透き通った目の愛人
「それではメアリーの事を今日も頼みますわね。最近あの子好き嫌いが激しくて、人参をいつも残すの。ちゃんと残さず食べる様言い聞かせて頂戴、貴女の事を気に入ってるみたいだし素直に言う事を聞いてくれると良いのですけれど」
「はい、奥様。いってらっしゃいませ」
私はいつも通り、笑顔で奥様を送り出してきました。奥様が家を出る前にお気に入りのコートを肩にかけてあげるのも忘れません、これもメイドの役目でございますから当然の事です。
今宵も奥様は、休日になると必ず「友人との付き合い」で遊びに出かける旦那様を尾行します。私の様な身分の者がこの様な事を言うのは、真に不躾でございますが旦那様は以前までは、それはもう筋金入りの仕事人間でございまして旦那様自身もそれを自覚しているのか、自嘲気味に「私にとっては仕事こそが親友なのだ」と私に仰る事もございました。所が最近、そんな旦那様が週末には必ず外出する様になったんのです。初めは奥様も「内気な夫に一緒に遊びに行く友人が出来るなんて」とお喜びになられていましたが、どうも雰囲気がおかしな感じなのです。
と、言いますのも旦那様はかなり控えめに言っても内気な方でしたがそれでも、奥様に対しては結婚前から不変の愛情を持っていらっしゃいましてその溺愛ぶりはおしどりも形無し、といった様子でした。私もメイドですのでお屋敷の掃除は日課の一つです、奥様と旦那様の寝室の掃除も毎日していましたがその散らかり具合からは相当激しい夫婦生活ぶりなのだろうと、男性とお付き合いしたことのない私でも容易に想像できてしまいカッと熱くなった顔を、誰も居ないのに見られたりしないか気にしながらベッドメイクする事もしょっちゅうでした。
ですが最近はその様な事もなく…寝る場所は別、食事中に奥様が話しかけても上の空、キッチンで突如不意に起こる奥様へのお尻への愛撫すら無くなってしまい、毎日このお屋敷で繰り広げられるメイドである私が偏頭痛を起こし始めるくらいのいちゃつきはどこへやら、消えうせてしまいました。私としては荒れた寝室の掃除の手間が省けて仕事も捗るのですが、毎晩10時になると起こる奥様の「嫌われたのかもしれない」という不安から起きる大泣きしながらのお酒の暴飲を止めなければなりませんので、私には普段の仕事よりもさらに過酷な日課を背負ってしまった事になります。
そうして、ついに奥様は旦那様の浮気を疑って、週末の朝旦那様が遊びに出かけるのを見計らって尾行する事に決めたのです。何とかして浮気相手の女性を突き止めて、旦那様を問い詰めるのだと毎朝顔をスカーフで隠して帽子を被りサングラスをかけて紅い愛車で走り出していきます。
そんな奥様を見て私はその度に複雑な気持ちになりつつ、奥様をお送り出しするのです。
何故なら私は何故旦那様が突然そんなおかしな行動をするようになったのか、その理由を知っているからです。
そう、それはあまりにも突然の事でした。
ある日私がその日の勤めを終えて自宅に帰ろうとしていると家路についているその途中、旦那様が明らかに自分の趣味ではない筈のアンティークの専門店から出てきて大きな長方形の黒い箱のお荷物を抱えて自分の車にそれを積み込もうとしている所を見たのです。
旦那様は普段から骨董品が嫌い(曰くあんな中古品を趣味で集めている者の気が知れない)だと仰っていたので不思議に思いつつ、私の余りある瀟洒振りを発揮しようと若い女らしい健やかな笑みを浮かべて「お手伝いしましょうか、旦那様?」とお伺いしました。
ばったり顔を合わせてしまったメイドに、旦那様はびっくりなされたのか顔をぎょっと驚かせましたがどうにも様子が変です。
「いや、私一人でも出来るからその必要ないよ」と私の申し出を拒否なされて、そのまま箱を積み込もうとしたそのときです。
つるりと手を滑らせて、箱を落としてしまえばそのまま箱の蓋を押さえていたリボンが緩みあまりにも容易にその蓋は外れてしまいました。
箱の中に入っていたのは沢山の薔薇と、それに囲まれる様にして、それはもう大きな人と同じくらいのサイズの球体関節人形でした。毛先をしっかり切りそろえられた黒髪と、青い透き通ったブルーの瞳、紅く彩られた小さな唇、ふっくらした乳房に秘所の割れ目までしっかりと再現されたそれは、まさしくプロの職人の手によってこの世に作り出されたものであるという事は、その手のものに全く詳しくない私でも簡単に分かりました。
「…お嬢、さまへのプレゼントですよね…?」
我ながら全くの愚問、だと言わざるを得ませんでした。旦那様は沈痛な面持ちのまま、何もおっしゃらずに箱の蓋を元に戻し車の中に摘み直せば、そのまま車に乗り込んで走り去ってしまいました。
