバンの中からバラバラになった用紙を取り出した。なかには丸めた紙を伸ばした、くしゃくしゃの物まである。
「これは?」
「大学院の研究施設からくすねてきた」
「大学院の?」
秀蓮が訊ねたその時、杏樹が本をぱたんと閉じ、ベッドから飛び起きるとそのまま黙って部屋を出て行った。
「あいつがいるの忘れてたな。まあ、利口な奴でよかった」
櫂が肩をすくめる。聡は杏樹が気になったが、それより櫂の話を聞きたかった。
「それで?」
「あ、ああ」
櫂は聡の軽く睨むような目に、気を取り直して話しはじめた。
「そこの研究施設は来月にも取り壊される予定だ。川の向こうに新しく建てられた研究施設に移るからね」
聡は、暗闇の中に建つ、真新しい建物を秀蓮が見つめていたのを思い出した。
「今は引っ越しの準備で書類を箱詰めにしている最中だ。で、今のうちにその箱の中からこれを頂いてきたってわけ。後はゴミ箱から拝借した。あれだけの研究施設だ。何を研究しているのか気になるだろう?ま、ふたりが持ってきたような正式な書類ではないけど、何を研究しているのかくらいは解るだろう」
「よく盗ってこられたね」
聡が感心して言った。
「あそこの教授は研究にしか興味がない純粋な科学者だからな。というより、数年前までは誰にも相手にされずに、あんな崩れ落ちそうな建物に押し込められていたんだ。それがどうだ? 最新の設備の研究所にお引越しだぞ」
櫂が皮肉な笑いを浮かべる。聡は秀蓮の懐疑的な横顔を見つめた。
「まあ、引越しが済んで箱から出されるまで、しばらくは気づかれないだろう」
「十分だよ。ありがとう」
秀蓮が微笑んだ。
※ ※ ※
体が熱い、また傷が痛みだした。誰かの手が傷に優しく触れる。冷たい手が額に触れ心地よい。
──聡?
ゆっくり目を開けると、聡はベッドに突っ伏して寝ており、同室の少年が心配そうに秀蓮を見つめていた。
「また痛むの?」
少年が触れると痛みが楽になったような気がする。
「昼間も、こうしてくれたね……ありがとう」
まだ少し息が乱れる。礼を言われて少年は、恥ずかしそうに下を向いた。
「僕は秀蓮。君の名前は?」
「……心」
はにかみながら少年は答えた。
「心?」
「うん」
小さな子供のような返事。秀蓮が微かに笑うと、少年は顔を固くした。急に身を縮めて震えだし、「ちがうよ。僕の名前は杏樹だよ」と言って顔をそらす。それから怯えたようにベッドにもぐった。頭までシーツを被り、壁を向いてしまった。
秀蓮は少年の行動を不思議に思いながら眠りにおちた。
朝になって秀蓮が目を覚ますと、ベッド脇にいるのは聡だった。少年はもう出かけたらしい。聡が傷口を消毒して新しい包帯を巻いてくれる。
「傷口は塞がったようだね。もう血も滲んでこない」
傷の治りが早い。秀蓮は傷口に触れていた手の感触を思い出した。
「同室の子の名前はなんていったかな?」
秀蓮が上半身を起こしながら訊ねた。
「杏樹のこと?」
「杏樹。ね……」
秀蓮はあごに手をあてて考え込む風にもう一度訊ねた。「心って名前の子はいる?」
「心? 人の名前なの? 同室の子は杏樹だよ。寮の中にそんな名前の子がいるのかはわからないけど……どうかしたの?」
「いや、なんでもない」
「ふうん」
聡はおかしなことを聞くと思いながらも『心』という名前にひっかかった。
──どこかで聞いたような。どこでだっただろう?
