八咫烏 【完全版】

野良猫

八咫烏 【完全版】
  1. 第一話「オレたちゃ八咫烏!」
  2. 第二話「烏平次の酒」
  3. 第三話「笑う門には福来たる」
  4. 第四話「幽霊なんて怖くない!」
  5. 第五話「オレたちの正義」 
  6. 第六話「雨」
  7. 第七話「白昼夢」
  8. 第八話「露草色に吠える」
  9. 第九話「偽小判」
  10. ☆最終回特別編 「義賊・八咫烏!」
  11. 11

*だいぶまえの作品ですが、とりあえずひとつにまとめておきます(笑)

 【!】
  完成後に主要登場人物三人の名前を変更したので、ひょっとしたら修正されずに
  そのままになっている個所があるかもしれません(汗)。


オープニング
https://www.youtube.com/watch?v=CS3JjUccL_c

第一話「オレたちゃ八咫烏!」

第一話「オレたちゃ八咫烏!」

「いいか、隼助 (しゅんすけ)。まちがってもカシラのまえでヅラを連想させる言葉は遣っちゃならねえ」
「わかってますよ、雷蔵(らいぞう)さん」
 江戸でもっとも有名な義賊〝八咫烏(やたがらす)〟の一味に加わって以来、雷蔵は毎日のようにそう言い聞かせるのであった。
「カシラがおまちだ。急ぐぞ」
「へい」
 竹林を抜けると、小さな荒れ寺が現れた。八咫烏の隠れ家である。寺の正面から見て左に広がる庭のほうから、奥の部屋へと向かう。空は青いが、まわりが竹林なので、少し薄暗い。飛び石状につづく石畳のまわりには、土色に枯れた笹の葉が降りつもっていた。庭の奥、左端のほうにある井戸に面した部屋のまえで、隼助と雷蔵は草履を脱いだ。
「カシラ、遅くなりやした」
 穴だらけの障子を雷蔵が開けると、囲炉裏のまえであぐらをかきながら、ヒゲ面の男が手酌で一杯やっていた。八咫烏の頭目、烏平次(うへいじ)である。
「おう、きたか」
 烏平次は、いつも浪人髷(ろうにんまげ)――月代(さかやき)を剃らずに伸ばした頭――のヅラを被っていた。本人だけは、まだだれにも気づかれていないと思ってるらしい。雷蔵も、あえて気づかぬフリをしていた。もちろん、隼助もそうしていた。
「おまえらも、一杯やれや」
 囲炉裏のまえに座れ、と指で示しながら、烏平次が黄ばんだ歯を見せて笑った。
「カシラ、飲み過ぎは体に毒ですぜ?」
 笑みを浮かべた顔を烏平次に向けながら、雷蔵が障子に背を向けて座った。隼助は囲炉裏をはさんで雷蔵の向かい側に腰をおろした。
 雷蔵が手酌で杯を呷りはじめた。烏平次は山菜の天ぷらを肴に飲んでいる。こういう(あぶら)っこいものばかり食べるからハゲるんだ、と雷蔵はいつも陰でぼやいていた。
自在鉤(じざいかぎ)に下がる黒い鉄瓶の注ぎ口から、白い湯気が立ちのぼっている。まだ入相の鐘は鳴っていない。一杯飲んで、少し仮眠をとる。〝お勤め〟のまえは、いつもこんな感じだった。

 ()(こく)(午後十時ごろ)を知らせる鐘が聞こえてきた。
「カシラ、そろそろ参りやしょうか」
 雷蔵が頬被りをアゴの下で結び、立ち上がった。
「うむ」
 烏平次も立ち上がり、頬被りを鼻の下で結んだ。
「準備はいいな、隼助?」
「へい」
 答えながら、隼助も頬被りをアゴの下で結んだ。三人とも黒装束である。もちろん、匕首(あいくち)などの武器は身につけていない。殺しをやらない八咫烏に、そんなものは必要ないのだ。
 雷蔵がロウソクの灯を吹き消すと、烏平次が障子を開け放った。うす暗い部屋に月明かりが差し込んでくる。表に出ると、提灯の明かりがなくても歩けるぐらい明るかった。
 今夜のお勤めは、廻船(かいせん)問屋・播磨屋(はりまや)である。播磨屋は船奉行(ふなぶぎょう)結託(けったく)し、抜け荷をしているといううわさがあった。八咫烏が狙うのは、そういう悪党だけなのだ。犯さず殺さず、貧しきからはけっして盗まず。それが八咫烏の掟なのだ。
 荒れ寺に背を向け、竹林を駆け抜ける。夜の闇に染まる街。(あお)い夜空。満月を背負いながら、屋根伝いに播磨屋を目指す。月明かりに照らされて鉛色に輝く瓦の上を、三つの黒い影が走っているのであった。
「おい、隼助」
 烏平次が足を止めてふり向いた。
「おめえ、もう少し静かに走れねえのか」
「す、すんません」
 隼助は口をとがらせながらアゴをしゃくった。
 三人で、ふたたび鉛色の上を走りだす。ただ歩くのは簡単だったが、音を立てずに瓦の屋根を走るのは、思った以上にむずかしかった。烏平次は三人の中でいちばん太っている。七福神の恵比寿のような体形だが、それでも音を立てずに素早く走ることができるのである。体格は関係ないのだ。コツは自分でつかむしかない。体で覚えろ。烏平次は隼助にそう教えるのであった。
 烏平次と雷蔵が立ち止まった。
「ここが播磨屋だ」
 播磨屋の屋敷の上でふり向きながら烏平次が言った。
 雷蔵も肩越しに隼助をふり向いた。
「ぬかるんじゃねえぜ? 隼助」
 隼助はふたりの顔に無言でうなずいた。

 土蔵のカギを開けるのは、いつも雷蔵の役目だった。
「開きやしたぜ、カシラ」
「うむ」
 雷蔵に無言でうなずき、烏平次が蔵の中へ入っていった。
「隼助、おめえはここで見張ってろ」
 雷蔵も烏平次の背中につづいていった。
 ひとつため息をつき、隼助は夜空を見上げた。大きな白い満月のまえを、コウモリの黒い影が飛びまわっている。蒼い夜空の向こうで輝く無数の小さな星は、まるで漆器(しっき)にちりばめられた砂金のようだ、と隼助は思った。
 しばらく、ただぼんやりと満月を眺めながら、隼助はスズムシの音色を聴いていた。
「おい」
 ふいに背後から肩をたたかれた。全身から冷や汗がふき出してくる。隼助は、ゆっくりと肩越しにふり向いた。
「なにをぼんやりしてやがるんだ」
 月明かりに浮かぶ、見覚えのある大きな目玉に彫りの深い顔。
「おどかさないでくださいよ、雷蔵さん」
 隼助は手の甲で額の汗をぬぐいながらホッと胸をなでおろした。
「まったく。おめえさんは見張りもまんぞくにできねえのか?」
 雷蔵が嘲笑を浮かべた。
「ちゃんと見張ってましたよ」
「たしか、今年で五年目だったな」
 雷蔵は肩にかついだ千両箱を下ろすと、煙管をふかしながらその上に腰かけた。
「慣れてきたときが、いちばんあぶねぇんだ。いいか、隼助」
 煙管の先を隼助 に向けながら雷蔵が紫煙を吐きだした。
「おめえさんが捕まるのは勝手だが、そうなったら最後。いくらアッシらでも助けることはできねえ。そこんところを、よぉく覚えておくこった」
「へい。肝に銘じます」
「返事だけは一人()ぇだな」
 煙管をふかしながら雷蔵が肩を揺らした。
「ところで、カシラは?」
「すぐに来なさる」
 うまそうな葡萄(ぶどう)酒――もちろん御禁制の品である――を見つけたので、せっかくだから二、三本いただくことにしたようだ。烏平次はいま、それを風呂敷に包んでいる最中なのだという。
「カシラは酒に目がねえからな」
 蔵の入り口に目を向けながら雷蔵が笑った。
「中で一杯やってたりして」
 隼助も冗談を言ってみた。
「おっと、忘れるとこだったぜ」
 雷蔵が懐からなにか取りだした。
「こいつを、おめえさんにやろうと思ってな」
 象牙の根付だ。細工は不動明王である。
「それは?」
「土産だ。とっておきなせえ」
「雷蔵さん」
 隼助は根付を受け取ると、笑顔でうなずき、礼を言った。すると、雷蔵は照れくさそうに顔を背けた。雷蔵は煙管をくわえたまま鼻から紫煙を立ちのぼらせていた。
「それにしても、遅ぇな。隼助、ちょいと様子を見てきてみろ」
「へい」
 隼助は土蔵の外から中をのぞきこんだ。蔵の中には月明かりが差し込んでいて、さほど暗くはない。蔵のまん中には、背板のない大きな棚がひとつある。ちょうど大人の背丈ほどの高さだ。その棚の奥で、烏平次が床にかがんでいるのが見える。下から二段目と三段目の間から、烏平次の頬被りがのぞいていた。
「カシラ」
 隼助 は棚の奥の頬被りに声を忍ばせた。
「早くズラかりやしょう」
「――おまチなセえっ!!」
 ものすごい勢いで雷蔵が飛んできた。
「隼助、てめェ……!!」
 雷蔵がギリギリと歯を食いしばりながらひそめた声で凄んだ。
 隼助は雷蔵に胸ぐらをつかまれたまま土蔵のカベに押しつけられた。
「らっ、雷蔵さん、いきなりなにを……?」
「おめぇさんは、アッシの話を聞いてなかったのですかィ?」
 〝ハの字〟になったマユの下で、血走った眼がにらんでいる。月明かりに照らされた雷蔵の表情は、まるで般若の面のようだった。
「オレは、べべべべべつにナニも……」
 カシラのまえで〝ヅラ〟を連想させる言葉は遣っちゃならねえ――隼助の脳裏を雷蔵の言葉が過る。
「言った覚え……は……」
 ――カシラ、早くヅラ借りやしょう――
「……あ」
 隼助は、ようやく理解した。
「おい、隼助」
 土蔵の中から烏平次が呼ぶと、雷蔵は隼助から手をはなして満月を仰ぎながら煙管をふかしはじめた。
 烏平次が土蔵の奥から姿をあらわした。片方の手で葡萄酒の風呂敷を背負いながら、空いてるほうのわきに千両箱をひとつ抱えている。顔は頬被りの影でよく見えない。
「いま、なにを借せって言ったんだ?」
 月明かりが烏平次の顔を照らし出す。マユをひそめ、眼を三角にしながらにらんでいる。そして額には、うっすらと冷や汗を浮かべていた。
「いや、ちがうんですよ。オレはただ、ズ……」
 隼助はあわてて言葉を飲み込んだ。全身から冷や汗がふき出しはじめる。
 烏平次は千両箱を雷蔵にあずけると、風呂敷を肩にかつぎながら隼助につめ寄ってきた。
「ただ、なんだ?」
 脂ぎった険しい顔で烏平次が詰め寄る。
「かまわねえ。ハッキリ言ってみろ」
「ただ、つまり、その……」
 隼助は言葉につまった。どう言ったらいいのだろうか。おいとましやしょう、ではしっくりこない。逃げやしょう、と答えれば「逃げる? だれから?」と言うに決まっている。
「つまり……」
「つまり、なんだ?」
 脂ぎったヒゲ面が隼助の眼前に迫る。
 隼助は烏平次に顔を向けたまま、そ~っと雷蔵のほうに視線を動かした。隼助が目で救いを求める。しかし、雷蔵はそっぽを向いた。自分をまき込むな、ということなのだろう。満月に目を細めながら、雷蔵はゆっくりと紫煙を立ちのぼらせていた。
 隼助は手の甲で額の汗をぬぐいながら、ゴクリとつばをのんだ。
「つまり、そろそろ……そろそろ……」
「そろそろ、なんだ?」
 脂ぎったヒゲ面が隼助の鼻の先でピクピクと苛立ちをつのらせている。瞳孔を小さくした白い眼も、いよいよ冷たい光を帯びはじめていた。
 万事休す、か――あきらめかけたそのとき、隼助の脳にイナズマが走った。
「あ、そろそろ引き揚げよう、って言ったんです!」
 どこにもヅラを連想させるような言葉はない。完璧だ。安堵した隼助は、思わずフーッ、と長いた吐息をもらすのであった。
 だが、ヒゲ面は言う。
「〝引き上げる〟って……なにを?」
「え……」
 ――ええええええええ!
 そうきやがったか――隼助は胸の中で舌打ちをした。仮に〝引っこ抜く〟に反応するのは仕方がないとして、なぜ〝引き上(揚)げる〟に関心をもつのだろうか。これではいつになっても埒があかないだろう。隼助は苛立ちはじめていた。
「カシラ、そうじゃねえんです。ようするに――」
「わからねえ。わからねえよ、隼助。いったい、おめぇはなにが言いたいんだ? オレにはさっぱりわからねえよ」
 片方の手で風呂敷をかついだまま烏平次が小首をかしげた。
 テメェのせいでわからなくなってるんだろうが、このハゲ!!――隼助は心の中で毒突いた。
「だから、はやく帰って酒でも飲みたいな~、って言ったんです!」
 隼助は怒りのあまり声を荒げてしまった。
「ばかやろう、声が高けえ」
 雷蔵が顔のまえで人差し指を立てながら辺りを警戒するように見渡した。
「まったく、おめえって奴ぁ」
 肩をゆらしながら烏平次が首をふった。
「ようし。それじゃあ、ぼちぼちズラかるとするか」
「なっ」
 空耳だろうか。隼助は烏平次の笑顔を見ながらマユを寄せた。
「カシラ、いま自分で――」
 言いかけたとき、雷蔵が大きな咳払いをして鼻をすすった。マユがハの字になっている。そこは突っ込まなくていい。雷蔵の血走った眼は、そう訴えていた。
 烏平次が風呂敷を肩にかつぎながら塀のほうへ歩きはじめた。そして石灯籠に足をかけて塀に上がり、屋敷の屋根に飛び移った。雷蔵も煙管を煙草入れに戻して千両箱を肩にのせた。
「いくぜ、隼助」
「へい」
 隼助も千両箱をひとつ肩にかつぐと、塀を伝って屋敷の屋根にのぼった。
 満月を正面に見ながら、鉛色に輝く瓦の上を静かに駆け抜ける。
 オレたちゃ八咫烏。江戸でもっとも有名な義賊なのである!

第二話「烏平次の酒」

第二話「烏平次の酒」

 荒れ寺正面の腐りかけた階段に腰を下ろしながら、隼助 (しゅんすけ)(あお)い空をボーッと眺めていた。
 ここひと月ばかり、八咫烏(やたがらす)は〝お勤め〟をしていない。貯えも、そろそろ底を尽きかけていた。盗んだ金は、ほとんどは病人や貧しい者たちに配ってしまったのだ。金は天下の回り物。悪党の蔵の中で()き止められた金を、ふたたび世に流してやるのも八咫烏の仕事なのだ。
「オレたちゃ八咫烏、か」
 ひとつ吐息をつくと、隼助は天を仰いで陽の光に目を細めた。
「おう、隼助。昼めし食いに行くぞ」
 庭のほうから烏平次(うへいじ)が顔を見せた。雷蔵(らいぞう)も一緒である。
「カシラ。ですが、まだ九ツ(ここのつ)の鐘は――」
 隼助が言い終わらないうちに、遠くのほうから昼九ツ(十二時)の鐘が聞こえてきた。同時に、烏平次の腹の虫も鳴くのであった。
「おれの腹時計は正確なんだよ」
 黄色い歯を見せながら烏平次が笑った。

一両二分(いちりょうにぶ)、か」
 人通りの多い広小路を歩きながら烏平次が紙入れを覗き込んでつぶやいた。
「今夜あたり、やりやすかい?」
 雷蔵が〝烏の(いびき)〟で烏平次と話しはじめた。これは、自分が話したい相手にだけ聞こえるように話すという会話術で、関係のない第三者には、となりの部屋から聞こえてくるような、くぐもった唸り声にしか聞こえないのである。人混みの中や飯屋などで〝お勤め〟の話をするときは、いつもこの会話術で話すのだ。
桔梗屋(ききょうや)利兵衛(りへえ)。あんまり評判のよくねえ男だ」
 雷蔵のよこを歩きながら烏平次も烏の(いびき)で話している。
「桔梗屋……」
 懐手をして歩きながら雷蔵が相槌を打った。
「わかりやした。昼めしを済ませたら、ちょっくら下見をしてきやす」
 久々のお勤めは桔梗屋に決まった。
 桔梗屋は酒問屋である。そして、桔梗屋利兵衛は悪党だった。利兵衛は水で薄めた安い酒を〝花筏(はないかだ)〟や〝男山〟などと偽って売りさばき、あこぎに儲けているのだ。
「雷蔵、船を用意しといてくれ。それと大八車もだ」
 まえを向いたまま烏平次が言った。
「するってえと、カシラは桔梗屋の蔵ん中をカラッポにするおつもりで?」
 雷蔵が襟元から片方の手を出してアゴ先をさすった。
「そうともよ。桔梗屋のすぐ裏手には、大川(隅田川)が流れている。千両箱を船につみこんで川を下り、途中で大八車につみかえるんだ」
 ふたりは互いに話しているだけでなく、うしろを歩く隼助にも聞こえるように話していた。だが、隼助にはまだそこまでの技術はなく、ひとりを相手に話すのが精いっぱいだった。
 腕組みをして歩きながら烏兵衛がつづける。
「おめえのことだ。ぬかりはねえとは思うが、逃げ道の下見も忘れずに、な」
「へい」
 烏平次にうなずき、雷蔵が肩越しにふり向いた。
「隼助、昼めしが済んだら下見に行くぜ」
 隼助は雷蔵の横顔に無言でうなずいた。
 お勤めの話が終わった。
 烏の鼾で話している内容は、たとえ目のまえで聞いていようとも、関係のない者には絶対に聞き取ることはできないのである。いつだったか、飯屋で酒を飲んでいるとき、となりに同心が座っている状況でお勤めの話をしたことがあった。もちろん、最後まで同心に気づかれることはなかった。烏の鼾は、八咫烏の初代頭目から代々受け継がれている特殊な会話術なのである。
 一軒の飯屋のまえで雷蔵が立ち止まった。
「カシラ、ここにしやしょう」
 三人で店に入ると、いちばん左端の席に向かった。格子窓のある壁際の席だ。烏平次が壁際に座り、雷蔵は卓をはさんで烏平次と向かい合う形で座った。そして隼助は、いつも雷蔵のとなりに座るのであった。
「いらっしゃいませ」
 下働きの娘が注文をとりにきた。
「茶づけと天ぷら。それと銚子を三本だ」
 烏平次が注文した。
「それと(めし)二人前。適当に見繕(みつくろ)ってくれ」
 雷蔵が隼助の分も一緒に注文した。
 調理場のほうに戻って行く下働きの娘を、烏平次と雷蔵はいやらしい目つきで見送っていた。
「明日の昼は、八百善(やおぜん)でウナギでも食いやしょうか?」
 雷蔵が烏の鼾をつかいながら烏平次に言った。
「ウナギか」
 烏平次がアゴにたくわえた無精ヒゲをじょりじょりとさすっている。ふたりとも、なにかを企むような目つきでニヤニヤしていた。
「オレは蕎麦でいいです」
 隼助は卓の上に目を落としながらため息をつくのであった。
 ほどなく、料理が運ばれてきた。烏平次はお猪口を一杯呷ってから、茶づけをかき込みはじめた。雷蔵は漬物をつまみながら、白いめしを頬張っている。隼助も汁をひと口すすってから白いめしに箸を伸ばした。
 そのとき、隼助のうしろの席から左官職人らしき男たちの会話が聞こえてきた。
清太郎(せいたろう)のやつ、まだ立ち直れねえのか?」
「まあな。励ましちゃあいるんだが、なかなかねえ」
 雷蔵の箸が、にわかに止まった。隼助も箸を止めると、茶碗越しに烏平次の顔をちらりと見やった。
 烏平次の浪人髷(ろうにんまげ)はヅラである。ゆえに、烏平次のまえで〝励ます(ハゲます)〟などのヅラを連想させる言葉を遣ったり、額から上の話をしてはならないのだ。
 隼助は雷蔵のほうにそ~っと視線を動かした。マユが〝ハの字〟になっている。メザシをギリギリと前歯でかみしめながら、血走った眼の下で涙堂(るいどう)をピクピクさせていた。
 烏平次は気づいているのかいないのか、なにくわぬ顔で茶づけをかき込んでいた。
 隼助は気を取りなおしてふたたび箸を動かした。うしろの席では、まだ職人たちの会話はつづいている。そして、雷蔵が辣韭(らっきょう)に箸をのばしたとき、ふたたび事件は起こった。
「んでよォ、そこでちょうど手が滑っちまってさあ。ズレちまったってわけよ」
 左官職人のひとりが大きな声で笑うと、隼助は箸を止めてゴクリとめしをのみこんだ。
 ――パチン!
 辣韭をはさんだ雷蔵の箸が大きな音を立てた。勢いよく弾かれた辣韭は天井をはね返り、隼助の味噌汁の中に飛び込んでくるのであった。
「どうした、雷蔵」
 烏平次が不思議そうな表情でマユをひそめた。
「へ、へい。ちょいと手元が狂ったようで」
 雷蔵は額に冷や汗をにじませながら、必死につくり笑いを浮かべていた。
 そう。まちがっても〝滑った〟や〝ズレた〟などという言葉は烏平次のまえで遣ってはならないのだ。
 ようやく左官職人たちが店を出て行った。隼助は安堵のため息をもらすと、辣韭の浮かんだ味噌汁をひとくちすすった。
 だが、事件はまだ終わってはいなかった。こんどは烏平次のうしろの席で、数人の町人たちが信じられない会話をはじめるのであった。
「よお、聞いたかい? 弥五郎(やごろう)のとっつぁん、とうとう髷が結えなくなったってよ」
「あの人、若いころから薄かったもんなあ。とっつぁんも、いよいよ〝ヅラびと〟ってわけか」
「いや、ヅラは被らないってよ。ハゲを気にするどころか、髪結い代が浮いて助かる、とか言ってさ。なんか、もう開き直っちゃってるよ」
 隼助は目の端からそっと雷蔵の様子をうかがった。うんざりした顔で涙堂をピクピクさせている。殺気を帯びた冷たい眼で、舐めるように町人たちをにらんでいる。強くにぎりしめた徳利には、まるでクモの巣のようなヒビが走っているのであった。
 烏平次の顔は――だめだ。恐ろしくて見れない。隼助は卓の上に目を落としながら、静かにお猪口をかたむけた。
「なんか、おもしれえ話してんな」
 隼助は「はっ」として顔を上げた。ヒゲ面が黄色い歯を見せている。烏平次は、不気味なぐらい穏やかな表情で笑っていた。
「そっ、そうですね」
 隼助が愛想笑いをすると、雷蔵がすかさず咳払いをした。
「すっ、すんません」
 隼助は気まずそうな顔で雷蔵にアゴをしゃくった。
「なかなかおもしれえ話だよな? 雷蔵」
「え? へ、へい」
 雷蔵も戸惑いつつ愛想笑いをした。
 隼助も小首をかしげた。なにか様子が変だ。烏平次は怒るどころか、うっとうしいヒゲ面に穏やかな笑みを浮かべているのであった。
「もともと薄毛だったんだとよ。ほんと、かわいそうなとっつぁんだよな」
 愉快そうに笑いながら烏平次がお猪口をかたむける。
 あんたもな――隼助も胸の中でつぶやきながらお猪口をかたむけた。
「カシラ。そろそろ行きやしょうか」
 これ以上この場にとどまるのは危険だと思ったのだろう。雷蔵は卓の上に勘定を置きながら立ちあがった。
「おまえら、先に帰ってろ。おれはもう少し飲んでるから」
 烏平次は笑みを浮かべているが、声の調子はどことなく元気がない。雷蔵も、戸惑った表情にむりやり笑みを浮かべているようだった。
「わ、わかりやした。アッシらは、これから桔梗屋の下見に行ってまいりやす。それじゃ、ごめんなすって」
 烏平次は笑顔でうなずいた。だが、烏平次はけっして雷蔵と目を合わせようとはしなかった。
「それじゃ、カシラ」
 隼助もあいさつしたが、烏平次はやはり無言でうなずくだけだった。うっとうしいヒゲ面に寂し気な笑みをたたえながら……。
 店を出たところで、隼助はふと足を止めた。暖簾(のれん)越しに、そっと烏平次をふり返る。お猪口をもったまま、烏平次は格子窓の外をながめている。頬が、きらきらと光っている。うっとうしいヒゲ面に笑みを浮かべたまま、烏平次は泣いていた。
「カシラ……」
 ふり返ったことを後悔しながら、隼助は店をあとにするのであった。

