君の声は僕の声  第三章 4 ─天使の姿─

加賀谷樹里

君の声は僕の声  第三章 4 ─天使の姿─

天使の姿

  心臓がトクンとなる。
  麻柊(ましゅう)から聞いた話が頭をよぎった。もしも杏樹が水浴びをしているのなら、このままやり過ごした方がいい。あいつにかかわるのはやめた方がいい。頭ではそう思っても、怪我をしたときの怯えた杏樹が(そう)の足を止めた。聡の手には小刻みに震える杏樹の肩の感触がまだ残っている。あれは本当に自分をからかったのだろうか。演技であんなに震えるだろうか。幼児のようにすがる瞳を思い、聡の胸は痛んだ。   
 
  同室の少年を刺したのが杏樹だとしたら、何が杏樹をそうさせたのだろう。──恐怖心からか。花瓶を割っただけであの怯えようだったのだ。それを、こんな時間にひとりで真っ暗な泉に入りに来るとは──
 

  聡は足音をたてないように気をつけながら泉に近づいて行った。

  間違いなく泉の中に誰かがいる。杏樹かどうかは見分けがつかない。聡はゆっくりと進んで木の葉の生い茂る隙間からそっとのぞいてみた。下を向いていて顔はよく見えない。杏樹に見えなくもない。
  だが──
  水面からのぞく体の線は少し胸が膨らみ、くびれた腰は少年のものではなかった。

  杏樹じゃない!
 
  聡の顔が赤く染まる。少女の水浴びをのぞき見をしている自分に気づき、慌ててその場を立ち去ろうとした。だがその時、少女が泉から上がった。少女はこちらに向かって歩いてくる。聡は動くことができずに、ただ頭を引っ込め身を縮めていた。

 ──気づかれただろうか? 

  心臓の音が高鳴り、息が乱れる。聡は息づかいが聞こえないように、口を押えて少女が通り過ぎるのを願った。だが、少女の足音は徐々に聡に近づき、聡の目の前で止まった。

「聡か」

  聞き覚えのある声に自分の名前を呼ばれて、口から心臓が飛び出しそうだった。押えていた手に力がこもる。

「何してる。俺の噂は麻柊から聞いてんだろ。知ってて来た奴はお前が初めてだ」

  聡は顔を上げることができずに、俯いたまま何も言えなかった。

「せっかく来たんだ。見せてやるよ」

 杏樹は聡の前に体を隠そうともせずに立った。

「杏樹……僕は──!」

 正直に謝ろうとして杏樹を見上げ、聡は驚愕した。
 杏樹の上半身は紛れもなく少女の体だが、下半身は……下半身には少女にはない──それは、

 杏樹が少年であることを示していた。

 聡が何も言えずに目を見開いて驚いているのを見て、杏樹は言った。それはいつもの透明な声ではなかった。とても杏樹の口から出ている声とは思えない。低い声で──

「あんたは心に優しくしてくれた。心はあんたに感謝してる。だから俺はあんたを傷つけない。だけどこのことを誰かに話したら、俺はあんたを許さない。いいな」

 闇に光る鋭い瞳でそう言うと、杏樹は服を持って行ってしまった。

 残された聡はしばらく動くことができなかった。杏樹の後ろ姿が闇に溶けていく。杏樹の言った言葉は聡の頭の中で、繰り返し響いた。けれど、その言葉の意味までは頭に入ってこない。瞬きもせずに、ただただ茫然と杏樹が去った茂みの間を聡は見つめていた。


 聡が部屋に戻ると杏樹はすでに眠っていた。聡は力なく自分のベッドに座り込み、杏樹の寝顔を見ていた。杏樹に天使と名づけた母親の想いがなんとなくわかるような気がした。

 聡の胸に杏樹の秘密を知ってしまった後悔と重みがのしかかる。『僕たち』には大人になれないハンデがあり、それぞれに心に傷を負っている。けれども、みんなが同じ悩みを持っている。自分ひとりではないという支えがある。

 ──杏樹はひとりで抱えていたのか

 杏樹の孤独を思うと聡はやりきれなかった。

 自分のした行為が許せなかった。



「聡、起きろよ」

 誰かの手に揺り起こされて聡は重たいまぶたを無理に開けた。ベッドわきに杏樹が立っている。杏樹の顔を見た瞬時、夕べのことが甦り、眠気が吹っ飛んだ。

「あ、あの……」

 杏樹に謝らなくては……。そう思って起き上がった聡に、杏樹はいつもの顔で平然と声をかけた。

「早く行かないと朝食終わっちゃうぞ」

 夕べのことなど頭にないようだった。

「僕はもう仕事に行くから。じゃあな」

 それだけ言うと、何事もないように行ってしまった。夕べのことは気にしてないだろうか。誰もいない食堂でひとり、聡は朝食をとりながら夕べのことを考えていた。

 ──冷たい目だった。冷たい軽蔑の眼差しで見ていたのに

 今朝の杏樹の何でもない態度が腑に落ちなかった。

 聡は食事を終え、ぼんやりしながら席を立った。食器を片付けていると、玄関のほうから何か大きな荷物が落ちたような物音が響いた。寮の少年たちはすでに仕事に出かけたはず。食堂を出て玄関をのぞく。人が倒れているのが見てとれた。聡の目が大きく見開かれる。

