君の声は僕の声 第三章 5 ─神楽学園─
神楽学園
「杏樹?」
聡が声をかけると「ああ、えっとそいつ誰だっけ」と杏樹は明るい笑顔で返した。
「俺の友達で秀蓮だ。悪いな、またお前のとこに連れてきて」
櫂が、杏樹の変化を気に留めずに答えると、杏樹は「構わないよ。別に。だけどベッドが足りないよな」とさらりと言う。櫂は「うーん」と腕を組み考え込んだ。
「僕ならいいよ。ここで秀蓮を見てるから。眠くなったら床で寝るさ」
櫂がちらりと杏樹を見た。
「僕と一緒でよければ、半分貸すぞ」
杏樹の提案を聡は丁重に断った。杏樹と一緒に寝るくらいなら床の方がいい。杏樹は特に気にせずに「あ、昼飯食ったっけ?」思い出したように言った。すると櫂も慌てて「早くしないと終わっちまう。杏樹、おまえ食ってないだろ。聡、おまえも」
「僕はいいよ、ここにいる」
「じゃあ、何か持ってきてやるからな」
櫂と杏樹は乱暴にドアを閉めて出て行くと、聡はぐっすりと眠っている秀蓮を見つめた。
──本当だ。ずいぶん顔色が良くなった。血の滲みも広がっていない。杏樹はずっと手を当ててくれていた。そういえば杏樹は変なこと言ってた。傷口は深くないし、痛みがなくなった、って。傷口は見えていないし、痛みなんて本人にしかわからないのに……。
昼食をすませた杏樹が、聡の食べる分をトレーに乗せて持ってきた。少し多めだから秀蓮の分も考えてくれたのだろう。聡が礼を言うと、杏樹は天使の笑顔を見せた。
どういうことだろう。杏樹のいつもと変わらない態度は。というよりいつにも増して愛想が良くも感じる。いつまでも気持ちを引き摺らない気持ちの良い奴なのか……。聡がベッドに椅子を持ってきて腰かけると、杏樹はクローゼットの扉を開けて、おもむろに服を脱ぎ始めた。聡は慌てて立ち上がり、急いで部屋を出ようとした。
「どこ行くんだよ。飯食わないの?」
杏樹が下着一枚の姿で平然と聞いてくる。
「着替えるんだろう……だから」
聡が杏樹を見ないようにして困っていると「何だよ男同士で。いいよ、わざわざ出て行かなくても」そう言って、聡がドアに掛けた手首を掴んだ。
聡はまたも困惑した。秘密を隠すために夜中に泉に行く奴が、なぜ平気で着替えるのだろう……。あれから杏樹は何事もなかったかのように接してくる。
とにかく聡は、杏樹から目を反らし、机の椅子に腰をかけて食事を始めた。
「準備できたか?」
ノックされたドアから、櫂がシャツにネクタイを締め、KMCのエンブレムのついたブレザーを羽織って現れた。杏樹も同じ格好をしている。
「どうしたの?」
聡はきょとんとしている。
「どうしたのって、俺たちの本業は学生だからね。これから学校に行ってみんなでお勉強してくるの」
櫂がおどけて応えた。「しゃらくさいだろう? 制服なんてさ……じゃ、夕方まで帰らないから。よろしく」
そう言ってふたりは部屋を出て行った。
聡が部屋から顔だけを出して見送ると、流芳と麻柊、それから階段から降りてきた透馬も、制服を着て寮から出て行った。部屋に戻って窓からのぞくと、学校までの送迎バスに乗り込むみんなが聡に手を振った。
「バスか。すごいな」
聡の町では馬車が走っており、車は数台しか見かけない。聡はまだ車に乗ったことはなかった。
「学校か」
聡の脳裏に、友達と上手くやっていた頃の学校の風景が浮かんだ。あんな風に笑いあいながら登校していたのは、ほんの一年前だった。何の問題もなく高等部を卒業し、兄のように王立大学へ行くものと思っていた。なんの疑問も心配もなく……。
聡はしばらく窓を開けたまま、走り去ったバスが舞い上げた花びらが、ゆっくりと落ちていくのをぼんやりと眺めていた。
※ ※ ※
学校は工場の社宅に近い同じ敷地の中に、初等部から高等部までが建てられている。道路を挟んで大学と大学院もある。櫂たちが通う『特別クラス』は大学と同じ敷地内に、林に囲まれてひっそりと建っていた。
