君の声は僕の声 第三章 2 ─天使の名の少年─
天使の名の少年
「ねえ、とりあえずあの話だけでも聡に話しておいた方がいいよね」
隣の部屋では、それぞれのベッドに座って、流芳と麻柊が気をもんでいた。
「でも俺たち聡のこと良く知らないしな。そんな危険な奴と一緒の部屋にした俺たちが恨まれないか?」
「聡はそんな奴じゃないよ」
「そんなに言うならお前が代わってやれよ。あんな話を聞いた後で、あいつと同じ部屋で眠れるか?」
「僕は……自信ないよ」
「じゃあ聡にも黙ってた方がいいよ」
「でも知らないで後つけちゃったらどうすんだよ」
「おまえ、心配しすぎだって」
「うん……でも。やっぱり言ってくる」
流芳が立ち上がって部屋から出て行った。
「あっ、お、おい待てよ」
麻柊が立ち上がる。流芳を止めようとドアを開けると、隣の部屋から流芳に連れられて聡が出てきた。麻柊は慌てて部屋に戻り、自分のベッドに座った。
ふたり部屋は、窓の両脇に机が置かれ、左右の壁際にそれぞれのベッドとクローゼットが置かれている。部屋の真ん中には、ベッドがもう一台余裕で入るくらいのスペースがあった。麻柊が自分の机の椅子を、部屋の入り口に立っている聡に勧めた。
「ありがとう」と聡が椅子に座っても、ふたりは迷っている様子で、なかなか話を切り出そうとしない。言いにくいのだろうと聡からふたりに話を振った。隣の部屋に聞こえないように声を落として。
「杏樹のことで僕に何か話があるの?」
ふたりは驚いた目を聡に向けた。
「さっきからみんなの様子が変だから、僕はどんな問題児と同じ部屋になるのかと覚悟してたんだ。でも、出てきたのは名前通りの天使だったから驚いたよ」
ふたりは顔を見合わせた。杏樹を天使という聡に、話して良いものか……。少しの間があいて、流芳は息を吸い込むと、思い切って言った。
「杏樹はいい奴だよ。優しいし、面白いし……だけど、ちょっと」だんだん小さな声になり、そこまで言うと聡から顔を背けて言いにくそうに「気を、つけた方がいいよ」と、下を向いてしまった。
眉をひそめる聡に、麻柊は透馬から聞いた話を言って聞かせた。麻柊が話しをするあいだ、流芳も真剣に頷きながら聡に目で訴えていた。話し終えると麻柊は大きく深呼吸をして肩を落とした。流芳も同じくほっとして深いため息をついた。
そんなふたりの様子に聡は顔をほころばせた。ふたりは杏樹と自分を気遣って迷った挙句、話してくれたのだろう。ふたりとも友達思いのいい奴だ。学校では違う気遣いをされ、居心地の悪い思いをしていたから、こんな風に心配してもらうのは久しぶりのことで、彼らの気持ちが嬉しかった。
「心配してくれてありがとう。気をつけるよ」
そう言って聡は部屋に戻った。
杏樹はベッドで寝息を立てて眠っていた。ほんとうに天使のような寝顔だ。この寝顔を見て、母親は杏樹と名付けたのだろうか。天使という名を男の子に。この天使のどこにそんなきつい面があるのか。ふたりがいい加減な事を言っているとは思わないが、杏樹の寝顔から想像するのは難しかった。
聡もベッドに仰向けになり、天井を見つめて物思いにふけった。この少年のことも気になるが、自分はここに長く居るつもりはない。秀蓮はどうしているだろう。ひとりの時間になると聡の心を占めるのは、秀蓮の安否だった。
明日になってもここに戻ってこなかったら、夜中に様子を見に行こう。
次の日、昼になっても秀蓮は来なかった。聡は落ち着かずに部屋の中を歩き回っては、窓から外の様子をうかがい、ベッドに座っては立ち上がり、また窓の外を覗いて、と繰り返していた。
外から声が聞こえ、聡が慌てて窓へ駆け寄る。その拍子に窓辺に置いてあった花瓶を落として割ってしまった。
「ちっ」舌打ちをしながら窓の外に目をやると、少年たちが仕事から帰ってくるところだった。秀蓮ではない。がっかりして振り返ると、陶器の破片が粉々に散らばっていた。短いため息をつき、破片を拾おうとして指を切った。
イライラするとろくなことはない。踏まないように破片をまたぎ、箒と絆創膏を取りに部屋を出た。
仕事を終えた少年たちが浴室へ向かっていく。誰もが土まみれだが表情は明るい。『特別クラス』の労働は想像していたほどきついものではないのだろうか。てっきり親から切り離し、子供なのをいいことに、KMCにいいように使われているのではないかと想像していた。もちろん、こんな贅沢な環境のもとではなく──
聡はここへ来て少年たちの生活を見ているうちに、KMCに抱いていた印象が変わってきた。
箒を持ってドアを開け、聡は驚いた。割れた花瓶の破片の横で、杏樹が足の指先から血を流し床にうずくまっていた。
「破片で切ったの?」
聡は慌てて駆け寄った。杏樹の傷を見ようと足に触れたとたん、杏樹が身をこわばらせた。恐る恐る顔を上げ、ひどく怯えて聡を見つめた。その表情は今にも泣き出しそうだ。
「ごめん。痛む?」
そんなに大怪我をさせてしまったのだろうか。
「僕じゃない。違うよ、僕じゃないよ。僕じゃない」
杏樹は聡の言葉など耳に入らないかのように、泣きながら必死に繰り返した。聡は杏樹の過敏な反応に戸惑いながら「わかってる。君じゃない」そう言って肩に手を置こうとすると「僕じゃないよ! ぶたないで」と、杏樹は両手で頭を押さえて身を縮め、全身を震わせた。
「これは僕が割ったんだ。君じゃないことはわかってる。だからぶったりしないよ」
聡はゆっくり杏樹の手を頭から離すと、そっと杏樹の肩をさすった。
『杏樹には気を付けてね』
麻柊の言葉が頭をよぎった。
──僕をからかっているのだろうか。それにしては、杏樹の怯え方は嘘とは思えない。本気で怯えているように見える。けれど、花瓶を割ったくらいでこんなに怯えるものだろうか?
