十五夜

短編です。

こりゃっ!」

 大きな怒鳴り声が聞こえて、僕は思わず飛び上がる。
振り返って声の主を見てみれば、そこには、僕の胸元にも届かない小さな背丈なのに、背後に般若が見えるほど、恐ろしく迫力のあるおばあちゃんがいた。
「この馬鹿犬!またつまみ食いしよってからに!」
手にもったススキを今にも振りかぶって来そうなほど恐ろしいその顔は、僕の隣でおいしそうにお団子をつまみ食いしていた柴犬に向いていた。しかし僕は、それが、昔、僕がお団子を盗み食いした時と全く同じ顔をしていることに気づいてしまって。はっと気づいた頃には、僕はいつの間にか、自分が怒られているわけでもないのに、盗み食いしていたおばか犬と一緒に思わず走っていた。
「こりゃ、待つんじゃ馬鹿犬!」
お土産、とばかりにもう一つお団子を口にくわえたらしいおばか犬は、ただでさえ怖かったおばあちゃんの顔をさらに恐ろしくさせた。こ、怖い!おばあちゃん怖い!
そしてそれが引き金となったのか、とうとう怒りを爆発させたおばあちゃんに、ススキを振り回して追い掛け回され始めた。・・・一緒に走り出し始めた僕をも巻き込んで。
「い~やぁーーー!」
僕の叫びが、田舎の広大な山々にまで届きそうなほど、響いた。


 ここは、とある場所にある田舎町のひとつ、黄昏町。町、といっても、便宜上はそうなるというだけで、実際は人口などほとんどいない、ド田舎中のド田舎だ。スーパーもなければコンビにもない。一番近い病院でさえ隣町にしかないという、不便の塊だ。そして、そんな不便なところに僕のおばあちゃんは今、一人で暮らしている。
 本当は、もっと頻繁にこっちに来てあげたいんだけれど、なかなかそういう訳にもいかないため、いつもの僕はお盆の帰省だけこっちに来る。しかし、今年は事情があって機会を得たので、珍しく十五夜の今日、ここにいる。
 秋にこの家で過ごすなんて、何年ぶりなんだろうか。途方もない年月がたった気もするし、ついこの間までここにいた気もする、なんだか不思議な気分だった。やはりこちらは、時の流れ方が違うのかも、なんてそう思った。

 ふと空を見上げてみると、まだ夏の色を残したままの太陽が、遠くに沈もうとしている。もう暑さは感じないから快適のはずなんだけれど、ちょっと寂しい気もする。こんな風に思うのも、こっちの空気に呑まれているからなのかな。お盆の賑やかさとは真逆の静かな秋の夕暮れに、僕はほんの少しだけ、身じろぎをした。寒さを感じるわけでもないのに、ね。

 思えば、昔はここも、もっと賑やかだったころがあった気がする。
毎日いろんな人の声にあふれて、活気があって、子ども達のはしゃぐ声や大人の忙しなく動く足音なんかが家中にあふれてたんだ。あの頃が懐かしいなぁ。今はみんな、僕と同じように出て行ってしまったり、別の場所で家庭を築いたりしてしまっているから、こんなにも静かだ。おばあちゃんには連れ合いがいないから、余計に。
 
 僕は本当は、おばあちゃんには再婚して欲しかった。
若くから未亡人になってしまったおばあちゃんには、たくさん再婚の話が行っていたのだと思う。気立てもよい。今では可愛いおばあさんだけれど、昔はすごく美人で引く手あまただった、って本人も言ってたし。
なのに、おばあちゃんはこんな場所でひとりになっても、誰かと連れ合おうとしない。どうしてなのかな、とずっと思っていたのだけれど、意図せずこの問いの答えを見つけてしまったのは、去年のお盆だった。

年齢のせいなのか、年々少しずつ弱っていくおばあちゃんが心配で、僕は夜、そっとおばあちゃんの部屋に忍び寄った。そのとき、見てしまったのだ。
「・・・あなたは、一体、何処に行ってしまったのでしょうねぇ・・・っ」
 そういってお仏壇の前でひとり、古ぼけて黄ばんだ写真を握り、泣いているおばあちゃんを。
 衝撃だった。いつも気丈で、ともすればちょっと気の強めなおばあちゃんが、子どもみたいにポロポロ涙を流していたから。その日はお盆の最終日。その日はみんな、帰るために忙しくする日だ。だから今まで誰も気づかなかったのだろうか。もしかしたらおばあちゃんは、毎年こうやって泣いていたのだろうか。
 そう思ったら苦しくて、僕は結局、おばあちゃんを直視できないまま、帰ってしまった。それから僕は、再婚して欲しいなんて、願えなくなってしまった。


