太陽に焼かれる日常
人それぞれの日常を切り取ったお話。私たちの日常は重なり合っている。
僕が目覚めるのは
わざと開けたカーテンの隙間から朝日が部屋を照らす。僕は、朝顔が花びらを広げるように目を開ける。
世界の始まりのような光に顔を焼かれることが気持ちいい。
そして、僕をこのまま死なせてくれと願う。このまま光に飲み込まれたい。
会社に行かなくていいし、大事な人やものを忘れることができるから。
僕が日常を続ける意味なんて、ない。
みんながそうしているから僕も仕方なく日常を生きているだけ。
僕から日常を奪ってくれ。ここで野垂れ死ぬ理由をくれ。
「あんた! はよ起きや!」
嫁が部屋の扉を勢いよく開ける。
壁にぶつかって跳ね返る扉の音が僕の日常を突きつけてくる。さらに布団を取られた僕はもうどうすることもできない。
起き上がって、嫁の視線を背中に感じながら洗面所で顔を洗う。
朝ごはんは、鮭が乗ったご飯と味噌汁。
娘は味噌汁に入っているなめこを残して、テレビを見ている。高校に入ってからあまり口をきいてくれない。
「何ボケっとしてるんよ。食べたんなら仕事行き。片付けられへんやろ」
僕はこんな風に毎朝怒られる。
それでも僕が幸せを感じるのは、今でも嫁と娘が大事だからだろうか。
仕事で失敗し、陰口を言われようと、僕は会社に行く道しかない。
人生の屈辱すら彼女らには敵わないらしい。
僕が毎朝目覚めるのは——。
教室の窓
「ねえねえ、次の日曜日に映画観に行こう!」
細く真っ直ぐな黒髪が肩からこぼれるのを見ていた私は、エリの話に遅れて反応する。
「……どれ観るの?」
「『君の庭』ってやつ! ヒロイン役が杏ちゃんで、雨に濡れるシーンが色っぽいんだよ! ストーリーも評価高いの」
「杏ちゃんは最近ドラマとか映画によく出てるよね。私も観たい」
「よし! じゃあ、1時に映画館に集合ね」
「りょーかい」
白い歯を見せて笑うエリは可愛い。短いスカートから伸びる色白の太腿に隣席の男子がチラチラ視線を向けている。
エリは手を振りながら、他の友達の輪に入って行った。
持つ者の気持ちってどんなものなのだろうと考える。彼らは何に悩むのだろう。きっと私には理解できない。
自分の右腕から生えている毛を左手で隠す。いつも剃り残してしまう。
今日も母に怒られながら家を出た父の背中を思い出す。埃を被っているみたいにくすんで見えた。
私は父の背中が嫌いだ。父の不器用さが嫌いだ。私に遺伝してしまった毛深さが嫌いだ。
授業開始のチャイムが鳴った。
クラスメイト達が自分の席に戻っていく。散らばっていた人が規則的に並べられた席を埋める。
合図さえあれば人間は集団で動く。
数学の先生が教室に入ってきた。
「今日は二次関数の続きをします。まずは宿題の答え合わせから」
宿題の答えよりも、窓に映る自分の未来を消し去る方法を教えてほしい。
恋愛映画なんて好きじゃない。男女がいちゃつくシーンを見るなんて拷問だ。
しかも、一週間前に彼が他の女の子と観た映画なんて。
窓ガラス一枚を隔てた外は晴天で、鳶が我が物顔で飛んでいる。
それに気を取られて、窓ガラスに映る自分の泣きそうな顔に気づくのが遅れた。
生きる場所
直視できない太陽を見上げながら「帰りたい」と呟いた。
家に帰りたいわけではない。何も汚れていない青の時間を過ごす生徒達を毎日見ていると疎ましくなる。
そういえば、自分が高校生の頃に、「スカートが短い」「前髪切れ」「ピアス禁止」「アホ」「バカ」「若いだけ」なんて言いながらいつも不機嫌な先生がいた。
今なら分かるよ、先生。
狭い世界で満足していた青春に帰りたい気持ち。
でも、知らなかったことで生きていけた時間に戻ることはできない。それなら否定して、できるだけ遠ざけるしかない。
腕時計を確認すると十二時二十五分。彼は五分後にラジオ番組が終わると電話をかけてくる。
そして結婚の話を持ち出すのだ。私はまだ本当のことを言えていないのに、話は進んでいく。
私はため息を抑えられずに吐き出した。
数学の教師として高校で働いて五年が過ぎた。繰り返す日常が楽だから愚痴と引き換えにしてきた。
5年の緩やかなでこぼこ道が終わろうとしている。
転んだ日、報われた日、泣いた日、笑った日、何もなかった日に糸を通して繋いできた。
腕時計を確認すると十二時三十分。
「先生ー!! 一年生の紀野くんがナイフ持って教室で暴れてる!」
彼からの電話よりも先に、一人の生徒が私を呼んだ。
私の日常を終わらせるのは彼ではなかった。
ポケットの中で震える携帯を握りながら、「帰りたい」と強く思った。
この胸に光るもの
何度も彼女に電話をかけたが出てくれなかった。
お昼休憩の時間が終わって、仕方なく自分のデスクに戻るが、落ち着かない。
今までになかったことに胸のあたりが重くなる。何かあったのだろうが、少しでも電話に出る時間がない状況を思いつかなかった。
それとも、俺と話したくなかったのだろうか?