第三話「笑う門には福来たる」

第三話「笑う門には福来たる」

「そろそろお昼か」
 烏平次(うへいじ)の腹の虫が鳴いた。すると、昼九ツの鐘の音が聞こえてくるのであった。
「カシラ、昼は〝えびすや〟にしやすか?」
 よこを歩く烏平次に雷蔵(らいぞう)が伺う。
「えびすや、か」
 めし屋に入るときは、大抵いつも同じ店だった。しばらく通って味に飽きると、定期的に店を変えたりもする。最近は、主に丸屋(まるや)の向かいの〝つたや〟と、唐津屋(からつや)のふたつ隣の〝ひさご〟を交互に利用している。夜は、屋台の寿司で一杯やりながら済ませることが多かった。
 ふたりのうしろを歩いていると、烏平次が肩越しにふり向いた。
「おう、隼助(しゅんすけ)。昼はえびすやでいいか?」
「オレはかまいませんよ」
 隼助は笑顔で答えた。
「あそこの蕎麦は、うまいんですよね」
 久しぶりにえびすやの蕎麦が食える。隼助は腕組みをしながら唇をなめた。
「そうだったな」
 まえに向き直ると烏平次は肩で笑った。
「おめえは、蕎麦には目がなかったんだったな」
 腹の虫は泣いているが、三人とも笑っていた。

 昼めし時なので、やはり店は混んでいた。しかし、運よくかべ際の席が空いている。戸口を入って左側のいちばん奥、格子窓のあるカベ際の席である。
 烏平次と雷蔵は、いつものように卓をはさんで向かい合ってカベ際に座った。そして隼助も、いつものように雷蔵のよこに座った。
「いらっしゃいませ」
 注文をとりに来たのは、店の主人の女房だった。少しぽっちゃりした、四十過ぎの年増女である。
「銚子を三本。それと、天そば」
 烏平次がいやらしい笑顔で注文した。
「アッシは(あられ)そば」
 雷蔵もいやらしい目つきで注文した。
「オレは、ざるそば。大盛で」
 最後に隼助が注文すると、主人の女房はニコリと笑い、軽く会釈をして板場のほうへもどって行った。
「年増だが、わるくねえな」
 烏平次が〝烏の(いびき)〟で雷蔵と話しはじめた。これは、自分が話したい相手にだけ聞こえるように話すという会話術で、関係のない第三者には、となりの部屋から聞こえてくるような、くぐもった唸り声にしか聞こえないのである。
「いいケツしてるぜ。そそるねえ」
 雷蔵も烏の鼾で話している。ただ、あまり大きな声で話すと怪しまれるので、他人との距離に応じて声の大きさを調節しているのだ。しかし、こういう使い方はいかがなものか、と隼助はいつも疑問に思っているのであった。
 主人の女房が酒と蕎麦を運んできた。
「おう、ありがとうよ」
 烏平次は、まずお猪口をひとくち呷ってから天そばに箸を伸ばした。
「やっぱり、えびすやの蕎麦はひと味ちがいやすね」
 雷蔵も満足そうに蕎麦をすすっている。
 そして隼助がざるそばに箸を伸ばしたとき、またひとり客がやって来た。その客は主人の女房に注文すると、通路を挟んでとなりの卓に座った。
「これはこれは」
 烏平次が烏の鼾でつぶやいた。となりの卓を横目で伺いながら、うっとうしいヒゲ面に薄い笑みを浮かべている。
丑松(うしまつ)親分じゃねえか」
 お猪口を呷りながら、雷蔵も烏の鼾で話しはじめた。
「丑松親分?」
 隼助も烏の鼾で雷蔵に尋ねた。
「あいつはドジな岡っ引きでな」
 雷蔵が嘲笑を浮かべながら言う。
「このまえも、女巾着切(きんちゃくき)りに逃げられた挙句、関係のねえ(むすめ)に縄をかけちまったんだ。(やっこ)さん、思いっきり横っ面を張られていなすったよ」
 そう言って鼻で笑うと、雷蔵はずるっと蕎麦をすすった。
 この丑松という岡っ引きは、年の頃は三十五、六。外では十手を笠に威張っているが、家では女房の尻に敷かれてるらしかった。
 お猪口をかたむけながら烏平次が笑っている。笑い声だけは普通だ。
「やつには、泥棒猫一匹だって捕まえることはできねえだろうな」
 烏平次はお猪口をもったまま、嘲笑を浮かべた顔を格子窓の外に向けていた。
「丑松のダンナ。アッシらは、かの有名な八咫烏ってえ盗っ人なんですがね。ダンナひとりで、アッシらを一網打尽にしてみやすか?」
 お猪口に酒を注ぎながら、雷蔵が烏の鼾でからかいはじめた。
「てめえの目のまえで盗人が堂々と名乗ってるってのによ。とんだマヌケ野郎だぜ」
 丑松に聞こえる声で、烏平次も罵った。烏の鼾は、大抵こういう状況で使われることが多かった。そのたびに〝才能の無駄遣い〟という言葉が隼助の脳裏を過るのであった。

 烏平次と雷蔵は、まだ烏の鼾で丑松をからかっている。隼助は、ひとり蕎麦の味を楽しんでいた。
「あらやだ、(らい)ちゃんじゃな~い」
 店に入ってくるなり、その客はいきなり雷蔵に話しかけてきた。どうやら町方の同心らしい。
「ぶフッ!!」
 雷蔵のふき出した蕎麦が隼助の右頬に張りついた。
「ちょっ、雷蔵さん」
 頬をぬぐいながらふり向くと、雷蔵は怯えた表情で同心を指さした。
「かカか かかっ、かブ……!」
 カチカチと音をたてる歯、額に浮かぶ脂汗、そして恐怖に歪んだ眼。雷蔵は鼻から蕎麦を垂らしながら、青い顔で怯えているのであった。
「ちょっと、あなた」
 同心らしき武士(さむらい)がとても不愉快そうな表情で隼助をにらみながらちかづいてきた。
「え? オ、オレ、です……か?」
 いささか動揺しながら、隼助は人差し指で自分の顔を指して確認した。
「そうよ。あなたよ」
 同心はヒゲの剃りあとが青くのこる頬をふくらませて腕組みをした。そして、「わるいんだけど、そこの席、ちょっと貸してくんない?」と、げじげじまゆ毛の下で目をしばたたかせた。
 どうも様子がおかしい。この同心は、ひょっとして男色(だんしょく)なのでは――ヘタにかかわらないほうがいいかもしれない。隼助は、おとなしく席を譲ることにした。
「あ、はい。どうぞ」
 そのとたん、雷蔵が舌打ちをして不愉快そうにため息をついた。隼助は雷蔵の顔を見ないように目を伏せながら烏平次のとなりに座りなおした。
「だれです? この人」
 隼助は烏の鼾で烏平次に訊いた。
蕪木(かぶらぎ)新之助(しんのすけ)。北町の同心だよ」
 烏平次も顔を伏せながら烏の鼾で答えた。
「どうして雷蔵さんが町方と知り合いなんです?」
「あれは、たしかひと月ほどまえだったかな」
 この蕪木という同心がヤクザ風の男を追っているとき、たまたまそこを雷蔵が通りかかった。そのヤクザ風の男を雷蔵が取り押さえて蕪木に引きわたした。そして蕪木は、一目で雷蔵にイカレてしまった。お猪口をかたむけながら、烏平次はしみじみと語るのであった。
「町方を笑うものは町方に泣く、ですね」
 隼助が言うと、烏平次は「()げえねえ」と相槌を打って笑った。
「どうやら、(やっこ)さんも逃げなすったようだ」
 烏平次が丑松の席をアゴで指した。
「え?」
 隼助はとなりの席をふり向いた。丑松がいない。倒れた銚子のまわりに、穴あき(せん)が数枚、散らばっていた。どうやら丑松も、この蕪木という同心が苦手だったようだ。
「ねえ、雷ちゃん。これからふたりで、ウナギでも食べに行かなぁ~い?」
 蕪木は〝なよなよ〟と体をくねらせながら、誘うような怪しい目つきで雷蔵の顔を見つめている。雷蔵は額に脂汗をにじませながら、引きつった笑みを浮かべていた。
「ざざざ残念ながら、アッ、アッシはちょっと、忙しいんでさァ」
 お猪口に酒を注ぐ雷蔵の手が小刻みにふるえている。
「そそっ、それに、ア、アッシはウナギが苦手なもんでして。へ、へい」
 雷蔵はお猪口に酒を注ぐと、銚子のほうをくちにつけて大きくかたむけた。
「そ、それじゃあ、おれたちは先に帰ってるぜ」
 烏平次が席を立ったので、隼助も勘定を置いて立ち上がった。
「隼助ぇ」
 かすれた声で雷蔵が呼びとめる。
「てめえも()ぇるのか?」
 雷蔵のすがるような目が隼助を見つめてくる。
「ウナギ代も、置いていきます」
 隼助は雷蔵の視線からそっと目を逸らすと、ウナギ代を卓の上に転がして(きびす)を返した。
「それじゃ」
 隼助は戸口に向かって歩きはじめた。雷蔵が呼びとめる。しかし、隼助はふり向かない。烏平次はひと足先に店を出たようだ。隼助は暖簾を出ると、立ち止まってそっと雷蔵をふり返った。雷蔵の腕を抱きながら、蕪木が肩に頬ずりをしている。雷蔵は口もとで静かに銚子を傾けながら、口もとで笑っている。片方の鼻の穴から蕎麦を垂らしたまま、雷蔵は笑顔で涙を流しているのであった。
 ふたりからそっと目を逸らし、隼助は店に背を向けた。ふり返ったことを後悔しながら、隼助はだまって歩きはじめた。

第四話「幽霊なんて怖くない!」

第四話「幽霊なんて怖くない!」

 東橋(吾妻橋)を真ん中ちかくまで渡ると、隼助(しゅんすけ)のまえを歩く烏平次(うへいじ)が足を止めた。
「桜が咲いたな」
 欄干(らんかん)のまえに立って川岸のほうを見ながら烏平次が言った。大川(おおかわ)(隅田川)のほとりにつづく桜並木。雷蔵(らいぞう)も烏平次のとなりで腕組みをしながら目を細めている。
「見事に咲きやしたね」
 隼助も雷蔵のよこに立って撫子色にほほ笑んだ。
「天気もいいし、絶好の花見日和ですね」
 そよ風が運んでくる桜の香り。そして、炭火のようにやわらかい日差しが心地よかった。橋を行き交う人々も、満面の笑みを顔いっぱいに咲かせているのであった。
「隼助」
「なんです、カシラ」
「昼めしが済んだら、ダンナのところにカネを届けてくれ」
「ダンナって、寺子屋の?」
 浅草の街はずれにある寺子屋の師匠、(たちばな)刀九郎(とうくろう)のことである。刀九郎は火事や病気で親を失った孤児(みなしご)を引きとり、親代わりになって養っているのだ。
「毎年、桜の花が咲くころに千両届けることになっている。そのことは、おめえも知ってるだろう、隼助」
「へい。それは知ってますが、いつもはカシラが直接お届けになっていたじゃないですか」
 隼助は雷蔵越しに話している。雷蔵は腕組みをしたまま、だまって桜をながめていた。
「おれと雷蔵は、ちょっと野暮(やぼ)用でな。深川(ふかがわ)に用事があるんだ。なに、夜までにはもどってくるさ」
 烏平次も、雷蔵とおなじく桜のほうを見たまま話している。
「まあ、そういうわけだから、頼んだぜ。隼助」
「へい」
 隼助が返事をすると、烏平次は桜を見たまま、だまってうなずいた。

 隼助は大工の格好で刀九郎の寺子屋を訪れた。肩にかついだ道具箱には小判が入っているのだ。怪しまれずに千両という大金を運ぶためである。途中で町方(まちかた)とすれちがったが、呼びとめられることはなかった。
 隼助は表の門ではなく裏口から入って庭のほうにまわった。さほど広くはないが、よく手入れの行きとどいた庭である。
「あの、ごめんくださいまし」
 隼助は少し緊張しながら(おと)ないをいれた。
「どなたかな?」
 障子の向こうから返事が返ってきた。
「へ、へい。隼助です」
「おお、隼助か」
 静かに開いた障子から、着流し姿の浪人、刀九郎が現れた。
「カシラの代理で参りました」
「そうか」
 うなずくと、刀九郎は隼助の肩に乗せた道具箱をチラリと見て静かに吐息をもらした。どこか悲しいような、空しいような、そんな眼をしている。
「おまえたちのおかげで、子供たちは路頭に迷わずに済む」
「いえ、オレたちのような盗っ人にできることといえば、こんなことぐらいで……」
 隼助はぎこちなく笑ってあたまをかいた。刀九郎も、静かに微笑を浮かべてうなずいた。
「ろくなもてなしはできんが、ささ、上がられよ」
「へい」
 刀九郎が茶を入れている間、隼助は開け放った障子から庭をながめていた。なにもないが、大人の背丈より少し高い板塀の手前に、一本の柿の木が立っていた。春なので、実はおろか、まだ葉すらつけていない。
「メジロが来ておるな」
 茶を出しながら刀九郎が言った。柿の木の枝に、メジロが一羽、()まっている。
 隼助は刀九郎と話をするのが苦手だった。侍というのは、どうも堅苦しくて話づらいのである。
「あ、これをカシラにたのまれまして」
 座布団の上でひざを折ったまま道具箱をもち上げると、隼助は刀九郎の座布団のまえに差し出した。
「山吹色の菓子にございます。どうぞお納めを」
 まるで芝居の一幕を演じるように節をつけた口調で隼助は言った。しかし、刀九郎の表情は変わらない。この男には冗談が通じないのだろうか。隼助は苦笑すると、マゲを指ではさむように撫でつけた。
 刀九郎が吐息をついて、庭のほうに視線を向けながら立ち上がった。
「隼助」
 障子のほうに向かいながら刀九郎が言う。
「正義とはなにか」
「正義、ですか」
「まことの正義とはなにか。わしにはわからんのだ」
 寺子屋の師匠をしている刀九郎にわからないことが自分にわかるはずもない。
 隼助に背を向けたまま刀九郎がつづける。
「義賊といえど、所詮おまえたちは盗っ人」
「ですが、それはけっして自分たちのためにやっているんじゃありません」
 刀九郎の背中を見ながら隼助は言う。
「ここの子供たちのように、その日の生活に困っている人たちのために、オレたちは――」
「たしかに、その金で子供たちは救われた。そういう意味では、おまえたちの行いは正義と言えよう。だが、盗みは盗み。やはり、人の道にはずれているのだ」
 刀九郎は穏やかな口調で静かに話している。相手と口論するときでさえ、こんな調子である。刀九郎は、けっして感情的になることはないのだ。
「隼助」
 腕組みを解いて刀九郎がふり向いた。
「おまえたちのやっていることは、まちがっている。だが、おまえたちのようなやつがいなければ、貧しいものは救われないのも事実」
 座布団にもどってくると、刀九郎はもういちど千両箱を見てため息をもらした。
「おまえたちは悪を装っているだけで、その心は清く澄んでいる。けっして悪に染まるでないぞ、隼助」
 刀九郎は哀しいような、しかし優しい眼をしてうなずいた。隼助は、刀九郎の眼に無言でうなずいた。
「この千両、子供たちのために役立てよう」
 刀九郎が座布団のわきに千両箱をさげると、隼助はホッと胸をなでおろした。
「ところで、ダンナ」
「うん?」
「ダンナは浪人。いちおう、お侍でございます」
「それが、どうかしたのか?」
 刀九郎は何事もない表情で茶をすすっている。
「いえね。つまり、そのぅ」
 隼助は、いったん言葉を切って咳払いをした。
「いや、お侍なら、やっぱりマゲ……は、あったほうがいいんじゃないかな~、って……」
 じつは、刀九郎も烏平次とおなじく〝ヅラびと〟なのだ。しかも、刀九郎は堂々とハゲあたまをさらしているのであった。
「ヅラ、か」
 刀九郎は真顔でうなずくと、ハゲあたまをピカリと光らせた。
「へ、へい。せめて、表を歩くときぐらいは……」
「蒸れる」
 刀九郎の返事はそれだけだった。
 刀九郎はヅラが嫌いなのだ。だが、刀九郎のように開き直ってくれたほうが、かえって気をつかわなくて済むのである。こういうところは烏平次も見習うべきだ、と隼助は秘かに思うのであった。
「それにしても、静かですね。子供たちはお昼寝ですか?」
「うむ。たっぷり昼寝をしているはずなのにな。夜も、よく眠るのだ」
 ひざの上で湯呑を手に包みながら刀九郎がほほ笑んだ。
「寝る子は育つ、ってやつですね」
 隼助も笑みを浮かべながら茶をすすった。
「しかしな、隼助。子供はただでは起きんのだ」
 刀九郎がそっと湯呑の中に目を落とした。
「と、おっしゃいますと?」
 隼助は妙な顔で尋ねる。
「かならず寝小便をするやつがおる」
 湯呑から目を上げると、刀九郎はくちもとでフッと笑った。
「なるほどね」
 刀九郎もこういうことが言えるのか、とおどろきつつも、隼助は肩をゆらして笑った。
「なかには、ひとりで(かわや)(便所)に行くのが怖いと言ってな。夜中に起こされることもある。」
 刀九郎がひざの上で湯呑を包んだまま障子の外に目を向けた。
「子供を育てるというのは、なかなか大変なものよ」
 刀九郎は庭をながめながら、穏やかな表情で目を細くしていた。
 隼助も刀九郎と一緒に庭をながめた。
「自分にも、覚えがありますね。お化けが怖くて、じっと布団の中で小便を我慢してました。いまになって思えば、本当にばかばかしいことです。お化けだの幽霊だの、そんなものいやしねえのに」
 そう言って笑うと、隼助はぬるくなった茶をひとくちすすった。
「たしかに、お化けや妖怪などはいないだろう。だがな、隼助」
 畳の上の茶托(ちゃたく)に湯呑を置くと、刀九郎は腕組みをしながら静かに顔を上げた。そして、真顔でこう言った。
「幽霊は、いる」
 刀九郎の眼は真剣だった。それに、刀九郎は冗談を言うような性格ではない。
 隼助の背筋に冷たいものが走る。
「ま、まさか」
 隼助はゴクリとつばをのみ込んだ。
「だっ、ダンナは見たことがあるんですか? ……幽霊」
 隼助はむりやり笑顔をつくりながら、鳥肌が立った腕をさすった。
「うむ。見たぞ」
 当然のことのように刀九郎は真顔で言うのであった。
 隼助は落ちつきなく体をゆらしながら笑った。
「ほっ、本当ですか~? オレを脅かそうとしたって、そうはいきませんよ? なにせ、盗っ人は夜の商売。幽霊が怖くちゃ務まりませんからね」
「隼助」
 刀九郎が隼助の顔を見てほほ笑んだ。
「幽霊はいる」
 刀九郎は断言した。
「はい。おります」
 隼助には否定できませんでした。
「ところで、ダンナはどこで見たんですか? その……幽霊を」
「そこだ」
 刀九郎が庭のほうを指差した。
「その柿の木のまえに立っていたのだ」
「ぇ」
 隼助は柿の木をちらりと見てブルブルッと体をふるわせた。
「それは……いつごろの話で?」
「あれは、半月まえ……満月の奇麗な晩のことだ。わしが部屋で書物(しょもつ)を読んでいると、庭のほうで人の気配がしたのだ」
 まるで他人事(ひとごと)のように刀九郎は語りはじめた。
 隼助は庭のほうを見ないように目を伏せながら刀九郎の話に耳をかたむけた。
「だが、それが盗っ人ではないことは、すぐにわかった。気配を消そうという気がまるでないのでな」
 刀九郎は寺子屋の師匠だが、剣術の腕も相当に立つのだ。そこらの貧乏道場の師範ぐらいでは相手にならないだろう。少なくとも、この江戸で刀九郎にかなう者はいないのではないか、と隼助は思っていた。
 茶をすすりながら刀九郎がつづける。
「こんな夜更けにだれかと思い、そっと障子を開けてると、柿の木のまえに男がひとり立っていた」
 刀九郎が柿の木に目をやった。
 隼助は反対側を向いて茶をひと口すすった。
「女の幽霊はよく聞きますが、男の幽霊……ですか」
 刀九郎は無言で隼助にうなずくと、寂しそうな眼差しを柿の木に向けながらつづけた。
「男の名は進藤数馬(しんどうかずま)。わしの親友だ」
 小さくつぶやくと、刀九郎は哀しい眼で柿の木を見たまま腕組みをした。
 幽霊の正体が刀九郎の親友だと知ると、隼助は怖いと思ったことがなんだか申し訳なく思えてきた。
「それで、それからどうしたんです?」
今時分(いまじぶん)どうしたのだ、そんなところに立っていないで中に入れ、と声をかけたのだがな。やつは、なにも言わずに立っているだけだった」
 刀九郎はいちど言葉を切ると、腕組みを解いて茶托の湯呑に手を伸ばした。
「数馬は、なにも答えない。ただ、だまって、かすかにほほ笑みながら、じっとわしの顔を見ているのだ」
「ぜんぜんしゃべらないんですか?」
「うむ」
 茶托に湯呑をもどすと、刀九郎はふたたび腕組みをした。
「なにもしゃべらず、こちらの問いに返事もしない。しかし、数馬はけっして無口な男ではないのだ。どうも様子がおかしいので、庭に降りようとしたとき……」
 隼助はゴクリとつばをのみ、刀九郎のつぎの言葉をまった。
「金縛りにあった」
 やはり真顔で刀九郎は言うのであった。
「なるほど」
 幽霊より刀九郎のほうが怖い、と隼助は思いました。
「そこで、ようやくわしは気づいたのだ。もしや、数馬はすでにこの世のものではないのかもしれぬ、と」
 刀九郎は隼助にうなずくと、視線を柿の木のほうに流した。
「数馬は、わしに別れを言いに来たのだ」
「しゃべったんですか?」
「いや、しゃべりはせん。いちど軽くあたまをさげて、な。ほほ笑みながら、ゆっくりと消えていった」
 そして静かに目を閉じると、刀九郎はいちど吐息をついた。
「妻のお志津(しず)が訪ねてきたのは、翌朝のことだった。数馬の死を知らせに、な」
「不思議なことも、あるもんですねえ」
 隼助も柿の木を見ながら吐息をもらした。枝に留まっていたメジロの姿は、もうなかった。
「ん?」
 柿の木のすぐうしろ、板塀の上に一匹の白い猫がいる。行儀よく前足を立てて座りながら、黄色い眼玉でじっとこちらをうかがっている。ひょっとしたら、化け猫かもしれない。隼助は数馬の話を思い出しながら、茶をひとくちすすってゴクリとのみ込んだ。

