目玉焼きにはソースを掛けます。

目玉焼きには塩を掛ける男の話。

「これは非常にデリケートで、それに加えて倫理的な意味でも問題になりかねないんだぞ」
 それがわかっているのか、と薄暗い会議室に私を呼びつけた張本人である課長が言った。
「十分に反省はしています」
 私は心にも思っていないことを机に頬杖をつく課長に言った。しかし、私もわかっているのだ。今回の問題が公になれば会社の存亡に関わることになる。それを悟った雇い主は手軽な解決方法として私に解雇するつもりらしい。
「これ以上問題が大きくならないうちに君には我が社を自らの意思で辞めてほしい。それが何よりもお互いのためだ」
 なにがお互いのためになる、だ。この人は私が入社した当時からそうだった。部下に失敗を押し付け、その裏ではうまく上司に取り入り、能力も無いくせに課長職にまで上り詰めたのだ。
「わかりました。納得はいきませんが、これ以上あなたの下で働きたいとも思いません。やめさせていただきます」
 目の前の男は私を一睨みしてから席を立ち、私の前を通り過ぎて会議室の入り口まで歩いくと、振り返らずに言った。
「君が目玉焼きに塩を掛ける、なんて馬鹿げたことを言わなければ君も出世できていたはすだ。少なくとも私は君を評価していたのに、非常に残念だ。明日の正午までに辞表の用意をしておくように」
 課長は会議室を出るとその扉を閉めた。
 ひとり取り残された私は、ふう、と小さくため息を漏らした。会社の言い分も理解はできる。卵焼きに掛けるべきなのは、ソースか醤油かで思想が二分されているこのご時世に、塩を掛けるだなんて言ってしまった。
 この国の政権は〝目玉焼きにはソースを掛ける〟という、所謂ソース派の姿勢を示している。我が社もソース派の意思を示し、雇われている社員も目玉焼きにはソースを掛けることを信条としている。しかし、この国に暮らしているすべての人々が政府と同じソース派の姿勢を示さなければならないのかといえば、決してそうではない。ソース派と対抗している醤油派という派閥も存在している。文字通り、〝目玉焼きには醤油を掛ける〟ことを重んじている派閥であり、何かにつけてソース派との衝突が目に付く。


 この国がまだソース派と醤油派に二分される前、とあるお菓子の好みでも意見が分かれていた。それらはある植物を模していた。〝きのこ派〟は決して、〝たけのこ派〟を許さず、〝たけのこ派〟は決して〝きのこ派〟を良しとしていなかった。しかし、それらはファッションのひとつのようなモノでしかない。〝ソース派〟と〝醤油派〟のように社会的な地位にまで影響していない。
 ついこの前もアイドルグループに所属するアイドルが謝罪会見をしていたことが記憶に新しい。醤油派のプロダクションに所属するはずのメンバーのひとりがソース派であったのだ。涙ながらに謝罪していたが、参加した醤油派の記者からは厳しい追及があった。
「なぜ今まで嘘をついていたのか。プロダクションが醤油派であるのに、ソース派であるのか、プロダクションを貶める意思があるのではないか」
「そんなつもりはありません。目玉焼きに時々醤油を掛けることもありました。完全にソース派であったわけではなりません」
 苦し紛れに答えたアイドルの発言がさらに波紋を呼ぶことになった。
「その発言はソース派への裏切りではないですか」
 挙手で発言を許されていない記者の誰かが言った。それをきっかけにして会見会場内はアイドルへの罵声と批判の声が鳴りやまなくなり、逃げるように当事者が退出し、謝罪会見は波乱の内に終わった。この会見をニュースが報じられるとSNSでは醤油派とソース派の両者からの批判的な投稿が目立つようになった。
 怒涛の謝罪会見から五日後、アイドルは引退を発表した。


