君の声は僕の声 第三章 3 ─気まぐれな天使─
気まぐれな天使
「特別クラスに編入生なんて聞いてないぞ」
「──」
「何とか言ったらどうだ」
ケンカを売るような言い方ではない。落ち着いた物言いではあるが、どこか横柄な態度の杏樹(あんじゅ)に怒りを抑えて聡(そう)は言った。
「僕にこの部屋から出て行って欲しいなら、遠回しなことはしないで、はっきり言えばいいだろう。わかったよ。出て行くよ」
やっぱりからかわれている。そう思った聡はシーツと枕カバーを外し、軽く丸めて振り返った。ベッドに座った杏樹が今度は不思議そうに聡を見ている。さっきとは顔つきがまるで違う。そしてのんびりとした口調で悪びれた様子もなく言った。
「おまえ、毎日シーツ取り替えるの? ずいぶん綺麗好きなんだな」
「!」
人の気持ちを逆なでするような杏樹の言葉に聡はカッとなった。聡の表情が変わると杏樹はキョトンとしたまま首をかしげた。どこまで人を馬鹿にするのだろう。じっと睨みつけている聡に杏樹はにっこり笑った。天使の笑顔を向けられて聡ははっとした。思わず許してしまいそうになるが、こんな気分屋と一緒にいたらこっちがまいってしまう。聡はシーツとリュックサックを持ちドアを思い切り閉めて廊下に出た。
──何が天使だ! 麻柊(ましゅう)の言った通りだ。
聡は仕方なく図書室から辞書を持ってきて談話室で書類を読むことにした。あんな奴にかまっている暇はない。櫂と話をする前に目を通しておこう。聡は書類を読むことに没頭していった。
早めに夕食を済ませようと食堂へ行くと、みんなはもう食事を始めていた。同じことを考えていたらしい。流芳(りゅうほう)が聡を見てはにかむように笑った。五人が無言で食事を掻っ込んでいるのは、他の少年たちに異様に映ったようだ。まわりからじろじろ見られても気にせずに食事を終え、櫂(かい)の部屋へと集まった。
「で? KMCの企業秘密と僕たちと何の関係がある」
透馬(とうま)が口火を切った。
「透馬、お前だっておかしいと思ってるんだろう? KMCはなぜ俺たちにこんなに金を注ぎ込む。たいした労働力にもならない俺たちにこんな贅沢な環境まで用意する必要がある。そうだろう?」
ベッドに座り立て膝に腕を回した櫂は、そう言ってみんなの表情を伺うように見まわした。ソファに並んで座っている麻柊も流芳も困ったような顔をしている。ふたりはやっと仕事にも慣れ寮生活を楽しめるようになってきた頃だ。考えたこともないのだろう。
櫂の横で透馬はにやりと笑った。
「まあね。でも悪い暮らしじゃないし、他にどうしようがある。なあ、聡。秀蓮て奴は何をしようとしてるんだ? 櫂、君は彼を知っているのか?」
机の椅子に腰かけて顔を向けた聡に、櫂は軽くあごをあげ、話すよう促した。
聡は、自分たちのように成長が止まる子供たちが現れたのが、KMCの開発が始まった時期と重なること。秀蓮がずっと以前からKMCを疑っていて、情報公開されないものに何らかの原因があると考えていることだけを話した。三人は神妙な面持ちで聞いていた。
「櫂は? 秀蓮とはどうして知り合ったの?」
今度は聡が訊ねる。
「秀蓮は……」
櫂は話をするか迷っているようだった。そして、しばらく考えて重い口を開いた。
「俺がこの寮に来てから半年ほどたったころ、あいつはたったひとりの身内の叔母さんに連れられてここに来たんだ」
櫂の意外な話に聡は驚いた。秀蓮が寮で暮らしていたことがあったなんて思いもよらなかった。
「両親に死なれて、心配した叔母さんに無理やり連れてこられたんだな。最初は誰とも口をきかなくて陰気な奴だったよ。ま、俺も似たようなものだったから、そのうちに自然と話すようになった。その頃から秀蓮は考えていたんだろうな。この寮の生活に居心地の悪さを感じていた俺に話かけてきた。KMCをどう思う? ってね。俺は別になんとも思わないと応えたよ。がっかりするかと思ったら、あいつはただ笑っていた。半年くらいかな、この寮にいたのは。伯母さんが亡くなったって知らせがきて、あいつはいなくなった。あいつの行先はKMCの奴らも、寮の人間も誰も知らなかったよ」
「それから?」
そこまで話して黙ってしまった櫂に、流芳が催促した。
「それからって、それだけさ。それきり奴とは会ってない。あ、一度だけ会ってるな。数年たった頃、俺がひとりで釣りをしていたときに声をかけてきたんだ。森でひとりで暮らしてるって言ってな。一緒に来ないかって誘われたけど、俺は断った。おまえたちが寮に来るずっと前の話さ」
「………………」
「それだけで秀蓮は櫂にこれを渡したの?」
聡が拍子抜けしたように言う。瑛仁のように色々なことを知っていて、秀蓮とは連絡を取り合っているのかと思っていた。
「驚いてるのはこっちだよ。奴のことなんて忘れてたし、いきなりこんな書類渡されたって、カンパニーに盗みに入るなんて聞いたこともないし、だいいち話に乗った覚えすらない」