 向島(むこうじま)はのどかな田園地帯だが、料亭や別荘などもある。そして八咫烏(やたがらす)の隠れ家も、この向島にあるのだ。堀切村(ほりきりむら)のはずれにある、大きな山。めったに人が立ち寄らないので、山道すらない。その山奥、竹林を抜けたところに、古い荒れ寺がひっそりと佇んでいた。そこが八咫烏の隠れ家である。
「なるほど。幽霊ねえ」
 隼助が刀九郎から聞いた話をすると、どんぶりで酒を呷りながら烏平次が笑った。烏平次は大酒飲みなのだ。お猪口やぐい吞みではなく、いつもどんぶりで飲むのである。
「おめえさんは、からかわれなすったのさ。隼助」
 囲炉裏の向こうでぐい吞みを呷りながら雷蔵も笑った。
「ダンナは真剣に話してました。とてもからかってるようには見えませんでしたよ」
 そうは言ってみたものの、隼助も幽霊など信じてはいなかった。やはり、からかわれたのだろうか。隼助は閉めきったうしろの障子を肩越しにチラリと見て首をかしげた。
「幽霊なんて、いるわけないよな」
 隼助は口の中でつぶやきながら手酌でぐい吞みを呷った。
 寺のいちばん奥から二番目、六畳ほどの、囲炉裏のある小さな部屋。障子は閉めきってある。三人で囲炉裏の火を囲み、酒を飲んでいた。
「あのダンナは、いくつぐらいなんですかね」
 どちらに尋ねるともなく隼助が訊いた。
「たしか、四十七って言ってたな」
 答えたのは烏平次である。
「四十七、ですか。ところで、あのダンナはいつからハ……」
 ハゲているのか。隼助がそう言おうとしたとき、雷蔵が大きな咳払いをした。マユがハの字になっている。余計なことを言うな。血走った雷蔵の眼は、そう語っていた。
「どうした、隼助」
 烏平次がマユをひそめた。
「い、いえ、いつから寺子屋をやってるのかな~、って」
 隼助は、あわててとりつくろった。
「さあ。そいつァおれも知らねえなあ」
 小首をかしげて烏平次がどんぶりを呷った。
 烏平次のまえでは、額から上の話は絶対にしてはいけないのだ。冷や汗を手の甲で拭うと、隼助は気を取りなおしていなり寿司を頬張った。夕餉(ゆうげ)は大抵、屋台の寿司で済ませることが多いのである。
「そういや、カシラたちは深川にどんな用事があったんです?」
「うん?」
 烏平次が雷蔵と顔を見合わせた。
「なに、大した用事じゃねえよ」
 意味ありげな笑みを浮かべながら烏平次がどんぶりを呷った。雷蔵も、おなじ顔でぐい吞みを呷っていた。
 どうせ芸者遊びでもしていたのだろう。ふてくされながら、隼助は手酌でぐい吞みを呷った。
「う!」
 ――人の気配。隼助の背後。障子の向こうである。井戸のあるほうだ。烏平次と雷蔵も鋭い目を障子のほうに向けている。
「隼助」
 雷蔵が確かめろ、というように目で促した。
 隼助は素早く立ち上がって障子に向かい、そして勢いよく開け放った。
「だっ、だれでぃ!」
 闇に向かって隼助は叫んだ。月は出ていない。庭の奥、暗闇のむこうにぼんやりと佇む井戸。そこに、何者かが潜んでいる。気配がするのだ。
「どうだ、隼助。なにか見えるか?」
 烏平次が声をひそめる。
「いえ」
 烏平次の声にはふり向かず、辺りを警戒しながら隼助は答えた。
 姿は見えないが、まちがいなくいる。隼助は縁側から降りると、井戸のほうにじっと目を凝らした。
「あっ!」
 井戸の上で、なにか小さな丸いものが光っている。蛍の光のような、小さな丸いものがふたつ。
「どうした、隼助」
 雷蔵の声。
「な、なにか光ってます」
 井戸のほうに目を凝らしたまま隼助は答えた。
「井戸の上で……なにか小さなものがふたつ、光ってます」
「なにが光ってるんだ?」
 隼助は烏平次に答えず、石畳の上を井戸のほうへ向かって歩きはじめた。足元から井戸まで、四角い石畳が三十個ほど、飛び石状につづいている。隼助は井戸のほうに目を凝らしながら、一歩一歩、慎重に、ゆっくりと足を運んでいた。
 小さなふたつの光は、井戸の上から動かない。人魂にしては小さすぎる。いったい、なにが光っているのだろうか。ちょうど石畳を半分ほど進んだところで、隼助は足を止めた。
「あ」
 一瞬にして緊張がほぐれた。井戸には、竹の葉などのゴミが入らないようにフタがしてある。そのフタの上で、白い猫が一匹、香箱座(こうばこずわ)りになっていた。
「ねこ……猫でした」
 部屋のほうをふり返ると、隼助は苦笑混じりにため息をついた。
「猫?」
 雷蔵がマユをひそめながら烏平次の顔を見た。どうも納得できないといった表情だ。
「猫の気配にしちゃあ、ちょっと、な」
 烏平次も腑に落ちないというように首をかしげた。
「気に入らねえな」
 雷蔵も首をかしげる。
 隼助は井戸のほうに向き直った。
「そういえば、この猫。どこかで見たような……」
 隼助は「はっ」とした。刀九郎の寺子屋で見た猫である。
「まっ、まさか……数馬……さん?」
 ――バタン!
 いきなり背後で大きな音がした。隼助は鳥肌を立てながら部屋のほうをふり向いた。
「あ」
 隼助が勢いよく開けたせいだろう。はずれた障子戸が、茣蓙(ござ)の上にあぐらをかく烏平次のあたまに倒れている。破れた障子からあたまだけだしながら、酒のどんぶりをもったまま固まっていた。
「カシラ、大丈夫ですかい?」
 雷蔵が立ち上がって、一歩踏み出したときである。
 ――バキバキッ!
 雷蔵が床を踏み抜いて顔面からカベに突っこんだ。
 隼助は全身に鳥肌が立った。ここの床は張りかえたばかりで、腐ってはいないはずだ。常識で考えても、こんなことはありえないのである。
「はっ」
 もしや、数馬の仕業では――隼助は恐る恐る井戸のほうをふり返った。
「あ……」
 白い猫は、もういない。怪しい気配も、もう感じない。
「ばっ、ばかばかしい。幽霊なんか、いるわけが――」
 部屋をふり向いたときである。屋根から一枚の瓦が落ちていくのが見えた。瓦は部屋のまえに落ちて、ガシャンと音を立てながらくだけ散った。ちょうど、さっきまで隼助が立っていたところである。
「ゆっ、幽霊なんて……こっ、ここ、怖かないさ……」
 しかし、隼助の体からは滝のように冷や汗が流れているのであった。

第五話「オレたちの正義」 

第五話「オレたちの正義」 

 隼助(しゅんすけ)はひとり、不忍池のほとりを歩いていた。天気はいいが、心は曇っている。隼助は、堂々と輝く太陽にそっぽを向きながら歩いていた。
「正義、か」
 ため息混じりにつぶやくと、隼助は腕組みをした。ゆっくりとした足取りで、視線は遊ばせている。
 いくら人助けのためとはいえ、盗みを正当化することなどできはしない。盗っ人に正義などないのだ――隼助は刀九郎(とうくろう)の言葉を思いだした。
「オレたち八咫烏(やたがらす)は、ただの盗っ人じゃない。義賊なんだ。でも」
 所詮、盗っ人は盗っ人――胸の中でつづけると、隼助は上下の唇をぐっと押し合わせた。オレたちは盗っ人。しかし、盗む相手も悪党。いわば、盗っ人のようなやつらである。犯さず殺さず、貧しきからはけっして盗まず。それが八咫烏の掟なのだ。
「オレたちは……八咫烏は、義賊なんだ」
 義賊の〝義〟は、正義の〝義〟でもある。だが、盗っ人が正義を唱えるのはやはりおかしい。自分たちを正当化しているだけなのかもしれない。わからない――オレたちは、いったい何者なんだ。
 コツン……
 つま先に石ころが当たった。ちょうど握りこぶしにおさまるぐらいの大きさだ。
「くそ!」
 隼助は、ちからいっぱい石ころを蹴り飛ばした。
 ポチャン……
 池に石ころが落ちるのを見届けると、隼助は額に脂汗をにじませながらうずくまった。右足の(すね)を両手でかかえ、歯を食いしばってうめき声をあげる。素足に草履。右足の親指に雷が落ちたような激痛が走っているのであった。

「いてて。血が出てらあ」
 右足の親指。爪にも少しヒビがはいっている。
「ちくしょう」
 隼助は忌々しそうに舌打ちをした。
 ――カァ!
 烏の声に、隼助はふと顔を上げた。少し先のほうに辻堂(つじどう)が見える。その辻堂の屋根に、一羽の烏が留まっていた。ここで休んでいけ、ということだろうか。隼助は右足を引きずりながら辻堂のほうに向かった。
 辻堂の階段――ちょうど大人が両手を広げたぐらいの幅の階段――を二段上がり、いちばん上の三段目に腰を下ろした。辻堂の右にそびえ立つ大木が、太陽の日差しをさえぎっている。正面の道をはさんで向こう側には、不忍池が陽の光を受けて白く輝いていた。
「とりあえず、手拭いで縛っとくか」
 隼助は懐から手拭いをとりだすと、端を口にくわえて細く引きちぎった。そっと草履を脱いで、手拭いの切れはしを親指にまきつける。
「やれやれ」
 草履をはきなおすと、政吉はふーっと長いため息をついた。辻堂の障子戸に寄りかかり、ふと池のほうに視線を向ける。盗んだ金で、貧しさに苦しむ人々を救う。方法はまちがっているが、人を助けることは正しい。そこは、まちがってはいない。しかし、自分たちが助けた相手は、はたしてどう思っているのだろうか。まかりまちがえば、どうして貧乏人のおまえがそんな大金をもっているんだ、と役人の詮議を受けることになりかねない。やってもいない盗みの罪で〝お縄〟になる、ということも、じゅうぶん起こり得るのだ。いまのところは、まだそういったことは起きていない――貧しい者が小判をもっていると怪しまれるので、八咫烏は一分金(いちぶきん)や〝穴あき(せん)〟などに両替した上で施している――が、長くつづけていれば、いずれ必ず起こるだろう。隼助は自分たちがお縄になることではなく、自分たちが救うべき人々に罪が及ぶことを恐れているのだ。
「ただの自己満足……」
 なのかもしれない。自然とため息がもれる。隼助は、おもむろに懐から紙入(かみい)れ(財布)をとりだした。紙入れの端にぶら下がる、象牙の根付。細工は不動明王である。以前、雷蔵(らいぞう)からもらったものだ。隼助は、紙入れから不動明王の根付をはずすと、右の掌にのせてながめはじめた。
「すべての悪と煩悩(ぼんのう)をおさえしずめ、生あるものを救済する、か」
 不動明王。鬼のような形相をしているが、その心は慈愛に満ちている。
「オレは……八咫烏は、貧しい人々を救済するために罪を背負っているんだ」
 隼助の手の中で、不動明王がじっとにらんでいる。右手に剣をかまえ、左手には丸めた縄をもっている。
「そいつでオレを縛ろうってわけか」
 皮肉を言うと、隼助は口もとで小さく笑った。
「でも、これも立派な正義なんだ」
 隼助は手の中の不動明王に訴えた。
「たとえ方法がまちがっていようと、これもひとつの正義――」
「盗っ人に正義なんてありゃあしねえぜ?」
「え?」
 隼助は声のほうをふり向いた。辻堂の右、大木の影から、見慣れた顔が現れた。
「雷蔵さん」
「こんなところで、なにしてなさる?」
 雷蔵が薄い笑みを浮かべながら隼助の傍らにやってきた。
「じつは、ちょっとケガをして……」
 紙入れと不動明王の根付を懐にしまい込むと、隼助は手拭いをほどいて傷口を見せた。
「なるほど。ケガは大したことねえが、甘く見ちゃいけねえ」
 新しい手拭いを傷口にまきながら雷蔵がつづける。
「下手をすりゃあ、破傷風(はしょうふう)にかかっちまうからな。帰ったら、しっかり消毒しておきなせえ」
 傷口を縛り終えると、雷蔵は隼助の顔を見上げて笑った。

 隼助は雷蔵の肩につかまって歩いていた。浅草の街はずれ、路地裏にある長屋のちかくを通りかかったとき、なにやら言い争っている声が聞こえてきた。声の調子からして、おそらくヤクザのケンカだろう、と隼助は思った。
「ちょっと寄ってみるか」
 雷蔵がそう言うので、隼助も雷蔵の肩につかまりながら怒声のするほうへ向かった。
「あっ」
 隼助の感はハズレた。いや、半分は当たっていた。ヤクザ者が数人、長屋の住人らしき若い男――大工の格好をした――を恫喝している。隼助と雷蔵は、遠巻きに様子をうかがった。
「おう、才助(さいすけ)
 ヤクザの親分らしき男が、若い男の胸ぐらにつかみかかった。
一体(いって)ぇ、いつまでまたせるつもりだ。期限はとっくに過ぎてるんだぜ?」
 才助の顔が恐怖でこわばる。
「そっ、そんなこと言われても、五十両なんて大金、いったいどうやって――」
「百両だ」
「ひゃっ、百両?」
 才助が狼狽する。
「利子だよ、利子」
 ヤクザの親分がせせら笑う。
「そ、そんな。たった十日で五十両の利子なんて、あんまりだ!」
 この才助という男の妻は病気で、その薬代をこの親分から借りたらしい。正確には、このヤクザの親分を操っている悪どい金貸しから借りた、という話だった。
「雷蔵さん」
 隼助が目をやると、雷蔵は無言でうなずいた。
「おめえさんは、ここでまっていなせえ」
 雷蔵がヤクザたちのほうへ向かった。
「ちょいと失礼。通してもらいやすよ」
 長屋を通りすぎるフリをして、雷蔵が才助の部屋のまえで足を止めた。
「あの、もし。ここはおまえさんの住まいで?」
 雷蔵が部屋をのぞき込みながら才助に尋ねた。
「え?」
 才助が戸惑いの表情を雷蔵に向けた。
「なんだ、てめえは」
 才助から手をはなすと、ヤクザの親分は雷蔵をにらみつけた。
「用があるなら、あとにしやがれ」
 でこぼこの煎餅のような醤油色をした丸い顔。頬一面に、ヒゲの剃りあとが青く残っている。そして、毛虫のような太いゲジゲジまゆ毛。半開きになった死にぞこないの貝のような腫れぼったい眼が、雷蔵をギロリとにらみつけているのであった。
「ちょいとおじゃましますよ」
 雷蔵はヤクザの親分を無視して才助の部屋に入っていった。
「あ、あの……もし、おまえさん」
 才助が戸惑った顔で部屋の中をのぞいている。
 ほどなく、雷蔵が部屋からもどってきた。小さなぐい吞みのような物を、いかにも大事そうに両手で包んでいる。
「いや~、これは見事なぐい吞みですなあ」
 ぐい吞みを顔のまえにかざしながら雷蔵が唸った。いつもとはちがう、丁寧な口調だ。まるで、どこぞの若旦那といった感じである。才助は不思議そうな顔で雷蔵を見ている。ヤクザの親分も、腕組みをしながら首をかしげている。ヤクザの子分たちも、顔を見合わせながらひそひそ話をはじめた。
 上品な笑みを浮かべながら雷蔵がつづける。
「いや、じつは、(わたくし)の父は大の骨董好きでして。おかげで、私もすっかり目利きになってしまったというわけなんです」
「それで、そのぐい吞みがどうかしたのかい?」
 ヤクザの親分が言った。怪訝な目を雷蔵に向けながらアゴ先をさすっている。才助も雷蔵とぐい吞みを交互に見ながら小首をかしげていた。
「これはとても素晴らしい物です。もしよろしければ、ぜひ、これを私に譲ってほしいと思いまして。はい」
「べつに構いませんが、でも……」
 才助は少し困った顔をした。
「でも、そんなぐい吞み、どこにでもある物でございますよ?」
「なにをおっしゃいます」
 雷蔵がおおげさに呆れてみせた。ヤクザの親分と子分たちも、妙な顔でマユをひそめている。
 才助にぐい吞みを見せながら雷蔵がつづける。
「このような素晴らしい物、滅多にお目にかかれるものではございませんよ?」
「は、はぁ……」
 困り顔のまま、才助が小首をかしげた。
「それで、おめえはそれをいくらで買うつもりなんだ?」
 うさんくさそうに細めた眼を雷蔵に向けながらヤクザの親分が尋ねる。
「はい。二百両でいかがでしょうか?」
 才助の顔を見たまま雷蔵が答えた。
「ににっ、二百両?!」
 その場にいる全員が驚嘆(きょうたん)して飛び上がった。

 才助からぐい吞みを買い取ると、隼助は雷蔵の肩につかまりながら長屋をあとにした。もちろん、このぐい吞みに二百両の値打ちなどありはしない。ただのガラクタである。それを承知で買い取ったのだ。二百両のうち百両はヤクザの借金に返済。残る百両は、才助の病気の女房の医者代である。
「雷蔵さん」
「なんだ」
「さっき……盗っ人に正義はない、って言いましたよね」
「ああ」
「でも、人を助けることが正義じゃないんなら、オレたちがやってることは、いったいなんなんですか?」
「ばかやろう」
 まえを向いたまま雷蔵が肩をゆらした。
「いいか、隼助」
 雷蔵は立ち止まると、隼助に顔を向けながらつづけた。
「アッシらは盗っ人だ。いくら義賊といっても、盗っ人に正義なんてありゃあしねえのさ」
「じゃあ、オレたちはなんなんですか?」
 隼助は雷蔵の眼に訴えかけた。
「ただの偽善者ってことなんですか?」
「そうさなァ」
 雷蔵は呆れたようにため息をつくと、まえに向き直ってゆっくりと歩きはじめた。
「雷蔵さん」
 隼助はじれったくて仕方がない。
「アッシらは、ただの〝必要悪〟さ」
 隼助は「はっ」として雷蔵のよこ顔をふり向いた。正義ではなく、必要悪。オレたちは、ただの必要悪。刀九郎が言っていた(まこと)の正義。そんなものは、ありはしない。正義なんて、所詮、幻想にすぎないのだ。正義などいらない。必要悪でもかまわない。オレたちは、人を救うことができるのだから。失望しながらも、隼助はむりやり納得していた。
「あ、もし、そこのおひと」
 東橋(吾妻橋)の(たもと)で見知らぬ老人に呼びとめられた。どこぞの大店(おおだな)の主、といった感じである。
「アッシらに、なにか御用で?」
 雷蔵が尋ねる。
「いや~、見事なぐい吞みをお持ちでございますね~」
 雷蔵の手の中のぐい吞みに興味を示しながら老人が言った。
「あ、これは失礼」
 老人が改まって雷蔵に笑顔を向ける。
「じつは、(わたくし)は骨董屋をやっておりまして、つい」
 丁寧にあいさつをしながらも、老人は雷蔵のぐい吞みに目を落としていた。
「ああ、このぐい吞みですかい? こんなもの、よろしけりゃあただで差し上げやすよ?」
 そう言って鼻で笑い飛ばすと、雷蔵は老人にぐい吞みを差し出した。
「とっ、とんでもない」
 老人は掌を顔のまえでふりながら、おおげさに呆れている。
「このような品、ただでもらい受けるわけにはまいりません」
 そして、老人は雷蔵の顔のまえで指を三本立てた。
「三百両で、お引き取りいたしましょう」
「ぇ?」
 雷蔵が固まった。
「なっ」
 隼助も固まった。
 老人はぐい吞みを袱紗(ふくさ)に包むと、大事そうに懐の中へしまい込んだ。それから手に下げた巾着袋から三百両――二十五両を包んだ切り餅を十二個――を取りだすと、まるで托鉢(たくはつ)をする僧侶のように固まった雷蔵の掌の上に乗せるのであった。
 才助から二百両で買ったぐい吞みが三百両に化けた。隼助は、ふと思った。才助は二百両でぐい吞みを雷蔵に譲り、そのうちの百両で借金を返済。才助の手もとには百両がのこった。そして、才助から二百両で買ったぐい吞みを、見知らぬ老人が三百両で引き取った。つまり、雷蔵は百両儲かったのである。
「なんだか〝三方一両損〟みたいですね」
 隼助は雷蔵の肩につかまりながら冗談を言って笑ってみた。しかし雷蔵は笑わない。表情のない能面のような顔が、ゆっくりと隼助をふり向く。
「はあ?」
 雷蔵は「バカじゃねーのオマエ?」と言わんばかりに荒んだ眼差しを向けてくるのであった。
「いや、わらしべ長者……かな……」
 隼助は仕切りなおした。能面が冷たい視線を向けてくる。
「あっ、指が」
 隼助はほほ笑みを浮かべたまま、ケガをした足の指にそっと目を落とした。

第六話「雨」

第六話「雨」

「……と、いうわけなんでさァ」
 雷蔵(らいぞう)は話し終えると手酌で一杯呷った。きのうの才助(さいすけ)の一件、例のぐい吞みの話である。
「なるほどねぇ」
 卓をはさんで向かいの席で、不思議そうに首をかしげて烏平次(うへいじ)が笑った。
「おれたちは、骨董品にゃあ詳しくねえからなぁ」
 八咫烏(やたがらす)は盗っ人。といっても、なんでも盗むわけではない。狙うのは、主に千両箱である。骨董品などに興味はない。義賊である八咫烏は、貧しきものを救うために罪を背負っているのだ。
「オレも、おどろきましたよ」
 隼助(しゅんすけ)は煮物の小鉢に箸を伸ばしながら言った。
「まさか、あのぐい吞みに三百両の値打ちがあったなんて。ねえ、雷蔵さん」
 格子窓のあるカベ際の席で、お猪口を手にもったまま雷蔵がうなずいた。
「あの才助の女房ってのは、どこにでもいる〝傘張り浪人〟の一人娘で、名はお志津(しず)。父親の三好(みよし)三郎(さぶろう)は五年()ぇに、母親の〝おとき〟も、三年()ぇに病死」
 さっき話したことを、雷蔵が短く繰り返している。
 雷蔵のあとを隼助がつづける。
「その親父の家柄は、もとをたどれば織田家の家臣。あのぐい吞みは信長公より授かったもので、三好家の家宝だった。それを雷蔵さんが――」
「おっと」
 掌を見せながら雷蔵がさえぎる。
「そっから先は言わねえ約束だぜ? 隼助」
 三人で笑った。
「にしても、お志津ってぇ女房も人がわるいよな」
 えび天をかじりながら烏平次が言う。
「そんな大事(でぇじ)なもんを、亭主の才助にもだまってたなんてよ」
「才助は、まだ知らねえんですよ」
 と、雷蔵。
「なにせ、信長公より授かったお宝でやすからねえ。うわさが立って、もし盗まれでもしたら、ご先祖様に死んで詫びなきゃならねえ。だから、このことは才助にもだまっていてくれ。お志津さんに、そう言われたんでさァ」
 あのぐい吞みは骨董屋から買い戻し、その日のうちに無事、才助の女房に返すことができたのだ。
「才助には折を見ていつか話す、って言ってましたよ。お志津さん」
 隼助は言い添えると、お猪口を静かにかたむけた。
 昼を一時(いっとき)(約二時間)ほど過ぎている。めし屋の店内には、さほど客はいない。下働きの娘が、客の座っていない卓の上を拭いてまわっている。聞こえてくるのは、店の主人がまな板の上で野菜をきざむ包丁の音と、二つ隣の席で酒を飲みながら話し込んでいる町人風の男たち四人の大きな話し声だけである。
 隼助たちの話し声は、この四人の声にかき消されて、だれにも聞こえていないだろう。それでも、隼助たちはずっと(カラス)(いびき)――自分が話したい相手にだけ聞こえるように話すという会話術で、関係のない第三者には、となりの部屋から聞こえてくるような、くぐもった唸り声にしか聞こえないのである――で話していたのだ。たとえ聞こえていたとしても、まわりの客には酔っぱらいがなにかブツブツひとりごとを言ってるようにしか見えないだろう。人目のあるところで重要な話をするときは、かならず烏の鼾で話すことにしているのだ。
「それじゃ、ぼちぼち行くとするか」
 烏平次が席を立った。
「おやじ、ここ置くぜ」
 雷蔵も卓の上に勘定を置きながら席を立った。隼助はお猪口をひと口呷ってから席を立った。