「秀蓮?」

 聡は慌てて駆け寄った。倒れているのは秀蓮だった。

「秀蓮! 大丈夫か、秀……」

 聡が急いで抱き起すと、秀蓮は力なく微笑んで聡を見つめた。

「聡……無事だったんだな。良かった……遅くなった……ごめん」

 顔色は青ざめ、声は弱い。左肩のシャツがうっすらと赤く滲んでいる。

「血が! 怪我してるの?」
「大丈夫だ。大した怪我じゃないんだ」

 心配する聡を遮るように秀蓮は立ち上がり、聡の肩を借りて自分で歩いた。聡は自分のベッドに秀蓮を寝かせると、急いで薬箱を取ってきて血に染まったガーゼを取り替えた。

「この傷は、秀蓮」

 火傷のような傷。聡の脳裏に銃声が甦り、顔から血の気が引いた。

「衝撃を受けただけなんだ、心配ないよ。KMCの医者に手当してもらって……血は、止まったんだ。ちょっと、痛むだけだ」

「わかった。もう喋らないで、眠ったほうがいいよ」

 秀蓮は小さく頷くと目を閉じた。怪我は心配だけれど、とりあえず無事に戻ってきてくれたことに聡はほっとした。安心すると、夕べあまり眠っていなかったせいもあり、聡もベッドに頭だけ預けて眠ってしまった。



 窓の外が騒がしい。少年たちが仕事から帰ってきたのに気づき、聡は目を覚ました。
 (かい)たちに知らせなくては。──でもその前に杏樹だ。また知らない奴を部屋に入れたりして機嫌をそこねないだろうか。その時ドアが開いて杏樹が入ってきた。

「あれ? 誰だ。そいつ」

 朝と同じ。上機嫌な顔。聡が説明しようと立ち上がると、杏樹は秀蓮の肩のガーゼから滲んだ血を見て表情を変えた。

「痛い。痛いよ。このお兄さん、痛いね」

 そう言って秀蓮の横にひざまずいて聡を見上げた瞳は泣きそうだった。花瓶を割ったときの怯えた杏樹と同じだ。
 杏樹は秀蓮の傷口に左手をそっと置き、右手で頭をなでていた。杏樹の態度に困惑する。

「怪我をしてるからここに寝かせておきたいんだけど、いいかな?」

「うん、いいよ」

 今度は子供のような返事だった。

 杏樹の態度に聡は訝しんだが、今のうちに櫂を呼びに行こうと部屋を出た。ちょうど仕事から帰った少年たちが浴室へ行くところで、流芳の姿があった。

「櫂はもう浴室へ行っちゃったよ。僕もこれからだから、帰りに聡の部屋に寄るように言っておくね」

 聡が櫂のことを訊ねると、流芳はそう言って手を振った。
 部屋に戻ると秀蓮はぐっすり眠っていた。杏樹は傷口に手のひらを当てたまま。

「痛みが少しやわらいできたよ。ほら顔色が良くなったでしょう?」

 杏樹が聡を振り返った。確かに顔に赤味が差してきている。ベッドに横になっただけでこんなに変わるだろうか。杏樹が傷口に手を当てていることと関係があるとか。

 まさか、ね。

 ぼんやりと杏樹の手を見ていると、部屋がノックされた。

「俺に何か用か?」

 肩にタオルを引っ掛けた櫂が顔をのぞかせた。ベッドに寝ている秀蓮に気づく。

「秀蓮か?」
「うん。怪我をしていて、いま眠ってるんだ」
「怪我?」
「肩を銃で撃たれて、秀蓮は衝撃を受けただけと言ってるけど」
「大丈夫だよ。傷は深くないし、もう血は止まってる。痛みもなくなってきたよ」

 聡の不安を払うように、杏樹が無邪気に笑う。その口調はまるで子供だ。杏樹の言動に違和感を覚えた櫂は聡に目をやった。櫂が何を言いたいのか察した聡は、自分もわからない、と首を小さく横に振った。


 櫂は部屋の中に入り、ベッドわきに立つと、秀蓮の肩をじっと見つめた。

「なんで銃なんかで? 誰に撃たれたんだ」
「警備員が、銃を持ってたんだ。秀蓮も僕も、銃を持ってるなんて思っていなかった。銃は僕に向けられたんだ。それで秀蓮が警備員を……」

 聡の脳裏に骨が砕ける鈍い音がよみがえり、顔をしかめた。

「どうした?」
「あ、いや。秀蓮が警備員に飛びかかって僕を逃がしたんだ。自分は切り札があるから大丈夫だと言って」

 櫂の眉が神妙に寄せられた。

「──そうか。大変だったんだな。悪かった。秀蓮は大丈夫だなんて言って。だけど、銃を発砲するなんて……あいつらがそこまでするとは──」
「うん、でもKMCの医者に手当してもらったって言ってたから──ねえ、秀蓮の切り札って何? 櫂も秀蓮なら大丈夫って言ったよね。どうして?」

「それは……」

 櫂はいったんうつむいて秀蓮を横目に見ると、秀蓮を見つめたまま、ゆっくりと顔を上げた。

「秀蓮は秘密にしてるわけでもないんだ。俺に聞くより秀蓮から聞けよ」

「うん……」

 聡は自信なさげに視線を落とした。

「別に俺が話したって秀蓮は気にしないだろうが、あいつが話す前におまえが知ってるってのは、どうかなあ、って、そういうことだよ。おまえからあいつに聞いてやれ。秀蓮はおまえに聞いてもらいたいはずだ」

 櫂は聡の肩に手を置いた。
 瑛仁と同じことを言う。聡は口もとだけ笑みを浮かべてうなずいた。 

 その時、ずっと秀蓮の肩に手を当てていた杏樹の首がかくんと落ちた。杏樹の目がうつろになっている。眠いのか、と聡が思った次の瞬間、ゆっくり首を起こし、辺りを見まわした。秀蓮の肩に当てていた手をそっとはずして立ち上がると、そのままよろめきながら後ずさり、自分のベッドに腰掛けた。

君の声は僕の声  第三章 4 ─天使の姿─

君の声は僕の声  第三章 4 ─天使の姿─

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