「櫂の性格を良くわかっていたんだな、その秀蓮て奴は」透馬が櫂を上目づかいにちらりと見て「いいよ。僕も話に乗った」と口角を上げる。
「俺は話に乗ったとは言ってない」
櫂は不機嫌そうに言い、透馬を横目で睨む。流芳と麻柊は顔を見合わせながら答えを躊躇っていた。
「無理に付き合うことはないよ」
聡が流芳と麻柊に向いて言う。
「僕も何か力になりたいとは思うけど、KMCを敵にまわすなんて大それたこと、僕にできるかどうか……」
「俺たちだってどこまでやれるかわからない。危険だと思ったらそこで降りればいいさ。まあ、もう少し考えよう。さあ、もうこんな時間だ。明日も仕事だから今日はもう寝よう」
聡は今夜、工場へ様子を見に行くつもりでいたので、書類を櫂に預けて部屋を出た。流芳と麻柊に「おやすみ」を言い、ドアノブに手を掛けてはたと思い出す。
杏樹に「出て行く」と言ってシーツを剥がしてしまったのだった。そんな態度をとった手前、杏樹のいる部屋へ戻るのは気まずい。
ドアノブを握ったまま考えていると「聡?」と流芳に声をかけられた。麻柊も首を傾けて聡を見ている。
「あ、ああ。おやすみ」
杏樹との事を勘ぐられたくなくて、聡はとっさに笑顔を取り繕って部屋に入った。聡の目に意外な光景が飛び込んできた。
「あっ」
聡の口から思わず声が漏れた。聡のベッドには新しいシーツが敷かれていた。そっと杏樹に目をやった。杏樹はベッドに入って本を読んでいる。
「あの……シーツ……」
聡が言いにくそうにしていると、杏樹が本から目を離した。
「ああ、あんまり遅いからやっておいたよ」
杏樹は笑いもしなかったが、嫌味にも聞こえなかった。
「ありが……とう」
聡が戸惑いながら礼を言っても、杏樹は本で顔が隠れたまま「別に、たいしたことじゃないよ」と淡々としていた。
聡は杏樹の行動を不可解に思いながらベッドに入った。いい奴なのか、それとも人の気持ちを乱しておいて自分はクールに楽しんでいるのかよくわからない。麻柊の言うように気分屋なのは確かだ。とにかく、あまり関わらないようにしよう、そう思って聡は枕元の電気を消した。
聡が目を覚まし、ベッドわきの時計を見ると一時を少しまわっていた。杏樹の寝息が聞こえてくる。ぐっすり眠っているようだった。麻柊から聞いた話では、杏樹も部屋を抜け出すかもしれないから、杏樹が目を覚ます前に出なければいけない。聡はリュックサックとタオルをベッドの中に押し込み、自分が寝ているように見せかけた。そして、用意しておいた靴を持ってそっと部屋を出た。トイレの窓から抜け出すと、工場までの道をひた走った。
下見に来たときと同じく、診療所に隠れて工場の中の様子をうかがう。だが、警備室以外の建物は真っ暗で、静かだった。誰もいる気配はない。といっても時間が時間だから、もしどこかにいたとしても寝ているだろう。警備室には警備員がひとり、暇そうに煙草をふかしている。特に変わった様子はない……。
いや、何かが違う。警備員の様子に違和感を感じた聡は、しばらく警備員を観察していた。が、何が違うのかが分からない。するともうひとりの警備員が戻ってきて、ふたりは交代した。その様子もおかしい。渡された鍵の束を指さしながらふたりは何かを話していた。そして、交代した警備員は鍵の束を弄りながら敷地の中に入って行くのを呼び止められ、頭を掻きながら塀の外を歩きだした。
要領が悪すぎる。これなら敷地の中に入れるかもしれない。そう思って、聡は通りを渡り、残った警備員が隙を見せるのを待った。が、こちらの男は鋭い目を光らせている。仕方なく中に入ることは諦めた。塀沿いに歩いたが、ネズミの入れるすき間さえ見つからなかった。城壁のような塀は聡が見上げるほど高く、煙突の先が見えるだけで中の様子はまったく見えない。耳を澄ませても虫の音しか聞こえてはこなかった。いちおう診療所も覗いてみたが、どの部屋もカーテンがひかれ、中の様子はわからなかった。
聡は巨大な煙突を睨みながら唇を噛んだ。このままでは帰れない。でも、広い敷地の中、秀蓮がどこにいるのかもわからない……。
聡は煙突や塀に切り取られた星空を見上げながら立ちすくんだ。慣れ親しんだはずの森のざわめきや虫の声が不気味に聞こえる。人の気配のない無機質な建物のせいだろうか──
聡は自分の無力さに苛立ちながらも、諦めて帰ることにした。
秀蓮は無事だろうか。切り札があると言ってはいた。櫂も秀蓮を心配する様子はなかった。明日の朝、櫂に訊ねてみよう。聡は寮への道を急いだ。
寮の灯りが見えてきたとき、湖の方から水音が聞こえ聡は足を止めた。耳を澄ます。音は湖ではなく、湖の手前にある小さな泉から聞こえてくるようだった。
──杏樹?
君の声は僕の声 第三章 3 ─気まぐれな天使─