******


 僕が、そんな風に縁側でぼんやりと庭を眺めていると、
「まったく、月が出る前につまみ食いするとは。団子が足りなくなったじゃないか」
と、近くから声が聞こえてきた。びっくりして横を見ると、さっきまで台所にいたはずのおばあちゃんが仁王立ちでこちらを睨んでいた。キュッと、僕の心臓が縮み上がる。
しかし、そんな僕とは裏腹に、僕の隣に寝転んでいる犬は「あれ、おばあちゃん何時の間に来たの?」とでも言うように、暢気に欠伸をしていた。そんな犬の様子にさすがのおばあちゃんもちょっと呆れ顔だ。ため息を付き、数の足りない団子をススキの横に置いてから、
「これからタエさんのところで団子を貰ってくるから、大人しくしておくんじゃよ!」
と言った。まだちょっと怒っているのか、プリプリとした表情だ。思わず笑いが零れそうになる。。
 おばあちゃんは昔から変わらない。今みたいに、怒り方が拗ねたような感じのときは、大抵、普通の接し方に戻すタイミングを失ってしまっている時なんだ。その証拠というのもなんだけど、視線が、今もこちら側を窺っているのが感じられて、僕は今度こそ笑った。そして、僕の隣の犬も「わんっ」と一鳴きする。
「っ行って来るよ!」
 と、今日もおばあちゃんはおばあちゃんらしかった。
おばあちゃんが出て行った後、家の中は涼やかな秋のさざめきだけが静かに鳴り響いていた。縁側に差し込む光は鮮やかで暖かなオレンジ色になって、涼しげな音と混ざり合い、不思議な空間を作り出していた。僕は、突いていた手をはずして、そのまま後ろに寝転んだ。垂れた黄金が、僕の顔に影を落とす。「クーン」と鳴き声が聞こえてそちら側をみてみれば、こちらをしっかり見据えた犬が、僕を不思議そうにしながら通り過ぎていくところだった。
・・・君の疑問も、よくわかるよ。だって僕にもよく分からないからね。自嘲気味な笑いが出て、僕の胸に風を通す。燃えていた太陽は、眠りにつこうとしていた。
そして、猫も僕も互いに視線を外せないでいるうちに、玄関のほうから物音がし始めた。おばあちゃんだ。
「帰ったよ」と、ゆっくりとした足音がこちらに近づいてくる。縁側までたどり着いたおばあちゃんは、襖が閉まっておらず、縁側が丸見えなことに眉をひそめつつも、僕の隣になにも言わず座った。


「団子をつまみ食いするなんて、あの人と同じさね・・・」
 ポツリ、とおばあちゃんがつぶやいた。その小さな手は犬をなでてはいたが、心は別のところにあるようで、月を見つめているように見えて、どこか違うところを見ている気がした。それが、なんだかとても切なくなって、僕はおばあちゃんに呼びかけた。しかし、やっぱりおばあちゃんはこちらに返事をすることはなくて。気づけば、おばあちゃんの横顔には、涙が光っていた
 僕は、その横顔に釘付けになった。
 しかし、そんな僕の様子に構うことなく、おばあちゃんはおもむろに懐に手を差し込んだ。そして、かと思えば、今度はおもむろに写真を取り出して眺め始めもしてみせた。そっと覗き込んだその写真には、二人の男女が、寄り添うように並んでいる。白黒で描かれたそれ。きっとあの盆の日と同じ写真なのだろう。劣化のせいだとは思えない、何かに濡れたような、ふやけた皺が点々とついていた。
 そしてまた、そこに新たな跡がつく。ほたり、ほたりと、月明かりで照らされた粒がおばあちゃんの手に、写真に、膝に、次々と転がっていくからだ。そんな風に、声も出さず怒ったような顔で泣くことが、おばあちゃんの精一杯の強がりなんだろう、と思う。僕は、叫びだしたくなるほどに苦しくなった。
 耐えられなくなった僕は、思わず、身体を起こしておばあちゃんから視線をはずすと、月を見上げた。
欠けたところが一つもない大きな星は、この田舎町と一緒で全然昔と変わらない。ここで日々変わっていったのは、おばあちゃんと、傍らの犬だけ。それが、泣き出したいほど愛おしかった。あなたが生きていて本当によかった、と、叫んで回りたいくらいに。