バスは大学の正門とは反対側の『特別クラス』専用の入り口から入っていく。バスを降りると、櫂と透馬は「じゃあな」と言って、大学院の方へ歩いて行った。
「どこ行くんだ? あのふたり」
杏樹の問いに「買い物にでも行くんじゃないか」と、麻柊が答える。
実際、寮の少年たちが買い物に来るときには、送迎バスを利用する。バスを降りてどこへ行こうと、誰にも干渉されることはなかった。ただ、商店街の人間は、何年たっても同じ姿で買い物にくる少年たちを好奇の目で見た。けれど、高価な物でも即金で支払っていくこの客たちに、彼らは喜んで品物を売ってくれるのだった。杏樹は麻柊の答えに満足していないようだったが、それ以上は突っ込んでこなかった。「ふうん」と興味なさそうに応えると、ひとりで先に教室へと入って行った。
「なんで杏樹を連れてきたんだよ」
麻柊が小声でささやく。
「櫂が誘ったんだよ。秀蓮をゆっくり寝かせてあげたかったんじゃない? いいじゃん、今日の杏樹は機嫌が良さそうだし」
「俺たちまで抜け出したら、杏樹、勘ぐらないか?」
「大丈夫だよ」
流芳はけろりと応えた。
「おまえの大丈夫は根拠がないんだよ」
ふたりで計画していた通り、授業が始まって二十分ほどたった頃、麻柊が「お腹が痛い」と言いだした。流芳が「僕が保健室へ連れて行きます」と立ち上がり、ふたりは教室を出た。
「杏樹が眉間にしわ寄せてこっち見てたぞ」
麻柊がまだ腰をかがめてお腹に手を当てながら痛そうに言った。
「もういいんじゃない。その恰好」
「ああ、そうだな。急ごう」
ふたりは大学院へ走った。保健室は大学院と共同だ。だが、ふたりは保健室の入った棟を通り過ぎると、とある研究施設へ向かった。敷地の隅に忘れられたように林の中に建つ古ぼけた木造のこの研究施設は、もうすぐ取り壊される予定である。ほとんどの学生は、こんなところに建物があることを知らない。知っていたとしても、研究室として使われているとは思っていない。塗装は剥げ落ち、板は腐り落ちている。林は手入れされておらず、枝は伸び放題。細い枝が研究所を包み込むように暗く垂れている。まるで幽霊屋敷のような佇まいに、ふたりは少し躊躇した。
「行くぞ」麻柊の掛け声にふたりは意を決して走った。研究施設の一番奥の角まで行くと、窓の下に屈みこんで、薄い窓ガラスを軽く叩いた。
中から櫂が顔を出す。透馬が「先生からこの薬品を取ってくるように頼まれました」と教授の助手にメモを渡し、薬品を探すあいだに、櫂が研究室へ入り込んでいた。
櫂は抱えていたカバンをふたりに向かって投げると、すぐに頭を引っ込め窓ガラスを閉めて鍵をかけた。
「急げ」
ふたりは人目につかないように林を抜け、『特別クラス』へ戻った。先生は何事もなかったかのように授業を続け、杏樹はちらりとふたりを見たが、気にもとめない様子で真面目に授業を聞いていた。
櫂と透馬は研究室を後にして、林の中に寝ころがり、授業が終わるまでの時間を潰した。
ぼんやりと映る白い天井がはっきりとしてきた。肩に軽い痛みを覚え、自分が寮のベッドに横になっていることを思い出した。ゆっくり頭を動かして肩を見ると血はもう滲んではいなかった。ベッドに頭をあずけて寝ている聡の髪が風に揺れている。日が傾き、冷たくなった風が窓から吹き込んでいた。窓を閉めようと、秀蓮がゆっくり起きようとしてベッドが軋み、聡が目を覚ました。
「窓」
「えっ?」
「窓を閉めないと、冷えるよ」
腕が冷たくなっていた。
「傷はどお?」
窓を閉めながら聡が訊ねる。
「痛み止めでも打ったかい?」
「そんなもの、ここにないよ」そう言いながら、聡は杏樹が手を当てていたことを思い出した。「痛まないの?」
「ああ、だいぶ良くなった」
秀蓮が起き上がろうとするので、聡は手を添えてまくらを立ててクッションにし、上半身を起こすのを手伝った。体を動かしても痛がる様子はなかった。
「ありがとう」
秀蓮の笑った顔を見て、聡はやっと安心することができた。
君の声は僕の声 第三章 5 ─神楽学園─