千の夜を共に 第1章
第1章 奏多
「千夜ちゃんは彼氏いないの? モテそうだけど」
「そんなことないよ、いないよ」
そう微笑んだ私はこの男の目にどう映っただろう。美しかったかな、本当のことを言ってるように見えたかな。嘘をつく罪悪感はとっくのとうに忘れてしまったし、浮気をする背徳感ももはや感じなくなっていた。それでもカレシは他の男とは違って特別であるし、愛している。
「可愛いのにね。俺が貰っちゃおうかな」
そう言って私に口づけをする男の息の匂いは臭かった。でもそんなことは指摘もしないし、三秒で忘れてしまう。それが気持ちいいからではない、この男にとって完璧で都合のいい女を演じていたいから、ただそれだけ。
彼の手は私の胸に触れる。センス、ないなあ。カレシの方が上手い。やっぱり私のカレシは最高。こんなことを思いながらも私の身体はそれらしく動く。不自然じゃないよね、見抜かれてないよね。こんなに経験値のなさそうな男に見抜けるわけがない。私とは場数が違う。
神崎千夜のテクニックはすごい。自分でもそう思っているし、今まで数々の男にそう言われてきた。行為の巧さもさることながら、それに至るまでの過程がすごいと自負している。どこにでもいるビッチとは違うのだ。思わせぶりな素振り、上品かつ色気のある仕草、そしてそういう流れに自然と持っていくテクニック。どれをとっても一流だという自信があるし、そもそもそこを重視しているビッチは少ないだろうから、千夜は特別だ。
千夜には恋人がいるが、彼は彼女のテクニックに魅了されて彼女と付き合い始めたわけではない。小手先のテクニックではオチないところが千夜を惹きつけた。千夜は自分から男に近づくことが多いが、それは心のこもっていないアプローチである。それなのに大抵の男は千夜に釣られてしまう。大抵の男は千夜のことを清廉かつ色気のある心優しい女性だと思い込んでしまう。
しかし、恋人の奏多は違う。最初から千夜が、所謂ビッチと言われる類の人間で男への愛情に見えるものは全て偽物で、千夜の心にあるのは空回る自己肯定感の低さと底なしの承認欲求だということを見抜いていた。奏多は千夜より一枚上手だったのだ。
奏多の千夜への第一印象は「気持ち悪い女」であった。薄っぺらくて空っぽで、とってつけたようなミリョクがぺらんと揺れていて気色が悪かった。千夜は出会った当初から顔の良い奏多に良い印象を持った。数々の男とその汚さを目にしてきた彼女にとって、揺るがない評価基準は顔と金の二つだけであったから、顔が良いというただそれだけのことで奏多に惹きつけられたのだ。
「ちい」
奏多は千夜のことを「ちい」と呼ぶ。彼女をそう呼ぶのは奏多だけであり、こんな些細なことでも特別感と安心感を抱いてしまうほど千夜は幼い。
他の男は千夜を喜ばせるために高級ディナーをご馳走したり高額なプレゼントを用意しているが、奏多は名前を呼ぶだけで彼女を喜ばせることができる。奏多にだけできる特別なことである。
「ちいは今日も他の男に抱かれてきたの」
「うん」
奏多は千夜の行動を否定はしない。ヤりたいことはヤればいい。それが奏多の本心である。千夜のことを大切に思っていないわけではないが、独占欲は不思議と湧かなかった。千夜がそれでいいならそうすればいいと心の底から思っているのと同時に、千夜が本当はそんなことをしたいとなんて思っていないことを見抜いているから、このカップルにはどこか不自然さがある。
「今日はどんな人」
「奏多、変態だね。普通そんなこと知りたがらないよ」
「どんな人なの」
奏多はほぼ毎日、千夜の生理の日以外、彼女がどんな男と情交を交わしたのかを確認する。独占欲こそないが、彼女の本気が自分から他の男に移ってしまうことを恐れていた。
「下手くそな人だったよ。ムード作ろうと努力してるのは伝わってきたけど、イマイチ」
「へえ」
「奏多の方がずっといい」
いつも千夜は他の男と比べて奏多を褒めてくれる。奏多より良い男は今まで現れていないし、千夜は今後現れることがあるとも思っていなかった。だったらなんで多数の男と関係を持つのか不思議に思う人がほとんどだとは思うが、それは奏多と付き合う前からのただの習慣で大した意味がないというのが千夜のあながち嘘でない建前であった。もっと深い、千夜の心からくる理由は千夜自身もわからない。
「奏多の方がずっといい」
千夜はもう一度その言葉を口にして奏多にキスをした。唇だけを触れさせてから一度口を離すと、今度は奏多が千夜にキスをする。唇を触れさせるだけでは満足しない二人は舌を絡ませ始める。淫靡な水音も、消されずに虚しく鳴り響く深夜番組の音も彼等には聞こえなくなっていく。舌の感触にだけ集中して身体を火照らせ胸を高鳴らせた。千夜がふと目を開けるとそこには長い睫毛がふさふさとした美しい奏多の閉じた瞼があり、必死に千夜を貪っていることが伝わってきた。容姿端麗な奏多をこの瞬間独占していることに千夜はただならぬ優越感を持った。
「ちい、好きだよ」
「私も奏多が好きだよ、奏多だけ」
何人もの男と関係を持つ千夜の言葉は本当のことだ。他の男が聞いても信じられないかもしれないが、奏多は信じることができる。それは彼の自信によるものではなく、恋人同士の信頼によるものである。
彼等は愛情を言葉で伝えながら身体を貪りあう。奏多の手は千夜の豊満な胸に、千夜の手は奏多の熱を帯びたそれに触れる。自分の身体に触れる恋人の手は温かくぬくもりと愛情を感じられるものであるのに、千夜の心は満たされない。身体の満たされなさは幾らでも我慢のできるものであるが、心の満たされなさを我慢できるほど千夜は大人ではない。
互いのぬくもりを感じあった後はすぐ眠ってしまうのがお決まりのパターンであったが、何故だか千夜は寝付けなかった。千夜の隣で眠る顔の整った男の顔をひたすらに眺めることしかできなかった。なにが他の男と違くてこの男と付き合っているのかがわからないことが時々途轍もない不安を掻き立てる。
彼の魅力が素晴らしいから付き合っていると言いたいところだが、客観的に見れば顔が良いだけで他は特に取り柄もない男だ。セックスは上手いが、それで惚れただなんて言いたくもない。千夜の汚いところも全部受け入れてくれるところが好き、千夜を愛してくれるところが好きというのだけは揺るぎない事実であるが、それは奏多自身の魅力ではないのではないか。
それでも寝顔を見ていればそれだけで愛おしさが込み上げてくる。奏多が好きだ。その事実だけは揺るがないと思った。
それなのに浮気をしているではないか。奏多を好きでいるなら、そんなことはしないはずではないか。しかしそのことに対する自己嫌悪が千夜を襲うことはない。千夜が強いからではない。千夜はむしろ弱い存在であった。強いのは奏多であった。
千の夜を共に 第1章