ふと、隣の影が動いた気がして、僕の目は月から外れる。僕の目に入ったのは、おばあちゃんがお団子を口に放り込んだところだった。眉間に寄せた皺と一緒で、不機嫌に租借するおばあちゃん。辺りには、虫の音と、おばあちゃんの咀嚼する音が鳴るばかり。
しかし、そんなおばあちゃんの勢いは、段々と弱まっていく。顔も、段々と歪んでいく。そうして、おばあちゃんが団子を飲み込む頃には、激しい嗚咽が、虫の音すらも止ませてこの家の空間を支配していた。
幼子のような、泣きじゃくるような泣き方が迷子の子どものように見えて、僕は思わず手を伸ばした。
おばあちゃんは、大声で泣いている。
僕の手が、おばあちゃんの手に、長い月日を経たシワクチャな手に、触れそうになった。
・・・けれど、触れられなかった。
僕の手は、おばあちゃんの手をすり抜けてしまった。そして、おばあちゃんはそんな僕に気がつくこともなく、またお団子をたべている。しゃくりながら食べる様子は苦しそうで、それがお団子のせいなのか、悲しみのせいなのか、僕にはわからなかった。

そして、月が空の天辺に上りきる頃にはおばあちゃんは泣き止んでいた。たくさん泣いた目元は赤くなって、少々痛々しい。すると、さっきまでぼーっとしていたおばあちゃんがいきなり、フラフラと立ち上がった。そして、襖も閉めないまま室内に入ってしまうと、そのまま布団を敷き始めてしまった。綺麗好きなおばあちゃんが、風呂に入らないまま布団にはいるなんて、今まで一度もなかったのに。そこで僕は、やっとのことで「あぁ、やっぱり今日なんだな」と、初めて実感したのだった。

 しき終わった布団は、触らずとも分かるほどにふわふわしていて、おばあちゃんの扱いの良さが窺える。その布団の中に、モソモソと入り込んだおばあちゃんの顔色はあまり良くなかった。なにも出来ない無力な僕では、天井に向かって浅い息を吐くおばあちゃんにしてあげられることなど、ほとんどない。せめてもの思いで僕は、おばあちゃんの額の上に手をかざした。
「おやすみ、おばあちゃん・・・ううん、メイコさん」
 
その途端、おばあちゃんは安心したかのように表情を和らげ、眠りについた。すると、さっきまで縁側で寝ていた犬が落ち着かなさそうに近寄ってきたかと思うと、おばあちゃんの周りをグルグル回り始めた。そして何かを探すように動いた後、おばあちゃんの足元に落ち着き、身を丸めた。それはまるで、おばあちゃんのぬくもりに擦り寄るかのようで。僕は、なにもいえなかった。
開けっ放しの襖からは、月が顔を覗かせている。その丸い身体を少しずつ、少しずつ昇らせていたときのように、今度は、少しずつ身を沈ませているようだった。先ほどまで吹いていた風はいつの間にか止んで、音もなくなった静寂の夜へと姿を変える。

そうしておばあちゃんは、長い、長い眠りについた。


******


「メイコさん、メイコさん・・・」
 僕の手が、メイコさんの手に触れる。白く滑らかな指と、その先にちょこんと乗った桜色の爪が愛おしくて、思わず指を絡めるように握る。すると、メイコさんは長い睫毛を瞬かせながら、ゆっくりと目を開いた。その、真っ黒で艶やかな髪が月光を受けてたなびいていることや、瞳に満月が写りこんでいることに、胸がざわつくほどに感動した。ああ、やっと逢えた。歓喜の心とは裏腹に、僕の目からは熱い雫が落ちる。
 そして、そんな僕を見て、メイコさんは一瞬、零れ落ちそうなほどに目を見開いたあと、これ以上ないほどの笑顔を浮かべて、言った。


「お帰りなさい」


《完》

十五夜

死からは逃れられぬものです。
それを迎えるとき、迎えた者を見送るとき、そのことをまざまざと実感するものです。

そして同時に、迎える者、見送る者のほかに、迎えに来る者の存在があればどれほどか、と感じずにはいられなくなります。

《僕》が本当に存在したのか、それとも、おばあちゃんが最後に見た幸せな夢だったのか、作者にもわかりません。
私たちが迎える者になったとしても、この疑問は尽きることはないでしょう。


お読みいただきありがとうございました。
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十五夜

久々に、お盆以外の時期に訪れたおばあちゃんの家。 その懐かしい、田舎の風景の中で十五夜を迎えた《僕》は、偶然おばあちゃんの悲しみを知ってしまいます。 その時僕が感じたこととは。 最後は、作者的にはハッピーエンドです。 十五夜 田舎 愛情 恋心 恋しい人 愛しい人 恋愛 夫婦

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更新日
登録日
2018-12-16

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