 めし屋を出たときである。
「あっ」
 隼助は、ひとりの小さな女の子と出合い頭にぶつかった。
「ご、ごめんよ。ケガはなかったかい?」
 隼助はうろたえながら女の子のまえにしゃがみこんだ。しかし、女の子は地べたに尻をついた格好で泣きだすのであった。どうしたらいいのだろう。子供をあやすのは苦手なのだ。
「どいてな」
 烏平次が隼助の肩に手をのせてうなずいた。
「どこもケガはねえかい? おじょうちゃん」
 烏平次が女の子を立たせて、着物についた砂を手で払った。女の子が泣きながら地面を指差した。飴が落ちている。細い棒についた、鼈甲(べっこう)色の飴。
「そうか。アメを落としちまったのか」
 困った表情で鼈甲色を見ながら烏平次が吐息をついた。
「よし、おじちゃんがまた買ってやろう。だから、もう泣かねえでくれ。な?」
 女の子のあたまに大きな手のひらをのせながら烏平次が言った。
「……うん」
 女の子の泣き顔に、少しづつ笑みが(よみがえ)ってきた。
「よし。いい子だ」
 烏平次も、うっとうしいヒゲ面に優しい笑みを浮かべるのであった。
 さすがは八咫烏のカシラ。ただのヅラびと――烏平次は浪人マゲ(月代(さかやき)を伸ばした頭)のヅラを被っているのである。そして、烏平次のようにヅラを被るものを、世間では〝ヅラびと〟と呼んでいるのだ――ではない、ということか。隼助は雷蔵のわきに立ちながら、感心したようにうなずいた。

「おじょうちゃん、名前はなんていうんだい?」
 女の子の手を引きながら烏平次が尋ねる。
「おくみ」
「おくみちゃん、か。いい名前だ」
 達磨入道のような顔をしているが、烏平次は子供好きなのである。
「住まいはどこだい? おじちゃんが送ってってやるよ」
「とりごえちょう、とうべえながや」
 鳥越町の藤兵衛(とうべえ)長屋。
 隼助は烏平次とおくみの背中を見ながら通りを歩いていた。雷蔵も懐手(ふところで)をしながら隼助のとなりを歩いている。
 烏平次はおくみに話しかけながら、ゆっくりと足を運んでいた。
「いつも、ひとりで遊んでいるのかい?」
「うん」
 烏平次に手を引かれながら、おくみが寂しそうにうなずいた。烏平次に買ってもらった飴を、おくみはもったいなさそうに少しづつ舐めている。金魚の形をした飴細工。たしかに見事な造形だ、と隼助も思った。
「家族は……兄ちゃんとか姉ちゃんは、いねえのかい?」
 おくみはうつむくと、だまって首をふった。左手にもった飴は、まだ金魚の形をとどめている。
「そうか」
 烏平次が吐息をついてうなずいた。
「おとっつぁんと、おっかさんの三人で暮らしてるのか」
「おっかさんは、しんじゃった」
 烏平次が足を止めた。うしろを歩く隼助と雷蔵も、静かに立ち止まった。おくみは、ただだまってうつむいていた。
「そ、そうか。そいつぁ、わりぃこと訊いちまったな」
 烏平次がおくみのまえにしゃがみこんだ。
「ごめんよ、おくみちゃん」
「ううん」
 しかし、おくみはほほ笑みながらくびをふるのであった。
 隼助もおなじだった。父親に早く死なれ、病気の母を看病しながら、その日その日をようやく暮らしていた。冬の川で、手を赤くしながらしじみを採ったこともある。湯屋で風呂焚きもやった。毎日、必死で母の薬代を稼いでいた。母のためだけに、毎日を生きていた。そして、隼助が十三になった年、母が死んだ。とうとう、母を救うことはできなかった。隼助は自分を責めつづけた。自分の無力さを呪った。この世から貧しさを消したい。ひとりでも多く、助けたい。その思いは、いまも変わらない。だから、隼助は八咫烏として罪を背負いつづけているのだ。
「おや?」
 雷蔵が空を見上げた。
「降ってきやしたぜ、カシラ」
 ねずみ色の空から、ポツリポツリと雫が落ちてきた。
「梅雨の季節ですからね。傘を持ってくるべきでした」
 隼助もうっとうしげに空を仰いだ。
「かさなら、うちにあるよ」
 と、おくみが言った。
「おとっつぁんが、まいにちつくってるの」
 瀬川(せがわ)甚十郎(じんじゅうろう)。おくみの父は、どうやら傘張り浪人らしい。
「でも、おとっつぁん、びょうきなの。だから、さいきんはあんまりたくさんつくってないの」
「なるほど」
 烏平次が隼助と雷蔵の顔にうなずいた。
「その傘、おじちゃんたちがぜんぶ買おう」
「え?」
 おくみはおどろいた顔で烏平次を見上げている。烏平次は黄色い歯を見せながら笑っていた。

 瀬川甚十郎から傘を買うと、隼助たちは長屋をあとにした。ひとつ三百(もん)の番傘を十五本、しめて一両二(しゅ)である(※)。
 雨は、まだ降りつづいている。三人とも傘を差しながら、空いてるほうの脇に四本の傘をかかえて歩いていた。
「甚十郎さんの病気、治るといいですね。カシラ」
 隼助は、まえを歩く烏平次の背中に声をかけた。
「そうだな」
 烏平次はふり向かない。
「医者にも、治るまで面倒を見るように頼んできたんだ。きっと、治るだろうよ」
 隼助のとなりで雷蔵が言った。
 烏平次は、ずっとまえを向いたまま歩いている。おくみのことを考えているのだろうか。
「ところで、カシラ。香典は、いくら置いてきたんです?」
 隼助は知っていた。三人で、おくみの母の仏壇に線香をあげたとき、烏平次がそっと〝切り餅〟を供えていたのを。
「四つだ」
 やはり、烏平次はふり向かない。
「百両、ですか」
 傘をたたく雨音が大きくなりはじめた。
「雨脚が……強くなってきましたね」
 傘を滴る雨垂れの向こうに、隼助はそっとささやいた。


     (※)壱両が四千文、壱朱が二百五十文として計算

第七話「白昼夢」

第七話「白昼夢」

「にしても、(あち)ぃなあ」
 通りを歩きながら、烏平次(うへいじ)が首筋の汗を手拭いでふいている。
「風がありゃあ、少しはちがうんでやすがねぇ」
 烏平次のとなりをゆっくり歩きながら、雷蔵(らいぞう)がうっとうしげにお天道様を見上げた。
 浅草蔵前(くらまえ)隼助(しゅんすけ)は体中を汗でベタつかせながら、ふたりのうしろを歩いていた。日差しが熱い。月代(さかやき)が焼けそうだ。隼助は烏平次の浪人髷(ろうにんまげ)の〝ヅラ〟にチラリと目をやった。オレも月代を伸ばしてみるかな――隼助は胸の中でつぶやいた。
 ふいに、まえをゆくふたりの足が止まった。
「ここか」
 烏平次が小料理屋の暖簾(のれん)をくぐった。雷蔵もつづく。
「いらっしゃいやし」
 店の右奥、板場のほうから店主の威勢のいい声が聞こえてきた。
 はじめて入る店だ。藍色(あいいろ)の暖簾には、ひらがなで『ふくでん』の文字が白く染め抜かれている。
福天(ふくでん)、か」
 声に出してうなずくと、隼助も暖簾をくぐって店に入った。
「いらっしゃいまし」
 下働きの若い(むすめ)が、料理をのせた盆を抱えて板場から顔を出した。そして娘は二、三歩足を運んで、はっとしたように立ち止まった。
「まあ、おまえさん方は、あのときの」
 おどろいた顔を隼助たちに向けながら、娘が笑顔で会釈をした。
「元気そうでなによりだ」
 烏平次も笑顔でうなずいた。
 雷蔵もうなずいて、板場のほうに笑顔を向けた。
「御亭主も、達者なようで」
「これはこれは」
 主人が板場のほうからやってきた。
「その節は、大変お世話になりました」
 前掛けで手を拭きながら主人があたまをさげた。年の頃は、娘とおなじ二十四、五ぐらい。主人の名は多吉(たきち)。娘は、おてる。ふたりは夫婦なのだ。
「あなた方のおかげで、(わたくし)どもはこうして店をもつことができました」
 多吉が客に料理を出すおてるをふり返り、互いに笑顔でうなずき合った。
「この御恩は、一生忘れません」
 多吉は烏平次に向き直ると、もういちどあたまをさげて礼を言った。
 このふたりを助けたのは隼助たち、八咫烏(やたがらす)なのである。もちろん、正体は明かしていない。
「礼なら、アッシらより松葉屋(まつばや)のダンナに言いなせえ」
 雷蔵が謙遜して笑った。
 小間物問屋の松葉屋は、八咫烏と深いつながりがあるのだ。主人の名は、松葉屋(まつばや)伝左衛門(でんざえもん)。烏平次のまえに、八咫烏の頭目をつとめていた男である。
「もちろん、松葉屋さんにも感謝しております」
 多吉が言う。
「あなた方は、私どもの命の恩人なのですから」
「おおげさだよ」
 浪人髷の〝ヅラ〟をかきながら烏平次が笑った。
「それより、めしを三人前、適当に見繕(みつくろ)ってくれ。それと銚子を三本」
「では、どうぞこちらへ」
 多吉が奥の小上がりの座敷に案内した。ちょうどヒザぐらいの高さの畳の席。
「ささ、こちらへ」
 隼助たちが案内されたのは板場のとなりの席である。烏平次は障子窓のある角のカベ際に座った。雷蔵も、卓をはさんで烏平次と向き合う形でカベ際に座った。隼助は雷蔵のとなりに板場を見ながら座布団の上にあぐらをかいた。
「いいお店ですね」
 隼助は店内を見まわしながら多吉に言った。
「ありがとうございます」
 小上がりの下で多吉が会釈をした。
 すぐうしろのほうから、客の話し声が聞こえてくる。隼助は肩越しにふり向いた。背の低い障子の衝立(ついたて)の向こうで〝本多髷(ほんだまげ)〟が四つ、にぎやかに話し込んでいた。
「では、しばしおまちを。それから――」
 多吉が衝立の向こうの客を気にしながら声をひそめた。
「今日のお代は結構ですので」
 すると、烏平次が困った顔になった。
「まあ、そう気を遣うなよ、多吉(たき)っつぁん」
「しかし、それでは(わたくし)どもの気が済みませんので」
 多吉がどうしてもと言うので、烏平次はしぶしぶあたまをたてにふった。
「それじゃ、お言葉にあまえて」
 多吉はまんぞくそうな笑みを浮かべながら烏平次にうなずくと、板場のほうへ戻ってった。

 おてるが酒と料理を運んできた。煮物の小鉢に焼き魚、山菜の天ぷら、漬物、淡雪豆腐、吸い物、そして菜飯(なめし)
「こりゃあ、おいしそうですね」
 隼助は卓の上に並べられた料理に目を走らせた。
「主人が、腕によりをかけました」
 卓のよこでヒザを折りながら、おてるがニコリと笑った。
「おてるさん。ほんとうに、お代はいいんで?」
 申し訳なさそうに烏平次が尋ねた。
「はい、もちろんです。どうぞお気になさらないでください」
「それじゃ、遠慮なく」
 烏平次は改まってあたまをさげた。
「御馳走になりやす」
 雷蔵があたまをさげると、隼助も一緒に会釈をした。
「あとで心太(ところてん)をおもちしますので、どうぞゆっくりしていってくださいまし」
 笑顔で会釈をすると、おてるは小上がりから降りて板場のほうへ戻っていった。
 昼時なので、店内は客の話し声でにぎやかだった。土間には卓が八つほど並んでいる。もちろん、空席はひとつもない。隼助たちの小上がりも、客の笑顔で埋まっているのであった。
「あれは、たしか去年の今頃だったか」
 烏平次が開け放った障子窓の外に目を向けながらお猪口をかたむけた。
「へい。ちょうど一年になりやすかね」
 雷蔵も、しみじみとお猪口をかたむけている。手酌で一杯やりながら、隼助も去年の出来事を思い出していた。
 ある満月の夜のこと。ふたりの若い男と女が、両国橋から身を投げようとしていた。そこを、オレたち八咫烏がたまたま通りかかり、ふたりを助けたのだ。それが、多吉とおてるだった。ふたりは心中しようとしていたのだ。わけを訊くと、白昼、少し長屋を空けている間に空き巣が入ったらしく、小料理屋を出すために必死で貯めた百両を盗まれたというのだ。挙句の果てに「夜の盗っ人は十両でも首は飛ぶが、スリや空き巣は油断したほうが悪い」と、役人にも叱られる始末。ふたりは激しく落胆し、いっそのこと死んでしまおうと捨て鉢になっていたのだ。
 事情を聞いた烏平次は手紙を一筆したためると、多吉に渡してこう言った。
「これを外神田(そとかんだ)の小間物問屋・松葉屋という店にもっていきなさい」
 松葉屋の主人・伝左衛門は、烏平次のまえに八咫烏の頭目をつとめていた男である。
「その手紙を主人に見せれば、金を貸してくれるはずだ。無利子で、な」
 じつは、この手紙にはある細工が施してあったのだ。文面ではなく、紙に細工があるのだ。ロウソクの灯で軽くあぶると、紙の中心に黒い八咫烏の絵が浮かび上がってくるのである。いわゆる〝あぶりだし〟と呼ばれる細工だ。この細工が施された紙を松葉屋にもっていけば、なにも聞かずに金を貸してくれるのだ。そして、この紙にはもうひとつの使い方があった。身分の低い貧しい者が小判をもっていては怪しまれる。だから、小判のまま施す場合は、かならずこの紙に包むのである。それを松葉屋にもっていけば、一分金(いちぶきん)や〝穴あき(せん)〟に両替してくれるのだ。
 隼助は酒でのどを潤すと、お猪口を置いて料理に箸を伸ばした。
「この菜飯、うまいですよカシラ」
 烏平次は返事をしない。お猪口をもったまま、だまって障子窓の外をながめている。
 チリン……チリン……チリン……
 障子窓の向こうから、風鈴の涼しげな音色が聞こえてくる。
「いい音色だ」
 障子窓のまえを風鈴売りの俸手振(ぼてふ)りが横ぎっていく。烏平次は風鈴売りを目で追いながら、静かにお猪口をかたむけていた。

 めしは済んだ。心太も堪能した。だが、三人はまだ店にいた。酒も、まだ残っている。外は暑そうなので、もう少しゆっくりしていこう、というわけだ。
 隼助のすぐうしろ、衝立の向こうで、さっきから四人の男たちが酔って騒いでいた。
「きのう、バクチで()っちまってよ。ありゃあ、ぜったいイカサマだぜ。ちくしょう」
「やめとけ、やめとけ。バクチなんて儲かりゃしねえよ」
「なにかいい儲け話でもころがってねーかな」
(ぜに)が欲しけりゃあ、八咫烏にでも頼むこった」
 顔は動かさずに、隼助は烏平次のほうに目を向けた。雷蔵も、お猪口をもったまま烏平次の顔を見ている。
 烏平次はだまってうなずき、ふーっと長い吐息をもらした。
「でもまあ、あれだよな。あんまり、おれたちを当てにしてもらっても困るんだよな」
「そろそろ、やり方を変えたほうがいいのかもしれやせんね」
 雷蔵も迷惑顔でお猪口を呷った。
 四人組の話は、まだつづいている。
「なにが八咫烏だ。たかが盗っ人じゃねえか。そんなやつらの施しなんざ、受けたくねえや」
 隼助は、目の端からそっと烏平次の顔をうかがった。眉間にしわを寄せながら、障子窓の外をにらんでいる。雷蔵も、額に青筋をたてていた。
 四人組は、さらにこうつづけた。
「そうだそうだ。義賊だなんだもてはやされて、調子にのるなっつうの」
 隼助のよこでピシッ、と妙な音がした。横目で雷蔵を伺う。徳利をにぎった指の隙間から、酒が流れ出している。雷蔵はマユを〝ハの字〟にして、涙堂(るいどう)をピクピクさせながらイラだちをつのらせていた。
「らっ、雷蔵さん。それ、弁償ですよ」
 クモの巣状にヒビの入った徳利を見ながら隼助はささやいた。
 四人組の話は、まだ終わっていない。
「うわさじゃあ、やつらがばらまいてるのは小判じゃなくて小粒(一分金など)だってえ話しだぜ」
「やれやれ。義賊ってより、ただのコソ泥じゃねえか」
 四人組の笑い声を聞きながら、隼助は歯を食いしばった。
 ――バリバリ!
「あっ、雷蔵さん」
 雷蔵の手の中で徳利が粉々にくだけ散っている。ハの字になったマユの下で、雷蔵の鋭い目がギラギラと白く光っているのであった。
「――え?」
 隼助の顔のよこを、ものすごい勢いでなにかが飛んでいった。
 ――バリン!
 なにかがくだけ散る音。
「ぎゃあっ」
 うしろで男が悲鳴を上げた。隼助は、あぐらをかいたままふり返った。衝立の向こう。男のあたまで割れたのは徳利だった。まるで打ち上げ花火のように、徳利の破片が広がりながら飛び散ってゆく。
「きたねえ花火だ」
 烏平次の声にふり向く。赤い顔に瞳孔を小さくした白い(まなこ)。そこにいるのは、烏平次ではなく赤鬼だった。
「これからが本当の地獄だ」
 般若のような形相で雷蔵が言いました。
 四人組と乱闘になった。徳利、座布団、茶わん、衝立。いろんなものが店の中を飛んでいる。多吉は能面のような表情で呆然としている。おてるは顔をこわばらせながら多吉の袖をぎゅっとにぎりしめ、宙を飛びかう家具や茶わんを目だけで追っていた。
 白昼夢、か。
 隼助はフッと鼻先で笑った。夢の中なら、なにも恐れることはない。
「八咫烏は義賊だ!! なめるなよぉ!!」
 止められるものなら止めてみろ。隼助たちは、悪魔に魂を売りわたしたのであった。

 隼助は浅草紙(あさくさがみ)――チリ紙のようなもの――を小さくちぎって丸めると、それを両方の鼻の穴に押し込んだ。鼻血を止めるためである。
 雷蔵も、血がにじんだ口もとに手拭いを押し当てて、気まずそうにうつむいていた。
「壊した物は、おれたちが弁償する。これを松葉屋さんにもっていくといい」
 烏平次は両目が青く腫れあがった顔で例の手紙を多吉に渡した。
「へ、へえ。助かります」
 多吉は青い顔で手紙を受け取った。そして女房のおてるも、多吉の傍らで青い顔をこわばらせながら会釈した。
「本当に、とんだ迷惑をかけちまって申し訳ないです」
 隼助は鼻声で謝った。
「い、いえ。とんでもないで……す」
 おてるが放心状態のまま返事をした。
「そ、それじゃ、ごめんなすって」
 雷蔵があいさつをすると、烏平次も青く腫れた目であたまをさげた。
 店に背を向け、隼助たちは歩きはじめた。日差しが強い。風もない。月代でサンマが焼けるのではないかと思えるほど外は暑い。なのに、すれ違う人たちは、なぜかみんな寒そうに体を縮めて青い顔になるのだ。まるで幽霊でも見たような、青ざめた顔に……。
 隼助はフッ、と笑った。むりもない。三人とも、まるで〝お岩さん〟のような顔なのだから。
「白昼夢、か」
 両方の鼻に丸めた浅草紙をつっこんだ顔で、隼助はもういちどフッ、と笑った。

第八話「露草色に吠える」

第八話「露草色に吠える」

 向島(むこうじま)のはずれにある大きな山。その山奥に、ひっそりと佇む古い荒寺。江戸でもっとも有名な義賊・八咫烏(やたがらす)の隠れ家である。
 カシラの烏平次(うへいじ)と兄貴分の雷蔵(らいぞう)は、朝から出かけている。隼助(しゅんすけ)はひとり荒寺に残って、落ち葉のつもった庭を掃いていた。夕方に焼き芋をやるので、落ち葉をあつめているのだ。
「よし。こんなもんでいいだろ」
 庭を掃き終えると、隼助は縁側に腰をおろしてくつろぎはじめた。寺のいちばん奥から二番目の部屋。障子は開け放ってある。露草色(つゆくさいろ)の空を見上げると、浜辺にうち寄せる白波のような〝まだら雲〟が広がっていた。その白波の上を、無数のトンボが飛びまわっている。まるで大海原の空を舞うカモメの群れのようだ、と隼助は思った。
「秋、か」
 ぽつりとつぶやいて、隼助はひざの上で手を組んだ。縁側から井戸までは、四角い石畳が三十個ほど、飛び石状につづいている。井戸の向こうには、見渡すかぎりの竹林が広がっていた。
「そういや、あのふたり。このまえも深川(ふかがわ)に用事があるとか言って出かけていったけど、なにしてんのかな」
 隼助は座ったまま部屋の中をふり返えった。部屋の中心にある囲炉裏の上で、自在鉤(じざいかぎ)に下がる鉄瓶の注ぎ口から白い湯気が立ちのぼっている。奥の部屋、囲炉裏をはさんで隼助の正面の部屋は台所だ。朝餉(あさげ)は大抵自分たちで作っていた。台所のとなり、寺のいちばん奥の部屋は風呂場になっていた。寺というよりは木賃宿(きちんやど)にちかい感じだった。
「……ハラ減った」
 隼助はふたたび井戸のほうに顔を向けた。竹林のほうで秋蝉(あきぜみ)が鳴いている。隼助の腹の虫も鳴いている。
「あったかい(あられ)そばが食べたいなぁ……」
「なら、ひとりで食ってこいよ」
「あっ、カシラ」
 烏平次が雷蔵を伴って帰ってきた。
「おまえの分は、おれたちでいただくとしよう」
 烏平次は右手にぶら下げた寿司の包みをヒゲ(ヅラ)のよこにもち上げると、黄色い歯を見せながら笑った。
「じょっ、冗談ですよ、冗談」
 隼助は烏平次から寿司の包みをひったくった。
「オレも寿司食います!」
 露草色の空の下に、三人の笑い声が広がるのであった。

 昼めしが済むと、烏平次が囲炉裏のわきでよこになった。あたまを庭のほうに向けてひじ枕をしている。足は、隼助のほうに向けられていた。
 烏平次は目を閉じると、酒臭い息をふーっと吐きだした。そして鼻からすーっと息を吸い込むと、たちまちいびきをかきはじめるのであった。
「もう寝ちゃいましたよ」
 隼助は呆れたように言った。
 囲炉裏をはさんで烏平次の向かい側に、雷蔵があぐらをかいている。隼助はふたりの間、庭を正面に見ながら座っていた。
「無理もねえ。どんぶりで十杯も酒を飲みなすったんだ」
 雷蔵も、あきれた顔で茶をすすっている。
 開け放った障子から、陽の光が差し込んでくる。庭先ではスズメが数羽、地面をつついていた。
 外は風もなく、天気もいい。秋といっても、まだ着物に綿を詰めるほどではなかった。暑くもなく、寒くもない。ちょうどいい陽気である。
 囲炉裏の淵に湯呑を置いて雷蔵が腰を上げた。
「さてと。薪割りでもしてくるか」