もやもやした気持ちは十五時を過ぎても収まらなかった。
「ねえ、ちょっと日野出町のホームページ表示してくれる?」
「あ、はい」
課長が後ろから指示を出してきたので、ブラウザを開いてYahuuのトップページを表示させる。
中央に表示されているものだからニュース欄につい目がいく。欄の一番上に表示されているタイトルを見て心臓が一度だけ大きく動いたのが分かった。
俺はニュースから目を逸らして、検索スペースに素早く『日野出町』と打ち込んでEnterキーを押した。検索結果のページが表示され、この町の名前をクリックする。
表示されたホームページのトップを見て課長は指示を出した。
「ここに広告のバナーを一つ追加して欲しいんだけど。データはメールで送ってあるから」
「分かりました」
課長はそのまま自分の席に戻って行ったが、甘すぎる香水の匂いは残ったままだ。
就業時間中なのだからすぐに課長に与えられた仕事をやるべきだが、さっき目にしたニュースを確認することを優先した。
ニュースタイトルの「県立日野出高校で生徒が刃物を持って立てこもり」をクリックする。
その記事には彼女が働く高校の外観の写真と事件の経緯について書かれていた。
お昼時間に1年生の男子生徒が突然刃物を取り出し、自分のクラスメイトに襲いかかったという。生徒数名を含め止めに入った教師も負傷しているというものだった。
「どうして……」
自然と小さく声が出ていた。彼女が電話に出られなかった理由はきっとこれだ。彼女が負傷しているかどうかは分からない。ニュース記事だけでは何にも分からない。
なぜか頭に浮かんでくるのは今までに見た傷害事件の被害者とその家族の映像だった。
自分もあんな風にインタビューされるだろうか?全国放送で悲しみを垂れ流すか。ほとんどの人が眺めて終わるだけのニュースの一部になるのか。
喉から上がってくる恐怖を両手で抑えた。混乱する頭が彼女の安否に戻ってくるまで時間がかかった。
ノートパソコンを閉じ、鞄を掴み、課長には申し訳ないと思いながら叫んでいた。
「すみません!早退します!!」
そのまま部屋を飛び出した。
課長が俺の名前を呼ぶのを背中で聞きながら、やっぱりバナーの1個ぐらい先にやればよかったかもしれないと思った。
たどる道にあるもの
部下が飛び出して行く姿に声を荒げたが、彼は戻って来なかった。
理由も言わずに早退するような奴ではないと思っていたのに。先ほど任せた仕事もやっていない。
「あーもう! なんなのよ」
無意識に拳をデスクに振り落としていた。デスクの振動によって低い音が反響する。
周りに悪影響だと分かっているが、若い頃と違って気持ちに余裕がない。
「課長、あいつのエルダーは僕なんで始末は任せてもらえますか? 課長が怒る必要はないですよ」
「……そうね。お願いするわ」
気持ちを落ち着かせようと珈琲を飲む。仕事中心に生きている自分と、そうではない職員の差が大きくなっているのをずっと感じている。
積み上げた仕事が増えるたびに動けなくなり、いつの間にか一本道になっていた。
もう結婚は諦め、いつか見た夢もひび割れて崩れた。
後悔はない。もうこの道だけと決めている。
本当は分かっている。人の行き先は交わりこそするが、同じではないこと。
それを承知のうえで他の職員に仕事を任せるのが上司だ。
頭の思考が回復してきた。
さあ、いつも通りに仕事をしよう。
「課長! 県立日野出高校で生徒が刃物を持って暴れ、校外に逃げているそうです! 警察からの連絡です。町民に注意喚起をしてほしいそうです」
「刃物を持ったままなの!? 分かったわ、地域課にも連絡を。谷口さんは放送原稿を作成して」