昼になり、部屋に戻ってきた杏樹の顔を見て、聡は思い出した。「あっ」思わず大声をあげてしまい、慌てて部屋を出た。思い出した。あの日、杏樹の秘密を知ってしまったとき、冷たい目をした杏樹の口から出た言葉だ。
──あんたは心に優しくしてくれた。心はあんたに感謝してる
『心』って人の名前なのか? 誰だ? 聡は考えれば考えるほどわからない。秀蓮がなぜその名前を口にしたのか聞いてみたいが、杏樹のいるところでは聞けない。かといって秀蓮を部屋の外へ連れ出すわけにはいかなかった。
廊下でうろうろしていると、櫂と透馬がやってきた。ふたりとも制服を着ている。
「学校へ行くの?」
「ああ」
「今日も何かしてくるのかい?」
「今日もお勉強」真面目な顔をして応えた櫂に「そのあと、買い物をしてくるんだ」と、透馬が付け足す。聡はあの外国のような街並みを思い出した。
「お待たせ」隣の部屋から流芳と麻柊が制服姿で出てきて「杏樹は?」と訊ねる。
「杏樹も行くの?」
「ああ、一緒に行く」
櫂は秀蓮がゆっくり休めるように、秀蓮だけでなく、杏樹たちにも気を使ってくれていると聡は思った。みんなが出かけてしまうと、杏樹が運んでくれた昼食を秀蓮とふたりで食べた。聡は机に座ってさっさと食事をすませると、一気にお茶を流しこんだ。
「さっき言ってた『心』って名前。どこで聞いたの?」
聡は机の椅子の背もたれに肘をかけて、ベッドで食事をとっている秀蓮を振り返った。秀蓮は少し考えてから口にした。
「この食事を持ってきてくれたのは杏樹だよね?」
ベッド脇に椅子を移動しながら聡は頷いた。
「彼は双子?」
「えっ? そんなことは聞いてないよ。あっ、でも、とても気分屋で別人のように印象が変わるんだ」
「ふうん……」
秀蓮は腕を組んで考え込んでいる。
「明け方、傷が痛んで目を覚ましたら、彼が傷口に手を当ててくれていたんだ。彼が手を当てると不思議と痛みがひいていく。で、名前を聞いたら『心』と答えたんだ。変わった名前だからもう一度聞いてみたけど『心』だと言った。でもすぐに『杏樹』だと言い直して、ベッドにもぐり込んでしまったんだ。まるで何かに怯えるようにしてね」
秀蓮の言葉に、今度は聡が考え込む。
「傷口に手を当てていた杏樹が自分の名前を『心』だと名乗った……あんたは心に優しくしてくれた。心はあんたに感謝してる……」
「何それ?」
「杏樹に言われたんだ。名前だとは思わなくて、意味がわからなかった。ひとの名前なら言っていることはわかるけど、でも『心』って、誰?」
ふたり顔を見合わせたままは黙りこんだ。
夕方になって櫂たちが戻ってきた。話していたとおり買い物をしてきたらしく、大きな袋を抱えて部屋に入ってきた。中身は聡と秀蓮の下着や服、日用品、それに寝袋が入っていた。驚いて言葉を失っていたふたりに櫂は「俺たちは使い切れないほどの手当を貰ってる。KMCの金だ。気にすんな」そう言って笑った。
聡にとって寝袋はありがたかった。ベッドに突っ伏したまま寝てしまったので、体中が痛かった。今夜はぐっすり眠れそうだ。秀蓮もだいぶ良くなってきた様子だったので、聡は遠慮なく寝袋を使わせてもらった。
夜中、聡は秀蓮の寝息が乱れているのに気づいて目が覚めた。秀蓮に目をやる。誰かがベッドの脇に座っているのが確認できた。窓から差し込む月明かりで逆光になり、影になって顔は見えないが、シルエットで杏樹だとわかった。杏樹がまた、秀蓮の傷口に手を当てている。
「杏樹?」
聡は寝袋から起き上がって声をかけた。杏樹は振り返ると「夜になると痛みだすね」と口にした。秀蓮を本気で心配しているのが伝わってくる。
「痛みが、わかるの?」
聡はおそるおそる聞いてみた。杏樹は意味がわからない、というふうに首をかしげている。
「君の名前は『心』?」
聡が杏樹の様子を伺うように聞くと、月明かりに照らされた杏樹の顔色がさっと変わった。
「違うよ。杏樹だよ」
動揺するようにそう言いながら立ちあがると、聡から顔をそらしたまま自分のベッドに戻り、杏樹はシーツを被って向こうをむいてしまった。
どういうことだろう。考えながらシーツを被った杏樹を見つめていると、やがて杏樹が上半身を起こした。聡は慌てて寝袋にもぐろうとしたが、杏樹が聡をとらえるのが先だった。杏樹と目があって、聡は違和感を覚えた。
杏樹の印象がおかしい。今までの杏樹とは別人のように見える。何が違うのかと考えても、服装も髪型も変わらない。奇術師でもないのにこんな瞬時に変わりようがない。聡を見つめる杏樹は、秀蓮の傷口に手を当てていた少年でも、冷ややかな目をした少年でも、陽気な少年でもなかった。
やわらか微笑みを浮かべて聡を見ていた。ベッドから降りると、滑るように聡の横に座った。
君の声は僕の声 第三章 6 ─心─