アドバルーン
SF、幻想系掌編小説です。縦書きでお読みください
彼のからだは膨らんできた。ただ膨らんできた。脂肪が増えたのでも、水ぶくれでもない。細胞と細胞の間に空気がたまったのでもない。やたらと胴体が膨らんできて手足が短くなってきた。それにもかかわらず、体重は増えなかった。彼は考えた。
(夢の食べすぎかな、あれならいくら食べても体重は増えないだろう、ずい分食べたからなー、あんなに旨いものはこの世に二つとしてありゃしない)
彼はテレビのスイッチを入れた。
「シローク、シローク、シロークしよう、歯を磨こう」
足を丸出しにした女が飛び跳ねていた。
彼はゴロンと横になった。
「キク、キク、クスリ、ヨクキククスリはハイ、コレ」
彼はげっぷをすると、胃の辺りをさすった。
(胃が悪いのかな?)
「天然の味、フルーツジュース、レモン、イチゴ、ブドウ、ネズミ」
(え!ネズミ?)
彼は目を丸くした。そうだ、きっと耳の錯覚だろう。
「オーイ、新聞持ってきてくれないか」
寝転んでいる彼の目の前に新聞が運ばれてきた。それを受け取ると、彼は自分の連れ合いの後姿をしげしげと見つめた。茶色のふさふさがある。
「おい、いつから尻尾が生えたんだ、おまえ」
「え?」彼の連れ合いは変な顔をして、新聞に目をはしらせている彼のほうを振り向いた。彼は今言ったことなど忘れてしまったように新聞の広告を呼んでいる。彼女は何も言わずに台所に行ってしまった。
彼は新聞のテレビ欄にそって、チャンネルをかちゃかちゃいわせた。はちきれそうな腹が邪魔をして、よほどテレビのほうに近づかないと手が届かない。
「キューと一杯、もう一杯、お酒を呑むならこれ!徳利もついてます」
「高級車登場、三万CC、月に楽々、たった一時間、月のキャバレーでは、ウサギもびっくり、もてもての高級車」
「ふーん、ふー」
彼はため息をついた。画面はぱっと変わった。
「石油会社提供、ボクシングアワー、石油を飲んで元気になろう」
彼はなるほどと思った。
「あなた、お風呂沸いているのよ、先に入ってくださらない、だいぶ熱くなっているはずよ」
「うん」彼はテレビから目を離し、スイッチを切ると、軽い巨体を持ち上げ、風呂場に飛んでいった。
彼は着物を脱ぐと、丸くなった自分のお腹を見た。
「ふー、子供でも入っているのかな」小さな独り言を言った。
「あなた、なに変なことを言っているの、湯加減はどう」
彼は足を湯の中に突っ込んでみた。
「あち」
「熱かったらうめればいいじゃないの」
彼女は大根を切っている。
「うん」彼は水道の蛇口をひねった。その時、蛇口についているラベルに気がついた。彼は思い出した。
(十一年間補償、錆びない、減らない、汚れない、素敵な蛇口)
彼は笑った。「ハハハハ、よく覚えていたな、ハハハハ」
彼が湯船に入ると、湯がどんどんこぼれてしまった。
(けっても、ぶっても、われない湯船、赤や青や緑の十色、カラーはカラー、カラーユブネ)
「お前、この湯船はいつ買ったんだっけ」
「一月ほど前よ」彼女はキューリを刻んでいる。
彼は風呂から上がった。タオルを手に取ると思い出した。
(ここに来るならこのホテル、家族みんなでこのホテル、レジャー施設もご満足)
彼は欠伸をした。
「いい湯だったよ」
台所のテーブルの前に腰掛けた。連れ合いがビールを運んできた。
「一本しかないのよ」「うん」
(ビール、ビール、中年のビール、このビールだ、旨い、中年のビール)
彼は栓を抜いた、シュー。
そこに、子供が一人入ってきた。頭をおかっぱにした可愛い子だ。少女は父親の隣に腰掛けると、彼の前のつまみを指差した。
「チューズュ、チューズュはおいちいこのチューズュ、、お肉でキュルリとはさんで食べよう」
彼はとろんとした目で自分の子供を見た。
「チーズかい?」
少女はうなずいた。彼はチーズを渡した。
(なんだか思い出せない)
ボヤーンとした目をできるだけ見開いて、自分の子供を研究した。
(わからない)彼の顔は赤くなってきた。彼は少女の頭をつついてみた。(ふーむ)
「おい、お前、コレはどこの製品だい」
彼は自分の子供を指差した。
連れ合いはチーズを食べている少女を見ると、またかといった顔をした。
「これ、これ、お父さんのお食事の邪魔をするのではありませんよ」
「いいよ、いいよ、でこれ、どこの製品だったかな、可愛い少女はこの会社、じゃない」
彼は当惑した面持ちでビールを飲み干した。
(おや?)かれはふと見覚えのないものがそばにあることに気がついた。テーブル、椅子、食器、ナイフ、フライパン、トースター、などなど、みんな覚えているのにそれだけは思いだせない。
「なんだっけかなー、有名会社の製品じゃなかったのかな」彼は目を赤くしてそれを見つめた。
(いつ買ったんだっけ、まだ部品の交換補償起源は切れていなかったっけ?)
「お前、お前はどこの製品だったっけ、どこのだい?いつ造られたんだい、一体いくらだったっけ」
彼の連れ合いはくしゃくしゃの顔をして笑い転げていた。
次の日、日曜日。
彼ら三人で町に出かけた。小さな女の子を真ん中に、手をつないで楽しそうに歩行者天国を闊歩した。
彼はふと、マーケットの屋上に目を留めた。彼はそれに親近感を持った。真っ赤なアドバルーンが一つ、風に吹かれて揺れている。
(さみしそうだ)彼は子供の手を離すと、自分の両手をパタパタさせた。彼の丸く太ったからだは宙に浮き、上空へ上空へと登っていった。ついに赤いアドバルーンのそばまで登りつめ、並んでしまった。彼のからだはさらに膨らみ、手足、頭は胴の中にめりこみ、アドバルーンの親戚のようになった。
子供が母親に言った。
「ママ。アドバリューン、二つになったよ」
母親は笑った。「そうね」
彼のからだはさらに膨れ、目玉もぽろっとこぼれ落ちた。彼は何をすべきか気がついた。
「シローク、シローク、シロークしよう、歯を磨こうーーー」
彼はできるだけ遠くまで届くように大声を出した。今まで吸収したコマーシャルをすべて吐き出した。
そこで、だんだん萎びていった。シュー。
「ママー パパの風船がちいちゃくなる、落っこちちゃうよ」
子供が泣きそうになった。
母親は笑っていた。
アドバルーン