そぼくなぼく

友達に触発されて書きました。



|(まゆ)の中身についての記述。

青の世界だ。周囲には遮蔽物一つなく、地に薄く張った水が空の青を映している。
その青は、夏の空のような毒々しい、アルコールのような青ではない。それは気持ちよく晴れた冬の日の、あの嫌味のない透明な空の青だ。そのいろみは、どこかへのノスタルジアを抱かせる。
そんな世界をぽつり、ぼくが歩いている。ぼくは裸体だ。そして、おそらく少年だろう。羽化したての蝉のようにその肉体はまだ未成熟なのだが、骨格が男性よりだ。
しかし、さらさらとして柔らかそうな髪の下には、ふたつの目しかついていなかった。顔のパーツがまんまるとしたふたつの目しかないのだ。
くわえて、熱帯魚のようにすべすべとしていそうな、へこんでいるお腹の下、つまり下腹部なのだが、そこにはなにもついていなかった。
ぼくはひたすら歩いている。視界には青一色なので、ぼくは本当に前進しているのだろうか、と疑わしく思うときがある。でも確かに前進していると思う。この世界には果てがあるのだから。ぼくは世界の端から端まで歩くことになっているのだ。
やがて揺れる右手がつっかえた。右手には、毛布に触れたような感触が伝わったような気がした。「気がした」というのは、ぼくは粘土で作られているので触覚というものがないのだ。粘土といっても肉の粘土なのだけれども。
ぼくの心のなかに浮かぶものは全てノスタルジアなのだ。ノスタルジアは意図的にできるものではなく、向こうの方から自由にやってくるとりとめのないものだ。しかし、一度得たノスタルジアは想起することができる。
それからぼくは、注意深くパントマイムの壁をするように目の前に手をはりつけてみた。無色透明な壁がある。間違いない、ここが世界の果てだ。ぼくはこれから、世界の果てに毛布の感触をあてはめるだろう。
ぼくは背をあずけるように壁にもたれて座った。安楽だった。このようにして暮らしている。歩いて、世界の果てにもたれて座って、歩いて。もたれて座れるのは世界の果てだけだ。それ以外の場所だと座るのはいいが、やがて手をつくことに疲れ、寝ころんでしまう。寝ころぶと目に水が入ってしまう。ぼくは目が閉じられない。視界が歪むのはなんだか変な感じだ。こうするのが一番安楽なのだ。
ぼくはノスタルジアが訪れないかとしばらくいつもこうしている。ぼくのいうしばらく、とは一時間かもしれないし、一年かもしれない。しかし、どんな安楽にも倦怠がくる。そしたらまた歩くのだ。
そのとき、心のなかに熱いきらめきがあった。ノスタルジアだ! これはどこだろう? 深い、静かな森だ。湖がある。藍色の湖面を靄が撫でている。それから、〈聞こえますか〉ノスタルジアは消えてしまった。明るみのなかに母があらわれたのだ。
明るみのなかに母があらわれる、とはぼくの心のなかに母の言葉が伝わるということだ。なぜこの世界が太陽もないのに明るいのかというと、母がいるからだった。母は光なのだ。
〈くれぐれも、善悪の知恵の木になる果実を食してはいけませんよ〉ええ、わかっています。 心のなかでぼくは言った。
〈それから、くれぐれも蛇には気をつけること。蛇はあなたに悪いことを吹き込むでしょうから。〉
わかっていますとも、と言いながら、ぼくにはいささかの猜疑心があった。ずいぶんと歩いたけれど、善悪の知恵の木も、蛇も、この世界で目にしたことは一度もなかった。しかし、母が嘘をつくことなどありえない。嘘をつくとは不完全なことに思えるから。この世界のどこかにきっと存在するのだ。一度でいいから見てみたかった。
すっかり興が冷めてしまった。ぼくは右手をつき、立ち上がろうとした。水面を叩く。そのとき、ぼくは下を向いてしまった。いつもは向かない下の方を。猜疑心のせいかもしれなかった。するとどうだろう 、奇怪なものが映っている。ぼくはそれが自分の顔であることを気づかずにいる。そもそも「顔」という存在を知らない。そぼくなぼくは、自分を顔のない肉細工だと思っていたのだ。つまり、首から上がない人間だと思っていたのだ。どろりとした沼に断片的になった腕や脚や胴体が落ちていくノスタルジア。ぼくは混乱し始めた。手脚が吸い込まれると玉虫色をした水面にチェスの駒のようなかたちの水の柱がたった。
ぼくを見つめるふたつの穴ぼこ。ぼくは不安になった。断罪されているような気分になる。ぼくは水面を力強く叩いた。炭酸のような泡とはじける水。やがて波紋のなかに歪んだ顔が浮かび上がった。嘲笑しているようだった。ぼくは何度も何度も水面を叩いた。
しばらくそうしていると、〈やめなさい!〉母が明るみのなかにあらわれた。
〈自分を傷つけてはいけません〉
今までで一番近くに感じる言葉だった。でもぼくは混乱していて、言葉の意味がわからないでいる。でも母がやめろと言うのでぼくは叩くのをやめた。するとぐらぐらと不安定な水面には二つの顔があった。心が分裂してアメーバみたいに蠢く気がした。これ以上、顔を見ることに耐えられそうになかった。明瞭に見える前に走りだそうとした。
〈待って〉ぼくは動きを止める。
〈後ろの方を向いてごらん〉
ぼくは狼狽しながらも振り返った。
〈あなたの母さんよ〉
まばゆい光。逆行のなかなので影になっているが、そこには長い髪と丸みを帯びた肉体があるようだった。影は|海月(くらげ)のようにゆったりと近づいてきた。
ぼくはその黒い影が、本当に母なのか疑わしく思っている。母は光だ。しかし、黒い影は自分を母だと言う。いや、黒い影は壁の向こう側からやってきた。そんなことができるのは母しかいないのではなかろうか。黒い影はぼくをひどく怯えさせる。落雷のノスタルジア。
だが時はきた。視界が一瞬ホワイトアウトして、気がつくとぼくは光のなかにいた。やさしくて透明な、あたたかな光。|(めしい)させることのない光だ。
〈あなたがひどく混乱しているから、落ち着かせようと思って〉
ぼくはにんげんというものを、はじめてみてみた。ぼくとは違う、白い肌。蝶の鱗粉のノスタルジア。豊満な胸。たおやかな手。陶器のように艶のあるまっすぐとした脚。だが、ぼくを不安にさせるのは首から上についている顔だ。ぼくとの明確な違い。まあるいふたつの目。光のなか陰りがあるが、ぼくを顔なしと断罪している。この人は本当に、ぼくの母なのだろうか。
〈私はあなたを、そんなに疑い深い子に育てた覚えはありません〉
いえ、違うのです。ぼくは混乱しているだけなのです。あの水面に映った顔が自分であることをうまく受け止められないのです。そして、あなたの顔も。ふたつの目から見られると足元が揺らぐ心地がするのです。本当にごめんなさい。
母はなにも言わず近づいた。抱きしめて安心させようとするつもりらしかった。ぼくと母は目と鼻の先まで近づいた。細い木の枝一本分といったところだ。母はぼくよりほんの少しだけ背が低かった。
母の髪がぼくの腰まわりをなでた。木の枝に巻きつく蛇のノスタルジア。蛇はするすると体を螺旋のようにくねらせて進み、果実の放つ光に身をよじらせた。母の目をみた。ぼくが映っていた。ぼくだ。母ではない。ぼくだ。足元がぐらぐらとした。心のなかを母に覗かれている気がした。自分の領域が侵食されていく気がする。ぼくという存在が希薄に感じる。
ぼくがぼくであるということを、確かめないではいられなくなった。|青条揚羽蝶(あおすじあげはちょう)の羽を|(むし)りとるノスタルジア。それはとてもほっとするようなノスタルジアだと思った。
ぼくの手は、ゆっくりと母のか細い首まで伸びていった。不器用に力を込めた。ぼくはふたつの飴細工のように歪むまあるい目から逃れるために少し下を向いていた。溺れる魚のノスタルジア。僕の手の上に母の手が添えられている。どのくらいの力がかかっているのかは分からない。林檎をかじるノスタルジア。やがて母は沈んでいった。ぼくは死ななかった。