 寺の裏庭、ちょうど風呂場の裏で、雷蔵が薪割りをはじめた。肩脱ぎになり、首から手ぬぐいをぶら下げている。隼助は風呂場の格子窓の下に積み上げられた薪に腰をおろした。
「ところで、雷蔵さん」
「なんだ」
 雷蔵は隼助のほうを見ずに返事をした。井戸のほうに背を向ける格好で、雷蔵が手斧をふりおろす。きりかぶの上でふたつに割れた薪の片方が、隼助の足もとに転がってきた。その断面は、まるで(かんな)で削ったように滑らかだった。雷蔵は、もと伊賀の忍である。剣術の腕も相当に立つのだ。
 隼助はあたまのうしろで手を組むと、台所のそとカベにもたれかかった。
「今日はどこに行ってたんです? ひょっとして、オレ抜きで〝お勤め〟をしてきたんじゃあ……」
「まさか」
 きりかぶの上に新しい薪を立てながら雷蔵が笑った。
「教えてくださいよ。オレに隠さなくちゃならないことなんですか?」
 隼助は、少しふてくされながら雷蔵の横顔に尋ねた。
「べつに隠してるわけじゃあねえさ」
 雷蔵がきりかぶの上に手斧の刃を突き立てた。
「じつは、そろそろこの寺を引き払おうと思ってな」
「え?」
 あたまのうしろで組んだ手を解くと、隼助は思わず立ち上がった。
「それじゃあ、雷蔵さんとカシラは、新しい隠れ家を探してたんですか?」
「まあ、隠れ家といやあ隠れ家なんだが」
「深川、ですか?」
「ああ、深川だ」
「でも、街の中じゃあ、人目につきませんか?」
 本所(ほんじょ)深川(ふかがわ)大川(おおかわ)(隅田川)の対岸は浅草である。この向島のような田園地帯ではないのだ。
「これからは盗むだけじゃねえ」
 懐から煙草入れを取りだしながら雷蔵が言う。
「先代のカシラ、伝左衛門(でんざえもん)のダンナみてえに、なにか三人で商売をやろうと思ってな」
「オレたちで、店をもつんですか?」
「そうだ」
 うなずくと、雷蔵は煙管(きせる)の煙をぷーっと吐きだした。
「オレたちの、店」
 小間物問屋なら二百両あれば買える。
「アッシとカシラは、めし屋をやろうと思ってるんだが、おめえさんはどう思う?」
 煙管の先で隼助を指しながら雷蔵が訊いた。
「いいですねえ。そしたら、だれか雇いましょうよ」
 隼助がそう答えると、雷蔵の目がギラリと光った。
(わけ)(むすめ)……だな?」
 鼻から紫煙を立ちのぼらせながら、雷蔵が不気味な笑みを浮かべた。隼助は、ニヤリと笑ってうなずいた。

 一服すると、雷蔵はふたたび薪割りをはじめた。隼助は格子窓の下に積み上げられた薪に腰をおろし、風呂場のそとカベにもたれかかった。
「オレたちの店、か」
 手をあたまのうしろで組みながら、空を見上げる。もし店が繁盛すれば、無理に盗みをしなくても済むようになるかもしれない。できれば、そのまま足を洗いたい。隼助は、秘かにそう思うのであった。
「雷蔵さん。いつからはじめるんです? オレたちの店」
「そうさなあ。来月あたり、かな」
 雷蔵が薪にめがけて手斧を振り下ろした。
「ところで……」
「なんだ」
 雷蔵が返事をしながら新しい薪に手をのばした。
「住み込みで雇うんですか? その……若い女の……子……」
 雷蔵の動きがにわかに止まった。伸ばした手の先にある薪を、真剣な表情でじっと見つめている。隼助はあたまのうしろで手を組んだまま、じっと雷蔵の横顔を注視した。
「バッカだなあ。おめえさんは」
 雷蔵がとびきりの笑顔でふり向いた。
「通い奉公にきまってるじゃあねえか」
「……ですよね~」
 隼助も笑顔で言った。
「バッカだなあ、オレは」
 隼助が笑うと、雷蔵も一緒に声を上げて笑った。
「あー、早く来月になんないかなぁ」
 隼助は空を見上げてため息をついた。
「……?」
 雷蔵が手斧を頭上にかまえたまま、きりかぶの上に立てた薪をじっとながめている。いつまでたっても、ふり下ろさない。
 隼助はニヤリと笑った。
「ひょっとして、雷蔵さん。本気で考えてるんじゃないんですか? 住み込みの件」
 雷蔵が横目でジロリとにらんできた。
「まさか」
 雷蔵が手斧をふりおろした。
「あ痛てっ!」
 隼助は右足の(すね)を抱えて体を丸めた。ふたつに割れた片方の薪が、隼助の右足に飛んできたのだ。
「ねっ、狙いましたね……雷蔵さん」
 隼助は体を丸めたまま雷蔵をマユの下からにらみつけた。
「まさか。偶然でさァ」
 雷蔵は隼助の顔を見ながら不気味に笑っていた。

 半時(はんとき)(約一時間)が経った。
 隼助は薪の上に腰をおろし、手をあたまのうしろに組んでカベにもたれかかっている。
「まだ起きてきませんね。カシラ」
 思わずあくびが出る。隼助もなんだか眠くなってきた。
 薪割りをつづけながら、雷蔵が言う。
「あと半時は起きねえだろうよ」
 隼助はあたまのうしろで手を組んだまま空を見上げた。
「雷蔵さん。ひとつ訊いてもいいですか?」
「うん?」
「カシラって、いつから被って――」
「――ヅラか?」
 隼助が言い終わらないうちに雷蔵が答えた。隼助は顔を空に向けたまま、そっと視線を下げて雷蔵の顔をうかがった。
「……!」
 マユが〝ハの字〟になっている。血走った鋭い眼でにらみながら、雷蔵は右肩にかついだ手斧の柄をちから強くにぎりしめていた。
 隼助はゴクリとつばをのみ込んだ。
「訊いちゃ……ダメ……です、か?」
「詳しいことは、アッシにもわからねえ」
 雷蔵はため息をついて天を見上げた。手斧は右肩にかついだままだ。
「ただ……」
「ただ、なんです?」
「アッシがカシラに出会ったときには、すでに被っていなすった」
 雷蔵はそう言って隼助の顔を見ると、かすかにほほ笑みながらうなずいた。
「カシラは、もと侍だったらしい。アッシが知ってるのは、それだけさ」
「カシラが侍ねえ」
 あの達磨入道みたいな顔は、どちらかといえば〝雲助(くもすけ)〟だろう。隼助は思わず笑ってしまった。
「なあ、隼助」
 雷蔵が真剣な目を向けてきた。
「カシラをあんまり馬鹿にしちゃあいけねえぜ?」
「べつに、オレは馬鹿にしてるわけじゃ」
「カシラは大酒飲みで色好きだが、人間はできてなさる。アッシらよりも、ずっと立派なおひとなんだよ。だから、八咫烏の頭目に選ばれなすったんだ」
 たしかに雷蔵の言う通りだ、と隼助は思った。
 雷蔵が新しい薪を切り株の上に立てて、頭上に手斧をかまえたときである。
「おう、おまえら。まだやってたのか」
 井戸のほうから烏平次がやってきた。顔を洗っていたのだろう。手ぬぐいでヒゲ面をこすっている。
 かまえを解きながら、雷蔵が烏平次のほうをふり向いた。
「カシラ。もう起きなすったんで?」
「ああ。焼き芋やるって言ってたからな。少し早めに起きたんだ。まだ終わんねえのか? 薪割り」
「もう少しで終わりやす」
 雷蔵は答えながら、首から下げた手ぬぐいで顔を撫でまわした。
「おれぁ、ちょっと街まで酒を買いに行ってくる」
 そして、烏平次は去り際にこんな言葉を残した。
「ついでに髪結い床にまわってくる。月代(さかやき)が少し伸びてきたんでな」
 市松人形でもあるまいし、バッカじゃねえの。と、胸の中で毒づきながら忍び笑いをする隼助なのであった。
「あ痛てっ!」
 右足に薪が飛んできた。隼助はひざを抱えて雷蔵をにらんだ。
「やっぱ狙ってたんですね? 雷蔵さん」
「まぐれだよ。偶然でさァ」
 手斧の刃をきりかぶに突き立てながら雷蔵が笑った。
「そろそろ終わるか。これだけありゃあ、来月までもつだろう」
「来月……オレたちの店。そして……」
 隼助がニヤリと笑う。雷蔵も不気味な笑みを浮かべた。
「若い(むすめ)!」
 雷蔵と仲良く吠える隼助なのであった。

第九話「偽小判」

第九話「偽小判」

「ちょっと松葉屋(まつばや)まで行ってくる」
 めし屋を出ると、神妙な顔で烏平次(うへいじ)が言った。
 雷蔵(らいぞう)瓦版(かわらばん)隼助(しゅんすけ)にあずけて烏平次にうなずいた。
「それじゃカシラ。アッシらは読売屋(よみうりや)のほうをそれとなく当たってみやす」
「ごくろうだが、たのむ」
 鋭い眼でうなずくと、烏平次は去っていった。
 隼助は烏平次を見送ると、瓦版を広げて文面に目を落とした。
「義賊・八咫烏(やただらす)が市中に偽小判をばらまいた、か」
 もちろん、デタラメである。自分たちは偽小判などばらまいた覚えはない。烏平次はこの件について相談するため、外神田(そとかんだ)の小間物問屋・松葉屋へと出かけていったのだ。松葉屋の主人・松葉屋(まつばや)伝左衛門(でんざえもん)は、八咫烏の先代の頭目をつとめていた男である。足を洗ってだいぶたつが、いまでも烏平次とはよく顔を合わせているのだ。
 それにしても、いったいだれの仕業なのか。そして、その目的はなんなのか。
「ちくしょう!」
 隼助は瓦版を丸めて地面に叩きつけた。すると、雷蔵がとがめるような口調で「その瓦版、まだ捨てるんじゃねえ」と、とがめるような口調で言った。
「へ、へい。すんません」
 隼助はうっとうしげに横目で雷蔵を伺いながら瓦版を拾い上げた。
 まったく、これから店を出そうってときに、やっかいな事件にまき込まれたものだ。いままで隠れ家としてつかっていた向島(むこうじま)の荒れ寺は引き払うことになったのだ。そして来月、新しい隠れ家として深川(ふかがわ)に小料理屋を出すことになったのである。この話を雷蔵から聞いたのは、四日まえのこと。堅気の商売をしていたほうが、町方(まちかた)に目をつけられにくい。それに、客のうわさ話や仕入れ先からいろいろな情報も得られる。それが烏平次と雷蔵の考えだった。もちろん、隼助にも異論はなかった。なにしろ、店の手伝いとして若い(むすめ)を雇うことができるのだから。隼助は妄想しながらフッ、と笑った。
 ピーヒョロロ……ピーヒョロロ……
 秋空の下で、トンビが円を描いている。
忍天堂(にんてんどう)、か」
 雷蔵が腕組みをしながら低く唸った。忍天堂の瓦版には、だれが偽小判を届け出たのかまでは書かれていない。ただ、『戸口から小判を投げ込まれたので表をのぞいてみると、月明かりの中を三つの黒い影が走り去っていくのが見えた』と書かれているだけだった。
「どこのどいつか知らないけど、オレたち八咫烏を相手にいい度胸してますよね」
「敵は、案外大物かもしれねえぜ」
 雷蔵は組んだ腕の片方を解いて、アゴをさすりはじめた。
「忍天堂の陰で糸を引いているのはだれなのか。こいつぁ、ひょっとすると御上(おかみ)を向こうにまわす羽目になるかもしれねぇな」
「なに言ってんです、雷蔵さん。オレたちは盗っ人。はじめから御上を向こうにまわしてるじゃないですか」
 八咫烏は義賊。庶民の味方ではあるが、御上に追われる盗っ人なのだ。
「ちげぇねえ」
 居心地わるそうに笑うと、雷蔵はすぐにきびしい目つきになった。
「だがな、隼助。いずれにしろ、こいつは御上の仕組んだ罠かもしれねえんだ。ドジ踏むんじゃねえぜ?」
「へい」
 十五のときから六年間、八咫烏として盗みをくり返してきた。八咫烏は義賊である。貧しい者のために罪を背負うことは正義なのだ。そう確信していた。しかし、盗っ人は所詮、盗っ人。法を犯す科人(とがにん)なのだ。盗っ人に正義など、ありはしないのである。だが、それでもいい、と隼助は思った。盗っ人にだって人を救うことができる。たとえ世間から偽善者と言われようがかまわない。オレたちは〝必要悪〟なのだ。
「いくぜ、隼助」
 雷蔵が引き締まった表情で衣紋(えもん)を合わせた。
「いくって、どこに?」
 隼助がマユを寄せると、雷蔵は呆れた顔になった。
「バッカだなあ。おめェさんは。忍天堂にきまってるじゃあねえか」
「……ですよね~」
 隼助もあたまをかきながら笑った。
「バッカだなあ。オレは」
 めし屋の店先で高笑いをする隼助と雷蔵なのであった。

「ごめんよ」
 雷蔵が忍天堂の暖簾(のれん)をくぐった。隼助も雷蔵につづいて店に入ると、番頭らしき中年の男がソロバンを弾く手をとめて顔を上げた。丸い鼈甲(べっこう)の眼鏡の奥で半開きになった(まなこ)。そして尖った上唇。帳場に座る番頭らしき男の顔は、どことなくカメにそっくりである。隼助は「はっ」とした。カメが鼈甲の眼鏡をつけている――いよいよたまらなくなった隼助は、雷蔵の背中に隠れて忍び笑いをするのであった。
「あの、なにかご用でしょうか?」
 番頭らしき男が帳場のほうからやってきた。
「ちょいと訊きてえことがあるんだが」
 雷蔵が()がり(かまち)に腰をおろした。隼助は〝カメ〟の顔を視界にいれたくないので、腕組をして帳場に背を向けた。
「訊きたいこと、とおっしゃいますと?」
 カメが言った。隼助は肩越しにチラリとふり向いた。カメは雷蔵のよこでひざを折り、片方の手を畳について、口を半開きにしながら隼助と雷蔵の顔をかわるがわるうかがっていた。見れば見るほどカメにそっくりな顔である。自然と笑いがこみ上げてくる。隼助はぐっと歯を食いしばりながら暖簾のそとに視線を放り投げた。
「なに、たいしたことじゃねえんだ。じつは」
 雷蔵はいったん言葉を切って「隼助、あれを」と、右の掌を差し出してきた。
「な、なんスか? 雷蔵さん」
「早く出しなせえ」
「出せ、って……なにを?」
 隼助がマユをひそめると、雷蔵は顔をしかめてため息をついた。
「瓦版にきまってるじゃあねえか。バッカだなあ。おめェさんは」
「……ですよね~」
 隼助はあたまをかいて笑った。
「バッカだなあ。オレは」
 ふと視界の中にカメの顔が飛び込んできた。
 胃がよじれる。
 笑いが止まらない。
 涙も止まらない。
 隼助は腹を抱えてうずくまった。まずい。いくらなんでも笑いすぎだ。これでは怪しまれてしまう。隼助はフー、と息をはき、なんとか冷静さを取りもどした。
 店内が、しんと静まりかえっている。店の隅で瓦版を刷っている職人たちも、みんな動きを止めている。彼らの白く冷たい眼は、すべて隼助に注がれていた。
 涙目のまま、隼助はそっと雷蔵に目を向けた。いまにも能を舞いだしそうな、表情のない顔。雷蔵の眼は、喜怒哀楽を忘れたように白けているのであった。
「いや、バッカだなあ、オレは」
 ぎこちなく笑うと、隼助は気まずそうに衣紋(えもん)をなおした。それから「なんちゃって」と、首をすくめて舌を出した。しかし、店内は静かなままである。そして雷蔵も、能を舞う準備をしていた。
「バカじゃねえのオマエ」
 能面がささやき声で毒づいた。
「すんません」
 隼助は居心地わるそうにアゴをしゃくった。このカメじじいめ。あとでかならず剥製(はくせい)にしてやる――隼助は目の端でカメをにらみながら、胸の中で激しく罵った。
「あの~。それでご用というのは?」
 ひざの上で手をすり合わせながらカメが言った。
 隼助は雷蔵に読売を差し出した。すると、雷蔵はカメのほうに顔を向けたまま読をひったくった。
「じつは、こいつのことなんだが」
 雷蔵がカメのひざもとに瓦版を広げた。雷蔵はじっとカメの顔を見すえている。もし、カメに(やま)しいところがあれば、たちまち顔色が変わるはずだ。雷蔵は、そこを見定めようとしているのだ。
 カメは瓦版を拾い上げると、文面にさっと目を通しはじめた。
「ああ、偽小判の記事ですね」
 それから雷蔵の顔を見て、「この記事が、どうかなさいましたか?」と、不思議そうにマユをひそめながら瓦版を返した。
 カメの顔色は変わらない。どうやら当てが外れたらしい。
「八咫烏といやあ、名の知れた義賊だ」
 瓦版を懐にしまいながら雷蔵が言う。
「とてもそんなマネをするたあ思えねぇなあ」
「そうだよ」
 隼助が割ってはいった。
「いったい、どこのだれがそんなことを――」
「おや、お客様がおいででしたか」
 奥の障子から主人らしき男が顔を出した。白髪あたまの恰幅(かっぷく)のいい男だ。
「あ、旦那様」
 カメが腰を上げて主人に会釈をした。
「じつは、この方たちが」
 カメが主人に説明をはじめた。主人は品のいい笑みを浮かべながら、カメの言葉にうなずいている。
「なるほど」
 品のいい笑みをたたえながら主人がうなずいた。
「わかりました。ここはいいから、亀造(かめぞう)さんは仕事をつづけなさい」
 主人がカメを亀造と呼んだ。
 なんてこった――隼助は全身がくすぐったくなってきた。
「ブフッ」
 とうとうこらえきれずに隼助は吹きだした。
 しまった――隼助は慌てて帳場に背を向けると、腕組みをしながらじっと暖簾のそとをにらみつけた。腹の底からこみ上げてくる笑いを、隼助はぐっと奥歯で噛み殺しているのであった。
「おたくが御主人かい?」
 雷蔵が言った。
「はい。てまえが主の忍天堂(にんてんどう)久右衛門(きゅうえもん)でございます」
 腕組みをしたまま、隼助は目の端から久右衛門の顔をちらりとうかがった。やはり、久右衛門は大黒様のような品のいい笑顔をたたえている。
「ひとつ訊きてえんだが」
 雷蔵は腕組みをすると、肩越しに久右衛門と話しはじめた。
「偽小判を御上に届け出たのは、一体(いって)ぇだれなんだい?」
「さあ。それはわかりません」
 久右衛門が首をひねった。
「この記事に書かれていることは、奉行所のお役人様から直接聞いたお話なので」
「月明かりの中を走り去る三つの黒い影。これだけじゃあ、八咫烏が下手人だっていう証拠にはならねえと思うんでやすがねえ。それとも、町方はなにか、確かな証拠でもにぎっていなさるんで?」
「それは、わたくしどもにも存じ上げません。たとえあったとしても、おいそれと教えてくれるとは思えませんが」
 眼の動き。声の調子。どこにも不自然さはない。久右衛門は〝白〟だ。隼助はそう確信した。
「なるほど」
 雷蔵も納得したようにうなずいた。
「いや、手間をとらせて悪かった」
 ため息をつきながら立ち上がると、雷蔵は隼助にうなずいて戸口のほうに向かった。

 どうやら忍天堂は関係ないらしいことがわかった。隼助は雷蔵とふたりで浅草蔵前(くらまえ)の通りを両国橋に向かって歩いていた。
「それにしても、うまいことを考えやがる」
 腕組みをしながら雷蔵が言った。
「アッシらが狙うのは悪徳商人。たとえ蔵ん中から千両箱が消えたとしても、やつらが御上(おかみ)に訴え出ることは、まずありえねえ。てめえらの悪事まで露見することになるからな」
 隼助はうなずいた。
「だから、敵はオレたちが偽小判をばらまいた、ってことにしたんですね」
「問題は、その敵が何者かってとこなんだが」
 言いかけて、雷蔵が足を止めた。
「ところで隼助。さっきのことだが」
「へい」
「おめえさん、なんだってあんなに笑いやがったんだ?」
 亀造の一件である。
「だって雷蔵さん。あの番頭、おかしくなかったですか?」
「番頭? ああ、あの眼鏡の男か。あいつがどうかしなすったのか?」
「あの人、カメにそっくりじゃなかったですか? カメが鼈甲の眼鏡をつけて、しかも名前まで亀造ってんですから。ホント、冗談みたいな人ですよね?」
 隼助は亀造の顔を思い出しながら笑いはじめた。
 胃がよじれる。
 涙があふれる。
 笑いが止まらない。
 雷蔵は笑わない。能面のような顔で白けている。
「バカじゃねえのオマエ」
 と、能面は毒を吐きました。

「雷蔵さん、あそこでちょっとひと休みしませんか?」
 隼助は両国橋の手前にだんご茶屋を見つけると、指で示しながら雷蔵をふり向いた。
「それじゃ、一服していくか」
 茶屋の床几(しょうぎ)に、ひとりの同心が通りに背を向ける格好で座っている。雷蔵が通りを正面に見ながら同心のとなりに腰を下ろした。「お茶とだんご。二人前」
 隼助は主人に注文しながら雷蔵のとなりに腰をおろした。
 ほどなく、主人が茶とだんごを盆にのせて運んできた。のこり少ない白髪で結った小さなマゲ。そして、盆をもつ手は干からびた大根のようである。
 床几の上にだんごの皿と茶を置くと、主人は目尻にしわをつくって会釈をした。
「どうぞ、ごゆっくり」
 主人は腰を曲げながら店の奥にひっこんでいった。
 雷蔵が通りに視線を向けながら茶をすすりはじめた。隼助は茶をひとくちすすると、丸いだんごが四つ通された串を一本、指ではさんでもち上げた。透き通った飴色から立ちのぼる香ばしい匂い。焼き立てなので、まだ熱い。ひとくち頬張ると、みたらしの甘みと〝おこげ〟の苦みが仲良く手をとりあって鼻腔(びくう)を駆け巡るのであった。
 ふた口めをかじったとき、隼助は雷蔵越しにちらりと同心の様子をうかがった。ひざの上で湯呑の下に掌を添えながら、背中を丸めてうなだれている。まだ口をつけていないのだろうか。湯呑からは、白い湯気が立ちのぼっていた。同心は湯呑の中に目を落としたまま、重い吐息をひとつ、吐きだした。顔は伏せているのでよく見えないが、どこかで見たことのある横顔だ、と隼助は首をひねった。
 同心の向こうに見える両国橋を、ガラゴロと音を立てながら大八車が渡ってゆく。雷蔵は同心を気にすることなく、涼しい顔で茶をすすっている。町方が躍起(やっき)になって自分たちを追っているというのに、まるで他人事(ひとごと)のように落ち着きはらっていた。もっとも、それぐらいの度胸がなければ八咫烏はつとまらないのであるが……。
 隼助がだんごをかじりながら通りに目を向けたときである。
「きゃっ!」
 とつぜん、同心が妙な声で悲鳴を上げた。どこかで聞いたことのある声。まさか――隼助は、おそるおそる同心をふり返った。雷蔵も湯呑を口もとでかたむけながらふり向く。同心はくちもとに手拭いを当てながら背中を丸めている。
「あっつ~い!」
 同心がすっくと立ちあがった。
「ちょっと、おやじさん。このお茶、あつすぎるわよ」
「あっ!」
 隼助は相手を指差しながら声を上げた。
「え?」
 同心がふり向く。
「ブッ!」
 雷蔵は鼻から茶をふきだした。
 毛虫のように太いマユ。しゃくれたアゴ。頬一面に青くのこるヒゲの剃りあと。同心の名は蕪木(かぶらぎ)新之助(しんのすけ)。北町のオカマ同心、雷蔵の天敵だった。
「あらやだ、(らい)ちゃんじゃな~い」
 気色悪い笑顔を雷蔵に向けながら、蕪木は目をパチパチとしばたいた。
「かっ、かぶ……」
 雷蔵はむせかえりながら、苦しそうな表情で胸をたたいている。目は潤み、鼻から茶の雫がしたたり落ちているのであった。
「まあまあ、そんなにお口を汚しちゃって。アタシが拭いてあ・げ・る」
 蕪木が口もとを押さえていた手拭いである。
「そ……それだけは! どっ、どうぞそれだけはごかんべんを!」
 雷蔵は命懸けで抵抗している。蕪木は意地でも拭いてみせる、と言わんばかりに手拭いをふりまわしていた。
 町方を恐れていては、八咫烏はつとまらない。だが、この同心だけは恐ろしい。ふたりのやり取りをながめながら、しみじみと思う隼助なのであった。