「塩派って嘘だろ」
 醤油派でもソース派でもない私の退職を知って同じチームでプロジェクトを進めてきた同僚が驚きを隠せずにいた。
「すまないな、取引も順調に進んできて、これからだっていうときに」
「いや、気にするな。それよりも塩派のお前に行き場所があるのかい。世間はどこもソースか醤油だぞ」
 ソース派の同僚は意外にも塩派の私の身を案じてくれた。
「どうにかして塩派を受け入れてくれるところを探すよ。とりあえず仕事を見つけなければ」
 おまえならどこでもやっていけるさ、と同僚は僕を送り出してくれた。
 帰りの電車でふと携帯電話のニュースサイトを開くと、とあるソース派の企業が異なる派閥の人間を雇っていたというものだ。よく読まなくてもその記事は私のことが書かれているということが分かった。
会議室で課長が私に話していた会社の信用問題に発展する事態になりそうだ、と思った。しかし、そんなことを気にすることはないのだ。ソース派か醤油派、どちらに所属しているかで世間からどう見られているかが変わる世の中であることは、僕自身も十分に理解しているつもりだ。それは個人であっても企業であっても同じだ。しかし、辞めさせられた会社がどうなろうが知ったことではない。少しだけ悪いことをしたとは思うが。
 多少の罪悪感に苛まれながらもどうにか最寄りの駅に着きそれから十分ほどの徒歩を経て玄関の前に着いた。
 玄関のドアには黄色い張り紙に赤と黒で警告を促す紙が貼られていた。
「このマンションは理解あるソース派の人々に向けて貸し出している物件であります。ソース派以外の人物に貸し出す理由はございません。即刻退去を命じます」
 私は警告文の書かれた紙を引きはがすとその場でビリビリに破いた。
「なにが即刻退去だ」
 ぽつりと呟き、怒りが込み上げてくるもののすぐに冷静になった。もうここにはいられない。翌朝には管理人がやってきて嫌でも私を追い出すのだろう。
 私は潔く身一つで出て行くことにした。元々一人暮らしで荷物も少なく、近くに親族も住んでいないので誰にも迷惑を掛けることはない。
 夜風の冷たさを凌ぐために駅前の歩道橋の下で夜を過ごし、空腹を満たすためにチェーン店の塩だれの掛かった牛丼を食べた。ありがたいことに牛丼の食べ方による派閥は現れていないので安心して塩味を食べることができる。
 いつまでも路上で暮らすわけにはいかず、新しい家を早く見つけなければ本格的な冬の寒さに耐えられずに凍え死んでしまう。
 家を探さなければ、とは言ったものの賃貸会社に行っても入居条件にソース派か醤油派で分かれていて、もちろん塩派の入居者を募集している物件はない。
行く当てもなく、ただ足を動かしていれば物件を探すいい案が閃くのではないかと思案しながらひたすら駅周辺を散策した。
 ふと目に付いたのは張り紙のびっしり張り付いた電柱だ。張り紙といえば私に立ち退きを命じたのも同じく張り紙だった。クレジットカードのショッピング利用枠を現金にしませんか、今夜のお相手を探しませんかなど、宣伝文句の後に電話番号が大々的に書かれている。その中でも私が一番目を引いた広告は、派閥に縛られない生活を送りませんか、というモノだ。なるほどこれは確かに今の私が一番必要としているかもしれない。
しかし、周りの広告を見ての通り、あまり信用できる筋のものではないのかもしれない。怪しい金融、怪しい風俗、そして、怪しい賃貸の話。求めているモノはコレだ。
 私は携帯電話を取り出して広告に書かれている番号に電話をしていた。
「もしもし物件の話をしたいのですが」
 電話が繋がったことを確認してから僕は言った。しばらく間が空いた後、老いた男性の声が丁寧に答えた。
「それではこちらでお待ちしております。お越しください」
 読み上げられた住所を聞くと今いる場所からそれほど離れていない雑居ビルだった。
 私は指定されたビルの前までくると事務所があるはずの五階を見上げ、「そういう雰囲気あるな」とポツリ呟いた。
 エレベーターの無い古めかしいビルの急な階段を上ると、時代を感じさせる錆びたドアがあった。私がインターフォンを押すと自動で鍵の開く音が聞こえた。私が入ると自動的に鍵がロックした。
 薄暗い部屋の狭い廊下を進むと執務室のような部屋があり、サングラスとスーツの男性がいくつかの資料に目を通していた。
「いらっしゃいませ」
「訳有の身で部屋を探しているのですが」
 その佇まいからあまり関係を持ってはいけない人物だという印象を持った。今日まで私が関わる事のなかった、所謂裏社会の人間だ。
「お客さん、あなた今ネットで話題の人ですよね。言われなくてもわかります、派閥がバレちゃったんでしょう」
「ネットで話題、ってどういうことですか」
「さては見てないんですね、実名で検索してご御覧なさい」
 私は言われるがままに本名をネットで検索をしてみた。私を批判するニュース記事と掲示板が多数、SNSではとても議論とは言えないような罵声や中傷で溢れかえっている。まるで。
「まるであのアイドルになったみたいでしょう」
 男は言った。ソース派であることが世間にバレてしまった醤油派プロダクションのアイドルと私の状況は似通っていた。
「さて、あなたはどっちなんですか。どっちの派閥だとバレちゃったんですかね」
「いえ、私はどちらでも。塩派です」
 弱々しく呟いた私の言葉を聞いて男が渇いた声で笑った。
「それは困りましたね。正直、私は醤油かソースのどちらかだと思ってましたが、まさか塩だとは。主要派のどちらかでしたら最適な物件をご紹介できたのですが、まさかの塩派ですか。困りましたな。このままでは電話会社からも解約されて連絡手段さえ失ってしまいますよ」
 もうこんなものは全く役に立ちませんね、と今まで目を通していた資料を破り捨てた。おそらく物件の資料だったのだろうか。
「これから私は一体どうすれば」
 力なく呟くと男は座っていたデスクの引き出しから鍵を取り出して、立ち上がり近くにあった金庫を開けると中から茶封筒に入った資料を確認した。
「ここまでくるともうあなたが元のように生活するにはこれしかないですね。ちょっと強引かもしれませんが確実性があります、というよりもうこれしか方法がありませんよ」
 私も資料に目を通させてもらうとそこには、顔写真の張っていない私とは全く別の名前が記載されていた。
「どうです。いい名前でしょう。こういう時のために私がゼロから造った個人情報です。どこの政府機関にも通用する来歴を用意しました」
「それでは私に目玉焼きにソースを掛けろというんですね」
「もうそんなことにこだわっている状況でないことはお判りでしょう。生きるか死ぬかの瀬戸際なんですよ、あなたは」
 男が言う通り、ここで何もしなかったら私は家を見つけることができず、定職にも就くことができず、食べ物に困り、生きることさえも困難になることが目に見えていた。
「わかりました。ここにサインをすればいいんですね」
 私は言われるがままに書類にサインをし、男との契約を交わした。
「それでは、契約料金としてこれから毎月の賃金から三十パーセントをこちらの口座に振り込んでくださいね」


 私は今、ボロアパートの一室で履歴書に〝目玉焼きにはソースを掛けます〟と書いている。

目玉焼きにはソースを掛けます。

目玉焼きにはソースを掛けます。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-16

CC BY-NC-SA
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