あれは一体何だったのだろう、見てはいけないものを見てしまったのではないかと私は頭を悩ませて3日間ほどお休みを奥様にもらいました。今まで決まった休みの日以外に仕事を休んだことの無い奥様はとても不思議そうでしたが、体調をくずしたのだろうとそっとしておいてくれました。
それから数日後でしょうか、普段あまり鳴る事の無い寂しい自宅に久しぶりに電話の呼び鈴が木霊したのは。それは旦那様からの電話で「新しく作った職場の事務所へ荷物を運び入れるのを手伝って欲しい」という内容でした。お屋敷の外の事はメイドの仕事の管域外でしたが、特別にお給料をもらえるという事で私は二つ返事で承諾致しました。
そうして私は指定された住所へ向かうと、そこは古めかしくも良い雰囲気の漂うアパートでした。日当たりも良さそうで、中々良い場所に事務所をこさえたなぁと生意気にもそんな事を思っていましたが、同時に他の部屋は全て住民が居て、お仕事用に部屋を借りているのは旦那様だけでしたので、ちょっと仕事には向いていないんじゃないかとも思いました。
そうして旦那様の居る事務所の部屋のドアの前へ立ってノックをすれば、程なくして旦那様が顔を出してきました。前見た時とは違って随分明るい印象になっているのに私はほっと胸を撫で下ろしました。あの日以来奥様とはもちろん旦那様とも顔を合わせていませんでしたから、内心どんな印象をもたれているか心配だったのです。
「中に入ってくれ、少しお茶でも飲んで休憩を入れてから話をするとしよう」
「話…ですか?」
きっと、これからの作業内容についてでも詳しく話してくれるのだろうと思って深く考えないでいるとテーブルを見てからぎょっとしました。
あの球体関節人形が何食わぬ顔で席に着いているのです!
しかも前見たときの様な裸の状態ではなく、それは可愛らしい春の日のさくらんぼの様な赤いドレスを着て手に紅茶の入ったティーカップを持って!
思わず口を、おバカさんみたいにあんぐり開けてその人形を見ていると私の前にも、とん、と紅茶の入ったティーカップを置いて旦那様が戻ってこられました。
「話というのは、彼女の事だよ。ニナというんだ、可愛らしいだろう?」
「はっ、は…彼女…? ニナ?ニナさんですね、どうも宜しくです…」
言われてから2秒ぐらい送れて彼女、そしてニナと呼ばれているのがこのお人形さんだという事に気が付きました。ちょっとよく分からない笑い声を少しだけあげてしまいながら紅茶を口に運びます。
「君なら分かってくれると思って呼んだんだ、僕と彼女は本当に心の底から愛し合ってるんだよ、誰にも邪魔されたくないんだ。君にも…もちろん妻にも。分かるね?」
「は、はぁ…?なるほど…?」
上手く話が飲み込めないでいると私の目の前にどさり、と紙幣の札束が一つ無造作に投げ出されました。
こんなものは映画の中でしか見た事が無いので「うわぁっ!」と思わず驚きの悲鳴を上げると旦那様はその札束を私の手に無理矢理掴ませると真剣な眼差しで目を見つめてきます。
「これがばれると妻とは別れなくてはいけなくなる、もう彼女との間に愛は無いが娘はまだ愛しているんだ。それに彼女の事だ、もし私が自分ではなく人形を愛しているなどと知ったらどんな手を使ってでも破壊しようとするだろう。君にはこれで黙っていて欲しい、給料も毎月私が秘密で上乗せしよう」
早口で旦那様はそうまくしたてます。私は驚きながらもしっかり札束を握り締め、その瞳を見つめ返しました。答えはもちろん…。
YESでした。
仕事を終え、家に帰った私。今日も駄目だった、女は見つからなかったとすれ違い様嘆く奥様を思い出しながらグラスに注いだワインをくぴりと一口口の中に注ぎます。
狭かった前の部屋から広い高級な部屋へ引越し、いつしか高価なカーペットが敷く様になって、座るソファーは合皮の硬いものではなく本革の柔らかいものに代わりました。
それでもまだ恋人は手に入りません。私も球体関節人形を買おうか、なんて冗談を心の中で思い浮かべながらいつ奥様にばれるかもしれないかと不安を抱える旦那様と、まさか旦那様の愛人が人形だなんて梅雨とも知らずに見も知らない夫の浮気相手へ嫉妬の感情を募らせる奥様の二人へほんの少しの哀悼の意を捧げつつ、私はグラスのワインを一気に飲み干しました。
透き通った目の愛人
これは元々、即興小説というサイトで書いた掌編小説になります。
二時間という制約の中で書いたものにしては結構自分の中では、出来の良い方だと思っていてもっとこういうレベルのものを書いていきたいんですが、中々そうもいかないで困っていますね……笑