赤
高2の夏休みの課題で提出した作品です
ようやく、昼の陽射しが弱まってきた夕暮れ時。
黒いアスファルトから立ち上る、真夏のむっとした熱気が、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあるときだ。
僕は学校からの帰り道を、一人で黙々と歩いていた。
家が近い、というわけではない。
しかし、
家が遠い、というわけでもない。
そんな、曖昧な距離が、
僕の住んでいる家と学校との間にはあった。
僕は行きも帰りも、一人で歩くのが習慣になっていた。
自転車もあるしバスもある。
移動手段なら他にいくらでもあるけれど、僕は歩くことに決めていた。
なぜ、って聞かれたって困る。
僕にもよくわからないまま、
親にも「自転車に乗っていけばいいのに」と言われているにも関わらず、
歩きで行くと決めたのだ。
前置きは、このくらいにしておいて、
僕は部活で疲れた足を懸命に動かして歩いていた。
太陽がだいぶ傾いて、熱さが和らいでいるんだから、昼よりはましさ。
そう言い聞かせて、僕は僕の感じる暑さをごまかした。
実際、昼間より随分涼しくはなっていたが、それでもやはり夏は夏、夕方でも十分に暑かった。
夕焼けを反射する僕のエナメルのスポーツバッグは、まるでゴージャスなシャンデリアのように、きらきらと輝いていた。
そのシャンデリアを支えている僕の肩の痛みなんて、これっぽっちも考えずに、それは楽しそうに輝く。
僕の体は玉のような汗をかいているから、もしかしたらバッグと同じように、シャンデリアと同じように、僕の皮膚も夕焼けを反射して輝いているのかもしれない。
ふと気付けば、静まり返った住宅街を歩いているのは僕だけだった。
さえずるスズメも、無愛想なカラスも、無邪気な子供も、無邪気じゃない大人も、居なかった。
ただ、僕がアスファルトを踏む、じゃりっ、じゃりっ、という音だけが、夕焼けで綺麗に赤く染まった住宅街にこだまする。
異常なくらい、夕焼けは赤かった。
ああ……。
こんな日は、
こんな静かな日は、
こんな一人の日は、
決まって「あれ」が出るんだ。
じゃりっ、じゃりっ、
僕の足音にこっそりと紛れて。
たすけて。
小さな、か細い、弱々しい声。
それは僕の真後ろから聞こえてくる。
じゃりっ、じゃりっ、
たすけて。
たすけて。
かすれて、今にも消えてしまいそうな声。
僕は、この声には返事をしないと決めていた。
都市伝説か何かの本で、こういうのには返事をしないほうがよいと読んだからだ。
返事をすると、気付いてもらえると思ってもっといろいろしてくる。
その本にはそう書かれていたと思う。
幽霊の話だった。
でも、そんなの、きっと後付けの理由。
登下校を歩きにする、と決めたのと同じで、結局、理由なんて無い。
じゃりっ、じゃりっ、
たすけて。たすけて。たすけて。たすけて。
少しずつ、声は僕に助けを求めて、大きく、多くなっていく。
じゃりっ、じゃりっ、
たすけて。たすけて。たすけて。たすけて。たすけて。たすけて。
じゃりっ、じゃりっ、
たすけて。たすけて。たすけて。たすけて。たすけて。たすけて。たすけて。たすけて。
ねっとりとまとわりつく。
背後だけでなく耳元からも足元からも四方八方から声は響く。
じゃりっ、じゃりっ、
たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて。
僕は、無視してどんどん先を行く。
歩調を上げるわけでも下げるわけでもなく、なにも考えずに普段通りに。
しかし、それは気にしていないから普段通りなのではなく、むしろ気にしているから、強がって普段通りに歩いているのだ。
普段通りに逃げているのだ。
僕は逃げている。
追いすがってくる声が、僕のバッグを重くしていく。
まるで一歩進む度に、レンガが一個中に入れられていくかのような。
たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて。
溝のヘドロのように。
古びた鉄の錆のように。
恋人の肩にしなだれかかる女のように。
日向に置いてとろけてしまった飴のように。
僕の足に絡まって付着してべとつくのだ。
生乾きの糊のように。
こぼしたジャムのように。
雨上がりのあぜ道の泥のように。
黒く澱んで溜まっている夏の雨雲のように。
僕の足に食らいついて掴まってねとつくのだ。
たすけて。
どんどん歩くのが大変になっていく。
僕の思考には白いもやがかかって霞んでいくから、歩くことだけしか考えられない。
逃げることだけしか考えられない。
僕は逃げている。
がくり、と膝をついて、ばたり、と倒れ込んで。
そのまま意識を失ってしまいたくなるような。
たすけて。
それにしても、この声の主は、一体誰なんだ?
「気になるの?」隣で男が言う。
「うん」
僕はそれに返事をしていた。
「誰なのか、何がしたいのか、知りたいんだね?」
「うん」
「だったら、彼に、返事をしてあげなくちゃいけないよ」
僕は、はっとして、僕の隣を見た。
今の声は、誰……?
じりりりりりりりりりりりん。
突然、僕が見たほうとは反対側から、けたたましいベルの音がした。
驚いて振り向くと、そこには一台の公衆電話。
じりりりりりりりりりりりん。
緑色の、今時珍しい電話機に、僕は歩み寄った。
「返事をしてあげなくちゃいけないよ」
また、この声。
たすけて。
また、あの声。
僕は、ベルを鳴らす公衆電話から、受話器をゆっくりと取った。
ゆっくりと、とてもゆっくりと、それを耳にあてた。
「おまえだ」
シンプルな四文字の言葉が、受話器から聞こえてきた。
聞き覚えのある声だった。
それを聞いた瞬間に、僕は悟った。
今まで助けを求めてきたのは、
今までそれを拒んできたのは、
今それを僕に気付かせたのは、
まぎれもない……。
ああ、そうか、簡単じゃないか。
ふっ、と僕は微笑んだ。
何が可笑しいんだ?
いや、可笑しいことだらけじゃないか。
微笑まずにはいられない。
僕は、ゆっくりゆっくりとした動作で振り返った。
僕は笑っていた。
たすけて。
また、小さくあの声が一つ。
僕は応えて、
「どうしたんだい?」
夕焼けで、何もかもが、赤く、鮮やかに輝いていた。
赤