母が不在になると、世界は夜になった。完全な夜だ。すべての存在の境界が溶けてしまう夜だ。あのノスタルジアを運んでくれる青みはもうないのだ。
そしてもう一つ。世界の果てはなくなってしまった。ぼくはもう二度と身をあずけることができない。暗闇の寂寞(せきばく)からじっとしていられなくなった。ほとんど歩いている。けれども歩くほどに、ぼくは自分の記憶を井戸に埋葬している心地がする。


ぼくは虚構の楽園のなかで生きていたんだ。現実で生きていかなくちゃ。でもぼくも、母も、その虚構のなかで確かに生きていたんだ。ぼくには現実こそ虚構に思える。でも、ぼくにはもう帰る場所がない。


ぼくは罪人だ。母を殺してしまった。あんなにも愛をそそいでもらっていたのに! でも本当に、死ぬなんて思っていなかったのだ。生きることも、死ぬことも、ぼくには夢のことのように思える。
これが罰なのだ。ぼくは死にたくないんだけれども、ぼくの首を絞めてくれる、そんな誰かを求めてる。




ぼくは永遠の命をひきずって、暗闇のなかをひとり歩きつづける。



(終り)

そぼくなぼく

肩の力がうまく抜けて歌うように書けたと思います。子供の頃を思い出して書きました。

そぼくなぼく

母と子

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-26

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