「傷口に絆創膏を貼るだけだからね。ちょっと痛むけど我慢して」
聡が手当をするあいだ、杏樹は大人しくしていた。傷口に触れるときに一瞬体を震わせたが、肩でしていた呼吸も少しずつ落ち着いてきた。聡は杏樹をベッドに座らせ、箒で破片を集めると、杏樹にちらりと目をやった。杏樹の震えは止まっていたが、耳を抑えるようにして座ったまま。聡はそっと部屋を出た。
杏樹の傷は大した傷ではなかった。それなのにあの怯え方はどういうことだろう。
『杏樹は時々平気で嘘をついたり、約束を破ったりするんだ。だけど、本人には反省の態度は見られない。とにかくあまり深入りすると、こっちが振り回されるから』
麻柊が言っていたことを思い出し、廊下で突っ立っていると、後ろから肩を叩かれた。はっとして振り返る。流芳だった。
「ぼんやりしてどうしたの? 何度も呼んだのに気づかないんだもん」
「ごめん。これ、割っちゃってさ。捨てに行くとこ」
「杏樹とやりあったわけじゃないよね」
流芳が冗談混じりに言う。
「まさか」
聡は肩をすくめた。
「なあ、聡。昨日の話だけど、僕はよくわからないんだ」
流芳は、言いながら廊下の窓の外に視線を移す。
「その、大人になりたいのか、どうなのか……。僕は前の学校では落ちこぼれだったから、ここでの生活の方がずっといい。僕はここへ来て一年経つんだ。仕事にもやっと慣れてきて、今はここでの生活が楽しいんだ」
聡は流芳が見つめる先を目で追いながら答えた。
「それはわかるよ。僕も大人になりたいかというと、正直、よくわからないんだ」
「えっ?」
「ただ、秀蓮の……昨日話した秀蓮の、力になりたいんだ」
聡は窓の外の湖に浮かぶボートを見つめた。
「僕も前の学校では嫌な思いをしたから、ここのほうが楽しいっていう流芳の気持ちはなんとなくわかるよ。ここはKMCの寮だし、最初は、この寮がどんなところか、不安もあったけど、みんな同じ境遇だから安心するし、それに、楽しそうだし──。昨日も言ったように、僕はみんなを巻き込むつもりはない。今の生活が楽しいのなら、続けたほうがいい。でも、流芳は落ちこぼれなんかじゃないよ」
聡は流芳に向かって毅然として言った。それからまた視線を窓の外へ向けた。
「ただ、周りのみんなは成長したのに、僕たちが成長できないだけなんだ。だから僕は原因を知りたい。真実が知りたい。それには、できればみんなの意見や考えだけでも聞かせて欲しいと思ってる」
聡と話をして、流芳はよけいに悩んでしまったようだった。そんな流芳を安心させるように聡は笑いかける。
「櫂の話を聞いたからって、ここでの生活を失うことにはならないさ」
聡の笑顔から視線を落とし、流芳はため息をついた。
「聡はしっかりした考えを持ってるんだね」
「秀蓮のおかげなんだ。だから彼の望みを叶えてあげたい。本当の理由は、それだけなのかもしれない」
流芳に見つめられ、聡は照れたように笑った。
部屋へ戻った聡を迎えたのは、怯えた杏樹でも、シーツを敷くのを手伝ってくれた杏樹でもなかった。
「おまえ誰だ」
ドアを開けると、無表情で冷たい目をした杏樹にそう言われ、聡は面食らった。
君の声は僕の声 第三章 2 ─天使の名の少年─