「なるほど。例の偽小判の探索をダンナがねえ」
 煙管(キセル)に火を点けると、雷蔵はゆっくりと白い煙を吐きだした。
「そうなのよ」
 蕪木はため息をついてうなだれた。
「与力の佐野(さの)様が『ひと月の猶予をやる。それまでに下手人(げしゅにん)()げることができなければ、きさまはお役御免だ』って」
 鼻をすすり、べそかき顔を雷蔵につかづける。
「アタシ、どうすればいいのかしら?」
「どうもこうも、捕まえりゃあいいじゃございやせんか」
 わずらわしげな表情を通りに向けながら、雷蔵はプカプカと煙管をふかしていた。
「でも、アタシ……恐いのよ」
 蕪木が雷蔵の袖にすがりついた。
「とっても怖いの」
 小さく首をふりながら、彼女……いや、彼は涙を流しはじめた。
 オレはあんたのほうが怖い――隼助は顔を背けてだんごをかじった。
「お願い、雷ちゃん。下手人を捕まえてちょうだい」
「なっ、なんでアッシが?」
「ねえ、お願い。あのときのように捕まえて」
 雷蔵は以前、蕪木が追っていた下手人を捕まえたことがあるのだ。そのとき、蕪木はひと目で雷蔵に惚れてしまったのである。
「手をはなしておくんなせえ」
 雷蔵が手をふりほどこうともがいている。蕪木は離してなるものか、と必死にしがみついていた。
「きゃあ!」
 蕪木が気色悪い悲鳴を上げた。
「あっつ~い!」
 どうやら雷蔵の煙管で手の甲を火傷したようだ。
「やれやれ」
 隼助は疲れたようにため息をつくと、湯呑を一息に飲み干した。それから隼助は店の主人に茶のおかわりを三人前たのんだ。
「そういえば」
 うっとうしげに衣紋を合わせながら雷蔵が尋ねる。
「ダンナはさっき、与力の佐野様、とおっしゃいやしたね?」
「ええ、いったわよ。それがどうかしたの?」
 不機嫌そうな声で答えると、蕪木は雷蔵にそっぽを向いた。くちをとがらせながら、火傷をした手の甲をやさしくさすっている。
 主人が茶のおかわりを運んできた。湯呑をもち上げながら雷蔵がつづける。
「その与力ってのは、ひょっとして佐野(さの)紋十郎(もんじゅうろう)様のことで?」
「ええ、そうよ」
 そっぽをむいたまま蕪木が答える。
「すっごくヤなやつなの」
「そうでやすか」
 と、鋭い目つきで雷蔵がうなずいた。
 だんごをかじりながら隼助が尋ねる。
「その佐野って与力のこと、知ってるんですか? 雷蔵さん」
「……いや」
 雷蔵は鋭い目を通りに向けたまま茶をすすった。まるで長年探し求めていた仇に出会ったような目つきである。いったい、雷蔵は佐野紋十郎にどんなうらみがあるのだろうか。
 蕪木は手の甲に視線を落としながら、火傷の傷をさすっている。なよなよとあたまをゆらしながら、くちをとがらせていた。
「ねえ、雷ちゃん」
 手の甲に目を落としながら蕪木が言う。
「八咫烏、って知ってる?」
「ええ。もちろん知ってますとも」
 雷蔵は隼助と顔を見合わせると、まるで〝おめえさんの目のまえにいるじゃねえか〟といわんばかりに嘲笑を浮かべるのであった。
「アタシが追ってる下手人っていうのは、八咫烏なのよ」
 蕪木が重いため息をついた。
「江戸でもっとも有名な〝凶賊〟八咫烏なのよ」
「凶賊じゃねえ。〝義賊〟だ」
 隼助は雷蔵と声をそろえて訂正した。
「そんなやつら、とても捕まえられっこないわよ。きっと、殺されちゃうわ。アタシ」
 手拭いで目頭を押さえながら、蕪木は〝よよ〟と、すすり泣きをはじめた。
 隼助はばかばかしい、というように鼻で笑いながら茶をすすった。
「八咫烏は義賊。人を(あや)めたりなんかしませんよ」
「なによ。あんたに、アタシの気持ちがわかって?」
 蕪木がキッと隼助をにらんできた。
「それとも、あなたなら捕まえられるっていうの?」
「なんだと」
 下手(したて)に出てればいい気になりやがって。隼助がカッとなって立ち上がると、雷蔵がとがめるように咳払いをした。あとは自分に任せろ。雷蔵の目は、そう語っていた。
「ところで、ダンナ。その偽小判を届け出たのは、一体(いって)ぇどんなやつなんで?」
 煙草盆の炭火で煙管に火を点けながら雷蔵が訊ねた。
「アタシ、知らない。佐野様が直接話を聞いて、すぐに帰しちゃったんだもん。アタシも話を聞こうと思ったんだけど、それよりも、おまえは八咫烏の探索に専念せい、って」
「佐野様が、ねえ」
 雷蔵は白い煙をふーっと立ちのぼらせると、目を細くしてうなずいた。この一件には与力の佐野がからんでいる、と雷蔵は思っているらしい。
「ダンナ。その偽小判は、いまここにありやすかい?」
「ええ、あるわよ。届けられた偽小判は、ぜんぶで三枚。そのうちの二枚は、ここにあるわ」
 蕪木が懐をポン、とたたいた。
「アッシに、ちょいと考えがあるんですがね。そのうちの一枚、貸してもらうってわけにはまいりやせんか?」
「え? それはちょっと……どうしようかな~」
 蕪木が目をしばたたかせながら天を仰いだ。
「だいじな証拠の品だし、どうしよっかな~」
 蕪木があまりにもじらしやがるので、隼助はイライラしはじめてきた。
「ダンナ、いいかげんに――」
 隼助に掌を向けて制すと、雷蔵は煙管をくわえながらおもむろに腰を上げた。
「それじゃ、アッシらはこれで」
 と、雷蔵は隼助の顔を見ながら、とぼけたようにこっそりと笑った。
「あ、まって」
 蕪木が雷蔵の袖にしがみつく。帰してなるものか、と袖をひっぱり、なんとか雷蔵を座らせる。
「貸してあげる。貸してあげるから。だから、お願い。帰らないで」
 蕪木は雷蔵の胸に顔をうずめながら〝わっ〟と泣き出した。
 通りを行き交う人の流れが、にわかに止まった。あちこちから、偏見に満ちた冷ややかな眼差しが注がれてくる。雷蔵は煙管をくわえたまま、険しい顔をしている。鼻から煙を立ちのぼらせながら、舐めるように視線を這わせて野次馬たちを威嚇していた。
 そして、隼助は気づいていた。茶屋の主人が、さっきからずっと、暖簾の陰から訝しそうにこちらの様子をうかがっていることに……。

「これが、その偽小判よ」
 蕪木が一枚の小判を差し出した。雷蔵はそれを受けとり、裏と表を一瞥(いちべつ)すると、さげすむように鼻で笑った。
「なるほど」
 雷蔵は通りに目を向けたまま隼助に小判を差し出してきた。雷蔵の横顔を見ながら小判を受け取る。こいつは偽物だ。手にした瞬間、隼助にもすぐにわかった。重さ、厚み、そして光り具合。素人――たとえば小判を見慣れた商人(あきんど)など――でも見抜けるほど粗末な造りである。
「ばかにしやがって」
 隼助は鼻で笑うと、偽小判を床几の上に放りなげて茶をすすった。
「ちょっと」
 蕪木が口をとがらせた。
「大事な証拠品を粗末に扱わないでよね」
 そして、軽蔑するような眼差しを向けながらこう言った。
「あなたって、サイテー」
 蕪木がつん、とそっぽを向いた。このオカマ野郎――隼助は相手の顔をにらみながら胸の中で罵った。
「蕪木」
 両国橋の上からだれかが呼んだ。
「いけない、佐野様だわ」
 佐野を見ながら蕪木がうろたえた。佐野も蕪木をにらみながらちかづいてくる。つり上がったマユ。そして、つり上がった鋭い眼。いかにも悪人らしい顔つきである。
 雷蔵が床几の上から偽小判をひったくり、すばやく袖の下に放り込んだ。それから腕組みをして佐野から顔を背けた。雷蔵が隼助の顔にそっとうなずく。どうやら他人のふりを決め込むつもりだ。隼助もうなずいて、とぼけた顔で茶をすすりはじめた。
 佐野が蕪木のまえで立ち止まった。
 隼助は気づかれないよう、目の端から慎重に様子をうかがった。
「どうだ。下手人の手がかりはつかめたか?」
 腕組みをしながら佐野が言った。
 蕪木はくちをとがらせながら、視線を足元に落とている。彼は、なよなよ、と体をくねらせながら、無言で首をふるのであった。
「まったく。おまえというやつは」
 きびしい口調で佐野がため息をついた。
「ならば、こんなところで油を売ってないで、とっとと役目に戻られよ」
 蕪木をしかりつけると、佐野は見下すように鼻先で笑い、去っていった。
 蕪木はくちをとがらせたまま、佐野の背中を不愉快そうな顔でにらんでいる。
「ふん。なによ、えらそうに。クビにしたきゃ、すればいいじゃない。そしたら、あんたがやってること、ぜ~んぶお奉行様にしゃべっちゃうんだから」
 体をくねらせながら蕪木が毒づいた。
「その話、ぜひ聞かせてもらいやしょうか」
 くわえた煙管を煙草盆にちかづけながら雷蔵が言う。
「話してくれたら、アッシが下手人を捕らえてやりやしょう」
 鋭い眼を蕪木に向けながら、雷蔵はゆっくりと鼻から煙を立ちのぼらせていた。

 浅草蔵前にある巴屋(ともえや)は、この辺りではいちばん大きな米問屋である。佐野は巴屋の主人、巴屋(ともえや)太左衛門(たざえもん)と結託。米の買い占め、売り惜しみなどで相場を操り、私腹(しふく)を肥やしているらしい。たしかな証拠はないのだが、佐野には以前からそんなうわさがささやかれているのだ、と蕪木は語った。
「なるほど」
 雷蔵はふーっとくちから煙を立ちのぼらせた。
「わかりやした。あとは、アッシらにまかせておくんなせえ」
 煙管で灰吹(はいふき)をたたくと、雷蔵は床几から腰を上げた。
「本気なの? 雷ちゃん」
 蕪木が床几に腰かけたまま雷蔵を見上げた。不安げな表情を浮かべながら、目をしばたかせている。
「下手人の見当は、だいたいつきやした。まあ、なんとかなりまさァ」
 雷蔵は衣紋を合わせると、得意げな表情で蕪木にうなずいた。
「それじゃ、八咫烏の正体がわかったの?」
 蕪木が「はっ」としたように立ち上がった。
「偽小判をばらまいたのは、たしかに八咫烏かもしれやせん」
 雷蔵は胸のところで組んだ腕を片方解いて、アゴ先をさすった。
「だが、偽小判をつくったのは八咫烏じゃねえ。おそらく、どこかの蔵から盗み出したもを、それとは知らずにばらまいちまったんだろう」
 雷蔵はとぼけながら言った。
「つまり、偽金づくりの下手人はほかにいる、ってことですね? 雷蔵さん」
 隼助も雷蔵に合わせてとぼけてみせた。
「そういうこった。なに、明日中にはすべて、かたがつくだろうよ」
「でも」
 蕪木の表情がにわかに曇った。
「佐野様には、なんて報告すればいいのかしら。下手人は八咫烏のほかにいる、なんて言ったら、アタシ、本当にお役御免になっちゃうかも」
「佐野様には、だまっていなせえ。いままで通り、八咫烏をさがしてりゃあいい」
「そう。さがす〝ふり〟をね」
 隼助が言いそえると、蕪木はムッとした表情を浮かべた。頬をふくらませて、軽蔑するような眼差しで隼助をにらんでいる。隼助は相手をばかにするように鼻を鳴らすと、だんごの皿から最後の串をもち上げた。蕪木は、まだにらんでいる。隼助もだんごをかじりながら、雷蔵越しに横目でじっと蕪木の顔をにらみつづけた。
 雷蔵が仲裁するように咳払いをした。
「ここの勘定は、アッシがもちやしょう」
「あっ、いいのよ」
 雷蔵に掌を向けながら蕪木が言う。
「今日は、アタシがおごっちゃう」
 と、気色悪い笑顔で目をしばたいた。
「いや、しかし」
 遠慮をする雷蔵を掌で制しながら、蕪木は懐から紙入れを取りだした。
「それじゃ、お言葉にあまえます」
 ぶっきらぼうな口調で言いながら、隼助は皿の上にだんごの串を放り投げた。
「はあ?」
 げじげじまゆ毛をひそめながら、蕪木が蔑んだ眼差しを隼助に向けてきた。
「だれもあんたにおごるなんて言ってないわよ」
 そして、かすかに嘲笑を浮かべながら、こう吐き捨てた。
「バッカじゃないの」
 口もとでなにごとかつぶやきながら、蕪木が紙入れの中をさぐりはじめた。
 隼助はフッと鼻で笑った。それもそうだ。こいつがオレにおごるはずがない。たしかに、オレがバカだった。だが、少なくともテメエよりは利口だよ、と隼助は胸の中で毒づいた。
「冷やめし食いのくせに、見栄(みえ)はっちゃって」
 隼助は相手を挑発するようにせせら笑った。
 蕪木が紙入れの中をさぐる手を止めた。マユの下から、うらめしそうな目でじっとにらんでいる。隼助はそれを無視しながら「おやっさん、ここ置くよ」と、店の中に声をかけながら、床几の上に穴あき(せん)を数枚、転がした。
「おやじさん、お勘定」
 蕪木が一枚の小判を紙入れの中から取りだした。
「あっ、それは」
 偽小判だ――隼助が言おうとしたとき、雷蔵が蕪木の肩をガシリとつかんだ。
「おまチなセェ!」
 りきんだ口調で歯を食いしばりながら雷蔵が制した。
 ハの字になったマユの下で三角にした眼を血走しらせながら雷蔵が言う。
「そいつをつかったが最後。肩から上が平らになりやすぜ、ダンナ」
 つまり〝打ち首〟である。
 蕪木がゴクリとつばをのみ込んだ。
「ほ、ほほ……。ばっ、ばかね~」
 青い顔で蕪木が笑った。
「じょ、冗談にきまってるじゃな~い。もう。雷ちゃんって、意外とおかたいのねぇ。でも」
 目をしばたかせ、体をなよなよとくねらせながら、蕪木はそっと雷蔵の腕に抱きついた。
「そんな雷ちゃんもス・テ・キ」
 暖簾の影から、主人が戸惑いの表情を浮かべてうかがっている。彼は、勘定をとりに出ていこうかどうか迷っているらしかった。
「それじゃ、雷蔵さん。オレ、先に帰ってますね」
 隼助は雷蔵に背を向けると、両国橋のほうに足を向けた。
「隼助ェ」
 しぼりだすような雷蔵のかすれた声。だが、隼助はふり向かない。いつまでも、末永くお幸せに。隼助は、胸の中でふたりを祝福していた。
 茜色の空に入相(いりあい)の鐘が鳴りひびく。
「秋の日は釣瓶(つるべ)落とし、か」
 夕焼けに目を細めてフッ、と笑う。隼助は陽の沈む橋の向こうを目指して歩きつづけた。どこまでも、ふり向くことなく、隼助は歩きつづけた。

 荒れ寺にもどると、隼助は庭の奥、囲炉裏のある部屋のほうに向かった。もう()()(午後六時ごろ)を半時(はんとき)(一時間)ほど過ぎている。蒼い夜空には、きらきらと小さな星が降っているのであった。
「あれ?」
 奥の部屋の障子から灯かりが漏れている。どうやら烏平次が先に帰っていたらしい。隼助は沓脱石(くつぬぎいし)の上に雪駄(せった)をぬいで障子を開けた。
「カシラ、もどってたんスか」
 部屋に入ると、囲炉裏のまえで烏平次があぐらをかいていた。うっとうしいヒゲ面が、うっすらと撫子色(なでしこいろ)に染まりはじめている。
「雷蔵はどうした?」
 どんぶりで酒を呷りながら烏平次が言った。肴は天ぷらと漬物、いつもとおなじである。
「さあ。そろそろ来るんじゃないんですか」
 隼助は障子を背にして囲炉裏のまえに腰をおろすと、蕪木といちゃつく雷蔵を想像しながら湯呑に酒を注いだ。
「いや、朝までもどらないかもね」
 含み笑いをしながら酒を呷ると、烏平次が妙な顔でマユをひそめた。
「なんだ、なにかあったのか?」
「じつはね、カシラ」
 隼助は茶屋の一件を烏平次に話した。
「そいつは災難だったな」
 烏平次が愉快そうに声を上げて笑った。
 それから隼助は佐野のことも話した。
「佐野、か」
 烏平次が神妙な表情でうなずいた。
「カシラもしってるんですか? その、佐野っていう与力のこと」
「この一件は、すべて佐野と巴屋が仕組んだことなのさ。伝左衛門のとっつぁんも、まちげぇねえと言っている」
 やつらは、悪事で儲けた金を八咫烏に横取りされるのを恐れていた。たとえ土蔵が破られたとしても、巴屋は御上に訴えることはできない。もし町方に台帳を調べられるようなことになれば、佐野との関係が露見してしまうからだ。
「そこでやつらは、おれたちを偽金造りの下手人に仕立てることを思いついた、ってわけだ」
 今回の事件をいち早く察知した伝左衛門は、配下のものをつかってすべて調査済みだった。もちろん、偽小判を届け出た人物もつきとめていた。浅草鳥越町(とりごえちょう)にある源七(げんしち)長屋に住む左官職人で、名は徳松(とくまつ)。年の頃は三十五、六で、佐野が子飼いにしているヤクザの賭場(とば)に、かなりの借金をしていたようである。
「佐野は、それを棒引きにすることを条件に、こんどの〝仕事〟を徳松にもちかけたのさ」
 徳松は、やつらに利用されただけだ。放っておいてもいい。どんぶりを呷りながら、烏平次はそう言った。しかし、事の真相を知る徳松は、佐野にとって都合が悪いはず。
「カシラ。徳松は口を封じられるかもしれませんね」
「――そんなこたぁさせねえよ」
 障子の外から雷蔵の声がした。
「おう、もどったか。雷蔵」
 囲炉裏の炭を火箸でつつきながら烏平次が言った。
「へい。どうも、おそくなりやして」
 雷蔵が障子を入ってきた。
「徳松に会ってきたんですか? 雷蔵さん」
 たくあんをかじりながら隼助は尋ねた。
 囲炉裏をはさんで隼助の向かいに雷蔵が腰をおろす。
「ああ。身を隠すように忠告してきた」
 それから松葉屋へよってきた、と雷蔵は言った。例の偽小判をあずけてきたのだ。伝左衛門なら、偽小判を複製することができる。
 仙蔵の湯呑に酒を注ぎながら、烏平次が黄色い歯を見せて笑った。
「そいつを巴屋の蔵ん中にばらまこうってんだな?」
「お察しの通りで」
 雷蔵がニヤリとした。佐野を偽の書状で巴屋に呼びつけ、そこへ蕪木が踏み込む。土蔵の中の偽小判を証拠に、佐野と巴屋を一網打尽にする。湯呑をかたむけながら、雷蔵はそう言った。
「その偽小判は、いつごろ仕上がる?」
 雷蔵の顔を見ながら烏平次が天ぷらをかじった。
「今夜中には仕上がるようで」
 明け方までに百枚はできるだろう、と伝左衛門は言ったらしい。
「雷蔵、隼助」
 どんぶりに酒を注ぎながら烏平次が言う。
「明朝、〝お勤め〟に出る」
「どちらまで?」
 隼助が訊く。
「無論、巴屋だ」
 と、烏平次。
「刻限は?」
 雷蔵が鋭い眼を烏平次に向ける。
(とら)(こく)(午前三時ごろ)」
 浪人髷(ろうにんまげ)のヅラの下で鋭い眼を光らせると、烏平次はどんぶりの酒を一息に飲み干した。
 隼助は雷蔵と目を合わせてうなずき合った。