指示を出しながら思考を巡らす。なんてことだろう、今日は本当に運が悪い。
朝のニュース番組が流す占いが嫌いだ。悪いことに限って当たるのだから。
なのになぜだろう、トラブルに適切に対処しているときが何よりも楽しいと感じてしまう。
私はやはり仕事人間なのだ。
夕暮れの願い
電話の音が鳴り止まず、職員は慌ただしい。
まさか穏やかなこの町で、こんな事件が起こるとは誰も思っていなかっただろう。
刃物を持って暴れた高校一年生の男子生徒は、町内を二時間以上うろついた末に警察によって確保された。
怪我人は十名。幸い死者は出なかった。
町役場にはマスコミや住民からの問い合わせが殺到し、職員は対応に手間をとられ、本来の業務が宙ぶらりん。
男子生徒が捕まったことで少しは落ち着くかと思ったが、期待に反して電話が止まないのは全国ニュースとなったからだろう。
「まったく、迷惑な生徒だったな。今度は動機が何だったのか分かるまでメディアは騒ぎ立てるぞ」
「だろうな」
同期の一人が受話器を置きながらに言う。
すぐに外線音が鳴る。
町内の人も今は浮き足立っているかもしれないが、毎日のように報道陣が来れば静かな町が恋しくなるだろう。
十年前にも同じような事件が起きていた。きっとその時と同じようになる。
いや、十年前は一人死んでいる。だから報道も長引いた。
当時は新入職員だったのもあって、慣れない対応がストレスとなり、トイレで吐いてしまった。
トイレの窓から夕日が見えたとき、その日初めて時間を意識した。
赤く染まった太陽と空が綺麗で、飛んでいたカラスが何羽だったかも覚えている。
しばらく眺めていたら気持ちが落ち着き、仕事に戻ることができた。
あの頃に比べたら成長したなと思う。まだ成長できるだろうか。
年をとるにつれて同じことの繰り返しが増えているように思う。
昔のように遊びまわることもない。家族で過ごすことが増え、好きだった釣りに行けていない。
ああ、あの夕日を見ることができれば前に進めるだろうか。
「おい、電話。奥さんからだぞ」
「え?」
ブラインド越しの夕日を見ながら受話器を受け取った。
命の声
急いで生まれた命の声を聞いたのは、彼に電話をした三十分後だった。 愛しい我が子が腕の中で泣いている。
愛しい我が子が腕の中で泣いている。
出産予定日よりも三日早かった。朝はそんな気配はなかったのに。
「では赤ちゃんは検査室に」
「お願いします」
赤ちゃんを看護師さんに手渡す。
小さな手が握っていた私の人差し指が寂しくなる。
ようやく授かった命。これから母親としてちゃんとやれるかという不安。
旦那と協力していけるか。いろんなことが頭をよぎり、心臓の動きが早くなる。
今だってお母さんに甘えている自分が母親になった。
責任の重さに潰されてしまいそうになる。
「あかり! 生まれたのか!?」
「諒。うん、可愛い女の子」
「そうか。お疲れ様」
「ありがとう」
急いできた彼の息は荒い。ネクタイも曲がっている。
「これからは三人だな」
「ちゃんと親になれるかな」
「もう親なんだから、一生懸命やるしかないだろ」
「そうだね」
諒が頭を撫でてくる。大きくて温かい手。
彼が父親でよかった。
「あかりがお母さんになってくれてよかった」
私は頬を赤めて微笑んだ。
今日も命は回っている。消える命、消えそうな命、生まれる命、燃えるように輝く命。
今日という太陽に命は焼かれている。
太陽に焼かれる日常
1日の始まりから終わりを楽しんでもらえたでしょうか。
それぞれが背負うものに光がさすことを願っています。