 翌日。複製した偽小判は、予定通り巴屋の蔵の中に置いてきた。巴屋に出向くよう、佐野にも偽の書状を届けてきた。隼助は雷蔵、そして、北町同心の蕪木新之助の三人で巴屋へ向かった。
「ねえ、雷ちゃん。やっぱりよしましょうよ。アタシ、怖いわ」
 雷蔵の袖をひっぱりながら蕪木はふるえている。
「心配しなさんな。きっとうまくいきまさァ」
 さりげなく蕪木の手をふりほどきながら雷蔵が笑った。
 三人で巴屋の裏口へまわった。隼助は周囲に人の気配がないのを確認すると、板塀に手をかけて飛びこえた。
「大丈夫、だれもいません」
 隼助が裏口の(かんぬき)を外すと、先に雷蔵が木戸をくぐってきた。
「早く来なせえ」
 雷蔵が躊躇する蕪木に手をふって促す。蕪木は不安げな表情で周囲をきょろきょろと気にしながら木戸を入ってきた。
「佐野は、そろそろ来るころだな」
 屋敷のほうに目を向けながら雷蔵が小声で言った。物陰に隠れながら、三人で庭のほうへ向かう。
「それにしても、いまの身のこなし。アンタ、ひょっとして盗っ人なんじゃないの?」
 蕪木が疑り深い眼を隼助に向けてきた。
「まさか。そんなわけないじゃないですか」
 たしかに、オレは盗っ人。それも八咫烏だ。捕らえられるものなら捕えてみろ――隼助は顔を背けながらほくそ笑んだ。
 三人で庭へまわると、太い松の陰の茂みに身をひそめた。正面に見える客間は、障子が開け放ってある。
「だれかくる」
 鋭い声で雷蔵がささやいた。外廊下を歩いてきたのは鋭い眼の武士(さむらい)、与力の佐野である。佐野のうしろを、ガマガエルのような顔をした恰幅(かっぷく)のいい男が歩いている。
「あれが巴屋太左衛門よ」
 ガマガエルに目を向けながら蕪木が声をひそめた。
 ふたりが客間に入っていく。佐野が腰から刀を外して座布団の上に座った。巴屋は佐野の正面でひざを折ると、紫の袱紗(ふくさ)の包みを畳の上に置き、佐野のひざ元へすべらせた。おそらく〝山吹色の菓子〟だろう、と隼助は思った。
 佐野は包みをもち上げて重さをたしかめると、口もとでニヤリと笑った。
「いつもすまんな。巴屋」
 佐野が包みを袖の下に放り込んだ。
 巴屋が「いえいえ」と愛想笑いをしながら顔のまえで掌をふる。
「佐野様には、日ごろよりお世話になっておりますので、ほんのお礼の気持ちでございます」
「これからもたのむぞ、巴屋」
 ふたりが低く笑った。
「ところで、佐野様。例の盗っ人、八咫烏どもは、まだ捕まりませんか?」
「やつらの正体を知るものは、だれもおらん。われら町方でさえ、やつらが盗みをはたらいたというたしかな証拠はつかんでおらんのだ」
「だから、やつらを偽金造りの下手人に仕立てたのではございませんか。偽金造りは天下の大罪。やつらは、もう義賊ではないのです。奉行所も、いままでのように見て見ぬふりはできますまい」
 だが、佐野は言う。
「やつらは並の盗っ人ではないのだ。そう簡単には捕まらん」
 しかし、巴屋は鼻で笑う。
「所詮は盗っ人にございます」
「されど盗っ人、だ」
 佐野がきびしい口調でじっと巴屋を見据えた。
 茂みの中で、隼助はじっと息をひそめながら、ふたりのやり取りをうかがっていた。雷蔵と蕪木も、隼助のそばで身をかがめながら、じっと客間の様子をうかがっている。
「ところで、巴屋。火急の用向きとは、いったいなんのことじゃ?」
 巴屋が妙な顔でマユをひそめる。
「と、おっしゃいますと?」
 佐野もマユを寄せながら腕組みをする。
「その(ほう)、わしをからかうつもりか?」
「いえ、滅相もございません。わたくしは、からかってなど」
 巴屋が引きつった笑みのまえで掌をふった。
「では、この書状はなんじゃ?」
 佐野が懐から一通の書状を取りだした。そして、巴屋に突きだしながら「これは、その方がしたためたものではないというのか?」と、鋭い眼で追及した。
 佐野から差し出された書状を広げると、巴屋はにわかにうろたえはじめた。
「わっ、わたくしは、このようなもの書いた覚えはございません。それに、これはわたくしの字ではございません。まっ赤な偽物です」
 このへんでいいだろう。隼助と雷蔵は目でうなずき合い、ふたりで茂みから飛びだした。
「そうともよ。おまえさんを呼んだのは、アッシらでさァ」
 雷蔵が佐野をにらみつけながら言った。
「きさまら、何者じゃ」
 こちらに鋭い眼を向けたまま、佐野が座布団のわきに置いた刀に手をのばした。巴屋はびっくりした表情で雷蔵を見たまま固まっている。
「うん?」
 佐野が松の木のほうを見てマユを寄せた。
「おまえは、蕪木」
 佐野は狼狽しながら相手を指差した。
「ちがう、ちがいます!」
 蕪木は松の木の陰で目をつぶりながら首をふっている。
「ダンナ、しっかりしてくださいよ」
 隼助は少しイライラしながら蕪木の袖をつかむと、むりやり茂みの中から引きずりだした。
「佐野様、こっ、これはいったい」
 巴屋がうろたえながら佐野の背中に隠れる。
「はっ、話はぜんぶ、きき、聞かせてもらったわ。ふっ、ふたりとも、神妙にしてちょうだいっ!!」
 蕪木が十手の先を相手に向けながら声をふるわせた。
「ばかなやつめ」
 佐野がせせら笑った。
「おとなしく八咫烏の探索をしていれば、こんなところで命を落とさずにすんだものを」
 佐野が鋭い眼を冷たく光らせながら、スラリと刀を抜きはなった。蕪木は十手の先を相手に向けたまま、ガタガタとふるえながら後退りをはじめた。
 隼助は雷蔵とふたりで蕪木のまえに立った。刀をわきに構えながら、佐野が庭へ降りてくる。雷蔵が相手に鋭い眼を向けながら身構えた。隼助も、片方の手で蕪木をかばいながら身構える。佐野は鋭い眼のまま、口もとに歪んだ笑みを浮かべながら、じりじりとちかづいてくる。
「三人とも、この世に(いとま)をとらせてつかわす。覚悟せい!」
 佐野が刀をふり上げたときである。
「おっと、そこまでだ」
 隼助の耳に、烏平次の声が聞こえてきた。裏口とは反対のほうからだ。
「カシラ」
 隼助が口もとに笑みを浮かべてうなずくと、烏平次もうっとうしいヒゲ面で不敵に笑いながらうなずいた。
「おのれぇ。もう一匹ねずみがおったか」
 佐野が烏平次に切っ先を向けた。
「ふざけるなぃ」
 烏平次が笑い飛ばす。
「ねずみはテメエのほうじゃねえか」
「下郎め。言わせておけば――」
 ――御用だ! 御用だ!
 烏平次のわきを二手に分かれながら捕り方がなだれこんできた。
「北町奉行所筆頭(ひっとう)与力(よりき)大橋(おおはし)左門(さもん)である」
 先頭に立っている陣笠姿の武士(さむらい)が、十手の先をまっすぐ相手のほうに向けた。
 佐野がうろたえながら刀を引っ込める。
「こ、これは大橋様。どうして、このようなところへ」
「北町与力・佐野紋十郎、ならびに巴屋太左衛門。そのほうらを偽小判密造の(とが)により召し捕る。神妙に縛につけい!」
「おっ、おまちを」
 巴屋があわてて座敷から転げ落ちてきて、地べたに両手をつきながら訴えた。
「お、おまちください。これは、なにかのまちがいです。てまえどもは、偽小判など造った覚えはございません」
「左様」
 佐野が巴屋のあとをつづける。
「偽金造りの下手人は八咫烏にございます。巴屋は、いっさい関わりございません」
「それがあるから、こうして参ったのだ」
 大橋が捕り方のほうにうなずいた。捕り方のひとりが千両箱をかかえてまえに出る。
 佐野は訝し気な目つきを千両箱に向けている。
 巴屋はガマガエルよろしく地面に這いつくばっている。額に汗を浮かべながら、うろたえた表情を千両箱に向けていた。
 捕り方が大橋のそばに千両箱を下ろした。大橋は巴屋を見たまま、十手で千両箱を指し示した。
「これは、そのほうの蔵にあったものだ」
 捕り方がふたを開ける。大橋が千両箱の中から小判を一枚取り出し、巴屋のまえに放りなげた。
「それが動かぬ証拠だ」
「こっ、これは」
 巴屋は両手で小判を拾い上げると、にわかに顔色を変えた。
「そんなばかな!」
 うろたえる巴屋の手から佐野が小判をひったくった。
「どっ、どうしてこれが巴屋の蔵に」
「それから、もうひとつ」
 大橋が一枚の紙きれを懐から取り出した。
「先刻、こんなものが奉行所に投げ込まれてな」
 大橋は文面を声に出した。
「例の偽小判は巴屋の蔵から盗み出したものに相違なく(そうろう)
 読み終えると、大橋は手紙を裏返して、白地に黒く浮き出た三本足の烏の絵を佐野に見せつけた。
「そっ、それは八咫烏の」
 佐野が狼狽を浮かべながら三本足の烏を指差した。
「もはや逃れられんところと観念せい」
 三本足の烏を見せながら大橋が言った。
 佐野が地面に片ひざをつき、ガクリとうなだれた。両手を地面についたまま、巴屋もガクリとうなだれるのであった。
「それ」
 大橋が十手をふって、捕り方に指示を出した。
 佐野と巴屋は縄をかけられ、裏口のほうへ引き立てられていった。
「やりましたね、カシラ」
 まわりに聞こえないよう、隼助はそっとささやいた。
「どうやら、うまくいったようで」
 衣紋を直しながら、雷蔵も烏平次にうなずいた。
「いや、みんなごくろうだったな」
 うっとうしいヒゲ面で烏平次が笑った。
「蕪木のダンナは?」
 烏平次が訊くと、雷蔵は松の木にちらりと目を向けた。
「なるほど」
 苦笑しながら烏平次が肩をゆらした。
 蕪木は松の木にだきついたまま、ブルブルとふるえていた。
「やれやれ」
 隼助は嘲笑を浮かべながら首をふった。
「蕪木」
 大橋が蕪木を呼んだ。しかし、蕪木の耳には大橋の声が入らなかったようだ。松の木をだいたまま、ブルブルと怯えている。
「これ、蕪木」
 大橋が肩をたたくと、蕪木は「きゃあっ」と気色悪い悲鳴を上げながら飛びあがった。
「しっかりいたせ、蕪木」
 呆れた顔で大橋が笑った。
「ま、まあ、大橋様」
 蕪木はようやく正気に戻ったようだ。
「ようやった、蕪木。こたびのそのほうの働き、きっと奉行に報告しておこう」
「でも、アタシはなにも」
「偽小判密造の黒幕は佐野紋十郎。それを突き止めたのは蕪木新之助だと、あの者が知らせに参ったのだ」
 大橋が烏平次を目で示しながら言った。
「ダンナ、お見事でございました」
 烏平次がヒゲ面でほほ笑みながら蕪木に会釈をした。
「ところで」
 陣笠の下で大橋の目が鋭く光った。
「そのほうらは、いったい何者だ」
「へい」
 雷蔵が一歩まえに出る。
「蕪木様とは、ちょっとした知り合いで」
 大橋はだまったまま、じっと鋭い目を向けてくる。三人の顔をジロリ、ジロリと、かわるがわるうかがっていた。
「あの、大橋様。あの人たちが、どうかなさって?」
 蕪木が目をしばたかせながら言う。
「いや」
 大橋が、ふと例の書状に目を落とした。三本足の烏の絵の書状だ。彼は、じっと烏の絵をにらんでいる。自分たちを八咫烏だと疑いはじめたのだろうか。隼助は烏平次と雷蔵の顔をちらりと見た。ふたりとも涼しい顔でとぼけている。そう。町方を恐れているようでは、八咫烏はつとまらないのである。
 大橋がジロリと目を上げた。疑うような細い目で、じっとこちらをにらんでいる。
「あの~、お役人様」
 落ちついた口調で雷蔵が言った。
「どうかしなすったんで?」
 大橋が顔を伏せて、にわかに肩をゆらしはじめた。
「いや、大義であった」
 ふいに表情を和らげると、大橋はカラッと笑った。
 やれやれ。隼助はこっそりとため息をついた。
「そのほうたち」
 大橋が指差しながら言った。
「あとで奉行所に来てもらおう」
「え、どうしてです?」
 隼助はにわかにうろたえた。
「なんだ、褒美がほしくないのか?」
 まるでこちらの反応を楽しむかのように、大橋は口もとで笑っていた。
「いえ……。きっとうかがいます」
 隼助が答えると、大橋は声を上げて笑いながら去っていった。
 雷蔵が笑みを浮かべて吐息をついた。
「あのダンナ、気づきやしたね」
「らしいな」
 烏平次も浪人髷のヅラをかきながら苦笑した。
「だったら、どうしてオレたちに縄をかけなかったんですか?」
 隼助にはよくわからない。
「おれたちは必要悪、だからさ」
 立ち去ってゆく大橋の背中に目を向けたまま烏平次がつぶやいた。
 隼助も、大橋の背中を見ながら「必要悪、か」と、小さくつぶやいた。
「それじゃ、アッシらも行きやすか」
 雷蔵が裏口のほうへ歩きはじめたときである。
「雷ちゃ~ん」
 蕪木が手をふりながら駆けてきた。ヒゲ剃りあとが青くのこる顔に気色悪い笑みを浮かべながら。
「行こ」
 雷蔵の腕に蕪木がギュッと抱きついた。
 雷蔵の顔が引きつる。
「行くって、どこに?」
「や~ね~、雷ちゃんったら。アタシとの約束、もう忘れちゃったの?」
 どうやら雷蔵は、偽小判を借りる見返りとして、無事に事件を解決できたらふたりっきりでスッポン料理を食べに行く、という約束をしていたようだ。
「そ、そうでやしたねえ。すっかり忘れてやした」
 冷や汗を浮かべながら、雷蔵はムリヤリ笑っていた。
「もう、ばかね~、雷ちゃんたら」
 ホホホ、と蕪木が笑う。
「いや~、バッカだなあ、アッシは」
 あたまをかきながら、雷蔵は引きつった顔に作り笑いを浮かべているのであった。
「それじゃあ、雷蔵。おれたちは先に()えってるぜ」
 烏平次が裏口のほうへ向かって歩きはじめた。
「それじゃ、雷蔵さん。どうぞごゆっくり」
 隼助も烏平次のあとにつづいた。
「隼助ェ」
 しぼりだすような雷蔵のかすれた声。隼助はふり向かなかった。
「カシラァ」
 烏平次もふり向かない。青空の下で、トンビが大きな円を描いている。お幸せに――胸の中で祝福しながら、隼助は歩きつづけた。烏平次とふたりで、だまったまま、どこまでも歩きつづけた。    

☆最終回特別編 「義賊・八咫烏!」

☆最終回特別編 「義賊・八咫烏!」

「おいら、八咫烏(やたがらす)を見たんだ」
 日の出まえ、まだ夜空に満月が輝いているころだった。しじみを()りに大川(おおかわ)(隅田川)へ向かう途中、隼助(しゅんすけ)は三つの黒い影を見たのである。
「八咫烏って、あの三本足のカラスのことかい?」
 と、お(たき)ばあさんが米を研ぎながら笑った。お滝ばあさんだけではない。井戸端にあつまった長屋の女たちは、みんな顔を見合わせながらクスクスと笑っていた。
「茶化さないでくれよ、おばさん。知ってるくせに」
 八咫烏は江戸でもっとも有名な義賊である。知らない者などいないのだ。
「どうした、隼助。朝っぱらから、なにを騒いでおるのだ?」
 大きなあくびをして〝ムシリあたま〟をボリボリかきながら、彦坂(ひこさか)小十郎(こじゅうろう)がやってきた。俗にいう傘張り浪人である。
「おじさん、おいら見たんだよ」
「見たって、なにを?」
 彦坂は井戸端の女たちにあいさつをしながら釣瓶(つるべ)で水を汲みはじめた。
「八咫烏だよ。義賊の」
「ほう。で、そのカラスがどうしたんだ?」
 彦坂は適当に返事をしながら桶に張った水で顔を洗っている。
 さては信じていないな、と思いながら、隼助は腕を組んでため息をついた。
「朝方、捕り物があったの知ってるだろ、おじさん?」
「いや、寝てたから知らん」
呼子(よびこ)の笛、聞こえなかったのかい?」
「ああ、聞こえなかったな。で、そのカラスはどうなった?」
「三人とも、逃げたみたいだけど……」
「そうか。飛んでいったか」
 やはり、子供の言うことだと思って馬鹿にしているのだろうか。彦坂はまるで関心がない、というような態度で、濡れた顔を手拭いで撫でまわしていた。
 やはり信じてもらえないか、とあきらめつつも、隼助はつづけた。
「でも、ひとり、お役人に斬られたみたいだったよ」
「なに、斬られた?」
 彦坂が手拭いの隙間から鋭い眼をのぞかせた。
「死んだのか?」
 彦坂は首に手拭いを下げながら、隼助の顔のまえにヒゲ面をかがめてきた。さっきまでの寝ぼけた顔ではない。その目つきは虎のように鋭く、ギラギラと光っていた。
 隼助はゴクリとつばをのんで答えた。
「いや、仲間のひとりが背負って逃げたんだ。それで、もうひとりが煙玉みたいなやつを役人に投げつけたんだ」
 三つの黒い影が、満月の中を駆け抜けた。千両箱らしきものをかついで、屋根の上を音もなく走っていたのだ。盗っ人だろうか。隼助は路地の陰から、そっと様子をうかがっていた。すると、いちばんうしろを走っていた影がよろめいて、屋根から転げ落ちた。おそらく、小柄(こづか)――刀の鞘のわきに収められた小刀のような物――を受けたのだろう。その小柄を放ったのは町方の役人だった。役人のそばにいたひとりの岡っ引きは呼子笛を鳴らしていた。片足を引きずりながら、影は慌てて逃げようとしている。
「そのとき、役人が背中から斬りつけたんだ」
 袈裟掛(けさが)けに一太刀。
「なるほど」
 と、鋭い眼を細めながら彦坂がうなずいた。
「しかし、おまえさんはどうしてその三人組が八咫烏だと思ったんだ?」
「え? そ、それは……」
 隼助は言葉につまった。三人組の盗賊というだけで、彼らが八咫烏だという証拠はどこにもない。
「だって、八咫烏は三人組だっていうから……」
 あいまいに答えながら隼助があたまをかいていると、彦坂は拍子抜けしたように笑いはじめた。
「そうだな。そいつらは、きっと八咫烏にちがいない」
 と、高笑いしながら彦坂は部屋へもどっていった。
「ちぇっ。ばかにして」
 隼助は今年で十三になった。もう自分は立派な大人である、と隼助は自覚していた。
「そんなことより、(しゅん)ちゃん。おときさんの具合、どうなんだい?」
 井戸端で大根を洗いながら、おくまさんが言った。隼助の母・おときは、ひと月まえから小石川養生所に入所していた。胸に〝(いわ)〟ができたのだ。
「あした、手術するって言ってた」
 隼助は無理に笑顔をつくった。本当は、不安でたまらないのだ。もし手術が失敗たらと思うと、怖くて仕方がなかった。でも、養生所の医師、根岸(ねぎし)新三郎(しんざぶろう)なら、きっと治してくれるはずだ。まだ三十一と若いが、そこらのヤブにもなれないタケノコ医者より腕はいいのである。町医者は医学の知識がなくてもなれるので、そのほとんどがヤブやタケノコだった。だが、新三郎は長崎で西洋医学を修めてきた〝本物の医者〟なのだ。
「大丈夫だよ、隼ちゃん」
 お滝ばあさんがほほ笑みながらうなずいた。
「え?」
 隼助は「はっ」とした。いつのまにか、頬が涙で濡れていたのだ。隼助は慌てて手の甲で目をぬぐった。
「根岸先生なら、きっと治してくれるさ。おときさんは、きっとよくなるよ」
 お滝ばあさんは笑顔で励ましてくれた。
「おばさん……」
「元気だしなよ、隼ちゃん」
 おくまさんに大根を一本もらった。みんなも、笑顔で励ましてくれた。涙が止まらなかった。
「……ありがとう」
 隼助はみんなに礼を言うと、足早に部屋へ戻った。

 朝めしを済ませると、隼助は売れのこったしじみを天秤に下げて養生所へ向かった。小石川養生所は幕府の予算で賄っているので、患者から薬礼(やくれい)(治療費)を受け取ることはない。それでも、隼助は毎日、売れのこったしじみを養生所へ届けていた。患者たちがよろこんでくれるのだ。隼助のおかげで、毎日うまいしじみ汁が食べられる、と。もちろん、しじみの勘定は受け取っていない。母が世話になってるお礼のつもりで届けているからだ。本当は、毎日母に会うための口実なのだが……。
「おはよう、先生」
 診療所の戸口から声をかけると、奥の部屋から新三郎が顔を出した。
「おう、隼助か。おはよう」
「しじみ、もってきたよ。今日は、ちょっと少ないけど」
 隼助は桶――二升ほどのしじみが入っている――を新三郎に見せた。
「いつもすまんな、隼助」
 と、新三郎は目を細くしてうなずいた。
「おっ(かあ)が世話になってるから、これぐらいしないとね」
 隼助はあたまをかいてはにかんだ。
「そうだ、先生。今朝、捕り物があったの知ってるかい?」
「ああ、聞いたよ。三人組の賊のことだろう?」
「きっと、八咫烏だよ。先生も、そう思うよね?」
「ああ。そうだな」
 と、言いながら、新三郎は笑っていた。
 やはり、新三郎も八咫烏ではないと思っているのだろう。この養生所へ来る途中も、町では三人組のうわさをしていたが、だれもその賊が八咫烏だと言っている者はいなかった。八咫烏を見た者はだれもいない。町方(まちかた)ですら、まだ八咫烏の正体をつかんではいないのである。それでも、自分が見た三人組は、きっと八咫烏にちがいない。なぜかは知らないが、隼助はなんとなくそう思えてならないのであった。
「おっと、まだしじみ代を払っていなかったな」
 新三郎は笑みを浮かべながら、隼助に一分金(いちぶきん)を二枚、差し出した。
「ひと月分だ。とっておきなさい」
「いや、いいよ。先生も薬礼とらないんだろ? だから、おいらも」
「私は御上(おかみ)から給金をもらっている」
 隼助の掌に一分金をのせながら新三郎が言った。
「だから、おまえさんも勘定を受け取るんだ」
 そう言われると、隼助は返す言葉がなかった。
「ちぇっ。先生にはかなわないや」
 隼助は苦笑しながら勘定を受け取った。新三郎は、満足そうにほほ笑んでいた。
「ところで、先生」
「なんだ」
「あした、手術するんだよね?」
 すると、むずかしい顔をして新三郎がうなずいた。
「来なさい、隼助。母さんのところで話をしよう」
 養生所の部屋は、どこも患者でいっぱいだった。空いている部屋はひとつもない。ふつうは数人でひと部屋を使うのだが、重病人の場合は個室を使っていた。隼助の母も、個室で治療を受けていた。
「気分はどうだね、おときさん」
 布団のよこでヒザをそろえると、新三郎は母の脈をとりはじめた。
「おっ母」
 隼助も新三郎のとなりでヒザをそろえた。母は、やせ細ったまっ青な顔で、精一杯の笑顔をつくっていた。隼助は、そんな母の笑顔を見ているのがつらくて仕方がなかった。
「いよいよ明日、手術をするわけだが」
 新三郎がむずかしい顔で腕組みをした。
「はっきり言おう、おときさん。私は自信がない」
「そんな」
 隼助は新三郎の言葉に耳をうたがった。
「先生は長崎で勉強してきたんだろ? 外国の医学を勉強してきたんだろ? 先生なら、きっと治せるよ」
 父は五年まえに死んだ。そしてこんどは、母まで死んでしまうのか。父は、なにも悪いことはしなかった。母も、なにも悪いことはしていない。なのに、どうしてこんな目にあわなくてはならないのか。そう思うと、隼助はくやしくてたまらなかった。
「隼助」
 母は枕の上で静かに首をふった。隼助は母の意思に従うようにうなずいた。
「いいかね、おときさん」
 腕組みをしたまま新三郎が言う。
「岩を取りのぞくには、とてつもない苦痛を伴うのだ。はたして、おときさんがその苦痛に耐えられるかどうか……」
 新三郎は、いちど静かにため息をついてからつづけた。
「それに、岩を取りのぞくことができたとしても、命が助かるという保証はないのだ」
 隼助は絶望した。なにが西洋医術だ。これでは町にあふれているタケノコ医者と変わらないじゃないか。
「どうする、おときさん。それでも手術を受けてみるかね?」
 新三郎の問いに、母は静かにうなずいた。
「手術をしなくても、助からないのでしょう?」
「残念だが」
 新三郎は否定しなかった。
 母は、もう覚悟を決めているのだろうか。いささかも動揺を見せなかった。
「たとえ失敗しても、かまいません。そのかわり、できるだけたくさん、学んでください。そうすれば、その知識が、きっと自信につながります」
 母は迷いのないまっ直ぐな目で新三郎に悲願した。
「おときさん……」
 母の眼差しを受けとめながら、新三郎は決心したようにうなずいた。
「隼助」
 細くやせた母の手が、隼助を求めていた。
「おっ母……」
 隼助は、母の手をそっと両手で包みこんだ。
 まっすぐに隼助を見つめたまま母がつづける。
「いいかい、隼助。もし、母さんが死んでしまっても、けっして先生を恨んだりしてはいけませんよ?」
 隼助は、ただだまってうなずいた。返事をしようとしたが、声が出なかった。涙を流しながら、隼助はもういちどうなずいた。母は、ほほ笑みながら目を閉じた。ひとすじの涙が、母の頬を流れていった。
「根岸先生。ちょっとよろしいでしょうか?」
 障子を開けたのは、見習い医師の片桐(かたぎり)という男だ。
「片桐か。どうした?」
「はい。先生のお知り合いだという方から、言伝(ことづて)を頼まれまして」
「言伝?」
 片桐は新三郎になにかを耳打ちしている。話し終わらないうちに、新三郎の顔色がにわかに変わった。
「わかった。診療箱をもってきてくれ。私がひとりでいく」

 隼助は今朝の盗賊が八咫烏だと言った。もちろん、新三郎は隼助の話を馬鹿にして聞いていたわけではない。町でうわさを聞いたときから「もしや」とは思っていたのだ。そして、「烏長屋の烏平次(うへいじ)が危篤である」と片桐が知らせに来たとき、その三人組が八咫烏だと確信に至ったのだ。
 診療箱をもって表へ出ると、遊び人風の若い男が戸口のまえで待っていた。
「急に呼び出したりしてすまねえ」
「今朝の一件、だな? 雷蔵(らいぞう)
「へい。菊次(きくじ)が深手を負っちまって。まだ息はあるが、急がねえとあぶねえ」
「わかった。案内してくれ」
 新三郎は雷蔵の正体を知っていた。もちろん、雷蔵も新三郎の正体を知っている。
「烏平次は、達者か?」
 新三郎は小走りで駆けながら雷蔵の背中に声をかけた。
「へい。いまじゃ、立派な八咫烏のカシラでさァ」
 雷蔵はふり向かずに答えた。
「そうか。烏平次がカシラ、か」
 烏平次はかつての仲間、新三郎も八咫烏の一味だったのだ。
 烏平次とは、ほぼおなじ時期に八咫烏の仲間に加わった。烏平次が二十、新三郎が二十一。もう十年もまえのことだ。世の中から貧乏をなくしたい。貧乏がなくなれば、病気で貧しい者でも医者の治療を受けることができる。そう思ったから、八咫烏の仲間になったのだ。だが、現実はそんなに単純ではなかった。ほとんどの町医者はヤブ以下のタケノコである。そんなタケノコ医者にいくら金を払ったところで風邪ひとつ治せやしない。だったら、自分が〝本物の医者〟になってやろう。そう決心し、新三郎は盗っ人稼業から足を洗ったのだ。金ではなく、医術で人を救う道を新三郎は選んだのである。
「まだ着かんのか?」
 もう向島(むこうじま)の外れまで来ている。
「あの山の中でさァ」
 道を少しそれたところにある大きな山を、雷蔵が指差した。
 人がほとんど立ち入らないので山道はない。竹や杉の木の間を縫うようにして奥に進むと、やがて古い荒れ寺が見えてきた。
「あそこがカラスの(ねぐら)、か」
 菊次の傷は相当に深いらしい。おそらく、もう手遅れだろう。新三郎は、なんとなくそう感じていた。

「これは……」
 布団の上で横向きになった菊次を見て、新三郎は絶望した。浅く速い呼吸、発汗、そして青白い体。応急処置はしてあるようだが、出血が多すぎる。もはや手遅れだ。新三郎の予感はまちがっていなかった。
「傷は、相当深いと思う」
 ムシリあたまの男が言った。
「助かると思うか?」
「あまり期待しないでくれ、烏平次」
 無精ヒゲを生やしているが、烏平次はむかしと変わっていなかった。
 雷蔵が焼酎の入ったヒョウタンをもってきた。
「よし、はじめるぞ」
 三人で菊次をそっとうつぶせに寝かせた。まずは、傷口を焼酎で消毒しなくてはならない。もちろん、気を失うほどの激痛が走るだろう。新三郎は、菊次の口に手拭いをかませた。激痛が走った拍子に舌をかみ切らないようにするためである。
「ふたりで、しっかり押さえていてくれ」
 これで助かったら神を信じてもいい、と新三郎は思った。べつに弱気になったわけではない。医者は神ではないのだ。治せない傷もある。治せない(やまい)もある。むしろ、救えない命のほうが多いだろう。だが、新三郎には信念があった。ひとつでも多く、病を治したい。ひとりでも多くの命を救いたい。たとえ手遅れとわかっていても、もてる知識と技術をすべてかける。菊次の傷口をにらみながら、新三郎は焼酎を口に含んだ。

「すまん」
 新三郎は縁側に腰かけると、長いため息をついてうなだれた。
 菊次は死んだ。できるだけのことはしたのだが、やはり傷が深く、なにより出血が多すぎたのが致命的だった。
「先生。あまり、自分を責めねえでおくんなせえ」
 新三郎のとなりに腰かけながら雷蔵が言った。
「アッシらにも責任があるんだ。アッシが」
 雷蔵が言葉を詰まらせた。ヒザの上でこぶしをふるわせながら、くちびるをかみしめている。
「アッシが、もう少し注意してりゃあ、こんなことには……」
 菊次は雷蔵よりひとつ年下の二十三だった。雷蔵は、菊次を実の弟のように思っていたのだ。
 新三郎は、ふたりのことはよく知らない。雷蔵、そして菊次は、新三郎が長崎に渡ったあと、八咫烏に加わったのである。
「先生、ありがとうごぜえやした」
 ふるえるこぶしをにらみながら雷蔵が言った。
 新三郎は、ただだまってうなずいた。
「北町与力(よりき)佐野(さの)紋十郎(もんじゅうろう)
 烏平次がポツリと言った。
 縁側に腰かけたまま、新三郎は肩越しにふり向いた。烏平次は囲炉裏のまえであぐらをかきながら、どんぶりで酒を呷っている。
「菊次を斬ったのは、佐野紋十郎なのか?」
「ああ」
 佐野は悪徳商人と結託し、私腹を肥やしているといううわさのある男だった。
「……きっと、やつの悪事を暴いてやりまさァ」
 まるで復讐を誓うような、怒りのこもった静かな口調で雷蔵が言った。
 しかし、烏平次は言う。
「雷蔵、おれたちの仕事は敵討ちじゃねぇだろう。菊次のことは、忘れろとは言わねえ。だがな、おれたちの目的だけは忘れちゃいけねえぜ?」
「へ、へい。わかってやす」
 八咫烏は義賊である。だが、いくら貧しい民のためとはいえ、盗みを正当化することはできないのだ。しかし、八咫烏が貧しきを救っているのは事実。光と闇のはざまに生きる者、いわば必要悪なのだろう、と新三郎は思っていた。
「人ひとりの命を救うというのは、ほんとうにむずかしいことだな」
 しみじみとつぶやきながら、新三郎は茜色の空を見上げていた。

 いつもより早く目を覚ますと、隼助は朝餉(あさげ)も摂らずに長屋を飛びだした。腹が減っているのかどうかさえわからない。新三郎なら、きっと母の命を救ってくれる。そう信じているのだが、どうしてもいやな予感がつきまとってはなれないのだ。
 隼助は養生所の戸口のまえに天秤を置くと、深呼吸をしてむりやり笑顔をつくった。
「先生、おは――」
 養生所の戸口から声をかけようとしたとき、奥の部屋から話し声が聞こえてきた。障子が細目に開いている。隼助は上がり(かまち)にヒザを乗せ、両手を畳について奥の様子をうかがった。
「あれは、先生かな」
 障子の隙間から見えるのは、白衣を羽織った新三郎の背中だけである。火鉢をはさんで、だれかと話し込んでいるようだ。聞こえてくるのは男の声ばかりだが、くぐもったような低い声なので、なにを話しているのかわからない。それに、相手の姿もよく見えない。が、どうやらひとりではないらしかった。どうしても相手の姿が見えないので、隼助は上がり框から伸びあがって障子の隙間に顔をちかづけた。
「どちら様です?」
 と、いきなり障子が開いたので、隼助は慌てて土間に転げ落ちた。
「いてて……」
 いまのは新三郎の声ではなかった。土間の上に起きあがって奥の部屋に目をやると、見知らぬ男がふたり、座布団の上で笑っていた。
「いや、おどかして悪かった。ケガはねえか、ぼうず?」
 ムシリあたまの男が黄色い歯を見せた。隼助は尻もちをついた格好のまま、仏頂面をしてそっぽを向いた。
「なんだ、隼助じゃないか」
 あきれた顔で笑いながら新三郎が言った。
「おはよう、先生」
 隼助は居心地わるそうに笑いながら立ち上がった。
「もうすぐ手術をはじめる。それまで、母さんのそばにいてやりなさい」
 火鉢のまえで腕組みをしたまま新三郎がほほ笑んだ。
「それじゃ、おれたちはこれで。いくぜ、雷蔵」
「へい」
 ふたりの男たちも、新三郎にあいさつをして帰っていった。

 五ツ半(朝九時ごろ)、手術がはじまった。自分も母のそばにいたい、と隼助は頼んだが、邪魔になるから、と拒否された。手術にあたるのは新三郎と片桐、ほか二名の医師の四人である。おそらく夕刻までかかるだろう、と新三郎は言った。
 ゆうべは、なかなか寝つけなかった。夜中に、だれもいない神社で御百度(おひゃくど)も踏んだ。それでも、胸の底にはまだ不安がのこっている。手術は、いまはじまったばかりだ。母は、きっと助かる。新三郎なら、きっと助けてくれるはずだ。隼助は、自分で自分を励ましつづけた。だが、どうしても嫌な考えがあたまを過るのだ。不安で、悲しくてたまらない。無性に泣きたくなった。だれもいないところで、思いっきり泣こう。涙が枯れるまで、思いっきり泣こう。隼助は、養生所を飛び出して街の中を駆けぬけた。
「あっ」
 街の中をがむしゃらに走っていると、路地のところでだれかとぶつかった。
「おっと、大丈夫か、ぼうず?」
 聞き覚えのある声だ、と隼助は思った。ふと顔を上げると、どこかで見たことのある顔だった。
「あ、おじさんは、あのときの」
 ムシリあたまに無精ヒゲ。養生所で新三郎と話していた男だ。遊び人風の若い男も一緒だった。
「おお、あのときのぼうずか」
 と、ヒゲ面の男が笑いながら手を差しのべてきた。
「だいぶ慌てて走っていたようだが、どこへ行くんだ?」
 ヒゲ面の男の手につかまって立ち上がると、隼助はうつむいて尻を払った。
「べつに、急いでなんかいないよ」
「ところで、ぼうず」
 遊び人風の男が、ジロリと隼助をにらんできた。懐手(ふところで)をして煙管(きせる)をくわえている。マゲは、少し横に垂らして〝いなせ風〟である。
「見たところ病人でもなさそうだが、おめえさんは養生所になんの用があったんだ?」
 鼻から紫煙を立ちのぼらせながら遊び人が言った。
「しじみを……売りに来ただけだよ」
 養生所の話はしたくない。涙をこらえながら、隼助はそっぽを向いた。
「そういやあ、今日は〝岩〟の手術があるって、根岸の先生が言ってたな」
 あごヒゲをさすりながらムシリあたまが言った。
「その患者には、息子がひとりいるとも聞いた。毎日、養生所にしじみを売りに来る、ってな」
「……おっ母……」
 いよいよたまらなくなった隼助は、もはや涙をこらえることはできなかった。うなだれて、こぶしをふるわせながら涙をこぼした。
「そうか。ぼうずのおっかさんだったか」
 ヒゲ面の男は、隼助が泣き止むまで肩を抱いていてくれた。肩を抱きながら、無言で励ましていた。隼助は、ヒゲ面の男から死んだ父とおなじぬくもりを感じていた。

 ヒゲ面の男は烏平次、遊び人風の男は雷蔵と名乗った。
「おいらは、隼助」
「隼助、か。いい名前(なめ)ぇだ」
 と、烏平次がうなずいた。
 小料理屋で昼めしを済ませると、三人で大川(おおかわ)(隅田川)のほうへ向かって歩きはじめた。桜を見に行くのである。
「見事に咲きやしたね」
 撫子(なでしこ)色に目を細くしながら雷蔵が言った。大川の両岸には、桜並木がつづいている。いまが見頃だろう、と隼助は思った。
「そこの茶屋で一服してくか」
 烏平次が一軒のだんご茶屋をあごで指した。烏平次が床几(しょうぎ)に腰かけると、隼助と雷蔵は、それぞれ烏平次のとなりに腰をおろした。
「そうか。おとっつぁんは死んだのか」
 烏平次が気の毒そうにため息をついた。
「おっ(とう)は、大工だったんだ」
 政吉は父の話をつづけた。
「おいらは、まだ小さかったからよく覚えていないんだけど、少し短気で喧嘩っ早くて、曲がったことが嫌いで、困っている人がいたら助けずにはいられない、口は悪いが優しい人だった、って、おっ母が言ってた」
「おとっつぁんも、病気だったのか?」
 煙管をふかしながら雷蔵が言った。
 隼助は首をふった。
「仕事中に、足場が崩れて落ちたんだ」
「わからねえなあ。人の命ってのは」
 烏平次がしみじみとした口調で腕組みをした。それから隼助にだんごをすすめながら「おめえも大工になるのか?」と尋ねた。隼助はだんごをひとくち頬張ってから「おいらは、八咫烏の仲間になるんだ」と答えた。
 すると、烏平次と雷蔵は「なに、八咫烏?」と、声をそろえて目を丸くしていた。
「八咫烏って、あの盗っ人のことか?」
 まわりを気にしながら烏平次が小声で言った。
「盗っ人じゃないよ。義賊だよ」
 隼助は八咫烏がそのへんの盗っ人と一緒にされるのが我慢ならなかった。八咫烏は、貧しい庶民のために罪を背負っているからだ。自分のために盗みをするコソ泥とはちがうのである。
 しかし、烏平次は言う。
「いいか、隼助。どんなに立派な大義名分を掲げようとも、盗みは盗みだ。御定法(ごじょうほう)を犯してることには変わりはねえ。だから、おめえはちゃんと堅気の仕事につくんだ。あんまりばかなこと言ってると、おっかさんが悲しむぜ?」
「人を助けることが、悪いことなの?」
「なあ、隼助」
 烏平次が困った顔でため息をついた。
「八咫烏じゃなくったって、人助けはできるんだ。たとえば、根岸先生みてえな医者とか」
「おいらが住んでる長屋には、仕事がない浪人さんとか、貧しい人がたくさんいるんだよ。おいらは、貧しい人を助けたいんだよ」
 隼助は烏平次の目をまっすぐに見ながら訴えた。烏平次も、真剣な表情でじっと隼助の眼差しを受けとめていた。
 遠くのほうから、昼()ツの鐘が聞こえてきた。
「根岸の先生、もう終わったころかな」
 勿忘草(わすれなぐさ)色の空を仰ぎながら烏平次がつぶやいた。

 三人で養生所へもどる途中、烏平次が菓子屋で桜餅を買ってきた。あの大川の桜を母にも見せてやりたい。そう隼助が言ったからだ。
「桜の枝を折るわけにはいかねえからな。これでかんべんしてくれ」
 ヒゲ面に薄い笑みを浮かべながら烏平次が言った。
「ありがとう。おじさん」
 桜餅の包みを受け取りながら、隼助はふと思った。
「おじさんは、なんだか八咫烏みたいだね」
 すると、烏平次はにわかに笑いだした。
「そうだな。おじさんも、八咫烏の仲間にしてもらうかな」
 烏平次は笑っていたが、烏平次のうしろを歩く雷蔵は、ばかばかしい、というようにそっぽを向いている。懐手をして歩きながら、あいかわらず口に煙管をくわえている。そして、鼻からはモクモクと紫煙を立ちのぼらせていた。
 養生所にもどると、新三郎がひとり、庭の隅に佇んでいた。
「先生」
 隼助は新三郎の背中にそっと声をかけた。
「おっ母は……?」
「……すまん。隼助」
 新三郎はふり向かなかった。こぶしをにぎりしめて、肩をふるわせている。母は死んだ。新三郎の涙が、そう語っていた。
「……うそだ」
 隼助の手から桜餅の包みがすべり落ちた。あたまの中が、真っ白になった。思考がマヒしたように、なにも考えられなかった。
「うそだ!」
 母の笑顔が、ちらりと見えた。母の声が、耳の中で聞こえた。
 隼助は、無意識のうちに母の部屋へ向かって駆け出していた。
 
 新三郎と長屋の衆で、母を弔った。みんなが帰ったあとも、新三郎はひとり、母の位牌のまえでひざをそろえていた。
「私は全力を尽くしたつもりだ。しかし……私はおときさんを助けることができなかった。ゆるしてくれ、隼助」
 新三郎はひざの上でこぶしをつくると、目を閉じてうなだれた。
「べつに、おいらは先生を恨んじゃいないよ。おっ母も、先生を恨むなって言ってたし」
 隼助にはもう、一滴の涙ものこっていない。ありったけの涙を流したが、胸の奥にのこる悲しみまでは流すことはできなかった。この悲しみは、おそらく一生のこるのだろう。隼助も、母の位牌を見つめながらこぶしをにぎりしめた。
「……すまん。隼助」
 目を閉じたまま、新三郎はもういちど詫びを言った。
「ぼうず」
 声にふり向くと、戸口のところに烏平次が立っていた。雷蔵も一緒である。
「線香を、あげさしてもらってもいいかな」
 烏平次は新三郎にあいさつをしてから焼香をした。
「香典だ」
 烏平次が紙の包みを隼助に手渡した。
 中には、一分金が四枚。
「一両も? 多すぎるよ」
「いいから、とっときな」
 烏平次が黄色い歯を見せて笑った。隼助はしばし迷ったが、長屋に住むみんなのために役立てようと思い、「ありがとう、おじさん」と、笑顔で礼を言った。
「それと、こいつを渡しておこうと思ってな」
 と、烏平次は懐から一通の書状のようなものを取りだした。それを隼助に渡しながら、こう言った。
「もし、なにか困ったことがあったら、外神田(そとかんだ)にある松葉屋(まつばや)って小間物問屋にそれをもっていくといい」
 松葉屋の主人にこの書状を見せれば、無利子で銭も貸してくれるし、仕事も世話をしてくれるだろう、と烏平次は言った。
「それじゃ、またな。ぼうず」
 烏平次は雷蔵を伴って帰って行った。
 
 だいぶ夜も更けてきた。新三郎と烏平次たちが帰ったあと、隼助は例の書状を開けてみた。手紙は一枚。しかも、たたの白紙だった。
「なんだ。なにも書いてないじゃないか」
 隼助はロウソクのそばにまっ白な手紙をちかづけて、よくたしかめようとした。
「やっぱり、なにも書いてないや」
 不思議に思いながら、しばらくロウソクのそばでながめていたときである。
「あっ」
 ロウソクにちかづけすぎたせいで紙が焦げてしまった。
「え、これは……?」
 焦げではない。模様だ。なにか、模様のようなものが浮かび上がってきた。黒い丸、それから、その丸の中に浮かんできたものは……。
「あっ、烏だ」
 黒い丸の中に、黒い烏の絵が浮かび上がってきた。しかも。
「足が……三本ある」
 隼助の手が、にわかにふるえはじめた。丸の中に、三本足の黒い烏。
「……八咫烏だ……」
 隼助は手紙をにぎりしめて長屋を飛び出した。
「八咫烏だ。あのふたりは、八咫烏だったんだ」
 どこに行けば、あのふたりに会えるのだろうか。そうだ、養生所に行ってみよう。新三郎は、あのふたりと知り合いなのだ。新三郎に訊けば、ふたりの居場所がわかるかもしれない。隼助は、満月を背にして夜の街を駆け抜けた。
「なんだ、隼助か。どうした、こんな夜更けに。なにかあったのか?」
「先生、あのふたりは?」
「あのふたり? だれのことだ?」
「烏平次のおじさんと、雷蔵さんだよ」
「あのふたりが、どうかしたのか?」
 隼助は新三郎に例の手紙を見せた。
「……なるほど」
 新三郎は渋い顔でため息をついた。新三郎は、この書状がなんなのかを知っていたのだ。そして、烏平次と雷蔵の正体も。
「ふたりに会って、どうするのだ?」
「おいらも、八咫烏の仲間に入れてもらうんだ」
「ばかなことを言うんじゃない」
 とがめるような口調で新三郎が言った。
「八咫烏は盗っ人なんだぞ。おまえが罪人になったら、あの世のおっかさんがどんなに悲しむことか」
「盗っ人じゃない。八咫烏は義賊だよ。おいらも、烏平次のおじさんに……八咫烏に助けてもらったんだ。先生とおなじで、八咫烏も人を救ってるんだよ」
 新三郎は腕組みをして目を閉じると、しばらくだまって考え込んだ。
「わかった。明日の朝、出直してきなさい」
 明日、ふたりに会わせてやる。新三郎は、そう約束してくれた。
「ありがとう、先生」

 翌朝。
 養生所へ出向くと、烏平次と雷蔵が待っていた。
「やれやれ。困ったもんだ」
 と、烏平次が苦笑した。
「たのむよ、おじさん。おいらも八咫烏の仲間に入れてくれよ」
「もし、だめだと言ったらどうする?」
「お奉行所に訴えてやる」
 もちろん、隼助は本気で言ったのではない。こう言えば、いやでも自分を仲間にするしかないだろう、と考えたからだ。
「なるほど」
 烏平次は余裕の表情で笑った。
「仲間にしてくれるの?」
「ああ、いいとも」
 烏平次はあっさりと認めてくれた。
「えっ? ほんとうに?」
 からかわれているのだろうか。隼助は、いささか拍子抜けしてしまった。
「ほんとうに、仲間にしてくれるの?」
「ああ。ただし、条件がある」
「条件?」
「もし、おじさんたちを裏切ったり、掟を破るようなことがあったら、おまえさんの記憶を全部消させてもらう」
「記憶を、全部?」
 そんなことができるわけがない、と隼助は思った。
「この雷蔵はな」
 と、烏平次が話しはじめた。雷蔵は、もと伊賀の忍だったらしい。雷蔵は毒薬や眠り薬など、あらゆる薬に精通していた。そして、すべてを忘れてしまう秘伝の薬の調合方法も会得している、と烏平次は言った。しかし、手術の際に痛みを和らげる麻沸散(まふつさん)(麻酔)の調合だけは、なかなかうまくいかないらしかった。
「わかってると思うが、もし役人に捕まったら、死罪は免れねえんだぜ?」
「かまわないよ。たとえ死罪になっても、おいらは納得して死ねるから」
 隼助がそう答えると、烏平次はにわかにきびしい目つきになった。きびしいが、澄んだ瞳である。烏平次は、じっと隼助の目を見つめている。隼助は、烏平次に心の中まで見られているような感じがしていた。

 隼助は松葉屋で丁稚(でっち)として働くことになった。そして隼助は、松葉屋の主人・松葉屋(まつばや)伝左衛門(でんざえもん)から八咫烏の掟や〝お勤め〟についていろいろと教わった。八咫烏は伊賀の忍衆とも通じているらしく、お勤めには必ず雷蔵のような伊賀者をひとり加えることになっていた。伊賀の忍は幕府とも通じている。ようするに、八咫烏の活動を監視するのが目的なのだ。
 音をたてずに瓦の上を走る稽古も苦労したが、隼助がいちばん骨を折ったのが「烏の(いびき)」と呼ばれる会話術の稽古だった。この烏の鼾とは、自分が話したい相手にだけ聞こえるように話すという特殊な会話術で、関係のない第三者には、となりの部屋から聞こえてくるような、くぐもった唸り声にしか聞こえないのである。隼助は、四年がかりでようやくこの技を習得することができたのだった。

 それから三年後――。
 二十歳(はたち)になった隼助は、正式に八咫烏として認められ、一味に加わることになった。
「いい月だ」
 烏平次が満月を見上げた。八咫烏がお勤めをするのは、必ず満月の夜と決まっていた。
「それじゃ、行きやすか」
 雷蔵が烏平次にうなずいた。
 目指すは廻船問屋(かいせんどんや)播磨屋(はりまや)である。
「隼助、ぬかるんじゃねえぜ?」
 烏平次が黄色い歯を見せた。
「余裕ですよ」
 隼助もニヤリと笑った。
 オレたちゃ八咫烏。江戸でもっとも有名な義賊なのである!

    ―― おわり ――

八咫烏 【完全版】

エンディング
https://www.youtube.com/watch?v=bDLooFxWdzY

八咫烏 【完全版】

全十話を一冊にまとめました!!

  • 小説
  • 中編
  • 時代・歴史
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-12-21

Copyrighted
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